三国志魏志濊(わい)伝・韓伝を読む 後編 ~ アイアン・ロードとは?
続いて後編です。
【現代訳】
・・・(中略)・・・
建安年間(196-220年)には、公孫康(こうそんこう)が楽浪郡の屯有県(とんゆうけん)以南の荒地を分割して帯方郡を新設した。また、公孫模(こうそんも)・張敞(ちょうしょう)らを帯方郡に派遣して、漢の遺民を終結させて、軍隊を組織し、韓・濊を征討させた。そのため、韓・濊の諸国に住んでいたもとの漢の郡県の支配下にあった人々が、少しずつ出てくるようになった。このあとで、倭も韓も帯方郡に所属するようになったのである。
【解説】
公孫康とは、
"中国後漢末期から三国時代にかけての群雄。幽州遼東郡襄平県の人。家系は公孫氏。父は公孫度。弟は公孫恭。子は公孫晃・公孫淵。建安9年(204年)、父の後を継いで太守となった。
同年、楽浪郡18城の南半分である屯有県(現在の黄海北道黄州か)以南を裂いて帯方郡を設置し、韓や倭まで勢力を広げた。
建安12年(207年)、烏桓の大人(単于)楼班と袁煕・袁尚兄弟らが曹操に追われ遼東郡に逃れてきた時、袁尚らがいることを理由に曹操が攻めてくる事を恐れ、楼班をはじめ袁煕・袁尚らを殺し、その首を曹操へ差し出した。これにより、曹操から襄平侯・左将軍に任命された。"
です。(wikipediaより)
あの卑弥呼が、魏に使いを出した238年頃に、帯方郡を支配していた公孫淵の父親です。興味深いのは、その頃は、倭は、韓とともに、帯方郡すなわち公孫氏に属していた、とあることです。古代から必ずしも、一貫して中国王朝に属していたわけではないことになります。
【現代訳】
魏の景初中(237-239年)、明帝(めいてい)は密かに帯方太守劉昕(りゅうきん)と楽浪太守鮮干嗣(せんうし)を派遣して、海を渡って帯方・楽浪の二郡を平定させた。そして諸韓国の国王たちである臣智(しんち)には邑君(ゆうくん)の印綬を賜い、次位の者には邑長(むらちょう)の印綬を下し与えた。一般の風習としては、衣服と頭巾を好み、庶民が楽浪郡や帯方郡に来て挨拶するときは、みな衣服と頭巾を借りて身につける。自分で印綬や衣服・頭巾をつける者は千人以上もいる。
魏の部従事(ぶじゅうじ)の呉林(ごりん)は、楽浪郡がもともと韓の諸国を統轄していたという理由で、辰韓のうち八国を分割し、楽浪郡に編入した。その際、役人の通訳に、話の違うところがあった。臣智は諸韓国の人々をも奮激させて怒り、帯方郡の崎離営(きりえい)を攻撃した。当時の帯方郡太守の弓遵(きゅうじゅん)と楽浪郡太守の劉茂(りゅうも)は、軍隊を編成して韓族を討伐した。弓遵は戦死したが、帯方・楽浪の連合軍はとうとう韓族を制圧してしまった。
【解説】
公孫淵に支配されていた帯方郡を、魏が奪いとる話(238年8月)を具体的に描いています。まさにこの直前に卑弥呼が、魏に使いを出しました(238年6月)。そして最終的に「辰韓のうち八国を分割し、楽浪郡に編入した。」のですが、その理由を「楽浪郡がもともと韓の諸国を統轄していた」としています。これは暴挙です。もしこうした理由で併合が可能なら、朝鮮半島のほとんどの部分は、漢の四郡の下にあったから同じように、併合可能になってしまいます。
では、なぜ中国はそのような暴挙に出たのでしょうか?。単に領土拡張のためだけでしょか?。
【現代訳】
・・・(中略)・・・
弁辰(べんしん)の土地は肥沃で、五穀や稲をつくるのに適している。蚕を飼い桑を植えることを知っており、縑布(けんぷ)を作り、牛馬に乗ったり車を引かせたりしている。婚姻の際の礼儀風習は、男女の区別がなされている。死者を送るときは、大鳥の羽を飾る。その意味は、使者をその大鳥の羽で天へ飛翔させようとするものである。弁辰の国々は鉄を産出し、韓・濊・倭の人々はみなこの鉄を取っている。いろいろな商取引にはみな鉄を用い、中国で銅銭を用いるのと同じである。またこの鉄は帯方・楽浪の二郡にも供給されている。
【解説】
このなかで注目すべき記載は、「弁辰の国々は鉄を産出し、韓・濊・倭の人々はみなこの鉄を取っている。」です。当時弁辰は、朝鮮半島における鉄の最大の産地であったことはよく知られています。その鉄を、周辺の韓、穢、倭の国々が、先を争うように取りにきていたわけです。そして、「いろいろな商取引にはみな鉄を用い、中国で銅銭を用いるのと同じである。」とある通り、当時の鉄は貨幣の役割を果たしているきわめて貴重なものだったわけですから、その争奪戦もたいへんなものであったことでしょう。
このあたりの事情から、古田武彦氏は、「当時の朝鮮半島での戦いは、資源そのなかでも特に鉄を確保するためのものだった」と分析してます。さらに、いずれお話しますが、「高句麗の広開土王(好太王)と倭国の戦いも、この鉄をめぐる戦いではなかったか」として、朝鮮半島を南北に縦断するルートを、シルクロードをもじってアイアン・ロードと名付けています。なかなか面白い発想です。
確かに、戦争といっても単なる領土拡張だけではたいしたうま味がないわけで、そこに何かの資源があるなど何らかのメリットがあったからこそ、軍隊を派遣し人民を犠牲にしてまで、戦う意味があったと言えます。詳細は、「よみがえる卑弥呼(古田武彦著)」を参照ください。
アイアン・ロード図です。
【現代訳】
弁辰の風俗としては、歌舞や、飲酒を好む。筑(ちく)に似た形の瑟(しつ)があって、これで弾く音曲もある。子供が産まれると、石でもってその頭を圧迫し、平らにしようとする。それで、今、辰韓の人はみな扁平な頭をしている。男女の風習は倭人のそれに近く、男女ともに入れ墨をしている。戦闘では歩戦し、兵器は馬韓と同じである。弁辰の習慣では、道で人に行き会えばみなとまって路をゆずる。
弁辰は、辰韓の人と入り混じって生活している。また城郭がある。衣服や住居などは辰韓と同じである。言葉や生活の規律はお互いに似ているが、鬼神の祭り方は違っている。竈(かまど)はみな家の西側につくっている。弁辰の瀆蘆(とくろ)国は、倭と隣り合っている。弁辰の十二国にはそれぞれ王がいる。弁辰の人は、みな背が高い。衣服は清潔で、髪は長くのばしている。また広幅の目の細かい布を織ることができる。規律は大変厳しい。
【解説】
筑(ちく)、瑟(しつ)とも、日本の筝(そう)に似た中国古代の弦楽器です。弁辰の風習は、全体として、倭と近いとあります。そして、「弁辰の瀆蘆(とくろ)国は、倭と隣り合っている。」とあり、ここからも、弁辰と倭が陸地で接していたこと、すなわち倭が朝鮮半島南部に領土をもっていたことがわかります。
<注>
なお、上記の話と現代における領土問題とは、まったく別の話です。あくまで当時の資料を読み解くとこのような解釈となる、という古代史学上の話です。念のため・・・。
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【現代訳】
・・・(中略)・・・
建安年間(196-220年)には、公孫康(こうそんこう)が楽浪郡の屯有県(とんゆうけん)以南の荒地を分割して帯方郡を新設した。また、公孫模(こうそんも)・張敞(ちょうしょう)らを帯方郡に派遣して、漢の遺民を終結させて、軍隊を組織し、韓・濊を征討させた。そのため、韓・濊の諸国に住んでいたもとの漢の郡県の支配下にあった人々が、少しずつ出てくるようになった。このあとで、倭も韓も帯方郡に所属するようになったのである。
【解説】
公孫康とは、
"中国後漢末期から三国時代にかけての群雄。幽州遼東郡襄平県の人。家系は公孫氏。父は公孫度。弟は公孫恭。子は公孫晃・公孫淵。建安9年(204年)、父の後を継いで太守となった。
同年、楽浪郡18城の南半分である屯有県(現在の黄海北道黄州か)以南を裂いて帯方郡を設置し、韓や倭まで勢力を広げた。
建安12年(207年)、烏桓の大人(単于)楼班と袁煕・袁尚兄弟らが曹操に追われ遼東郡に逃れてきた時、袁尚らがいることを理由に曹操が攻めてくる事を恐れ、楼班をはじめ袁煕・袁尚らを殺し、その首を曹操へ差し出した。これにより、曹操から襄平侯・左将軍に任命された。"
です。(wikipediaより)
あの卑弥呼が、魏に使いを出した238年頃に、帯方郡を支配していた公孫淵の父親です。興味深いのは、その頃は、倭は、韓とともに、帯方郡すなわち公孫氏に属していた、とあることです。古代から必ずしも、一貫して中国王朝に属していたわけではないことになります。
【現代訳】
魏の景初中(237-239年)、明帝(めいてい)は密かに帯方太守劉昕(りゅうきん)と楽浪太守鮮干嗣(せんうし)を派遣して、海を渡って帯方・楽浪の二郡を平定させた。そして諸韓国の国王たちである臣智(しんち)には邑君(ゆうくん)の印綬を賜い、次位の者には邑長(むらちょう)の印綬を下し与えた。一般の風習としては、衣服と頭巾を好み、庶民が楽浪郡や帯方郡に来て挨拶するときは、みな衣服と頭巾を借りて身につける。自分で印綬や衣服・頭巾をつける者は千人以上もいる。
魏の部従事(ぶじゅうじ)の呉林(ごりん)は、楽浪郡がもともと韓の諸国を統轄していたという理由で、辰韓のうち八国を分割し、楽浪郡に編入した。その際、役人の通訳に、話の違うところがあった。臣智は諸韓国の人々をも奮激させて怒り、帯方郡の崎離営(きりえい)を攻撃した。当時の帯方郡太守の弓遵(きゅうじゅん)と楽浪郡太守の劉茂(りゅうも)は、軍隊を編成して韓族を討伐した。弓遵は戦死したが、帯方・楽浪の連合軍はとうとう韓族を制圧してしまった。
【解説】
公孫淵に支配されていた帯方郡を、魏が奪いとる話(238年8月)を具体的に描いています。まさにこの直前に卑弥呼が、魏に使いを出しました(238年6月)。そして最終的に「辰韓のうち八国を分割し、楽浪郡に編入した。」のですが、その理由を「楽浪郡がもともと韓の諸国を統轄していた」としています。これは暴挙です。もしこうした理由で併合が可能なら、朝鮮半島のほとんどの部分は、漢の四郡の下にあったから同じように、併合可能になってしまいます。
では、なぜ中国はそのような暴挙に出たのでしょうか?。単に領土拡張のためだけでしょか?。
【現代訳】
・・・(中略)・・・
弁辰(べんしん)の土地は肥沃で、五穀や稲をつくるのに適している。蚕を飼い桑を植えることを知っており、縑布(けんぷ)を作り、牛馬に乗ったり車を引かせたりしている。婚姻の際の礼儀風習は、男女の区別がなされている。死者を送るときは、大鳥の羽を飾る。その意味は、使者をその大鳥の羽で天へ飛翔させようとするものである。弁辰の国々は鉄を産出し、韓・濊・倭の人々はみなこの鉄を取っている。いろいろな商取引にはみな鉄を用い、中国で銅銭を用いるのと同じである。またこの鉄は帯方・楽浪の二郡にも供給されている。
【解説】
このなかで注目すべき記載は、「弁辰の国々は鉄を産出し、韓・濊・倭の人々はみなこの鉄を取っている。」です。当時弁辰は、朝鮮半島における鉄の最大の産地であったことはよく知られています。その鉄を、周辺の韓、穢、倭の国々が、先を争うように取りにきていたわけです。そして、「いろいろな商取引にはみな鉄を用い、中国で銅銭を用いるのと同じである。」とある通り、当時の鉄は貨幣の役割を果たしているきわめて貴重なものだったわけですから、その争奪戦もたいへんなものであったことでしょう。
このあたりの事情から、古田武彦氏は、「当時の朝鮮半島での戦いは、資源そのなかでも特に鉄を確保するためのものだった」と分析してます。さらに、いずれお話しますが、「高句麗の広開土王(好太王)と倭国の戦いも、この鉄をめぐる戦いではなかったか」として、朝鮮半島を南北に縦断するルートを、シルクロードをもじってアイアン・ロードと名付けています。なかなか面白い発想です。
確かに、戦争といっても単なる領土拡張だけではたいしたうま味がないわけで、そこに何かの資源があるなど何らかのメリットがあったからこそ、軍隊を派遣し人民を犠牲にしてまで、戦う意味があったと言えます。詳細は、「よみがえる卑弥呼(古田武彦著)」を参照ください。
アイアン・ロード図です。

【現代訳】
弁辰の風俗としては、歌舞や、飲酒を好む。筑(ちく)に似た形の瑟(しつ)があって、これで弾く音曲もある。子供が産まれると、石でもってその頭を圧迫し、平らにしようとする。それで、今、辰韓の人はみな扁平な頭をしている。男女の風習は倭人のそれに近く、男女ともに入れ墨をしている。戦闘では歩戦し、兵器は馬韓と同じである。弁辰の習慣では、道で人に行き会えばみなとまって路をゆずる。
弁辰は、辰韓の人と入り混じって生活している。また城郭がある。衣服や住居などは辰韓と同じである。言葉や生活の規律はお互いに似ているが、鬼神の祭り方は違っている。竈(かまど)はみな家の西側につくっている。弁辰の瀆蘆(とくろ)国は、倭と隣り合っている。弁辰の十二国にはそれぞれ王がいる。弁辰の人は、みな背が高い。衣服は清潔で、髪は長くのばしている。また広幅の目の細かい布を織ることができる。規律は大変厳しい。
【解説】
筑(ちく)、瑟(しつ)とも、日本の筝(そう)に似た中国古代の弦楽器です。弁辰の風習は、全体として、倭と近いとあります。そして、「弁辰の瀆蘆(とくろ)国は、倭と隣り合っている。」とあり、ここからも、弁辰と倭が陸地で接していたこと、すなわち倭が朝鮮半島南部に領土をもっていたことがわかります。
<注>
なお、上記の話と現代における領土問題とは、まったく別の話です。あくまで当時の資料を読み解くとこのような解釈となる、という古代史学上の話です。念のため・・・。
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