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三国史記新羅本紀を読む その5 (最終回) ~ 倭国から日本国へと改名した時代背景とは?

新羅本紀の最終回です。

【現代訳】
53.百済の先王[武王]は、逆順に迷って、隣国との通交を厚くせず、姻家とも親しくしないで、高句麗と結び、倭国と交通し、ともに酷く乱暴な行為をし、侵略して新羅を割き取り、邑(むら)をおびやかし、城を攻め落した。<665年8月条>
54.ここに仁軌は、わが使者と百済・耽羅・倭人の四つの国の使者をひき連れて、海を渡って西[唐]に帰り、会盟して泰山を祀った。<665年8月条>

【解説】
前条から100年以上が経過してます。百済が、隣国の新羅ではなく倭国・高句麗と手を結び、新羅を攻撃してきたとあり、不満と不信の気持ちが表れていますね。百済の武王(580-641年)の時代です。そして、663年に、唐・新羅連合軍と倭国・百済の連合軍が激突した白村江の戦いが開戦し、倭国・百済連合軍は、完敗します。仁軌とは、唐の武将、劉仁軌(602-685年)です。665年、唐の第三代皇帝高宗の即位の儀式が泰山にて執り行なわた際に、新羅・百済・耽羅・倭国の従者を引き連れ参加して、自らも官職を拝命します。ここで、泰山とは、中国山東省泰安市にある標高1545mの山です。
"封禅(ほうぜん)の儀式が行われる山として名高い。封禅とは、帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が太平であることを感謝する儀式。"(wikipediaより)
です。


【現代訳】
55.倭国が、(国号を)改めて日本と号した。みずからの日の出る所に近いので、国名としたのであると言っている。<670年12月条>
56.竜遡三年[663]年になって、揔管の孫仁師は、兵を引き連れて来て、府城を救った。新羅の兵馬も、また出発してともに征討に向い、進軍して周留城の下に至った。この時、倭国の船兵が、やって来て百済を救援した。<671年7月26日条>
57.倭船が千艘、停泊して白沙にいた。百済の精鋭なる騎兵が、岸上で船を守っていた。新羅の強力な騎兵が、唐軍の先鋒となり、まず岸の陣地を撃破した。周留城の兵は、気力を失って、ついに降伏した。<671年7月26日条>
58,また音信の知らせによると、「唐では船舶を修理し、うわべでは倭国を征伐することに託(かこつ)け、実は新羅を攻撃しようとしている」と言う。百姓はこれを聞いて、驚き恐れて不安に落ち入った。<671年7月26日条>
59.均貞に大阿湌(だいあさん)を授け、仮に王子として、倭国に人質として送ろうとした。均貞は、これを辞退した。<802年12月条>

【解説】
突然話題が変わり、倭国から日本へと国名を変えたことと、改名の理由が記載されています。改名の理由について、旧唐書日本伝・新唐書日本伝に書かれていることは、以前のブログ
「旧唐書日本国伝を読む その1 ~ 倭国と日本国が別の国である決定的な証拠!」(2015/8/27号)
「新唐書日本伝を読む その5 ~ 謎が残る白村江の戦いから壬申の乱まで」(2015/9/26号)
でお話ししました。
新唐書日本伝には、改名の時期について、唐が高句麗を平定した668年以後のこととして書かれていますが、ここで三国史記百済本紀670年条に改名記事があることから、改名の時期は670年前後ということが推定されます。
また、改名の理由も、旧唐書日本伝に、
日本国倭国の別種である。その国が太陽の昇るかなたにあるので、日本という名をつけたのである。あるいは、
「倭国では、倭国という名が雅美でないことを彼ら自身がいやがって、そこで日本と改めたのだ。」
とも言われるし、また
日本は、古くは小国であったが、その後倭国の地を併合した。」
とも言われる。”
と記載されていますが、ここでは、「日の出る所に近いから」としています。もっとも、はたしてそれが本当のことなのかは、何とも言えませんが・・・。
そして、白村江の戦い(663年)後の話になります。

さて、この時代、日本国内でも大きな動きがありました。飛鳥から近江大津へ遷都して天智天皇が即位します。天智天皇が死去すると息子の大友皇子が統治(天皇になったかは不明)しますが、天智天皇の弟(のちの天武天皇)が挙兵、壬申の乱となり、敗れた大友皇子が自殺、天武天皇が即位します。そして、ほぼ同じ時期に、唐の軍隊が2000人の規模で、九州北部に進駐してきます。まさに、国中が大混乱の真っ只中といった様相です。
歴史で習ったときは、ひとつひとつについて掘り下げて考えませんでしたが、ここで質問です。

これらは、お互いに何の関係もない、独立した別個の話なのでしょうか?。

時代順に並べてみます。

<663年>  
白村江の戦いで、倭国・百済連合軍が、唐・新羅連合軍に敗れる。
<667年>
・ 都を飛鳥から近江大津へ遷都、天智天皇が即位。
<670年頃>
倭国から日本へ改名
<671年>
・ 唐軍二千人が、九州北部に進駐。天智天皇死去、息子の大友皇子が統治。
<672年>
・ 天智天皇の弟(のちの天武天皇)が挙兵して壬申の乱勃発、弟(のちの天武天皇)が勝利し大友皇子が自殺。
<673年> 
・ 天武天皇が即位。

十年の間に、これだけ多くのことが起こりました。しかも、663年の白村江の戦いで倭国が敗れ、671年には唐軍が進駐してきたわけです。倭国内の動きに唐が関与していると考えるのが、自然ではないでしょうか?。言ってみれば、太平洋戦争で負けた日本に、マッカーサー率いる米国軍が進駐してきたようなものです。あの時代に、日本国内で内戦が起こりうるはずもなかったでしょうし、仮に起こったとしても、当然米国が関与したでしょう。もちろん米国が統治しやすいようにです。

そういった視点で改めて見ると、いろいろなシナリオが、考えられます。たとえば、以前のブログでお話したように、
”反唐であった天智天皇が、白村江の戦いで倭国が敗れたために、権力を失って近江大津へ逃れ、都とした。死後、息子の大友皇子に跡を継がせるが、壬申の乱が勃発し、親唐派の天武天皇が、勝利した。”
あるいは、もっと大胆に
”唐と戦ったのは九州王朝であり、白村江の戦いで敗れたため、危険を避けるため、九州北部から近江大津へ遷都、同じく反唐の天智天皇が、身を寄せた。親唐の天武天皇が、進駐してきた唐軍をバックにつけ、壬申の乱を起こし、九州王朝・大友皇子軍を破り、権力を手中に収めた。それに合わせて、国名も、倭国から、日本へ変えた。”
或いは、
"九州北部から近江大津への遷都に合わせて、倭国から日本国へ改名した"
なども考えられますよね。

いずれにしろ、国名を変えるというのは、たいへんなことです。よほど何かのきっかけがあったとしか考えられません。では、そのきっかけとは何か?です。白村江の戦いで惨敗し、遷都、権力移動したことが関係した可能性は高いでしょう。

今挙げたシナリオはあくまで仮説ですが、九州王朝から大和朝廷への権利移動と併せて考えると、わかりやすいと思います。下の図のような
イメージです。

倭国から日本国へ(2)
では、実際はどうだったのか?ですが、真実を究めるには、様々な角度から検証する必要があります。それは今後のお楽しみということにします。皆さんも、あれこれ想像をめぐらせてみてはいかがでしょうか?


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三国史記新羅本紀を読む その4 ~ 倭の五王の活躍を彷彿とさせる記事

倭国との戦いの記載が続きます。

【現代訳】
39.倭兵が来襲し、東辺を侵して明活城を包囲した。戦果をあげることなく退却した。<431年4月条>
40.倭人が南辺を侵し、生口を奪い取って去った。夏六月にもまた東辺を侵犯した。<440年6月条>
41.倭兵が、金城を包囲すること十日に及んだが、兵糧が尽きて、帰っていった。(訥祇)王は、軍隊を出して、これを追撃しようとした。(・・以下略・・)<444年4月条>
42.倭人が、兵船百余艘をもって東辺を襲い、進撃して月(げつ)城を包囲した。四方からの矢や石は、まるで雨のようであった。(・・以下略・・)<459年4月条>
43.倭人が、来襲して活開城を破り、一千人を捕えて去っていった。<462年5月条>
44.倭人が、歃良(そうりょう)城を侵したが、勝てないで去っていった。(慈悲)王は、伐智(ばつち)と徳智(とくち)とに命じて、軍隊を率い隠れて通り路で待ち伏せさせた。(伐智らの軍は)、待ち伏せして攻撃をしかけ、大いに倭人を破った。<463年2月条>
45.(慈悲)王は、倭人がしばしば国境を侵犯するため、外回りに二つの城を築かせた。<463年2月条>
46.倭人が、東辺を侵した。(慈悲)王は,将軍の徳智に命じて攻撃させ、これを破った。殺したり捕虜とした者は、二百余人であった。<476年6月条>
47.倭人が兵を挙げて、五道に来襲し、侵入してきた。ついに戦果を挙げることなく帰っていった。<477年5月条>
48.倭人が、辺境を侵した。<482年5月条>
49.倭人が、辺境を犯した。<486年4月条>
50.臨海と長嶺(ちょうれい)の二つの鎮台を設置し、倭賊に備えた。<493年7月条>
51.倭人が、辺境を犯した。<497年4月条>
52.倭人が、長峯鎮を攻め陥(おと)した。<500年4月条>

【解説】
倭国との戦いが続きます。この時代、倭国つまり日本では、どのような動きがあったのでしょうか?。
ちょうど、宋書倭国伝の倭の五王の時代に当たります。主な出来事としては、

<421年>
倭国王の讃(さん)が宋に朝貢、官職を授けられる。
<425年>
・倭国王の讃が上表文を奉り、朝貢する。
<438年>
讃の弟の珍(ちん)が朝貢、安東将軍・倭国王に任命される。
<443年>
・倭国王の済(せい)が朝貢、安東将軍・倭国王に任命される。
<451年>
・済に、使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事の官職が加えられる。
<462年>
・倭王の嗣子の興(こう)が、安東将軍・倭国王に任命される。
<478年>
・興の弟の武(ぶ)が、上表文を奉る。
使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任命される。
<479年> 
・倭王武、鎮東大将軍に進められる。(南梁書)
<502年>
・倭王武、征東将軍に進められる。(梁書)
です。

倭国王の武が、使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任命されたということは、倭国が朝鮮半島を攻略し、支配下に治めていったことの証でしょう。三国史記には、倭国の攻撃に対して新羅が防御に回り、劣勢であった記載が続いてますので、中国史書の記載とよく合っていることがわかります。
下の図は、当時の朝鮮半島から日本の国々です。秦韓・慕韓は、新羅・百済に併合され、消滅していました。
倭の五王時代の朝鮮半島~日本

一方、日本側の記録はどのようになっているのでしょうか?
古事記、日本書紀には、まったくと言っていいほど、記録がありません。唯一あるのは、日本書紀の雄略天皇の時代に、”大伴談連らを新羅に遣わし戦わせたが、大伴談連が戦死した記事”くらいでしょうか。あとは、大和朝廷内の権力闘争に明け暮れた記事と、一転してのどかな恋と歌の記事ばかりです。このことは、何を意味しているのでしょうか?。
「朝鮮遠征は国外の話だから、省略したのだ」との説明もされるでしょうが、あまりにも苦しまぎれの弁明ではないでしょうか?。
もし仮にそうだとしても、倭の五王が、苦労に苦労を重ねて中国からもらった称号です。普通であれば、誇らしげに記録に残すはずです。それがないのはなぜでしょうか?

答えは簡単です。朝鮮遠征したのは、大和朝廷ではないからです。そして、倭の五王も、大和朝廷の天皇ではないからです。そう解釈するよりほかに、合理的な説明はありません。

では、主役は・・・? ですが、このブログで何度もお話しているとおり、それは、九州北部を基盤としていた九州王朝ということになります。そして、倭の五王は、九州王朝の王ということになります。

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三国史記新羅本紀を読む その3 ~ ちょうど神功皇后の時代にあたるのだが・・・?

(御挨拶おそくなりましたが・・・)

新年明けましておめでとうございます。

本年は、ブログ始めて二年目に入ります。研究を重ねた成果を、少しずつではありますが、ご紹介していきます。日本古代史のロマンを感じ、楽しんでいただけたら幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

さて、本題です。
新羅と倭国との戦いの話が、延々と続きます。

【現代訳】
14.倭人が国境を侵犯した。伊伐滄(いばつさん)の利音(りおん)を派遣し、軍隊を率いて、これを防がせた。<208年四月条>
15.倭人が突然来襲し、金城を包囲した。(助賁)王は、自ら出撃して戦った。(・・以下略・・)<232年四月条>
17.伊滄の于老(うろう)が、倭人と沙道(さどう)で戦った。風を利用して火を放ち、舟を焼いた。(・・以下略・・)<233年七月条>
18.倭人が舒弗邯(じょふつかん)の于老を殺した。<249年四月条>
19.倭人が一礼部を襲撃し、火を放ってこれを焼き、一千人を捕虜として去っていった。<287年四月条>
20.倭兵が来襲したと聞いて、舟と楫(かじ)とを整え、甲(よろい)と武器とを修繕した。<289年五月条>
21.倭兵が沙道城を攻め落とした。一吉滄(いつきつさん)の大谷(たいこく)に命じて、兵を率いて救わせ、これをしっかり守らせた。<292年六月条>
22.倭兵が来襲して長峯城を攻撃した。勝てなかった。<294年夏条>

【解説】
倭国が攻めてきて、新羅が防ぐ図式です。激しい闘いが続いたことが想像されます。実はこの時代、倭国では、卑弥呼・壹与(いよ)の時代に当たります。年代順に並べると、
<? 年>
 ・倭国内乱
<? 年>
卑弥呼が王となり、国が治まる。
<238年>
・卑弥呼が、魏に使いを送る。
・魏より「親魏倭王」の称号が与えられる。
<240年>
・魏より、命令書、金印、鏡、などが与えられる。
<243年>
・卑弥呼が、魏に錦、絹などを送る。
<245年>
・魏から、黄幢(黄色い軍旗)が与えられる。
<247年>
・魏が、辺境監督官の張政(ちょうせい)を倭国に派遣する。
・倭国と狗奴(くな)国との戦い。
<? 年>
・卑弥呼が死去。倭国が乱れる。
<? 年>
・卑弥呼の宗女壹与が王となり、国が治まる。
<266年>
・壹与が、魏に真珠、青メノウなどを送る。

つまり、この時代、倭国は国内を治めるとともに、新羅などの朝鮮半島の国々とも戦いながら、中国との関係を必死になって築こうとしていたことがわかります。


【現代訳】
23.(儒礼)王は、臣下に語って、「倭人は、しばしばわが城や村を侵犯している。百姓は、安心してくらすことができない。自分は、百済とともに(事を)企てようと思っている。(百済と)同時に海を渡って侵入し、その国を攻撃するのは、どうだろうか」と語った。舒弗邯の弘権(こうけん)が答えて、「われわれは、水域に慣れておりません。危険を冒して遠征すれば、おそらく思わぬ危難に遭うでしょう。まして百済は、欺くことが多く、いつもわが国を併合しようとする野心をいだいております。そこで多分、(百済と)ともに同じ企てをすることは、困難でありましょう」と言った。王は、「よかろう、分かった」と言った。
24.倭国と交聘した。<300年正月条>
25.倭国王は、使者を遣わして、王子のために婚姻の要請をした。阿滄(あさん)の急利(きゅうり)の女(むすめ)を倭国王に送った。<312年3月>
26.倭国は、使者を遣わして、婚姻の要請をした。辞退するのに、女子が、すでに嫁に行ってしまったことを理由とした。<344年2月条>
27.倭王が、書を送って国交を絶った。<345年2月条>
28.倭兵が、突然風島(ふうとう)にやってきて、辺境の民家を略奪した。さらに進撃して金城を包囲し、激しく攻めてきた。(・・以下略・・)<346年条>
29.倭兵が大挙してやてきた。(奈勿(なもつ))王は、これを聞いて、おそらく抵抗することは不可能であるとみて、草の人形数千体を造らせ、衣服を着せ武器を持たせて、吐含(とがん)山の麓に立て並ばせ、勇敢な兵士一千人を斧峴(ふけん)の東方の原野に待ちぶせさせた。<364年4月条>
30.倭人は、多勢に頼って、まっすぐに進撃してきた。待ふせておいた兵士を出撃させて、その不意をついた。<364年4月条>
31.倭人は、大いに敗れ敗走した。追撃してこれを殺し、ほとんど壊滅させた。<364年4月条>
32.倭人が、来襲して金城を包囲した。五日経っても包囲を解かなかった。(・・以下略・・)<393年5月条>

【解説】
新羅王が、百済と同盟を結び倭国を攻撃することを提案しますが、家臣から却下されます。このあたり、諸国入り乱れ、お互いに牽制しあっていた様子が、うかがえます。百済は、倭国と近しい関係であり、663年の白村江で、百済の遺民軍とともに、唐・新羅連合軍と戦いました。


【現代訳】
33.倭国と好誼を通じ、奈勿王の子未斯欣(みしきん)を質とした。<402年3月条>
34.倭兵がやって来て明活(めいかつ)城を攻撃し、勝つことができないで帰っていった。(実聖)王は、騎兵を率いて、これを独山の南方で待ち受け、再び戦って、これを撃破した。殺したり捕虜としたものは、三百余名であった。<405年4月条>
35.倭人が東辺を侵犯した。夏六月に、またも南辺を侵し、百人を略奪した。<407年3月条>
36,(実聖)王は、倭人が対馬島に軍営を置いて、武器や資材・食糧を貯え、わが国を攻撃しようと企んでいると聞いて、わが国は、まだ倭が出兵してこない前に、えりぬきの兵をより抜いて、兵站を撃破しようとした。(・・以下略・・)<408年2月条>
37.倭人と風島で戦い、これに勝った。<415年8月条>
38.王弟の未斯欣が、倭国から逃げ帰った。<418年秋条>

【解説】
倭国と和解し、王の子供未斯欣(みしきん)を質とした、とあります。この当時から、王の子供を相手国に差出し、和睦の担保をとる方式があったことがわかります。その未斯欣も、後に倭国から逃げ帰ります。
さて、このように倭国とのやりとりが、続いていますが、対する日本側では、どのような記録が残っているのでしょうか?。
日本書紀の記録としては、神功皇后の時代に当たります。世に言う”三韓征伐”です。以下、神功皇后の伝承です。

”夫の仲哀天皇の急死(200年)後、神功皇后が201年から269年まで政事を執り行なった。仲哀9(200)年3月1日に神功皇后は齋宮(いはひのみや)に入って自らを神主となり、まずは熊襲を討伐した。その後に住吉大神の神託で再び新羅征討の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。
お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという。
渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせた。月延石は3つあったとされ、長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納。また、播磨国風土記逸文には、播磨で採れた顔料の原料である赤土(あかに)を天の逆矛(あまのさかほこ)や軍衣などを染めたとあり、また新羅平定後、その神を紀伊の管川(つつかわ)の藤代(ふじしろ)の峯に祭ったとある。
皇后は帰国後、筑紫の宇美で応神天皇を出産し、志免でお紙目を代えた。また、新羅を鎮めた証として旗八流を対馬上県郡峰町に納めた(木坂八幡宮)。
神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したという。”(WIKIPEDIAより)

実は、日本書紀においては、卑弥呼と壹与の魏への朝貢( 238年他)を、あたかも神功皇后の事績のように記載しております。これにより、
卑弥呼=壹与=神功皇后
と、読み手に思わせようとしていることが、多くの研究者により指摘されております。それが、神功皇后架空説にもつながっています。

架空かどうかは別として、神功皇后が生きたとした場合の実際の年代は、干支で二周ずれている、つまり60年 × 2 =120 年 繰り下げるべきである、とされてます。
となると、神功皇后が政事を執り行ったのも、321年から389年の間ということになります。
日本書紀では、249年、262年に、新羅遠征を行ったことになりますので、これも実年代としては、369年、382年になります。そうなると、三国史記の記事の年代と合ってこます。
ただし、一般的には、神功皇后が実際に新羅遠征をしたのではなく、倭国の長年の新羅遠征をひとまとめにして神功皇后の事績にした、とされています。卑弥呼、壹与の事績を、取り込んだのと同じ手口です。

神功皇后については、伝承も多いのですが、つじつまが合っていないことも多く、謎とされています。卑弥呼の時代(3世紀前半)から新羅遠征(4世紀後半)までの、200年近い出来事を、神功皇后一人の事績に取り込んだわけですから、無理も出ます。

このように神功皇后は、日本古代史においても特異な存在です。では、なぜ日本書紀の編者たちは、このような無理をしてまで、神功皇后の事績を造り上げたのでしょうか?。それは、とても興味深いテーマなので、いずれ取り上げたい思います。

<神功皇后朝鮮遠征絵図、月岡芳年作、1880年>
神功皇后2  


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三国史記新羅本紀を読む その1 ~ 新羅第四代国王脱解(だっかい)の出身地である多婆那(たばな)国とはどこにあったのか?

これまで、中国史書、資料を読んできました。外国の史書としては、他にも朝鮮の「三国史記」「三国遺事」などが、日本について記載してます。
今回は、「三国史記」を読みます。「三国史記」とは、
”高麗17代仁宗の命を受けて金富軾らが作成した、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。朝鮮半島に現存する最古の歴史書である。1143年執筆開始、1145年完成、全50巻。”(WIKIPEDIAより)
編纂された時代は、12世紀とやや新しくなりますが、かなり詳しく書かれており、参考になります。
まず、新羅本記です。訳は、「三国史記倭人伝 他六篇 朝鮮正史日本伝Ⅰ」(佐伯有清編訳)からです。

【現代訳】
1.倭人が軍隊をつらねて、辺境を侵犯しようとした。始祖(赫居世)には、神の威徳があると聞いて、引き返していった。
2.  瓠公(ここう)を派遣して馬韓を訪れさした。馬韓の王は、瓠公を責めとがめて、「辰韓と卞(べん)韓の二韓は、私の属国なのだ。(にもかかわらず)毎年、貢物を送ってよこさぬ。大国に仕える礼儀は、そのようなものではないではないか」と言った。(瓠公は)答えて、「我が国は、二聖(始祖赫居世と妃閼英(あつえい))が国を建ててから、世の事柄は治まり、天候は不順で、穀倉は充ち、人民は敬い譲り合っている。辰韓の遺民より卞韓・楽浪・倭人に至るまで、敬い懐(なつ)かないものはない。それでもわが王は謙虚であって、下臣を遣わして修交しようとしたのである。礼儀に過ぎたことと謂うべきであろう」と言った。そこで(馬韓の)大王は、激しく怒って、武器で脅かした。(瓠公は、)「これはどういう意味なのか」と言った。(馬韓の)王は、怒って瓠公を殺そうとした。近臣は諌めとどめた。そこで帰国を許されたのであった。
3.瓠公は、その族姓が詳(つまび)らかではない。もとは倭人であって、はじめは瓠(ひさご)を腰につけて、海を渡って来たのである。だから瓠公といった。<BC20年条>
4.倭人が、兵百余艘をくり出して、海辺の民家を略奪した。六部の強力で勇敢な軍隊を出して、防御した。

【解説】
冒頭から、倭人が侵犯してくる話ですが、この類の話は非常に多く出てきます。ということは、頻繁に起こっており、新羅は常に倭に対して脅威を感じていたことでしょう。
ここで、瓠公(ここう)の登場です。瓠公とは、”新羅の建国時に諸王に使えた重臣で、新羅の王統の始祖の全てに関わる、新羅建国時代の重要人物です”(wikipediaより)。彼が「腰に瓢(ひょうたん)をつけて、倭からやってきた」とあります。「海を渡ってやってきた」とあることから、日本出身ということになります。


【現代訳】
5.脱解は、もとは多婆那国の生まれであった。その国は、倭国の東北一千里にあった。<脱解尼師今即位前紀>

【解説】
脱解(だっかい)とは、新羅第4代の王である脱解尼師今(だっかいにしきん、在位57-80年)です。その脱解が、倭国の東北1千里にある多婆那(たばな)国からやってきた、とあります。問題は、その多婆那国は、どこにあったのか?、です。さまざまな説がありますが、ここでも古田武彦氏が、納得感のある説を、提唱しています。以下、「倭人伝を徹底して読む」(古田武彦著)からです。

"『三国史記』つまり新羅・高句麗・百済三国の歴史を書いた朝鮮半島最古の史書の書き方では、倭国の東北一千里という場合は、多婆那国は「倭国」の一部分なのであって、「倭国」とは別国ではないのです。これと同じような例は、他にいくつも出てきます。だから脱解も、いってみれば「倭人」です。「倭人」の中でも「多婆那国の人」であるということです。「倭人」というのは、非常に広い概念なのです。
この(a)(b)から言えることは、新羅第四代は、国王が「倭人」であり、宰相も「倭人」であるということです。すると先ほどの『三国志』魏志韓伝の(4)で、辰韓人というのは男女とも倭に近しと書いた陳寿の暗示は、ズバリ当たっていることになります。国王も「倭人」、宰相も「倭人」というのですから関係が深くなければおかしい。ですからこの段階の新羅という国は、「倭人」とか「穢*人」「韓人」が寄り集まって一つの国をつくっていたようで、その中で「倭人」の占めている比重はかなりのものだったと思われます。そうでなければ国王と宰相の地位を「倭人」が占めることはできないはずです。"

たしかに、新羅第四代国王(脱解)も倭人、宰相(瓠公)も倭人となれば、当時の朝鮮半島は、韓人、穢人、倭人が入り混じって生活してたと考えてよいでしょう。先を読みます。

"ついでながら、多婆那国というのはどこかということについて結論だけのべておきます。いまの福岡県の遠賀(おんが)川下流から関門海峡一帯であろうとわたしは考えています。というのは、倭国は、博多湾岸を原点と考えていますから、そこから東北一千里というと、ちょうどこの一帯となるからです。ただしこの場合の里程には、長里と短里があって、長里の場合、一里が四三五メートル、短里(周朝代に短里が行われ、そのあと魏朝がこれを復活し西晋朝まで受け継いだ)が七六~七七メートルの間、約七七メートルです。『三国志』は、この短里で書いてあるとわたしは見ています。もしこれを長里で考えると、この話は、全く成り立たない。博多を原点にしてそこから東北へ一千里とすると出雲では止まらず、但馬から舞鶴、下手をすると能登半島まで行ってしまうからです。
なぜそれがだめかというと、脱解の話にはその続きがあります。脱解は、多婆那国王と妃の間に生まれたが、「卵」で生まれました。人間の形ではなかった。母親はこれを大変いとおしんだけれども、父親はこんなものはみっともない、壊してしまえという。母親は壊すにしのびずそっと舟に乗せて沖合に流した。それが最初に金官国(いまの釜山の近辺)に流れ着いた。金官国の人は、こんな不思議なものがと気味悪がってまた沖合へ流した。そのあと新羅の都慶州の海岸に流れ着き、そこで老夫婦に拾われ、持って帰って床の間に置いていたところ、卵から男の子が生まれた。大変美男子で賢く、大きくなって新羅の朝廷に仕えるようになり、二代目の国王に見込まれ、その娘と結婚し、四代目の国王になるというのです。こんなことはありうる話ではありませんが、それを語る人がおり、語られる人がいるのですから、語る人と語られる人の地理感覚に合っていない話というのは、成立しえないのです。つまりいまのようにただ単に沖合に(漕ぐ人がいれば別ですが)流れ着くといっても、多婆那国からその沖合へ流したら金官国へ着き、そこからまた流したら慶州へ着くという、そういう海の知識を持っていなければ、いいかえれば語る人と語られる入が「共通の約束事」を持っていなければ、こういう話は成立しないのです。たとえ「ウソ話」でも「おとぎ話」でも、成立しない。とすると、この海の知識というのは、海流です。対馬海流が西から東へ流れているということだけではこの話は絶対成立しない。東鮮暖流をぬきにしては語れないのです。つまり対馬海流は、壱岐・対馬のあたりで二つに分かれます。その一つが東鮮暖流で、これはウラジオストックの方から下りて来た寒流と朝鮮半島東岸部の中ほどでぶつかり、東へ向い、その一帯(竹島付近)は魚の宝庫になっています。
金錫亨氏も倭国博多説で、この問題に関しても博多を前提にして出雲説を出しておられます。朝鮮半島の人が『三国史記』や「魏志」に出てくる「倭国」を“博多あたり”だというのは、そう考えないと辻棲が合わない事件や説話がたくさん出てくるからです。別に論証はされていませんが、常識的な判断から倭国というのは博多付近として扱われています。金氏は、その東北だから出雲であろう、と論じておられるわけです。
しかしわたしは、その方角はいいけれども、長里で千里では舞鶴か能登半島近くへ行ってしまって出雲ではとまらないし、また短里では出雲まではいかない。関門海峡近辺どまりです。また短里だと博多湾岸から遠賀川の下流、関門海峡あたりまでが千里になります。なお大事なことは、出雲だとしたら、そこから卵だけを乗せた無人の舟を沖合に流しても釜山へ流れ着くことはまず無理だと思われることです。風などのこともあって、絶対とはいえませんが、常識的に見て難しい。とすると、この話はどうしても、遠賀川の下流域から関門海峡近辺ということになります。ここからだと東鮮暖流に乗ることができます。もちろんこの場合でも、もう一つ風がプラスしなければなりません。というのは、冬は風が北から南へ吹くので出雲へ行く可能性が強いのですが、春から夏にかけては北に向かって風が吹くので東鮮暖流の方に乗る可能性が強いからです。このようにシーズンによってもちがってきます。
また関門海峡は、潮の干満によっても流れが変わります。瀬戸内海に流れ込む時間帯と、逆に流れ出る時間帯がある。この流れ出る時間帯に流せば、卵を乗せた舟は東鮮暖流に乗りやすい。とすると、卵を乗せた舟が、「釜山→慶州」に流れるのに合う時期は、春夏の季節で、しかも関門海峡の潮の流れが外へ流れ出る時間、ということになります。したがって多婆那国は、大体この関門海峡あたりにあったとわたしは理解しています。
こうしてみていくと、この『三国史記』に出ている「倭国」も、実は、第一次の「チクシ倭国」であるということがいえます。これを「ヤマト倭国」にしたらどうなるか。「大和倭国」から東北一千里というと新潟か山形の方へ行ってしまいます。そこから卵を乗せた無人の舟が釜山へ流れ着くというのは、奇跡に近いでしょう。"

多婆那国の位置について考察しています。結論として、遠賀川の下流域から関門海峡近辺としてます。その根拠としては、倭国の中心が博多湾岸であり、そこから東北1千里にあたるからです。その際のポイントは、長里、短里という距離の単位ですが、ここは議論が分かれるところなので、詳細はあらためてお話しします。もう一つの根拠が海流です。こちらは、下の図をみれば合点がいきます。

紀元前後の朝鮮半島

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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