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七支刀(しちしとう)銘文を読む ~ 物部氏ゆかりの石上神社秘宝が物語る古代日本の真実とは?

今回は、刀です。なんで突然刀なの?、と思われた方もいるかと思われますが、古代百済から倭国王へ贈られたとされる国宝の刀「七支刀(しちしとう)」が、現存しています。そこに貴重な銘文が彫られているのです。
七支刀とは、
"古代倭王家に仕えた豪族物部氏の武器庫であったとされる奈良県天理市の石上神宮に伝来した鉄剣。全長74.8cm。その由来は早くに忘れられ、神宮ではこれを「六叉の鉾(ろくさのほこ)」と呼び、神田にその年はじめて苗を植える儀式に神を降ろす祭具として用いていたという。1874年(明治7年)に石上神宮大宮司となった菅政友は、水戸藩出身で「大日本史」編纂に参加した経歴のある歴史研究者でもあった。大宮司としてこの社宝をつぶさに観察する機会を得た菅は、刀身に金象嵌銘文が施されていることを発見し、さらに剣の錆を落として、はじめてその銘文の解読を試みた。"(wikipediaより)です。
では、見ていきましょう。

七支刀のレプリカ

七支刀

【現代訳】
泰和四年(369年)五月十六日の丙午正陽に、百たび鍛えた鉄の刀を造った。すすんでは百たびの戦いを避け、恭(うやうや)しい候王(が帯びるのに)ふさわしい。先の世からこのかた、まだこのような刀はない。百済王の世子貴須は、特別に倭王旨のために造って、後の世に伝え示すものである。

【解説】
表と裏に合わせて61文字記載されています。鉄剣であるためサビによる腐食が激しく読み取れない文字もあります。そのせいもあり、解釈はさまざまな説があります。年代についても、泰■四年と判読できないのですが、一般的には、泰和四年の369年と、されています。その他にも解釈は多々ありますが、ここでは割愛します。

さて、百済王が、倭国王へ送ったものであるなら、日本側にもその記録が残っているはずです。実は、日本書紀の神功皇后紀のなかに、それとおぼしき記載があります。それは、
"百済が倭に対して複数回朝貢し人質を献上していたことが記述されているが、この七支刀献上に関しては、日本書紀神功皇后摂政52年条に、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述がある。紀年論によるとこの年が372年にあたり、年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められている。"(WKIPEDIAより)

さて、以前のブログにて、神功皇后紀の年代が、干支で二回りつまり120年ずれている、という話をしました。もう少し詳しく説明します。
紀元暦は、神武天皇即位年を紀元ゼロ年としています。具体的には、日本書紀記載の天皇在位年数等をそのままたして初代の神武天皇まで遡ることにより、紀元ゼロ年=BC660年としています。その年を原点として、今年すなわち2016年は、660+2016=紀元2676年となるわけです。この紀元暦でいうと、神功皇后紀の「七枝刀」献上が、250年になります。

ところが七支刀の製作が369年で、「七支刀」=「七枝刀」であるなら、神功皇后紀の250年は、実際は干支で二回り繰り下げた372年ではないか、いうことになり、”日本書紀の神功皇后紀の記載は120年繰り上がっている”という説が正しいことになります。

先に、"日本書紀では、卑弥呼が魏へ使いを出した(238年)から4世紀後半の新羅進出までの倭国の功績を、すべてひとまとめにしてして神功皇后一人の功績にしている"、という話をしました。今回、この372年という年が確定すれば、日本書紀があたかも「卑弥呼・壹与=神功皇后」のごとく記載していることの虚構もまた、確定します。
となると、4世紀における朝鮮進出も、果たして本当に神功皇后の功績なのか、という疑問がでます。さらにもっと大きい視点で考えると、そもそも歴代古代天皇の年齢等も、怪しいという話になってきます。また、神武天皇即位のBC667年の根拠も揺らいできます。

「だから、古代天皇の存在は虚構だ。日本書紀は、後世の創作だ。」という話になってしまうのですが、そう短絡的に結論することは、早計です。さまざまな観点から、考えていく必要があります。
そしてもうひとつ見逃せないのが、倭国王の名前「旨」です。倭国王については、宋書倭国伝のなかに、倭の五王が出てくることは、お話ししましたが、その5人の王とは異なる名前であり、時代も30年ほど、さかのぼります。ここで、五王がすべて倭国王であり、すべて一文字であることからみても、倭王「旨」も五王の系譜上にあると考えてよいでしょう。つまり、「旨」は、九州王朝の王だったことになります。以前お話しした5人の系譜に付け加えると、下図のようになります。

旨~倭の五王

ところで、百済はなぜ七支刀を、倭国王に献上したのでしようか?。定説では、高句麗の圧迫を受けていた百済が倭との同盟を求め贈られた、とされています。しかしながら、それほど大切なものなら、石上神社においても、由来について伝承されてきたはずです。ところが実際には、石上神社が何も知らずに儀式の祭具として使用してきたわけで、不自然です。

こうした謎を解く鍵は、なぜ七支刀が石上神社神社にあるのか、にあると考えています。その答えというか、現段階での仮説としては、"もともと石上神社にあったのではなく、どこからかもたらされたのだ"というものです。では、問題は、もとはどこにあったのか、です。それについては、倭王「旨」が九州王朝の王であるなら、当然のことながら"九州王朝に献上され保有していた。それが何かの経緯で、石上神社にもたらされた。"と考えるのが自然な流れです。

では、その証拠はあるのかですが、確たるものはないものの、そのヒントとなりうるものはありますので、いずれ紹介したいと思います。

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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