邪馬台国位置比定の考古学的根拠とは(8) ~ 三種の神器出土遺跡③(井原鑓溝遺跡)
次は、三雲南小路遺跡の南に隣接する井原鑓溝(いわらやりみぞ)遺跡です。井原鑓溝遺跡は、江戸時代に偶然発見されたこともあり、詳細な記録がなく、正確な墳墓の位置は、わかっていません。出土物も散逸しており、拓本が残るのみですが、最近の発掘調査で中国製鏡も発見され、当時の記録も合わせ考えると、強大な勢力を持った王の墓と推定されます。
拓本に残された鏡は、多くが1世紀前半の新および後漢初期の製作と考えられることから、遺跡の年代は、おおむね1世紀後半~2世紀初頭の間に収まると推定できます。
出土物としては、
江戸時代の調査で
方格規矩四神鏡21面分、巴形(ともえがた)銅器2(拓本)、刀剣の類、壺(甕棺のことか?)
平成の調査で
方格規矩四神鏡、雲雷文内行花文鏡、ガラス玉、
が、報告されています。
<方格規矩鏡>

現在も、発掘調査が進められています。
実は、この墳墓の被葬者は、埋葬品の豪華さや時代からみて、倭国王帥升(すいしょう)との説があります。
帥升とは、外国史書に初めて登場する倭国王です。
”107年に、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた。”(後漢書東夷伝)
とあります。
今の段階では何とも言えませんが、これからの調査の成果が楽しみです。
さらに、ここでの最近のビッグニュースは、なんと言っても、硯(すずり)の出土でしょう。
産経新聞WEB版(2016年3月1日)によると、
”破片は長さ6センチ、幅4・3センチ、厚さ6ミリ。実際に使用されたようなすり減りがあり、市教委は墨が使われた跡がないか詳しく調べる。当時のすずりは板状で、水と粉末や粒状の墨を乗せ、取っ手を付けた薄い正方形状の「研石」ですりつぶしていたという。
倭国の人々のなかにも、漢字を読み書きできる人がいたことでしょう。外国との折衝をする役人、今でいう外務官僚は当然として、支配者層の人々も、日常のたしなみとして、読み書きできたかもしれません。
では、倭国に漢字が伝わったのはいつ頃でしょうか?
AD57年に、倭国の大夫が後漢へ朝貢し、光武帝から金印「漢委奴国王(かんのいな(ど、ぬ)こくおう)」を下賜されましたことは、すでにお話しました。漢字が刻印された金印を与えたということは、”相手が漢字を読めるから、あるいは少なくとも読める人がいたから与えた”と考えるのが合理的です。つまり、1世紀半ばには伝わっていたことになります。
また、卑弥呼が魏の皇帝に書を送ったのが、240年です。漢字伝来から2世紀も経ってますから、そのころには、漢字も広がり、卑弥呼自身も、漢字を読み書きできた可能性はありますね。
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拓本に残された鏡は、多くが1世紀前半の新および後漢初期の製作と考えられることから、遺跡の年代は、おおむね1世紀後半~2世紀初頭の間に収まると推定できます。
出土物としては、
江戸時代の調査で
方格規矩四神鏡21面分、巴形(ともえがた)銅器2(拓本)、刀剣の類、壺(甕棺のことか?)
平成の調査で
方格規矩四神鏡、雲雷文内行花文鏡、ガラス玉、
が、報告されています。
<方格規矩鏡>

現在も、発掘調査が進められています。
実は、この墳墓の被葬者は、埋葬品の豪華さや時代からみて、倭国王帥升(すいしょう)との説があります。
帥升とは、外国史書に初めて登場する倭国王です。
”107年に、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた。”(後漢書東夷伝)
とあります。
今の段階では何とも言えませんが、これからの調査の成果が楽しみです。
さらに、ここでの最近のビッグニュースは、なんと言っても、硯(すずり)の出土でしょう。
産経新聞WEB版(2016年3月1日)によると、
”破片は長さ6センチ、幅4・3センチ、厚さ6ミリ。実際に使用されたようなすり減りがあり、市教委は墨が使われた跡がないか詳しく調べる。当時のすずりは板状で、水と粉末や粒状の墨を乗せ、取っ手を付けた薄い正方形状の「研石」ですりつぶしていたという。
昨年12月、弥生~古墳時代の人々が不要になった土器を捨てたとみられるくぼ地を調査して見つかった。ここでは中国・前漢が朝鮮半島支配のために設けた「楽浪郡」製の弥生後期とみられる土器が多数見つかっているため、市教委はすずりも同時期の1~2世紀ごろに楽浪郡で作られたとみている。
市教委は「伊都国では、楽浪郡からの渡来人が外交を担っていたと考えられる。中国からの賜り品への返礼書などを作るため、半島から持ち込んだのでは」と推察する。”
とあり、実際に使用されていたことがわかります。
<出土した硯>
倭国の人々のなかにも、漢字を読み書きできる人がいたことでしょう。外国との折衝をする役人、今でいう外務官僚は当然として、支配者層の人々も、日常のたしなみとして、読み書きできたかもしれません。
では、倭国に漢字が伝わったのはいつ頃でしょうか?
AD57年に、倭国の大夫が後漢へ朝貢し、光武帝から金印「漢委奴国王(かんのいな(ど、ぬ)こくおう)」を下賜されましたことは、すでにお話しました。漢字が刻印された金印を与えたということは、”相手が漢字を読めるから、あるいは少なくとも読める人がいたから与えた”と考えるのが合理的です。つまり、1世紀半ばには伝わっていたことになります。
また、卑弥呼が魏の皇帝に書を送ったのが、240年です。漢字伝来から2世紀も経ってますから、そのころには、漢字も広がり、卑弥呼自身も、漢字を読み書きできた可能性はありますね。
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邪馬台国位置比定の考古学的根拠とは?(7 ) ~ 三種の神器出土遺跡②(三雲南小路遺跡)
次に、三雲南小路(みくもみなみしょうじ)遺跡です。福岡県糸島市に所在し、周溝を持つ墳丘墓で、甕棺墓 2器を持つ弥生時代の王墓です。甕棺の形式から、弥生時代中期中頃と考えられてます。
1号甕棺の出土物として、
銅剣 1、銅戈 1、銅矛 2、銅鏡(前漢鏡) 31面以上、ガラス璧(瑠璃璧)破片 8個以上、ガラス勾玉 3個、ガラス管玉 60個以上、金銅製四葉飾金具 8個以上
2号甕棺の出土物として、
銅鏡(前漢鏡) 22面以上、ガラス垂飾 1、勾玉 13個(硬玉製 1、ガラス製 12)など
銅鏡(重要文化財)

銅剣(重要文化財)
ガラス璧

碧玉製勾玉
(糸島市HPより)
1号甕棺から、三種の神器(剣、鏡、玉)のほかに、璧(へき)が出土しています。璧とは、
”古代中国で祭祀用あるいは威信財として使われた玉器。多くは軟玉から作られた。形状は円盤状で、中心に円孔を持つ。表面に彫刻が施される場合もある。周代に至り、璧は礼法で天を祀る玉器として規定された。また『周禮』は、諸侯が朝ずる際に天子へ献上するものとして璧を記している。璧は日月を象徴する祭器として、祭礼用の玉器のうち最も重要なものとされ、春秋戦国時代や漢代においても装飾性を加えて盛んに用いられた。”(WIKIPEDIAより)
という、たいへん貴重な品です。
1号墳墓の被葬者は、一般的には伊都国王と言われていますが、これだけの出土品が出たとなると一国の王にとどまらず、倭国王の墓である可能性もあります。また、1号墳墓には、銅剣のほか、銅戈、銅矛など、武器系の品が埋葬されているのに対し、2号墳墓からは、武器系の品はなく、装飾系の品が埋葬されていることから、1号墳墓は王墓、2号墳墓は王妃墓と考えられます。
西側の周溝に「祭祀跡」とみられる痕跡があり、東側の「高祖山系」の山並みとの関連性がうかがえることは注目すべき点です。
また、東隣に「細石(さされいし)神社」拝殿があり、「もともとは、「細石神社」は、墳墓の拝殿であろう。」と地元民は伝えています。
そして、神社拝殿の祭神が、「石長姫(イワナガヒメ)と木之花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)」の女神二柱です。
「古事記」に、二人の姉妹にまつわる話があります。
”コノハナサクヤヒメは、日向に降臨した天照大神の孫・ニニギノミコトと、笠沙の岬で出逢い求婚される。父のオオヤマツミはそれを喜んで、姉のイワナガヒメと共に差し出したが、ニニギノミコトは醜いイワナガヒメを送り返し、美しいコノハナノサクヤビメとだけ結婚した。オオヤマツミはこれを怒り「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天津神の御子(ニニギノミコト)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたからである。コノハナノサクヤビメだけと結婚すれば、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」と告げた。それでその子孫の天皇の寿命も神々ほどは長くないのである。
コノハナノサクヤビメは一夜で身篭るが、ニニギは国津神の子ではないかと疑った。疑いを晴らすため、誓約をして産屋に入り、「天津神であるニニギの本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と、産屋に火を放ってその中でホデリ(もしくはホアカリ)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)の三柱の子を産んだ。ホオリの孫が初代天皇の神武天皇である。”(以上WIKIPEDIAより)
天孫降臨、つまり九州北部へ進出したニニギノミコトは、コノハナサクヤヒメと夫婦になったわけです。このことから、三雲南小路遺跡の墳墓の被葬者は、ニニギノキコトとコノハナサクヤヒメではないかと、言われています。
神話の世界と思っていた人物の墓が、現代に存在するとしたら、何ともロマンあふれる話ですね。また、ニニギノミコトの墳墓であるなら、三種の神器が埋葬されていて当然ですね。
もうひとつ、高祖山との関係についてです。
天孫降臨については、一般的には神話に世界であり、場所も宮崎県の日向(ひゅうが)とされていますね。
そこへ、古田武彦氏が、「史実に基づく話である」と発表し、世間に衝撃を与えました(「盗まれた神話」他)。その舞台が、高祖山なのです。
天孫降臨ですが、ニニギノミコトが天降(あまふ)ったのが、
”筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)”
です(「古事記」による)。
ここで、「筑紫」はまさにここ筑前のことでしょうし、「日向」と言えば、墳墓のちょうど東に「日向峠」があります。「高千穂」とは、固有名詞ではなく、「高くそそり立つ連山」という意味の一般名詞です。問題となるのが、「久士布流多気(くしふるたけ)」ですが、なんと高祖山と日向峠にある山のひとつは、かつて「くしふる山」と呼ばれていたという記録があります。どんぴしゃり、ですね。位置関係を、上の図で確認してみてください。
”コノハナサクヤヒメの話があり、天孫降臨の話があり、そして豪華な品が埋葬されていた墳墓がある”となると、これほど神話と現地が合致する場所は、ここを置いて他にないのではないでしょうか?
★はたして、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメは、この地で永遠の眠りについたのだろうか・・・?
<ニニギノミコト>
(楊州周延画)
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1号甕棺の出土物として、
銅剣 1、銅戈 1、銅矛 2、銅鏡(前漢鏡) 31面以上、ガラス璧(瑠璃璧)破片 8個以上、ガラス勾玉 3個、ガラス管玉 60個以上、金銅製四葉飾金具 8個以上
2号甕棺の出土物として、
銅鏡(前漢鏡) 22面以上、ガラス垂飾 1、勾玉 13個(硬玉製 1、ガラス製 12)など
銅鏡(重要文化財)
銅剣(重要文化財)
ガラス璧
碧玉製勾玉
(糸島市HPより)
1号甕棺から、三種の神器(剣、鏡、玉)のほかに、璧(へき)が出土しています。璧とは、
”古代中国で祭祀用あるいは威信財として使われた玉器。多くは軟玉から作られた。形状は円盤状で、中心に円孔を持つ。表面に彫刻が施される場合もある。周代に至り、璧は礼法で天を祀る玉器として規定された。また『周禮』は、諸侯が朝ずる際に天子へ献上するものとして璧を記している。璧は日月を象徴する祭器として、祭礼用の玉器のうち最も重要なものとされ、春秋戦国時代や漢代においても装飾性を加えて盛んに用いられた。”(WIKIPEDIAより)
という、たいへん貴重な品です。
1号墳墓の被葬者は、一般的には伊都国王と言われていますが、これだけの出土品が出たとなると一国の王にとどまらず、倭国王の墓である可能性もあります。また、1号墳墓には、銅剣のほか、銅戈、銅矛など、武器系の品が埋葬されているのに対し、2号墳墓からは、武器系の品はなく、装飾系の品が埋葬されていることから、1号墳墓は王墓、2号墳墓は王妃墓と考えられます。
西側の周溝に「祭祀跡」とみられる痕跡があり、東側の「高祖山系」の山並みとの関連性がうかがえることは注目すべき点です。
また、東隣に「細石(さされいし)神社」拝殿があり、「もともとは、「細石神社」は、墳墓の拝殿であろう。」と地元民は伝えています。

そして、神社拝殿の祭神が、「石長姫(イワナガヒメ)と木之花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)」の女神二柱です。
「古事記」に、二人の姉妹にまつわる話があります。
”コノハナサクヤヒメは、日向に降臨した天照大神の孫・ニニギノミコトと、笠沙の岬で出逢い求婚される。父のオオヤマツミはそれを喜んで、姉のイワナガヒメと共に差し出したが、ニニギノミコトは醜いイワナガヒメを送り返し、美しいコノハナノサクヤビメとだけ結婚した。オオヤマツミはこれを怒り「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天津神の御子(ニニギノミコト)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたからである。コノハナノサクヤビメだけと結婚すれば、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」と告げた。それでその子孫の天皇の寿命も神々ほどは長くないのである。
コノハナノサクヤビメは一夜で身篭るが、ニニギは国津神の子ではないかと疑った。疑いを晴らすため、誓約をして産屋に入り、「天津神であるニニギの本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と、産屋に火を放ってその中でホデリ(もしくはホアカリ)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)の三柱の子を産んだ。ホオリの孫が初代天皇の神武天皇である。”(以上WIKIPEDIAより)
天孫降臨、つまり九州北部へ進出したニニギノミコトは、コノハナサクヤヒメと夫婦になったわけです。このことから、三雲南小路遺跡の墳墓の被葬者は、ニニギノキコトとコノハナサクヤヒメではないかと、言われています。
神話の世界と思っていた人物の墓が、現代に存在するとしたら、何ともロマンあふれる話ですね。また、ニニギノミコトの墳墓であるなら、三種の神器が埋葬されていて当然ですね。
もうひとつ、高祖山との関係についてです。
天孫降臨については、一般的には神話に世界であり、場所も宮崎県の日向(ひゅうが)とされていますね。
そこへ、古田武彦氏が、「史実に基づく話である」と発表し、世間に衝撃を与えました(「盗まれた神話」他)。その舞台が、高祖山なのです。
天孫降臨ですが、ニニギノミコトが天降(あまふ)ったのが、
”筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)”
です(「古事記」による)。
ここで、「筑紫」はまさにここ筑前のことでしょうし、「日向」と言えば、墳墓のちょうど東に「日向峠」があります。「高千穂」とは、固有名詞ではなく、「高くそそり立つ連山」という意味の一般名詞です。問題となるのが、「久士布流多気(くしふるたけ)」ですが、なんと高祖山と日向峠にある山のひとつは、かつて「くしふる山」と呼ばれていたという記録があります。どんぴしゃり、ですね。位置関係を、上の図で確認してみてください。
”コノハナサクヤヒメの話があり、天孫降臨の話があり、そして豪華な品が埋葬されていた墳墓がある”となると、これほど神話と現地が合致する場所は、ここを置いて他にないのではないでしょうか?
★はたして、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメは、この地で永遠の眠りについたのだろうか・・・?
<ニニギノミコト>

(楊州周延画)
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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