一年で二回の年を数えたという「二倍年歴」説は本当か?(6) ~ 「国譲り」と「天孫降臨」はいつだったのか?
前回は、「二倍年歴」を基にして、神武天皇が東征したのはいつ頃か?、を試算しました。
今回は、「二倍年歴」から推測される、もう一つの事例を取り上げます。
”大国主命(オオクニヌシノミコト)が「国譲り」をして、ニニギノミコトが九州北部に上陸した「天孫降臨」はいつか?”です。
「国譲り」とは、”天照大神(アマテラスオオミカミ)が大国主命に国譲りを迫り、大国主命が譲った”という神話です。「天孫降臨」とは、国譲りを受けた「天(あま)族による日本本土進出」のことで、天照大神の孫であるニニギノミコトがリーダーであったため、「天孫降臨」と呼ばれています。
ここで、神武天皇即位年が、「紀元前50~紀元前100年」とすると、そこから時代を遡ると、興味深いことがわかります。
ニニギノミコトの天孫降臨すなわち天(あま)族による日本本土進出から神武天皇即位まで、3代を経ています。仮に1代20年とすると、
20年×3代=60年
の年月が経っていることになります。
単純計算すると、天孫降臨は、神武天皇即位年である「紀元前50~紀元前100年」からさかのぼり、
-50(または-100)-60=-110(または-160)年=紀元前110年~紀元前160年
となります。
ただしここで注意すべきは、火遠理命(ホヲリノミコト)の代です。以前のブログでお話ししたとおり、ホヲリノミコトの代は、古事記によれば、580年です。これは1代ではなく、何代かの襲名と考えられます。これは「二倍年歴」ですから、「一倍年暦」では290年です。これを考慮して、上の数字を290年遡らせると、
ニニギノミコトの天孫降臨は、
-110(または-160)-290 = -400(または-450) = 紀元前400年~紀元前450年
になります。
神話の世界の話に、ずいぶんとリアリティが出てきましたね。
もっとも、「こんなのは、仮定に仮定を重ねた結果にすぎないではないか。実証できるものはないのか?」
との声が、聞こえてきそうです。
では、別の角度から検証してみましょう。
まず、天(あま)族が、そもそもどこからやってきたのかから、考えなければいけません。すなわち、
”「倭人の源流」はどこか”というテーマです。
以前のブログ
「翰苑(かんえん)を読む (前編) ~ 日本人は古代中国周王朝の末裔だった!?」(2015/10/6号)
で、お話しましたが、中国古代史書の「翰苑(かんえん)」のなかに、
”中国にやってきた倭人が自分たちのことを、「呉(ご)の太伯(たいはく)の子孫だ」と言った。”
という記載があります。
呉の太伯とは、中国周王朝の古公亶父(ここうたんぽ)の長男で、紀元前12-11世紀の人物です。おおまかな流れは、
”周王朝(黄河流域中原)にいた太伯が、やがて揚子江下流域に行き、もともと住んでいた倭人とともに呉を建国します。時代を経て、呉は越(えつ)との戦いに敗れ(紀元前473年)、呉の地を追われ、四散しました。そのなかで、朝鮮半島に逃れた人々、あるいは海で逃れた人々が、九州北部にやってきました。”
となります。
図示します。
「それがいつか?」について、「資治通鑑」という中国史書のなかに、興味深い記載があります。
「資治通鑑」とは、中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂した編年体の歴史書です。坂本龍馬、西郷隆盛、水戸光圀、北畠親房、 そして毛沢東が愛読したとも言われています。
呉亡条記事に、「日本又云、呉太伯之后 、盖呉亡、其支庶入海為倭」とあります。この記事から、
”紀元前473 年、越王勾践(こうせん)は呉王夫差(ふさ)を打ち負かした。『資治通鑑前編』に「呉は太伯から夫差に至るまで二十五世あった。今日本国はまた呉の太伯の後だというのは、つまり呉が亡んだ後に、その子孫支庶が海に入って倭となったのである」とある記述が意味するところは、呉人が亡国の後四散して、一部が海を跨いで東進し日本にたどり着いたということである。”(「日中歴史共同研究」より)
ということになります。
、呉が越に敗れた後、多くの人々が朝鮮半島に逃れたことでしょう。そして、朝鮮半島を南下して、朝鮮半島南部に住み着き、さらに対馬、壱岐まで渡った人々もいたことでしょう。そして、ついに、九州北部に上陸したと、推定されます。なかには、舟で呉から日本に直接漂着した人々もいたと思われます。
呉が越に敗れた年は紀元前473年ですが、その後、朝鮮半島に行き着き、さらに九州北部に上陸するには、相当年かかったことでしょう。
先に、天孫降臨の年を、紀元前400~紀元前450年頃と試算しましたが、ほぼほぼこの年代と合ってくることが、確認できるかと思います。
もちろん、中国本土から逃れてきたのは、この年代だけではないはずです。
呉をお滅ぼした越は、紀元前334年に、楚(そ)の国に滅ぼされます。そして、その楚も、紀元前223年に、あの始皇帝の秦(しん)に滅ぼされます。こうした戦乱のなかで、多くの人々が戦乱を逃れ、朝鮮半島、あるいは日本にたどりついたと考えられます。
さらには、もっと時代をさかのぼれば、周が東周となった時代(紀元前771年)にも、動乱はあったわけです。そのようにとらえると、春秋戦国時代(紀元前770-紀元前221年)にわたる長い時間をかけた移動があったのではなすいかと、推察されます。そのなかの一大イベントが、「国譲り」と「天孫降臨」だったというわけです。
ちなみに、”将来の成功を期して苦労に耐えること。”を意味する故事熟語に「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」がありますが、これは呉と越の戦いのなかで生まれた熟語です。
”中国春秋時代、呉王夫差(ふさ)が、父の仇である越王勾践(こうせん)を討つために薪の上に寝て復讐心をかきたて、長い艱難(かんなん)の末にこれを破った。一方、会稽かいけい山で夫差に敗れた勾践は、苦い胆を寝所に掛けておき、寝起きのたびにこれをなめてその恥を忘れまいとし、のちに夫差を滅ぼしたという故事から。「臥薪」「嘗胆」ともに越王勾践の故事とする説もある。”(「新明解四字熟語辞典」より)
中国で生まれた熟語の由来が、われわれ現代の日本人にも関連しているかと考えると、面白いですね。
では、以上のことに科学的根拠はあるのか、ですが、いくつか挙げたいと思います。
まず、この時代すなわち弥生時代に、日本に鉄器および青銅器が大陸からもたらされたことが知られています。これは、単なる貿易ということのみならず、当然、人の移動もあったことでしょう。
弥生式土器が作られるようになったのも、この頃からです。
<弥生式土器>
イネも、日本にもたらされました。最近の研究では、その時期は紀元前1000年頃までさかのぼるのでは、という説も出されています。そして、温帯ジャポニカ米(水稲)については、DNA解析の結果、揚子江流域が原産であることが報告されています。
そして極め付けは、ヒトのDNA分析結果でしょう。
「古代揚子江下流域の古代人の骨と、北部九州、山口の渡来系弥生人の骨のミトコンドリアDNAが一致した」
との調査報告があります。
(1999年、中日共同調査団)
まさに、
揚子江下流域(呉) ⇒ (朝鮮半島) ⇒ 九州北部
の流れに、文献、考古学および科学的根拠が一致していることがわかります。
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今回は、「二倍年歴」から推測される、もう一つの事例を取り上げます。
”大国主命(オオクニヌシノミコト)が「国譲り」をして、ニニギノミコトが九州北部に上陸した「天孫降臨」はいつか?”です。
「国譲り」とは、”天照大神(アマテラスオオミカミ)が大国主命に国譲りを迫り、大国主命が譲った”という神話です。「天孫降臨」とは、国譲りを受けた「天(あま)族による日本本土進出」のことで、天照大神の孫であるニニギノミコトがリーダーであったため、「天孫降臨」と呼ばれています。

ここで、神武天皇即位年が、「紀元前50~紀元前100年」とすると、そこから時代を遡ると、興味深いことがわかります。
ニニギノミコトの天孫降臨すなわち天(あま)族による日本本土進出から神武天皇即位まで、3代を経ています。仮に1代20年とすると、
20年×3代=60年
の年月が経っていることになります。
単純計算すると、天孫降臨は、神武天皇即位年である「紀元前50~紀元前100年」からさかのぼり、
-50(または-100)-60=-110(または-160)年=紀元前110年~紀元前160年
となります。
ただしここで注意すべきは、火遠理命(ホヲリノミコト)の代です。以前のブログでお話ししたとおり、ホヲリノミコトの代は、古事記によれば、580年です。これは1代ではなく、何代かの襲名と考えられます。これは「二倍年歴」ですから、「一倍年暦」では290年です。これを考慮して、上の数字を290年遡らせると、
ニニギノミコトの天孫降臨は、
-110(または-160)-290 = -400(または-450) = 紀元前400年~紀元前450年
になります。
神話の世界の話に、ずいぶんとリアリティが出てきましたね。
もっとも、「こんなのは、仮定に仮定を重ねた結果にすぎないではないか。実証できるものはないのか?」
との声が、聞こえてきそうです。
では、別の角度から検証してみましょう。
まず、天(あま)族が、そもそもどこからやってきたのかから、考えなければいけません。すなわち、
”「倭人の源流」はどこか”というテーマです。
以前のブログ
「翰苑(かんえん)を読む (前編) ~ 日本人は古代中国周王朝の末裔だった!?」(2015/10/6号)
で、お話しましたが、中国古代史書の「翰苑(かんえん)」のなかに、
”中国にやってきた倭人が自分たちのことを、「呉(ご)の太伯(たいはく)の子孫だ」と言った。”
という記載があります。
呉の太伯とは、中国周王朝の古公亶父(ここうたんぽ)の長男で、紀元前12-11世紀の人物です。おおまかな流れは、
”周王朝(黄河流域中原)にいた太伯が、やがて揚子江下流域に行き、もともと住んでいた倭人とともに呉を建国します。時代を経て、呉は越(えつ)との戦いに敗れ(紀元前473年)、呉の地を追われ、四散しました。そのなかで、朝鮮半島に逃れた人々、あるいは海で逃れた人々が、九州北部にやってきました。”
となります。
図示します。

「それがいつか?」について、「資治通鑑」という中国史書のなかに、興味深い記載があります。
「資治通鑑」とは、中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂した編年体の歴史書です。坂本龍馬、西郷隆盛、水戸光圀、北畠親房、 そして毛沢東が愛読したとも言われています。
呉亡条記事に、「日本又云、呉太伯之后 、盖呉亡、其支庶入海為倭」とあります。この記事から、
”紀元前473 年、越王勾践(こうせん)は呉王夫差(ふさ)を打ち負かした。『資治通鑑前編』に「呉は太伯から夫差に至るまで二十五世あった。今日本国はまた呉の太伯の後だというのは、つまり呉が亡んだ後に、その子孫支庶が海に入って倭となったのである」とある記述が意味するところは、呉人が亡国の後四散して、一部が海を跨いで東進し日本にたどり着いたということである。”(「日中歴史共同研究」より)
ということになります。
、呉が越に敗れた後、多くの人々が朝鮮半島に逃れたことでしょう。そして、朝鮮半島を南下して、朝鮮半島南部に住み着き、さらに対馬、壱岐まで渡った人々もいたことでしょう。そして、ついに、九州北部に上陸したと、推定されます。なかには、舟で呉から日本に直接漂着した人々もいたと思われます。
呉が越に敗れた年は紀元前473年ですが、その後、朝鮮半島に行き着き、さらに九州北部に上陸するには、相当年かかったことでしょう。
先に、天孫降臨の年を、紀元前400~紀元前450年頃と試算しましたが、ほぼほぼこの年代と合ってくることが、確認できるかと思います。
もちろん、中国本土から逃れてきたのは、この年代だけではないはずです。
呉をお滅ぼした越は、紀元前334年に、楚(そ)の国に滅ぼされます。そして、その楚も、紀元前223年に、あの始皇帝の秦(しん)に滅ぼされます。こうした戦乱のなかで、多くの人々が戦乱を逃れ、朝鮮半島、あるいは日本にたどりついたと考えられます。
さらには、もっと時代をさかのぼれば、周が東周となった時代(紀元前771年)にも、動乱はあったわけです。そのようにとらえると、春秋戦国時代(紀元前770-紀元前221年)にわたる長い時間をかけた移動があったのではなすいかと、推察されます。そのなかの一大イベントが、「国譲り」と「天孫降臨」だったというわけです。
ちなみに、”将来の成功を期して苦労に耐えること。”を意味する故事熟語に「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」がありますが、これは呉と越の戦いのなかで生まれた熟語です。
”中国春秋時代、呉王夫差(ふさ)が、父の仇である越王勾践(こうせん)を討つために薪の上に寝て復讐心をかきたて、長い艱難(かんなん)の末にこれを破った。一方、会稽かいけい山で夫差に敗れた勾践は、苦い胆を寝所に掛けておき、寝起きのたびにこれをなめてその恥を忘れまいとし、のちに夫差を滅ぼしたという故事から。「臥薪」「嘗胆」ともに越王勾践の故事とする説もある。”(「新明解四字熟語辞典」より)
中国で生まれた熟語の由来が、われわれ現代の日本人にも関連しているかと考えると、面白いですね。
では、以上のことに科学的根拠はあるのか、ですが、いくつか挙げたいと思います。
まず、この時代すなわち弥生時代に、日本に鉄器および青銅器が大陸からもたらされたことが知られています。これは、単なる貿易ということのみならず、当然、人の移動もあったことでしょう。
弥生式土器が作られるようになったのも、この頃からです。
<弥生式土器>

イネも、日本にもたらされました。最近の研究では、その時期は紀元前1000年頃までさかのぼるのでは、という説も出されています。そして、温帯ジャポニカ米(水稲)については、DNA解析の結果、揚子江流域が原産であることが報告されています。
そして極め付けは、ヒトのDNA分析結果でしょう。
「古代揚子江下流域の古代人の骨と、北部九州、山口の渡来系弥生人の骨のミトコンドリアDNAが一致した」
との調査報告があります。
(1999年、中日共同調査団)
まさに、
揚子江下流域(呉) ⇒ (朝鮮半島) ⇒ 九州北部
の流れに、文献、考古学および科学的根拠が一致していることがわかります。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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