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太宰府は、倭国の都だった!?(4) ~太宰府は当時の東アジア最大の羅城だった!

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太宰府は、倭国の都だった!?(3) ~古代山城は、何を守っていたのか?

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太宰府は、倭国の都だった!?(2) ~ 太宰府遺構が物語ること

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太宰府は、倭国の都だった!?(1) ~ 「遠の朝廷(とおのみかど)」とは?

前回まで、「日本人は、いつどこからやってきたのか?」というテーマでお話ししてきました。何せ壮大なテーマですから、計25回にもわたり、また文化的な側面についても触れました。


さて、3月27日に、拙著「図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎」シリーズ第二弾「その後の邪馬台国から日本国誕生の秘密まで」を出版いたしました。昨年8月出版の前著「神話の世界から邪馬台国まで」の続編で、邪馬台国はその後どうなったのか?、そして大和朝廷との関係は?、など、歴史の授業では教えない話を、一つのストーリーでまとめたものです。


今回は、その一部を公開します(本の編集の都合上、内容は若干異なります)。

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ここまで、九州北部(九州王朝)から畿内(大和朝廷)へと権力移動したとの仮説を立てて、考察しました。そして九州王朝の都は、卑弥呼の邪馬台国の時代には福岡県博多湾岸にあったこと、その後権力の中枢を司る王宮は、王が代わるたびに移動したと考えられます。

では最終的に、九州王朝の都はどこにあったのでしょうか?。


突然ですが、万葉集の歌を紹介します。
柿本朝臣人麿、筑紫國に下りし時、海路にて作る歌二首
303 (略)
304 大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ

一般的にはこの歌を
“大君の遠く離れた政庁へと行き通い続ける海峡を見ると、神代の昔が思われる。”
(岩波古典体系より)と訳して、「遠の朝廷(とおのみかど)」を、地方政庁と解釈してます。
つまり、「遠の朝廷」=「筑紫国」=「地方政庁」というわけです。

確かに、「筑紫国」は、大和から見ればはるかに遠いわけですから、一見何も問題なさそうです。しかしながら、一つの地方政庁に過ぎないところを、わざわざ「朝廷(みかど)」と呼ぶのも、何となく違和感がありませんか?。

これに対して古田氏は、
1.「朝廷」は中国の古典「四書五経」以来の言葉であり、すべて「天子の政治の場」を指している。日本の史書である「続日本紀」にも「朝庭」が再三出てくるが、すべて天皇家中心の権力の場のことである。その「朝廷」を、「筑紫国」=「地方政庁」として、軽々しく使うはずはない。
2.万葉集で使われている「遠の朝廷」は9例あるが、そのうち7例は、「筑紫国」を指している。残りの2例は、「越国」を指している。
と分析しました。

以上より、「遠の朝廷」とは、“神代に「朝廷」があったところである。”と指摘したうえで、“かつて筑紫国に朝廷があったことを示している。”としました(「越国」については、継体天皇出身地との関連を指摘)。

いかがでしょうか?。なお、ここでの「遠の朝廷」は、一般的に「地方政庁だった」とされている「太宰府」を指していることは、異論がないところです。

ここで、「太宰府」について、みていきましょう。

太宰府とは、一般的には
“7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。”(Wikipediaより)
とされてます。「太宰府政庁」と呼ばれる所以です。

太宰府の「府」は、さまざまな使われ方がされてます。たとえば、
・「政庁」の意味
王府。各地に王として封じられた皇族が軍事と行政の拠点として開いた政庁
・「地区」の意味
京府。 唐以降の歴代王朝において、都や陪都として機能した大都市の副称。
などです。

このように、都という意味があります。日本でも、「大阪府」「京都府」など、当時の国の中枢だった都市に対して名づけられていますね。

一方、“地元では、史跡は「都府楼跡」(とふろうあと)あるいは「都督府古址」(ととくふこし)などと呼称されることが多い。”(Wikipediaより)とのことです。

<太宰府正殿跡(都府楼跡石碑)>
太宰府都府楼跡 
(Wikipediaより)

ここで、宋書倭国伝を思い出してください。倭の五王の一人、が、宋順帝よりもらった位が、
使時節(しじせつ)・都督倭(ととくわ)新羅(しらぎ)任那(みまな)加羅(から)秦韓(しんかん)慕韓(ぼかん)六国諸軍事(りっこくしょぐんじ)・安東大将軍・倭王
でした。
つまり、「都督府」とは、都督となった倭王の武がいたところ、ということになります。実際には、武の時代からだいぶ時代が経ってますので、武が太宰府にいたかはわかりませんが、太宰府近辺にいたとみてさしつかえないでしょう。また、「都府楼」という言葉も、都があったことを、彷彿とさせますね。

さらに、太宰府政庁跡には、「紫宸殿(ししんでん)」という字(あざ)名が残ってます。
「紫宸殿」とは、
“内裏において天皇元服や立太子、節会などの儀式が行われた正殿。「南殿」や「前殿」、古くは「紫震殿」とも。”(Wikipediaより)
であり、ようするに、天子がいたところです。今でも京都御所にありますね。
このような地名を、昔の人が自由勝手につけられるはずもありません。当然、何がしかの由緒があってつけられたはずです。

<京都御所紫宸殿>
京都御所紫宸殿 
(Wikipediaより)

他にも、天皇が住んだ宮殿を示すと考えられる「大(内)裏」(だいり)や、「御所の内」という字名が残ってます。また地元で「朱雀大路」と呼ばれる南北中央大路があり、「朱雀門」礎石とみられるものも発掘されています。

こうしたことを考え合わせると、
「遠の朝廷」=「太宰府」=「遠い昔の都」
と考えるのが、自然ではないでしょうか?。

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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