土器が語ること(8) ~ 亀ヶ岡式土器が及ぼした影響
亀ヶ岡式土器とは、前にも触れましたが、
”亀ヶ岡式土器(かめがおかしきどき)は、亀ヶ岡遺跡(青森県つがる市)の土器を基準とする東北地方の縄文時代晩期の土器の総称。亀ヶ岡式文化(かめがおかしきぶんか)は、今から約3000年ほど前に始まり、紀元前3-4世紀に終末を迎えた。亀ヶ岡式土器の大きな特徴は、様々な器形に多様で複雑怪奇な文様が描かれ、赤色塗料が塗布されている点である。西日本でもみられる土器だが出土は限られている。”(Wikipediaより)です。
遮光式土偶が世界的にも有名ですね。
<遮光式土偶>

(東京国立博物館蔵)
この亀ヶ岡式土器ですが、突帯文土器など、西日本の土器にも影響を及ぼしたことがわかっています。
その分布範囲の推移を、縄文晩期前葉~縄文晩期後葉(九州では弥生早期)~縄文晩期末(同弥生前期)で、みてみます。
<東日本系土器の西日本への影響>

(「新潟県の弥生時代前期~中期」(渡邊裕之、新潟県教育庁文化行政課)より)
縄文晩期前葉には、淡路島~兵庫県あたりまででしたが、縄文晩期後葉(九州においては弥生早期)には、何と九州北部~九州中部にまで、範囲を広げました。それが、縄文晩期(九州では弥生前期)には、岡山県~四国東部まで後退してます。
縄文晩期は、九州では弥生時代早期ですから、九州北部で水田稲作が始まった頃です。ここで亀ヶ岡式土器の影響範囲が次第に東へ後退する時期は、ちょうど水田稲作が東へ伝播する時期と重なることは、注目です。
このように、亀ヶ岡式土器が、西日本の九州にまで影響を及ぼしていたことがわかりますが、さらに驚くべき発見がありました。
亀ヶ岡土器が、亀ヶ岡遺跡から約2000km離れた沖縄県北谷町の平安山原B遺跡から出土したのです(以前紹介しましたが、再掲します。)。
”縄文時代晩期(約3100~2400年前)の東北地方を代表する「亀ケ岡式土器」と一致する特徴を持つ、沖縄県北谷町で出土した土器片について、調査した弘前大は19日、「西日本で作られた可能性が高い」と発表した。沖縄まで亀ケ岡文化が伝わったことが分かり、当時の交流を示す手掛かりとなるとしている。
土器の模様が、北陸や関東で作られた亀ケ岡系土器に似ているため、「北陸や関東に住んでいた人が、西日本へ移動し製作したのではないか」と同大の関根達人教授(考古学)は推定。”(河北新報オンライン、2017年5月20日)


(「河北新報オンライン、2017年5月20日」より)
亀ヶ岡式土器は、まさに日本列島全体に影響を及ぼしたことになります。
ここでさらにもう一つ、興味深い研究成果を紹介します。
ひとつは、九州北部での最初の弥生土器の文様に、亀ヶ岡式土器の影響がある、というものです。これは、先に挙げた亀ヶ岡式土器の影響範囲の話と一致します。
”福岡県や佐賀県など北部九州での調査の結果、最初の弥生土器文様の大部分は、東北縄文の亀ヶ岡式文化の文様に起源することが明らかになりました。分析の結果、土器の粘土は地元産、文様は東北そのものであり、東北縄文人が北部九州に来て土器製作に関わったと考えました。また、東北の漆器も多数北部
九州に来ており、ものづくりでの東北縄文文化の影響は計りしれません。”(「弥生文化のルーツの解明」(国学院大学栃木短期大學 教授 小林青樹)より)

土器としては、突帯文土器のことかと思われますが、土器のみならず、以後隆盛を極める銅鐸の文様にまで影響を及ぼした、という指摘は、興味深いですね。考えてみれば、土器に影響を及ぼしたのであれば、銅鐸にも影響を及ぼしたとしても、何ら不思議はありませんね。
さらに、小林教授は、
”中国北方の青銅器・鉄器文化の再検討の結果、戦国七雄の一つである燕国の鉄器などの痕跡を北部九州各地で確認したことです。これまでの定説よりも約250年前の紀元前4世紀中頃、すでに燕国や東方の遼寧地域との間に直接的な交流があったことを明らかにしました。
この2つの発見により、弥生文化の成立は、想像を超える遠隔地とのダイナミックな交流によって達成されたものであることがわかりました。”
としてます。

(以上「弥生文化のルーツの解明」(国学院大学栃木短期大學 教授 小林青樹)より)
”弥生文化の形成に、中国北方地域からの影響もあった”、としてます。朝鮮半島経由でもたらされたのか、或は海上ルートなのかは別として、これも考えてみれば、充分にありうる話でしょう。
以上のとおり、弥生文化は、中国の江南や朝鮮半島のみならず、中国北方、そして日本の東北地域からの影響を受け、複合的に形成された、ということになります。何とも、壮大な話ですね。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。


にほんブログ村

土器が語ること(7) ~ 突帯文土器と遠賀川式土器の分布範囲が違う理由とは?
前回、縄文時代から弥生時代へと変わる過渡期における代表的な土器である、突帯文(とつたいもん)土器と遠賀川式(おんががわしき)土器を取り上げ、その違いについて、お話ししました。
突帯文土器は、在地の縄文系の人々のところへやってきた渡来系弥生人が教えて技術を取り入れ、縄文土器をベースに製作されるようになったと推定されます。
一方、遠賀川式土器は、その後、集団でやってきた渡来系弥生人が主体であり、環濠や青銅器副葬などの文化とともに、持ち込まれたと推定されます。そしてこの集団が、首長となり、地域一帯を支配したと考えられます。
このように、異なるバックボーンをもつ2つの土器ですが、実は興味深いデータがあります。
それは、2つの土器の日本列島での分布領域に、大きな違いがあることです。
やや見づらいですが、図の通り、突帯文土器は、西日本のみに分布してます。九州北部から東へ伝播したものの、その東限は、福井県から愛知県のラインにかけてであり、そこで伝播が止まったことになります。ここで東日本は、縄文土器である亀ヶ岡式土器分布領域であることは注目です。つまり東日本では、突帯文土器が伝わってきたとしてもそれを受け入れず、従来の亀ヶ岡式土器を使い続けたということになります。
一方、遠賀川式土器です。
西日本は「遠賀川式土器」主体で、この領域は、「突帯文土器」の分布とほぼ一致します。そして、中部・北陸・関東地方は「搬入遠賀川式土器+模倣土器」、東北地方は「遠賀川式模倣土器」のみです。
ここで、「遠賀川式模倣土器」とは、遠賀川式土器と類似した土器で、遠賀川式土器を模倣して作られたと考えられている土器で、一般的に「遠賀川系土器」と呼ばれます。
つまり、「遠賀川式土器」は、突帯文土器の分布領域の東限の福井県から愛知県のラインで止まりましたが、「遠賀川系土器」はさらに東へ北へと伝播しました。
最北の「遠賀川式土器」は、「砂沢遺跡」(図参照)から出土した土器です。
”青森県弘前市にある縄文~弥生時代の遺跡。縄文時代終末期の砂沢式土器の標式遺跡であり,古くからその存在は知られていた。 1987年から調査され,砂沢式土器に伴う水田の跡が確認された。それとともに弥生時代前期の土器である遠賀川系の土器が出土し,大きな話題となった。垂柳遺跡で確認された水田より古い時期にさかのぼることは明らかで,北九州に成立した弥生文化はきわめて速い速度で本州北端まで達したことが確認された。しかし稲作農耕はこの地に定着することなく終ったとされる。 ”
(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
このように、遠賀川系土器と弥生時代水田遺跡の分布域が重なることが知られてます。このことから、水田耕作技術をもった集団が、遠賀川系土器を携えて、東へ北へと移動していったと、推測されます。
興味深いのは、その移動速度が速かったこと、そして東北地方の方が、関東地方より早く伝わったと考えられることです。
普通であれば、中部地方→関東地方→東北地方の順に伝播するはずですが、少なくとも現在までの発掘状況からすると、そうはなっていません。むしろ、最北端の青森県砂沢遺跡が、弥生時代前期という、きわめて早い時期に、水田耕作が始まっています。
こうしたことから、伝播は、陸地を伝わったのではなく、海上ルート、特に日本海から伝わったという見方が出ています。縄文時代から、日本海による交易ルートがあったと推定されてますから、不思議ではありませんね。
(平成20年度 桜土手古墳展示館特別展「古の農ー古代の農具と秦野のムラ」より)
やや見にくいのですが、赤色のルートが、水田稲作の広がり、青色のルートが、「遠賀川式土器」の伝播を示しています。「遠賀川式土器」は、日本海を北上するルートと、内陸部を北上するルートがあったと推定されます。当時の人や物資の移動事情を考えれば、海上ルートが早かったのも、うなずけます。
では、なぜ「突帯文土器」は、伊勢湾付近で止まり、「遠賀川系土器」は、東北地方へと伝播したのでしょうか?。
その要因はいろいろあるでしょうが、やはり水田耕作技術との関連が強いと考えられます。つまり、”「突帯文土器」の時代の水田耕作技術は、小規模で灌漑技術などが進んでいなかったため、東北地方には受け入れられなかった。一方、「遠賀川系土器」の時代になり、渡来系弥生人の数も増え、水田耕作技術も進み、受け入れられるようになった。"
というストーリーです。
縄文時代の晩期は、気候が寒冷化したものの弥生早期から温暖化し始めたので、そのことも関係しているかもしれません。稲の品種改良により、耐寒性のある品種ができた可能性もあります。
いずれにしろ、水田耕作の東進・北進に連れ、渡来系弥生人も、関東・東北地方へ、相当数移住したことでしょう。
ここで注目すべき点があります。搬入された「遠賀川式土器」と、その「遠賀川系土器」を模倣して現地で製作された「遠賀川系土器」は、混在して出土することです。ということは、やってきた渡来系の人々と、現地の縄文人は、共存していたことになります。これは、九州北部においても同様で、「突帯文土器」と「遠賀川式土器」が、同じ遺跡から出土してます。
通常であれば、文化の異なる人々がやってきたのであれば、そこで大きな争いになるはずですが、そうではなく、お互い協力し合いながら、或は少なくとも棲み分けをしながら生活していたわけです。実際、遺跡や出土物をみても、大きな戦いの痕跡は、少ないとの報告もあります。
これは素晴らしいことではないでしょうか。近代においても、日本人は外来の文化をうまく取り入れて発展してきた、と言われていますが、そういった気質は、古代から引き継がれているのかもしれませんね。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。
にほんブログ村