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古墳は語る(28)~まとめ

ここまで27回の長きにわたり、縄文時代の墓から弥生時代の墳丘墓、そして古墳時代の前方後円墳などを、時代を追ってみてきました。ここからわかることは、特に弥生時代以降は西から東への伝搬があったということです。
また前方後円墳については、その起源はまだよくわからないものの、少なくとも畿内が発祥ではないことは明らかです。そして私たちが歴史の教科書で習った「前方後円墳は、大和王権の全国支配の象徴である」といういわゆる「前方後円墳体制」なるものは、少なくともデータからみる限りはなかった、ということもわかりました。

話が多岐にわたりましたので、ここで整理します。

各時代の墓
a.縄文時代のお墓
・土壙墓(どこうぼ)が一般的
b.弥生時代の墓
・甕棺墓、支石墓、石棺墓、木棺墓
・墳丘墓 方形周溝墓(方形低墳丘墓)  
c.古墳時代
円墳・帆立貝形古墳・方墳・上円下方墳・前方後円墳・前方後方墳・双方中円墳・双方中方墳・双円墳・八角墳

支石墓
・縄文時代最晩期に、韓半島南端部から、対馬・壱岐を経由して、佐賀県唐津市・福岡県糸島市などの玄界灘沿岸に到達した。そこから九州西北部や佐賀平野へと伝播した。北西および南へは伝播しましたが、東つまり隣の福岡平野には伝播しなかった。
・弥生時代中期以降、終焉する。

甕棺墓
・中国戦国時代(紀元前403年-同221年)の
戦乱を逃れて日本列島にやってきた人々が九州北部に伝えた。
・福岡平野の東、遠賀川下流域より東には、全く分布していない。
・弥生時代後期に、なぜか急に使用されなくなり、木棺や石棺に変わっていく。

楯築墳丘墓
・弥生時代最大規模である。
特殊器台・特殊壺が出土し、弧帯文石があり、九州北部から伝播している可能性

四隅突出型墳丘墓
・広島・島根・鳥取というエリアと、越すなわち北陸(福井・石川・富山)に多く分布。日本海を介した文化圏。
・四隅突出型墳丘墓は、方形貼石墓の四隅を突出させて発展させた可能性が高い。
・弥生時代の終焉とともに、忽然と姿を消す。

積石塚
・中国遼河文明の積石塚が、朝鮮半島に伝播した。
・徳島県鳴門市の萩原墳墓群にあるものが3世紀前葉の築造で、国内最古の積石塚とされている。前方後円墳の祖型として注目される。

古墳
・全国には約25万基前後の古墳が分布するが、その約95%が円墳。
・最も多いのは兵庫県で16,577基、以下、千葉県13,112基、鳥取県13,094基、福岡県11,311基、京都府11,310基とつづき、全国合計では161,560基となる。
・さまざまな形がある。
・内部構造は、竪穴式石室、横穴式石室に分かれる。

■前方後円墳
a.形の由来

・器物模倣説、
宮車模倣説、楯模倣説、家屋模倣説、壺模倣説、円丘・方丘合体説、前方部祭壇説、外来影響説、工法発生説など。

b.祖型
・近年は前方後円墳の先駆けは「陸橋付円形周溝墓」ではないかと考えられている。
・最古は、徳島県の名東(みょうどう)遺跡(紀元前1世紀)。
・最古の「方形周溝墓」では「東武庫(ひがしむこ)遺跡」(尼崎市、紀元前5世紀)。他にも福岡県糸島市にある王墓「三雲南小路(みくもみなみしょうじ)王墓」(紀元前1世紀頃)。
「陸橋付周溝墓」が「前方後円墳」の祖型であるなら、「前方後円墳」の発祥は大和ではなく、四国東部、播磨、あるいは九州北部あたりの可能性が高い

c.分布

・全国で約4700基(5200基とも)。
・一番多い県は、千葉県(733基)、2位が東国の群馬県(455基)、3位も東国の茨城(391基)と続く。ようやく奈良県が4位(312基)で入るが、5位が福岡県(267基)、6位が鳥取県(252基)と続き、大阪府が7位(202基)。
・前方後円墳の分布は、数からみれば東国に多く、特に中枢域や西国で減少する古墳時代後期に急増していること、西国でもたとえば九州北部では、古墳時代中期に衰退するものの後期に隆盛を極める。そしてこうしたデータから見る限り、「前方後円墳が大和朝廷全国支配の象徴である」という通説は論拠に乏しい。

c.最古
・最古級である1期前方後円墳の数量第1位は、筑前つまり邪馬台国所在地として挙げている九州福岡県博多湾岸。第二位の播磨、第四位以下の備前~備中、讃岐と、瀬戸内海沿岸。大和は第3位。

d.天皇陵
・宮内庁比定の古代天皇陵のうち、実在とされる10代崇神天皇以降42代文武天皇までの32陵のうち、14陵が間違い。44%が、間違い。

e.天皇陵と宮の関係
・天皇宮と天皇陵は、多くが同じ府県にない。10代から42代の32天皇のうち、没時の宮と陵が同じ府県にないのは、15代であり、実に47%にものぼる。
・”畿内においては、各地域の豪族が興亡を繰り返していたのであり、それをあたかも一つの系譜としてつながっているように、古事記、日本書記が作文した。大和王権は、それらのうちの一つにすぎなかった、すなわちone of them に過ぎなかった。”という仮説が導き出される。

f.前方後円墳体制
1.数、分布 2.築造の時代推移 3.祖型、4.規模 からみる限り、「前方後円墳体制」なるものがあったことを立証しうるデータはない。

g.卑弥呼の墓
・奈良県の箸墓(はしはか)古墳は、1.築造時期、2.形状、3.規模、4.内部構造のうち、3の規模、4の内部構造の条件が合致しない。
平原1号墳、須玖岡本遺跡、祇園山古墳、津古生掛古墳、那珂八幡古墳が候補である。
・博多湾岸近辺にあったと推定できる。

h.前方後円墳築造方法
自然の地形を活かしながら加工整形して築造された可能性が高い。

i.中国墓制が与えた影響
倭国の古墳に、魏の曹操「薄葬令」が影響を及ぼした可能性が高い
九州王朝     ・・・中国南朝の影響
大和王権(王朝)・・・中国北朝の影響?

J.朝鮮半島の前方後円墳
南西部にある前方後円墳は、九州王朝から派遣された豪族の可能性が高い。

装飾古墳
・九州中北部から山陰・北陸・関東・東北地方太平洋岸に分布しており、海上ルートで伝搬したと考えられる。
・それは古代からの交易ルート上にある。交易を担ったのは「海人族」であり、本拠地は九州北部である。
・装飾古墳のある地域は、九州王朝の文化圏だったとも考えられる。

阿蘇のピンク石棺
「ピンク石」正確には「阿蘇山溶岩凝灰岩」を使用した石棺が、畿内にみられるが、出自は九州中北部と考えられる。

以上のとおりです。
大枠の話として、「中国本土、朝鮮半島→九州北部→西日本→東日本」という流れがあることがわかりました。

古墳にいたるまでに、支石墓、甕棺墓、四隅突出型墳丘墓など、さまざまな型式の墓がありましたが、古墳時代の終焉の頃には、すべて終焉していることがわかります。
その後古墳時代に入り、前方後円墳が隆盛を迎えます。ところが大和王権の全国支配の象徴とされる「前方後円墳体制」なるものは、データで見る限り存在していなかったこともわかりました。

ではその当時の古代日本の支配体制はどのような状況にあったのか、です。

九州王朝があったことは、繰り返しお話してきました。では九州王朝が中央集権国家のように完全に日本全国を支配していたのかといえば、そうではなかったでしょう。各地域は有力豪族たちが統治していたと推測します。九州王朝は、そうした豪族たちとゆるやかな同盟関係を結んでいたと考えます。

その地方の豪族たちは、当然のことながら群雄割拠しながら覇権を競っていたはずです。畿内もそうでしょうし、関東地方もそうだったのでしょう。そうした動きが、古墳の分布や推移などにも見事に表われていると言えるのではないでしょうか。

★「前方後円墳体制」はなかったのか?

<仁徳天皇>
仁徳天皇 
(「東錦昼夜競 仁徳天皇」(部分)楊洲周延画 明治19年(1886年)より)

<大仙陵古墳、伝仁徳天皇陵>
300px-NintokuTomb.jpg
(Wikipediaより)

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古墳は語る(27)~阿蘇のピンク石とは?

前回は、装飾古墳という、異国情緒漂う美しい古墳の話をしましたが、もうひとつ興味深いものがあります。

名前は「阿蘇のピンク石」です。正確には「阿蘇山溶岩凝灰岩」のうちの、熊本県宇土産の石を指します。

「ピンク石」という奇妙な名前がつけられてますが、名前のとおり、ピンク色をしています。そしてこの石を石棺に使用している古墳があるのです。


<今城塚古墳石棺、大阪府高槻市>
今城塚古墳石棺 
(「NIKKEI STYLE」(2011.11,1)より)

被葬者は、第26代の継体天皇ではないか、とされてます。

こうした古墳が、少なからずあります。もちろん石棺に使用するのは一般的であったわけですから、それはそれでいいのですが、問題はその古墳の所在です。なんとそのエリアは、九州熊本県からはるか遠く離れた、近畿地方まで広がっているのです。


<ピンク石を使用した石棺分布図>
 

ピンク石棺一覧


ごらんのとおり、ピンク石出土地である熊本県宇土市の周辺には、ひとつしかなく、あとは岡山県に2つ、さらに西の畿内に集中しているという、特異な分布です。

ではこうした分布は、何を意味しているのでしょうか?。

その謎を解く前に、まず、なぜわざわざ畿内の石棺に、遠い熊本県阿蘇のピンク石を使用したのか?、という疑問があります。

当然海路で運んだわけですが、下の図は今城塚古墳ピンク石の運搬推測ルートです。


石棺石材産地 
(大阪府高槻市インターネット歴史館より)

ごらんのとおりのルートで、運ばれたと考えられますが、石棺材としては他にも数多くあったわけです。わざわざ遠くから運ぶ必要はなかったはずです。

これはあくまで推測ですが、ひとつにはその「色」にあると思われます。石棺にを塗ることは古来から行われてきました。ピンク石も「朱色」の系統ということで、使われたのでしょう。

では、なぜ石棺に「朱」を塗ったのか、です。これも推測ですが、装飾古墳の文様同様、「魂を封じ込めたりまた悪しきものから被葬者を護る辟邪(へきじゃ)」という意味があったのではないかと、考えられます。

そうしたことで、今城塚古墳では、継体天皇関係者が九州阿蘇のピンク石を気に入り石棺に使用した、ということになります。

ただし、話はこれで終わりません。
それにしても、なぜそこまでしてわざわざ畿内からはるか遠い九州阿蘇の石を使わなければならなかったのか?、という疑問があります。

阿蘇にて巨大な石を切り出し、それを港まで運び、舟で瀬戸内海を運搬してきたわけですから、たいへんな時間、労力と費用をかけてます。そこまでしてピンク石を使う理由は何だったのか?、という疑問です。

「継体天皇はそのような思想を特に強くお持ちの方だったのだ。」
ということなのかもしれませんが、もう少し掘り下げて考えてみましょう。

そもそも今城塚古墳が本当に継体天皇陵なのか?、という問題があるわけですが、まず
a.今城塚古墳は継体天皇陵である
として、考えてみましょう。

ピンク石使用石棺の被葬者をみると、大半は不明です。しかも天皇陵とされているものは、今城塚古墳以外は無いに等しいと言っていいくらいです。
長持山古墳が、19代允恭(いんきょう)天皇陵とされる市ノ山古墳の陪塚といわれているのと、、植山古墳が、山田高塚古墳へ改葬前の33代推古天皇と竹田皇子の合葬墓とされているくらいです。それも単に「そうらしい」という推測にとどまります。あとは天皇家は関係がありません。

ここで疑問が出ます。

なぜ、それほどまでに大きな労力をかけたピンク石の石棺は、継体天皇陵以降、ピタリと使わなかったのか?。

普通に考えれば、何らかの強い思想的背景があってピンク石の石棺を導入したわけですから、少なくともその後も継続して導入してもよさそうなものです。ところがそうではないようです。もっとも、発掘していない天皇陵が多くあるので、その中にある可能性はありますが・・・。

この事実は、継体天皇は、もともとの初期大和王権とは異なる系統である、ということを強く示唆します。

次に、
b.今城塚古墳は継体天皇陵ではない
としてみましょう。

ピンク石は、当時としては希少できわめて高価なものだったでしょう。すると、天皇家に匹敵するあるいはそれ以上の力をもった豪族が、畿内にいたことになります。天皇陵の石棺より高価なものを使用することは、普通に考えれば許されないはずだからです。

以上のとおり、今城塚古墳が継体天皇陵である、ない、のどちらとしても、以前紹介した、王朝交代説(畿内では、各地域の豪族が覇権を競い合い、王朝も交代したとする説)を支持する状況にある、ということがわかります。

そしてどちらにしても、彼らは九州阿蘇と深いかかわりがあったのでしょう。そうでなければ、あそこまでピンク石にこだわる必要はないですから。

阿蘇といえば、以前お話した中国史書「隋書倭国伝」のなかのあの有名な一節を思い出します。

阿蘇山という山がある。突然噴火し、その火が天にも届かんばかりとなる。人々はこれを異変だとして、そのために祈祷祭祀を行う。如意宝珠(にょいほうしゅ)という珠がある。その色は青で、大きな鶏卵ほどもあり、夜には光を発する。倭人は「魚眼精(魚の眼)」といっている。”

隋書倭国伝に描かれている山は、阿蘇山だけです。畿内の山はもちろん、富士山も描かれていません。阿蘇山が特記すべき山だったということは、倭国は阿蘇山の近くすなわち九州にあった、ということでしょう。そして、この描写からは、阿蘇山が信仰の対象として崇められていた、ということがわかります。

詳しくは
隋書倭国伝を読む その6 ~ 阿蘇山が象徴的に描かれている理由とは?
をお読みください。

ピンク石を使用した理由も、阿蘇山が地域の人々に信仰されていたからでしょう。そしてその有難い石をわざわざ遠くから取り寄せた、ということは、自分あるいは祖先の出自がそこにあったからだではないか?、という仮説が出てきます。

実は、今城塚古墳の近くには、筑紫津(つくしつ)神社があります。

”「盞鳴尊(すさのおおのみこと)が祀られている。 筑紫からやってきた素盞鳴尊がこの地に泊まり旅の安全を祈願した。
 素盞鳴尊を敬った土着住民が「津」を頂き道祖神に筑紫津神社と命名して鎮守としたのが神社の始まり。
 芥川の水に因む江をつけ周辺一帯を「津之江」と呼ぶ起源になった。
 こじんまりした筑紫神社内には素盞鳴尊の娘にあたる市杵嶋姫を祀る神社や様々な碑がある。」
(「高槻市観光案内」から)

この地に、すさのおのみことが、筑紫すなわち九州北部からやってきた、という由来です。

津の名のとおり、かつてはここに淀川の港があったと考えられてます。
今城塚古墳の出土品の中には、円筒埴輪にヘラで「帆船絵」が描かれていたものがあります。

九州北部といえば、海人族の拠点であり、弥生時代より全国各地に勢力を広げたことは、すでに何度もお話してきました。

こうした流れでみると、
ピンク石の被葬者あるいは先祖の出自=九州北部
という可能性が高まりますね。

そしてここでいう九州北部とは、九州王朝のことです。
となると、
ピンク石の被葬者あるいは先祖の出自=九州王朝の系統
ということになりますね。

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古墳は語る(26)~装飾古墳分布の不思議

石室内部に、不思議な模様が描かれている古墳があります。「装飾古墳」と呼ばれている古墳です。

"墓室の壁面や棺などに,絵具や線刻で絵画,文様の装飾を施した墓のこと。中国の漢~唐代,朝鮮の高句麗時代,日本の古墳時代後・末期の墓にみられる。絵画には人物,馬,馬具,武具,舟などもみられ,文様には同心円文や三角文などの幾何学文がある。赤,青,白などの色が多く用いられている。”(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より)

”なお、7世紀末から8世紀初めの奈良県高松塚古墳やキトラ古墳は、装飾古墳とは系統を異にするもので壁画古墳と呼び分けている。”(Wikipediaより)

<王塚古墳(福岡県)>
王塚古墳 

石室内全体に同心円文、三角文、騎馬人物、双脚輪状文、蕨手(わらびて)文、靭などの文様が描かれています。

<チブサン古墳(熊本県)>
チブサン古墳 

石屋形の内側に三角文や円文が不思議な形で組み合わされて描かれています。

<虎塚古墳(茨城県)>
虎塚古墳 

石室内には、奥壁に大きく2つの円文が描かれ、靭や大刀などが石室全体に赤い顔料だけで描かれています。(以上、九州国立博物館「装飾古墳データベース」より)

異国情緒が感じられ、何か中近東や東南アジアあるいは中南米の装飾を連想しますね。

”装飾古墳で文様が描かれる技法には、3種類の方法があります。
彩色は、天然に存在する鉱物や土を砕いて細かくした顔料(がんりょう)を使って、岩肌に文様を描く方法です。
線刻は、キリのような先のとがった道具で文様の輪郭を描く方法です線刻で描かれた古墳は、彩色された古墳に比べて数も多く広く分布します。
彫刻は、タガネなどの道具を使って立体的に文様を削り出したものです。”

”装飾古墳で描かれる文様には、大きくは幾何学文と具象文に分けられます。
幾何学文は、円文、三角文のほか、直線と曲線を組み合わせた直弧文、双脚輪状文などがあります。
具象文は、人間が使う道具や見えるものを表した文様です。魚や鳥、動物のほか、家や船、戦いの道具、また想像上の動物を描いた神獣などがあります。”

(九州国立博物館「装飾古墳データベース」より)

ところであの独特の文様は、どのように生まれ、またどのような意味があるのでしょうか?。面白く分析した論文があるので、紹介します。「装飾古墳にみる他界観」(白石太一郎、国立歴史民俗博物館研究報告 第80集 1999年3月)からです。

[論文]
北・中九州の装飾古墳は,石棺系,石障系,壁画系の順に展開する。このうち5世紀代に盛行する石棺系や石障系の装飾古墳の中心となる図文は,
魂を封じ込めたりまた悪しきものから被葬者を護る辟邪の機能をもつと考えられた直弧文と鏡を表わす同心円文である。やがてこれに武器・武具の図文が加わるが,これも辟邪の意味をもつものであった。
[解説]
論文は、あくまで九州の装飾古墳についてです。最初の段階である石棺・石障(板石で室内を区切る)系では、直弧文・鏡・武器・武具などの図文が中心ですが、すべて魂を封じ込めたりまた悪しきものから被葬者を護る辟邪(へきじゃ)の意味があったとしてます。
興味深いのは、同心円文は鏡を表している、としていることです。確かにそのようにも見えますね。つまり、古墳に副葬されている三角縁神獣鏡などの鏡もまた、辟邪(へきじゃ)の意味があるという解釈です。

[論文]
6世紀になると墓室内部に彩色壁画を描いた壁画系の装飾古墳が出現する。そこでも基本的なモチーフは5世紀以来の辟邪の図文であるが,新しく船や馬の絵が加わる。船のなかには大洋を航海する大船もみられ,舳先に鳥をとまらせたり,馬を乗せたものもみられる。この船と馬は死者ないしその霊魂を来世に運ぶ乗り物として描かれたものであり,海上他界の思想がこの地域の人びとの間に存在したことを物語る。6世紀後半には,一部に四神の図や月の象徴としてのヒキガエルの絵など高句麗など東アジアの古墳壁画の影響もみられるが,それは部分的なものにとどまった。
[解説]
6世紀になって表れた壁画系装飾古墳についてです。新しく船・馬が加わりますが、死者・霊魂を来世に運ぶ乗り物としてます。四神とは中国の神話に出てくる霊獣で、東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武のことです。ヒキアエルの絵とともに、高句麗など東アジアの影響もみられるとしてます。

<珍敷塚古墳、福岡県>
珍敷塚古墳 
(福岡県うきは市観光協会HPより)

珍敷塚古墳壁画




 

”左側の船は,鳥に導か れて太陽のかがやく現世から,月の支配する夜の世界,すなわち死者の世界へまさに船出しようとする情景を表したもの。これらの絵画全体が右端の舳先に鳥をとまらせた大きな船の上に描かれているものととらえることも可能。”と解釈されてます。


[論文]
一方,南九州の地下式横穴には,この地下の墓室を家屋にみたてた装飾が多用される。これはこの地域の人びとの間に地下に他界を求める思想があったことを示すものであろう。同じ九州でも北・中部と南部では,人びとの来世観に大きな相違があったことが知られるのであり,北・中九州の海上他界の考えは,海に開かれ,また東アジア諸地域との海上交易に活躍したこの地域の人びとの問で形成されたものと理解できよう。
[解説]
南九州の装飾古墳です。北・中九州の人々との他界観に違いがある、といのは興味深いですね。他界観というのは先祖から代々伝承されるもので、容易に変わるものではありません。ということは、南九州の人々と、北・中九州の人々とは、出自・成り立ちが異なることを示していると言っていいでしょう。

ところでこの装飾古墳ですが、その文様もさることながら、分布がたいへん特徴的です。
”装飾古墳は、日本全国に約600基があり、その半数以上に当たる約340基が九州地方に、約100基が関東地方に、約50基が山陰地方に、約40基が近畿地方に、約40基が東北地方にあり、その他は7県に点在している。”
”大半が九州地方、特に熊本県に集中している。”(Wikipediaより)


<装飾古墳の全国分布>
装飾古墳分布 
(九州国立博物館「装飾古墳データベース」より)

見ての通り、九州の北半分に集中しており、他に島根・鳥取・福井・石川県など日本海沿岸地域が目立ちますが、あとは瀬戸内海沿岸地域パラパラ見られる程度です。
ところが、東日本をみると、神奈川・千葉・茨城・福島・宮城県など、太平洋沿岸地域に数多く分布していることがわかります。上の虎塚古墳も、茨城県です。

このように、飛んで分布しているということは、陸地内部を伝播したのではなく、海上ルートで伝播したとみていいでしょう。すなわち、九州中・北部に住んでいた人々が、舟で移動していって伝えたということになります。

私のブログを長らくお読みくださっている方のなかには、この話を聞いて、どこかで聞いた話だな、と思われた方もおられるでしょう。

そうです。遠賀川式土器の伝播ルートと同じルート上にあるのです。
土器が語ること(7) ~ 突帯文土器と遠賀川式土器の分布範囲が違う理由とは?

水田稲作と遠賀川式土器の広がり
(平成20年度 桜土手古墳展示館特別展「古の農ー古代の農具と秦野のムラ」より)

やや見にくいですが、赤色が稲の伝播ルート、青が遠賀川式土器の伝播ルートです。九州北部から日本海に沿って、島根~福井~石川県と伝搬したのがわかります。別ルートで、瀬戸内海を東に経て、さらに関東まで伝搬したと推定されてます。

もちろん稲や遠賀川式土器の伝搬は紀元前のことですから、少なくとも数百年以上前のことです。しかしながら、稲や遠賀川式土器がこのルートで伝搬したと言うのは偶然ではなく、そこに日常の交易ルートがあったからのはずです。そしてその交易ルートは、海流の流れを利用したものでしょう。実際、太平洋側は黒潮、日本海側は対馬海流が北上してます。

そしてこの交易ルートは、古代から近代にわたるまで利用されてきたわけですから、装飾古墳もこのルートに沿って伝搬したとみていいでしょう。図では関東以北の海岸沿いへのルートが記載されてませんが、関東地方からさらに海流に乗って北上して、茨城~福島~宮城へと伝搬したと推定されます。

このように考えると、なぜ九州の装飾古墳が、飛び地のように関東、東北地方の沿岸部で発達したのか、その理由がよく理解できますね。

そしてその交易を担った人々こそ、「海人族」でした。「海人族」には古くは安曇氏、宗像氏などが代表的ですが、その本拠地はいずれも九州北部です。装飾古墳の被葬者は、安曇氏、宗像氏の系統、あるいはその末裔だった可能性があります。

こうしたことから、装飾古墳のある地域は、九州王朝の文化圏だったのではないか、という見方もできます。

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古墳は語る(25)~朝鮮半島の前方後円墳の被葬者は誰?

前方後円墳は、長らく日本列島のみに存在すると考えられてきましたが、1980年代になり、朝鮮半島南部の栄山江流域で発見されました。以降、現在まで計13基が確認されてますが、いずれも5世紀末から6世紀前半にかけて造られたものです。

今回は、その朝鮮半島の前方後円墳をテーマに、掘り下げます。「韓半島南部に倭人が造った前方後円墳ー古代九州との国際交流ー」(朴天秀、慶北大学考古人類学科教授)を参照します。

まず、被葬者は誰か?、です。

1.出現過程とその出自
[論文]
在地的な古墳系列を持たず、5 世紀末から 6 世紀前葉にかけて突如として現れることから、在地首長墓とは想定しがたい。(P4)

栄山江流域における前方後円墳の被葬者は、横穴式石室、繁根木型のゴホウラ製貝釧、栄山江流域産の土器の分布、江田船山古墳の副葬品のような百済系文物の分布から周防灘沿岸、佐賀平野東部、遠賀川流域、室見川流域、菊池川下流域などに出自をもつ複数の有力豪族と想定できる。(P5)

[解説]
在地の、例えば百済の王族の墓との説もありますが、「在地首長墓とは想定しがたい。」と一刀両断してます。そして、被葬者の出自は、九州北部としてます。

朝鮮半島前方後円墳

2.被葬者の性格と役割
[論文]
公州市丹芝里の横穴墓群の被葬者は、横穴墓の形態が周防灘沿岸と遠賀川流域のそれと類似する点から、北部九州地域の倭人として、その性格は百済王都の防御と関連する集団と推定することができよう。丹芝里横穴墓群の被葬者は、出自、出現時期、性格が栄山江流域の前方後円墳の被葬者と相関関係を見せ、前方後円墳被葬者の出自と百済王権との関係を雄弁に物語っている。
579年、『日本書紀』雄略23年の記録によれば、百済の三斤王が死去した際、東城王の帰国を筑紫国軍士 500 人が護衛したという。この記録は、栄山江流域の前方後円墳の石室構造が北部九州系である点、北部九州地域における百済産の威身財、栄山江流域の倭系古墳に甲冑や刀剣などの武器・武具が顕著に副葬されるという考古学資料と符合する。したがって、護衛のため韓半島に渡った彼らが帰国せずに栄山江流域に配置され、百済王権に仕えたと推定される。”(P6)

[解説]
三斤王(464?-479年)とは百済の第23代の王で、東城王(?-501年)は第24代の王です。「日本書記雄略記」では
”「百済文斤王(三斤王)が急死したため、当時人質として日本に滞在していた昆支王の5人の子供のなかで、第2子の末多王が幼少ながら聡明だったので、天皇は筑紫の軍士500人を付けて末多王を百済に帰国させ、王位につけて東城王とした。”(Wikipediaより)


朝鮮王朝系図

(Wikipediaより)

護衛についた筑紫国軍士500人が、百済王権に仕えたと推定してます。このように当時は、九州北部の人達が多く百済に渡ったわけで、そうした人達のいずれかが被葬者ではないかとしてます。

[論文]
百済は栄山江流域最大の中心地である潘南地域は、在地首長をとおすことで間接的に支配し、その周辺は外郭から前方後円墳の被葬者のような倭系の百済勢力を移植することで、在地の豪族勢力を牽制するといった両面的な政策をとっていたと考えられる。
海南半島に位置する倭系古墳の被葬者は、西海と南海を連結する海上交通の要衝の確保と、大伽耶の南海岸の要衝である、任那四県の麗水半島と帯沙の河東地域を掌握しようとする百済の戦略下に配置されたと推定される。また、栄山江上流域に位置する光州地域と潭陽地域の前方後円墳被葬者も、大伽耶を圧迫する百済の戦略によって配置されたと考えられる。このような状況と関連するのが、512 年、『日本書紀』継体 6 年、任那四県の記事に見られる哆唎国守の穂積臣押山の存在であり、倭人が百済の地方官として、対大伽耶攻略、対倭交渉に活動していたことを物語っている。"(P7)

[解説]
百済の戦略です。栄山江流域中心地である潘南地域を在地の首長に、周辺は倭系豪族により支配するという、巧妙な戦略をとっていたとしてます。そして倭系豪族は、海上交通を確保するとともに、大伽耶に対する要衝に配置されたとしてます。

”『日本書紀』継体天皇6年(512年?)4月6日条によると、穗積押山は百済に遣わされ、筑紫国の馬40頭を贈った。
同年12月条では、百済が使者を派遣して朝貢し任那上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県割譲を要求した際、哆唎国守の押山は百済に近く日本から遠いことから是とする旨を上奏し、大伴金村に賛同を受けた。そして任那4県は割譲されたが、のちに大伴金村と押山は百済から賂を受けたとの流言が立ったという。
継体天皇7年(513年?)6月条では、百済が五経博士の段楊爾を献上し、伴跛国に奪われた己汶の地の奪回を求めた際に、姐弥文貴将軍とそれに副えて押山が日本に派遣されている。”(Wikipediaより)

百済の任那(みまな)割譲の要求に対する調整を行ったのが、哆唎国守の穂積臣押山です。なお任那とは、古代朝鮮半島南部に存在した地域で、
”『三国志』魏書東夷伝倭人条の項目における狗邪韓国(くやかんこく)の後継にあたる金官国を中心とする地域、三韓の弁辰、弁韓および辰韓の一部、馬韓の一部(現在の全羅南道を含む地域)を含むと看做すのが通説である。”(Wikipediaより)
ただし、その位置については、諸説あり定まってません。

朝鮮半島古代領域
左の図には任那が描かれていませんね。韓国では任那の存在は否定する意見が強いようです。一方、右の図はしっかりと任那が描かれてます。このうち半島南西部に上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県があり、日本書記ではそれが百済に割譲されたとしてます。そこに前方後円墳が集中してるのが象徴的です。

3.歴史的背景
長くなりますが、興味深い考察ですので、是非ともお読みください。

[論文]
6 世紀前葉以降、日本列島と地理的に近い加耶地域の文物と交代するように、百済地域の文物が急激に倭へ流入するようになる。筆者はその背景として、百済がそれまで独自的に克服できなかった対外海上交通の不利を、交通の要衝である己汶、帯沙、任那四県の占有と、栄山江流域の前方後円墳被葬者を媒介に克服した結果と解釈したい。百済による倭王権と九州北部の豪族勢力に対する両面的な外交戦略は、韓半島と日本列島における百済の影響力を強化し、その一方で北部九州勢力も、日本列島における影響力を強化するというように、相互に理にかなったものであった。その仲介役を担った栄山江流域の前方後円墳の被葬者は、百済王権に臣属しながら倭王権と百済王権間の外交で活躍した人物と推定することができ、欽明紀に見える倭系百済官僚の原型とも言える。すなわち、江田船山古墳の百済系装身具や銘文大刀と、その後の欽明紀に見える倭系百済官僚のあり方は、栄山江流域における前方後円墳の被葬者である九州の有力豪族が、倭王権とともに百済王権に両属していたことを示唆しているのである。

[解説]
6世紀前葉以降の日本と百済との交流活発化の背景として、百済が任那4県等を取得しさらに九州有力豪族の媒介によるもの、と分析してます。そしてその有力豪族は倭王権とともに百済王権にも従属していた、としてます。

[論文]
栄山江流域における前方後円墳の被葬者は、先進文物を本国の氏族集団に与え、その代替として、一族の軍事力を提供する窓口の役割を果たしていたと想定される。また、畿地域の牧が栄山江流域からの移住民によって成立したことは、九州勢力の活動が大和王権との何らかの関わりのなかで行われていたことの傍証となろう。
百済王権が九州地域の豪族を選択した背景は、単に九州が韓半島に近いという理由だけではなく、彼らが 5 世紀後半から瀬戸内海沿岸と山陰・北陸などに広い関係網を持っていたことが挙げられる。また、畿内の豪族ではなく彼らが選ばれたのは、やはり倭王権の意向よりも、百済王権の意向によるものと考えられる。
6 世紀前葉における突如とした九州勢力の興起を象徴するのは、北部九州系石室の拡散と、華麗な装飾古墳の存在である。その背景には、栄山江流域における前方後円墳の被葬者を仲介とした北部九州勢力が、百済の先進文物の受け入れの窓口的役割を担ったことに起因するのであろう。
6 世紀前葉における江田船山古墳の百済産副葬品と高野槇製の武寧王陵の木棺は、これまでの加耶地域と倭の日常的交易関係を越え、百済が対倭交易の主導権を握ったことを示すものである。熊津期に栄山江流域に前方後円墳が突如出現することは、このような変化と強い相関性が認められる。

[解説]
百済が窓口として、畿内ではなく九州の豪族を選んだ理由として、「単に九州が韓半島に近いという理由だけではなく、彼らが 5 世紀後半から瀬戸内海沿岸と山陰・北陸などに広い関係網を持っていたこと」としてます。そしてそれにより、百済が倭との交易の主導権を、伽耶地域から奪ったとしてます。

[論文]
以上のように百済と倭の本格的な交易は、6 世紀以降活発になり、したがって継体朝出現の背景は、百済との活発な交渉と何らかの関わりが求められる。くわえて、東城王が廃され、武寧王が即位する百済の政変と、雄略王権から継体王権に替わる倭の政治的な変動も相互に連動するものであろう。
継体一族は近江に本拠地を置き、以前から若狭湾をつうじて韓半島との交易を含めた交渉を行ってきた一族であった。やがて 6 世紀前葉になり、百済との交渉を主導することによって王権を掌握したと想定される。そのなかで継体勢力は、これまで河内勢力と密接な関係にあった加耶勢力を排除し、百済を交易の窓口として先進文物を導入しながら河内勢力との差別化を図り、近畿の中での優位を確保していったと考えられる。
また継体王権の擁立には、5 世紀後半から瀬戸内海沿岸と山陰・北陸などに広い関係網を持っていた九州勢力が百済王権との仲介などの役割をしたと推定される。その一方で、栄山江流域の前方後円墳被葬者を含めた北部九州の有力豪族の対外活動が頂点に達し、倭王権をおびやかすようになった。その結果が527 年に起きた磐井の乱(戦争)と考えられる。
その後、百済による栄山江流域の直接支配と百済の対大伽耶攻略が一段落する状況下で、当地における前方後円墳の造営は停止するようになる。また、倭系百済官僚の出自が畿内周辺に集中することになるが、これは磐井の戦争以後、九州勢力の衰退を示すものであろう。”

[解説]
ここから継体朝の話になります。継体一族は出身地が越の国(福井県)であり、当時から半島との交易を行っており、近江に移ってからは百済との交渉を主導して、王権を掌握したと推測してます。その交渉を担っていたのは九州勢力であり、百済との仲介など継体の擁立に役割を果たした、としてます。

以上、引用が長くなりましたが、整理しますと、
・半島南西部にある前方後円墳の被葬者は、九州豪族出身者である。
・百済は、在地の首長と九州豪族をうまく使い分けて、日本との交易の主導権を伽耶から奪った。
・九州豪族は、百済王権に仕えるとともに、畿内王権との窓口としての役割を果たした。
・九州豪族は、継体王権の擁立にもかかわり、勢力を拡大したが、継体王権をおびやかすようになり、磐井の乱で破れ、衰退した。


ここで疑問が浮かびます。

当時、半島との交易の主導権をとるかどうかは、王権にとり死活問題だったはずです。当然、交易の主導権をもっているものが絶対的に強いわけで、その主導権をとったものだけが支配者になりえます。それは歴史の必然です。

ところが少なくとも畿内王権はその主導権をもっておらず、主導権をもっているのは九州の豪族です。それは朴氏も認めているところです。畿内王権といいながら、九州の豪族に振り回されており、なんか頼りない感じですね。

となると、そもそもの主従関係は、
<主>畿内王権、<従>九州豪族
ではなく、
<主>九州豪族、<従>畿内王権
ではなかったのか、という話になります。

ここで「九州豪族」としてますが、ようはその「九州豪族」とは、「九州王朝」の豪族ではなかったのか?、ということです。

九州王朝説とは、古代の日本、倭国の時代の都は、九州北部にあったとする説です。中国史書にある倭国も、志賀島の金印をもらったのも、卑弥呼がいたのも、一貫して九州北部にあった九州王朝だったという説です。

朝鮮半島との交易を主導したのも九州王朝ですし、百済との交渉も九州王朝が中心になった、ということになります。

このように考えれば、”なぜ百済が畿内王権ではなく、九州の豪族を相手にしたのか?”、という疑問に対しても、すんなりと説明できます。

朴氏は、あくまで大和一元論、つまり「有史以来日本列島を支配してきたのは大和王権である」という思想なので、論文のような理解になります。

その文脈のなかで、”なぜ百済が畿内ではなく九州の豪族を選んだのか?”、という疑問に対して、いろいろ説明してますが、何か腹落ちしませんね。そもそも朴氏がそのようなことに言及しているということ自体、そのことを不自然だと考えたからの裏返しとも言えます。

前方後円墳の被葬者は九州王朝の豪族であり、百済はあくまで九州王朝と外交した、と考えれば、何も小難しい解釈をこねくり回すことなく、自然な説明ができますね。

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古墳は語る(24)~墓制からみた中国と日本の関係

ところでその後の中国の墓制はどうなったでしょうか?。

中国の歴史をおさらいしますと、
三国志の時代に勝利して全土統一した魏(220-265年)ののちの西晋(265-316年)が滅亡後、南方に建康(南京)を都とする東晋(317-420年)ができます。その後、宋(420-479年)に替わり南朝が開始され、斉(479-502年)~梁(502-557年)~陳(557-589年)と続きます。

一方、北方は西晋から前趙(ぜんちょう)が独立(304年)、以後、多くの小国が興亡を繰り返す十六国の戦乱の時代となり、最後に北魏により統一され(439年)、北朝が開始されます。

その北朝系統のが、中国全土を統一します(581年)。ちなみに統一したのは、有名な隋の煬帝の父親文帝です。その後唐(618-907年)の時代になります。

以上のとおり、大きく分けて、魏の流れを引く南朝系と北方民族系の北朝系に分かれます。当然墓制も、異なる流れになります。

南朝系は、魏の流れを引いてますから、西晋~東晋と墓制も魏の「薄葬」を引き継ぎました。そしてその後東晋の時代すなわち5世紀半ば以降は、再び大規模な墳丘が築造されるようになります。

一方の北朝系ですが、4世紀初頭から十六国時代になり、「薄葬」が崩れはじめ、次第に大規模な墳丘が復活します。

つまり、大規模な墳丘の復活が、北朝系が早く(4世紀初頭)、南朝系は遅かった(5世紀半ば)、ということになります。話が複雑になったので、図で整理します。

中国王朝変遷


<南朝(宋)と北朝(北魏)>
中国南北朝 
(Wikipediaより)

ここでひとつ、日本の前方後円墳と関連して、面白い仮説が立てられます。

まずは畿内の天皇陵の系譜です。


天皇陵分布と移動  

築造開始当初(3世紀半ば頃)から、箸墓古墳はじめ大規模な前方後円墳が、次々と築造されているのがわかります。最大規模の大仙陵古墳や誉田五廟山古墳が築造されたのは、4世紀終わり~5世紀前半です。その後、古墳の規模は急速に小さくなっていきます。曹操の「薄葬令」とは関連がなさそうですし、むしろ中国南朝系の動きと逆ですね。

一方、九州北部はどうでしょうか?。

少し前のブログ
古墳は語る(14)~前方後円墳分布の不可思議
で、九州の前方後円墳は初期~中期にかけては、数も少なく規模が小さいのですが、後期になり築造が活発化して大型化することを、お話しました。岩戸山古墳(福岡県久留米市、6世紀初頭)は、九州北部で最大の前方後円墳です。大和で築造が縮小する6世紀に、地方では逆に活発化しています。こうしたことが謎とされ、専門家の方々も説明に窮しているわけです。



九州前方後円墳3


上の図のとおり、九州の久留米~八女地方では、古墳前期~中期前半には、前方後円墳がほとんど築造されていないのに、中期後半(5世紀半ば)以降、大きな古墳が築造され始めました。この時期は、中国南朝で大規模墳墓が築造され始めた時代です。一致してますね。

簡単に言うと、九州北部は中国南朝の影響を受け、畿内勢力は受けてないということです。

このことをどのように理解すればいいのでしょうか?

もちろん「単なる偶然だ」と解釈することもできるでしょう。

しかしながらもし実際に、九州北部が南朝の影響を受けていたのであるならどうでしょうか?。

中国皇帝(南朝系)に近かったのは九州北部勢力であり、畿内勢力は近しい関係になかった、ということになります。つまり、九州北部勢力がより中国皇帝に近い関係であった、ということになります。

もっと言えば、中国皇帝(南朝系)の外交上の相手は、九州北部だったということです。いわゆる九州王朝です。

「そんなのはこじつけだ」という方も多いと思いますが、データからみると、成立しうる話です。
逆に言えば、このような解釈をしないと、
なぜ畿内の前方後円墳築造が中期後半(5世紀半ば以降)には衰退する一方、九州北部ではそれ以降活発化したのか?”、という疑問に対する答えを見つけるのも、なかなか難しいところです。

ところでその北朝ですが、畿内との関係が強いとの説があります。北朝の北魏についてです。

北魏と日本文化との間には数多くの関連があることが指摘されている。
法隆寺の仏像など、日本に残存する諸仏像は多く北魏様式である。(伊東忠太の説)
・日本の源氏という氏族のおこりは、北魏の太武帝が同族に源氏を名乗らせたことに影響されたものではないか。(杉山正明の説)
・北魏の国家体制は、日本古代の朝廷の模範とされた。このため、北魏の年号・皇帝諡号・制度と日本の年号・皇帝諡号・制度には多く共通したものが見られる。平城京・聖武天皇・嵯峨天皇・天平・神亀など、枚挙に暇がない。(福永光司の説)”
(Wikipediaより)

もし北魏と畿内との関係性が強いのであれば、墓制についても北魏にならった、との見方もできます。

北魏は、西魏~北周へと引き継がれていきます。実は北周(556-581年)は再び「薄葬化」へと向かいます。背景として、
北斉との政治、軍事的対峙及び数年間の戦争による経済的な困窮などと関係があり”
としてます。そして
”墳丘、陵園、神道、建物などすべての地上施設を徹底的に禁止した。”(P138)
とあります。

北周ののち、が建国されます(581年)。
2013年に、隋の煬帝のものではないかとされる墓が発掘されましたが、ずいぶんとこじんまりとしたものでした。

天皇陵も6世紀後半にはさらに小規模なものになっていきます。ちなみに推古天皇(628年没)陵は古市古墳群のなかの山田高塚古墳ですが、63m×56mの方墳というこじんまりとした陵です。この伝統はその後も引き継がれます。

このようにみてくると、
”大和王権の陵は、北朝の影響を受けている”
という可能性も出てきます。

そうなると、
九州王朝     ・・・中国南朝の影響
大和王権(王朝)・・・中国北朝の影響
という図式が成立するかもしれません。

もちろんこの考え方にはさらなる検証が必要ですが、現時点でひとつの仮説として提起したいと思います。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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