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纏向遺跡は邪馬台国か?(12)~比恵・那珂周辺遺跡群

前回まで纏向遺跡について、魏志倭人伝からみた検証をしてきました。その結果、纏向遺跡は魏志倭人伝の描く倭国やその都である邪馬台国の姿とは多くの点で合致しないことがわかりました。昨今のマスコミ報道では、邪馬台国は纏向遺跡で決まりみたいな論調ですが、それとは大きく異なることになります。

ところで皆さんのなかには、
「魏志倭人伝は今から1600年以上前に編纂された史書で、しかも当時の中国人が倭国の伝聞を基に書いたものだ。内容が合致していないのものも当たり前だ。だからといって、邪馬台国ではない、とはいえないのではないか?」
という疑問をもたれた方もおられるでしょう。

確かにそういう考え方もあります。もちろん、魏志倭人伝のすべての記載が事実だったのか、という検討は、当然すべきです。
しかしながら、魏志倭人伝を疑いはじめたら、「そもそも邪馬台国なるものなど実際に存在したのか?」ということにまで発展しかねません。何せ、日本の史書である古事記、日本書記には、「邪馬台国」という国名は、一切出てこないわですから・・・。

この話はまた別の機会に譲るとして、ここからは、別の視点で考えていきます。

別の視点とは、
「魏志倭人伝の記載に合致する遺跡が、他に日本国内にあるのか?」
ということです。

もしそのような遺跡が存在しているのであれば、そこが倭国、あるいは邪馬台国だった可能性があります。少なくとも、纏向遺跡より可能性が高い、と言えることになります。

ではそのような遺跡があるのか、みてみましょう。

前回までの、関川氏の論文にもありますが、当時の日本で最大の遺跡群は、九州博多平野の遺跡群です。私は、ここを邪馬台国と比定してますが、一般的には「奴国(なこく」)とされてます。

この件はすでにお話してますので、ここでは触れません。今回は、その中心領域といわれる、「比恵(ひえ)・那珂(なか)遺跡」を紹介します。太字は「福岡市博物館HP、比恵・那珂モノがたり」からの抜粋です。

比恵・那珂遺跡群(以下、比恵・那珂)は福岡平野の中央部を北流して博多湾に流れ込む那珂川と御笠川に挟まれた丘陵上に広がる遺跡群です。現在でいうと博多駅と竹下駅の間に位置しています。
遺跡の名称としては分けられていますが、同時代に人々が活動したひとつの遺跡です。また、比恵の東側には山王(さんおう)遺跡(比恵甕棺遺跡(ひえかめかんいせき))、那珂の南側には五十川遺跡があり、地形的な隔たりがないことや発見される遺構の内容から大きな一連の遺跡として捉えることができます。

比恵那珂~須玖岡本遺跡位置 




 
比恵那珂遺跡群周辺


【解説】
福岡平野全体の遺跡分布図からです。比恵・那珂遺跡のみならず、すぐ南の須玖岡本遺跡をはじめ、大きな遺跡群が数多く分布しているのがわかります。

”宅地化が進む現状からは遺跡の当時の姿を想像することは難しく、その重要性を理解するのは一筋縄ではいきません。
遺跡の範囲として比恵が65ヘクタール、那珂が83ヘクタール、山王遺跡が15ヘクタールが登録され、全体の面積としては164ヘクタールという広大な範囲となります。これは佐賀県神埼郡にある吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)の約4倍に相当する広さとなります。
北部九州屈指の遺跡であり、弥生時代から古代にかけては何度も歴史の表舞台に登場する、日本の歴史を読み解く上では重要な遺跡でです。”


比恵那珂遺跡構造

【解説】
全体は山王遺跡も合わせ、164haという広大な面積です。なお、さらに周囲の須玖岡本遺跡群も一体とみなす説もあります(柳田康雄氏)。

”縄文時代から弥生時代へと時代が移り変わる頃になると、比恵・那珂が広がる丘陵周辺の低位な場所に小さな集落がぽつりぽつりと形成され始めます。
人々は水場に近い場所に集落を形成する一方で、食料を保管する貯蔵穴(ちょぞうけつ)は水気を避けるため丘陵の高い場所につくりました。注目されるのは那珂南西側では二重に環濠(かんごう)が巡る集落が出現したことです。この環濠は、最古の農村として有名な板付遺跡の環濠より先行するものと考えられており日本でも最古級の環濠とされています。のちに北部九州から全国に広がった環濠集落という暮らしの方法を、朝鮮半島から最初に取り入れたのは比恵・那珂に住む人々だったのです。”
【解説】
日本における環濠集落の先駆けであったことがわかります。

”前期から中期にかけては、河川の沖積作用が増大したため低湿地が拡大しはじめました。この頃、比恵・那珂の人々は丘陵を覆っていた照葉樹林の森を切り開いて集落の拡張をはじめます。
集落が大きくなると同時に墓地が各所で作られるようになります。前期には山王遺跡で土壙墓・木棺墓群、中期初頭~前半には比恵北側を中心として甕棺墓が、中期中頃~後期には那珂北側に甕棺墓が集中する傾向がみられます。”
【解説】
弥生中期頃に、九州北部独特の甕棺墓が現れます。

”弥生時代の埋葬遺構が多く見つかる比恵・那珂ですが、墓に銅鏡を副葬するような有力者の存在を示す例は発見されていません。比恵で発見された甕棺墓には唯一、細形銅剣(ほそがたどうけん)が副葬されていました。この銅剣の出土は集団を統率する実力者が存在していたことを示すとともに、この頃の奴国内での比恵・那珂の立場や役割を教えてくれるモノでもあります。
【解説】
弥生時代に銅鏡を副葬するような有力者の存在は確認されてません。当然実力者はいたでしょうが、ここでいう有力者とは首長という意味だと考えられます。
では有力者すなわち首長はどこにいたのか?、ですが、当時は南の須玖岡本遺跡にいたと考えられますが、それはのちほど出てきます。

”弥生時代中期以降、比恵・那珂を代表する遺構として数百もの井戸が掘られます。県内で発見された井戸の半分以上が比恵・那珂に集中していることは、比恵・那珂に多くの人々が集まり暮らしていたことを示唆してくれます。また、これらの井戸には祭祀(さいし)に用いられたとされる彩色土器などが繰り返し投げ入れられていることがよくあります。
比恵・那珂に住む人々の活動が一気に盛んになるのは弥生時代中期後半以降で、後期には丘陵のほとんどの場所で開発が行われたようです。”
【解説】
”県内で発見された井戸の半分以上が比恵・那珂に集中している”ということは、弥生時代中期以降の現福岡県では最大の人口密集地だったということになります。

”中期後半に掘られた大溝(おおみぞ)は、丘陵内部を縦横に走り、多くの労働力を用いて集落を拡大させていったことが分かります。また、各所で大型の掘立柱建物が造営されるなど、丘陵が徐々に開発され、眺望が開けていく様子も明らかとなりました。比恵北東側の沖積地には中期中頃~後期にかけての大規模な水田(東比恵三丁目遺跡)が開発され、比恵・那珂に住む人々の生活を支えていました。”
【解説】
多くの人々の食料を供給するだけの水田もありました。

”この時期の奴国の拠点は、春日市の須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき)を中心とする大集落にありました。舶載(はくさい)された鏡を大量に副葬する「王墓(おうぼ)」が発見された須玖岡本遺跡は、奴国の政治と祭祀の中核でした。その周辺で発見された大量の青銅器鋳型や工房跡の発見は、弥生の青銅器工業団地とも称されています。比恵・那珂では「王墓」こそ発見されていませんが、須玖岡本遺跡群に並ぶほど多様な遺構と多彩な遺物をもつ遺跡であり、比恵・那珂は奴国の副都心であったと言えます。”
【解説】
当時の都は須玖岡本遺跡でした。王墓からは、質・量ともに王にふさわしい品が副葬されてました。

弥生時代の後期後半以降も比恵・那珂の発展は続き、古墳時代となっても丘陵の大がかりな開発は絶えることなく行われました。そして集落の拡大だけではなく新しい要素もみられます。古墳時代初頭には首長墓(しゅちょうぼ)として、福岡平野最初の前方後円墳である「那珂八幡古墳」が那珂中央部に築造されました。そして弥生時代の終わり頃から古墳時代はじめ頃には比恵・那珂を縦走する並列溝(へいれつみぞ)がつくられました。全長1.5㎞以上も延びるこの並列溝は、その形状から両側に側溝をもつ道路である可能性が考えられています。道路沿いには規格的な配置を持って方形周溝墓群(ほうけいしゅうこうぼぐん)が並ぶように築造されました。”
【解説】
古墳時代初頭には、那珂八幡古墳が築造されます。3世紀中頃から後半と推定されますが、時期的には卑弥呼死去から壹与(いちよ、いよ)の時代に重なります。

”弥生時代の終わり頃から古墳時代のはじめ頃、比恵・那珂が発展する一方で、先の須玖岡本遺跡群を中心とする地区では遺構が減少することが報告されています。このことは「奴国」の中心が比恵・那珂に移ったことを示しており、奴国の首都が移転したとも言えます。奴国内でも主要な位置を占めるようになった比恵・那珂には、倭国内の各地域や朝鮮半島の土器等の様々なモノが持ち込まれました。この時期前後に北部九州へと伝播した土器が比恵・那珂を介して九州各地に広がっていったとする研究もあり、比恵・那珂を拠点とした広範囲の交易ルートが確立されていたことが分かります。”
【解説】
この頃、クニの都が須玖岡本遺跡群から比恵・那珂遺跡群へと移転した、としてます。

以上が、概要です。

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纏向遺跡は邪馬台国か?(11)~発掘担当者が語る纏向遺跡の真実④

3回にわたり、実際に纏向遺跡を発掘調査された、関川氏(元橿原考古学研究所)の論文を、紹介してきました。その内容は、地元畿内の邪馬台国畿内説ではなく、逆にそれは成り立たない、という刺激的な内容でした。

最後に、纏向遺跡に対して興味深い指摘をしてます。
”纏向遺跡は庄内式から布留式にかけての時代であるが、この時期も、中国王朝と直接交渉の無かった時代とみることができ、卑弥呼の時代よりは後の遺跡とみることができる。”
【解説】
これはどういうことかというと、中国史書には、卑弥呼~壹與のあとの時代の話が全く出てこない、つまりその時代は倭国と中国で交流がなかった時代といえるわけです。一方、纏向遺跡には対外交流の痕跡がないので、纏向遺跡や初期大型古墳は、卑弥呼~ 與の時代のあと、すなわち3世紀終わりから4世紀頃のものだろう、という話です。一考に値する指摘です。

そしてさらに、邪馬台国問題の本質に切り込みます。

”邪馬台国問題は、歴代の中国王朝や中国文化というものに対し、どのように対応してきたのか、という日本古代史の根本にかかわることであるといってよい。邪馬台国問題の本質は、日本の古代史に通底している中国との関係史ということにあろう。”
”中国との通交形態からみると、すでに紀元前108年に、漢の武帝による朝鮮四郡の設置を契機として、楽浪郡を通じて漢王朝との通交が開始されている。、考古学資料では、これ以降、北部九州の首長墓では朝鮮半島遺物に代わり、中国・前漢時代の副葬品が現れる。このように、列島内の倭人の小国家においては、中国王朝の郡県が約400年もの間、朝鮮半島中部付近にまで及んだことの影響は、きわめて大きかった。”
【解説】
当然、邪馬台国卑弥呼の時代の中国王朝との通交も、この流れの中にあるわけです。それが、その後の古墳時代に、全く異なったものになります。

”古墳時代中期、5世紀のいわゆる「倭の五王」時代の段階では、すでに楽浪・帯方郡は消滅しており、朝鮮半島における対中国外交の基点が失われている。このため、これに代わるものとして、おそらく百済を介したであろう中国南朝との限定的な通交に変化している。
このように邪馬台国の外交方式で重要なことは、楽浪郡を介して中国王朝との直接交流を行うという、弥生時代を通じた北部九州の小国家による通交形態の延長上にあることである。
このことは邪馬台国の性格ばかりでなく、その所在地自体においても、これまでの弥生時代北部九州の小国家と基本的に大きく変わるものではない、ということを示しているのではなかろうか。”
【解説】
つまり、弥生時代を通じた中国との通交は北部九州が担っていたのであるから、邪馬台国の時代になっても同様のはずであり、そう考えると、邪馬台国の位置は北部九州となる、ということです。

ここで関川氏は、伊都国との関係にも触れ、
邪馬台国の位置は、伊都国と大きく離れない位置にあると思われ、地理的関係を考えても、北部九州に求めるのが妥当であろう。
【解説】
伊都国は現在の福岡県糸島市付近にあったとされてますので、邪馬台国もその近く、つまり九州北部にあったと考えるべきである、ということです。

このように関川氏は、邪馬台国は北部九州にあったとしてます。

そして「邪馬台国九州」説の最大の難点についても言及してます。
その最大の難点とは、「魏志倭人伝」にある邪馬台国の戸数「七万余戸」です。

”邪馬台国九州説の遺跡に対する異論の主な理由は、邪馬台国の時代の北部九州においては、奴国伊都国をはるかに超える遺跡は認めがたい、ということである。”
【解説】
ここでいう奴国とは、福岡平野に広がる遺跡群のことです。「魏志倭人伝」で、「二万余戸」と記載されてます。伊都国は、糸島市付近で、「千余戸」と記載されてます。邪馬台国は、「七万余戸」ですから、奴国の3倍を超える人口であり、そんな巨大な遺跡は九州にないではないか、というのが異論の根拠です。

これに対して、関川氏は、至極単純明快な反論をしてます。

”北部九州に奴国をはるかに上回る遺跡が見られない、というのであれば、それは、北部九州のみならず、近畿・大和でも同じことであろう。”
【解説】
つまり邪馬台国大和説の人は、人口を論拠に邪馬台国北部九州説を否定するが、大和についても同じことが言えるわけで、まさに「自分のことを棚にあげて」という論法になっているではないか、という反論です。まったくそのとおりですね。

そして最後に、極めて重要な指摘をしてます。それは、
”北部九州の弥生文化と近畿の前期古墳文化との連続性という考古学的事実”
です。

具体的にいうと、
”大和の前期大型古墳では、鏡の多量副葬や平原1号墳でみるような特大鏡の出土、また古墳の石室では朱が多用され、腕輪形石製品が多量出土するなど、中山(平次郎)が指摘した事実が今日に至ってもさらに事例を加えており、その関連性はもはや疑いえない。
”北部九州の弥生文化が、このような近畿の前期古墳文化の中にみられるとなれば、当然、北部九州を代表する邪馬台国の文化も継続しているものとみなくてはならないであろう。
”しかし、このような問題について、これまでに考古学、特に邪馬台国大和説の立場からは、明確な見解はみることはできない。”
”今後は、邪馬台国の地域内の位置問題と共に、邪馬台国からいわゆる大和政権への確立過程が、どのように検証できるのか、ということにかかってこよう。”
【解説】
大和の古墳というと、三角縁神獣鏡をはじめとする大型鏡の副葬が特徴とされ、それらがあたかも大和の専売特許のような捉えられです。ところがその風習は、大和で始まったのではなく、もともとは北部九州の風習だったわけです。そうなると、大和の文化は、北部九州の文化が継承されているとみるべきだ、ということです。

<平原1号墳>
平原遺跡
(Wikipediaより)

平原遺跡女王 
(伊都国歴史博物館「常設展示展図録より)

文化が継承されている、ということは、北部九州が大和に比べて先進的な文化であったことを示してますし、人の移動もあったことになります。

ここで、私のブログや著書を読まれている方の中には、ピンときた方もいらっしゃるのではないでしょうか?。

私はここまで、中国史書や古事記・日本書紀等を読む限り、少なくとも元前後より倭国の中枢は北部九州にあったと考えられると、お話してきました。そして、その権力の中枢は、7世紀終わりから8世紀にかけて、近畿の大和地方へと移動していったと推定しました。これらは、鉄器・銅矛・絹・玉・三種の神器・土器・銅鐸・イネ等、当時の文明といえるもののほとんどが、「西→東」へと移動していることなどからも推定できる、とお話してきました。

関川氏は、「西→東」への権力移動に関して、そこまで具体的には述べてませんが、方向性は一致してるといえましょう。

なお、移動時期については、関川氏の論文中には具体的には記載されてませんが、「倭の五王」の時代、すなわち5世紀から6世紀にかけての時期を示唆してます。

私の推定時期より2世紀ほど遡っており、諸々検証が必要ではありますが、大きな流れとしては同じと考えていいでしょう。

関川氏の名前は以前から聞いていましたが、論文を詳細に読み込んだのは、今回が初めてです。あらためて、奈良の「橿原考古学研究所」にて長年発掘調査に携わってこられた方の考えと、私の考え方が、同じ方向性を向いているとは、大きな驚きであったとともに、心強く思えた次第です。

倭国→日本国  



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纏向遺跡は邪馬台国か?(10)~発掘担当者が語る纏向遺跡の真実③

引き続き、関川氏論文です。次は古墳です。

周知のとおり、奈良盆地東南部には、箸墓(はしはか)古墳をはじめとした大型前方後円墳などの古墳群が広がってます。この大型前方後円墳の登場こそ各地のこれまでの古墳とは画期をなすものであり、古墳時代の始まりとしてます。
そして”考古学における邪馬台国大和説においては、このような古墳出現の歴史的基盤が、すでに大和において存在したであろう、という想定がその根底にある。”
としたうえで、
”邪馬台国と大型古墳の間には、どのようなつながりがあるのかが不明確である。”
と述べてます。

簡単にいうと、大和に大型古墳があるから邪馬台国も大和にあった、とされているが、そこには明確な論拠がなく、何となくそうに違いないという程度のものだ、ということです。

その関係性を明らかにするために、まずは古墳出現時期について論説してます。
”これまでの考古学の立場では、大型前方後円墳の出現は、3世紀中頃の邪馬台国の時代までは遡りえず、4世紀の統一国家ー大和政権の出現に、その契機を求めるというのが、一般的な解釈であった。”
【解説】
つまり、大型前方後円墳の出現と邪馬台国とは関係がない、というのが一般的だった、というのです。それが、古墳の出現を3世紀末から4世紀初め頃とすると、「魏志倭人伝」に記載の卑弥呼の宗女の壹與による西晋への遣使266年との差がきわめて短くなり、邪馬台国は大和となる、というわけです。

最近、卑弥呼の墓とされる箸墓古墳の築造年代が大幅に遡り、卑弥呼死去と同時期の3世紀中頃との説が出されてます。これで、「邪馬台国=大和」は決定といわんばかりです。

最近の古墳の年代観 


ところがです。
”このように一見すると、古墳出現年代が遡ることは、邪馬台国大和説の要のように思われる。しかし、それは古墳時代の出現が邪馬台国の時代にかかることになり、むしろ多くの矛盾が表出することになろう。”
と述べてます。
どのようなことでしょうか?。

今では「箸墓古墳=卑弥呼の墓」説は、通説のようにされてますが、実は、この説はさほど古来からあった説ではありません。箸墓古墳は、日本書紀の「崇神天皇紀」において、孝霊天皇皇女・倭迹迹日百襲姫女の墓として、古墳の築造状況のみならず、造営歌まで記されてます。

ところが、大正末頃、笠井新也氏(元徳島大学非常勤講師、考古学・古代史研究者、1884-1956)が、文献史学の年代観から、倭迹迹日百襲姫女(やまとととひももそひめのみこと)の事績が卑弥呼の事績と酷似しているとして、「箸墓古墳=卑弥呼の墓」説を初めて唱えました。

笠井説は、その論証の精緻さもあり、「前人未到の大和説」と称されましたが、戦後の考古学界の反応は否定的でした。たとえば森浩一氏(同志社大学名誉教授)は、
”今日の考古学の水準では、箸墓は卑弥呼の時代より約100年はのちの時代に築かれたと考えられるので、邪馬台国大和説の根拠とすることはむつかしい。”
と批判してます。

この問題を掘り下げます。

一つが土器に関する研究です。かつては、古墳時代の土器は、「布留式土器」とされてきましたが、より古い土器「庄内式土器」が発見され、最古級の古墳にともなう土器とされました。

もう一つが「埴輪」に関する研究です。近藤義郎・春成秀璽氏によって、
”近畿地方の埴輪の始まりが明らかでないのに対して、吉備の地域においては、弥生時代後期以来の特殊器台が発達し、それが埴輪の起源であることを初めて示した。埴輪の配列という大型前方後円墳の重要な構成要素の一つの起源が、近畿以外にあることが判明した。
のです。

なぜ土器と埴輪の研究が貴重かというと、大型古墳の相対年代を決定するのに、重要だからです。というのは、鏡などの副葬品にみでは、すべての大型古墳の時期を決めることはできないからです。なぜなら
”箸墓古墳をはじめ多くの大型古墳の副葬品は不明であり、発掘された古墳であっても、その組合せが完存している例は究めて少ないから。”です。

さて土器の埴輪からみた箸墓古墳をはじめとする初期大型古墳の築造年代についてです。
詳細は専門的になりすぎるので割愛しますが、結論だけいうと、箸墓古墳・桜井茶臼山古墳・葛本弁天塚古墳・ホケノ山古墳は、ほぼ同時期としてます。そしてその時期は、古墳初期の庄内式期ではなく、次の布留式期である、としてます。

なお以上は、あくまで相対年代です。では、絶対年代としては、どうなのでしょうか?。

寺沢薫氏(纏向学研究センター長)の「最新邪馬台国事情」、柳田康雄氏(元国学院大学教授)の「吉野ヶ里遺跡は語る」ともに、布留式期開始を4世紀頃としてますので、初期大型古墳の築造開始時期は、4世紀頃すなわち紀元300年頃となります。

上の図では、これらの古墳の築造時期は、
ホケノ山古墳の240年頃~桜井茶臼山古墳290年頃
と、50年ほどの間に設定してますが、すべてほぼ同じ時期、しかももっと新しい300年頃だ、ということです。

邪馬台国は、少なくとも3世紀頃(200年頃)には存在し、卑弥呼死去が3世紀中頃(250年頃)ですから、「箸墓古墳=卑弥呼の墓」説が成立しないばかりか、初期大型古墳群も邪馬台国と無関係ということにならざるをえません。

さらに関川氏は、鋭い指摘をしてます。
”仮に前期初めの古墳が3世紀であれば、まず、古墳にともなう土器や埴輪もその時期となる。さらには、副葬品の中で数の多い石製品や銅鏃、そして鉄製の刀剣・槍の武器類、また鉄製甲冑など、「魏志倭人伝」にも現れないような遺物までもこの時期に上がるということになる。”
【解説】
魏志倭人伝には、
”武器としては、矛、盾、弓がある。この木の弓は、上半分が長く、下半分が短く、鉄や骨の矢じりを使う。”
と記載されてますが、指摘のとおり、鉄製の刀剣・槍の武器類、鉄製甲冑を身に着けているとは、書かれてません。つまり中国文献との不整合が出てくるというのです。
実際、このような武器類は、イメージからいっても、もっと新しい時代のものでしょう。

ここで皆さんのなかには、不思議に思われた方も多いのではないでしょうか?。
”では「箸墓古墳=卑弥呼の墓」は、何を科学的根拠としているのか?。” 

ここで登場するのが、土器付着物の「炭素14年代測定法」です。簡単にいうと、土器に付着している食材とか木材などに含まれている炭素を、「炭素14年代測定法」という方法で測定して、絶対年代を推定する方法です。

これだけ聞くと科学的であり、何ら問題はないのですが、実はここに大きな落とし穴があるのです。

”年代測定にあたる理化学研究者より、測定試料としては保存の良い単年性陸産植物が最適であり、何を炊き出してできたのか不明な土器付着物は、年代がかなり違ってくる可能性があることが指摘されている。”
【解説】
このブログでも
纏向遺跡は邪馬台国か(7)~広域地域圏という概念
で紹介したように、国立歴史民族博物館をはじめとして、特に弥生時代の絶対年代が遡らせる発表がされています。これに対して、多くの科学者から異論が出されています。

いずれにしろ、箸墓古墳等の「炭素14年代測定法」は正確ではない、ということです。

また、前方後円墳の出現を長らく研究してこられた近藤義郎氏は、
”大和に前方後円墳秩序を創出するほどの勢力の存在を認めることが難しくなったようだ。”
と述べてます。

以上のとおり、大和においては、弥生時代の首長墓の系譜が未だに確認できないわけですが、これに対して、
”北部九州のあり方と対照的である。”
と述べてます。

具体的には、福岡県の三雲南小路・井原鑓溝(やりみぞ)、須玖岡本、平原1号墳など、
”北部九州では、弥生時代中期から後期末に至る王墓級の墳墓の存在が、実に江戸時代以来、長期にわたって連綿と見出されている。”
”今日に至るまで、未だに北部九州と対比できる有力首長墓が不明確な、大和を始めとする近畿中部の状態とは、比較もできないほどの違いである。”
と、その差を指摘してます。

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纏向遺跡は邪馬台国か?(9)~発掘担当者が語る纏向遺跡の真実②

前回、纏向遺跡を長年にわたり発掘してきた関川尚功氏の論文を紹介しました。論文によれば、大和地域全体としてみれば、弥生時代後期までは、畿内の他地域と比べても特徴的・先進的な面があるとはいえず、九州北部と比べれば明らかに後進地域であったことが、わかります。

関川氏も、”こうした事実は、邪馬台国論争においても、肯定的な材料にはなりえない。”と述べてます。

これに対して、皆さんのなかにはこのように考える方がいるのではないでしょうか?。
”確かに、弥生時代後期までは後進的だったかもしれない。しかし、だからこそ、その後に出現した纏向遺跡が際立つのであり、それこそ邪馬台国の証明だ。”

では関川氏は、纏向遺跡をどのようにとらえているでしょうか?。

まず同時期の周辺遺跡全体のとらえかたですが、
”纏向遺跡の北には柳本遺跡が接しており、その北方には成願寺遺跡が、さらに北方には乙木・佐保庄遺跡が位置する。庄内期を中心とする遺跡が、纏向遺跡を含めて南北5kmに連なっており、一大遺跡群を形成している。
このような遺跡の分布は、ほぼ初期大型古墳群の位置と対応しており、相互の関連性がうかがわれえる。

【解説】
纏向遺跡というと纏向遺跡だけの話になりがちです。しかしながら考えてみれば当然の話ですが、当時から周辺にも集落が広がっていたのであり、それらを一体としてとらえないと、全体像がみえてきません。そうした点でもこの指摘は真っ当であり、特に初期大型古墳群との対応という点は、キーワードですね。

1.纏向遺跡の出現
”縄文時代の石器が出土し、弥生中・後期の遺構もある。弥生末期になって全くあらたに出現した遺跡ととらえるより、むしろこれまでの弥生遺跡との連続性も考える必要があろう。”

【解説】
纏向遺跡の特徴として、弥生時代末期になり突然出現した、そこに画期性があるのだ、という論調があります。しかしながら関川氏によれば、以前から存在した周辺遺跡との関連性を考えるべき、という指摘です。

2.纏向遺跡の立地
”他の弥生遺跡と大きく異なるところは、遺構が旧河川に挟まれた微高地上に分立し、環濠をめぐらせる遺跡ではないことである。このため、弥生環濠集落のような防御的あるいは閉鎖的な性格はあまり認められず、むしろ開放的な立地形態となる。
”纏向遺跡は地形的に河川域により分断された遺跡群である。大規模な水路遺構はあっても、環濠がないことは遺跡内外との区画が明確ではなく、本来的に計画的な集落とはいいがたいことがある。”

【解説】
これも意外なポイントです。弥生時代というと環濠集落が有名ですが、そのような形態ではない、つまり防御を想定していない、というのです。さらに、計画的な集落とはいいがたい、とまで述べてます。


纏向遺跡 

3.纏向遺跡大型建物の評価
”遺跡内で検出された大型建物群・柵について、その評価はむずかしい。太田北微高地上の河川に挟まれた南北約100mという、かなり狭いところにある。
建物A~Dのうち、Aはその後の調査では存在しなかったといい、最も大きいとされる建物Dについても主柱の半数以上が失われている。推定復元の結果が先行しており、積極的評価が困難なところがある。
はたしてこの場所が纏向遺跡の中枢ともいえる地点であったのかは疑問であろう。
さらにこれらの建物を囲むとされる柵については柱痕とされる小穴は不揃いなところが多い。これらを明確・かつ整然とした柵と比較することは困難であろう。
”いずれにしろ纏向遺跡の全体像がまだ不完全な段階では、この建物群・柵をただちに庄内期頃の王宮クラスの遺構とするには、さらなる検証が必要なようである。

【解説】
大型建物跡については、以前「卑弥呼の宮殿か」として、マスコミ報道され話題になりました。報道だけ読むと、そのまま信じてしまいますが、そこまで断定するには、まだまだデータ不足といったところです。

4.纏向遺跡出土物の傾向と性格
(1)搬入土器の東方志向
”纏向遺跡の他地域からの搬入土器は、東海地方がその半数を占めている。北部九州の土器は微量で、その傾向は唐古・鍵遺跡と変わることはない。弥生時代と異なるところは、山陰系の土器が多いことであろう。”
として、
”主たる交流地域は、西方も重視されながらも、その重心はむしろ東方地域にあった、と言えるのではないだろうか。隣接する河内とは相違がある。”
”弥生・庄内期においては、同じ近畿地域において、生駒山を挟んで河内が西方に、大和が東方に志向するという対照的なありかたを示しており、古墳時代の一体化現象とは異なるようである。”
【解説】
これも興味深い指摘です。搬入土器の多さが特徴ですが、その搬入元は東海地方など東方であり、九州は微量だというのです。つまり九州の人は、ほとんど来ていないということになります。同じ畿内でも、河内は西方を志向しており、その対照性は際立ちますね。

(2)少ない金属製品と大陸系遺物
”青銅器の出土が非常に少ない。総量は唐古・鍵遺跡をかなり下回っている。特に漢式鏡など大陸系青銅器は出土していない。そして鉄製品も鍛冶関連遺物を除くと微量である。
大陸系遺物もきわめて少ない。”
【解説】
当時の先端技術であった青銅器・鉄製品が非常に少ない、大陸系遺物も少ない、ということは、後進文化圏だったこと、大陸との交流はほとんどなかったことを示してます。

(3)大和弥生遺跡との連続性
”青銅器・鉄器・土器の傾向は、唐古・鍵遺跡と全く同じ傾向である。纏向遺跡が大和の弥生遺跡との継続性を示していることは、この遺跡の性格を考えるうえで重要である。”
【解説】
このことは、纏向遺跡を造った人々は遠い地域の人々ではない、つまり異なった文化をもった人々がやってきて征服したのではない、ということになります。

(4)鉄器生産技術の外来性
鍛冶関連遺物が出土しているが、庄内期から古墳時代の初めであり、かなり新しい。鉄製品の多くは鉄の鏃など小型品に限られたようである。”
”鍛冶で使用された鞴(ふいご)の中には、福岡県博多遺跡出土の鞴と共通するものがある。”
朝鮮半島南部の陶質土器をともなっていることは注目される。纏向遺跡の鉄器生産が北部九州からの影響のもとで行われ、さらに半島南部の工人も加わっていていたことすら思わせる。
”纏向遺跡では新たな技術導入は北部九州から始まったこと、また対外交流の実態も、わずかに庄内末期の鉄器生産に関わるものが主体であったことを示している。”
【解説】
北部九州や半島南部の影響があると述べてます。(3)で纏向遺跡を造った人々は、遠い地域からやってきた人々ではない、としましたが、北部九州との関連が深い人々である可能性が高いです。

(5)古墳造営集落としての性格
”纏向遺跡は周辺の大型古墳造営のための「古墳造営キャンプ」である、という酒井龍一の見解がある。”
としてその根拠として、
”初期古墳に関わる特殊埴輪片の出土、鉄器生産・玉生産も古墳との関連性を想定させること、玉類の未成品や古墳の石室材と思しき板石の発掘など、遺跡と大型古墳群造営との関係は密接である。”
”纏向遺跡を含む盆地東南部の遺跡群が、大和政権の成立基盤であることは疑いないが、その要因に大古墳群の造営という大事業が大きく関わっているとみることができる。”

【解説】
ここから、纏向遺跡の性格について、大胆な仮説を紹介してます。それは「古墳造営キャンプ」ではないか、というものです。確かに纏向遺跡は、水田遺構もなく竪穴式住居も少ないなど、特殊であるだけに、興味深い仮説です。

5.大和地域の遺跡状況と邪馬台国
以上をまとめて、以下のように述べてます。
”以上のように、これまでの纏向遺跡の内容をみると、そこに邪馬台国として想定した場合、比較ができるような遺構・遺物というものが、全くといってよいほど見当たらないことに気づかされる。つまり、纏向遺跡の実態からは、邪馬台国との関連性を見出すことができない。”
”そして鉄器生産が端的に示しているように、庄内期後半に至るまで、一大遺跡群としての纏向遺跡自体には、北部九州を越える明確な先進性はうかがえない。”
”このような事実から、纏向遺跡は邪馬台国とは地域・性格、そして時代も異にする遺跡であるといえるのではないだろうか。”
”直接的な対外交流の痕跡というものが、決定的に欠けている。”
「魏志倭人伝」にみえる交流実態とは、およそかけ離れたものであるといえよう。”
【解説】
私はここまで、纏向遺跡は「魏志倭人伝」の邪馬台国の記載と一致しない、とお話してきましたが、それを補強する内容となってます。

”古墳時代中期・5世紀になると、状況は一変する。
倭の五王の時代であり、巨大古墳が大阪平野や奈良盆地に群在し、当時の政権の中枢が近畿中部に存在したことは明瞭である。”
【解説】
この考古学上の根拠として、それ以前にはみられなかった半島系の韓式・陶質土器や古式の須恵器・馬の歯・骨などの出土を挙げています。

”このような古墳時代中期の状況と対比すれば、弥生時代後期・庄内期の奈良盆地において、北部九州の諸国を統率し、魏王朝と頻繁な交流を行ったという邪馬台国の存在は想定することもできない。”
”以上のように、大和地域の遺跡や墳墓にかかわる幾多の考古学的事実の示すところは、明確に邪馬台国大和説を否定している、といわざるをえない。”
【解説】
そして最後に改めて、「邪馬台国=纏向遺跡(大和)」説を強く否定してます。
これが実際に、纏向遺跡を発掘された方の論説であるだけに、驚きです。関川氏は、奈良県橿原考古学研究所の所属でした。ここまで「邪馬台国=大和」説を否定して、組織の中でうまくいっていたのだろうか?、などと、ついつい余計なことを考えてしまいます。

それはさておき、ここまでの中に、纏向遺跡(都市)出現の謎を解くヒントがあります。
列挙しますと、
a.纏向遺跡は、突然出現したのではなく、弥生時代の延長にある都市である。
b.唐古・鍵遺跡など周辺の遺跡に住んでいた人々と共通する文化をもっていた。
c.異文化をもった人々がやってきて征服してできた都市ではない。
d.鉄器生産など新たな技術導入は、九州北部の影響を受けている。
e.搬入土器の交流地域は東方に重心。河内は西方を志向しており、対照的である。
f.埴輪や祭祀は、吉備の影響も受けている。
 

これらを基に、結局纏向遺跡とは何なのか、天皇の宮なのか?、それとも「古墳造営キャンプ」なのか?、のちほど改めて考えていきます。

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纏向遺跡は邪馬台国か?(8)~発掘担当者が語る纏向遺跡の真実①

前回は、邪馬台国の広域地域圏という概念について、考察しました。結論としては、そうした概念はありうるものの、それが即「邪馬台国畿内説」とは、結びつかないことをお話しました。

そのポイントの一つとして、銅鐸祭祀をどのように考えるのか、があります。具体的には、纏向遺跡が銅鐸祭祀を行っていたのか、それならなぜ遺跡出現の3世紀頃に突然、中止したのかを明確にする必要があります。

なぜここにこだわるのかというと、大和王権の歴史書である古事記・日本書記に銅鐸に関する記載が一切無く、伝承されていた形跡もない、という文献上の事実があるからです。そうなると、纏向遺跡が大和王権とどのような関係になるのかを明確にする必要がある、ということです。

私はそもそも纏向遺跡で銅鐸祭祀を行っていたことに懐疑的です。したがって「邪馬台国=畿内広域地域圏」という考え方にも、「?」です。

これは非常に大きなテーマですが、長くなりますので、ここではこれ以上踏み込みません。

ところで、実際に、纏向遺跡を発掘していた現場担当者は、どのような考えをもっているのでしょうか?。どの世界においても、現場担当者の肌感覚というのは大いに参考になるものです。現場担当者にとって、自分たちの発掘しているものが邪馬台国の遺跡であれば、こんなにうれしいことはないでしょう。となると、全員が全員、「邪馬台国=畿内説」のような気もしますね。皆さんも興味がありませんか?。

今回は、そのあたりをみてみましょう。

論文を紹介します。
「考古学から観た邪馬台国大和説への疑問(1)(2)(3)(関川尚功(ひさよし)、季刊邪馬台国)」です。

関川氏は、橿原考古学研究所の所員として長年にわたり纒向遺跡の発掘調査に携わり、石野博信氏とともに報告書『纒向』を著した方です。現場を知り尽くしている人の一人といっていいでしょう。当然、「邪馬台国=畿内」説かと思ってしまいます。

ところがです。題名のとおり、「邪馬台国=畿内」説を、痛烈に批判しているのです。はたしてその根拠は何でしょうか?。早速内容をみていきましょう。

冒頭、邪馬台国候補地は九州北部と近畿・大和に大別されている、としたうえ、
”両地域はかなり隔たりがあり文化にもかなりの違いがあるので、比較ということであれば、むしろ考古学的な遺跡や古墳の検討が有効性を発揮しよう。”と述べてます。

そして、”邪馬台国大和説は歴史が長く、かなり根強いものがある。考古学の立場から大和説を主唱した小林行雄が活躍した1965年頃も、依然として前期古墳より出土した銅鏡が検討の対象だった。
これは当時、大和地域の弥生時代遺跡の内容や大型前方後円墳の出現時期などについて、未だ不明なところが多かったことが、その要因の一つであろう。”
と述べてます。

つまり、考古学的に昔から、「邪馬台国=畿内」説が唱えらえてきたが、それはまだ調査も不充分で科学的データも揃わなかった時代の話である、ということです。

そして、”今日では、これらの問題について、基本的な事実が明らかになってきたことも多い。”として、”弥生時代後期から庄内期にかけて、この地域における遺跡や墳墓・古墳の実態が、はたして邪馬台国の所在地としてふさわしいものか”、という観点から、論を進めてます。

初めに大和地域の弥生遺跡と墳墓の実態です。

1.大和地域の大型集落
”「拠点集落」とも呼ばれる大型集落遺跡の多くは、盆地東南部に偏在しており、河内に接する西部や山城にいたる北部地域には、大型集落はみられない。”

大和盆地内弥生遺跡
これは邪馬台国の面積検証の際にも出てきましたが、大和盆地内の平地面積は、全体では、約34千haほどあるものの、実際には盆地中央から北西部にかけては網状流路という低湿地で、常に河川の氾濫の脅威にさらされ、人が定常的に住めない地域であるというお話をしました。
それはこの図からもよくわかり、網状流路を避けるように、弥生時代遺跡があります。さらにその分布は盆地南西部に偏在しており、北部や南西部には、遺跡がないに等しいです。つまりそうした地域には大きな集落はなかった、ということです。

そうなると、実際の盆地内で定常的に人が住める土地は、見たところ全体面積約34千haの4分の1ほどですから、8千ha強ほどになり、邪馬台国の面積要件(最低33千ha)を満たさないことが、わかります。

”地域を代表する大型集落である唐古・鍵遺跡は、弥生時代前期から始まり、中期には環濠が成立する。巨大な柱を使用した大型建物が現れ、銅鐸を始めとする青銅器の生産も行われる。ところが弥生時代後期に入ると集落は継続する一方、特色ある遺構や青銅器生産は確認されず、その終わり頃には大規模環濠もなくなる。
これらの大型集落は、古墳時代前期まで長期にわたって継続している。纏向遺跡成立後も、規模は縮小しても集落機能が続く遺跡が多いことは、注意される。”

以上のように、大和の集落について概括的に特徴を挙げてます。弥生時代後期になると、集落としての活動が低下していることは、注目です。その時期に、纏向遺跡が出現しているからです。
そして最後に、
”大和の弥生大型集落は集約的な立地で規模も大きく継続性があることが特徴であるが、隣接地域の大型集落と比較しても、その内容に大きな差はみられない。
と述べてます。

あれ?、と思われた方も多いのではないでしょうか?。
大和の遺跡というと、最近では盛んに纏向遺跡が取り上げられます。特にその規模が強調されますが、内容について少なくともそれ以前については、大和隣接の大型集落と大きな差はない、というのです。

2.大和地域の墳墓
”唐古・鍵遺跡では、木棺墓・方形周溝墓・土器棺墓がみられるが、弥生時代を通じて副葬品を有するものはない。また後期に入って丘陵上に出現する墳丘墓は、大和地域ではきわめて少ない。
一方、奈良盆地東方の宇陀市域では、弥生時代後期から古墳時代初めまで小規模ながら、多くの墳丘墓が築かれた。奈良盆地を南西に離れた五條市域でも、墳丘墓がみられるなど、弥生墳丘墓は、盆地内外で大きな違いがある。”
"弥生時代後期に瀬戸内・山陰・北陸など主に西日本各地で各種大型墳丘墓が発達するのに対して、大和地域では墳丘墓自体がほとんどみられず。さらに首長墓とされる大型墳丘墓については、むしろ空白地帯といえる。
”また方形周溝墓など弥生墳墓全体における副葬品もほぼ皆無の状態で、他地域とは著しい違いがみられる。”
このような実態は、少なくとも邪馬台国問題においては、肯定的な材料にはなりえないであろう。”

弥生時代の大和地域に大型墳丘墓がなかった、また副葬品もなかったとなると、果たして大和地域に、首長といえる人々がいたのか?、という疑問が沸きます。もちろん墓の様式は地域によってさまざまなので、そこまではいえないとしても、少なくとものちの古墳につながる文化はもっていなかったことは、確実です。
となると、古墳は大和地域のなかから自立的に生まれたのでない、という可能性が高まりますね。

3.大和地域の遺物
では遺物は、どうでしょうか?。特徴として、3つ挙げてます。

(1)目立つ東方系の土器

”唐古・鍵遺跡の他地域からの搬入土器は、西は吉備、北は近江、東は伊勢湾地域が主な交流範囲であり、邪馬台国と関係の深い北部九州との関係は全くといってよいほど認められない。全体的な傾向としては、むしろ東方との交流が多いことがうかがえる。”

纏向遺跡も同様ですが、搬入土器が多いことが特徴とされてます。ところがその搬入元は、東方が多く、土器の先進地域であった北部九州のものは全くみられないのです。つまり弥生時代後期の大和は、土器の先進地域ではなかった、ということになります。

(2)金属器の少なさ
当時の先端的武器といえば、金属器です。金属器の量は、文明の先進度を表すといってもいいでしょう。
では大和地域で、その金属器は大量に出土しているでしょうか?。

”弥生遺跡より出土した鉄器は、今のところ唐古・鍵遺跡では4点、その他の遺跡では、鉄斧・鉄鏃などで、総数10点ほどである。隣接する大阪府下では、総数はすでに120点を越えており、それと比較してもかなり少ない。”
青銅器については、調査例の多い唐古・鍵遺跡で32点、小形の銅鏃が24点と最も多い。青銅器生産では、唐古・鍵遺跡他であるが生産遺跡数では河内のほうがやや多く、
大和地域が近畿の中でも特に突出していることはない。”

鉄器・青銅器とも、大和地域は少なく、むしろ大阪のほうが多いという結果です。当然、九州北部とは比較にもならない状況です。

(3)微々たる大陸系青銅器
最後に、邪馬台国を考える上で最も重要な大陸系遺物ですが、

”特徴的な大陸系青銅器の出土は、近畿地方の中でも特に少ない。大阪府下では、漢式鏡の破片や貨泉がすでに約20点出土しているが、大和地域では、その数ははるかに下回る。”
”大陸系青銅品の代表格である中国の銭貨・貨泉に至っては、東日本でも出土するところがあるにもかかわらず、奈良県内では未だに皆無の状態である。”
”大和弥生文化の特質を一書にまとめた川部浩司も、韓半島との直接的な交渉は期待できない、と述べている。”
と厳しい状況を指摘してます。
そして
”大和の弥生遺跡においては、国内の交流範囲の主体は、北部九州より、むしろ東方地域である。そして最も重視されるべき直接的な対外交流のあとは、全くといってよいほどうかがうことはできないまた、弥生時代を通じて、その伝統もみられないのである。”
と述べてます。

以上を読むと、何だか弥生時代の大和地方は、九州北部と比較する以前に、近畿の中においてでさえ文化の遅れた地域であったことが強く推定されます。そのような地域に、本当に邪馬台国があったのだろうか?、という疑問が強く沸き起こるのは、ごくごく自然なことではないでしょうか?。


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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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