纏向遺跡は邪馬台国か?(12)~比恵・那珂周辺遺跡群
前回まで纏向遺跡について、魏志倭人伝からみた検証をしてきました。その結果、纏向遺跡は魏志倭人伝の描く倭国やその都である邪馬台国の姿とは多くの点で合致しないことがわかりました。昨今のマスコミ報道では、邪馬台国は纏向遺跡で決まりみたいな論調ですが、それとは大きく異なることになります。
ところで皆さんのなかには、
「魏志倭人伝は今から1600年以上前に編纂された史書で、しかも当時の中国人が倭国の伝聞を基に書いたものだ。内容が合致していないのものも当たり前だ。だからといって、邪馬台国ではない、とはいえないのではないか?」
という疑問をもたれた方もおられるでしょう。
確かにそういう考え方もあります。もちろん、魏志倭人伝のすべての記載が事実だったのか、という検討は、当然すべきです。
しかしながら、魏志倭人伝を疑いはじめたら、「そもそも邪馬台国なるものなど実際に存在したのか?」ということにまで発展しかねません。何せ、日本の史書である古事記、日本書記には、「邪馬台国」という国名は、一切出てこないわですから・・・。
この話はまた別の機会に譲るとして、ここからは、別の視点で考えていきます。
別の視点とは、
「魏志倭人伝の記載に合致する遺跡が、他に日本国内にあるのか?」
ということです。
もしそのような遺跡が存在しているのであれば、そこが倭国、あるいは邪馬台国だった可能性があります。少なくとも、纏向遺跡より可能性が高い、と言えることになります。
ではそのような遺跡があるのか、みてみましょう。
前回までの、関川氏の論文にもありますが、当時の日本で最大の遺跡群は、九州博多平野の遺跡群です。私は、ここを邪馬台国と比定してますが、一般的には「奴国(なこく」)とされてます。
この件はすでにお話してますので、ここでは触れません。今回は、その中心領域といわれる、「比恵(ひえ)・那珂(なか)遺跡」を紹介します。太字は「福岡市博物館HP、比恵・那珂モノがたり」からの抜粋です。
”比恵・那珂遺跡群(以下、比恵・那珂)は福岡平野の中央部を北流して博多湾に流れ込む那珂川と御笠川に挟まれた丘陵上に広がる遺跡群です。現在でいうと博多駅と竹下駅の間に位置しています。
遺跡の名称としては分けられていますが、同時代に人々が活動したひとつの遺跡です。また、比恵の東側には山王(さんおう)遺跡(比恵甕棺遺跡(ひえかめかんいせき))、那珂の南側には五十川遺跡があり、地形的な隔たりがないことや発見される遺構の内容から大きな一連の遺跡として捉えることができます。”
【解説】
福岡平野全体の遺跡分布図からです。比恵・那珂遺跡のみならず、すぐ南の須玖岡本遺跡をはじめ、大きな遺跡群が数多く分布しているのがわかります。
”宅地化が進む現状からは遺跡の当時の姿を想像することは難しく、その重要性を理解するのは一筋縄ではいきません。
遺跡の範囲として比恵が65ヘクタール、那珂が83ヘクタール、山王遺跡が15ヘクタールが登録され、全体の面積としては164ヘクタールという広大な範囲となります。これは佐賀県神埼郡にある吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)の約4倍に相当する広さとなります。
北部九州屈指の遺跡であり、弥生時代から古代にかけては何度も歴史の表舞台に登場する、日本の歴史を読み解く上では重要な遺跡でです。”
【解説】
全体は山王遺跡も合わせ、164haという広大な面積です。なお、さらに周囲の須玖岡本遺跡群も一体とみなす説もあります(柳田康雄氏)。
”縄文時代から弥生時代へと時代が移り変わる頃になると、比恵・那珂が広がる丘陵周辺の低位な場所に小さな集落がぽつりぽつりと形成され始めます。
人々は水場に近い場所に集落を形成する一方で、食料を保管する貯蔵穴(ちょぞうけつ)は水気を避けるため丘陵の高い場所につくりました。注目されるのは那珂南西側では二重に環濠(かんごう)が巡る集落が出現したことです。この環濠は、最古の農村として有名な板付遺跡の環濠より先行するものと考えられており日本でも最古級の環濠とされています。のちに北部九州から全国に広がった環濠集落という暮らしの方法を、朝鮮半島から最初に取り入れたのは比恵・那珂に住む人々だったのです。”
【解説】
日本における環濠集落の先駆けであったことがわかります。
”前期から中期にかけては、河川の沖積作用が増大したため低湿地が拡大しはじめました。この頃、比恵・那珂の人々は丘陵を覆っていた照葉樹林の森を切り開いて集落の拡張をはじめます。
集落が大きくなると同時に墓地が各所で作られるようになります。前期には山王遺跡で土壙墓・木棺墓群、中期初頭~前半には比恵北側を中心として甕棺墓が、中期中頃~後期には那珂北側に甕棺墓が集中する傾向がみられます。”
【解説】
弥生中期頃に、九州北部独特の甕棺墓が現れます。
”弥生時代の埋葬遺構が多く見つかる比恵・那珂ですが、墓に銅鏡を副葬するような有力者の存在を示す例は発見されていません。比恵で発見された甕棺墓には唯一、細形銅剣(ほそがたどうけん)が副葬されていました。この銅剣の出土は集団を統率する実力者が存在していたことを示すとともに、この頃の奴国内での比恵・那珂の立場や役割を教えてくれるモノでもあります。
【解説】
弥生時代に銅鏡を副葬するような有力者の存在は確認されてません。当然実力者はいたでしょうが、ここでいう有力者とは首長という意味だと考えられます。
では有力者すなわち首長はどこにいたのか?、ですが、当時は南の須玖岡本遺跡にいたと考えられますが、それはのちほど出てきます。
”弥生時代中期以降、比恵・那珂を代表する遺構として数百もの井戸が掘られます。県内で発見された井戸の半分以上が比恵・那珂に集中していることは、比恵・那珂に多くの人々が集まり暮らしていたことを示唆してくれます。また、これらの井戸には祭祀(さいし)に用いられたとされる彩色土器などが繰り返し投げ入れられていることがよくあります。
比恵・那珂に住む人々の活動が一気に盛んになるのは弥生時代中期後半以降で、後期には丘陵のほとんどの場所で開発が行われたようです。”
【解説】
”県内で発見された井戸の半分以上が比恵・那珂に集中している”ということは、弥生時代中期以降の現福岡県では最大の人口密集地だったということになります。
”中期後半に掘られた大溝(おおみぞ)は、丘陵内部を縦横に走り、多くの労働力を用いて集落を拡大させていったことが分かります。また、各所で大型の掘立柱建物が造営されるなど、丘陵が徐々に開発され、眺望が開けていく様子も明らかとなりました。比恵北東側の沖積地には中期中頃~後期にかけての大規模な水田(東比恵三丁目遺跡)が開発され、比恵・那珂に住む人々の生活を支えていました。”
【解説】
多くの人々の食料を供給するだけの水田もありました。
”この時期の奴国の拠点は、春日市の須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき)を中心とする大集落にありました。舶載(はくさい)された鏡を大量に副葬する「王墓(おうぼ)」が発見された須玖岡本遺跡は、奴国の政治と祭祀の中核でした。その周辺で発見された大量の青銅器鋳型や工房跡の発見は、弥生の青銅器工業団地とも称されています。比恵・那珂では「王墓」こそ発見されていませんが、須玖岡本遺跡群に並ぶほど多様な遺構と多彩な遺物をもつ遺跡であり、比恵・那珂は奴国の副都心であったと言えます。”
【解説】
当時の都は須玖岡本遺跡でした。王墓からは、質・量ともに王にふさわしい品が副葬されてました。
”弥生時代の後期後半以降も比恵・那珂の発展は続き、古墳時代となっても丘陵の大がかりな開発は絶えることなく行われました。そして集落の拡大だけではなく新しい要素もみられます。古墳時代初頭には首長墓(しゅちょうぼ)として、福岡平野最初の前方後円墳である「那珂八幡古墳」が那珂中央部に築造されました。そして弥生時代の終わり頃から古墳時代はじめ頃には比恵・那珂を縦走する並列溝(へいれつみぞ)がつくられました。全長1.5㎞以上も延びるこの並列溝は、その形状から両側に側溝をもつ道路である可能性が考えられています。道路沿いには規格的な配置を持って方形周溝墓群(ほうけいしゅうこうぼぐん)が並ぶように築造されました。”
【解説】
古墳時代初頭には、那珂八幡古墳が築造されます。3世紀中頃から後半と推定されますが、時期的には卑弥呼死去から壹与(いちよ、いよ)の時代に重なります。
”弥生時代の終わり頃から古墳時代のはじめ頃、比恵・那珂が発展する一方で、先の須玖岡本遺跡群を中心とする地区では遺構が減少することが報告されています。このことは「奴国」の中心が比恵・那珂に移ったことを示しており、奴国の首都が移転したとも言えます。奴国内でも主要な位置を占めるようになった比恵・那珂には、倭国内の各地域や朝鮮半島の土器等の様々なモノが持ち込まれました。この時期前後に北部九州へと伝播した土器が比恵・那珂を介して九州各地に広がっていったとする研究もあり、比恵・那珂を拠点とした広範囲の交易ルートが確立されていたことが分かります。”
【解説】
この頃、クニの都が須玖岡本遺跡群から比恵・那珂遺跡群へと移転した、としてます。
以上が、概要です。
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という疑問をもたれた方もおられるでしょう。
確かにそういう考え方もあります。もちろん、魏志倭人伝のすべての記載が事実だったのか、という検討は、当然すべきです。
しかしながら、魏志倭人伝を疑いはじめたら、「そもそも邪馬台国なるものなど実際に存在したのか?」ということにまで発展しかねません。何せ、日本の史書である古事記、日本書記には、「邪馬台国」という国名は、一切出てこないわですから・・・。
この話はまた別の機会に譲るとして、ここからは、別の視点で考えていきます。
別の視点とは、
「魏志倭人伝の記載に合致する遺跡が、他に日本国内にあるのか?」
ということです。
もしそのような遺跡が存在しているのであれば、そこが倭国、あるいは邪馬台国だった可能性があります。少なくとも、纏向遺跡より可能性が高い、と言えることになります。
ではそのような遺跡があるのか、みてみましょう。
前回までの、関川氏の論文にもありますが、当時の日本で最大の遺跡群は、九州博多平野の遺跡群です。私は、ここを邪馬台国と比定してますが、一般的には「奴国(なこく」)とされてます。
この件はすでにお話してますので、ここでは触れません。今回は、その中心領域といわれる、「比恵(ひえ)・那珂(なか)遺跡」を紹介します。太字は「福岡市博物館HP、比恵・那珂モノがたり」からの抜粋です。
”比恵・那珂遺跡群(以下、比恵・那珂)は福岡平野の中央部を北流して博多湾に流れ込む那珂川と御笠川に挟まれた丘陵上に広がる遺跡群です。現在でいうと博多駅と竹下駅の間に位置しています。
遺跡の名称としては分けられていますが、同時代に人々が活動したひとつの遺跡です。また、比恵の東側には山王(さんおう)遺跡(比恵甕棺遺跡(ひえかめかんいせき))、那珂の南側には五十川遺跡があり、地形的な隔たりがないことや発見される遺構の内容から大きな一連の遺跡として捉えることができます。”


【解説】
福岡平野全体の遺跡分布図からです。比恵・那珂遺跡のみならず、すぐ南の須玖岡本遺跡をはじめ、大きな遺跡群が数多く分布しているのがわかります。
”宅地化が進む現状からは遺跡の当時の姿を想像することは難しく、その重要性を理解するのは一筋縄ではいきません。
遺跡の範囲として比恵が65ヘクタール、那珂が83ヘクタール、山王遺跡が15ヘクタールが登録され、全体の面積としては164ヘクタールという広大な範囲となります。これは佐賀県神埼郡にある吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)の約4倍に相当する広さとなります。
北部九州屈指の遺跡であり、弥生時代から古代にかけては何度も歴史の表舞台に登場する、日本の歴史を読み解く上では重要な遺跡でです。”

【解説】
全体は山王遺跡も合わせ、164haという広大な面積です。なお、さらに周囲の須玖岡本遺跡群も一体とみなす説もあります(柳田康雄氏)。
”縄文時代から弥生時代へと時代が移り変わる頃になると、比恵・那珂が広がる丘陵周辺の低位な場所に小さな集落がぽつりぽつりと形成され始めます。
人々は水場に近い場所に集落を形成する一方で、食料を保管する貯蔵穴(ちょぞうけつ)は水気を避けるため丘陵の高い場所につくりました。注目されるのは那珂南西側では二重に環濠(かんごう)が巡る集落が出現したことです。この環濠は、最古の農村として有名な板付遺跡の環濠より先行するものと考えられており日本でも最古級の環濠とされています。のちに北部九州から全国に広がった環濠集落という暮らしの方法を、朝鮮半島から最初に取り入れたのは比恵・那珂に住む人々だったのです。”
【解説】
日本における環濠集落の先駆けであったことがわかります。
”前期から中期にかけては、河川の沖積作用が増大したため低湿地が拡大しはじめました。この頃、比恵・那珂の人々は丘陵を覆っていた照葉樹林の森を切り開いて集落の拡張をはじめます。
集落が大きくなると同時に墓地が各所で作られるようになります。前期には山王遺跡で土壙墓・木棺墓群、中期初頭~前半には比恵北側を中心として甕棺墓が、中期中頃~後期には那珂北側に甕棺墓が集中する傾向がみられます。”
【解説】
弥生中期頃に、九州北部独特の甕棺墓が現れます。
”弥生時代の埋葬遺構が多く見つかる比恵・那珂ですが、墓に銅鏡を副葬するような有力者の存在を示す例は発見されていません。比恵で発見された甕棺墓には唯一、細形銅剣(ほそがたどうけん)が副葬されていました。この銅剣の出土は集団を統率する実力者が存在していたことを示すとともに、この頃の奴国内での比恵・那珂の立場や役割を教えてくれるモノでもあります。
【解説】
弥生時代に銅鏡を副葬するような有力者の存在は確認されてません。当然実力者はいたでしょうが、ここでいう有力者とは首長という意味だと考えられます。
では有力者すなわち首長はどこにいたのか?、ですが、当時は南の須玖岡本遺跡にいたと考えられますが、それはのちほど出てきます。
”弥生時代中期以降、比恵・那珂を代表する遺構として数百もの井戸が掘られます。県内で発見された井戸の半分以上が比恵・那珂に集中していることは、比恵・那珂に多くの人々が集まり暮らしていたことを示唆してくれます。また、これらの井戸には祭祀(さいし)に用いられたとされる彩色土器などが繰り返し投げ入れられていることがよくあります。
比恵・那珂に住む人々の活動が一気に盛んになるのは弥生時代中期後半以降で、後期には丘陵のほとんどの場所で開発が行われたようです。”
【解説】
”県内で発見された井戸の半分以上が比恵・那珂に集中している”ということは、弥生時代中期以降の現福岡県では最大の人口密集地だったということになります。
”中期後半に掘られた大溝(おおみぞ)は、丘陵内部を縦横に走り、多くの労働力を用いて集落を拡大させていったことが分かります。また、各所で大型の掘立柱建物が造営されるなど、丘陵が徐々に開発され、眺望が開けていく様子も明らかとなりました。比恵北東側の沖積地には中期中頃~後期にかけての大規模な水田(東比恵三丁目遺跡)が開発され、比恵・那珂に住む人々の生活を支えていました。”
【解説】
多くの人々の食料を供給するだけの水田もありました。
”この時期の奴国の拠点は、春日市の須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき)を中心とする大集落にありました。舶載(はくさい)された鏡を大量に副葬する「王墓(おうぼ)」が発見された須玖岡本遺跡は、奴国の政治と祭祀の中核でした。その周辺で発見された大量の青銅器鋳型や工房跡の発見は、弥生の青銅器工業団地とも称されています。比恵・那珂では「王墓」こそ発見されていませんが、須玖岡本遺跡群に並ぶほど多様な遺構と多彩な遺物をもつ遺跡であり、比恵・那珂は奴国の副都心であったと言えます。”
【解説】
当時の都は須玖岡本遺跡でした。王墓からは、質・量ともに王にふさわしい品が副葬されてました。
”弥生時代の後期後半以降も比恵・那珂の発展は続き、古墳時代となっても丘陵の大がかりな開発は絶えることなく行われました。そして集落の拡大だけではなく新しい要素もみられます。古墳時代初頭には首長墓(しゅちょうぼ)として、福岡平野最初の前方後円墳である「那珂八幡古墳」が那珂中央部に築造されました。そして弥生時代の終わり頃から古墳時代はじめ頃には比恵・那珂を縦走する並列溝(へいれつみぞ)がつくられました。全長1.5㎞以上も延びるこの並列溝は、その形状から両側に側溝をもつ道路である可能性が考えられています。道路沿いには規格的な配置を持って方形周溝墓群(ほうけいしゅうこうぼぐん)が並ぶように築造されました。”
【解説】
古墳時代初頭には、那珂八幡古墳が築造されます。3世紀中頃から後半と推定されますが、時期的には卑弥呼死去から壹与(いちよ、いよ)の時代に重なります。
”弥生時代の終わり頃から古墳時代のはじめ頃、比恵・那珂が発展する一方で、先の須玖岡本遺跡群を中心とする地区では遺構が減少することが報告されています。このことは「奴国」の中心が比恵・那珂に移ったことを示しており、奴国の首都が移転したとも言えます。奴国内でも主要な位置を占めるようになった比恵・那珂には、倭国内の各地域や朝鮮半島の土器等の様々なモノが持ち込まれました。この時期前後に北部九州へと伝播した土器が比恵・那珂を介して九州各地に広がっていったとする研究もあり、比恵・那珂を拠点とした広範囲の交易ルートが確立されていたことが分かります。”
【解説】
この頃、クニの都が須玖岡本遺跡群から比恵・那珂遺跡群へと移転した、としてます。
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