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纏向遺跡は邪馬台国か?(17)~残された謎。纏向遺跡はどの天皇の宮か?

ここまで纏向遺跡について、概要、広域地域圏の考え方についてみてきました。魏志倭人伝の倭国や邪馬台国に関する記載内容との照合もしましたが、合致している項目の割合は、12項目中の4項目、33%とかなり低いことがわかりました。

一方、私が邪馬台国と考えている福岡平野の比恵・那珂周辺遺跡群(通説の「奴国」含む)についてもみてきました。その結果、奴国(通説)は魏志倭人伝の記載内容と合致している項目の割合は、ほとんど100%といっていいことが確認できました。

ということは、邪馬台国は、纏向遺跡ではなく、比恵・那珂周辺遺跡群を中枢とする福岡平野にあったと考えるのが合理的ということになります。

さてここでひとつ疑問が浮かびます。

「纏向遺跡が邪馬台国でなかったなら、あの広大な遺跡群は何だったのか?」
という疑問です。

今回はそれを考えてみましょう。

まず纏向遺跡の特徴のおさらいです。

”纒向遺跡は大集落と言われながらも、人の住む集落跡が確認されていない。現在確認されているのは祭祀用と考えられる建物と土抗、そして弧文円板や鶏形木製品などの祭祀用具、物流のためのヒノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)だけである。遺跡の性格としては居住域というよりも、頻繁に人々や物資が集まったり箸墓古墳を中心とした三輪山などへの祭祀のための地と考える学者も多 い。”(Wikipediaより)

なんといっても、人が生活していたという「生活臭」が感じられません。大きな建物については、三輪山信仰に関わる施設だった可能性があります。

あるいは、周辺の大型古墳群造営のための「古墳造営キャンプ」である、という説(酒井龍一氏、奈良大学名誉教授)もあるようです。長年発掘調査にあたってこられた関川尚功氏(元橿原考古学研究所)は、
”纏向遺跡を含む遺跡群と大型古墳群の位置関係と時期の近接性は充分根拠になり得るであろう。”
として、肯定的な見解を示してます。

確かにそのように考えると、纏向遺跡がなぜ2世紀末頃に出現して4世紀中頃には消滅したのか、という疑問に対する答えにはなりえます。

とはいえ、これでは纏向遺跡に対する夢が無くなってしまします。

纏向遺跡が初期大和王権の宮とする論者は多いです(たとえば「ヤマト王権の誕生-王都・纒向遺跡とその古墳」(寺沢薫)など)。
下図のようなイメージ図も描かれてます。
纏向遺跡復元イメージ

この図をみると、壮大な宮殿のある都市、といった印象です。
では、纏向遺跡が初期大和王権の宮だったと仮定して、話を進めましょう。

まずはじめに考えるべきは、ではどの天皇の宮だったのか、です。

一般的には、第10代崇神天皇ともいわれてます。

ここで疑問が浮かびます。
時代は合っているのか?、です。

ここで歴代の天皇と宮、その推定所在地をまとめたものが下表です。皇暦(紀元暦)からみた没年と二倍年暦からみた没年も入れてます。

皇暦とは、初代神武天皇即位を紀元前660年として、その年をゼロ年としてそこからカウントする方法です。ちなみに今年西暦2018年は、紀元2678年となります。

それに対して二倍年暦とは、古代は1年で二回年を数えていたとする説です。いつから一倍年暦になったのかによりますが、24代の仁賢天皇あたりからとして、そこから単純に逆算した数字が、表の二倍年暦です。ちなみに神武天皇没年は、紀元前581年となります。
詳細は
一年で二回の年を数えたという「二倍年歴」説は本当か?(1) ~ 古代天皇が超長寿な理由
を参照ください。

古代天皇宮

皇暦からみると、崇神天皇の没年は、紀元前29年です。纏向遺跡の出現時期3世紀とは、全く合いませんね。

古事記には、没年を干支(えと)で、戊寅(つちのえとら)と記してます。戊寅は、60年に一度回ってきますが、258年,318年とする説があります。これですと、何とか遺跡の年代と合ってきそうですが、皇暦とは無関係です。

一方、二倍年暦ではどうでしょうか?。
崇神天皇の没年は、紀元後211年で、遺跡出現時期とほぼほぼ合ってきます。戊寅の198年と258年の間ですね。

皇暦を認める、という立場であれば、遺跡出現とと皇暦が一致しません。その一方、二倍年暦では合ってくるわけで、結果として、二倍年暦を認めていることになります。
纏向遺跡が崇神天皇の宮と考える論者は、このあたりどのような立場に立っているのでしょうか?

さてこの表をよくみると、興味深いことがわかります。

9代開化天皇(没年177年)の宮は、春日率川宮 (春日之伊邪河宮)、推定地は奈良県奈良市本子守町
10代崇神天皇(没年211年)の宮は、磯城瑞籬宮 (師木水垣宮)、推定地は奈良県桜井市大字金屋
11代垂仁天皇(没年261年)の宮は、纒向珠城宮 (師木玉垣宮)、推定地は奈良県桜井市大字穴師
12代景行天皇(没年291年)の宮は、纒向日代宮、推定地は奈良県桜井市大字穴師
13代成務天皇(没年321年)の宮は、志賀高穴穂宮、推定地は滋賀県大津市穴太1丁目
です。
つまり10代崇神天皇から12代景行天皇の3世紀代のみ纏向遺跡内と考えられるわけです。この期間を、図の赤矢印で示しました。

このことは、纏向遺跡が3世紀初めに突然出現して、4世紀半ばには消滅した、という考古学的事実と一致してます。
これが果たして偶然の一致なのか、それとも必然なのかは、これだけでは判断しかねるところです。

以上のとおり、纏向遺跡が何だったのか、については諸説あります。仮に天皇の宮とすると、崇神天皇のころ、ということになりますが、今のところ、これ以上いいようがありません。

また仮に崇神天皇の宮であったとしても、邪馬台国との関係については、懐疑的にならざるをえません。
というより、邪馬台国とは無関係の宮だった可能性が極めて高い、ということです。

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纏向遺跡は邪馬台国か?(16)~比恵・那珂遺跡周辺遺跡群と魏志倭人伝との関係は?

前回は、北部九州の博多湾岸にあった「クニ」についてみました。「クニ」は、通説では「奴国」とされてます。

その中枢は、須玖岡本遺跡周辺であり、その後比恵・那珂遺跡に移ったと考えられます。ということは、当然のことながら、比恵・那珂遺跡と須玖岡本遺跡は一体とみなしてよいでしょうし、博多湾岸の「クニ」-通説の「奴国」も同じ文化圏ということです。

ではこの前提で、魏志倭人伝の描く「倭国」「邪馬台国」とどのくらい一致しているでしょうか?。検証してみましょう。

魏志倭人伝の記載を再掲します。

1.紀元前後から継続している遺跡である。
2.周辺含めた全体領域は、少なく見積もっても33000ha以上,人口は40~50万人に及ぶ。
3.海辺にあり、漁業を中心としている。
4.稲・麻を栽培している。
5.養蚕を行い、絹織物を生産している。錦も生産している。はいない。
6.、盾、弓、鉄や骨の矢じりを兵器として、常備している。
7.南方系の風習である。
8.棺はあるが、
槨(かく)はない。埋葬してから盛り土する。
9.真珠・青玉が採れる。
10.丹(硫化水銀)が採れる。
11.宮殿・楼閣・倉庫(高床式)・城柵がある。
12.大きな戦いが幾度かあり、多くの戦死者が出た。


では一つずつみていきましょう。

1.紀元前後から継続している遺跡である。
遅くとも弥生時代前期から中期にかけて、人々が住み始めた集落であり、以降連綿と続いてますから、合致してます。

2.周辺含めた全体領域は、少なく見積もっても33000ha以上,人口は40~50万人に及ぶ。
「クニ」としては、福岡平野全体ですから、面積的には満たしてますね。なお畿内同様、「邪馬台国広域地域圏」という捉え方もあることは、前回お話しました。これだけの範囲であれば、人口の要件は満たせそうです。

3.海辺にあり、漁業を中心としている。
博多湾に面してますので、当然漁業が盛んだったことでしょうから、合致してます。

4.稲・麻を栽培している。

水田遺構が多くみつかってます。当時の庶民は麻の服をきていたと推定されてますから、麻も栽培してたでしょう。以上より、合致してます。

5.養蚕を行い、絹織物を生産している。錦も生産している。はいない。
福岡平野の遺跡からは、弥生時代の絹が出土してます。なかでも須玖岡本遺跡から出土した絹は、中国製ではないかともされており、大変貴重です。以上より、合致してます。

絹出土地 

絹製品出土地(弥生時代)
No時代(弥生)遺跡名所在
 ①前期末有田福岡市早良区
 ②中期初頭吉武高木福岡市西区
 ③中期前半比恵福岡市博多区
 ④中期前半および後半栗山福岡県甘木市
 ⑤中期中葉朝日北佐賀県神埼郡神埼町
 ⑥中期後半立岩福岡県飯塚市
 ⑦中期後半門田福岡県春日市
 ⑧中期後半須玖岡本福岡県春日市
 ⑨中期後半吉ケ浦福岡県太宰府市
 ⑩中期後半三会村長崎県島原市
 ⑪中期後半樋渡福岡市西区
 ⑫後期初頭栗山福岡県甘木市
 ⑬後期終末宮の前福岡市西区
  ⑭後期終末~古墳前期唐の原福岡市東区


6.、盾、弓、鉄や骨の矢じりを兵器として、常備している。
須玖岡本遺跡からは、大量の武器が出土してます。矛も数多く出土しており、合致してます。
参考までに、広形銅矛の全国的な分布は、下図のとおりです。
青銅器分布図 


上の図で、△は広形銅矛です。九州北部、対馬に集中しているのがわかります。ちなみに○は、突線紐式銅鐸です。畿内から三河地方にかけて分布してますね。

弥生時代の鉄出土状況を、県別にまとめたのが、下の図です。いずれも福岡県に集中してます。

以上から、明らかに合致してます。


弥生時代の鉄出土状況表①(都道府県別) 
順位弥生時代の鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄 
鉄の刀鉄剣鉄矛
都道府県個数都道府県個数都道府県個数都道府県個数
   1福岡県17福岡県46福岡県7福岡県70
   2鳥取県16京都府44佐賀・山口2京都府48
   3福井県6長崎県23  佐賀県25
   4佐賀県5兵庫県21長崎・長野1長崎県29
   5長崎県5佐賀県18  鳥取県16
   6京都府4群馬県16  兵庫県21
   7山口・広島3千葉県14  群馬県16
         
 奈良県0奈良県1奈良県0奈良県1
*「弥生時代鉄器総覧」(広島大学考古学研究室 川越哲志編、2002年2月刊行)による。

弥生時代の鉄出土状況表②(都道府県別)
順位鉄の鏃
都道府県個数
   1福岡県398
   2熊本県339
   3大分県241
   4京都府112
   5岡山県104
   6宮崎県100
   7山口県97
   
 奈良県4
*「弥生時代鉄器総覧」(広島大学考古学研究室 川越哲志編、2002年2月刊行)による。


7.南方・海洋系の風習である。
海に近接しており、
”現代の倭人は、潜るのが大好きで、魚やハマグリを採っている。”

という記載は現代でも通用しますから、合致してるとみていいでしょう。

8.棺はあるが、槨(かく)はない。埋葬してから盛り土する。
弥生時代の北部九州の墓には、槨がないのが一般的ですから、これも合致してます。

9.真珠・青玉が採れる。
青玉は諸説ありますが「碧(へき)玉」ではないか、ともいわれてます(寺村光晴氏、和洋女子大学名誉教授)。
”ジャスパーとも呼ぶ。不純で不透明な玉髄。多くは酸化鉄によって紅,黄,褐,緑,黒などの色を呈する。硬さは石英よりやや低い。比重は 2.6~2.9で不純物が多いほど重い。色やつやにより次の種類がある。赤碧玉は俗に赤玉といい,象眼 (ぞうがん) 細工に使われ (佐渡の岩首,石川県国府) ,また庭石として珍重される。緑・青色碧玉島根県出雲地方の玉造石 (たまつくりいし) が名高く,歴代玉造りの中心素材であるため特に出雲石とも呼ばれる。”(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

それはそれとして、玉の県別産地は下表のとおりです。
真珠もとれたでしょうから、合致してるとみていいでしょう。

<弥生時代勾玉都府県別出土数>

硬玉製勾玉ガラス製勾玉
都府県個数都府県個数
  1佐賀6福岡18
  2福岡4佐賀1
  3島根・長野1  
(水野祐著「評釈魏志倭人伝」より)




10.丹(硫化水銀)が採れる。
墳墓の内部を赤く塗るのにも使われました。魔よけの意味もあったとされます。
流化水銀は、国内に多くの産地がありますので、合致としていいでしょう。

11.宮殿・楼閣・倉庫(高床式)・城柵がある。
比恵・那珂遺跡で、建物跡と推定される遺構が発掘されてます。柵列も検出されてますので、合致してます。
吉野ヶ里遺跡でも同様の建物跡が発掘されてますね。

<吉野ヶ里遺跡、北内郭の大型建物 >

吉野ヶ里遺跡
(Wikipediaより)

<吉野ヶ里遺跡の柵>
吉野ヶ里、柵 
(筆者撮影)


12.大きな戦いが幾度かあり、多くの戦死者が出た。

防衛機能があった集落ですから、戦いがあったことを推定させます。また近隣にある「隈・西小田(くま・にしおだ)遺跡」(福岡県筑紫野市)からは、殺傷跡のある人骨が多数出土しており、大きな戦いがあったことを示してます(「弥生時代の戦闘戦術」(藤原哲)より)。
吉野ヶ里遺跡の甕棺には、頭骨のない人骨が埋葬されてます。首は切断されてもっていかれたとみられます。
以上から、合致とみていいでしょう。

<吉野ヶ里遺跡、頭骨のない人骨>
吉野ヶ里人骨 

(「Archeologyue 創刊号」(2004年7月28日発行、三重大学人文学部考古学研究室・山中章研究室)より)

以上より、比恵・那珂遺跡周辺遺跡群(奴国(通説)含む)の場合は、魏志倭人伝の記載に、何と100%合致していることが確認できました。


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纏向遺跡は邪馬台国か?(15)~比恵・那珂周辺遺跡群の果たした役割

さて比恵・那珂周辺遺跡群の概要、さらには奴国(通説)において、須玖岡本遺跡が首都、比恵・那珂遺跡が副首都であり、それが弥生後期になり、比恵・那珂遺跡が首都になっていったことを、お話しました。そして広域地域圏という概念でいえば、福岡平野~筑後川流域にかけて、連合国というとらえかたもできる、ということにも触れました。

ここで一つ興味深いテーマを取り上げます。

それは、「比恵・那珂遺跡群、広い範囲でいえば奴国(通説)の機能は何か?」というテーマです。

久住氏の同論文からの概略です。

”もとは白井哲也氏の発想であるが、弥生時代後期の段階には、原の辻三雲という所が二つ拠点になってそれを一つのエリアとして、朝鮮半島と日本海地区の貿易が行われていた。この段階で、三雲井原と須玖岡本の最盛期であった。そういった意味で、列島内の貿易を管理するシステムがあった。その交易を実際管理しているのが、三雲とか須玖岡本だったであろう。”
【解説】
弥生時代後期の、朝鮮半島との貿易ルートについてです。壱岐島の原の辻と、福岡県糸島市の三雲が中心拠点だった、という指摘です。
これは魏志倭人伝の、
”女王国より北は、一大率(いちだいそつ)という役人をおいて、諸国を監視させている。そのため諸国は、この人をたいへん恐れ、煙たがっている。一大率は、いつも伊都国にいる。国中に監察官のような者を置いている。
邪馬台国の王は、魏の都洛陽や、帯方郡や、韓国などに、使いを送っている。また、郡の使節が、倭国へ行くときは、寄港する港をよく調査してから、持ってきた文書、贈り物などを、女王のもとへ運ばせるのだが、いかなる手違いもゆるされない。”
という記載に合致してます。

久住氏は、このことを出土土器を分析して、このような結論を導きました。史書と、考古学とが一致してますね。

そして、この二つの地域は、日本各地の貿易の拠点となっていた、ということです。こうした貿易は、バラバラにやっていたのではなく、管理するシステムがあった、その中心が三雲と須玖岡本だった、ということです。確かにこの時期、三雲と須玖岡本遺跡には、豪華な副葬品をもった王墓が出土してます。その王が、管轄していたということです。



原の辻~三雲貿易 

”次に、博多湾貿易へ変化する。この変化する頃に比恵・那珂が形成される。政治的な拠点にもなっていく。”
【解説】
やがて弥生時代終末期後半に、拠点が、三雲・原の辻から、博多湾へと移っていった、としてます。この頃、奴国(通説)の首都も、須玖岡本から比恵・那珂へと移動したわけです。
移動した理由について、久住氏は言及してません。航海技術の進歩により、直接奴国(通説)に運搬することができるようになったからでしょうか?。
あるいは、勢力争いの末、奴国(通説)が勝利したからでしょうか?



博多湾貿易 

”博多湾貿易関係だと、西新町という遺跡に集約される。そこには西日本の色んなところから土器が来ている。この辺でいろんな連中が西新町まで来て貿易をすると、その後ろにはそれを支える、特に比恵の勢力がこっちの勢力と協力して貿易しているという状況が窺える。
博多湾貿易段階の「博多湾岸経済」では、比恵に中心があるが、沿岸に貿易を支えるために、製塩がここらへんで行われたり、博多遺跡にかなり大規模な鍛冶遺構纏向の鍛冶工事もおそらく博多の人間がやっている可能性が高いがーがあり、特に鞴(ふいご)の羽口がより質がよい。鉄滓の量も莫大なものがあり、博多でたくさん作っている。
あるいは今山・今宿五郎江、潤地頭領とか、糸島の東半分で玉作りを盛んに行っていて、各拠点で全体として分業している、その背後に比恵という巨大な中枢がある。そしてここに西日本各地の人がやってきて、朝鮮半島の人たちと交易をする、という状況。”

”西日本各地にひょっとしたらこれ(鉄滓)がいっているのではないかというくらい鍛冶遺物が出ている。
古墳の副葬品にあるような有稜系鉄鏃、有稜系定角鉄鏃の未成品が少なくとも3点存在する。王権が配ったという説があるが、少なくとも未成品とかそういった非常に質が良くて、量がものすごい鍛冶遺構が博多遺跡にあって、そこから未成品が出ている以上、ひょっとしたら前期古墳の一部の有稜系鉄鏃は博多で作ったものが存在する可能性がある。その未成品によく似たものは金海大成洞にも存在する。”


【解説】
久住氏のいう「博多湾岸経済」の詳細です。エリアで分業体制となっていた様子がわかります。
西新町が中心の港、志賀島が製塩、博多遺跡が鍛冶、糸島の東半分で玉作り、そして比恵が中枢であったと推定してます。

興味深いのは、鍛冶です。
前期古墳の一部の有稜系鉄鏃は博多で作ったものが存在する可能性がある。”
と指摘してます。
畿内の古墳から出土している有稜系鉄鏃は、畿内の王権が配布したという説もありますが、それを否定する説です。むしろ博多から持ち込んだ可能性もある、ということです。
考えてみれば、鉄器については少なくとも前期古墳までは、畿内より九州北部のほうが圧倒的に多く出土しており、ということは技術も九州北部のほうが進んでいた、ということです。であれば、鉄鏃についても、九州北部から持ち込んだとしても、何ら不思議はありませんね。


博多湾貿易ネットワーク 

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纏向遺跡は邪馬台国か?(14)~北部九州の「邪馬台国広域地域圏」

前回、奴国(通説)の領域が、福岡平野を中心としたエリアであること、その領域が私が邪馬台国と考える領域とほぼ同じであること、をお話しました。

ところで邪馬台国畿内説においては、纏向遺跡を中心として、奈良盆地のみならず、その周辺領域も包含した広い地域を、邪馬台国「広域地域圏」とする説を紹介しました。もっとも、纏向遺跡を中枢とする以上、無理があることもお話ししました。

では、九州北部においても、同様な邪馬台国「広域地域圏」というものはありうるのでしょうか?。それを検討していきます。

ここでいう広域地域圏は、邪馬台国はいくつかのクニの連合国家である、という考え方に基づいてます。連合国家というからには、当然親密な交流があることが前提です。となると、同じ文化圏ということになります。

九州北部で特徴的な文化としては、甕棺墓があります。紀元前から継続的に採用され、王墓クラスのものもあります。卑弥呼の時代である3世紀頃には少なくなりましたが、同一文化圏の指標としては、わかりやすいもです。

ではその甕棺墓は、どのように分布しているでしょうか?。


邪馬台国広域地域圏  

図のとおり甕棺墓は、福岡平野を中心として、西は佐賀県唐津まで、東は遠賀川中上流域まで、南は久留米、肥前まで広がってます。西はさらに、佐賀県武雄から長崎県まで、南は熊本県まで広がってます。

興味深いのは、遠賀川下流域から東の宗像地方などは、甕棺墓の文化圏ではなかったことです。福岡平野が安曇族とすれば、宗像族と阿雲族は、文化が異なったことになります。

そして図の赤線で囲った部分が、邪馬台国広域地域圏と考えられる領域です。この領域のなかに、福岡平野はもちろん、甘木・朝倉、久留米、瀬高、大宰府など、邪馬台国の候補地とされる地域が含まれているところに注目です。

たとえば図中の瀬高は、旧山門(やまと)郡に属しますが、江戸時代の儒学者新井白石が邪馬台国候補地に唱えたことで有名です。その後、白鳥庫吉、坂本太郎、井上光貞氏らも唱えました。
町にある権現塚古墳は、地元では「卑弥呼の墓」ともいわれてます。神護石の ある山は「女山(ぞやま)」と呼ばれてますが、女王卑弥呼をそれとなく暗示しているようにも思えます。

甘木・朝倉は、安本美典氏(元産業能率大学教授)が唱えてます。平塚・川添遺跡など、大規模遺跡があることで知られてます。

久留米市の御井町には、高良大社(高良玉垂宮)があります。筑紫平野の要衝、高良山の山腹に鎮座してます。高良山は、神籠石で知られてますが、景行天皇の熊襲征伐においては高良行宮が置かれ、神功皇后の山門征討では麓に陣が敷かれました。また、磐井の乱において最後の戦さの舞台もなりました。

同じく久留米市の三瀦(みずま)町に大善寺玉垂宮があります。三瀦は、古代氏族「水沼氏(水間、みぬま)」が、変化したものとされます。奇祭「鬼夜」で知られてます。

一説では倭国王とされる筑紫の君磐井(いわい)の墓とされる「岩戸山古墳」は、久留米市の東南に接する八女市にあります。ということは、筑紫の君磐井の宮は、古墳の付近にあったと推察されます。

もちろん領域内には大宰府があります。倭国の都との説があることは、以前お話しました。
詳しくは、
太宰府は、倭国の都だった!?(1) ~ 「遠の朝廷(とおのみかど)」とは?
を参照ください。

以上のとおり、この領域内にいくつもの邪馬台国の候補地があります。これはどうしてかというと、時代とともに邪馬台国の都が移動したため、とも考えられます。

このように考えると、北部九州にいくつもの邪馬台国候補地がある理由もわかります。

そしてこれだけ広大な面積であれば、魏志倭人伝のいう「七万余戸」もありうるでしょうね。

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纏向遺跡は邪馬台国か?(13)~奴国(通説)の範囲

前回、邪馬台国当時の大規模集落として九州北部の比恵・那珂遺跡の概要をお話しました。遺跡の規模・内容もさることながら、注目は、遺跡南の須玖岡本遺跡が、クニの首都であり比恵・那珂遺跡が、副首都だったと考えられることです。

そのクニですが、一般的に、「奴(な)国」とされてます。

奴国は、三国志魏志倭人伝に出てくるクニです。伊都国の東南百里のところにあると記載されてます。一里を短里の約75mとすると、伊都国は今の糸島市とされてますから、その南東7.5kmにあることになります。通説では、福岡平野に面したエリアとされてます。

そのエリアにある福岡県の志賀島にて、江戸時代に「漢委奴国王」と刻印されている金印が発見されました。
中国史書の後漢書倭伝には、
”57年に、後漢の光武帝(こうぶてい)が倭奴国王に金印を賜った。”
という記載があり、この記事と一致していることから、志賀島の金印は、漢の光武帝が下賜した、とされてます。

このことから通説では、金印の「漢委奴国王」を「漢の委(倭)の奴の国王」と読んでいます。
ようは、「奴(国)の国王がもらった金印」ということです。それだけ奴国は強大な国だったことになります。

一方、この説に対しては異論があります。
漢の皇帝は、服属のしるしとして近隣諸国に印を下賜してますが、あくまで与えた先は国全体を統治している国、すなわち都のある国です。当時の倭国は数十カ国からなるなる連合国家のようなものでした。その一つの国に過ぎなかった「奴国」に、最高の金印を下賜するはずがありません。

古田武彦氏(元昭和薬科大学教授)は、「漢倭奴国王」を
「漢の委奴(いな、いぬ、いど)国王」
としました。「倭奴」とは、元来の国名は「倭」ですが、卑字である「奴」をつけたものです。北方異民族であった「匈奴(きょうど)」も同じですね。

つまりこの金印は、漢の光武帝が倭国王に下賜した金印だった、ことになります。このほうが、すっきりしますね。そしてこの倭国の王とは、魏志倭人伝に初めて名が出てくるのちの「邪馬台国」の王ということになります。
詳細は
”後漢書倭伝を読む その3 ~金印「漢倭奴国王(かんのわのなのこくおう)」の本当の読み方とは?”
を参照ください。

前段の整理が長くなりましたが、ようは通説では、奴国とは福岡平野に面したクニということです。

その領域の詳細について、考古学的成果から詳細に分析した論文があるので、紹介します。
「奴国とその周辺」(久住猛雄、福岡市教育会)です。なお論文では通説どおり、「福岡平野のクニ」=「奴国」としてます。

A.西の境界
・奴国の西には伊都国があったので、その間にある早良平野をどうとらえるかが、問題となる。早良平野には、弥生後期までは、吉武遺跡群を中核とする「クニ」が存続した可能性が高いが、それ以降は、奴国に編入された。
・奴国と伊都国との境界の遺跡には「環濠」が存在することから、奴国と伊都国に一定の緊張関係があったことが示唆される。
【解説】
まず西の境界ですが、伊都国との間には、吉武遺跡群があります。紀元前2世紀頃から吉武高木、吉武樋渡遺跡と続く遺跡で、特に吉武高木遺跡の3号木棺墓には、剣・鏡・玉の三種の神器が副葬されており、最古の王墓とされてます。ということは、相当な勢力をもった集団がいた、つまり「クニ」があったことになります。その「クニ」との関係について、奴国に編入された、と推定してます。
また、伊都国との関係も、友好関係ではなく一定の緊張関係があった、という指摘は注目ですね。魏志倭人伝では、”伊都国には特に一大率という長官を置いて国々を検察した。諸国はこれを恐れはばかった。”という記載がありますが、何となくその状況を彷彿とさせますね。

<吉武高木遺跡出土の三種の神器>
吉武高木遺跡 
(福岡市博物館HPより)

B.北・南・南東端
・奴国の中核領域は、那珂川と御笠川の両領域である。金印出土の志賀島、能古島も含め、博多湾岸の大部分は奴国であろう。
・那珂川・御笠川上流では、弥生時代中期~後期初頭の拠点集落として、安徳遺跡がある。この一角に広形銅矛13本を埋納した安徳原田遺跡がある。これが那珂川上流での奴国南端を示す象徴的埋納であろう。
・御笠川上流域は、二日市地峡帯が南端、北方の高雄山付近が、南東境界であろう。
【解説】
博多湾岸の大部分は奴国の領域ですが、注目は、広形銅矛が埋納されている安徳原田遺跡を南端としていることです。
埋納というと、銅鐸の埋納が知られてます。なぜ埋納したのか、その理由はよくわかってませんが、一つの説として、他の「クニ」や集落との境界に、辟邪(へきじゃ)の意味を込めて埋めた、といわれてます。銅矛も同じように辟、邪の意味を込めて埋納したのでしょうか?。
銅鐸埋納については、
銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (8) ~ 銅鐸「埋納」の謎
を参照ください。

C.東側
福岡平野東部を画する月隈丘陵までであろう。丘陵の東側は、別の政治領域であり、推定「不弥(ふみ)国」であろう。
【解説】
月隈丘陵を東の境界として、その東を「不弥国」と推定してます。ちなみに、これについて私の見解は、?です・・・。

以上、細かくなってわかりずらくなりましたが、奴国の領域を示すと、下図のとおりです。

奴国(通説)領域

さて、この図をみて、どこかで見た図と似ているな、と思われた方もいるかもしれません。
以前、邪馬壹(台)国の領域を推定したものです。

 邪馬台国位置


久住氏は、考古学的」成果から、私は主として魏志倭人伝から推定したのですが、久住氏の推定する「奴国」と、私の推定した「邪馬壹(台)国」が、ほぼ同じ領域です。

これは偶然の一致でしょうか?。

ちなみに論文のなかで、久住氏は、邪馬台国の位置について言及していません。しかしながら、別論文において、”弥生時代後期の北部九州で、日本列島における最初の都市が成立していた可能性”を発表してます(「弥生時代における<都市>の可能性ー北部九州、特に比恵・那珂遺跡群を例としてー」)。

「都市」として成立していたかどうかは別として、少なくとも弥生時代後期において、博多湾岸に日本最大級の「クニ」があったことは間違いありません。

となると、その領域こそ「邪馬壹(台)国」の可能性が最も高い、と考えますが、いかがでしょうか?。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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