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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(15)~津屋崎古墳群

前回は、沖ノ島祭祀には多くの謎があるが、九州王朝説に立てばきれいに説明できる、という話をしました。
今回から、その具体的論拠をお話ししていきます。

まずは考古学的見地からです。

沖ノ島祭祀遺跡と近傍の古墳群との間には密接な係わりがあることがわかってます。なかでももっとも関係性が近いと考えらえるのは、津屋崎古墳群です。ここからみていきましょう。

津屋崎古墳群は、玄界灘に面した福岡県福津市北部の丘陵および台地上南北8km、東西2kmの範囲に分布する。北から、勝浦井ノ浦古墳、勝浦峯ノ畑古墳、新原/奴山古墳群、生家大塚古墳、大石岡ノ谷古墳群、須多田古墳群、在自剣塚古墳、宮地嶽古墳からなる。現存する古墳の総数は60基(前方後円墳16基、円墳43基、方墳1基)で、規模と集中度は九州北部における代表的な古墳群といえる。築造年代は5世紀から7世紀にわたり、大形墳に注目すると、北から南への変遷を窺える。”(「国指定史跡 津屋崎古墳群 整備基本計画」に関する再検討」(2016年3月 福津市教育委員会)より)

津屋崎古墳群



ご覧のとおり沖ノ島を北西海上に臨み、宗像の西方に位置します。このうち新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群は、2017年に、「「神宿る島」 宗像・沖ノ島と関連遺跡群」の構成資産の一つとして、世界文化遺産に登録されたことは、記憶に新しいところです。

位置的にいっても、このあたり一帯の古墳群が、沖ノ島祭祀を執り行った人々と深い関係があったであろうことは、想像に難くありません。特に注目は、北方にある勝浦峯ノ畑古墳です。小田富士夫氏(福岡大学名誉教授)が、
”勝浦峯ノ畑古墳と(沖ノ島の)21号遺跡の同型鏡から、同古墳被葬者が21号祭祀に関与したことを推定”してます(「沖ノ島祭祀遺跡の再検討2」(小田富士夫)より)。

21号祭祀遺跡は岩上祭祀段階の下限を示す時期であり、一方勝浦峯ノ畑古墳は5世紀中頃の築造とされ、「胸形の君」の墳墓に比定されてます。そして小田氏は、ヤマト王権による「委託祭祀方式」を想定したなかで、被葬者はその委託された首長ではなかったか、と想像してます。このあたりは疑問があるところですが、少なくともこの勝浦峯ノ畑古墳の被葬者が沖ノ島祭祀に関与した、という指摘は重要です。
勝浦峯ノ畑古墳

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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(14)~九州王朝説に立てばすべての謎は解決する!

 前回、沖ノ島祭祀に関する7つの謎について、矢田氏の説では納得しうる説明ができない、という話をしました。
7つの謎とは、
1.なぜ沖ノ島で行われたのか?
2.何のために祭祀が行われたのか?
3.なぜ史書等に記載がないのか?
4.祭祀遺跡は祭祀場所か?
5.同種奉献品の数の多さと雑多さの理由とは?
6.なぜ畿内古墳にない特徴がみられるのか?
7.なぜ8世紀初頭に祭祀が突然ローカルになったのか?

です。

ではどのように考えれば、この謎が解明できるのでしょうか?。

皆さんのなかには、「4世紀から9世紀のことなど詳細な記録が残っているわけでもないし、わからなくて当然だ。この程度の説明で充分ではないか。」と思われる方も多いかもしれません。

もちろんそういう考え方もあるかもしれませんが、それでは話が終わってしまいます。考えうる限りの可能性を想定して、少しでも真実に近づく努力をするのが、歴史研究者の定めだと思います。

では考えていきましょう。

矢田氏は莫大なデータを収集分析して、自説を構築してます。その姿勢は、大いに尊敬したいと思います。
3世紀ころの邪馬台国については、九州北部に邪馬台国連合というものを想定してます。邪馬台国の位置については大分県の宇佐市あたりと推定しており、私の推測する博多湾岸とは異なりますが、九州北部ということでは共通です。

一方で、畿内にヤマト王権を想定してます。北部九州の邪馬台国と畿内のヤマト王権との関係については触れられてないので、よくわかりませんが、3世紀には両地方において、強大な勢力があったと推測してるようです。そして、その前提のもとに、ヤマト王権が沖ノ島祭祀を執り行った、と解釈してます。

私はその前提に無理があったのではないか、と考えます。

もっと明確にいえば、畿内のヤマト王権が、そこまで沖ノ島祭祀に関与していたのだろうか?、という問題提起です。

ではどのように考えれば、すっきり解釈できるのでしょうか。

私のブログや著書をお読みの方なら、ここでピンとくるでしょう。
私は当時の倭国の中心は九州北部にあった、とする九州王朝の立場です。倭国の中心が北部九州にあったのであれば、豪華絢爛な沖ノ島祭祀も九州王朝が執り行っていた、と考えるのが自然です。

ではこの視点で、7つの謎が解けるか、みてみましょう。

1・2の「なぜ、何のために沖ノ島で行われたのか?」
九州王朝の繁栄を願い執り行われた、ということになります。もちろんそのなかには、朝鮮半島出兵の必勝祈願もあったでしょうし、日常の航海の安全を祈願したこともあったかもしれません。いずれにしろ、九州王朝における信仰のもとで行われたのであり、位置的にいっても九州王朝中枢近くにある沖の島が、信仰の対象になっても何ら不思議なことはありません。

3.「なぜ史書等に記載がないのか?」
九州王朝が執り行った、ということであれば、古事記や日本書記に記載されてなくて当然です。それら史書は畿内ヤマト王権の歴史書ですから。むしろ歴史から抹殺したかった九州王朝の信仰など知らなかった、あるいはたとえ知っていたとしても記載したくなかった、ということでしょう。 

4.祭祀遺跡は祭祀場所か?
祭祀回数からいって20年に一回程度祭祀が行われた、それは天皇の在位数と一致する、という論文の推測ですが、それについて疑義を挟むつもりはありません。ただしもしそうであれば、どの王朝あるいは豪族でも、20年に1回程度で代替わりとなるわけで、必ずしもヤマト王権と結びつける必然性はなく、九州王朝でも同じことがいえます。

5.同種奉献品の数の多さと雑多さの理由とは?
論文では、朝鮮半島出兵の兵士たちが奉献した、としてますので、この点に関しては、九州王朝説でも同じ解釈ができます。

6.なぜ畿内古墳にない特徴がみられるのか?
沖ノ島の出土品ではたとえば鏡などは品質がまちまちで粗悪品がみられるなど、畿内の古墳にはみられない特徴があります。また豪華絢爛な金銅製品などは、畿内の出土物を上回っています。当時の北部九州の古墳等からは、それらに匹敵する豪華な金銅製品が出土している考えことを考えれば、九州王朝が執り行っていたと考えることに不自然さはありません。

7.なぜ8世紀初頭に祭祀が突然ローカルになったのか?
遣唐使派遣の祈願という通説では説明がつかないため、矢田氏は朝鮮半島出兵にかかわる祈願をメインにしてますが、それでもなぜ白村江の戦い(663年)の敗戦以降も続いたのか、説明がつきません。一方、九州王朝は8世紀初頭にはその座を、畿内ヤマト王権に譲り渡したわけで、その時期は祭祀がローカルになった時期とぴたりと重なります。

以上のように、通説や矢田氏説では説明しきれなかった謎が、九州王朝説に立てば、きれいに説明できます。
当然といえば当然ですが、皆さんのなかには、「そんなのは九州王朝というものを仮想したうえでの解釈にすぎない。具体的な証拠があるのか?。」という思いをもたれた方も多いでしょう。
次回そのあたりをお話ししていきます。


★沖ノ島祭祀を執り行ったのは九州王朝か?

半岩陰・半露天祭祀1
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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(13)~祭祀の謎は解明できたか?

前回、論文にある「沖ノ島祭祀のストーリー」を紹介しましたが、多くの矛盾があることをお話ししました。
では、このストーリーで、以前お話しした「沖ノ島祭祀の謎」は解けるでしょうか?

「沖ノ島祭祀の謎」とは、
1.なぜ沖ノ島で行われたのか?
2.何のために祭祀が行われたのか?
3.なぜ史書等に記載がないのか?
4.祭祀遺跡は祭祀場所か?
5.同種奉献品の数の多さと雑多さの理由とは?

の5つです。

さらにもう少し詳しくみると、2つほどあるので追加します。
6.なぜ畿内古墳にない特徴がみられるのか?
7.なぜ8世紀初頭に祭祀が突然ローカルになったのか?

では、以上の7つの謎を、矢田氏のストーリーで説明できるでしょうか?。みていきましょう。

1.2の「なぜ、何を目的として沖ノ島で祭祀が行われたのか?」について
沖ノ島は通常の朝鮮半島や中国本土への渡海ルートから外れており、沖ノ島を経由する公式なルートは存在していなかった、とされてます。ではなぜ、沖ノ島で祭祀が行われたのか、です。

遣隋使や遣唐使派遣の際の経由地、というのが通説ですが、矢田氏は独自の見解です。

論文では、
”北部九州の邪馬台国連合が半ば独占していた韓半島南部の鉄を、3世紀末から4世紀初頭に、畿内のヤマト王権が出雲や宗像海人族を抱き込むことにより瀬戸内海ルートを開拓して、手に入れることができるようになった。その誓約がウケイ神話であり、沖ノ島祭祀が始まった。
そして、5世紀後半から7世紀にかけて、ムナカタは朝鮮半島出兵の騎馬軍団渡海基地となり、将兵が寄港地の沖ノ島で航海安全と武運を祈り帰還時に感謝して奉献した
663年の白村江の戦いの敗戦で、出兵は終わり、祭祀もローカルなものになった。”
としてます。

ウケイ(誓約)神話の話は、想像の域であり、検証のしようもありません。
祭祀がもっとも盛んだった5世紀後半から7世紀後半は、岩陰祭祀、半岩陰半岩上祭祀ですが、はたして沖ノ島が朝鮮半島出兵のための経由地であったのか、不明です。というのは何ら史書等に記載がないからです。
また兵士たちが立ち寄るとなると、相当規模の船が何隻も寄港することになり、兵士の数は数百、あるいは数千人にもなると思われますが、それに対応しうる港湾遺跡はありません。飲料水などの補給基地という説もありますが、沖ノ島にそれだけの人数に対応しうる施設があったとは考えられません。

矢田氏は通説の、「遣隋使・遣唐使派遣の経由地」をあえて否定して自説を構築してますが、残念ながら納得しうるだけの説にはなっていません。

3.「なぜ史書等に記載がないのか?」について
すでにお話しましたが、具体的に「沖ノ島を祭祀した」という記載は、古事記・日本書紀には皆無です。わずかに「胸肩の神」等の記載がいくつかあるのみです。これは通説の視点からみると、きわめて不思議なことです。もしヤマト王権が国家祭祀として、沖ノ島を重要視していたなら、「〇〇天皇の御代に、沖ノ島での祭祀を奉った」という記載が数多くあってしかるべきです。

これは矢田氏の説においても、同じ疑問が残ります。朝鮮半島出兵は国家を挙げてのことであったわけで、普通に考えれば、「出兵の前に、○○天皇は必勝を祈願して沖ノ島に祈りを捧げた」といった記載があってしかるべしですが、それが全くないわけです。

となるとはたしてヤマト王権が、本当に国家祭祀として沖ノ島祭祀を執り行ったのか?、という点に大きな疑問がつきます。

4.「祭祀遺跡は祭祀場所か?」について
これはすでに論文でも解説しているとおり、祭祀遺跡と祭祀場所は必ずしも同じということではなく、そこから5世紀から7世紀後半までの祭祀回数が20回程度であると推測してます。それが天皇の在位数とほぼ同じであることから、祭祀が即位後の継承儀礼の一つとして続けられてきたと見ること も 可能であろう、とも見解も示されています。
それが朝鮮半島出兵とどのような関係となるのか、よくわかりませんが、謎に対するひとつの答えにはなっなっています。

5.「同種奉献品の数の多さと雑多さの理由とは?」について
国家祭祀として執り行われたのでれば、奉献品は祭祀に使用する奉献品が、必要な数だけでいいはずです。ところが、一回の祭祀に多種多様な奉献品があるばかりではなく、品目によってはおびたしい数が捧げられています。などは品質がまちまちで粗悪品も見受けられます。金銅製馬具類も、同じ品種のものが突出して多くあります。

論文では、多くの人が沖ノ島の祭祀に参加し、それぞれ捧げものをした、と考えなければ説明が難しいのではないか。ヤマト王権または宗像氏単独での、あるいはその両者のみでの祭祀とは考えにくいのである。”と解説してます。

このように、祭祀は即位後の継承儀礼などの国家祭祀ということも考えられますが、それよりもさまざまな人々が祭祀を行った、と考えたほうが自然です。朝鮮半島出兵の祈願ということであれば、いちおう筋は通ります。

6.「なぜ畿内の古墳にない特徴があるのか?」について
たとえば出土した鏡は、品質がまちまちで粗悪品もみられます。これについて論文では
”京都府木津川市の 椿井(つばい)大塚山古墳では、 36 面の鏡のうち 鏡種の分かる 32 面 すべて が三角縁神獣鏡であり、うち 26 面は品質が優れていため舶載(はくさい)鏡(中国からの輸入鏡)と言われている。”
と述べ、このようなことは、”畿内の古墳ではほとんどみられない。”と述べてます。

これについて、朝鮮半島出兵兵士の奉献品と考えれば、筋は通りそうです。
しかしながらことはそう簡単ではありません。

これまでにも紹介してきましたが、沖ノ島祭祀の出土品は、質・量とも傑出してます。論文でも岩上祭祀について、ヤマト王権が支配していた畿内にもこの頃これほどの遺物を出した祭祀遺跡はなく、比較的大型の前期前方後円墳(全長 100 140 m 級)からの出土品と品目が似ている。すなわち、この頃のヤマト王権に属する有力氏 族の長が持っていたと同等の宝物が捧げられていた。”と述べてます。
ようは品目が似ているという理由だけで、ヤマト王権と関連づけてますが、なぜ畿内の古墳をも上回る出土品が多数あったのか、疑問に答えてません。

また金銅製竜頭や五弦琴など、畿内の古墳にみられないものが多数出土してるわけです。

いくら畿内のヤマト王権が沖ノ島祭祀を重視したからといって、天皇陵に副葬する品々を上回る奉献品を奉げた、というのは不自然です。まして朝鮮半島出兵の兵士たちが、そのような品々を奉献した、というのも、きわめて考えにくいでしょう。

7.「なぜ8世紀初頭に祭祀が突然ローカルになったのか?」について
7世紀後半から8世紀の半岩陰・半岩上祭祀において、金銅製竜頭や五弦琴など、祭祀は隆盛を極めるわけですが、8世紀初頭に突然終焉を告げ、石製人形・舟形などの、ローカルな祭祀になります。
通説の、遣唐使派遣の寄港地ということでは、逆に8世紀以降が遣唐使派遣が活発化するので、説明がつかないわけです。それを朝鮮半島出兵という観点でみれば、663年の白村江の戦いの敗戦により、国家祭祀は行われなくなり、ローカルな祭祀になった、という説は、いちおうもっともに聞こえます。

しかしながら、半岩陰・岩上祭祀は、7世紀いっぱいは継続していたとみられています。白村江の戦での敗戦が確定したた663年以降も、なぜ祭祀が続けられたのか?、謎は残ります。

以上、7つの謎についてみてきました。確かに矢田氏の説で説明できる謎もありますが、多くは納得しうる説明になっていないのではないでしょうか?。

それがなぜなのか、またどのように考えれば筋が通った説明がしうるのか、を次回お話ししたいと思います。

★沖ノ島祭祀を執り行ったのは、はたしてだれか・・・?
岩上祭祀

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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(12)~沖ノ島祭祀のストーリー

前回、古代ムナカタ古代史の不連続性の話をしました。
矢田氏はその要因について、さまざまな角度から検討してます。
たとえば、
・海水準変動によるムナカタの地位の変化
・鉄の道と玉
・宇陀の朱
・鉄の対価となる新しい資源(南東産イモガイ、辰砂)
・宗像市域の2千基の古墳
・大爆発の謎を解く牧神社
・半島への騎馬軍団派遣
・軍馬渡海基地ムナカタと 沖ノ島 祭祀
・百基の須恵窯
・造船業を示す 14 本の鋸
・田熊石畑の倉庫群と「 胷 形 の箭」
・「宗像型」石室から見るムナカタ勢力の広がり
・軍港以降のムナカタと関連地域

などです。

これらを実に詳細に検討しており、とても興味深いものなのですが、それらをすべて紹介することは膨大なものになり、かえってポイントがぼやけてしまうので、割愛します。
論文ではこれらをもとに、ひとつのストーリーとして描いてますので、それをみてみましょう。

”『日本書紀』のウケイ神話は当時の政治的事情が加わって複雑になっているが、本来は 沖ノ島 祭祀開始時の誓約と祭祀を表したものと考えられる。誓約に参加したのは、主催者であるヤマト勢力の代表とこれに従った出雲勢力の代表、そして海上輸送に携わった宗像海人族およびこれに接続する内陸水運などに関わる氏族の代表であった。
誓約の目的は、
鉄器時代に入っても鉄の輸入ルート圏外に置かれていたヤマトに、 沖ノ島 経由
で山陰へ流入していたを、瀬戸内海経由でヤマトに引き込むこと
であったと思われる。

「海北道中」は、「鉄の道」だった。ヤマトでは新開発の宇陀の水銀朱資源(辰砂鉱床)を巡り古代有力氏族によりヤマト勢力が形成され、3 世紀末頃までに朱と三角縁神獣鏡
などで瀬戸内海周辺の諸豪族を懐柔し傘下に収めていた。

最近の研究の進展により、 沖ノ島 祭祀の開始は3世紀末から4世紀初頭に遡る可能性が強い。朝鮮半島南部の鉄資源は、弥生時代後期以来主として壱岐経由で糸島半島から博多湾に流入し、博多の鉄器加工基地から主に邪馬台国連合に当たる地域に流通していた。
この博多湾中心の鉄貿易は、 沖ノ島祭祀開始後4世紀半ばに衰退する。出雲の玉など鉄の対価を揃えたヤマト勢力側に、朝鮮半島の権益と交易路の覇権を奪われたのである。
これ以降鉄貿易に必ずしも 沖ノ島を経由する必要がなくなり、祭祀も一時怠りがちになる。

5世紀後半から7世紀にかけて、津屋崎地区の大型古墳系列と並行して、釣川流域に約 2,000 基の群集墳が築かれる。古墳出土物やその他遺跡などから、これらの墓に葬られた人々の生業として、漁業・水産物加工・窯業・鉄鍛冶・造船・造墓・馬飼などが想定され、中心の田熊石畑遺跡に 25 棟の倉庫群が立ち並ぶ。この繁栄は、 沖ノ島岩上祭祀期の豊富な奉献品と対応し、歴史的には、この時期の頻繁な朝鮮半島出兵の記録と対応している。長い海退期のあと海進でまた 良港となったムナカタが、 沖ノ島経由の騎馬軍団渡海基地となったと見られる。

いくつかの小さい牧に祭られた牧神社が、いまでもムナカタの海岸沿いに残る。「海北道中」が復活し「騎馬の道」になったのである。沖ノ島出土のおびただしい金銅製馬具などは、将兵が寄港地の沖ノ島で航海安全と武運を祈り帰還時に感謝して奉献したものと考えられる。

528年の筑紫君磐井敗死後は騎馬軍団が古賀市域からも壱岐経由で渡海したが、 663 年白村江の敗戦で出兵は終わる。沖ノ島祭祀もローカルなものとなり、
ムナカタ海人族の活動低下とともに顕著な祭祀は終焉を迎える。”

【解説】
矢田氏の論文が通説と大きく異なるところは、沖ノ島祭祀の目的についてです。
通説では、沖ノ島祭祀は遣隋使・遣唐使の航海の安全を祈願したもの、とされてますが、矢田氏はそれを正面から否定してます。このあたり、論文の出所である「むなかた電子博物館」ではどのように考えているのか、興味のあるところです。

それはさておき、ではなぜ矢田氏が独自の解釈をしたのかといえば、そのように解釈しないと祭祀遺跡とのつじつまが合わないからです。
どういうことかというと、祭祀遺跡は8世紀以降9世紀末までは露天祭祀になりますが、人形や馬形の石製品など、それまでの祭祀と比較して明らかに簡素化します。それを矢田氏は「ローカルな祭祀」と呼んでます。一方それに対して、遣唐使は最盛期を迎えるわけです。(たとえば阿部仲麻呂(717年)、空海・最澄(804年)など)
その矛盾を解決するために、矢田氏なりのストーリーを描いた、ということでしょう。

沖ノ島遺跡と出来事2

では個別にみてみましょう。

沖ノ島祭祀開始年代を3世紀末から4世紀初頭としたうえで、それまで鉄の確保ができなかったヤマト勢力が、出雲や宗像海人族の協力を得て、瀬戸内海ルートを開拓したことに結びつけてます。それが古事記・日本書紀の「誓約神話」だというまことにユニークな説です。

なぜヤマト勢力がそれだけの力を得たのかを、宇陀の水銀朱資源(辰砂鉱床)を源泉として、朱と三角縁神獣鏡で瀬戸内海勢力を懐柔した、と推測してます。
そしてそれまで朝鮮半島との交易を担っていた邪馬台国連合による博多湾貿易は、4世紀半ばに衰退し、それ以降鉄貿易に沖ノ島を経由する必要がなくなった、そのため祭祀が一時衰退した、としてます。

ところが5世紀後半から7世紀にかけて、祭祀は活発化します。それは津屋崎地区とともに釣川流域の群集墳と関連しており、その墳墓群は、漁業・水産物加工・窯業・鉄鍛冶・造船・造墓・馬飼などを生業としていた人々のもの、と述べてます。
これは岩上(岩陰の間違い?)遺跡の時期であり、朝鮮半島出兵のための騎馬軍団渡海基地となったため、と推測してます。”沖ノ島出土のおびただしい金銅製馬具などは、将兵が寄港地の沖ノ島で航海安全と武運を祈り帰還時に感謝して奉献したものと考えられる。”と述べてます。
倭の五王の時代との関係は?

いかがでしょうか?
一見、筋が通っているように思えます。しかしながら、詳細にみると多くの矛盾があります。

たとえば、博多湾貿易が衰退した4世紀半ば以降といえば、まさに岩上祭祀が本格的に始まった時期であり、”祭祀が一時衰退した”とは逆の現象です。

次に祭祀が盛んになった5世紀後半から7世紀は、岩陰遺跡の時期です。これを朝鮮半島出兵のための騎馬軍団渡海基地として栄えたこととしてますが、朝鮮半島との関係でいえば、倭の五王がもっとも有名でしょう。しかしながら倭の五王は、5世紀初頭から6世紀初頭の時代であり、時期に大きなずれがあります。


さらに白村江の戦い(663年)の敗戦を機に、沖ノ島祭祀がローカルなものになった、と述べてますが、豪華な祭祀遺跡である半岩陰・半露天祭祀7世紀後半から8世紀にかけてであり、逆に白村江の戦いの敗戦以降で、時期に大きなずれがあります。

このように多くの矛盾があるのですが、このあたりを次回さらにみていきます。

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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(11)~ムナカタ古代史の不連続性

前回、鏡、石製品、蕨手刀子、鋳造鉄斧、捩り環頭太刀、装飾太刀、馬具、胴丸式小札甲などのデータから、4世紀中葉から7世紀後半にかけての祭祀の回数は20回程度であり、天皇在位数と対応するのではないか、という推測を紹介しました。

しかしながら論文でも述べているように、
”これだけでは先に見た膨大な量の祭祀遺物、 特に 5 世紀後半から7 世紀代の豪華な品々は 、 説明できそうもない。”
のであり、ここから
”それには他の歴史的イベントがあるはずである。”
と推測して、さらに究明していきます。

このあたり、真実を極めるためにこれでもかと追究していく姿勢は、いかにも理工系の学者らしい気がしますが、ともかく賞賛に値すると思います。


では論文をみていきましょう。

”ムナカタの古代遺跡には顕著な不連続性がある。
弥生時代前期前半に田久松ヶ浦遺跡等に国内最先端の先進文化が現れてから、しばらく間をおいて中期前半に1区画墓では全国一の 15 本の武器形青銅器を出した田熊石畑遺跡が出現する。しかしここには、古墳時代後期になって 25 棟の堀立柱建物群が作られるまで、ほとんど遺物が見られない。

ムナカタ全体で見ても、弥生時代中期後半以降古墳時代に到るまで顕著な遺跡はほとんど見られない。4世紀には中・小型の前方後円墳数基が釣川中流 域に築かれるが、 5 世紀に入ると 100 m 級の前方後円墳 2 基を含む 80 基以上(現存 60 基)の古墳群が津屋崎地区に連続して築かれる。この中に、世界遺産に登録された新原奴山古墳群が含まれる。

この流れは 7 世紀古墳時代終末期まで続き、巨大石室を持つ宮地嶽古墳に繋がる。巨石で築かれた横穴式石室の長さ 23.1 m は、橿原市の五条野丸山(見瀬丸山)古墳の石室の28.4 mに次ぐ大王級の長さである。

【解説】
ムナカタというと、古代から連綿と発展してきたように考えがちですが、そうではないようです。

・弥生時代前期前半(新編年で紀元前9世紀ころ)・・田久松ケ浦遺跡
 ーーーーーーーーーー
・弥生時代中期前半(新編年で紀元前4世紀ころ)・・田熊石畑遺跡
 ーーーーーーーーーー
・古墳時代前期(4世紀)・・中・小型前方後円墳築造開始
・古墳時代中期(5世紀)・・津屋崎地区古墳群
・古墳時代後期(7世紀)・・宮地嶽古墳

以上のとおり、継続的な発展を遂げるのは、古墳時代に入ってからであり、弥生時代は発展、衰退、発展、衰退、を繰り返していたというのです。

”以上のような不連続性は、古代史料中のムナカタの記述にも見ることができる。
ウケイでの三女神出生神話以降しばらく宗像神の活躍場面は見られないが、突然応神紀の 41 年に
「阿知使主らが 4 人の 工女(ぬいめ)をつれて筑紫についたところ、胸形大神が工女を所望したのでそのうちの 兄媛(えひめ)を大神に奉ってあとの 3 人をつれて帰った。ところが応神天皇は直前に亡くなっていた」
という記事が出る。
これは 5 世紀はじめ頃のことと考えられ、この頃まで宗像神は朝廷に対して強い発言力を有していたようである。

ところが応神の2 代後の履中天皇の 5 年には、筑紫の三神(宗像神と される)が宮中に現れて
「なぜ我が民を奪うのか。後悔することがあるであろう。」と脅かしたが、宮廷では祈っただけで祭りを行わなかった(「 禱(いの)りて 祠(まつ)らず」)。
古語辞典によると、イノリは神の名を呼んで幸福を求めることで、マツリは物を差し上げることが原義という。
沖ノ島 祭祀は、まさにマツリの原点である。このようなマツリを、天皇が当然継続的に 行わなければならない、とそれまで観念されていたことが分かる。それを天皇が怠ったことは、応神朝と履中朝との間に宗像神の立場の変化があり、王権にとって沖ノ島祭祀の重要度が低下していたことを示している。”

【解説】
履中天皇5年の「筑紫の三神」が果たして宗像神なのか、必ずしも明白とはいえません。筑紫の三柱といえば、まずはイザナミがみそぎをしたときに生まれた
・住吉三神=底筒男命・中筒男命・表筒男命
・綿津見神(=安曇神)=底津少童命・中津少童命・表
津少童命
がいるからです。
また宗像神の場合は、応神紀41年および次の雄略天皇9年とも明確に、「宗像(大)神」となっているわけで、なぜここだけ「筑紫の三神」となっているのかも不明だからです。
とはいえその検証も簡単にはいかないので、ここではとりあえず通説どおり、
・筑紫の三神=宗像三神
としておきます。

”そのあとまたしばらく時間を置いて、 5 世紀末ころの人物と考えられている雄略天皇の 9 年 2 月に、変な記事が載る。天皇が、 凡(おおし)河内(こうちの)直(あたい)香賜(かたぶ)と 采女(うねめ)(宮中で仕える女官を派遣して胸方神を祭らせたが、香賜は神域で祭りの前にその采女を犯した。天皇が これを聞いて香賜を殺させた、というものである。そしてこの記事に続く同年 3 月に、天皇が新羅に親征しようとして、神に「な 征(い)ましそ」と止められたと いう記述がある。

この神も、前後の文脈から宗像神ではないかと考えられている。その後代わりに重臣を派遣したところ、彼らが皆戦死等で亡くなったという。朝鮮半島との関わりのなかで、宗像神がまた重要視されるようになったことを示す。このムナカタの復権は、上述の 5 世紀後半以降の 古墳の急増と対応している。その蔭には何らかの要因があったと思われる。”

【解説】
変な記事と述べているおり、現代人の感覚からみると、とんでもない行為のように思えます。ところがこうした行為は、古代の祭祀における「神婚行為」として、通有のものであったようです(「交流史からみた沖ノ島祭祀」(森公章)より)。
ここでは明白に「胸方神」が登場します。ちょうど、倭の五王の時代であり、これ以降の宗像地域の古墳の急増に対応している点は注目です。

 沖ノ島遺跡と出来事1

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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