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古事記・日本書紀のなかの史実 (39)~神生み㉔ スサノオの出自

スサノオの本拠について、出雲と畿内の関係含めてみてきました。

スサノオの本拠が出雲であることが明らかですが、ではスサノオはどこからやってきたのでしょうか?

スサノオというと、日本書紀の記載から、新羅との関係が思い浮かびます。

誓約でアマテラスに勝利したスサノオは、調子に乗って暴虐の限りを尽くした結果、高天原から追放され、出雲の国に降り立ちます。日本書記の一書第四では、その途中、新羅に立ち寄ったとされています。

”高天原を追放されたスサノオは、”その子イソタケルをひきいて、新羅の国に降られて、曾尸茂梨(ソシモリ、ソホル即ち都の意か)のところにおいでになった。そこで不服の言葉をいわれて、「この地には私はいたくないのだ」と。ついで土で舟を造り、それに乗って東の方に渡り、出雲の国の簸の川の上流にある、鳥上の山についた。”(「日本書紀」(宇治谷孟)より)

一般的には、高天原とは天上界であり、そこから地上界である出雲に降りてきたと解されています。

こうした従来の解釈に異議を唱えたのが、古田武彦氏です。

古田氏は、古事記中の「上る」「下る」の用法を洗い出した結果、一定の法則があることを指摘しました。たとえば、神武天皇が九州日向から吉備を経由して大和へ攻め入るいわゆる「神武東征神話」のなかの記載について、次のように述べてます。

”「故(かれ)、その国(吉備の高島宮)より上り幸(い)でし時、・・・故、其の国より上り行きし時、浪速(なみはや)の渡(わたり)を経て、青雲の白肩(しらかた)の津に泊る。」(古事記「神武記」)

神武東征のとき、吉備→難波の行路で、二回も「上る」の表記が出てくる。これは近畿の方を都、つまり原点とした表記だ。仲哀記に、「是にオキナガタラシヒメ、倭に環り上りし時、・・・」とあるのと同じだ。
つまり、”地上のA点から地上のB点への移動”について、「上る」の語が使用されているのである(これは現代の汽車で首都たる東京中心に、「上り」「下り」を使うのと同じだ)。このような使用例から見ると、「天降る」とあっても、これは”天国から天国以外のX地点に移動する”それを意味するだけだ。”(「盗まれた神話 記・紀の秘密」(古田武彦)P358-359より)

そして、一般的に天上界のこととされている「高天原」とは地上界にある「天(あま)国」として、その領域について考察しています。

ひとつは、古事記の国生み神話からです。
イザナギ・イザナミが生んだ8つのクニである「大八嶋國」と[六嶋」に「亦の名」があることは、前にお話ししました。その「亦の名」について、「天」のつくクニが、大八嶋で4つ、六嶋で3つあります。古田氏はこれを、「天(海人)族」の古い時代の支配領域ではないか、と推測してます。

その範囲は、大八嶋では、隠岐の島、壱岐、津島となります。これは次の図をみれば明らかなように、北部九州~出雲の日本海にある島々です。
なお、「天御虚空豊秋津根別(大倭豐秋津嶋)」については、他の一連の名前とは別格の荘重さが備わっていることから、あとから挿入された「新名」ではないか、としてます。
また、六嶋の
天一根、天之忍男、天両屋は、通説ではそれぞれ大分県姫島、五島列島、男女群島(五島列島)とされていますが、断定できないため省きました。

亦の名で天がつく国

以上のとおり、天国の領域は、北部九州~出雲にかけての日本海の島々に限られることがわかります。またそれは、天津神(とその子や孫たち)の行動範囲とも整合していると指摘しています。

”(1)イザナギ神は、出雲にあるといわれる黄泉の国にいった。そして筑紫の日向の橘の小戸(博多湾岸、西辺)に帰ってきた。そしてここで、”ミソギ”をして天照や月読やスサノオらを生んだ。
(2)天照は筑紫の博多湾岸(姪の浜付近)で誕生したあと、「天国」にひきこもり、そこから出たことがない。
(3)スサノオは、はじめ新羅に行き、のち出雲へ行った。
(4)天照の子、天の忍穂耳(オシホミミ)命は、「天国」から出たことがない。
(5)天照の孫、ニニギは、「天国」を出て、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ、糸島郡、高祖山連山)に来て、この筑紫で定住した。
(6)天鳥船神・建御雷(タケミカズチ)神は、天照の使者として、「天国」から出雲の伊那佐(いなさ)の小浜(おばま)に降り到った(「国譲り」の交渉)

このように、天ツ神たちの天国からの行動は、筑紫・出雲・韓地(新羅国)の、三地域に限られている。
しかも、これら三地域に出向くさい、いずれも途中の中間地域が書かれていない。だから、「天国」は、この三地域に共に接しているのだ。すなわち、この三地域に囲まれた、その内部にあるのだ。ーそれはとりもなおさず、右の「亦の名」古地図の示す「天の・・・」の島々の分布領域に一致する。これが、この「天国古地図」が『記・紀』の神話内容と完全に一致していることを証明している”(同書P370-371)。

ではこの三地域に囲まれた「天国」は、どこのことを指しているのでしょうか?
図でみてみましょう。

天国領域
図のとおり、天国とは、対馬・壱岐・沖ノ島を含んだ領域にあると推測できます。

古田氏は同書において、六嶋のひとつである両児嶋(亦の名を「天両屋」)を沖ノとして、そこから
沖ノ島をアマテラスの本拠地としてます。たしかに沖ノ島は2017年に世文化遺産に登録されるなど、歴史的にたいへん貴重な島です。しかしながら沖ノ島祭祀遺跡が本格的に開始されるのは、4世紀後半の岩上祭祀からです。

アマテラス神話は描写が素朴で原初的であることからも、時代は紀元前にさかのぼると推測されます。ですから、アマテラスの本拠すなわち「天国=沖ノ島」は成立しないと考えます。

私としては以前お話ししたとおり、対馬・壱岐を中心とした地域ではないか、と推測してます。

ところで、「高天原」と「天国」は、同じものでしょうか。
古田氏は、次のように述べてます。

「高天原」という表現は、そこがあたかも”壮大な領域の高原”であるかのような錯覚を与えてきたのではあるまいか。この「原」は”野原”の意味ではない。「前原」「白木原」「春日原」などの「バル」なのである。つまり筑紫一帯の用語で集落の意だ。
「高」は敬称に類する。竪穴・横穴住居の多かった時代にあって、地上の住民が、「高 -- 」と呼ばれたとも考えられる。したがって「高天原」は”「天国」の集落”を意味する言葉なのである。”(同書P371-372)


「前原(まえばる)」「白木原(しらきばる)」「春日原(かすがばる)は、今も福岡県にある地名です。普通に読めば「はら」ですが、なぜか地元では「ばる」と読みます。
「天原」=「天国」の集落
であり、その敬称が「高天原」というわけです。

実際、壱岐には、天ヶ原、高野原等の地名が残っており、関連性をうかがわせます。天ケ原には「天ケ遺跡」があり、中広型銅矛3本が出土してます。弥生時代には祭祀の場所であったことがわかります。

もちろん天ヶ原や高野原が、そのまま「高天原」であるということではありません。あくまで高天原にある地名のひとつであったということでしょう。


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古事記・日本書紀のなかの史実 (38)~神生み㉓ 荒神谷遺跡がもたらしたインパクト

前回は、大和など畿内や紀伊にある出雲と関連する神社などは、出雲よりも新しく、したがって「出雲⇒畿内・紀伊」という流れではないか、という内容でした。また日本書記の記載からみても、そのように考えるのが自然という話でした。

ではなぜ、これまで長年にわたり「畿内・紀伊⇒出雲」が通説として唱えられてきたのでしょうか?

それは、古事記・日本書紀の神話の3分の1を占める出雲神話は、後世の史官による創作であることが当然のこととされてきたからです。これが数百年にわたる日本古代史の前提でした。ですから、中心は当然のことながら畿内であり、出雲から祭祀などが伝わるのはありえないと考えられてきたわけです。

ところがこの常識を根本からひっくり返す発見がありました。島根県出雲市斐川町で発掘された荒神谷遺跡です。

1984年 - 1985年(昭和59-昭和60年)の2か年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土しました。
ではひとつずつみてみましょう。引用元は「古代出雲」(門脇禎二)です。

【銅剣】
358本の中細形C類銅剣をどのように解釈するかは、なかなか困難な問題である。同時に、荒神谷遺跡の謎を解く重要な鍵が、この銅剣群にあることも確かである。
現状ではいくつかの仮定のうえに推論を重ねることになるが、同一型式の一括大量埋納という事実からは、製作工人が近畿または北部九州より来て、当地で製造したものという考え方がまず出てくる。搬入された銅鐸・銅矛群とは場所を異にして埋納されていたことも、右のように解釈すれば説明がつくかもしれない。
出雲の地でかりに製作されたとしても、そのことが即「出雲型」銅剣の生産ということにはならないであろう。だが山陰の各地に分布する中細形C類銅剣は、それぞれの地の農耕社会に、荒神谷遺跡の青銅器群を所有する集団から分配された可能性も想定できよう。

当地製造か製品搬入かのいずれをとるにしても、このような各種青銅器を大量所有することは並みの農耕社会では成しえないことである。このことは、北部九州の青銅器生産センターとして知られる福岡県春日丘陵の遺跡群や、銅鐸・銅戈を製作していた大阪府東奈良遺跡などの実態に照らしてあきらかであろう。問題は、そうした青銅器の大量所持を可能にした歴史的条件と集団の歴史的な性格である(同書P46、
出典「銅鐸・銅剣・銅矛と古代出雲」(島根大学教授 田中義昭)「高校社会科教育ぶっくれっと」五号 三省堂 1986年5月 P24-25)。”

銅剣の製作について、近畿または北部九州から来た工人が、出雲で製作したとの考察をしています。ここで北部九州はわかりますが、近畿というのはどうでしょうか? 青銅器の分布をみてみましょう。

青銅器祭祀分布

中細型銅剣C型は出雲型と呼ばれ、出雲を中心とした地域に分布してます。銅剣は平型銅が瀬戸内地域に分布してますが、東限は淡路島であり畿内には分布してません。

一方九州は、図では銅矛祭祀圏となってますが、中細形銅剣が数多く出土してます。a類は中期前半、b類は中期前半~後半、c類は中期後半~末と推定されてます(「弥生時代の青銅器生産地 :九州」(後藤直)より)。

つまり出雲型とされるc類に先行してa類、b類が九州にあったということです。このことから、出雲型c類は九州から伝搬したことが推測されます。

実際、同書では、次の記載があります。

”荒神谷遺跡の銅剣は、佐賀県神埼郡千代田町姉遺跡出土の銅矛の鋳型といわれてきたもので製作されたという見解が出た。”(P134,出典「青銅器の仿製と創作」(柳田康雄)『図説 発掘が語る日本史』6 1986年)


以上のとおり、荒神谷遺跡の銅剣は、畿内ではなく北部九州との強い関連が推測されます。

【銅鐸】
”最古段階と古段階の製作品であるから、当地が弥生Ⅰ期末からⅡ期には銅鐸分布圏の一角をなしていたことは明瞭である。しかも一号鐸のような前例のない銅鐸が含まれていることや最古式の一号鐸が存在することからすれば、当地方がたんに銅鐸分布圏の外域に位置していたというだけではなく、相対的に独自性をもった地域であったことが考えられよう。北部九州で生産されたことが確実な福田型邪視紋鐸の存在も、こうした独自性と関連があるのではなかろうか。”(同書P45)

銅鐸というとすぐに畿内を思い浮かべますが、ことはそう簡単ではありません。最古式の銅鐸となると、日本での銅鐸発祥との関連がうかがわれます。日本でどの地域から銅鐸が広まったのは、よくわかっていませんが、最古式の銅鐸がどの地域に分布しているかがわかればヒントになりますので、みてみましょう。

最古銅鐸分布


銅鐸は、荒神谷遺跡のほかは、兵庫・淡路島・福井・岐阜・三重、銅鐸鋳型は、京都・愛知に分布してますが、奈良・大阪には、分布してません。こういうことから、日本での銅鐸の発祥は、出雲・北陸・淡路島あたりではないか、という考察は、以前いたしました。

なお、福田型邪視紋鐸とは、伝出雲出土銅鐸(木幡家銅鐸)のことです。これと同じ鋳型で作られたと考えられる銅鐸が、吉野ケ里遺跡で発見されました。さらに伝伯耆国(ほうきこく、現鳥取県)出土銅鐸も、北部九州で作られたとされています。

こうしたことを考え合わせると、銅鐸も北部九州から伝搬した可能性が出てきす。

【銅矛】
”銅矛は北部九州からの移入品であろう。一部に中細型を含むことからは、銅鐸同様に時期を追ってもち込まれたことが考えられる。すなわち中細型の受け入れにつづいて中広型が伝えられるという具合である。また中広型にみとめられた綾杉状の研ぎ分けは、佐賀県検見谷(けみだに)遺跡発見の中広型銅矛をはじめとして二十例近くが知られているが、いずれも北部九州の地においてである。これらのことから弥生Ⅲ~Ⅳ期ごろには出雲地方は北部九州とも交流していて、銅矛圏の東限をなしていたといえる。”(同書P45-46)

銅矛祭祀の中心は北部九州ですから、出雲の銅矛も北部九州から伝搬したのは確実です。

以上、荒神谷遺跡の銅剣・銅矛は、畿内との関連はなく、銅鐸についても少なくとも最古式の銅鐸でみる限り、大阪・奈良地域との関連は見いだせません。むしろ北部九州と強い関連があることがわかります。

こうしたことを考え合わせると、出雲のスサノオ信仰は畿内より古く、「出雲→畿内」の流れと考えるのが自然でしょう。

なお北部九州との関連については、次回以降お話しします。

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古事記・日本書紀のなかの史実 (37)~神生み㉒ 出雲と紀伊と大和

スサノオの熊野というと、和歌山県の熊野本宮大社が有名です。では、島根県の熊野大社と熊野本宮大社とは、どのような関係なのでしょうか? 詳しくみてみましょう。

”和歌山県田辺市本宮町本宮にある神社。熊野三山の一つ。家都美御子大神(けつみみこのおおかみ、熊野坐大神〈くまぬにますおおかみ〉、熊野加武呂乃命〈くまぬかむろのみこと〉とも)を主祭神とする。
詳しい創建年代は不明であるが、社伝によると崇神天皇65年に熊野川の中洲、現在の大斎原(おおゆのはら)の地に創建されたとされている。

「熊野権現垂迹縁起」によると、熊野坐大神は唐の天台山から飛来したとされている。熊野坐大神(家都美御子大神)は、須佐之男命とされるが、その素性は不明である。太陽の使いとされる八咫烏を神使とすることから太陽神であるという説や、中洲に鎮座していたことから水神とする説、または木の神とする説などがある。家都美御子大神については他にも五十猛神や伊邪那美神とする説があり、菊理媛神とも関係するとの説もあるが、やはりその素性は不詳とされる。” (wikipedia「熊野本宮大社」より)

何かすっきりしないところが多いですね。
祭神のケツミミコノオオカミが不詳であり、本当にスサノオの別名なのかは、判然としません。

創建が崇神天皇時代となると、神代というより人代にはいった時代です。伝承なのではっきりしたことはいえませんが、出雲の熊野大社が神代と伝えられているのに対して、やや新しい感があります。

熊野本宮大社

出雲と紀伊の関係については、
”スサノオは海の彼方にある常世国からの来訪神とし、さらにスサノオの崇拝は紀伊の海人によって紀伊から出雲に運ばれ、出雲の東部から西部に広まったらしい。”(「出雲神話」(松前健))
のように、「紀伊⇒出雲」説が主張されています。

しかしながら、前回お話した日本書紀では、
”一書(第四)をみてみると、スサノヲ神がヤマタノオロチを退治した後、子の五十猛神が、大量に所持していた樹種を以て、国中の山々を青く茂らす為に、全国的な植樹事業を始めました。筑紫から始められた植樹は、国中を青山にすることに成功し、五十猛神はその功績が称えられて有功之神(いさをしのかみ)と御神名が仰がれ、紀伊國の鎮座する神様となりました。”(出雲大社・東京分詞HP「コラム その七○(神の木々 ~ 6 ~)」より)

とあり、スサノオの本拠が出雲とすれば、明らかに「出雲⇒紀伊」の流れです。

もう少し広い範囲の話としては、畿内に「出雲」の地名があることから、「畿内⇒出雲」との説が唱えられています。

たとえば、日本書紀の崇神天皇紀60年条に「出雲臣(いずものおみ)」が出てきます。
門脇禎二氏は、
”出自は大和国城上郡出雲村あるいは山城国愛宕郡出雲郷にあって、これらの畿内の地を本拠にして出雲に進出した。”(岩波日本古典文学大系『日本書紀』上 P251の注)
という通説を紹介したうえで、以下のとおり述べてます。

”出雲臣が大和国の出雲村に発したという説は、そもそも大和の地名で国名を負うもの(美濃・出雲・吉備・阿波・豊前など畿内・七道二四国名)のちの律令制下の諸国からの徴発民の住居より生じたという研究結果(直木孝次郎「国名を持つ大和の地名」)を無視している。・・逆に出雲から進出した結果に形成された。”(以上「古代出雲」(門脇禎二)P109-110)

つまり、「出雲⇒大和」の流れです。

ところで、初期大和王権の本拠地とされる纏向遺跡、箸墓古墳においては、古くから三輪山信仰があったと考えられています。

三輪山の西麓には、大物主大神を祭る大神(おおみわ)神社があります。

”大神神社は纒向・磐余一帯に勢力を持った出雲ノ神の一族が崇敬し、磐座祭祀が営まれたとされる日本でも古い神社の一つで、神奈備信仰様式をとった神聖な信仰の場であったと考えられる。大穴持命が国譲りの時に、己の和魂を八咫鏡に取り付けて、倭ノ大物主櫛甕玉命と名を称えて大御和の神奈備に鎮座した。これが三輪神社の創始である。”(『出雲国造神賀詞』)(Wikipedia「大神神社」より)

以上のように、出雲の神の一族が崇敬していたわけですから、「出雲⇒畿内(大和)」の流れです。

三輪山は磐座信仰で、山中に多くの磐座祭祀遺跡が残されています。禁足地であることもあって詳細は定かでありませんが、ふもとに山ノ神遺跡があります。

ここからは、素文鏡・勾玉・剣型鉄製品ほか、多くの遺物が出土しました。4世紀後半から6世紀前半ころまで、この場所で繰り返し祭祀が行われていたと推測されています。(桜井市立埋蔵文化財センター 第1回「三輪山西麓の磐座を訪ねて」より)

これに対して、出雲の遺跡は紀元前からのものが数多くあり、三輪山の遺跡よりはるかに古い歴史です。

こうしたことからも、やはり「出雲⇒畿内」という流れと考えるのが、自然でしょう。

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古事記・日本書紀のなかの史実 (36)~神生み㉑ 熊野大社とクマノクスビ

スサノオの神社というと、熊野大社(出雲)や熊野本宮大社(和歌山)も思い浮かびます。

古事記では熊野との関連性といえば、アマテラスとスサノオの誓約で生まれた五柱の神の一柱の、熊野久須毘命(クマノクスビ)が挙げられます。

クマノクスビ系図


”神名の「クスビ(クスヒ)」は「奇し霊」(神秘的な神霊)もしくは「奇し火」の意と考えられる。「クマノ」は熊野のことであり、出雲の熊野大社(島根県松江市)のこととも、紀伊の熊野三山のことともされる。熊野大社の現在の祭神は「熊野大神櫛御気野命」であるが、元々の祭神はクマノクスビであったとする説がある。
熊野三山の一つの熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)の祭神・熊野夫須美大神伊弉冉尊のこととされるが、これもクマノクスビのことであるとする説がある。”(Wikipedia「クマノムスビ」より)

この熊野が、出雲の熊野大社か、あるいは紀伊の熊野三山とされています。

日本書紀一書(第五)では、
”スサノヲ神が国の将来像に思いをきたす時に「韓郷の島には金銀がある。わが子が治める国に船がなかったら困るだろう」と思案を巡らされました。そこで、スサノヲ神は自らのヒゲを抜いて放つと、そのヒゲが杉の木になった。胸毛を抜いて放つとに、尻毛はに、眉毛はとなった。これらの樹木を見て「杉と樟は、船を造るのによい。檜は宮を造るのに、槙は現世の国民の棺を造るのによい。たくさんの木の種を播こう」と事業計画を立案されました
 この計画は、スサノオの子である五十猛命(いそたけるのみこと)・大屋津姫命(おおやつひめのみこと)・抓津姫命(つまつひめのみこと)の三神により、全国各地に木種を播かれ、生命豊な青山となりました。  その後、スサノヲ神は熊成峯(くまなりのたけ)を通って、とうとう根の国に入られました。

別の一書(第四)をみてみると、スサノヲ神がヤマタノオロチを退治した後、子の五十猛神が、大量に所持していた樹種を以て、国中の山々を青く茂らす為に、全国的な植樹事業を始めました。筑紫から始められた植樹は、国中を青山にすることに成功し、五十猛神はその功績が称えられて有功之神(いさをしのかみ)と御神名が仰がれ、紀伊國の鎮座する神様となりました。”(出雲大社・東京分詞HP「コラム その七○(神の木々 ~ 6 ~)」より)


はじめの話は、スサノオの子のイソタケルらによって日本に植樹され、スサノオ自身はクマノナリタケを通って、根の国に行ってしまいます。

次の話では、同じくイソタケルが植樹してイサヲノカミとなり、紀伊国に鎮座します。スサノオの拠点が出雲であれば、「出雲⇒紀伊」の流れです。

では熊野大社(出雲)をみてみましょう。

”火の発祥の神社として「日本火出初之社」(ひのもとひでぞめのやしろ)とも呼ばれ、出雲大社と共に出雲国一宮である。出雲国造本来の奉斎社であり、意宇六社の一つに数えられている。

紀伊国の熊野三山(熊野国造奉斎社)も有名だが、熊野大社から紀伊国に勧請されたという説と、全くの別系統とする説がある。社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしている。
創建は(伝)神代。

祭神は次の1柱。
伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命

祭神名は素戔嗚尊の別名であるとする。「伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)」は「イザナギが可愛がる御子」の意、「加夫呂伎(かぶろぎ)」は「神聖な祖神」の意としている。「熊野大神(くまののおおかみ)」は鎮座地名・社名に大神をつけたものであり、実際の神名は「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」ということになる。「クシ」は「奇」、「ミケ」は「御食」の意で、食物神と解する説が通説である。

これは『出雲国造神賀詞』に出てくる神名を採用したものであり、『出雲国風土記』には「伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命(いざなぎのまなご くまのにます かむろのみこと)」とある。現代では櫛御気野命と素戔嗚尊とは本来は無関係であったとみる説も出ているが、『先代旧事本紀』「神代本紀」にも「出雲国熊野に坐す建速素盞嗚尊」とあり、少なくとも現存する伝承が成立した時にはすでに櫛御気野命が素戔嗚尊とは同一神と考えられていたことがわかる。

明治に入り、祭神名を「神祖熊野大神櫛御気野命」としたが、復古主義に基づいて神名の唱え方を伝統的な形式に戻したまでのことで、この段階では素戔嗚尊とは別の神と認定したわけではない。後の神社明細帳でも「須佐之男命、またの御名を神祖熊野大神櫛御気野命」とあり、同一神という伝承に忠実なことでは一貫しており、別の神とするのはあくまでも現代人の説にすぎない。” (Wikipedia「熊野大社」より)

ややこしいですが、祭神の、
伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命(イザナギノヒマナゴ カブロギクマノノオオkマミ クシミケヌノミコト)
とは、
”イザナギが可愛がる御子であり、「神聖な祖神」であり、熊野に鎮座する「櫛御気野命(くしみけぬのみこと、食物神)」”
ということになります。

スサノオの別名とされてますが、疑問も残ります。食物神と、荒々しいスサノオの性格とは、相容れないものが感じられるからです。

ところで熊野大社は、火の発祥の神社として「日本火出初之社」(ひのもとひでぞめのやしろ)と呼ばれてます。

一方、クマノクスビですが、
”クマノムスビの神名の「クスビ(クスヒ)」は「奇し霊」(神秘的な神霊)もしくは「奇し火」の意と考えられる。”
とあり、熊野大社との深い関連が推測されます。
そして、
”熊野大社の現在の祭神は「熊野大神櫛御気野命」であるが、元々の祭神はクマノクスビであったとする説がある。”

さらにいうならば、「クシミケヌノミコト=クマノクスビ」の可能性もありそうです。
実際、
”櫛御気野命に神饌を意味するミケが含まれていることから、熊野久須毘命のクマを同じく神饌と捉え、同一の神格ととる説もある。”(国学院大学古事記学センターHP「熊野久須毘命」より)

つまり、熊野大社とは、もともとはスサノオとアマテラスとの誓約で生まれた五柱の神クマノクスビを祭ったものである。それが後代になり、スサノオと習合され、スサノオを祭ることとなった、
という可能性が考えられます。
熊野大社位置 

熊野大社 

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古事記・日本書紀のなかの史実 (35)~神生み⑳ スサノオ神社と須佐神社 

アマテラス、ツクヨミときまして、今回は三貴神の最後、スサノオです。

スサノオは、悪戯によって天上世界に混乱をもたらしたり、アマテラスとの誓約(うけい)をしたり、出雲の地に下りヤマタノオロチ退治をするなど、これから主人公的な役割を果たすことになります。

スサノオを祭る神社をみてみましょう。

まずはスサノオ神社が思い浮かびます。

”素盞嗚(スサノオ)神社は、牛頭天王・スサノオを祭神とする祇園信仰の神社。日本各地にある。2文字目が「盞」でなく「戔」に、3文字目が「嗚(口に烏)」でなく「鳴(口に鳥)」となっている神社も多い。他に祇園信仰に基づく神社名称としては、八坂神社(八阪神社・弥栄神社)、祇園神社、広峯神社、天王神社、八雲神社、須賀神社があり、時代や資料によって通用される。
これらの神社は、江戸時代までは牛頭天王社と称され、牛頭天王を祭神としていた。総本社は京都の八坂神社または兵庫県姫路市の広峯神社である。”(Wikipedia「素盞嗚神社」より)


つまり、スサノオが牛頭天王(ごずてんのう)と神仏習合され祇園信仰が生まれ、明治時代の神仏分離令により、スサノオを祭る神社としてのスサノオ神社となった、ということになります。
このあたりがややこしく、かつまた多くの誤解を生むところです。

牛頭天王について、詳しくみてみましょう。

”牛頭天王は元々は仏教的な陰陽道の神で、一般的には祇園精舎の守護神とされる。『簠簋内伝』の記述が著名である。中国で道教の影響を受け、日本ではさらに神道の神であるスサノオと習合した。これは牛頭天王もスサノオも行疫神(疫病をはやらせる神)とされていたためである。本地仏は薬師如来とされた。

明治の神仏分離令で、神社での仏式の行事が禁止され、また、祭神の名や社名に「牛頭天王」「祇園」のような仏教語を使用することが禁止されたことから、祇園社・牛頭天王社はスサノオを祀る神社となり、社名を改称した。総本社である京都の祇園社は、鎮座地の地名から八坂神社とされた。その他の神社では、京都にならった八坂神社のほか、祭神の名前から素盞嗚神社・素戔嗚神社、かつての社名から祇園神社、また地名を冠したものや牛頭天王を祀る以前の旧社名などに改称した。”(Wikipedia「祇園信仰」より)


以上のとおり、スサノオは、後年に牛頭天王(ごずてんのう)と習合されたとの説が有力であり、スサノオ神社がもともとのスサノオ信仰に基づいているかは疑問視されてます。

元々スサノオを祭っているとされる神社に、須佐神社(出雲市)があります。

須佐之男命を主祭神とし、妻の稲田比売命、稲田比売命の両親の足摩槌命・手摩槌命を配祀する。
『出雲国風土記』に、須佐之男命が各地を開拓した後に当地に来て最後の開拓をし、「この国は良い国だから、自分の名前は岩木ではなく土地につけよう」と言って「須佐」と命名し、自らの御魂を鎮めたとの記述がある。古来須佐之男命の本宮とされた。社家の須佐氏は、大国主神の子の賀夜奈流美命を祖とすると伝える。
旧社地は神社の北方にある宮尾山にあったとされる。現社地は盆地のほぼ中央部にあり、中世の時点ではすでにこの地にあったと考えられる。
『出雲国風土記』に「須佐社」と記載されている。『延喜式神名帳』に「須佐神社(出雲市)」と記載され、小社に列している。”(Wikipedia「須佐神社」)


以上のとおり、スサノオの本宮とされてます。
須佐神社HPにも、そのように記載されてます。

”由緒
出雲国風土記に見える須佐之男命の御終焉の地として御魂鎮めの霊地、又御名代としての霊跡地であり、大神奉祀の神社中 殊に深い縁を有する。須佐之男命の御本宮として古くより須佐大宮、天文年間には十三所大明神という。出雲の大宮と称え、農耕、殖産、興業、延壽の神として尊崇深厚あり、朝廷をはじめ累代国守、藩主、武将の崇敬は申すに及ばず、世人の尊敬あつく、社殿の造営は、武将、藩主によって行うのを例としてきた。明治五年郷社に、同六年県社に、同三十二年国幣小社に列せられ、第二次大戦の終戦後は別表神社として今日に至り、世人の尊宗あつい。

岩政信比古の説
須佐之男命の社は出雲国内にも、余国にも数多あれど、真の本つ社は此社にぞ有りける。然るを世人これを知らずして杵築大社、或は素鵝社、又は京の祇園などを此の神の御社と謂えるぞ恨めしき。』
各種古文書に徴して、須佐之男命の御本宮が須佐神社であることを証して余りあるものと考えさせられる説と思う。”(以上「須佐神社HP」より)


須佐神社位置


須佐神社


祭神にも注目です。
スサノオが主祭神ですが、
妻の稲田比売命(イナダヒメ)命の両親の足摩槌(アシナヅチ)命・手摩槌(テナヅチ)命を配祀しています。

アシナヅチとは、国を治める国神で、オオヤマツミの子です。
高天原から追放されたスサノオは、出雲の斐伊(ひい)川の上流に降り立ち、そこでアシナヅチ夫妻の娘であるイナダヒメをヤマタノオロチから救い出し、妻とします。

ヤマタノオロチ神話に登場する神々がセットで祭られているところも、興味深いところです。

スサノオの本拠地については諸説ありますが、最後の開拓をした須佐の地も、そのひとつといえましょう。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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