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古事記・日本書紀のなかの史実 (101) ~「古代出雲王朝」が教えてくれること

 ここまで数回にわたって、「古代出雲王朝」の存在について、みてきました。

まず考古学的にみれば、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の大量の銅剣・銅鐸群、出雲大社の宇豆柱遺跡、四隅突出型墳丘墓の分布そして青谷上寺地遺跡の土器とDNA分析からみて、出雲を中心とした巨大勢力があったことは、疑うことはできません。

そしてその勢力があそこまで巨大であり、文化的にも高い水準のものであったということは、彼らは雑多な集団ではなく、組織だったものであったはずです。まさに「出雲王朝」の名にふさわしい勢力であったといえます。

そして組織だった勢力だったのであれば、当然、自らの正当性を示すものをもっていたでしょう。それが古田氏のいう「出雲古事記」であり、それは
1.神統譜(神々の系譜)
2.神々の説話
3.政治地図
から成り立っていたということになります。

ところでこの巨大勢力は、いつ頃から存在していたのでしょうか?

古代史に興味のある方であれば、黒曜石を知っていると思います。

黒曜石(こくようせき)は、マグマの一部が急速に冷え固まってできた火山岩です。黒く光り、へりが刃のように鋭いのがわかりますね。黒曜石は別名天然ガラスといわれ、旧石器時代から縄文時代を通じ、弥生時代に鉄が伝わるまでさまざまな道具の主要な材料でした。旧石器時代にはナイフ形石器や槍の先端などに、縄文時代には矢じりによく使われました。また、狩猟用だけでなく、動物の皮をなめすなど、加工用のツールとしても用いられました。


 主要な産地は北海道の置戸(おけと)や白滝(しらたき)、長野県の霧ヶ峰(きりがみね)、佐賀県の腰岳(こしだけ)などです。こうした産地から200km以上離れた場所でも、黒曜石とそれを加工した石器が一緒に発掘されています。たとえば、現在の関東近郊に住んでいた人々も、黒曜石を求め長野県の産地まで出かけていったのです。生活の道具の大半が石器であった時代には、それだけ重要な石だったのですね。

黒曜石は、その成分を調査すると、産地を特定することができます。つまり、先史時代のものの動き、ひとの動きを、黒曜石から読み解くことができるのです。黒曜石は、まさに先史時代を象徴する石だといえるでしょう。”
(文化遺産オンライン「黒曜石原石」より)


島根県の隠岐島もまた黒曜石の産地として知られ
山陰地方のみならず畿内や瀬戸内地域、さらには朝鮮半島やロシア沿海州にまで流通していました。

隠岐の島黒曜石分布
前に、有名な「国引き神話」についてお話しました。
「国引き神話」のあらすじは、
”当初、作られた出雲国は「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」によれば「狭布(さの)の稚国なるかも、初国小さく作らせり、故(かれ)、作り縫はな」という失敗作であったという。「狭布」すなわち国の形は東西に細長い布のようであったという。そこで、八束水臣津野命は、遠く「志羅紀」「北門佐岐」「北門農波」「高志」の余った土地を裂き、四度、「三身の綱」で「国」を引き寄せて「狭布の稚国」に縫い合わせ、できた土地が現在の島根半島であるという。(Wikipedia「国引き神話」より)

通説では
高志=越国
志羅紀=新羅
「北門佐岐」=出雲市大社町or隠岐道前
「北門農波」=松江市島根町or隠岐道後

とされています。

一方で、
「北門佐岐」=北朝鮮のムスタン
「北門農波」=ロシアのウラジオストック
とする説を紹介しました。

その根拠の一つとして、黒曜石がありました。
aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-418.html

国引きイメージ2

「国引き神話」の話は別としても、隠岐島の黒曜石の分布からみれば、少なくとも出雲が朝鮮半島や沿海州と交易があったことは事実です。これだけ広範囲での交易が可能であったのは、巨大な勢力であったからのはずです。

こうした巨大勢力がそのまま「古代出雲王朝」になったのかは定かではありません。古事記・日本書紀を読む限り、むしろ「天国」からやってきたスサノオによって征服されたようにとれます。
いずれにしろ、こうした旧石器時代からの文化を何らかの形で引き継いだということでしょう。

さてここまでの説明を聞いて、あなたはどう思いましたか?

はじめは「古代出雲王朝」などと聞いて、ピンとこなかったかもしれませんが、
「なるほど、もしかしたら実在したかもしれない。」
と思われた方も多いでしょう。

実は古田氏は、この概念を「盗まれた神話」のなかで発表してますが、それは昭和49年(1974年)のことです。当時は、出雲神話などというものは単なる作り話だ、と考えていた人がほとんどでした。「出雲王朝」などと言えば、嘲笑されたものでした。

ところがここまでお話したとおり、その後1984年に荒神谷遺跡が発見されてから、空気は一変しました。論壇でも数多く取り上げられるようになりました。梅原猛氏の「葬られた出雲王朝」は有名ですね。

古田氏は、主として文献から「出雲王朝」の実在を確信したわけですから、その慧眼には感服せざるを得ません。

もちろんなかには、「「王朝」などといえるほどのものではない。単なる地方豪族にすぎない。」という反論もあるでしょう。

「王朝」とは正確にいえば、
① 帝王が政治を執り行なう所。天子の朝廷。
※史記抄(1477)三「此時に王朝に仕へて殺されたと云もわづらいもないぞ」 〔周礼‐地官・師氏〕
同じ王家に属する帝王の一系列。また、その帝王が支配している時期。「ルイ王朝」など。
(精選版 日本国語大辞典「王朝」より)

また「王朝」といえば、奈良・平安貴族のようなきらびやかなイメージももちますので、「出雲王朝」というと違和感を持つ方も多いでしょう。

そういう観点では、厳密な意味では「王朝」とは呼べないという意見もその通りかもしれません。
また「出雲古事記」なるものも、古田氏の推測するものとは、ピッタリ一致しているわけではないでしょう。しかしながら、だからといって一概に否定しうるものではありません。

少なくとも、当時の日本列島で随一とでもいうべき巨大勢力があったことは間違いありません。そしてその痕跡が、古事記などに記載され現代の私たちにも伝えられていることは、驚くべきことではないでしょうか?

当然のことながら、単に神話の内容のみならず、その思想・精神も私たちに受け継がれているはずです。そして現代の日本社会にも、反映されているはずです。こうした日本の古来からの思想・精神を、これからも大切にしていきたいものですね。

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古事記・日本書紀のなかの史実 (100) ~青谷上寺地遺跡が語ること

 「古代出雲王朝」の実在について、さらにみていきましょう。

1998年から発掘されている鳥取県鳥取市青谷町の「青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡」で調査報告があり、古代史界に衝撃を与えました。

”青谷上寺地遺跡は、鳥取県鳥取市青谷町にある弥生時代前期の終わり頃(約2400年前)から古墳時代前期(約1,700年前)にかけて営まれた集落遺跡です。

 山陰自動車道の建設に伴って見されました。そして、弥生時代の人々が活動の拠点とした微高地からは、掘立柱の建物跡、火を焚いた跡、貝塚などが見つかり、玉作りや木器製作など、様々なものづくりに関係する鉄製や石製の道具や、中国大陸や朝鮮半島で製作された銅製品が出土しています。また、周辺に作られた溝の中からは、容器や農具など、多量の木製品、漁労に使用された骨角製品、人骨など、膨大な遺物が出土しました。

 注目されるのは、木製品、骨角製品、金属製品などが、どれもすばらしい状態で地中に埋もれていたことです。当時の造形や加工の痕跡、色彩を具体的に知ることができる超一級の文化財であり、主要な出土品1,353点が、令和2年に国の重要文化財に指定されました。(鳥取県HP「青谷上寺地遺跡」より)

国内では北部九州・北陸・中国南部・四国・近畿地方との交流があったことがわかってます。
隣の鳥取県でかような広域の交流があったということは、出雲も同様の、あるいはそれ以上の交流があったと考えていいでしょう。


青谷上寺地遺跡交流


さらに注目される点は、弥生人のDNAが数多く分析されたことです。そのうちミトコンドリア遺伝子すなわち女系の遺伝子の大半は、中国大陸・朝鮮半島由来、しかも北方から南方まで広範にわたることが判明しました。中国大陸・朝鮮半島との広範にわたる交流が、文化的のみならず人的にもあったことが確認されました。

一方、
男系の遺伝子は縄文系が多数を占め(4体のうち3体が縄文系)、女系遺伝子の結果とまったく異なります。これをもって、中国大陸・朝鮮半島からやってきた女性が、青谷上寺地遺跡に住んでいた縄文系の男性と結婚したようにもとれますが、話はそう単純ではありません。

男系・女系双方を併せた核ゲノムの解析結果では、青谷上寺地遺跡遺跡の人々は、弥生系渡来人の範疇におさまり、またそれは現代日本人とほぼ同じです。(「
鳥取県鳥取市青谷上寺地遺跡出土弥生後期人骨のDNA分析」(篠田謙一・神澤秀明他)より)

驚くべきことに、韓国釜山郊外の
獐項(ヤンハン)遺跡の6000年前の2体も同様です。これは‘朝鮮半島の集団の基層にも、縄文人につながる人たちの遺伝子があることを意味しています。”ちなみに現代韓国人は、東アジア大陸の人々により近い位置です。

これについて、
”縄文人が韓国にまで分布していたと考えるよりは、初期拡散で大陸沿岸を北上したグループの遺伝子が朝鮮半島にも残っていたと考えるほうが理解しやすい。”(とっとり弥生の王国 2021Autumn「続・倭人の真実」「何が見えてきたのか」(篠田謙一・神澤秀明他)より)としています。

このあたりの解釈は難しいところですが、いずれにしても、大陸・朝鮮半島と交流があったことは事実です。ということはそれを担う人々がいたはずです。いわば「縄文海人族」とでもいう人々です。そのあたり篠田氏は別書で次のように述べています。

”当時は国境があるわけではありませんし、北部九州の縄文人は朝鮮半島南部の集団と交流を持っていたことが考古学的遺物の研究からも明らかになっています。朝鮮半島南部の新石器時代の遺跡からは、縄文人そのものといってよいほどの遺伝的類似性を持った人骨も発見されています。むしろ縄文時代相当期の朝鮮半島南部の集団と北部九州の縄文人集団を区別すること自体にあまり意味はないかもしれません。”(「人類の起源」(篠田謙一)P215より)

さてそうなると、
彼ら縄文海人族が大年(オオトシ)神の子神である韓神を信仰していた可能性はあります。だからこそ古事記に韓神と記載されたのかもしれません。

ところで古事記では、高天原から追放されたスサノオは、出雲に降り立ちます。一方、
日本書記の一書第四では、その途中、新羅に立ち寄ったとされています。

高天原を追放されたスサノオは、”その子イソタケルをひきいて、新羅の国に降られて、曾尸茂梨(ソシモリ、ソホル即ち都の意か)のところにおいでになった。そこで不服の言葉をいわれて、「この地には私はいたくないのだ」と。ついで土で舟を造り、それに乗って東の方に渡り、出雲の国の簸の川の上流にある、鳥上の山についた。”(「日本書紀」(宇治谷孟)より)

こうした神話も、北部九州・出雲・朝鮮半島との間に交流があったことを示しており、考古学的・科学的成果と一致してますね。


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古事記・日本書紀のなかの史実 (99) ~四隅突出型墳丘墓が示唆すること

 古代出雲地方における特徴的な遺跡といえば、四隅突出型墳丘墓が挙げられます。上から見ると、ヒトデのように四方に足が出ているように見える独特な形状をしています。

四隅突出型墳丘墓

弥生時代中期以降、おもに備後北部・山陰・北陸の各地方で行われた墓制で、方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態である。四隅突出型弥生墳丘墓とも呼称する。”(Wikipedia「四隅突出型墳丘墓」より)

形状も独特ですが、興味深いのはその分布です。出雲を中心とした日本海側に分布して、越の国まで広がっています。その一方、途中の丹波地方には分布してません。
四隅突出型墳丘墓分布
ここで思い出すのは、オオクニヌシの神話です。ヤチホコすなわちオオクニヌシは、高志(こし)国のヌナカワヒメのもとまでやってきて、妻問いをした話です。これが単なる妻問い婚の話ではなく、越の国征服譚であったという話を、前にしました。

その範囲は、
“渡りゆく島という島、巡りゆく岬ごとに”というオオクニヌシの正妻スセリヒメの歌からもわかるとおり、日本海沿岸です。実際、オオクニヌシは、北部九州のタキリヒメも妻としています。

四隅突出型墳丘墓の分布で興味深いのは、出雲~越の中間である丹波地方が、スッポリと空白地帯になっていることです。つまり丹波地方には、出雲勢力に属さない別の勢力があったことがわかります。「丹波王国」と呼ぶ方もいますね。

そして古事記には、オオクニヌシが丹波の国の女を妻としたーつまり丹波の国を征服したーという記載はありません。古事記の内容と、考古学的成果が整合してますが、はたしてこれは、偶然の一致でしょうか?


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古事記・日本書紀のなかの史実 (98) ~「出雲王朝」を立証するもの

 前回までで、出雲には「出雲王朝」なるものがあり、彼らは
1.神統譜(神々の系譜)
2.神々の説話
3.政治地図
をもっていたという話でした。
以上は、主として古事記・日本書紀などの文献から導きだされたものです。では、科学的にこうしたことを立証できるものはあるのでしょうか?

今回は、こうした視点でみてみましょう。

出雲といえば、古来より「神話の国」として知られていましたが、それはあくまで「神話」の世界であって、現実世界の話ではない、というのが長らくの通説でした。ところがこれをひっくり返す衝撃的な遺跡が発掘されました。それは荒神谷(こうじんたに)遺跡です。

”1984年 - 1985年(昭和59-昭和60年)の2か年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。
銅剣の一箇所からの出土数としては最多であり、この遺跡の発見は日本古代史学・考古学界に大きな衝撃を与えた。これにより、実体の分からない神話の国という古代出雲のイメージは払拭された。その後の加茂岩倉遺跡の発見により、古代出雲の勢力を解明する重要な手がかりとしての重要性はさらに高まった。製作時期は、弥生時代前期末から中期中頃の間と考えられている。”(Wikipedia「荒神谷遺跡」より)


荒神谷遺跡

さらにその2年後、約3km離れた加茂岩倉遺跡から、大発見がありました。


”1996年(平成8年)より1997年(平成9年)の2年間にわたり、加茂町教育委員会と島根県教育委員会により発掘調査が行われた。その結果、一か所からの出土例としては日本最多となる39口の銅鐸が発見された。これまで一ヶ所の出土例で最多だった滋賀県野洲町大岩山遺跡における24個の出土例を大きく更新した。”(Wikipedia「加茂岩倉遺跡」より)

加茂岩倉遺跡時期としては、弥生時代前期末から中期中間のころですから、私が天孫降臨・国譲りの推定をしている時期と、ほぼ重なります。少なくともこの時代に、出雲に当時日本列島最大級の巨大勢力があったことは確実です。これらの発見により、古代史学会もこれまでの通説を大きく見直さざるをえなくなりました。論壇でも「古代出雲王朝」なるワードが、登場するようになりました。

さらにその後、出雲大社においても、大発見がありました。

”2000年(平成12年)、同大社境内での地下祭礼準備室の建設が行われるにあたり発掘調査が行われ、巨大な柱3本を鉄の帯板で束ねて1本にした、宇豆柱と見られる巨大柱の遺構が発見された。出土遺物から、12世紀から13世紀ごろ(平安時代末から鎌倉時代)の本殿と考えられている。”(Wikipedia「出雲大社境内遺跡」より)

出雲大社柱遺跡

これの何がすごかったについては、次の解説をご覧ください。

”昔の出雲大社の本殿(ほんでん)は、今よりかなり高い巨大な神殿だったという伝説がありました。平安(へいあん)時代の「口遊(くちずさみ)」という本のなかには、「雲太(うんた)・和二(わに)・京三(きょうさん)」という言葉があります。これは、日本の建物では、出雲大社の本殿が1番大きく、東大寺大仏殿(とうだいじだいぶつでん)(大和(やまと))が2番、平安京大極殿(へいあんきょうだいごくでん)(京都)が3番という意味です。

 では、どれくらいの高さだったのでしょう。出雲大社には、上古(じょうこ)には32丈(約97メートル)、中古(ちゅうこ)には16丈(約48メートル)という言い伝えがあります。出雲ドーム(47メートル)よりも高い、巨大神殿だったようです。高すぎるので、何回も倒れたという記録が残っているくらいです。
 そんなに高かったと、なぜ言えるのでしょうか?出雲大社宮司(ぐうじ)家の千家(せんげ)家に伝わる「金輪御造営差図(かなわごぞうえいさしず)」という絵図には、大きな輪の中に3つの小さな輪がかいてあります。これが柱をあらわしているのです。3本束ねた柱は直径が1丈(約3メートル)、正面の階段の長さは1町(約109メートル)と書いてあります。そんなに大きな神殿があったとは信じられない、と言う人もいましたが、絵図と同じ柱が本当に出てきたので、大きな神殿があった可能性の高いことが証明(しょうめい)されたのです。

今回発見された柱は、平安時代から鎌倉(かまくら)時代(今から約700年前)に建てられた本殿の柱で、そのころあった建物の中では、本当に日本で一番背の高い建物だったかもしれません。”
(フォトしまね2001年●145号「出雲大社遺跡」より)

出雲大社高さ

古事記の国譲りでは、アマテラスから派遣されたタケミカヅチに対して、オオクニヌシが、
”二人の息子が天津神に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げます。その代わり、私の住む所として、天津神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てて下さい。そうすれば私は百(もも)足らず八十坰手(やそくまで)へ隠れましょう。”
といいます。これが出雲大社とされているわけです。

これがこれまでは単なる7から8世紀ころのヤマト王権の史官の創作とされてきました。ところが、実際に巨大な宮跡が出てきたわけですから、大騒ぎになるのも当然ですね。


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古事記・日本書紀のなかの史実 (97) ~「出雲古事記」を検証する

 ここまで数回にわたって、出雲には古事記・日本書紀に先在した史書、いわば「出雲古事記」があり、そこには
1.神統譜(神々の系譜)
2.神々の説話
3.政治地図
があった。
これらは近畿天皇家やそれに先立つ九州王朝のものより古く、大国を中心とした「出雲王朝」のものだった、という話でした。

以上はあくまで古田武彦氏の「仮説」ですが、さてあなたはどのように考えますか?

「いや、そんなものは単なる推測だ。何も証明できないじゃないか?」
というかもしれません。

あらためて検証してみましょう。まず
1.神統譜(神々の系譜)です。
古田氏は、古事記の系譜は捏造されたものであり、元の神統譜は、次のようなものであったと推測しています。



出雲神統譜復元
ところで門脇禎二氏は、

”「出雲国風土記」の残る神話には、「天の下造らしし大神(=オオナモチ神・大穴持神・大己貴命)」、つまり天下を造った神様と、国造りの神(=オミズヌ神)の二つが対になっている。”「古代日本の『地域王国』と『ヤマト王国』」P20と述べています。

上の神統譜では、オミズヌはオオクニヌシの祖父になります。普通に考えれば、「天の下造らしし大神(=オオナモチ神・大穴持神・大己貴命=オオクニヌシ)」が先で、国造りの神(=オミズヌ神)がそのあとになるはずですが、そうはなっていません。またオミズヌの前にいる神々は何であったのかも、判然としません。
このようにみてみると、上の神統譜も、どこまで正確なものなのかはよくわからない、ということになってきます。

次に3.政治地図についてです。古田氏は、次のような大国の支配領域を想定しています。

大国中心地図

このうち、大国・韓・白日の位置はおおむねこのとおりとしても、ソホリ・聖については、諸説あります。

ソホリについて、
”韓神・曾富理(ソホリ)神を、『延喜式』神名帳に見える宮内省に鎮座する韓神・園神と同神とみる説がある。
 邇邇芸(ニニギ)命の降臨地を書紀の一書第六に「添山(ソホリノヤマ)峰」とするのを、新羅の神話において神童君臨の所を「徐伐」(Sio-por)というのと同源であるとした上で、新羅の王都を意味するソフルが神霊の来臨する聖処を原義とするとし、「曾富理」が京城の意で、この神を京城・帝都の守護神とする説がある。
百済の王都泗沘も「所夫里」と呼ばれ、書紀第八段第一書に素戔嗚(スサノオ)尊が五十猛(イソタケル)神を率いて新羅国に降り「曾尸茂利」(ソシモリ)にいたとある。現『古事記』が平安初期に成立したものとする立場から、この神が、遷都に際して平安の新京の護り神として秦氏が奉斎した神であるとし、秦氏がその根拠地に平安京を誘致することに成功したことで、朝鮮半島の京城の護り神である曾富理神を新たに勧請したものとする説がある。”(「国学院大学 古典文化学事業 神名データベース 曾富理神」より)

聖について、
”この神の名義は、「ひじり」の語は「日知り」で暦日を知る者の意かとされ、大年神系譜の農耕神的性格から、農事に重要な暦を掌る神とする説がある。また、「ひじり」の語について霊性を体した者の意かとする説もある。同母の韓神・曾富理神・白日神を渡来系氏族の秦氏が奉斎する外来の神とするのと関連して、この神も同じく秦氏の奉斎した外来の神ではないかとする説がある。”(同上「聖神」より)

以上のように、反論もされるところです。
しかしながら、
「出雲王朝」があったのであれば、当然のことながら、彼ら自身、神統譜をもっていたはずです。それが上の神統譜とピッタリ同じでなくとも、本筋の説をゆるがすことにはならないでしょう。政治地図についても同様のことがいえますね。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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