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古事記・日本書紀のなかの史実 (74) ~ヌナカワヒメ

オホナムチすなわちオオクニヌシは、出雲の国を治めることに成功しました。

ヤガミヒメは先の約束通りに結婚なさった。そして、そのヤガミヒメは、連れて来られたのだが、その本妻のスセリビメを恐れて、その生んだ子を木の俣に刺し挟んで帰っていった。そこでその子を名付けて木の俣(キノマタ)神と言い、またの名を御井(ミヰ)神と言う。”

オホナムチは、いなばの素兎に出てきたヤガミヒメを因幡国から連れてきて結婚します。ところが正妻のスセリヒメがこわくて、ヤガミヒメは因幡国に帰ってしまいます。ちなみにかつて因幡国には八上郡がありましたから、ここがヤガミヒメの出身とされていたことになります。

子の木の俣神はよくわからない神ですが、前にヤソガミから逃れるためにオホヤビコのいる木国へ行ったオホナムチが、オホヤビコに木の俣から逃してくれたことと関係あるかもしれません。一般的に木の神、水神、安産の神として崇敬されています。

ここから突然、オホナムチの名は八矛(ヤチホコ)神になり、高志(こし)国の沼河比売(ヌナカワヒメ)と結婚しようと向かいます。

まずヤチホコです。古事記でヤチホコという神名が登場するのは、このヌナカハヒメの家を訪ねるという場面と、倭国へ出発しようとするオホナムチに対して、妻であるスセリヒメが、行った先々で別の女性たちと親しくするのでしょうと嫉妬する場面においてです。

ヤチホコは女神と艶っぽいやりとりをする神として登場しており、一見、色好みの存在という印象だけを与えているようであるが、どちらの記述でも、出雲から遠く離れた場所への言及があるという点が重要である。このように遠く離れた場所に行くのは、女性に会うためだけではないだろう。「多くの矛(を持つ者)」というのは、単に所持している武器を多さを示すものではなく、多くの戦いを繰り広げていることを示していると理解すべきであろう。”(古事記神話におけるオオクニヌシとウツシクニタマ」(岸根敏幸)より)

ようは、地方征服譚でもあるということです。かつては戦に敗れた支配者(支配者が男性の場合はその妻)は相手のものになるということがありましたから、その文脈で理解すれば、よくわかります。

そして矛の名のとおり、この話は、銅矛祭祀圏内の説話であることがわかります。

次に、ヤチホコが結婚しようとしたした高志(こし)国の沼河比売(ヌナカワヒメ)です。

”『古事記』にはこれ以外の記述はないが、新潟県糸魚川市に残る伝承では、大国主と沼河比売との間に生まれた子が建御名方神で、姫川をさかのぼって諏訪に入り、諏訪大社の祭神になったという。また諏訪でも建御名方神の母を沼河比売とする。『先代旧事本紀』でも建御名方神は沼河比売(高志沼河姫)の子となっている。

『出雲国風土記』島根郡美保郷の条では高志国の意支都久辰為命(おきつくしい)の子の俾都久辰為命(へつくしい)の子と記され、大穴持命(大国主)との間に御穂須須美命(みほすすみ)を産んだと書かれている。

越後国頸城郡の式内社に沼河比売を祀る奴奈川神社がある。天津神社境内社・奴奈川神社をはじめ、新潟県糸魚川市内に論社が3社ある。なお奴奈川神社の創建は、成務天皇の御代に市入命が沼河比売の子建沼河男命の後裔長比売命を娶って創建したと伝わる。

十日町市犬伏の松苧神社の縁起には、奴奈川姫が松と苧(カラムシ)を携えて南方からこの神社まで逃亡してきたことが伝えられている。
また、長野県にも沼河比売を祭る神社があり、姫の乗っていた鹿のものとされる馬蹄石がのこされている。
諏訪大社の下社にも八坂刀売神や建御名方神と共に祀られ、子宝・安産の神として信仰されている。

『万葉集』に詠まれた
渟名河(ぬなかは)の 底なる玉  求めて 得まし玉かも  拾ひて 得まし玉かも 惜(あたら)しき君が 老ゆらく惜(を)しも」(巻十三 三二四七 作者未詳)
の歌において、「渟名河」は現在の姫川で、その名は奴奈川姫に由来し、「底なる玉」はヒスイ(翡翠)を指していると考えられ、沼河比売はこの地のヒスイを支配する祭祀女王であるとみられる。天沼矛の名に見られるように古語の「ぬ」には宝玉の意味があり、「ぬなかわ」とは「玉の川」となる。”(Wikipedia「ヌナカワヒメ」より)

ヌナカワヒメは、新潟県糸魚川市の姫川流域を治めた女王であったようです。糸魚川といえば日本屈指のヒスイの産地ですから、ヒスイの女王であったともいえます。

興味深いのは、伝承で、子にタテミナカタの名があることです。
タテミナカタは、これから出てくる国譲り神話において登場します。タテミナカタは、アマテラスから国譲りの交渉に派遣された建御雷之男神(タケミカヅチノオ)と争いますが破れます。タケミカヅチノオはタテミナカタを追いかけ、科野国の州羽の海まで追い詰めて殺そうとしますが、ついにタテミナカタが降参するというストーリーです。

以前、なぜ出雲で争ったのに、最終的にはるか遠くの長野まで、しかも山奥の諏訪まではるばる逃げたのか腑に落ちず、日本海を介した交流があったのか、という程度の認識でした。それにしても遠すぎますよね。

ところが、タテミナカタがヌナカワヒメの子であれば、姫川流域は実家の支配地です。
姫川を遡上すれば諏訪方面までたどり着けます。糸魚川静岡構造線に沿ったルートで、比較的平坦な地勢です。古代から重要な交通ルートであり、人の行き来がありましたから、俄然リアリティのある話になりますね。

姫川~諏訪



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古事記・日本書紀のなかの史実 (73) ~出雲国風土記との違い

久々の投稿になります。
実は、 シリーズ第七巻の出版準備中で、大わらわといったところです。
題名は
「古事記・日本書紀の中の史実①
天地開闢(かいびゃく)からアマテラス誕生まで」
の予定です。
出版は7月になりそうですが、その際はよろしくお願いいたします!!


=======================

ホナムチは、スサノオから神宝を奪い、スセリヒメとともに根の堅州国から脱出します。そして宇賀の山のふもとに宮殿を建ててスセリヒメと住むことになりました。

以上は古事記のストーリーですが、出雲国風土記では違うストーリーが語られています。

出雲の郡 宇賀の郷
”天の下をお造りなされた大神の命は、神魂(カミムスビ)命の御子の綾門日女(アヤトヒメ命に求婚なされたが、そのときアヤトヒメは承諾せずに逃げて隠れなされた。この時、大神が(探しまわって)伺い求められたところがすなわちこの郷なのである。だから宇賀という。”

同じ宇賀の地の話ですが、古事記では、オホナムチの相手はスセリヒメなのに対して、出雲国風土記では、アヤトヒメです。
オホナムチすなわちオオクニヌシは女好きだから、この手の話がいろいろあるのだ、との説明もできますが、なんともしっくりきません。
たとえそうであったとしても、せめて出雲国風土記にも、スセリヒメの話が記載してあってしかるべしです。ところが一切記載はありません。ではなぜ記載されていないのか?、という疑問が残ります。

もうひとつ、このあと出雲国風土記には、興味深い記載があります。

”この郷の北の海の浜に磯がある。脳(なつき)の磯と名づけている。高さは一丈ばかりで、上には松があり、茂って磯まで続つづいている。里びとたちが朝夕行き来している。[が、その松並木もそれに]似ている。また木の枝は人がしっかりつかんで引き寄せているかのごとく[下に伸び出ている]である。
磯から西の方に窟戸(いわやと)がある。高さと広さとはそれぞれ六尺ばかりである。岩窟の内部に穴があるが、人は入ることはできない。どれだけ深いかわからないのである。夢の中でこの磯の岩屋近くまで行ったものは、必ず死ぬ。だから世人は昔から今にいたるまで、これを黄泉(よみ)の坂・黄泉の穴と呼びならわしている。”(以上「風土記」(吉野裕訳)より)

とあります。

脳(なつき)の磯について、
”おそらくは菜(魚)付の磯で、古く漁獲の生産儀礼などの行われた場所であろう。”としています。
さてこの黄泉坂・黄泉の穴ですが、
島根県出雲市猪目町にある猪目洞窟ではないかといわれています。

”猪目湾の西端にある海蝕大洞穴で、洞口は東に向き、幅36m、中央部 高さ約12m、奥行き約50mであり、奥に進むにしたがって幅と高さとを減じ、トンネル状の岩隙となる。洞底には凝灰岩の巨塊小片微砂等が推積している。昭和23年10月の漁港修築中に、偶然推積層から各種の遺物が発見された。遺物は層序的に良好な保存状態で存するもので縄文式土器、弥生式土器、貝釧及び土師器、須恵器、各種木製品からなり、人骨も埋存している。日本海沿岸の洞窟遺跡として学術上価値が高い。”(Wikipedia「猪目洞窟」より)

写真からですが、なんともいえない黄泉の国の出入り口にふさわしい雰囲気のようです。

猪目洞窟

ところで古事記には黄泉の比良坂が出てきます。こちらは島根県松江市東出雲町に伝承があります。では、黄泉坂と黄泉の比良坂との関係はどうなるのでしょうか?

そもそも出雲国風土記には、黄泉の比良坂の話は一切出てきません。古事記であれだけ大きく取り上げているのであれば、出雲国風土記にも記載されるのが自然です。ではなぜ、記載されていないのでしょうか?

もともとの出雲神話は、出雲の西側に集中しています。門脇禎二氏によれば、西出雲の勢力は東出雲の勢力に征服されたわけですから、西出雲の神話が東出雲の神話に取り込まれた可能性があります。
となると、古事記の黄泉の比良坂も、もともとは西出雲にある黄泉坂(猪目洞窟)の神話が、東出雲の黄泉の比良坂として置き換えらえた可能性も考えられます。

あるいは黄泉の国という概念が古代出雲にあり、出雲の各地でそれにふさわしい場所が祭祀儀式の場として存在し、あるいは伝承として伝えられたのかもしれません。

このように考えると、オホナムチの神話も、もともとは西出雲のものであったものが、東出雲の神話にとりこまれた可能性があります。
そしてオホナムチのモデルとなるような支配者たちが各地にいて、彼らの伝承がオホナムチという一人の神に統合されていったという仮説も成立しそうです。

このように考えると、古事記の記載と出雲国風土記の記載が異なる理由も説明できますし、それぞれの伝承同士に矛盾があるのも当然ですね。

猪目洞窟位置
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古事記・日本書紀のなかの史実 (72) ~ スサノオの三種の神器を奪う

オホナムチは、スセリヒメとともに、スサノオの根の堅州国から逃げ出します。

”スサノオは黄泉平坂(よもつひらさか)まで追ってきて、遥かに二人を眺めて、オホナムチに呼んで言うには、
「お前が手にしている生太刀・生弓矢で、兄弟を坂の裾くびれたところに追い伏せ、河の瀬に追い払って、お前は大国主(オオクニヌシ)神となり、また宇都志国玉(ウツシクニタマ)神となれ。そして私の娘のスセリヒメを正妻として、宇賀の山のふもとに、地底の磐に宮殿の柱を太く掘り立て、高天原に肱木(ひじき)の届くほどに屋根の高い、立派な宮殿を構えて住め。この賤しい奴め」

そこであのオホナムチはその太刀と弓矢を持って、ヤソガミを負い撃つときに、坂の裾という裾で追い伏せ、河の瀬という瀬で追い払い、国造りをお始めになられた。”


スサノオはオホナムチを追いますが、黄泉平坂(よもつひらさか)であきらめます。黄泉平坂は、   
前に、イザナギが黄泉の国から脱出する際に、追いかけてきたイザナミを大岩で塞いで出れないようにした場所です。
島根県松江市東出雲町が伝承地です。

黄泉比坂

ここでオホナムチに言った言葉が、興味深いです。
普通であれば、「この野郎」などと憎まれ口をたたくところですが、なんと兄弟つまり八十神からの追い払い方を教え、さらにはオオクニヌシ・ウツシクニタマという名前まで与えてます。

ここでオオクニヌシとウツシクニタマはわかりやすく漢字にすれば、「大国主」「顕し国玉」となります。
両神は、
オオクニヌシ=武力的(政治的)支配力・・生太刀と生弓矢
ウツシクニタマ=呪的宗教的支配力・・天の詔琴

という関係になります。

以上の意味について
”この天詔琴はもともとスサノヲの所有であったが、オホナムヂの神に委譲され、その神聖楽器の委譲に際して、スサノヲはオホナムヂにこれより「大国主神」と名乗れと命名し祝福を与えている。オホナムヂ=大国主神は、スサノヲノミコトの神性と神力を象徴する①生太刀、②生弓矢、③天詔琴という三種の神器を継承し、スサノヲの娘のスセリヒメを正妻とすることによって、スサノヲの威力を継承した正当な後継者と認定されたわけである。”(鎌田東二編『モノ学の冒険』所収論文より、創元社、2009年12月刊)

との指摘があります。
スサノオにしてみれば、オホナムチと自分の娘のスセリヒメにしてやられたわけですが、最後にはオホナムチを自分の後継者と認めたのだという内容です。三種の神器を奪われたから仕方ないともいえますが、スサノオ自身、きっぱりとしたあきらめがいい性格だったようにもとれるところです。

さて、スセリヒメと住むことになる宮殿の宇賀の山のふもとですが、
出雲国風土記に、出雲郡宇賀郷(うか)があり現在の出雲市国富、口宇賀、奥宇賀唐川、猪目地区あたりとされています。ここに立派な宮殿を建てて住んだことになります。
これが実際にどこなのか詳細は定かではありません。オホナムチはこの後、国譲りをして出雲大社近辺に住むことになりますが、出雲大社からは距離があるので、別の場所かと思われます。


オホナムチは、ヤソガミを追い払いますが、その場所について、出雲国風土記の大原郡来次(きすぎ)の郷には次の記載があります。
天の下をお造りなされた大神の命がみことのりして、「八十神は青垣山のうちは置かないぞ」と仰せられて追い払われたとき、ここまで追って来過(きすぎ)なされた。だから来次(きすぎ)という。”(「風土記」吉野裕訳より)

前に、来次郷がヤソガミに追われたオホナムチが逃げた木国ではないか、という話をしましたが、その論拠がこの記載でした。

また城名樋(きなひ)山の項に
”天の下をお造りなされた大神オホナムチが八十神を伐とうとして城(き)をお造りになった。それゆえに城名樋(きなひ)という”
との記載もあります。

城名樋山とは、妙見山のこととされています。城(き)が木国の木(き)と関連している可能性もあります。
城名樋山からの遠望

以上、神話に出てきた地名を落とすと、次の図のようになります。
因幡国 ⇒ 伯耆国 ⇒ 出雲国
と、オホナムチの動きがきれいに整理できますね。


オオクニヌシ伝承地


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古事記・日本書紀のなかの史実 (71) ~ スサノオの神宝を奪う

オホナムチとスセリヒメは、スサノオが寝たすきに脱出を図ります。 

”この間に、スサノオの髪を取って、室の垂木という垂木に結びつけて、五百人もの人が引くほどの大きな磐石で室の戸を塞いで、妻のスセリヒメを背負って、スサノオの生太刀と生弓矢と天の詔琴(あめののりごと)を手に持って逃げ出しました。その時、その天の詔琴が樹に触れて大地が鳴り響きました。

寝ていたスサノオはその音を聞いて、目を覚まし、室を引き倒しました。けれども垂木に結んである髪を解いている間に、遠くにお逃げになりました。”

オホナムチはスセリヒメとともに、スサノオから生太刀と生弓矢と天の詔琴(あめののりごと)を奪って逃げだします。
ところでなぜここで生太刀と生弓矢と天の詔琴の3つを奪ったのでしょうか?

太刀と弓矢は武器ということでわかりますが、なぜ琴まで奪ったのでしょうか?
「スサノオは風流な人で、日ごろから琴を弾いて楽しんでいたのだ」などと考えてしまいますが、そうではありません。

以下引用します。
”「日本神話における琴と言霊とシャーマニズム」
古語の「ワザヲギ」とは、魂を招く作法である。その「ワザヲギ」の一種の言語精霊を呼び出す技法として、琴弾のワザがあった。つまり、神聖言語=神託・託宣を引き出す(弾き出す)モノとして琴が用いられ、「言」(観念あるいはこころ)と「事」(現実)とは「琴」弾きのワザによって媒介され結びつけられたのである。

その関係性を表現した伝承が神功皇后の神懸り(『日本書紀』では「帰神」)のくだりである。神功皇后は夫の仲哀天皇の弾く琴の音に導かれてトランス状態に入り、神懸りし、託宣を述べる(『日本書紀)では武内宿禰が琴弾となる』。その託宣を建内宿禰(武内宿禰)が「サニハ」(『古事記』では「沙庭」、『日本書紀』では「審神者」)し、神託の真偽判断と価値判断を行なった。その神懸りの儀礼において、「琴」は神託という「言」すなわち神聖言語を降ろすための媒体楽器として用いられている。こうして、「言」(観念世界)は「琴」(媒体)によって「事」(現実世界)に連動する。ここにおいて、琴弾という楽器演奏と神懸りはきわめて重要な聖なるワザ=「ワザヲギ」となるのである。

こうしてみると、『古事記』の中で、日本の和歌の濫觴とされるスサノヲノミコトが聖なる琴の原所有者であるという伝承が語られていることには大変深い意味があるということになる。根の国(音の国か?)の主であるスサノヲは、自身の神力を象徴する三つの神聖道具を持っている。①生太刀、②生弓矢、そして、③天詔琴の三つである。

刀と弓矢の二つは、スサノヲの武の力を象徴する。それに対して、琴はスサノヲの歌の力、言葉の力を象徴する。文武で言えば、「文」を象徴するのが、天詔琴である。刀と弓矢という武力=男性性と琴という文化力=女性性の両方をスサノヲは所有しているということである。したがって、この天詔琴は、その名のとおり、「天の言葉を詔ることを導く琴」を意味する。言霊の誘発剤が琴なのである。

この天詔琴はもともとスサノヲの所有であったが、オホナムヂの神に委譲され、その神聖楽器の委譲に際して、スサノヲはオホナムヂにこれより「大国主神」と名乗れと命名し祝福を与えている。オホナムヂ=大国主神は、スサノヲノミコトの神性と神力を象徴する①生太刀、②生弓矢、③天詔琴という三種の神器を継承し、スサノヲの娘のスセリヒメを正妻とすることによって、スサノヲの威力を継承した正当な後継者と認定されたわけである。”(鎌田東二編『モノ学の冒険』所収論文より、創元社、2009年12月刊)

つまり琴は、神の言葉を聴くためのモノである、ということです。そして生太刀・生矢・天の詔琴は、古代出雲の三種の神器であったということになります。その後も、日本各地で使われていたようです。

大刀・弓矢・琴の組み合わせは、五世紀前半頃に明確となる祭祀遺跡の出土品で多く見ることができる。明ヶ島古墳群五号墳(静岡県)の下層から出土した、五世紀前半頃の土製模造品では、この三種類の組み合わせを確認でき、五世紀後半の祭祀遺跡、山ノ花遺跡(静岡県)からは実用の木製の弓、倭系大刀の柄・鞘、琴が出土している。
少なくとも五世紀代には、多くの神祭りの場には、大刀・弓矢・琴は用意されていたと考えられ、それは神宮の神宝へと受け継がれた。神宮の神宝の性格から考えると、これらの品々は神の御料としての性格が推定でき、その伝統は、少なくとも五世紀前半に遡るのである。(国学院大学 器物データベース「大国主神と生太刀・生弓矢・天の沼琴」より)

この一方、天皇系(もとは北部九州系)の三種の神器は、八咫鏡・天叢雲剣(草薙剣)・八尺瓊勾玉ですから、違いがあることがわかります。


神宝を奪うオオクニヌシ
ところで皆さんのなかには、こんなことを思う方もいるかもしれません。
「琴という楽器はそんなに古いものなのだろうか?。せいぜい古墳時代あたりに、中国から伝わったのではないだろうか?」
ところが近年、衝撃的な研究成果が発表されました。


”『世界最古の弦楽器か 3000年前、青森の遺跡から』
青森県八戸市にある紀元前1000年ごろ(縄文時代晩期)是川中居遺跡から出土した木製品が、現存する世界最古の弦楽器の可能性があることが、弘前学院大(青森県弘前市)の鈴木克彦講師(考古学)らの研究で28日までに分かった。
鈴木講師は、弥生時代の登呂遺跡(静岡市)などから出土した原始的な琴と似ていることから「縄文琴」と命名し「日本の琴の原型ではないか」と話している。

木製品は長さ約55センチ、幅約5センチ、厚さ約1センチの細長いへら型。上部に四角い突起、下部に直径約1ミリの穴や刻みがあるのが特徴。杉かヒバのような材質でできている。
鈴木講師らによると、毛髪や麻などを素材とする弦を数本、穴に通して張り、指や木の枝ではじいて演奏したとみられるという。

世界最古の弦楽器は、中国湖北省随県で出土した紀元前433年ごろのものとされている。この木製品が弦楽器なら、それより500年余りさかのぼることになる。
是川中居遺跡では1926年以降、同じ形状の木製品が計20本発見されている。同様の木製品は、いずれも縄文時代の忍路土場遺跡(北海道小樽市)、松原内湖遺跡(滋賀県彦根市)、亀ケ岡遺跡(青森県つがる市)でも見つかっている。

鈴木講師は78年に弦楽器説を発表。滋賀県の発掘チームは機織り具と主張し、見解が分かれていた。鈴木講師は2008年夏ごろから再び研究を開始。機織りに役立たない突起や、作業の妨げになる穴があり、機織り具とは考えられないと結論づけた。
その上で弘前学院大の笹森建英特任教授(音楽学)とともに復元品を作製。笹森特任教授が実際に演奏し、弦楽器として使えることを証明した。2人は今年2月、報告書にまとめた。

鈴木講師は「シャーマン(呪術師)のような儀礼を取り仕切る人が、占いや祈りの際にはじいたのではないか」と話している。〔共同〕”(日本経済新聞WEB版、2012年4月28日)

縄文琴

なんと日本では、縄文時代から琴が使われていた、というのです。しかもことによると世界最古の可能性がある、ということです。世界最古かどうかはともかく、スサノオは、縄文時代からの祭祀の伝統を引き継いでいたともいえます。

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古事記・日本書紀のなかの史実 (70) ~ オオクニヌシの試練

オホナムチは、蛇の部屋に寝かされましたが、ここから試練が始まります。

”スセリヒメは、蛇の比禮(ひれ)をオホナムチに授けて、「その蛇が食おうとしたら、この比禮を三回振って、打ち払いください」とおっしゃいました。いわれたとおりにすると、蛇は静まりました。かくして無事に寝て、翌朝蛇の室からお出でになりました。

また翌日の夜は、呉公(ムカデ)と蜂との部屋に入れられたましが、またムカデの比禮を授けて、先ほどの教えのとおりにしたので、簡単に部屋から出られました。

また鳴鏑(なりかぶら)を広い野に放ち、その矢を採ってくるように命じました。そしてオホナムチが野に入ったとき、火でぐるっと周囲を焼きました。どこから出ていいかわからなかったときに、ネズミがやってきて、「内はほらほら、外はずぶずぶ(内部はうつろで、外部はすぼんでいる)」といいました。

そこでそこを踏んでみると、そのほら穴の中に落ちて、身体が隠れ入った間に、火は穴の外を焼け過ぎました。ここでそのネズミは、その鳴鏑をくわえて持ってきてオホナムチに献上しました。その矢の羽は、ネズミの子が皆くわえてもってきました。

ここで妻のスセリヒメは、夫は死んだと思って、葬式の道具を持って泣きながら来ました。スサノオはすでにオホナムチが亡くなったと思ってその野にお出になりましたところ、オホナムチは矢を持ってきて差し上げました。

そこで家に連れてきて、広く大きな室屋に呼び入れて、スサノオの頭のシラミを取るように命じになりました。その頭を見ると、ムカデが多くいました。ここでスセリヒメが椋の実と赤土をオホナムチに授けました。オホナムチ椋の実を噛み砕き、赤土を口に含んで唾と共に吐き出したので、スサノオはムカデを噛み砕き吐き出したと思って、いとしい奴だと思って寝てしまった。


なんとも面白い話であり、かつまた細かい描写も見事で、物語としてたいへんよくできていますね。ここでいくつか解説します。

蛇の比禮(ひれ)
蛇を払う呪力をもった領布。領布とは、古代女子が頸にかけて左右にたらしたもの。

領布

鳴鏑(なりかぶら)
鏑のついた矢で、空中を飛ぶ時、鏑の穴に風が入って鳴るので、鳴鏑という

鳴鏑矢

オホナムチはスセリヒメのいうとおりに、椋の実をかみ砕き赤土をつばに含んで吐き捨てますが、スサノオはムカデをかみ砕いたのかと勘違いしたところが、なんかユーモラスですね。

スサノオがそんなオホナムチに対して、
”心に愛しく思ひて(いとしい奴だと思って)”
とあるのは、
あまりに一生懸命な姿に心を動かされたということでしょう。オホナムチとスセリヒメにしてみれば、してやったりといったところでしょうか。


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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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