FC2ブログ

古事記・日本書紀のなかの史実 (42)~淡海の多賀とは?

さて、スサノオはイザナギによって追放されますが、そのイザナギについて次のように記されています。

” 其の伊邪那岐大神は、淡海の多賀に坐すなり。”

これは一般的には、「近江の多賀神社に鎮座されている」の意とされています。

多賀大社

多賀大社
”滋賀県犬上郡多賀町多賀にある神社。
和銅5年(712年)編纂の『古事記』の写本のうち真福寺本には「故其伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也。」「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」(いざなぎのおおかみは あふみのたがに ましますなり)との記述があり、これが当社の記録だとする説がある。ただし『日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」、すなわち「幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて」とあり、国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島の地に幽宮(かくりみや、終焉の御住居)を構えたとあり、『古事記』真福寺本の「淡海」は「淡路」の誤写である可能性が高い。

多賀大社の祭神は南北朝時代の頃までは伊弉諾尊ではなかったことが判明しており『古事記』の記述と多賀大社を結びつけることはできない。『古事記』では「近江」は「近淡海」とするのが常で、同じ『古事記』でも真福寺本以外の多くの写本が「故其伊耶那岐大神者坐淡路之多賀也。」になっており、その他の諸々の理由からも、学界でも「淡海」でなく「淡路」を支持する説が有力である(武田祐吉、直木孝二郎等)。なお、『日本書紀』では一貫して「淡路」と記され、「近江」に該当する名はない。 ”(Wikipedia「多賀大社」より)

以上のとおり、近江ではなく、淡路つまり淡路島とする説が有力視されています。

淡路島にある該当する神社は「伊弉諾(イザナギ)神宮」です。 

兵庫県淡路市多賀にある神社。
祭神は次の2柱。
・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
・伊弉冉尊(いざなみのみこと)
両神は日本神話の国産み・神産みに登場する。『幽宮御記』に祭神は「伊弉諾尊一柱也」とあるため、本来は伊弉諾尊のみを祀ったと考えられる。

『日本書紀』・『古事記』には、国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島多賀の地の幽宮(かくりのみや、終焉の御住居)に鎮まったとあり、当社の起源とされる。”(Wikipedia「伊弉諾神宮」)


このように、たしかに”淡路の多賀”にあてはまっています。

伊弉諾神宮

しかしながら、他にも候補となりうる神社はあります。
福岡県直方(のおがた)市にある「多賀神社」です。

”祭神は
・伊邪那岐大神
・伊邪那美大神
この神社の創建年代等については不詳であるが、平安時代にはあったという。”(Wikipedia「多賀神社(直方市)」)

”古くは日ノ少宮・日若宮と称之、奈良朝時代には妙見大明神多賀大神と称えたこともあります。”
(「福岡の神様HP」 
http://kamisamahotokesama.com/archives/introduce/tagajinja/ より) 

実際、日本書紀第六段本文には、

"幽宮(かくれみや)を淡路の地に造って、静かに永く隠れられた。また別にいう。イザナギはお仕事をもう終られ、徳も大きかった。そこで天に帰られてご報告され、日の少宮(わかみや)に留まりお住まいになったと。"
とあり、「日の少宮」(わかみや)という言葉が出てきます。

また多賀神社には、古くから伝わった日若謡(ひわかうた)が次第に大衆化した日若踊りあります。

”直方日若踊(新町)
【由来等】
 1678(延宝6)年直方藩士、大塚次郎左衛門が江戸からの帰途、大阪で舞を習い、直方に持ち帰り、日若宮(今の多賀神社)に昔から伝承されていた「日若舞」と融合させたものが、次郎左踊り又は思案橋踊りとなった。更に1857(安政4)年、大阪「あやめ座」の役者中村吉太郎(一調)が、直方の宮芝居に来て長唄「二上り浦島」の替歌を台唄とし、日若舞の形を採り入れながら、新町の若衆に振り付けたのが、本手踊りである。日若踊は、この2様の踊りを具えた歌舞として確立され、今日に至っている。”
(福岡民族芸能ライブラリー http://www.fsg.pref.fukuoka.jp/e_mingei/detail.asp?id=5-12 より)

多賀神社は、遠賀川式土器で有名な遠賀川の中流域にあります。遠賀川は、弥生時代までは現在の陸地奥深くまで入江を形成しており、「古遠賀湾」と呼ばれてます。古遠賀湾沿岸には、多くの貝塚などの縄文遺跡や弥生時代の遺跡が分布しており、古来より人々が生活を営んでいたことがわかっています。

なお古事記の「淡海」は、”淡水の海、湖”とされていますが、「淡い海」という表現からは、むしろ淡水と海水が入り混じる入り江のような場所を示しているようにも受け取れます。
そうなると、古遠賀湾はその条件を満たしていることになりますね。

多賀神社
↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!



最後まで読んでくださり最後まで読んでくださり、ありがとうございました。 
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。  


 
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ 
にほんブログ村 

スポンサーサイト



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

古事記・日本書紀のなかの史実 (41)~スサノオ黄泉の国へ行く

イザナギから、アマテラスは高天原を、ツクヨミは夜の国を、スサノオは海原を治めるようにいわれましたが、スサノオは泣いてばかりで国を治めようとしません。

このときのスサノオについて、古事記では
”幾握りもの長さのあるあごひげが胸の前に垂れ下がるまで、激しく涙を流して泣き、その様は、青々とした山が枯れ木になるまで、河や海の水を浚(さら)えつくすようであった。
それにより、悪神の騒ぐ声が田植え頃のハエのように満ち、いろんな悪霊邪鬼による禍害がおこった。
と記載されています。

こうした描写から、スサノオは、雷神や火山・地震神であるとの指摘もされています。たとえば寺田寅彦氏は、”噴火のために草木が枯死し河海が降灰のために埋められることを連想させる”と説いてます。(「古事記 祝詞」(校注 倉野憲司他)P73より)

たしかになんともすさまじい鬼気迫る描かれ方ですから、一理ある見方ではあります。

こうして泣き喚くスサノオに対して、イザナギは
「なぜ国を治めないで、泣いてばかりいるのだ。」
と問い詰めます。
これに対してスサノオは、
亡き母(イザナミ)のいる根の堅州(かたす)国に行きたいから、泣いているのだ。」
と答えます。

それを聞いたイザナギは、たいへん怒って、
「お前にはこの国に住む資格はない。」
と言って、スサノオを追放してしまいます。

スサノオ


ところで、なぜスサノオはかようなまでに泣き喚いたのでしょうか? 

単なる幼心のままの、わがままだったのでしょうか?

そのように解釈してもいいのでしょうが、興味深い解釈がされています。
それは、スサノオを「トリックスター」とする説です。「トリックスター」とは、神話的な「いたずら者」「悪ガキ」の意味ですが、それだけにとどまりません。Wikipediaを引用します。

”神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を展開する者である。往々にしていたずら好きとして描かれる。善と悪、破壊と生産、賢者と愚者など、異なる二面性を持つのが特徴である。

トリックスターは、時に悪意や怒りや憎しみを持って行動したり、盗みやいたずらを行うが、最終的には良い結果になるというパターンが多い。抜け目ないキャラクターとして描かれることもあれば、乱暴者や愚か者として描かれる場合もあり、両方の性格を併せ持つ者もある。”(Wikipedia「トリックスター」より)

今までの常識を超えた存在であり、よく描かれる場合もあれば、悪く描かれる場合もあります。そして悪く描かれたとしても、どこか無邪気で憎めない存在であったりします。スサノオがこれにあたるでしょう。

このトリックスターですが、世界中の神話や伝承に登場します。
たとえば、
・西アフリカ神話(アナンシ)
・古代メソポタミア神話(イシュタル)
・インド(クリシュナ、ハヌマン)
・ギリシア神話(プロメテウス・エリス・ヘルメス)
・ユダヤ教、キリスト教(ヤコブ・ルシファー)

・北西カフカス神話(ソスリコ)
・ケルト神話(スピリット)
・北欧神話(ロキ)
・中国(孫悟空)
・アステカ神話(テスカトリポカ)
・ポリネシア・ハワイ神話(マウイ)

等々です。

では、なぜ世界中に広く伝わっているのでしょうか?

人間は古来より同じようなことを考えるものであるから、単なる偶然だ、という説があります。

もちろんそういったこともあるでしょうが、もうひとつには、われわれの先祖がアフリカを出るときに、すでにトリックスターの概念をもっており、それが世界中に広まっていったのではないか、という推測もできます。すでにお話しした「世界神話学」説です。

神話の分布をみると、たしかに人類の移動ルート上にあるようにもみえます。

さて、トリックスターの存在は、神話においてどのような意味をもつのでしょうか?
これについて、松村一男氏(和光大学教授)が、洞察に富んだ指摘をしてます。

”単なる破壊者、秩序の騒乱者ではない。彼の活動によって、よい場合も悪い場合もあるが、なにか新しい物が生じ、世界は変化していく。生の全体性には無秩序も含まれるのであり、そのことを強調してわれわれに再認識させてくれるのがトリックスターであろう。真面目で硬直化した社会は、トリックスターのいたずらによって変化と笑いをもたらされ、世界は活性化されていくのである。
またある意味では、トリックスターは人間の自嘲気味な自画像とでもいうべきもの、失敗に絶望せずに、未来に楽天的に望みをつないでいこうとする人間の積極的姿勢のモデルとでもいうべきものかもしれない。”(「世界神話事典 創成神話と英雄伝説」(松村一男他)P258より)

ようは、今までの常識にとらわれて、ものごとを生真面目に四角四面に考えすぎては、何も進歩は生まれない。世の中に変革をもたらすのは、楽天的な希望と今までにない奇想天外な発想と行動だ、ということです。

この「真理」を古代の人々も直感的に認識していて、それが神話や伝承となって語り伝えられている、ということでしょう。

私は偉人といわれる方の自伝を読むのが好きなのですが、今までの枠に治まらない人が多いです。たとえばゼロから世界のHONDAを作り上げた本田宗一郎などは、ハチャメチャな豪快な人生を歩みましたし、福沢諭吉なども、慶応ボーイのイメージとは程遠く、破天荒な考え方をもち行動したことがわかります。

現代社会は、先行きのみえない不透明な時代であり、また閉そく感が満ち溢れているようにも感じられます。こういう時代こそ、トリックスターのような存在が必要なのかもしれませんね。

さてここまでは、スサノオをトリックスターとしてきました。実際スサノオは、高天原で暴虐を働き、高天原から追放されるなど、トリックスター的な行動をするのですが、その後出雲の地に降り立ってからは、ヤマタノオロチ退治をするなど、英雄的な行動をします。

これについては、
”多くの文化では、トリックスターと文化英雄は結びつけられることが多い。”(Wikipedia「トリックスター」より)
とされています。

松村一男氏は、スサノオをトリックスターではなく、英雄の範疇に入れています。

・出雲における竜殺し(ヤマタノオロチ退治)に関する限り典型的な英雄神である。
・悪戯によって天上世界に混乱をもたらす点や、食物の女神を殺して穀物が世界に生じる契機をつくる点などは、明らかに文化的英雄・トリックスターの側面を示している。


さらに面白いことに、ここからさらに深く掘り下げて、
”より興味深いのは、スサノオが示す母性への執着である。”
と指摘して、次のように解説してます。

”母の代理ともいえるアマテラスと、象徴的な形ではあるが、一種の近親相姦ともいえる誓約による子産みをし、またせっかく大蛇の尾から発見した剣もアマテラスに献上してしまっている。
さらに、スサノオは彼の娘と結婚しようとするオオクニヌシに対して敵意を示し、殺害に近いような厳しい試練を課したりしている。
つまりスサノオにとって、娘のクシナダもまた代理母的なのである

これは結局、本当の母を知らなかったスサノオの満たされることのない母性への憧憬であるのかもしれないし、あるいはスサノオは、現代の日本男性に関してよく言われる、マザー=コンプレックスの神話的祖型であるのかもしれない。”(「世界神話事典 創世神話と英雄神話」(松村一男他)P290-291)


このあたりは、古代史というより「神話文化論」とでもいうべき範疇に入るのでしょうが、なんとも奥深い洞察です。

皆さんは、どのように思われるでしょうか?

↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!



最後まで読んでくださり最後まで読んでくださり、ありがとうございました。 
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。  


 
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ 
にほんブログ村 

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

古事記・日本書紀のなかの史実 (40)~神生み㉕ 出雲・新羅・筑紫と「天国」

前回までで、「天国(あまぐに)」が、対馬・壱岐を中心とした領域であり、スサノオはその「天国」から新羅に渡り、そこから出雲にやってきたのではないか、という話をしてきました。

ところで皆さんのなかには、こういう疑問をもつ方がおられるでしょう。

「古事記・日本書紀の記載からみれば、そのように読めるかもしれないが、実際に古代人がそのような活動をしていたのだろうか?」

たしかに、現代のように性能のいい船があれば容易かもしれませんが、そのような船がない時代では、簡単ではなかったはずです。だから、上の推測は無理筋ではないかと考えるのも、当然です。

この説を科学的データからみてみましょう。

1998年から発掘されている鳥取県鳥取市青谷町の「青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡」で調査報告があり、古代史界に衝撃を与えました。

まずは、「青谷上寺地遺跡」の概要です。

”遺跡は弥生時代前期後半に集落としての姿を現し、中期後半に著しい拡大を遂げ後期に続くが、古墳時代前期初頭に突如として姿を消す
遺物は膨大な数の土器以外に、鉄器・青銅器・木器・石器・骨角器など多彩で、後述の遺物も合わせ弥生時代の情報量の多さは特筆される。

遺跡の東側の溝では弥生時代後期の100人分を超える約5,300点の人骨が見つかったが、うち110点に殺傷痕が見られた。また2点に脊椎カリエスによる病変が確認された。これは日本における最古の結核症例である。
日本で初めて弥生人の脳が3人分発見された
120センチメートルほどのモミ製の盾から緑色顔料(緑土)が確認された。これは東アジア最古の緑土の使用例である。”(Wikipedia「青谷上寺地遺跡」より)

多くの人骨が見つかり、殺傷痕が見られたことも大きな特徴ですが、なんといっても注目は、弥生人のDNAが数多く分析されたことです。そのうちミトコンドリア遺伝子による分析すなわち女系の遺伝子の大半は、中国大陸・朝鮮半島由来、しかも北方から南方まで広範にわたることが判明しました。

詳細は膨大になるのでのちほどということにしますが、とにもかくにも中国大陸・朝鮮半島との広範にわたる交流が、文化的のみならず人的にもあったことが確認されました。

国内では北部九州・北陸・中国南部・四国・近畿地方との交流があったことがわかってます。


青谷上寺地遺跡交流

スサノオの本拠は出雲すなわち島根県ですが、隣の鳥取県でかような広域の交流があったということは、出雲も同様の、あるいはそれ以上の交流があったと考えて、差支えないでしょう。

新羅は朝鮮半島の東南部に勢力をもっていましたが、当然のことながら出雲は新羅と交流があったとみていいでしょう。

そしてこの交流の中心拠点が、北部九州であったということに注目です。

このことは、冒頭で提起した、
”「天国」が、対馬・壱岐を中心とした領域であり、スサノオはその「天国」から新羅に渡り、そこから出雲にやってきたのではないか”
という仮説と整合がとれていることがわかります。

↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!



最後まで読んでくださり最後まで読んでくださり、ありがとうございました。 
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。  


 
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ 
にほんブログ村 

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

古事記・日本書紀のなかの史実 (39)~神生み㉔ スサノオの出自

スサノオの本拠について、出雲と畿内の関係含めてみてきました。

スサノオの本拠が出雲であることが明らかですが、ではスサノオはどこからやってきたのでしょうか?

スサノオというと、日本書紀の記載から、新羅との関係が思い浮かびます。

誓約でアマテラスに勝利したスサノオは、調子に乗って暴虐の限りを尽くした結果、高天原から追放され、出雲の国に降り立ちます。日本書記の一書第四では、その途中、新羅に立ち寄ったとされています。

”高天原を追放されたスサノオは、”その子イソタケルをひきいて、新羅の国に降られて、曾尸茂梨(ソシモリ、ソホル即ち都の意か)のところにおいでになった。そこで不服の言葉をいわれて、「この地には私はいたくないのだ」と。ついで土で舟を造り、それに乗って東の方に渡り、出雲の国の簸の川の上流にある、鳥上の山についた。”(「日本書紀」(宇治谷孟)より)

一般的には、高天原とは天上界であり、そこから地上界である出雲に降りてきたと解されています。

こうした従来の解釈に異議を唱えたのが、古田武彦氏です。

古田氏は、古事記中の「上る」「下る」の用法を洗い出した結果、一定の法則があることを指摘しました。たとえば、神武天皇が九州日向から吉備を経由して大和へ攻め入るいわゆる「神武東征神話」のなかの記載について、次のように述べてます。

”「故(かれ)、その国(吉備の高島宮)より上り幸(い)でし時、・・・故、其の国より上り行きし時、浪速(なみはや)の渡(わたり)を経て、青雲の白肩(しらかた)の津に泊る。」(古事記「神武記」)

神武東征のとき、吉備→難波の行路で、二回も「上る」の表記が出てくる。これは近畿の方を都、つまり原点とした表記だ。仲哀記に、「是にオキナガタラシヒメ、倭に環り上りし時、・・・」とあるのと同じだ。
つまり、”地上のA点から地上のB点への移動”について、「上る」の語が使用されているのである(これは現代の汽車で首都たる東京中心に、「上り」「下り」を使うのと同じだ)。このような使用例から見ると、「天降る」とあっても、これは”天国から天国以外のX地点に移動する”それを意味するだけだ。”(「盗まれた神話 記・紀の秘密」(古田武彦)P358-359より)

そして、一般的に天上界のこととされている「高天原」とは地上界にある「天(あま)国」として、その領域について考察しています。

ひとつは、古事記の国生み神話からです。
イザナギ・イザナミが生んだ8つのクニである「大八嶋國」と[六嶋」に「亦の名」があることは、前にお話ししました。その「亦の名」について、「天」のつくクニが、大八嶋で4つ、六嶋で3つあります。古田氏はこれを、「天(海人)族」の古い時代の支配領域ではないか、と推測してます。

その範囲は、大八嶋では、隠岐の島、壱岐、津島となります。これは次の図をみれば明らかなように、北部九州~出雲の日本海にある島々です。
なお、「天御虚空豊秋津根別(大倭豐秋津嶋)」については、他の一連の名前とは別格の荘重さが備わっていることから、あとから挿入された「新名」ではないか、としてます。
また、六嶋の
天一根、天之忍男、天両屋は、通説ではそれぞれ大分県姫島、五島列島、男女群島(五島列島)とされていますが、断定できないため省きました。

亦の名で天がつく国

以上のとおり、天国の領域は、北部九州~出雲にかけての日本海の島々に限られることがわかります。またそれは、天津神(とその子や孫たち)の行動範囲とも整合していると指摘しています。

”(1)イザナギ神は、出雲にあるといわれる黄泉の国にいった。そして筑紫の日向の橘の小戸(博多湾岸、西辺)に帰ってきた。そしてここで、”ミソギ”をして天照や月読やスサノオらを生んだ。
(2)天照は筑紫の博多湾岸(姪の浜付近)で誕生したあと、「天国」にひきこもり、そこから出たことがない。
(3)スサノオは、はじめ新羅に行き、のち出雲へ行った。
(4)天照の子、天の忍穂耳(オシホミミ)命は、「天国」から出たことがない。
(5)天照の孫、ニニギは、「天国」を出て、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ、糸島郡、高祖山連山)に来て、この筑紫で定住した。
(6)天鳥船神・建御雷(タケミカズチ)神は、天照の使者として、「天国」から出雲の伊那佐(いなさ)の小浜(おばま)に降り到った(「国譲り」の交渉)

このように、天ツ神たちの天国からの行動は、筑紫・出雲・韓地(新羅国)の、三地域に限られている。
しかも、これら三地域に出向くさい、いずれも途中の中間地域が書かれていない。だから、「天国」は、この三地域に共に接しているのだ。すなわち、この三地域に囲まれた、その内部にあるのだ。ーそれはとりもなおさず、右の「亦の名」古地図の示す「天の・・・」の島々の分布領域に一致する。これが、この「天国古地図」が『記・紀』の神話内容と完全に一致していることを証明している”(同書P370-371)。

ではこの三地域に囲まれた「天国」は、どこのことを指しているのでしょうか?
図でみてみましょう。

天国領域
図のとおり、天国とは、対馬・壱岐・沖ノ島を含んだ領域にあると推測できます。

古田氏は同書において、六嶋のひとつである両児嶋(亦の名を「天両屋」)を沖ノとして、そこから
沖ノ島をアマテラスの本拠地としてます。たしかに沖ノ島は2017年に世文化遺産に登録されるなど、歴史的にたいへん貴重な島です。しかしながら沖ノ島祭祀遺跡が本格的に開始されるのは、4世紀後半の岩上祭祀からです。

アマテラス神話は描写が素朴で原初的であることからも、時代は紀元前にさかのぼると推測されます。ですから、アマテラスの本拠すなわち「天国=沖ノ島」は成立しないと考えます。

私としては以前お話ししたとおり、対馬・壱岐を中心とした地域ではないか、と推測してます。

ところで、「高天原」と「天国」は、同じものでしょうか。
古田氏は、次のように述べてます。

「高天原」という表現は、そこがあたかも”壮大な領域の高原”であるかのような錯覚を与えてきたのではあるまいか。この「原」は”野原”の意味ではない。「前原」「白木原」「春日原」などの「バル」なのである。つまり筑紫一帯の用語で集落の意だ。
「高」は敬称に類する。竪穴・横穴住居の多かった時代にあって、地上の住民が、「高 -- 」と呼ばれたとも考えられる。したがって「高天原」は”「天国」の集落”を意味する言葉なのである。”(同書P371-372)


「前原(まえばる)」「白木原(しらきばる)」「春日原(かすがばる)は、今も福岡県にある地名です。普通に読めば「はら」ですが、なぜか地元では「ばる」と読みます。
「天原」=「天国」の集落
であり、その敬称が「高天原」というわけです。

実際、壱岐には、天ヶ原、高野原等の地名が残っており、関連性をうかがわせます。天ケ原には「天ケ遺跡」があり、中広型銅矛3本が出土してます。弥生時代には祭祀の場所であったことがわかります。

もちろん天ヶ原や高野原が、そのまま「高天原」であるということではありません。あくまで高天原にある地名のひとつであったということでしょう。


↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!




最後まで読んでくださり最後まで読んでくださり、ありがとうございました。 
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。  


 
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ 
にほんブログ村 


テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

古事記・日本書紀のなかの史実 (38)~神生み㉓ 荒神谷遺跡がもたらしたインパクト

前回は、大和など畿内や紀伊にある出雲と関連する神社などは、出雲よりも新しく、したがって「出雲⇒畿内・紀伊」という流れではないか、という内容でした。また日本書記の記載からみても、そのように考えるのが自然という話でした。

ではなぜ、これまで長年にわたり「畿内・紀伊⇒出雲」が通説として唱えられてきたのでしょうか?

それは、古事記・日本書紀の神話の3分の1を占める出雲神話は、後世の史官による創作であることが当然のこととされてきたからです。これが数百年にわたる日本古代史の前提でした。ですから、中心は当然のことながら畿内であり、出雲から祭祀などが伝わるのはありえないと考えられてきたわけです。

ところがこの常識を根本からひっくり返す発見がありました。島根県出雲市斐川町で発掘された荒神谷遺跡です。

1984年 - 1985年(昭和59-昭和60年)の2か年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土しました。
ではひとつずつみてみましょう。引用元は「古代出雲」(門脇禎二)です。

【銅剣】
358本の中細形C類銅剣をどのように解釈するかは、なかなか困難な問題である。同時に、荒神谷遺跡の謎を解く重要な鍵が、この銅剣群にあることも確かである。
現状ではいくつかの仮定のうえに推論を重ねることになるが、同一型式の一括大量埋納という事実からは、製作工人が近畿または北部九州より来て、当地で製造したものという考え方がまず出てくる。搬入された銅鐸・銅矛群とは場所を異にして埋納されていたことも、右のように解釈すれば説明がつくかもしれない。
出雲の地でかりに製作されたとしても、そのことが即「出雲型」銅剣の生産ということにはならないであろう。だが山陰の各地に分布する中細形C類銅剣は、それぞれの地の農耕社会に、荒神谷遺跡の青銅器群を所有する集団から分配された可能性も想定できよう。

当地製造か製品搬入かのいずれをとるにしても、このような各種青銅器を大量所有することは並みの農耕社会では成しえないことである。このことは、北部九州の青銅器生産センターとして知られる福岡県春日丘陵の遺跡群や、銅鐸・銅戈を製作していた大阪府東奈良遺跡などの実態に照らしてあきらかであろう。問題は、そうした青銅器の大量所持を可能にした歴史的条件と集団の歴史的な性格である(同書P46、
出典「銅鐸・銅剣・銅矛と古代出雲」(島根大学教授 田中義昭)「高校社会科教育ぶっくれっと」五号 三省堂 1986年5月 P24-25)。”

銅剣の製作について、近畿または北部九州から来た工人が、出雲で製作したとの考察をしています。ここで北部九州はわかりますが、近畿というのはどうでしょうか? 青銅器の分布をみてみましょう。

青銅器祭祀分布

中細型銅剣C型は出雲型と呼ばれ、出雲を中心とした地域に分布してます。銅剣は平型銅が瀬戸内地域に分布してますが、東限は淡路島であり畿内には分布してません。

一方九州は、図では銅矛祭祀圏となってますが、中細形銅剣が数多く出土してます。a類は中期前半、b類は中期前半~後半、c類は中期後半~末と推定されてます(「弥生時代の青銅器生産地 :九州」(後藤直)より)。

つまり出雲型とされるc類に先行してa類、b類が九州にあったということです。このことから、出雲型c類は九州から伝搬したことが推測されます。

実際、同書では、次の記載があります。

”荒神谷遺跡の銅剣は、佐賀県神埼郡千代田町姉遺跡出土の銅矛の鋳型といわれてきたもので製作されたという見解が出た。”(P134,出典「青銅器の仿製と創作」(柳田康雄)『図説 発掘が語る日本史』6 1986年)


以上のとおり、荒神谷遺跡の銅剣は、畿内ではなく北部九州との強い関連が推測されます。

【銅鐸】
”最古段階と古段階の製作品であるから、当地が弥生Ⅰ期末からⅡ期には銅鐸分布圏の一角をなしていたことは明瞭である。しかも一号鐸のような前例のない銅鐸が含まれていることや最古式の一号鐸が存在することからすれば、当地方がたんに銅鐸分布圏の外域に位置していたというだけではなく、相対的に独自性をもった地域であったことが考えられよう。北部九州で生産されたことが確実な福田型邪視紋鐸の存在も、こうした独自性と関連があるのではなかろうか。”(同書P45)

銅鐸というとすぐに畿内を思い浮かべますが、ことはそう簡単ではありません。最古式の銅鐸となると、日本での銅鐸発祥との関連がうかがわれます。日本でどの地域から銅鐸が広まったのは、よくわかっていませんが、最古式の銅鐸がどの地域に分布しているかがわかればヒントになりますので、みてみましょう。

最古銅鐸分布


銅鐸は、荒神谷遺跡のほかは、兵庫・淡路島・福井・岐阜・三重、銅鐸鋳型は、京都・愛知に分布してますが、奈良・大阪には、分布してません。こういうことから、日本での銅鐸の発祥は、出雲・北陸・淡路島あたりではないか、という考察は、以前いたしました。

なお、福田型邪視紋鐸とは、伝出雲出土銅鐸(木幡家銅鐸)のことです。これと同じ鋳型で作られたと考えられる銅鐸が、吉野ケ里遺跡で発見されました。さらに伝伯耆国(ほうきこく、現鳥取県)出土銅鐸も、北部九州で作られたとされています。

こうしたことを考え合わせると、銅鐸も北部九州から伝搬した可能性が出てきす。

【銅矛】
”銅矛は北部九州からの移入品であろう。一部に中細型を含むことからは、銅鐸同様に時期を追ってもち込まれたことが考えられる。すなわち中細型の受け入れにつづいて中広型が伝えられるという具合である。また中広型にみとめられた綾杉状の研ぎ分けは、佐賀県検見谷(けみだに)遺跡発見の中広型銅矛をはじめとして二十例近くが知られているが、いずれも北部九州の地においてである。これらのことから弥生Ⅲ~Ⅳ期ごろには出雲地方は北部九州とも交流していて、銅矛圏の東限をなしていたといえる。”(同書P45-46)

銅矛祭祀の中心は北部九州ですから、出雲の銅矛も北部九州から伝搬したのは確実です。

以上、荒神谷遺跡の銅剣・銅矛は、畿内との関連はなく、銅鐸についても少なくとも最古式の銅鐸でみる限り、大阪・奈良地域との関連は見いだせません。むしろ北部九州と強い関連があることがわかります。

こうしたことを考え合わせると、出雲のスサノオ信仰は畿内より古く、「出雲→畿内」の流れと考えるのが自然でしょう。

なお北部九州との関連については、次回以降お話しします。

↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!




最後まで読んでくださり最後まで読んでくださり、ありがとうございました。 
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。  


 
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ 
にほんブログ村 


テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



最新記事
最新コメント
読者登録
メールで更新情報をお知らせしますので、こちらに登録ください。
メルマガ購読・解除
図とデータで解き明かす日本古代史の謎
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
月別アーカイブ
カテゴリ
twitter
amazon business
おすすめの本
ブロとも一覧

アアト日曜画家

魏志倭人伝その他諸々をひもといて卑弥呼の都へたどりつこう

☆☆ まり姫のあれこれ見聞録 ☆☆&

中国通史で辿る名言・故事探訪

幕末多摩・ひがしやまと

客船の旅

黒田裕樹の歴史講座

しばやんの日々

Paradise of the Wild bird…野鳥の楽園…
更新通知登録ボタン

更新通知で新しい記事をいち早くお届けします

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR