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古事記・日本書紀のなかの史実Ⅱ (6) 国譲り⑥ コトシロヌシ

 前回登場したオオクニヌシの息子のコトシロヌシですが、伝承の多い神です。

”『古事記』ではオオクニヌシ神屋楯比売(カムヤタテヒメ)命の子とされ、『日本書紀』、『先代旧事本紀』ではオオクニヌシと高津姫(タギツヒメ)神との子とする。
『日本書紀・神武紀』には、神武天皇の皇后となる媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)命に関して
事代主神、三嶋溝橛耳神(ミシマノミゾクヒミミ、陶津耳)神の娘の玉櫛媛(タマクシヒメ)に共(みあひ)して生める子を、なづけて媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)命ともうす。』
とあり、コトシロヌシは神武天皇の岳父となっている。

これは『古事記』で大物主(オオモノヌシ)神三嶋湟咋(ミシマノミゾクヒ、陶津耳命)の娘の勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ、活玉依毘売)との間に比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスズヒメ)を生んだことと一致する。また『日本書紀』で三輪氏の祖の天日方奇日方(アマノヒガタクシヒガタ)命を生んだことと、『古事記』で三輪氏の祖の櫛御方命(クシミカタ)を生んだことに一致する。

『先代旧事本紀』では、オオクニヌシとタギツヒメ(宗像三女神のタギツヒメとされる)の子として記述されている。なお海部氏勘注系図にはタギツヒメは「神屋多底姫」(カムヤタテヒメ)の別名としており、『古事記』の大国主神が神屋楯比売命を娶って生んだとする記述と一致する。(Wikipedia「事代主」より)

オオクニヌシ・コトシロヌシ系譜

コトシロヌシの母神カムヤタテヒメの別名はタギツヒメです。タギツヒメとは、宗像三女神の一柱ですから、北部九州出自です。つまりコトシロヌシは北部九州系統の血を引いていることになります。

コトシロヌシにはもうひとつ系譜があります。コトシロヌシの娘のヒメタタライスズヒメが、初代天皇である神武天皇の皇后になっています。
ところがこれですと、先の系譜と時代が合いません。これはどういうことでしょうか?

これはオオモノヌシ=コトシロヌシとした系譜です。なぜ出雲の神であるコトシロヌシが、奈良の神と同じなのか、という疑問もあります。

これに関して以前、オオモノヌシとはもともとは奈良の三輪の地主神であり、それが出雲の勢力が奈良に進出してくるにつれ、コトシロヌシに習合していったのではないか、という仮説を提示しました。

同様な言説があるので、紹介します。「大国主伝承の一考察」(岩下均)からです。論文では、
青木紀元氏の言説として引用しています。
”本来、オオナムチの神は出雲の、オオモノヌシの神は三輪の、コトシロヌシの神は葛城の神であり、それぞれの土地の「首渠」として、別々にあるのが、本来の自然の姿である。すなわち、三輪氏の奉ずる三輪の神、農耕に関係の深い水を支配する蛇体(三輪山式神婚譚)神は、以前には、大和朝廷に対して災いの脅威をあたえていた独立神であった(崇神天皇の御代「疫病多に」)が、大和朝廷の勢力増大に伴って、次第に出雲の神に接近し、ついには出雲の神の傘下に入り、大和朝廷に忠誠を誓う「出雲国造神賀詞」の立場に組み入れられ、大和に奉仕する「出雲系」とされた、ということではないか。”

コトシロヌシが本来葛城の神であったというのは異論があるところですが、オオモノヌシの神に習合していったという点では、同じ見解です。


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古事記・日本書紀のなかの史実Ⅱ (5) 国譲り⑤ 稲佐の浜

葦原中国にアメノオシホミミ、アメノホヒ、アメノワカヒコを遣わしましたが、すべて失敗に終わります。

【アマテラスが八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、オモヒカネと八百万の神々は「天の安河の河上の天の岩屋におられる伊都尾羽張(イツノオハバリ)神を遣わすのがよい。もしそうでなければその子の
建御雷之男(タケミカヅチノオ)神を遣わすべきである。またその天尾羽張(アメノオハバリ)神は、河の水を塞ぎとめて、逆に上の方に水をたたえて、道路をふさいで行かれないようにしているので、他の神は行けないだろう。特別に天迦久(アメノカク)神を遣わして問うのがよいでしょう。」と仰せになった。
そこでアメノカクを遣わしてアメノオハバリに問うたときに答えていうには、「恐れ多いことでございます。お引き受けしましょう。けれども今度の仕事は、我が子タケミカヅチを遣わすべきでしょう。」と答えて、タケミカヅチをアマテラスに奉った。こうして天鳥船神(アメノトリフネ)をタケミカヅチに副えて遣わした。】

さてでは、次にどの神を遣わすかについて、またしてもオモヒカネを中心にして決定します。その神の名は、アメノオハバリ別名イツノオハバリです。

天之尾羽張(アメノオハバリ)は、日本神話に登場する刀であり、また神の名前である。
『古事記』の神産みの段においてイザナギは、妻神たるイザナミの死因となったカグツチを、身に帯びた十拳剣をもって首を斬り、殺す。 古事記では、この十拳剣の名前を「天尾羽張」、別名を「伊都之尾羽張」と記す。日本書紀では「十握剣」のみと記して、固有名詞を与えていない。
一方、十拳剣からこぼれ落ちたカグツチの血からは火・雷・刀に関わる八神が生まれるが、その中に建御雷之男(タケミカヅチノオ、建布都/豊布都)神もあった。”(Wikipedia「天之尾羽張」より)

アメノカクは、鹿の神といわれます。鹿は古来から神のお使いと考えられており、春日大社の鹿は有名ですよね。アメノトリフネは、神産みの段でイザナギとイザナミの間に産まれた神で、神が乗る船の名前でもあります。鹿、鳥という動物がこうした場面に関係しているところが、古代の信仰を表しています。


イザナギ・イザナギの生んだ神々【タケミカヅチとアメノトリフネは、出雲国の伊那佐之小浜(いなさのおはま)に降り至って、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さまに立て、その剣の前にあぐらをかいて座り、オオクニヌシに「アマテラス、タカギの命により問いただしに私をお遣わしになったのだ。あなたが治める葦原中国は我が御子が治めるべきであると仰せられた。それをどう思うか」と訊ねた。

オオクニヌシは、「私ひとりでは答えることができない。自分の前に息子の八重事代主(ヤエコトシロヌシ)神に訊ねるのがよい。ただし鳥や魚を獲りに三保の埼に出かけており、まだ帰ってこない。」と仰せになった。ゆえにアメノトリフネを遣わして、コトシロヌシを連れて帰り問うたところ、父のオオクニヌシに言うには「恐れ多いことです。この国は天津神の御子に献上しましょう」と答えると、船を踏み傾けて、天の逆手を打って青柴垣(あおふしがき)に変えて、その中に隠れた。


稲佐の浜と美保埼
タケミカヅチとアメノトリフネが降り立った場所が、出雲の稲佐の浜です。私は、高天原とは対馬・壱岐を中心とした一定領域のことではないか、という仮説を立てているわけですが、その仮説とも照合します。なぜなら対馬・壱岐から日本海流に乗れば容易に出雲までたどり着き、稲佐の浜は上陸するのに適しているからです。

稲佐の浜上陸ルート

オオクニヌシの息子のコトシロヌシがいたところが、美保の埼です。この美保の埼は、
出雲国風土記の国引き神話で、越の国から綱で引っ張ってきたことになっています。ちなみに綱を掛けた杭は伯耆国の火の山(現在の大山)とされ、綱はその後に弓ヶ浜になったとされています。

コトシロヌシは、天の逆手(逆拍手)を打って舟を青柴垣に変え、隠れてしまいます。逆拍手とは、
”手の平を打ち合わす通常の拍手ではなく、手の平を外側に向け、手の甲を打ち合わせるようにして行う拍手などを意味する語。基本的に縁起の悪い所作とされる。
逆さまにすることや逆さまの形で行う動作には、呪い、不吉、死者に対する振る舞い、といった意味合いが込められる場合があり、平時は忌まれることが多い。”(実用日本語表現辞典「逆拍手」より)

呪術で舟を青柴垣に変えたということでしょう。青柴垣とは神の籠もる所ですから、そこに隠れた、つまり服従の意を示したということです。


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古事記・日本書紀のなかの史実Ⅱ (4) 国譲り④ アジスキタカヒコネ

アメノワカヒコが亡くなり、葬儀を行っていた時です。

【アメノワカヒコによく似ていた阿遅志貴高日子根(アジスキタカヒコネ)神が弔いに訪れた時、アメノワカヒコの父と妻が「我が子は死なないで生きていた」「私の夫は死なずに生きていた」と言ってアジスキタカヒコネに抱きついて泣き悲しんだ。このように誤ったのは、この二柱の神の容姿がよく似ていたからである。

するとアジスキタカヒコネは「親友だからこそ弔問に来た。どうして穢らわしい死人と比べるのか」と怒り、持っていた
十掬剣(とつかのつるぎ)という剣を抜いて、喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。この喪屋が美濃国の喪山であるという。その持って切った太刀の名は、大量(おおはかり)といい、亦の名は神度剣(かむどのつるぎ)という。

アジスキタカヒコネが怒って飛び去るとき、妹のタカヒメは、兄の御名をあらわし知らしめようと思って、以下の歌を詠んだ。
『天上の若い織姫が首に掛けている玉飾り、その玉飾りの大きい玉のような方は、谷を二つも渡られたアジスキタカヒコネです』
この歌は、田舎風の歌曲である。】”

アジスキタカヒコネは、オオクニヌシの子で、シタテルヒメ(タカヒメ)の兄です。以前にもオオクニヌシの系譜のところで出てきました。雷神であり、また鴨氏の祖でもあります。また大御神という最高の敬語が用いられており、もともとは出雲の最高神であったと推察されます。

そのアジスキタカヒコネとアメノワカヒコが、見間違うほど似ていたということから、事件は始まります。
ではなぜ二神は、瓜二つだったのでしょうか?
単に話を面白くするためにこのような設定にしたのでしょうか?



シタテルヒメ・アジスキタカヒコネ系譜
アジスキタカヒコネとアメノワカヒコは、同神だったとの説もあります。

”アメノワカヒコの死とアヂスキタカヒコネとしての復活であり、これは穀物が秋に枯れて春に再生する、または太陽が冬に力が弱まり春に復活する様子を表したものであるとする。”(Wikipedia「アメノワカヒコ」より)

なんとも文学的な解釈ですが、なぜわざわざこのような複雑な話にする必要があるのか、よくわかりません。

一方、この話を何らかの史実を反映したものとしましょう。アメノワカヒコとアジスキタカヒコネが似ているということは、両神は近しい関係にあったことになります。つまり全くの異民族ではなく、同じ民族ではなかったのか、という推測です。

アジスキタカヒコネの母神はタキリヒメで、アマテラスとスサノオの誓約で生まれた神です。つまりアジスキタカヒコネの出自は高天原であり、海人(天、あま)族です。

父方のオオクニヌシの系譜を見てみましょう。
オオクニヌシには先に挙げた系譜の他にもう一つの系譜があります。

スサノオ・オオクニヌシ系譜2
この系譜ですと、先に挙げた系譜と時代が合いません。こうしたことから、この系譜の中のフハノモヂクヌスヌからアメノフユキヌまでの4代は、オオクニヌシとスサノオをつなげるために挿入されたのではないか、という説を紹介しました。
詳細は

を参照ください。

この系譜をよく見てください。オオクニヌシの父神は
天之冬衣(アメノフユキヌ)神、その祖母神は天之都度閇知泥(アメノツドヘチネ)神とあり、両神とも「天(アメ)」がつくことから、海人(天、あま)族すなわち高天原出自であることがわかります。つまりオオクニヌシもまた、高天原の系譜ということになります。

つまりアジスキタカヒコネは父方、母方とも海人(天、あま)族出自です。一方のアメノワカヒコも海人(天、あま)族ですから、容姿が瓜二つであってもおかしくありませんね。

さてアジスキタカヒコネは、自分が死人と比べられたのに怒り、喪屋を蹴飛ばします。飛んでいった先が、美濃国の喪山です。

美濃市大矢田の喪山天神社あるいは不破郡垂井町の喪山古墳などが候補地です。ここから、古代出雲の勢力は美濃あたりにまで及んでいたことがわかります。

最後に妹のタカヒメが歌を歌います。なんのためかというと、アジスキタカヒコネのことを誰も知らないので、名前を教えるためです。歌って讃えつつ名前を教えるとは、なんとも乙ですね。

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古事記・日本書紀のなかの史実Ⅱ (3) 国譲り③ アメノワカヒコ

前回は、アマテラスの子アメノホヒを葦原中国に遣わしましたが、失敗に終わります。

【タカムスヒとアマテラスが八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、八百万の神々とオモヒカネが相談して「天津国玉(アマツクニタマ)神の子である天若日子(アメノワカヒコ)を遣わすべき」と答えた。そこで、アメノワカヒコに天之麻迦古弓(アメノマカコユミ)と天之羽々矢(アメノハナヤ)と与えて葦原中国に遣わした。

しかし、アメノワカヒコはオオクニヌシの娘の下照比売(シタテルヒメ)と結婚し、自分が葦原中国の王になろうと企み8年たっても高天原に戻らなかった。これを不審に思ったアマテラスとタカムスヒは八百万の神々とオモヒカネの勧めで雉名鳴女(キギシノナナキメ)を派遣して使命を果たさない理由をアメノワカヒコに尋ねさせた。】

アマツクニタマという見慣れない神名が出てきました。
天の国魂神の意で、高天原の神霊。その性質はアマテラスや天之御中主(アメノミカヌシ)神と同じ。宇都志国玉(ウツシクニタマ)神に対する神。”(「古事記 祝詞」(倉橋憲司他校注)P
  より)
ウツシクニタマとはオオクニヌシの別名です。これに対する神ですから、たいへんな地位にある神であり、高天原を支配する神の一柱のようにもとれます。しかしながら不思議なことに、古事記・日本書紀にはここ以外一切登場しません。

アマツクニタマの子が、アメノワカヒコです。
”若日子(ワカヒコ)とは大日子に対する語で、今の語で言えば大旦那に対する若旦那のような意。したがって天上界の若彦(世子)という普通名詞であったと思われる。”(同上)

世子(せし)とは、”天子・諸侯・大名など、貴人の跡継ぎ。よつぎ。”(デジタル大辞のことですから、尋常ならざる神です。アマツクニタマとその子神アメノワカヒコは、実力ある神であったことがわかります。このアメノワカヒコの選定にも、タカムスヒの子であるオモヒカネが関わっています。

こうして選定されたアメノワカヒコですが、この神もまたアメノホヒ同様に、オオクニヌシの娘シタテルヒメと結婚して、配下に下ってしまいます。シタテルヒメとは、オオクニヌシが宗像のタキリヒメを娶して生んだ娘タカヒメのことです。

シタテルヒメ・アジスキタカヒコネ系譜


【ナキメがアメノワカヒコの家の前で大きな鳴き声をあげると、天佐具売(アメノサグメ)が「この鳥は鳴き声が不吉なので射殺してしまいなさい」とアメノワカヒコをそそのかした。そこで彼は天つ神から与えられた天之波士弓(あめのはじゆみ)と天之加久矢(あめのかくや)で鳴女の胸を射抜き、その矢はアマテラスと高木(タカギ)神の所まで飛んで行った。このタカギは、タカムスヒの別名である。

タカギは血が付いていたその矢を、アメノワカヒコに与えた矢であると諸神に示して、「アメノワカヒコは命令に背かないで、悪い神の射た矢が飛んで来たのなら、この矢はアメノワカヒコに当たるな。もしアメノワカヒコに邪心あれば、この矢に当たれ」と言って矢を下界に投げ返した。矢は朝の寝床に寝ていたアメノワカヒコの胸を射抜き、彼は死んでしまった。雉は射殺されたので還らなかった。このことから今の諺の「雉の行ったきりの使い」(梨のつぶて)というはじめである。】

ここでこれまでタカムスヒと表記されていた神が、高木(タカギ)神に変わります。なぜここで名が変わったのかは、諸説あります。

”高木神の「高木」は、一般には「高い木」の意として捉えられ、神の来臨する巨木に対する信仰(巨木信仰)と高御産巣日神の神格との結びつきが説かれている。
 元来、タカムスヒは天の最高神と解されている。日・月を天と同一視する北方系の天の至高神の観念に基づき、タカムスヒを太陽神であったと考え、太陽神の依代としての巨木(高木)が名の由来になったとする説がある。
『古事記』では、元来太陽神として捉えられているタカムスヒが、同じく太陽神の神格を持つアマテラスと並列されている。『古事記』は類似する二神の内、高くてを「高木神」という別名を用いて格下げした形で記すことで、司令神としての主導権と天皇家の祖先神としての神格を、タカムスヒからアマテラスへ移行させたと解されている。(国学院大学 「古典文化学」事業 神名データベース「高木神」より)

真実は、なんともいえないところです。続きです。

【アメノワカヒコの死を嘆くシタテルヒメの泣き声を、天にいるアメノワカヒコ父・アマツクニタマや母子が聞き、下界に降りて悲しみ喪屋(もや)を作った。
川雁(カワカリ)を食べ物を運ぶ役目として、鷺(サギ)を掃除係として、翠鳥(=カワセミ)を神に供える食物を用意する係りとし、雀(スズメ)を碓女(うすめ=米をつく女)とし、雉(キジ)を哭女(泣き女)という具合に葬式のやるべきことを定めて、八日八夜の間、踊り食べて飲み遊んで、死者を弔った。】

アメノワカヒコのために喪屋を作り弔います。喪屋とは屍を安置して葬儀を行う家のことで、殯宮(もがりみや)と同じです。昭和天皇の大喪の礼でも、皇居宮殿内に仮設されました。
この殯ですが、古代において実際に行われていたことが、福岡県八女市にある鶴見山古墳(6世紀中頃)で確認されています。

”銅鏡片にはヒメクロバエの蛹の跡や毛髪痕があり、これは遺体の腐敗がある程度進んでから埋葬されたこと、すなわち殯(もがり)の存在を示している。殯は文献からその存在が想定されていたが、実際に確認された例として貴重である。”(Wikipedia「鶴見山古墳」より)


葬式の様子も、たいへん興味深いです。
まずカワカリ、サギ、カワセミ、スズメ、キジが重要な役目を負います。ここで想起されるのは、装飾古墳の壁画です。

装飾古墳とは、
”日本の古墳のうち、内部の壁や石棺に浮き彫り、線刻、彩色などの装飾のあるものの総称で、墳丘を持たない横穴墓も含まれる。大半が九州地方、特に福岡県、熊本県に集中している。福岡県桂川町の王塚古墳(国の特別史跡)、熊本県山鹿市のチブサン古墳などが有名である。
令和元年に確認された情報では、5世紀から7世紀ごろに九州の北・中部に集中して作られた。全国で723例ある。”(Wikipedia「装飾古墳」より)

珍敷塚(めずらしづか)古墳(福岡県うきは市)です。
珍敷塚古墳
この装飾について、
”左側の船は,に導かれて太陽のかがやく現世から,月の支配する夜の世界,すなわち死者の世界へまさに船出しようとする情景を表したもの。これらの絵画全体が右端の舳先に鳥をとまらせた大きな船の上に描かれているものととらえることも可能。”
と解釈されてます(「装飾古墳にみる他界観」(白石太一郎、国立歴史民俗博物館研究報告 第80集 1999年3月)より)。

鳥が重要な役割を果たしているのがわかりますね。鳥は天高く舞い上がることから、古代の人々は天上界と地上界を橋渡しする生き物ととらえていたのでしょう。

また”八日八夜の間、踊り食べて飲み遊んで、死者を弔った。”という描写も注目です。
魏志倭人伝のなかに、
葬式では、十日ちょっと喪に服して、そのあいだは、肉も食べない。喪主は大泣きするが、まわりの連中は、酒を呑んで、歌ったり踊ったりする。”
という記載がありますが、それとそっくりです。

また現代においても、お通夜のあとの「通夜ぶるまい」や告別式のあとの「精進落とし」など催して、酒を伴った飲食をしますよね。

以上から、こうした風習は古来からあり、それが形は変わっていくものの、連綿として継承されていったと推察されます。

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古事記・日本書紀のなかの史実Ⅱ (1) 国譲り① タカムスヒとオモヒカネ

しばらくにわたり、日本語の源流についてお話してきましたが、今回からまた、古事記・日本書紀に戻ります。
テーマは「天孫降臨」です。さっそく訳文を読んでいきましょう。訳はWikipedia他を基に、適宜修正しています。

【高天原に住むアマテラスは、「葦原中国は私の子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホホミ)命が治めるべき国である」と命に天降りを命じたが、命は天の浮橋から下界を覗き、「葦原中国は大変騒がしく、手に負えない」と高天原のアマテラスに報告した。】

葦原中国は原文では、「豊葦原之千秋長五百秋之水穗國(とよあしはらのちあきのながいほあきのみずほのくに)」です。文字通り、「長く久しく稲穂の実る国」という意味です。
ここからわかることは、アマテラスの住んでいた高天原は、水田の豊かな国ではなかった、ということです。なぜなら、もともと豊かな水田があったのなら、このような表現はしないはずだからです。

高天原とは、観念的な世界ではなく、実在した地域のことを指しているということは、これまでにお話してきました。その地域とは、対馬・壱岐島ではないか、と考えていることもお話しました。

魏志倭人伝には、
対馬について、
”この土地は、険しい山と深い森がほとんどで、道路ときたら鳥や獣の踏み分け道のようである。千余戸あるものの、良い田んぼはない。海産物を食べて自活しているが、海に乗って南北へ米の買い出しに出かけたりもする。”
 
壱岐について、
”竹林や雑木林が多く、三千ばかりの家がある。少しばかり田畑もあるにはあるが、いくら耕しても食べていけない。そこで、この国も、南北に米の買い出しに出かけるのである。”

との記載があります。
いずれも良い畑がなく、漁業や交易に頼っていたわけです。そのような島に住んでいた人々からすれば、美田のある地域はさぞかし魅力的に映り、なんとしても手に入れたい地域だったことでしょう。

その地は、アマテラスの御子であるオシホホミが治めるべきと言ってますが、そこには当然のことながら、すでに人々が暮らしていたわけです。なぜオシホホミが治める地なのか、その理由を挙げていません。つまり大義名分がない、ということになります。

案の定、オシホホミは
「葦原中国は大変騒がしく、手に負えない」と言って、戻ってきてしまいます。つまり、すでに住んでいた人々から大きな反発があり、征服できなかったということです。

タカムスヒアマテラスは天の安の河の河原に八百万の神々を集め、思金(オモヒカネ)
「この葦原中国は、我が子の治めるべき国と委任して与えた国である。 この国に迅速に荒れすさぶ国津神たちが多くいるようだ。どの神を葦原中国に派遣すべきか。」問うた。オモヒカネと神々が相談して「天菩比(アメノホヒ)命を派遣するのが良い」という結論になった。そこで天菩比命を遣わしたが、オオクニヌシにへつらい従って、3年経っても復命しなかった。】

オシホホミの失敗を受け、戦略変更です。ここでアマテラスとともに、タカムスヒが登場します。タカムスヒは、諸説ある神です。

”『古事記』によれば、天地開闢の時、最初に天之御中主神(アメノミナカヌシ)が現れ、その次に高天原に出現したとされるのが高御産巣日神(タカムスヒ)という神である。この次に神産巣日神(カミムスヒ)が出現した。 天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神は、共に造化の三神とされ、いずれも性別のない神、かつ人間界から姿を隠している「独神(ひとりがみ)」とされている。

息子に思金神(オモヒカネ)、娘に万幡豊秋津師比売命(ヨロズバタトヨアキツシヒメノミコト)等がいる。また、『日本書紀』ではスクナビコナも子の一柱に数えられる(『古事記』ではカミムスビの子とされる)。

『古事記』ではヨロズバタトヨアキツシヒメノミコトがアマテラスの御子神のオシホミミと結婚して生まれたのが天孫邇邇芸命(ニニギノミコト)である。このことからタカムスヒはニニギの外祖父に相当する。

のちの皇室はタカムスビの血を引いているとされるが、記紀神話、特に日本書紀でのタカムスヒはアマテラスより優位に立って天孫降臨を司令する。このため、タカムスヒが本来の皇祖神だとする説がある。”(Wikipdia「タカムスビ」より)

タカムスヒは古事記冒頭の天地開闢(かいびゃく)に登場する造化三神の一神であり、根源的な神ということになります。その後の神代七代のイザナギ・イザナミから最後に生まれたのが、アマテラス・ツクヨミ・スサノオの三貴神です。

その一方、タカムスヒの娘のヨロズバタトヨアキツシヒメは、
アマテラスの子のオシホミミと結婚します。つまりタカムスヒはニニギの外祖父に当たり、アマテラスと同時代の神であることがわかります。

タカムスヒ・オモヒカネ系譜

これをどう解釈するかです。造化三神のタカムスヒと今回のタカムスヒは、まったくの別の神という考え方もあります。あるいは神なのだから、そこまで厳密に考えるものでもない、という考えもあります。

私は、タカムスヒは本来アマテラスと同時代の神であり、のちの時代に、造化三神に据えられたのではないか、という仮説を以前提示しました。詳細は、
”図とデータで解き明かす 日本古代史の謎 7: 古事記・日本書紀のなかの史実① 天地開闢からアマテラス誕生まで”
を参照ください。



さてアマテラスとタカムスヒは、オモヒカネ”どの神を葦原中国に派遣すべきか。”と問いかけます。オモヒカネはタカムスヒの子で、ヨロズバタトヨアキツシヒメの兄です。つまりオシホミミの義理の兄に当たります。

実はオモヒカネは、以前にも天岩戸神話で登場しています。アマテラスが
岩戸隠れした際に、大勢の神々が、天の安(あめのやす)の河原に集まって、オモヒカネに思慮の限りを尽くさしめて、オモヒカネは常世国の長鳴き鳥を集めて鳴かせるなどの知恵を授けました。
これについて、
”わが上代に氏族の代表者が野外に会合して、事を議し行うという原始的代議制度の存したことを推測させる。”
と述べられています(「古事記 祝詞」(倉野憲司他校注)P81より)。

今回も同様に、
オモヒカネと神々が相談して「天菩比(アメノホヒ)命を派遣するのが良い」という結論になったわけです。

日本人は、どちらかというと一人のトップが強烈なリーダーシップをもって事を進めるというより、集団合議的な傾向が強いと言われますが、こうした文化は、遠い古代から引き継がれているのかもしれませんね。

もうひとつの注目は、いずれもタカムスヒの子のオモヒカネが主導していることです。つまり実質的には、背後にいるタカムスヒが主導していると考えられます。これから出てくる天孫降臨でもタカムスヒが主導しており、こうしたことからも、もともとの皇祖神はタカムスヒではなかったか、とされているわけです。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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