後漢書倭伝を読む その5(最終回) ~ 徐福はやっぱり不老不死の仙薬を求めて日本にきていた!?
後漢書倭伝も、最終回です。
会稽郡(かいけいぐん)の海の彼方には、東鯷人(とうていじん)がいる。分かれて二十余りの国をつくっている。
【解説】
突然、東鯷人(とうていじん)という名前が出てきます。
実は、この文章は、范曄によるものではなく、前漢の時代を描いた「漢書」地理志(呉地)の
「会稽海外に東鯷人有り。分かれて二十余国を為す。歳時をもって来り献見す、という」
からの引用です。
つまり、前漢時代(BC206-AD8)からそのような人々がいて、後漢の時代(AD25-220)まで交流が続いていた、ということです。
また二十余国に分かれている、とあり、決して小さな部族ではなく、倭国の三十余国と対比しうる勢力をもっていたことを、うかがわせます。
会稽郡の海外とありますが、東鯷人とは、具体的にどこにいた人々でしょうか?さまざまな説が言われてます。
近畿の銅鐸圏の人々、日本海沿いの丹波の地方の人々、南九州の人々、いやもっと遠くの東北地方の人々などなどです。残念ながら今のところ、これだという確証は、出てません。
ここでは、少なくとも、日本列島内に倭人とともにと東鯷人と呼ばれた人々がいたということを、覚えておいてください。
また、夷州(いしゅう)および澶州(せんしゅう)も、会稽の海の彼方にある。そこは、秦(しん)の始皇帝が、神仙方術家の徐福(じょふく)を派遣し、幼い男女数千人を率いて海上に出、蓬莱(ほうらい)の仙人を捜させたが、仙人に会うことができず、徐福は罰せられることを恐れて帰国せず、この澶州にとどまった。その子孫は次々に増えて、数万家になったと伝えられている。その夷州や澶州の人々はときたま会稽の市にくる。
会稽東冶(かいけいとうや)県の人で、海に出たときに台風に遭い、漂流して澶州にまで行った者がいる。夷州・澶州は大変遠いところにあり、距離が遠すぎるので、往き来はできない。
【解説】
不老不死の薬を求めて、いずこかへ消えてしまったことで有名な徐福(紀元前3世紀頃)の伝説です。この話は、司馬遷の史記からの引用です。
「秦の始皇帝に、「東方の三神山に、不老不死の霊薬がある。」と具申し、始皇帝の命を受け、3000人の童男童女と多くの技術者を従え、五穀の種をもって、東方に船出し、広い平野と湿地を得て、王となり戻らなかった。」(wikipediaより)
『列仙酒牌』より
後漢書では、行き先の地名を具体的に、夷州と澶州としています。
夷州は台湾、澶州は沖縄との説もありますが、「会稽東冶から大変遠く、往き来できない。」という条件にはあてはまらないでしょう。
徐福が、実際にどこから出発したのかは諸説ありますが、有力な説としては秦時代に会稽郡が置かれた現在の 浙江省寧波(にんぼー)市です。そこから船で出発すれば、海流の流れに乗って東北の方向へ向かうので、朝鮮半島や日本列島に流れ着きます。夷州は済州島、澶州は日本列島とする説のほうが、説得力があります。
いずれにしろ、范曄が、徐福の伝説を、あえてこの倭伝の中に入れたということは、当時の中国人は、伝説とは言え、徐福は日本に行ったと考えていたからでしょう。では、日本のどこなのか、は謎のままです。それを論じ始めると終わりがなくなるので、ここまででとどめます。
下に位置関係を図示しました。

何はともあれ、以上で後漢書倭伝は終わります。最後が、伝説の徐福の話で終わるあたり、当時の中国人は、倭国を神秘の眼で見ていたということかもしれませんね。
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会稽郡(かいけいぐん)の海の彼方には、東鯷人(とうていじん)がいる。分かれて二十余りの国をつくっている。
【解説】
突然、東鯷人(とうていじん)という名前が出てきます。
実は、この文章は、范曄によるものではなく、前漢の時代を描いた「漢書」地理志(呉地)の
「会稽海外に東鯷人有り。分かれて二十余国を為す。歳時をもって来り献見す、という」
からの引用です。
つまり、前漢時代(BC206-AD8)からそのような人々がいて、後漢の時代(AD25-220)まで交流が続いていた、ということです。
また二十余国に分かれている、とあり、決して小さな部族ではなく、倭国の三十余国と対比しうる勢力をもっていたことを、うかがわせます。
会稽郡の海外とありますが、東鯷人とは、具体的にどこにいた人々でしょうか?さまざまな説が言われてます。
近畿の銅鐸圏の人々、日本海沿いの丹波の地方の人々、南九州の人々、いやもっと遠くの東北地方の人々などなどです。残念ながら今のところ、これだという確証は、出てません。
ここでは、少なくとも、日本列島内に倭人とともにと東鯷人と呼ばれた人々がいたということを、覚えておいてください。
また、夷州(いしゅう)および澶州(せんしゅう)も、会稽の海の彼方にある。そこは、秦(しん)の始皇帝が、神仙方術家の徐福(じょふく)を派遣し、幼い男女数千人を率いて海上に出、蓬莱(ほうらい)の仙人を捜させたが、仙人に会うことができず、徐福は罰せられることを恐れて帰国せず、この澶州にとどまった。その子孫は次々に増えて、数万家になったと伝えられている。その夷州や澶州の人々はときたま会稽の市にくる。
会稽東冶(かいけいとうや)県の人で、海に出たときに台風に遭い、漂流して澶州にまで行った者がいる。夷州・澶州は大変遠いところにあり、距離が遠すぎるので、往き来はできない。
【解説】
不老不死の薬を求めて、いずこかへ消えてしまったことで有名な徐福(紀元前3世紀頃)の伝説です。この話は、司馬遷の史記からの引用です。
「秦の始皇帝に、「東方の三神山に、不老不死の霊薬がある。」と具申し、始皇帝の命を受け、3000人の童男童女と多くの技術者を従え、五穀の種をもって、東方に船出し、広い平野と湿地を得て、王となり戻らなかった。」(wikipediaより)
『列仙酒牌』より

後漢書では、行き先の地名を具体的に、夷州と澶州としています。
夷州は台湾、澶州は沖縄との説もありますが、「会稽東冶から大変遠く、往き来できない。」という条件にはあてはまらないでしょう。
徐福が、実際にどこから出発したのかは諸説ありますが、有力な説としては秦時代に会稽郡が置かれた現在の 浙江省寧波(にんぼー)市です。そこから船で出発すれば、海流の流れに乗って東北の方向へ向かうので、朝鮮半島や日本列島に流れ着きます。夷州は済州島、澶州は日本列島とする説のほうが、説得力があります。
いずれにしろ、范曄が、徐福の伝説を、あえてこの倭伝の中に入れたということは、当時の中国人は、伝説とは言え、徐福は日本に行ったと考えていたからでしょう。では、日本のどこなのか、は謎のままです。それを論じ始めると終わりがなくなるので、ここまででとどめます。
下に位置関係を図示しました。

何はともあれ、以上で後漢書倭伝は終わります。最後が、伝説の徐福の話で終わるあたり、当時の中国人は、倭国を神秘の眼で見ていたということかもしれませんね。
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