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隋書倭国伝を読む その3 ~ 倭国王の多利思北孤(たりしほこ)とは推古天皇なのか?


いよいよ隋の時代の話です。日本で言えば、聖徳太子の時代ですから、私たちにとってもなじみのある時代の話ですね。

現代訳】
隋の文帝の開皇(かいこう)二十年(600年、推古天皇8年)、倭(原文は俀(たい))王で、姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(たりしほこ)、阿輩雞弥(あほきみ)と号している者が、隋の都大興(たいこう)(西安市)に使者を派遣してきた、文帝は担当の役人に俀国の風俗を尋ねさせた。使者はこう言った。
「俀王は、天を兄とし、太陽を弟としている。夜がまだ明けないうちに、政殿に出て政治を行い、その間、あぐらをかいて坐っている。太陽が出るとそこで政務を執ることをやめ、あとは自分の弟、太陽にまかせようという。」
高祖文帝は、
「それは、はなはだ道理のないことだ。」
と言って、俀国を諭してこれを改めさせた。
俀国王の妻は、雞弥(きみ)と号している。王の後宮には、女が六、七百人いる。太子は名を利歌弥多弗利(りかみたふり)という。城郭はない。
【解説】
「姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(たりしほこ)、阿輩雞弥(あほきみ)」という俀国王が登場します。はたして、誰のことでしょうか?。
普通に考えると、推古天皇の時代ですから、当然推古天皇ということになります。しかしながら、推古天皇の本名は、豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)で、まったく合致しません。また多利思北孤という名前から言って男性でしょうし、実際、雞弥(きみ)という妻がいた、とあります。つまり間違いなく男性です。
なお、多利思北孤は、一般的には、多利思孤として、たりしひこと読みますが、原文では多利思孤となっているとの古田武彦氏の説を採用し、多利思北孤(たりしほこ)とします。

隋書俀国伝の原文です。
隋書俀国伝4

推古天皇の絵です。
推古天皇


あるいは、多利思北孤とは、聖徳太子のことでしょうか?。当時、実質的に政治を動かしていたのが、聖徳太子だとしたら、あり得るかもしれません。
ところが、聖徳太子の本名は、厩戸(うまやと)であり、全く表音が違います。その他の名前である豊聡耳(とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)も、同様です。
さらに、聖徳太子の妻に、雞弥(きみ)に該当する女性はいません。

また、仮に多利思北孤を推古天皇とすると、太子の利歌弥多弗利(りかみたふり)は、聖徳太子になりますが、これも意味不明です。「ワカミタヒラ=稚足あるいはワカミトホリ=若き世嗣」の誤りか」との説もありますが、苦し紛れの解釈としかいいようがありません。
さて、それでは以上の事実は、何を意味しているのでしょうか?。

「いやいや、隋書が、間違えたのだ。」とか、「だから中国史書は信用できないのだ。」と話をもっていく方がいますが、どうでしょうか。もしそういう考え方ですべて解釈しようとするなら、そもそも中国史書を研究する意味は、なくなってしまいます。
まずは、別のアプローチを考えるべきでしょう。

では、どのように考えるべきかですが、今までのブログを読まれている方は、おわかりかと思います。
宋書倭国伝の倭国と、隋書俀国伝の俀国が同じ系統の王朝であるなら、当然の帰結として、宋書倭国伝の倭の五王と、隋書俀国伝の多利思北孤は、おなじ系統となります。
そして、宋書の倭国は、博多湾岸を本拠とした邪馬台(壹)国と同じ系統の王朝すなわち九州王朝となれば、当然隋書の俀国も、九州王朝となります。

すこし説明が、長たらしくなりましたが、ようは、隋書俀国伝の多利思北孤は、邪馬台国から続いてる九州王朝の王である、ということです。
つまり
邪馬壹国(卑弥呼)
   ↓
倭国(倭の五王)
   ↓
俀国(多利思北孤)
いう流れです。

このように考えれば、すっきりと説明できます。

もうひとつポイントがあります。「姓は阿毎(あま)」とあり、姓をもっていたことがわかります。このことから、この多利思北孤は、阿毎=海人(あま)族出身であり、この阿毎=海人とは天(あま)のことではないか。」という仮説を立てています。
「あま」は、日本古代史において、頻出する言葉です。
天照大神(あまてらすおおみかみ)、天の岩戸、また島根県隠岐郡には海士(あま)町が、対馬には阿麻氐 (あまてる)神社があります。
となると、天国もあまくに」と読むべきではないのか?という話になります。これらの話が、以前のブログでお話しした「天国とは、どこのことなのか?」を解くカギになっていきますが、詳細は、回を改めてお話しします。

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隋書倭国伝を読む その2 ~ 倭国が邪馬台国から続く九州王朝である根拠とは?

今回から、本文にはいります。

【現代訳】
倭(原文は俀(たい))国は、百済・新羅の東南方、海路・陸路で三千里のところにある。大海の中の山の多い島に住んでいる。
三国のの時代に、通訳を伴い中国に入朝した。三十余国あって、それぞれの首長はみな王と名乗っていた。里数を計ることを知らず、距離を計るには、日数で数える。
国の境界は、東西は五か月行程、南北は三か月行程で、それぞれ海に至る。地形は、東の方は高地で西が低い。邪靡堆(やまたい)に都を置いている。これが「魏志」に書かれているところの邪馬臺(やまだい)である。
昔から「楽浪郡の境界や帯方郡治から一万二千里離れていて、会稽郡の東方にあたり、儋耳(たんじ)に近い。」と言われている。
【解説】
冒頭、俀国の位置が記載されています。
国の境界の記載から、国全体の範囲がわかります。東西五か月、南北三か月行程とありますが、宋書倭国伝に出てきた海北と衆夷の国々とほぼ同じと考えてよいでしょう。
俀国領域図
俀国領域



そして都として、邪靡堆(やまたい)の名前が出てきます。これが、「魏志倭人伝の邪馬臺(やまだい)と同じである。」と。
これをもって、魏志倭人伝にはもともと邪馬臺国と記載されており、それを書写したときに邪馬壹国と書き誤ったとする説(誤写説)の根拠とする方もいます。
しかしながら、あくまで隋書の読者は当時すなわち隋の時代の人々であり、当時は邪馬臺国と表記するのが一般的であったことを考えると、そうとは言えないのではないでしょうか?。このテーマは、いずれ詳しくお話しします。

【現代訳】
後漢の光武帝の時に、使者を派遣して中国に入朝し(57年)、使者は大夫と自称していた。安帝の時にも使者を派遣して朝貢し、「俀奴国」といった(107年)。恒帝(在位146~167年)・霊帝(在位167~189年)の頃には、この国に戦乱がおこり、次々と攻め合って、何年もの間、国全体の王が定まらなかった。
一人の女子がいて、名を卑弥呼といい、神霊に通じた巫女(みこ)で、人々を心服させていた。そこで人々は、みなで卑弥呼を王として立てた。卑弥呼には弟がいて、卑弥呼を補佐して国を治めていた。卑弥呼には侍女が千人もいたが、卑弥呼の顔を見たことのある者はまれであった。ただ男が二人だけ、卑弥呼に食事を運び、外からの言葉を伝える役を務めていた。
卑弥呼の居処には、宮殿、物見台、城囲いがあって、武器をもった兵士が警護にあたり、取り締まりは厳重である。三国の時代の魏から南北朝の斉(せい)・梁(りょう)の時代に至るまで、代々中国と交渉があった。
【解説】
後漢書と同じ内容です。後漢書では「倭奴国(いどこく)」でしたが、ここでは倭→俀へ変わり、「俀奴国(たいどこく)」となっています。
その後、魏志倭人伝とほぼ同じ内容が続きますが、最後に注目です。
「三国の時代の魏から南北朝の斉(せい)・梁(りょう)の時代に至るまで、代々中国と交渉があった。」
とあります。この記載は、邪馬台国の卑弥呼の時代から、倭の五王の倭国、さらに現在の隋の時代にいたるまで、代々交流があったこと、さらにそれらの王朝は、一貫して同じ系統であることを、示していると言えます。
つまり、邪馬台国が北九州にあれば、倭の五王の倭国、さらに隋と交流した王朝も、北九州にあった、すなわち九州王朝であった、ということになります。


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隋書倭国伝を読む その1 ~ なぜ倭国伝(わこくでん)ではなく俀国伝(たいこくでん)なのか?

今回から、隋書倭(原文は俀(たい))国伝を取り上げます。前回まで取り上げた宋書倭国伝より、200年ほど時代は、下ります。実は、この二書の間には、梁書をはじめとして、倭国に関する史書がいくつかあるのですが、内容が重なるものが多いので、今回は割愛します。

隋書は、本紀5巻、志30巻、列伝50巻からなり、顔志古らにより編纂され、656年に完成しました。倭国に関する記述は、列伝第46条東夷のなかにあります。

隋書倭国伝(ずいしょわこくでん)と呼ばれてますが、実は、原文には、倭国との記載はなく、すべて俀国(たいこく)となってます。しかしながら、通常は倭国の書き誤りとされています。
どこかで聞いた話ではないでしょうか?。そうです。魏志倭人伝における邪馬壹国→邪馬台国への安易な原文改定です。そのさいも書き写しの際の書き誤りということになっており、ほとんどの方は、その事実すら知りません。詳しくは、以前のブログ
「邪馬台国」という国名は存在しなかった!?(2015/3/22号) 」
を参照ください。

隋書俀国伝の場合も、全く同様のことが起こってます。
ここでは、原文どおり、隋書俀国伝とします。

隋書俀国伝の原文です。

隋書俀国伝2

では、俀国(たいこく)とは何なのか、です。詳細は、回を改めてお話ししますが、結論を先に言うと、「大倭国(たいいこく)」のことです。では大倭国とは何か、ですが、もとは倭国(いこく)であり、それが時代を経た美称として、大倭国となったと考えられます。つまり、

倭国(いこく)
 ↓
大倭国(たいいこく)
 ↓
俀国(たいこく)

となります。
これだけだと、わかりにくいですが、以前お話ししたように、
邪馬壹国(やまいこく)の壹国(いこく)=委国(いこく)
ですから、これを加えると、

委国(いこく)=壹国(いこく)
 ↓
倭国(いこく)
 ↓
大倭国(たいいこく)
 ↓
俀国(たいこく)

となります。
そしてこの俀国(たいこく)が、邪馬臺国(やまたいこく)の臺国(たいこく)と共通していることに注目していただきたいと思います。つまり、ここからも

邪馬国(やまいこく)
 ↓
邪馬国(やまたいこく)

の流れが、見てとれます。

それでは、なぜわざわざ俀の字を使っているのでしょうか?。
それについては、中国人学者の張莉氏(同志社女子大学准教授)が、以下のとおり述べてます。
「俀もまた、一方で「大倭(たいヰ)」の音を表しながら、「女」を字中に含ませることにより、卑弥呼の女王国を彷彿とさせる意味を含ませた語であると思われる。繰り返し述べるが、このような修辞法は古代中国では、古くより多く行われている。」(「倭」「倭人」について、立命館大学白川静東洋文字文化研究所紀要第七号より)

なかなか説得力のある考え方に思われますが、いかがでしょうか?。

以上、少し話が複雑になってしまいましたが、詳細は、いずれお話しします。
ここでは、隋書の原文には、倭国(わこく)ではなく、俀国(たいこく)と書かれていることを、頭の片隅にいれておいてください。

次回から、本文に入ります。


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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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