三国志全体をながめると邪馬台国の姿が見えてくる!
前回から邪馬台国の話に移り、「魏志倭人伝」には「邪馬台国」という表記はなく、記載されているのは、「邪馬壹国」であることをお話ししました。さらに「魏志倭人伝」という書物はなく、三国志魏志東夷伝のなかの一つとして、倭人があり、それを「魏志倭人伝」と呼んでいる、という話もしました。ということは、邪馬台国を理解するには、三国志全体を把握しなければ、充分とは言えないということになります。
ここで、三国志全体の構造を見て見ましょう。

ご覧の通り、三国志は、魏志、呉志、蜀志の3部構成となっており、その魏志の一番最後に、烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんぴとういでん)があり、そのなかで、烏丸(うがん)、鮮卑(せんぴ)、夫余(ふよ)、高句麗(こうくり)、東沃沮(ひがしよくそ)、挹婁(ゆうろう)、濊(わい)、韓(かん)、と周辺諸国の国名が続き、最後に倭(わ)が出てきます。倭の中心が邪馬台国です。
当時中国では、魏、呉、蜀の3つの国が覇権を争ってました。最終的に魏が勝ち残りましたので、魏中心の構成となってます。魏の南部は呉と接し、西部は蜀と接してます。残りの北部に接する鮮卑、烏丸伝に加え、東部に接する高句麗ほか、東方の国々を、まとめて東夷として記載しているわけです。
なお東夷とは、東の野蛮な国という意味ですが、中国を世界の中心と考える中華思想の現れでしょう。
なお同じ東夷の国々のなかでも、倭に関する記載は最も多く、また内容も文化が非常に高く忠実な国として描かれていることは、注目すべきことです。有名な「親魏倭王」の金印を送ってますが、他の国には例がないほどの厚遇です。また魏志の最後を飾っていることも、意味があると言えます。
何はともあれ、邪馬台国を理解するには、三国志全体から当時の東アジアの情勢や政治制度、文化や習慣などを多角的にとらえていく必要がある、ということになります。
間違えとして、よくありがちですが、魏志倭人伝の表記ひとつを取り出して、「だからかれこれしかじかなのだ。」と短絡的に結論づけることは危険である、ということです。たとえば魏志倭人伝に書かれている文字に誤りがあるなら、同様の誤りが三国志の他の箇所にもあるのか、あるいは議論百出の邪馬台国までの距離などの記載についても、三国志のなかで同じ尺度で考えるべきでしょう。
それはさておき、まずは当時の東アジアの情勢をよく理解する必要があり、次回はそのあたりの話をしたいと思います。
ここで、三国志全体の構造を見て見ましょう。

ご覧の通り、三国志は、魏志、呉志、蜀志の3部構成となっており、その魏志の一番最後に、烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんぴとういでん)があり、そのなかで、烏丸(うがん)、鮮卑(せんぴ)、夫余(ふよ)、高句麗(こうくり)、東沃沮(ひがしよくそ)、挹婁(ゆうろう)、濊(わい)、韓(かん)、と周辺諸国の国名が続き、最後に倭(わ)が出てきます。倭の中心が邪馬台国です。
当時中国では、魏、呉、蜀の3つの国が覇権を争ってました。最終的に魏が勝ち残りましたので、魏中心の構成となってます。魏の南部は呉と接し、西部は蜀と接してます。残りの北部に接する鮮卑、烏丸伝に加え、東部に接する高句麗ほか、東方の国々を、まとめて東夷として記載しているわけです。
なお東夷とは、東の野蛮な国という意味ですが、中国を世界の中心と考える中華思想の現れでしょう。
なお同じ東夷の国々のなかでも、倭に関する記載は最も多く、また内容も文化が非常に高く忠実な国として描かれていることは、注目すべきことです。有名な「親魏倭王」の金印を送ってますが、他の国には例がないほどの厚遇です。また魏志の最後を飾っていることも、意味があると言えます。
何はともあれ、邪馬台国を理解するには、三国志全体から当時の東アジアの情勢や政治制度、文化や習慣などを多角的にとらえていく必要がある、ということになります。
間違えとして、よくありがちですが、魏志倭人伝の表記ひとつを取り出して、「だからかれこれしかじかなのだ。」と短絡的に結論づけることは危険である、ということです。たとえば魏志倭人伝に書かれている文字に誤りがあるなら、同様の誤りが三国志の他の箇所にもあるのか、あるいは議論百出の邪馬台国までの距離などの記載についても、三国志のなかで同じ尺度で考えるべきでしょう。
それはさておき、まずは当時の東アジアの情勢をよく理解する必要があり、次回はそのあたりの話をしたいと思います。
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