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魏志倭人伝を読む その2 ~ 邪馬台国までの道程 ここが長年の論争の天王山!

前回は、帯方郡から始まり、海を渡り、九州の末盧国(唐津市)に上陸しました。今回はそこから徒歩の旅となり、邪馬台国を目指します。ご存じの方も多いと思いますが、次の伊都国からの読み方が定まらないために、邪馬台国がどこにあるかの論争がいまだに継続しているわけです。
その意味では、まさに魏志倭人伝最大の山場と言えます。


東南に向かって陸上を行くと、五百里ほどで伊都国(いとこく)に着く。長官を爾支(にし)といい、次官を泄謨觚(せもく)、柄渠觚(へこく)という。千戸ちょっとである。代々、王がいるが、女王国に統属している。帯方郡の使節は、行き帰りに必ずここに滞在する。
【解説】
伊都国は今の糸島半島付近でほぼ決まりと言ってよいでしょう。なお王がいること、また帯方郡の使節が必ず滞在するなど、他の国々とは一線を画していることは注目すべき点です。さて問題はここからです。


東南へ行くと奴国(ぬこく)に着く。百里である。長官を兕馬觚(じまく)と言い、次官を卑奴母離と言う。二万戸ちょっとである。
東へ行くと、不弥国(ふみこく)に着く。百里である。長官を多模(たも)と言い、次官を卑奴母離と言う。千戸あまりの家がある。
南へ行くと、投馬国(つまこく)に着く。水上を行くと二十日かかる。長官を弥弥(みみ)と言い、次官を弥弥那利(みみなり)と言う。五万戸ちょっとである。
【解説】
伊都国から各国への道程が書かれてます。奴国は二万戸とあります。一戸当たり何人で計算するかによりますが、かなりの人口をもった都市であったことがわかります。
以下、不弥国、投馬国と続きます。投馬国は、五万戸と奴国を上回る大都市であることがわかります。


南へ行くと、邪馬壹国(やまいちこく)に着く。女王の都のあるところである。水上を行くこと十日、陸上を行くこと一月かかる。伊支馬(いきま)という官吏がいて、次の官吏を弥馬升(やまし)、その次を弥馬獲支(みまかき)と言い、そのまた次を奴佳鞮(ぬかて)と言う。七万戸ちょっとである。女王国から北の国々については、その戸数や道程は、簡単ながら記録することができるが、しかし、それ以外の第三者的な国々は、とても遠くにあるため詳しく調べることができない。
【解説】
いよいよ邪馬台国に到着します。さきの伊都国からの記載をそのまま足していくと、南へ、しかもかなりの遠方にあることになります。ここが邪馬台国の位置がいまだに定まらない理由の一つです。実は、単純にそうはならないのですが、今回は、魏志倭人伝の全体像をつかんでもらうのが目的なので、ここでは、ここが最大の論点である、ということをお話しすることにとどめます。


次に斯馬国(しまこく)がある。次に已百支国(いはきこく)がある。次に伊邪国(いやこく)がある。次に郡支国(ぐんきこく)がある。次に弥奴国(みぬこく)がある。次に好古都国(こうことこく)がある。次に不呼国(ふかこく)がある。次に姐奴国(せぬこく)がある。次に対蘇国(たいそこく)がある。次に蘇奴国(そぬこく)がある。次に呼邑国(かいふこく)がある。次に華奴蘇奴国(かぬそぬこく)がある。次に鬼国(きこく)がある。次に為吾国(ゐごこく)がある。次に鬼奴国(きぬこく)がある。次に邪馬国(やまこく)がある。次に躬臣国(くしこく)がある。次に巴利国(はりこく)がある。次に支惟国(きゐこく)がある。次に鳥奴国(うぬこく)がある。次に奴国(ぬこく)がある。ここが女王国の境界の尽きるところである。この南に狗奴国(こぬこく)があり、男子を王としている。ここには、狗古智卑狗(ここちひこ)という官吏がいる。女王国には所属していない。
帯方郡から女王国に着くまでに、一万二千里である。
【解説】
次に、国の名前が続きます。女王国の境界が奴国とありますが、さきの奴国とは別の国でしょう。ちなみに、ここまでで30国です。そして奴国の南に邪馬台国のライバル国である狗奴国があります。狗奴国の存在がのちの卑弥呼に大きな影響を与えることになります。そして最後に帯方郡から邪馬台国までの距離が記載されてます。

ここまでの道程を地図に示すと、下記の通りとなります。古田武彦氏(元昭和薬科大学教授)の説を基にしてますが、ここが議論百出のところなので、仮説ということにしておきます。
それぞれの国のエリアを点線で示してますが、実際にどれくらいだったのかは定かではありません。奴国が二万戸、邪馬台国が七万戸とあり、かなりの人口であったとすると、エリアがもっと広大であった可能性はあります。


末蘆国~邪馬台国3


なぜ奴国から邪馬台国へと進まないのか、とか投馬国へはどのように行くのか、あるいはその他の国はどこにあるのか、等々は、回を改めて詳しくお話しします。

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魏志倭人伝を読む その1~邪馬台国までの道程 日本上陸までは異論ないがその先は?

今回から、魏志倭人伝にはいります。記載されていることをひとつずつ押さえていくと、「なるほどそうだったのか」と思えることが多々あり、邪馬台国の姿も浮かび上がってきます。
そういう意味で、少し長くなりますが、全文の現代訳を載せ、ポイントを解説していきます。詳細は、回を改めてお話しします。
現代訳もさまざまありますが、ここでは、豊田有恒氏(作家、元島根県立大学教授)「歴史から消された邪馬台国の謎」の現代訳 を基に修正を加えてます。


 倭人は、帯方郡の東海の海上にいる。山ばかりの島で、国や集落を営んでいる。昔は百国ばかりあって、漢の時代には、貢ぎ物を持ってくる国もあった。現在、使者や通訳がやってくるのは、三十国ちょっとである。
【解説】
倭国がどこにあるか、から始まります。昔から交流があり、現在約三十国がやってくると記載してますが、注目すべきは、個々の国ごとに交流していたこと、また使者や通訳がやってくる国が三十余国であって、それ以外にも国が多数あったということです。


 郡から倭の国へ行くためには、海岸線に沿って航行していく。韓国を通るあいだ、南へ行ったり東へ行ったりするうちに、その北岸の狗邪韓国(こやかんこく)に到着する。ここまでで、七千里ちょっとである。
【解説】
ここから邪馬台国までの道程です。始まりは郡です。これは当時の中国の出先機関であった帯方郡のことです。帯方郡についてはピョンヤン南部、ソウルなど諸説あります。
帯方郡から韓国を通り、狗邪韓国に到着とありますが、その北岸の狗邪韓国とあることから、倭の最北が狗邪韓国であり、倭は韓半島の南部に拠点をもっていたことがわかります。


 はじめて外洋を渡ると、一千里ほどで対海国(たいかいこく)に着く。この国では、長官を卑狗(ひこ)といい、次官を卑奴母離(ひぬもり)と呼ぶ。かれらの居住地は、まったくの孤島で、面積は四百里くらいである。この土地は、険しい山と深い森がほとんどで、道路ときたら鳥や獣の踏み分け道のようである。千余戸あるものの、良い田んぼはない。海産物を食べて自活しているが、海に乗って南北へ米の買い出しに出かけたりもする。
 さらに南へ向かい、外洋を超えて千里ちょっと行く。この海を瀚海(かんかい)と呼んでいる。やがて一大国(いちだいこく)へ着く。長官を亦卑狗(またひこ)といい、次官を卑奴母離(ひぬもり)と呼んでいる。面積は三百里四方くらいである。竹林や雑木林が多く、三千ばかりの家がある。少しばかり田畑もあるにはあるが、いくら耕しても食べていけない。そこで、この国も、南北に米の買い出しに出かけるのである。

【解説】
ここから船旅です。はじめに対馬、次に壱岐へと渡ります。どちらも長官、次官という同様の役人が置かれていることは、注目です。


もうひとつ外洋を渡ると。千里ちょっとで末盧国(まつろこく)に着く。四千戸ばかりである。人々は、海辺や山麓に住んでいる。草木が盛んに繁っているので、前を行く人が見えないほどである。水が深くても浅くても、みんな潜って、魚介類を捕ってくる。
【解説】
さらに船旅を続けて、日本本土に到着します。到着地の末盧国とは、旧肥前国松浦郡であった唐津市で間違いないでしょう。

ここまでは異論がないところです。地図に示すと以下のようになります。

韓国・九州写真


ここまでで皆さんのなかには、疑問をもたれ方もいるでしょう。
たとえば距離です。対馬から壱岐まで千里とあるが、一里=4kmとすると、4km✖️1000里=4000kmになり、そんなにあるはずがないではないか、と。
ご説ごもっともですが、ここでは当時は一里=4kmではなかった、とだけお話ししておきます。他にも諸々あろうかと思われますが、それは今後のお楽しみということに・・・。

次回はいよいよ議論百出の、邪馬台国までの道程です。


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邪馬台国畿内説に対する素朴な疑問

このところのマスコミ報道を見ていると、邪馬台国は畿内説で決まり、みたいなムードを感じてしまいます。このあたりを少し見ていきたいと思います。
そもそもですが、邪馬台国畿内説は、古代から継続してあったわけではないようです。
江戸時代の儒医、国学者の松下見林(1637~1703)が著した「異称日本伝」のなかで、「今按ずるに、邪馬台国は大和国なり。古に大養徳国というは、いわゆる倭奴国なり。邪馬台は大和の和訓なり」と記し、「今按ずるに、邪馬台の壹はまさに台に作るべし」と断じてます。
ようするに「邪馬台国は大和国だから、邪馬壹国は、邪馬台国の誤りである。」と言っているわけです。ところが「なぜ邪馬台国は大和なのか」については、これ以上は述べていません。これでは論証とは言えません。

それはさておき、私は昔から邪馬台国畿内説には、違和感を感じていました。
理由としては、以下が挙げられます。

1.なぜ古事記、日本書紀の神話の舞台が、出雲や筑紫なのだろう?
古事記、日本書紀は奈良時代の役人の造作とされているようですが、それならなおさら畿内を中心とした神話を作ればいいわけです。なぜそうしなかったのでしょうか?

2.なぜ大和朝廷の出自を、九州としているのか?
1にも共通しますが、なぜ天孫降臨の地や、神武天皇東征の出発地を、九州の日向としているのでしょうか?普通に考えれば、畿内に天孫降臨し、その子孫が神武天皇としとけばいいわけです。なぜわざわざ九州にしたのでしょうか?

3.なぜ古事記、日本書紀に、邪馬台国が出てこないのか?
古事記、日本書紀に邪馬台国の名前は出てきません。当然、卑弥呼の名前もありません。作成者は、中国史書に名前が出ていることは知っていたはずです。
ではなぜ敢えて書かなかったのか?大和朝廷とは別物と考えるのが、自然でしょう。

4.漢の光武帝からもらった金印が、なぜ福岡市の志賀島から出土したのか?
有名な「漢委奴国」の金印は、福岡市志賀島から出土しました。発見の経緯に不明瞭な点はあるにせよ、朝廷にとり、国の威信を証明する宝物です。当然手元で厳重に保管されるはずです。また、少なくとも畿内から、それに匹敵するものは、出ていません。
「いや、金印は、奴国がもらったものだから、大和朝廷とは関係ない。」との反論に対しては、改めてお話しします。

志賀島の金印
King_of_Na_gold_seal.jpg 

5.銅鐸、銅矛の分布を、どのように説明するのか?
学生時代に有名な銅鐸、銅矛圏図を習いました。当時この図を見て、不思議に思ったものです。「銅鐸圏は、大和朝廷の前身としても、銅矛圏は一体何なのか?。巨大勢力があったということではないのか?」。
その後の遺跡調査などの結果、この分布図 は使われなくなったようですが、全体的な傾向はこのとおりでしょう。そして銅鐸圏は、3世紀に突然消滅してます。また古事記、日本書紀には銅鐸は一切出てきません。邪馬台国が古来より畿内にあったとすると、説明がつきません。

井上光貞著「日本の歴史Ⅰ 神話から歴史へ」より
銅鐸銅矛分布図2

6.畿内から、なぜ決め手となる出土物が出ないのか?
決め手となる出土物とは、三種の神器(剣、鏡、玉)です。また魏志倭人伝にも出てくるも、畿内からはほとんど出土していません。これから出る可能性が無いわけではありませんが、いまの状況では、?と言わざるを得ません。

三種の神器(吉武高木遺跡)
吉武高木遺跡

以上のとおり、邪馬台国畿内説は、そもそもの論拠があやふやな上に、パッと思いつくだけで多くの疑問があります。いろいろ理由は挙げられてますが、すっきり腹落ちしないのは、私だけでしょうか?
ではどこなのか、という問いに対しては、九州博多湾岸とするのが最も妥当と考えてますが、そのあたりを、次回からじっくりと見ていきましょう。

まずは、基本の基本ということで、魏志倭人伝からです。

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邪馬台国の真の姿を解明するための6つの切り口

今回からいよいよ邪馬台国の真の姿を解き明かしていきます。それにはまず何よりも具体的事実が重要であり、その事実をもとに仮説を立て、それをさまざまな角度から検証していくという手法を取ります。一つの事柄からだけ論じては、単なる推測になってしまうからです。

ここでは以下の観点から検証します。
1.外国史書
2.遺跡、出土物
3.国内史書
4.各地神話、伝承
5.地名
6.科学的データ

1.外国史書と整合しているか?
中国史書では三国志の他、後漢書、隋書、旧唐書、新唐書、朝鮮史書の三国史記などです。外国史書は日本に対し、わざわざ嘘を書く必要もありません。誇張しているとか、信用できない、との意見もありますが、信ぴょう性が高いと考えます。

魏志倭人伝2 

2.遺跡、出土物はあるか?
当時の世界、生活をあらわす物的証拠です。いわばもの言わぬ証言者であり、最も重視すべきものです。特に墳墓、建物跡、三種の神器(鏡、剣、玉)、絹などは、重要でしょう。

<福岡市吉武高木遺跡出土の三種の神器>
吉武高木遺跡

3.日本の史書、記録は?
古事記、日本書紀、風土記に代表される日本の史書です。当然のことながら量は、圧倒的に多く、詳しく記述されています。しかしながら以前のブログにも書いたとおり、権力者が自らの正統性を示すために都合よく作られた可能性があることを、念頭に置くべきでしょう。

4.各地神話、伝承は?
これらは、古事記、日本書紀とは異なり、一般庶民の間で語り継がれてきたものが多いでしょうから、真実を示している可能性があると言えます。

5.地名は?
無視できないのが地名です。当時の姿を伝えている地名、例えば都と関係ある地名が残っていれば、かつて都であった論拠の一つになりえます。

6.科学的データはあるか?
遺跡、発掘物の年代測定に当たっては、放射性炭素年代測定により、かなり正確な年代がわかるようになりました。またX線分析により、青銅器、鉄器、石器、土器の成分や、製作地、産出地も特定できるようになりました。仮説を検証するうえではこうした科学的データを最大限活用すべきです。

他にもあろうかと思われますが、少なくとも以上の6つの観点は、押さえておくべきと考えます。そしてこれらを総合的に勘案して、結論づける必要があります。

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結局邪馬台国はどこにあったの? 今までの説を整理すると・・・

ブログを始めて今回が11回目となりました。いろいろ試行錯誤しながらやってます。何かと不充分なこともあろうかと推測しますが、長い目で見ていただければ幸いです。感想などいただければ参考にしたいと思いますので、よろしくお願いします。

これまでの話をまとめます。
▪️神話は、権利者がある目的をもって作っている(場合がある)。
▪️ある目的とは、自らの権力を正当化するためである。
2015/3/11
▪️神話は、ある史実を象徴的に伝えている。
2015/3/11②2015/3/22015/3/7
▪️日本の神話も、何がしかの史実があったことを示している。
▪️高天原にいた天照大神が日本上陸を企て、大国主命に国譲りを迫り、成功して孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)筑紫の日向に上陸した。
▪️初代天皇の神武天皇は、日向から東征し、大和に居を構えた。
▪️日本神話に邪馬台国や卑弥呼は出てこない。
2015/3/122015/3/18
▪️邪馬台国が出てくる最初の中国史書「魏志倭人伝」には「邪馬台国」という国名はなく、「邪馬壹国」と記載されている。
2015/3/22
▪️当時の中国は三国志の時代で、東アジア情勢は緊迫していた。
2015/3/272015/4/1

こんなところです。

それではそろそろ最大の関心事である「邪馬台国はどこにあったのか」に入っていきます。
まずは、今までの説をおさらいします。

ご存知のとおり、大きく分けて、九州説畿内説があり、九州説には博多湾岸説、山門説他、それにもともと九州にあったが畿内へ移ったとする東遷説も加わります。
それ以外にも、沖縄、愛媛、徳島、長野、石川、千葉などの他、海外でもジャワ・スマトラ、エジプトなど、あるようです。
ようはどこでもありうる的な様相を呈している、ということです。

とはいえ、九州説と畿内説が主流ですので、まとめてみます。論者としては、よく名前が出る方を挙げてます。

A.九州説
  本居宣長
  津田左右吉(九州筑後山門郡)
  白鳥庫吉、和辻哲郎、森浩一、安本美典、
  井沢元彦(東遷説)
  武光誠、古田武彦
  他

B.畿内説
  松下見林
  新井白石(後に九州筑後山門説に転じる)
  内藤湖南
  小林行雄
  他

マスコミなどでは、畿内説が優勢のような印象をうけますし、学会も同様と聞いてます。しかしながら昨今本を出版するなど精力的に発表している方は、どちらかと言うと九州説が多いと思われるのは、気のせいでしょうか?

次回から、詳しくみていきます。

参考ですが・・・
卑弥呼はいずこにいたのか?
安田靫彦画伯による二人の卑弥呼(左が九州の卑弥呼、右が大和の卑弥呼とのことです。)です。

左側-卑弥呼-1968-右側-大和のヒミコ女王-1972 

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風雲急を告げていた! 卑弥呼の時代の東アジア情勢

今回は、三国志の時代すなわち卑弥呼の時代の東アジア情勢を見てみましょう。
三国志の三国というのは、当時覇権を争っていた魏、呉、蜀を指しています。多くの小説や映画などで題材としてますが、魏では曹操、呉では孫権、蜀では劉備玄徳がリーダーですよね。そして蜀の劉備玄徳のもとに知将、諸葛孔明がいて、関羽、張飛がいたわけです。


<魏の曹操(155-220年)>

曹操 



<呉の孫権(182-252年)>

孫権 



<蜀の劉備玄徳(161-223年)>

劉備玄徳


一方、周辺には、北方に鮮卑、烏丸、東方に高句麗、夫余、東沃沮、濊、韓があり、さらにがあったわけです。




東アジア国々


三国志は最後に勝ち残った魏を中心に書いてます。当時の魏にしてみれば、呉、蜀との覇権争いをしつつ、北方の鮮卑らの侵攻に供えなくてはならないという不安定な状況でした。

遼東半島には公孫氏がいて、虎視眈々と勢力拡大を狙ってました。

魏としては、当然の作戦として東の高句麗、夫余、東沃沮、濊、韓を味方に引き込み、あるいは勢力の拡大を図ろうとしたでしょう。

対する呉は、遼東半島に地盤をもつ公孫氏と同盟を組み、魏を挟む打ちにしようと企みます。

そうした状況のなかで、魏は倭をどのように位置づけていたのか、を考える必要があります。

もちろん倭としても、こうした状況は把握していたでしょう。そのなかで倭のリーダーである卑弥呼は、どのような戦略を立てていたのか、を推測する必要があります。

こうした観点から魏志倭人伝を読み解くと、真実の姿が浮かび上がってくるのではないでしょうか?

ちなみに三国志で有名な戦と言えば、赤壁の戦いですよね。208年、曹操の魏に対し、劉備玄徳の蜀と孫権の呉が手を組み、長江の赤壁にて、諸葛孔明の奇策により、逆転勝利を収めました。 2008年に公開された映画「レッドクリフ」が話題になりました。当時の映画予告をYOU TUBEで見つけましたので、見られる方はご覧ください。当時の雰囲気がつかめると思います。






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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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