隋書倭国伝を読む その4~ 二元政治は古代日本からの伝統だった!?
前回、書ききれなかったのですが、もうひとつポイントがありました。
その部分の現代訳を再掲します。
【現代訳】
帝は担当の役人に倭(原文は俀(たい))国の風俗を尋ねさせた。使者はこう言った。
「倭(俀)王は、天を兄とし、太陽を弟としている。夜がまだ明けないうちに、政殿に出て政治を行い、その間、あぐらをかいて坐っている。太陽が出るとそこで政務を執ることをやめ、あとは自分の弟、太陽にまかせようという。」
高祖文帝は、
「それは、はなはだ道理のないことだ。」
と言って、俀国を諭してこれを改めさせた。
【解説】
具体的に何を言っているのか、わかりにくい文章です。
実は、この文章は、魏志倭人伝のつぎの文章を想起させます。
そこで国々が協議して、一人の女を王に立てた。この女の名を卑弥呼という。祭祀を司り、人々を治めることができた。もう歳は、三十代半ばで、夫や婿はいない。弟がいて、国の政治を補佐している。卑弥呼が王になってから、見たものはほとんどいない。召使いの女たち千人が、身の回りの世話をしている。男はひとりだけ、食べ物や飲み物を差し入れたり、命令を伝えたりするため、出入りを許されている。
隋書俀国の場合は、姉→兄に代わってますが、同じ図式です
これは、単なる偶然でしょうか?。そうではないはずです。なぜなら、編者は、読者が、魏志倭人伝のこの文章を知っていることを、前提として書いてるからです。
このことを考え合わせると、この文章は、兄は祭祀を担当し、実務は弟が担当するという二元政治体制であったことを、示していると言えます。そして、邪馬台国の時代から、二元政治が伝統的に行われてきた、ということになります。
考えてみれば、そもそも蘇我氏による実質的な支配、その後の藤原氏による支配、さらに武家社会における朝廷と幕府の関係も似たような政治体制です。現代日本においても同様とみれば、こうした日本古来からの伝統を今も引き継いでいる、と言えるかもしれません。
【現代訳】
中央官の位階に十二等級がある。一を大徳といい、次は小徳、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信といい、人員に定数はない。
軍尼(くに)が百二十人いるが、これは中国の牧宰(ぼくさい)のようなものである。八十戸ごとに伊尼翼(いなき)を一人置く。これは隋の里長のようなものである。十人の伊尼翼が一人の軍尼に所属している。
【解説】
有名な冠位十二階の話です。聖徳太子が定めたと習いましたよね。ただし現在では、疑問がもたれているようですが。
ポイントとしては、位階の順序が、聖徳太子の定めたというものとは異なることです。ここに記載されている位階は、儒教の五つの徳目である、仁義礼智信の順番どおりですが、聖徳太子の定めたというものは、
大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智
の十二階です。
「たかが順序の違いじゃないか。」との声も聞こえてきそうですが、どうでしょうか?。これは隋の役人が、遣隋使など日本からの使者などから聞いた話でしょう。冠位というものは、順序が命です。それを、単純に、隋の役人が聞き間違えた、とか、日本からの使者がいい加減に言ったというのは、考えにくいのではないでしょうか?。
となると、これは畿内ではなく、別の王朝、すなわち九州王朝の制度を指している可能性はあります。
聖徳太子絵図(ただし、聖徳太子を描いたものではないという説もあります。)

同様のことは、つぎの軍尼(くに)と伊尼翼(いなき)についても言えます。古事記、日本書紀などの史書には、これらの役職名は出てきません。なぜかについて、いろいろ理屈はつけられるものの、九州王朝の役職と考えればすっきりします。
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【現代訳】
帝は担当の役人に倭(原文は俀(たい))国の風俗を尋ねさせた。使者はこう言った。
「倭(俀)王は、天を兄とし、太陽を弟としている。夜がまだ明けないうちに、政殿に出て政治を行い、その間、あぐらをかいて坐っている。太陽が出るとそこで政務を執ることをやめ、あとは自分の弟、太陽にまかせようという。」
高祖文帝は、
「それは、はなはだ道理のないことだ。」
と言って、俀国を諭してこれを改めさせた。
【解説】
具体的に何を言っているのか、わかりにくい文章です。
実は、この文章は、魏志倭人伝のつぎの文章を想起させます。
そこで国々が協議して、一人の女を王に立てた。この女の名を卑弥呼という。祭祀を司り、人々を治めることができた。もう歳は、三十代半ばで、夫や婿はいない。弟がいて、国の政治を補佐している。卑弥呼が王になってから、見たものはほとんどいない。召使いの女たち千人が、身の回りの世話をしている。男はひとりだけ、食べ物や飲み物を差し入れたり、命令を伝えたりするため、出入りを許されている。
隋書俀国の場合は、姉→兄に代わってますが、同じ図式です
これは、単なる偶然でしょうか?。そうではないはずです。なぜなら、編者は、読者が、魏志倭人伝のこの文章を知っていることを、前提として書いてるからです。
このことを考え合わせると、この文章は、兄は祭祀を担当し、実務は弟が担当するという二元政治体制であったことを、示していると言えます。そして、邪馬台国の時代から、二元政治が伝統的に行われてきた、ということになります。
考えてみれば、そもそも蘇我氏による実質的な支配、その後の藤原氏による支配、さらに武家社会における朝廷と幕府の関係も似たような政治体制です。現代日本においても同様とみれば、こうした日本古来からの伝統を今も引き継いでいる、と言えるかもしれません。
【現代訳】
中央官の位階に十二等級がある。一を大徳といい、次は小徳、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信といい、人員に定数はない。
軍尼(くに)が百二十人いるが、これは中国の牧宰(ぼくさい)のようなものである。八十戸ごとに伊尼翼(いなき)を一人置く。これは隋の里長のようなものである。十人の伊尼翼が一人の軍尼に所属している。
【解説】
有名な冠位十二階の話です。聖徳太子が定めたと習いましたよね。ただし現在では、疑問がもたれているようですが。
ポイントとしては、位階の順序が、聖徳太子の定めたというものとは異なることです。ここに記載されている位階は、儒教の五つの徳目である、仁義礼智信の順番どおりですが、聖徳太子の定めたというものは、
大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智
の十二階です。
「たかが順序の違いじゃないか。」との声も聞こえてきそうですが、どうでしょうか?。これは隋の役人が、遣隋使など日本からの使者などから聞いた話でしょう。冠位というものは、順序が命です。それを、単純に、隋の役人が聞き間違えた、とか、日本からの使者がいい加減に言ったというのは、考えにくいのではないでしょうか?。
となると、これは畿内ではなく、別の王朝、すなわち九州王朝の制度を指している可能性はあります。
聖徳太子絵図(ただし、聖徳太子を描いたものではないという説もあります。)

同様のことは、つぎの軍尼(くに)と伊尼翼(いなき)についても言えます。古事記、日本書紀などの史書には、これらの役職名は出てきません。なぜかについて、いろいろ理屈はつけられるものの、九州王朝の役職と考えればすっきりします。
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