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新唐書日本伝を読む その5 ~ 謎が残る白村江の戦いから壬申の乱まで

前回とりあげた白村江の戦いに続き、日本古代史最大の戦いと言われる壬申の乱が勃発します。

【現代訳】
天智が死ぬと、その子の天武が位を継いだ。
天武が死ぬと、その子の総持(そうじ)が位を継いだ。
咸亨(かんこう)元年(670年)、日本は唐に使者を遣わして、唐が高句麗を平定した(668年)ことを慶賀した。その後日本人は、しだいに中国語に習熟し、倭という呼び名をきらって日本と改号した。使者がみずから言うに、
「わが国は太陽の出るところに近いから、それで国名としたのだ。」と。
また、こういう説もある。
「日本は小国だったので、倭に併合され、そこで倭が日本という国名を奪ったのだ。」
使者が真相を語らないのでこの日本という国号の由来は疑わしい。また、その使者はいいかげんなことを言ってはほらを吹き、日本の国都は数千里四方もあり、南と西は海に達し、東と北は山に限られており、山の向こうは毛人(もうじん)の住む地だ、などと言っている。
【解説】
天智が亡くなり、弟の天武、そして総持(そうじ)へと、天皇が代わります。原文の総持は、持統天皇のことでしょう。
この時期も、日本では大きなことがありました。

白村江の戦いで破れ(663年)、唐が九州北部に進駐してきます。
天智天皇は、都を飛鳥から近江の大津京へ遷都します(667年)。
そして天智天皇が亡くなり(671年)、後継をめぐり、天智天皇の子供である大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子(のちの天武天皇)との間で、日本古代史最大の戦いと言われる壬申の乱が起こり、大海人皇子が勝利します(672年)。
そして倭国から日本国へと改名されます。

これらは一般には別個の話として語られますが、そんなはずはなく、一連の流れのなかで捉えるべきでしょう。

不思議なのは、なぜ天智天皇が大津京に遷都したのかです。唐の進軍から避難するためと説明されますが、地政的に言って、飛鳥に比べさほど有利とも言えません。
また、白村江の戦いではほとんど姿の見えない大海人皇子が突然出てきて、大友皇子に勝利して、天武天皇になります。

天武天皇
Emperor_Tenmu.jpg


当時は、唐の占領下にあったも同然です。そのなかで、日本を二分する大きな戦いに関し、唐が無関心であったはずもありません。言ってみれば、マッカーサー占領時代に、日本国内でクーデターが起こったようなものです。アメリカが、無関係ということはなかったでしょう。
これらについて、詳細は古田武彦氏の「壬申大乱」をご覧ください。

さて、では一連の流れを、どのように理解すればいいでしょうか?。

あくまで推測になりますが、ひとつの説としてあるのは、天智天皇が倭国とともに反唐派であり、天武天皇が親唐派だったという説です。
すなわち、反唐派の天智天皇が、大和朝廷での勢力争いを避け、大津京へ逃れます。子供の大友皇子に位を譲りますが、大海人皇子が唐のバックアップを受け、壬申の乱で大友皇子に勝利する、という説です。

いかがでしょうか?。あくまで数ある説のひとつで仮説ですが、このように考えるとつじつまが合ってきます。
もちろん反論も多々あるでしょうし、慎重な論証が必要でしょう。それがなければ単なるトンデモ説になってしまいますが、長くなりますので、ここでは仮説を紹介するにとどめます。
いずれにしろ、この時代の一連の流れを解釈するには、明らかになっていない何かがあると考えざるを得ません。

皆さんも是非、この時代について、なぜなぜ?とあれこれ考えてみても面白いと思います。

また、旧唐書にもありましたが、
「日本は小国だったので、倭に併合され、そこで倭が日本という国名を奪ったのだ。」
と日本が説明した話。中国側があやしいと思ったというのが、面白いところです。ようは説明があやふやだったわけです。そしてなぜあやふやだったのかと言えば、一連の経緯、すなわち今までお話しした
倭奴国(九州王朝)
     ↓
倭国(九州王朝)
     ↓
日本国(大和朝廷)
へと変わった経緯を、明確に説明できない、或いはしたくない事情があったのでしょう。つまり自らの正統性に確信がもてなかった、ということではないでしょうか?。

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新唐書日本伝を読む その4 ~ 白村江(はくすきのえ)の戦いが記載されていない理由とは?

天皇の系譜が続きます。教科書で習った大化の改新ころからです。
【現代訳】
永徽(えいき)年間(650-656年)の初め、日本国王の孝徳が即位し、改元して年号を白雉(はくち)(650-654年)に改めた折に、一斗枡ほどもある琥珀(こはく)と、五升入りの容器大の瑪瑙(めのう)とを唐に献上してきた。当時、新羅は高句麗と百済に侵されて損害を受けていた。そこで高宗(こうそう)は詔勅を下し、軍を発して新羅を救援させた。
【解説】
さて、ここで突然日本の年号が出てきます。「650年に、白雉(はくち)に改元した。」とあります。
日本の年号がいつ始まったのかについては、645年の大化改新の大化からとされています。ところが、この従来説には、白雉(650-654年)のあと次の朱鳥(しゅちょう)(686年)までの間に空白期間が30年以上もあるなど、説明のつかない点が多々あります。
また畿内における当時の木簡からも、使用が確認されていません。
そもそも日本は、はるか以前から中国との交流があり、年号の存在を知っていたわけです。それを考えると、もっと早い時期の年号があってしかるべしではないか?と考えておりました。

実は、年号にはもう一つ、もっと古い時代のものがあります。九州年号と呼ばれるものです。呼び名のとおり、九州王朝で使われていたとされます。
継体(517-521年)から始まり、大化(695-700年)で終わってます。そのなかに、大化のほか、白雉、朱鳥などもあります。
一般的には、後世の創作とされていますが、九州王朝があったのなら、むしろ年号がないほうがおかしいと思われますが、いかがでしょうか?。

【現代訳】
ほどなく、日本国では孝徳が死に、その子の天豊財(あめのとよたから)が位を継いだ。死んでその子の天智があとを継いだ。
翌年(662年)、日本の使者が蝦夷人(えぞひと)とともに唐に入朝してきた。蝦夷もやはり海中に住み、その使者はあごひげの長さが四尺ほどもあり、矢をつがえて引きしぼり、耳にはさんで構え、人にひょうたんを頭上にのせて数十歩離れたところに立たせて、そのひょうたんを射ると、百発百中であった。
【解説】
孝徳天皇が亡くなり、異母姉弟の天豊財(あめのとよたから、皇極天皇)が、重祚(再び天皇になること)します。天皇名としては、斉明天皇になります。
実は、斉明天皇は九州王朝の王の名前ではないかとの説を、古田武彦氏が提唱してますが、いずれお話ししたいと思います。

皇極、斉明天皇
Empress_Kogyoku-Saimei.jpg

さて663年、日本を揺るがす大事件が起こりました。白村江(はくすきのえ)の戦いです。日本・百済遺民連合軍と、唐・新羅連合軍が、朝鮮半島白村江で激突し、日本・百済遺民連合軍が、大敗します。
ところが、不思議なことに、その大事件がここには記載されていません。それどころか、前年の662年、蝦夷を連れて入朝し、蝦夷のパフォーマンスを見せるなど、とても戦の前の緊迫感はありません。これはどうしたことでしょうか?。唐にとっては、とるに足らないことだったのでしょうか?。
そんなはずはありません。実際、高句麗と百済に攻めらた新羅に援軍を送ったことは記載してます。まして白村江の戦いは、敵方です。当然勝利を自慢気に記載するはずです。

答えはシンプルです。白村江の戦いで唐・新羅連合軍が戦った相手は、日本ではなかったのです。

えっ、そんな、と思われた方も多いと思います。では、相手はどこだったのでしょうか?。

このブログを読まれている勘のいい方は、お分かりでしょう。そうです。戦った相手は、倭国すなわち九州王朝です。日本すなわち大和朝廷は、直接の当事国ではなかったというわけです。

実際、日本書紀を読むと、敗色濃厚にもかかわらず悲壮感は伝わってきません。また、敗戦後、唐は九州北部に進駐してきますが、そこから畿内には向かってません。戦いで勝ったのなら、当然のことながら、占領軍は国の都を目指し、進軍するでしょう。その記載は、ありません。
唐は、倭国に勝利し占領して目的を達したということです。

天智天皇(中大兄皇子)
Emperor_Tenji.jpg

それでは、大和朝廷は、なぜ占領されなかったのでしょうか?。倭国と共に戦ったのなら、占領されて当然でしょう。単なる傍観者だったのでしょうか?。そんなこともあり得ません。

ここからは推測になりますが、大和朝廷は裏で唐とつながっていた可能性はあります。そう解釈すると、大和朝廷に切迫感が感じられなかったのも、うなずけます。

そして白村江の戦いを機に、実権が倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)に移っていくことになりますが、詳しくはいずれ・・・。

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新唐書日本伝を読む その3 ~ 謎の多い古代天皇の系譜

天皇の系譜が続きます。

【現代訳】
その次は応神、その次は仁徳、その次は履中(りちゅう)、その次は反正(はんぜい)、その次は允恭(いんぎょう)、その次は安康(あんこう)、その次は雄略(ゆうりゃく)、その次は清寧(せいねい)、その次は顕宗(けんぞう)、その次は仁賢(にんけん)、その次は武烈(ぶれつ)、その次は継体(けいたい)、その次は安閑(あんかん)、その次は宣化(せんか)、その次は欽明(きんめい)である。欽明の十一年は、梁(りょう)の承聖(しょうせい)元年(552年)にあたる。
その次は海達(かいたつ)、その次の用明はまた目多利子比孤(めたりしほこ)ともいい、隋の開皇(かいこう)(581年-600年)末にあたる。このときはじめて中国と国交を通じた。その次は崇峻(すしゅん)である。崇峻が死ぬと、欽明の孫娘の雄古(ゆうこ)が王位を継いだ。その次は舒明(じょめい)、その次は皇極(こうぎょく)である。
【解説】
さらに歴代天皇の名前が続きます。天皇の系譜は、次のとおりです。
天皇系譜Ⅰ 

天皇系譜Ⅱ 

さりげなく系譜が続いてますが、この系譜については、多くの研究者から疑問が持たれています。
例えば、25代の武烈から26代の継体の間です。武烈は、日本書紀に残酷無比の人物に描かれていますが、子供がないまま亡くなります。跡継ぎがいなかったため、応神天皇の五世孫とされる継体を越前国に探し出し、天皇として迎えたとされます。
その話に無理があるため、継体は、本当は天皇の系譜でない人だったのではないか、と言われるわけです。

よくよく考えてみれば、武烈に子供がいなかったとしても、何も五代も遡らなくとも、血縁者はいくらでもいたはずです。それをわざわざ五代も遡り、しかも越前の国から呼び寄せるのは不自然です。さらに最終的に大和に入るのに20年もかかっており、それもへんです。
となると、この話には何か別の意味があったのでは、と考えられます。つまり、継体による権力奪取を正当化するための作り話ではないか?という疑問です。

また、特に武烈が暴虐に描かれていますが、注意が必要です。なぜ正当な天皇を、そこまで貶める必要があったのか?。権力奪取を正当化するために、「前の天皇は、こんなにひどい人でした。」と宣伝するためだったのではないか?、という疑いです。

この系譜は、一般的に言われているものですが、古事記、日本書紀のなかには、矛盾のある記載もあり、ひとつには確定できません。

その他、字の誤りなどおかしいと思われる記載もありますが、ここではスルーします。

【現代訳】
日本国人の風俗は、槌型(つちがた)の髷(まげ)を結い、冠や帯は着用せず、はだしで歩き、ひと幅の布で身体の後部を蔽(おお)っている。身分の高い者は錦のかづきをかぶっている。婦人は模様のない無地のスカート、長い襦袢を着用し、髪は頭のうしろで結っている。
隋の煬帝のとき(604-617年)に煬帝は使者を遣わして日本の役人に錦綫冠(きんせんかん)を賜り、その冠を金の玉でかざり、模様織りの布で衣服をつくり、左右の腰に長さ八寸の銀の花飾りを下げ、そのかざりの数によって、身分の高低が明らかになるようにさせた。
唐の太宗(たいそう)の貞観(じょうがん)五年(631年)、日本国は使者を派遣して唐に入朝させた。太宗は、日本からの距離が遠いのに同情し、役人に命じて、無理に毎年朝貢しなくともよいようにとりはからわせた。また新州刺史(しんしゅうしし)の高仁表(こうじんひょう)を遣わし、日本国王に勅諭(ちょくゆ)を伝えさせようとしたが、高仁表は日本国王と儀礼の問題でいさかいを起こして立腹し、天子の命を読み上げることを拒否して国へもどった。しばらくして、日本はあらためて新羅の使者に託して上奏文を送呈してきた。
【解説】
このあたりの記載は、これまでに書かれた旧唐書倭国伝と日本国伝にあるものとほぼ同じです。
隋の煬帝が日本の役人に錦綫冠(きんせんかん)を賜った話は、初出です。また、旧唐書倭国伝に、ほぼ同じ内容で
「 婦人は無地のスカートをはき、丈の長い襦袢を着、髪はうしろで束ね、長さ八寸の銀製の花を腰の左右に二、三本ずつ下げ、それによって身分の高下の等級を表している。」
との記載がありました。これは役人の話ではありませんが、身分の等級を表すやり方は、隋の煬帝の指示だったことがここでわかります。

いずれにしろ、新唐書日本伝の記載は、これまでの倭国伝と日本国伝の両方から取り込んでいると思われます。

参考までに、当時の貴婦人の様子が描かれている高松塚古墳壁画を再掲します。ここでの記載と多少違いはありますが、雰囲気はつかめるかと思います。

Takamat1.jpg


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新唐書日本伝を読む その2 ~ やっぱり大和朝廷の前身は九州にあった!

前回は少し話が広がったので、お話できなかった重要なポイントがありました。
それは、
「国王の阿海(あめ)氏が自ら言うには、神武天皇の父親の彦瀲まで三十二代、筑紫城に住んでいた」
と、記載されていることです。そして
「神武天皇のときに、大和州に遷した」
とあります。
つまり、ここからも大和朝廷の前身(神武天皇まで)が、九州北部(筑紫)にあったことは明らかとなります。
一般的には、神武天皇が九州からやってきた話(神武東征)は、古事記、日本書紀を編纂した8世紀の史官による創作とされています。ところが、文脈から言って、この話は6~7世紀ころの日本との会話を元にしているでしょう。すると当時(6~7世紀ころ)から、神武天皇の出身が九州北部(筑紫)であることは国王以下共通認識としてあったことを示していると言えるでしょう。つまり、古事記、日本書紀の神武東征神話は、決して8世紀の史官による創作ではない、ということになります。

興味深いのは、「筑紫城に住んでいた」との記載など彦瀲の代まではあたかも九州筑紫の王朝であったかのように表現されていることです。実は、古事記、日本書紀には、「九州筑紫にいた神武天皇が、東征し畿内に侵入した。」とはありますが、そこまではっきりとは記載されていません。
この記載をそのまま受け取ると、九州北部にあった王朝が畿内大和に移動したという邪馬台国東遷説になります。

ただしここで気をつけなくてはいけない点は、これは、日本(大和朝廷)の役人が、唐の中国側へ説明した話でしょう。当然のことですが、自分達にとって都合の悪い話は、作りかえて話すはずです。例えば、この話には「倭国」と「日本」の関係が、触れられていません。
いかにも片手落ちの説明ですが、さすがに中国もあやしいと思ったのでしょう、そのへんを疑っているのが、面白いところです。それは後ほどでてきます。

以後、歴代天皇の話が続きます。

【現代訳】
次は綏靖(すいぜい)、その次は安寧(あんねい)、その次は懿徳(いとく)、その次は孝昭(こうしょう)、その次は天安(てんあん)、その次は孝霊(こうれい)、その次は孝元(こうげん)、その次は開化(かいか)、その次は崇神(すじん)、その次は垂仁(すいじん)、その次は景行(けいこう)、その次は成務(せいむ)、その次は仲哀(ちゅうあい)という。仲哀が死ぬと、開化の曾孫娘の神功(じんぐう)を王とした。
【解説】
第二代の綏靖以下、あまり聞きなれない名前が続きます。実は、綏靖から第九代の開化までの八人は、「欠史八代」と呼ばれ、実在性が疑われています。
その根拠として、神武天皇については、東征神話など華々しい話が多く残されているのに対して、次からの八人には、事績がまるで残されていないことが、挙げられています。
つまり奈良時代に日本書紀などを編纂した史官によるでっちあげの人物たちというわけです。

しかしながら、ここで疑問がわきます。

ではなぜ奈良時代の史官は、それら八人の逸話を創作しなかったのでしょうか?。例えば「誰々天皇がどこどこに宮を構えた」などの創作は、いとも簡単にできます。
そのように創作していれば、今挙げた疑いを受けなくてすんだはずです。たまたま書いておくのを忘れたのでしょうか?。

私は、神武天皇以下八代の天皇について、簡単には非実在と断定できないと考えます。では、実在の人物だったとすると、なぜ八人については記載が少ないのでしょうか?。

簡単に言えば、神武天皇の東征説話に比べ、たいした実績を残していないからでしょう。なぜ実績を残せなかったと言えば、神武天皇はたしかに飛鳥地方に入ったかもしれませんが、磐石な基盤を築いたとは言えず、その後の八人は、そのなかで四苦八苦していたからと推察されます。
この話は、回を改めてお話しします

次の崇神(すじん)から実在とみなされ、垂仁(すいじん)、景行(けいこう)、成務(せいむ)、仲哀(ちゅうあい)と続きます。仲哀が死んで、仲哀の皇后の神功(じんぐう)があとを継ぎます。
一般的には、神功皇后と呼ばれますが、ここで王と記載しているとおり、近年まで、第十五代天皇とされていました。

神功皇后
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神功皇后は、長らく武人の間で崇拝されてきましたが、古事記、日本書紀のなかでも、特異な存在です。新羅出兵など三韓征伐し、帰国後、息子(のちの応神天皇)を出産、畿内に向かい応神天皇の異母兄弟を破ります。また魏への朝貢など、あたかも卑弥呼、壹与と同一人物と思わせる記載となってます。
特に日本書紀においては、わざわざ神功皇后のために一章を設け、事績、分量ともほかの天皇にひけをとりません。
また、祀られている神社も、九州をはじめ全国でかなりの数にのぼります。

こうした背景には、神功皇后が仲哀天皇の正室ではないにもかかわらず、天皇(応神)の母となったことも関係していると思われます。
あるいは、卑弥呼や壹与など女性支配者の事績を日本書紀に取り込むために、あえて神功皇后という存在を設定した、との説もあります。
この話についても、詳細は回を改めてお話しします。


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新唐書日本伝を読む その1 ~ 天御中主神から神武天皇までの間にある謎の時間の流れ

前回まで、旧唐書の倭国伝と日本国伝を見てきました。今回から、新唐書日本伝に入ります。

なぜ唐書が新旧二つに分かれているかですが、旧唐書は唐末から五代十国時代(907-960年)の戦乱の影響で、後半部分が資料不足で不備が大きかったため、それらを補うため北宋時代(1060年)に作られたというわけです。
そして、日本については、旧唐書にあった倭国伝がなくなり日本伝のみとなってます。

【現代訳】
日本は古の倭奴国(いどこく)である。都長安から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中にある島国である。その国土の広さは歩いて東西は五ヶ月の行程、南北は三ヶ月の行程である。
国都には城郭がなく、材木を並べて木柵とし、草で屋根をふいている。周辺には五十余りの小島があり、それぞれ勝手に国と号し、日本国に臣下として服従している。王は統轄者を一人置いて、諸地方を監督させている。
国王の姓は阿海(あめ)氏、彼が自ら言うには、初代の国王は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、彦瀲(なぎさ)に至るにまですべて三十二代、いずれも「尊(みこと)」と呼ばれ、筑紫城(ちくしじょう)に住んでいた。彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。
【解説】
冒頭
「日本は古の倭奴国(いどこく)である」
とあります。前回までの旧唐書を読まれた方には、おなじみですね。
旧唐書倭国伝に
「倭奴国→倭国」
旧唐書日本国伝に
「倭国→日本国」
とあり、それを合わせた表現です。
つまり
「倭奴国→倭国→日本国」
というわけです。
そして、この日本国とは明らかに大和朝廷のことです。となると、前回までの繰り返しになりますが、倭奴国が九州博多湾岸にあったことは、邪馬台国畿内説論者も異論がないのですから、当然の帰結として、
「大和朝廷の前身は、九州博多湾岸にあった。」
ことになります。


ここから、興味深い記載が出てきます。
「初代の国王天御中主(あめのみなかぬし)から、彦瀲(なぎさ)至るにまですべて三十二代」
とあります。
天御中主とは、古事記、日本書紀に出てくる天地開闢(てんちかいびゃく)の神です。そこから天照大神、さらに神武天皇へとつながるわけです。その系譜については、
「日本の神々の系譜とは・・・」(2015/3/18号)
でお話ししましたが、
このようになります(一部加筆してあります。)。

神々の系譜201508 

さてこの系譜を見て、不思議に思いませんでしょうか?。
天御中主から神武天皇の父親である彦瀲まで、7代です。とても新唐書日本伝にある32代もありません。
これはどうしたことでしょうか?。どちらかがいいかげんなことを記載しているのでしょうか?。

私は、この謎を解くカギは、火遠理命(ほおりのみこと)にあるのではないか、という仮説を立てています。火遠理命とは、筑紫の日向に天孫降臨した瓊瓊杵命(ににぎのみこと)の子供であり、かつあの有名な「海彦山彦神話」に出てくる山彦です。
実は古事記に、
「火遠理命の代は、580年に及んだ。」
との記載があります。一代で580年とはあまりにも非現実的な話であるため、一般には、これを単なる神話の話としてしか解釈していません。
しかしながら、神話の話にしては、580年というのは、やけに具体的な数字です。ここには何か意味があるのではないでしょうか?。

ひとつの考え方として、襲名制度ではないか、というものです。
つまり火遠理命の家系では、家を継ぐ人が皆同じ火遠理命という名前だった、ということです。襲名制度は昔からあり、現代でも歌舞伎役者の家系では、たとえば市川団十郎を代々引き継ぎます。その制度が当時あったとしても、何の不思議もありません。

この考え方で計算すれば、一代20年として、
580÷20=29代です。
以前のブログでお話しした二倍年暦説(一年に二回歳を数える)によれば、
580÷2÷20=15代
となります。
二倍年暦説について詳しくは、
「魏志倭人伝を読む その4 ~ 倭の風俗 倭人は年に二回歳をとっていた!?」(2015/5/6号)
を参照ください。

さらに、系譜では省略しましたが、古事記によれば、天御中主といざなみ・いざなみの間には様々な神が登場しており、それらを神世七代としています。
これらをたしあわせれば32代にもなりうるわけで、がぜん32代という記載にリアリティが出てきます。

もちろんだからと言って、32代だと断定はできません。実際、後年の宋史日本伝には、具体的に神名まで挙げたうえで、23代との記載があります。

いずれにしろ、これだけの資料で確定はできませんが、少なくとも、天御中主から神武天皇の父親である彦瀲までは、20~30数代を経ているのではないか、と推定できます。

となると、神武天皇の生きていた年代がわかれば、逆算して、国譲りや天孫降臨神話すなわち天孫族が九州北部に進出した時代も推定できます。そしてその推定年代が、遺跡などの考古学的成果やその他科学的データと一致すれば、仮説が検証できます。

余談ですが、火遠理命すなわち山彦は、浦島太郎伝説のモデルとなった人物である、との説もあります。

「海彦山彦神話」は、
"兄の大切な釣り針を探しに行った山彦が、海の神わたつみの宮へ向かいます。そこでわたつみの娘豊玉姫(とよたまひめ)と結ばれ、楽しく暮らします。
豊玉姫の協力で釣り針を取り戻したばかりか、海神から強力な力を授かり、地上へ戻ってから、兄の海彦を屈服させた。"
という話しです。

確かに似ているたころはあります。さらに山彦の代で580年というのも、浦島太郎が陸に戻ってきたら長い年月がたっていた、という話のヒントになったかもしれませんね。

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旧唐書日本伝を読む その2 ~ 則天武后・玄宗皇帝と日本人との意外な接点 

ここからは、遣唐使の話が中心となります。ここで有名な則天武后(そくてんぶこう)と玄宗皇帝(げんそうこうてい)が登場します。二人ともあまりにも有名で、いわば伝説の人であり、日本人とは何のかかわりもなさそうですが、実は意外なところで接点がありました。

【現代訳】
則天武后(そくてんぶこう)の長安三年(703年)、日本国の大臣粟田朝臣真人(あわたのあそんまひと)が来朝して国の産物を献上した。朝臣真人とは、中国の戸部尚書(とぶしょうしょ)のような者である。彼は進徳冠(しんとくかん)をかぶっていたが、その冠の頂は花形で、四枚の花はびてなびらが四方に垂れるつくりになっている。彼は身には紫色の上衣を着用し、白絹の帯をしめている。真人は経書や史書を好んで読み、文章をつづることもでき、ものごしは穏やかでみやびていた。則天武后は、麟徳殿(りんとくてん)に彼を招いて宴を催し、司膳卿(しぜんけい)の官を授け、留めおくことなく本国に帰還させた。
【解説】
則天武后(623?~725年)というと、中国史上唯一の女帝であり、一般に残酷な恐怖政治をした程度の認識しかありません。
その則天武后が、遣唐使の粟田朝臣真人という日本人を招き、宴席を設けて、官職を授けたとあります。当然粟田朝臣真人は則天武后と会っていたことになります。
実は、則天武后は、皇后時代には百済を滅亡させ、白村江の戦い(663年)において、倭国と旧百済連合軍を撃ち破るなど、われわれにも関係が深い存在です。

則天武后
A_Tang_Dynasty_Empress_Wu_Zetian.jpg

【現代訳】
玄宗の開元年間(713~741年)の初め、日本国は再び使者を遣わして来朝させた。その使者はその機会に儒者から経書を教えてもらいたいと願い出た。そこで玄宗は四門助教(しもんじょきょう)の趙玄黙(ちょうげんもく)に命じ、鴻臚寺(こうろじ)に呼んで教えさせた。日本の使者はそこで玄黙に広幅の布を贈って入門料とした。その布には「白亀(はくき)元年の調布(ちょうふ)」と書きつけてあったが、中国人は、日本で調として布を納める制度があろうなどとは嘘だろうと疑った。その使者は、中国でもらった贈り物のすべてを投じて書籍を購入し、海を渡って帰っていった。
その時の副使の朝臣仲満(なかまろ)は、中国の国ぶりを慕って、そのまま帰国せずに留まり、姓名を朝衡(ちょうこう)と改め、唐朝に仕えて、佐補闕(さほけつ)・儀王璲(ぎおうすい)の学友を暦任した。衡は都に留まること五十年、書物を愛し、自由を与えて故国に帰らせようとしても、留まって去ろうとしなかった。
【解説】
もうひとり有名な皇帝が出てきます。第九代皇帝玄宗(685~762年)です。楊貴妃を寵愛してから政務に取り組まなくなり、国が乱れたとされてます。
実は、玄宗は則天武后の孫にあたります。則天武后は、もとは唐の第二代皇帝大宗(598~649年)の側室であり、皇帝の息子(のちの第三代皇帝高宗)を籠絡して、皇后に上りつめた人です。
玄宗もそうした血を引いていたということでしょうか?。
もっともこうした話は、古代中国のみならず、日本でもあまたありますし、現代世界でも、この手の話は、枚挙にいとまがありません。
人間の性は、昔も今も変わっていないということでしょう。

玄宗皇帝
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【現代訳】
玄宗の天宝十二年(753年)、日本はまた使者を遣わして、貢物を献上させた。
粛宗(しゅくそう)上元年間(760~762年)に朝衡を抜擢し、左散騎常侍(ささんきじょうじ)・鎮南都護(ちんなんとご)に任じた。
徳宗(とくそう)の貞元二十年(804年)、日本は使者を遣わして来朝させた。そして、学生の橘逸勢(たちばなのはやなり)と学問僧の空海を中国に滞在させた。
元和元年(806年)、日本国使判官高階真人(たかしなのまひと)は奏上した。
「前回の学生たちは、学問もどうやら成就いたしましたので、本国に帰ることを望んでおります。ただちに臣といっしょに帰らせていただきとう存じます。」
帝は願いどおりにしてやった。
文宗の開成四年(839年)、日本はまた使者を遣わして、貢物を朝廷に献上させた。
【解説】
日本人にも有名な人が出てきます。朝衡すなわち阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)です。中国で大出世しましたが、最後まで帰国せず、異国の地で亡くなりました。
百人一首に読まれている
「天の原 ふりさけみれば 春日なる 御笠の山に いでし月かも」
を詠んだ歌人としても有名ですよね。
この歌は、一般的には、帰国する仲麻呂を送別する宴席にて、友人の前で奈良の春日山や御笠山に出た月を思って詠んだ歌とされてます。

阿倍仲麻呂(百人一首より)
Hyakuninisshu_007.jpg

ところがこの歌には、「天の原とは何か?」「地形からみて御笠山は月が出るにふさわしい形状でない」などの多くの疑問があります。
これに対して、古田武彦氏は、長崎県壱岐島に天の原という地名があることなどから、
「仲麻呂が唐に向かう船上、壱岐の天の原を通過したときに九州を振り返ると、御笠山(福岡県春日市宝満山)より月が出ていたことを詠んだ歌である。」
との説を提唱していますが、なかなか説得力があります。

実は、この歌のみならず、万葉集をはじめとした当時の多くの歌については、解釈できないことが多々あります。そもそも、古事記、日本書記などの史書には、多くの矛盾する内容を含んでおり、古来より学者たちを悩ませています。
古田武彦氏は、その要因として、
「九州王朝などの神話や歌を盗用して、畿内の神話や歌としているからだ。」
と指摘しています。
これらについては、非常に大きなテーマであり、興味深い話でもあるので、いずれお話ししたいと思います。

もうひとりたいへん有名な日本人空海の名前が出てきて、新唐書日本国伝は終わります。

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ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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