新唐書日本伝を読む その5 ~ 謎が残る白村江の戦いから壬申の乱まで
前回とりあげた白村江の戦いに続き、日本古代史最大の戦いと言われる壬申の乱が勃発します。
【現代訳】
天智が死ぬと、その子の天武が位を継いだ。
天武が死ぬと、その子の総持(そうじ)が位を継いだ。
咸亨(かんこう)元年(670年)、日本は唐に使者を遣わして、唐が高句麗を平定した(668年)ことを慶賀した。その後日本人は、しだいに中国語に習熟し、倭という呼び名をきらって日本と改号した。使者がみずから言うに、
「わが国は太陽の出るところに近いから、それで国名としたのだ。」と。
また、こういう説もある。
「日本は小国だったので、倭に併合され、そこで倭が日本という国名を奪ったのだ。」
使者が真相を語らないのでこの日本という国号の由来は疑わしい。また、その使者はいいかげんなことを言ってはほらを吹き、日本の国都は数千里四方もあり、南と西は海に達し、東と北は山に限られており、山の向こうは毛人(もうじん)の住む地だ、などと言っている。
【解説】
天智が亡くなり、弟の天武、そして総持(そうじ)へと、天皇が代わります。原文の総持は、持統天皇のことでしょう。
この時期も、日本では大きなことがありました。
白村江の戦いで破れ(663年)、唐が九州北部に進駐してきます。
天智天皇は、都を飛鳥から近江の大津京へ遷都します(667年)。
そして天智天皇が亡くなり(671年)、後継をめぐり、天智天皇の子供である大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子(のちの天武天皇)との間で、日本古代史最大の戦いと言われる壬申の乱が起こり、大海人皇子が勝利します(672年)。
そして倭国から日本国へと改名されます。
これらは一般には別個の話として語られますが、そんなはずはなく、一連の流れのなかで捉えるべきでしょう。
不思議なのは、なぜ天智天皇が大津京に遷都したのかです。唐の進軍から避難するためと説明されますが、地政的に言って、飛鳥に比べさほど有利とも言えません。
また、白村江の戦いではほとんど姿の見えない大海人皇子が突然出てきて、大友皇子に勝利して、天武天皇になります。
天武天皇

当時は、唐の占領下にあったも同然です。そのなかで、日本を二分する大きな戦いに関し、唐が無関心であったはずもありません。言ってみれば、マッカーサー占領時代に、日本国内でクーデターが起こったようなものです。アメリカが、無関係ということはなかったでしょう。
これらについて、詳細は古田武彦氏の「壬申大乱」をご覧ください。
さて、では一連の流れを、どのように理解すればいいでしょうか?。
あくまで推測になりますが、ひとつの説としてあるのは、天智天皇が倭国とともに反唐派であり、天武天皇が親唐派だったという説です。
すなわち、反唐派の天智天皇が、大和朝廷での勢力争いを避け、大津京へ逃れます。子供の大友皇子に位を譲りますが、大海人皇子が唐のバックアップを受け、壬申の乱で大友皇子に勝利する、という説です。
いかがでしょうか?。あくまで数ある説のひとつで仮説ですが、このように考えるとつじつまが合ってきます。
もちろん反論も多々あるでしょうし、慎重な論証が必要でしょう。それがなければ単なるトンデモ説になってしまいますが、長くなりますので、ここでは仮説を紹介するにとどめます。
いずれにしろ、この時代の一連の流れを解釈するには、明らかになっていない何かがあると考えざるを得ません。
皆さんも是非、この時代について、なぜなぜ?とあれこれ考えてみても面白いと思います。
また、旧唐書にもありましたが、
「日本は小国だったので、倭に併合され、そこで倭が日本という国名を奪ったのだ。」
と日本が説明した話。中国側があやしいと思ったというのが、面白いところです。ようは説明があやふやだったわけです。そしてなぜあやふやだったのかと言えば、一連の経緯、すなわち今までお話しした
倭奴国(九州王朝)
↓
倭国(九州王朝)
↓
日本国(大和朝廷)
へと変わった経緯を、明確に説明できない、或いはしたくない事情があったのでしょう。つまり自らの正統性に確信がもてなかった、ということではないでしょうか?。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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天智が死ぬと、その子の天武が位を継いだ。
天武が死ぬと、その子の総持(そうじ)が位を継いだ。
咸亨(かんこう)元年(670年)、日本は唐に使者を遣わして、唐が高句麗を平定した(668年)ことを慶賀した。その後日本人は、しだいに中国語に習熟し、倭という呼び名をきらって日本と改号した。使者がみずから言うに、
「わが国は太陽の出るところに近いから、それで国名としたのだ。」と。
また、こういう説もある。
「日本は小国だったので、倭に併合され、そこで倭が日本という国名を奪ったのだ。」
使者が真相を語らないのでこの日本という国号の由来は疑わしい。また、その使者はいいかげんなことを言ってはほらを吹き、日本の国都は数千里四方もあり、南と西は海に達し、東と北は山に限られており、山の向こうは毛人(もうじん)の住む地だ、などと言っている。
【解説】
天智が亡くなり、弟の天武、そして総持(そうじ)へと、天皇が代わります。原文の総持は、持統天皇のことでしょう。
この時期も、日本では大きなことがありました。
白村江の戦いで破れ(663年)、唐が九州北部に進駐してきます。
天智天皇は、都を飛鳥から近江の大津京へ遷都します(667年)。
そして天智天皇が亡くなり(671年)、後継をめぐり、天智天皇の子供である大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子(のちの天武天皇)との間で、日本古代史最大の戦いと言われる壬申の乱が起こり、大海人皇子が勝利します(672年)。
そして倭国から日本国へと改名されます。
これらは一般には別個の話として語られますが、そんなはずはなく、一連の流れのなかで捉えるべきでしょう。
不思議なのは、なぜ天智天皇が大津京に遷都したのかです。唐の進軍から避難するためと説明されますが、地政的に言って、飛鳥に比べさほど有利とも言えません。
また、白村江の戦いではほとんど姿の見えない大海人皇子が突然出てきて、大友皇子に勝利して、天武天皇になります。
天武天皇

当時は、唐の占領下にあったも同然です。そのなかで、日本を二分する大きな戦いに関し、唐が無関心であったはずもありません。言ってみれば、マッカーサー占領時代に、日本国内でクーデターが起こったようなものです。アメリカが、無関係ということはなかったでしょう。
これらについて、詳細は古田武彦氏の「壬申大乱」をご覧ください。
さて、では一連の流れを、どのように理解すればいいでしょうか?。
あくまで推測になりますが、ひとつの説としてあるのは、天智天皇が倭国とともに反唐派であり、天武天皇が親唐派だったという説です。
すなわち、反唐派の天智天皇が、大和朝廷での勢力争いを避け、大津京へ逃れます。子供の大友皇子に位を譲りますが、大海人皇子が唐のバックアップを受け、壬申の乱で大友皇子に勝利する、という説です。
いかがでしょうか?。あくまで数ある説のひとつで仮説ですが、このように考えるとつじつまが合ってきます。
もちろん反論も多々あるでしょうし、慎重な論証が必要でしょう。それがなければ単なるトンデモ説になってしまいますが、長くなりますので、ここでは仮説を紹介するにとどめます。
いずれにしろ、この時代の一連の流れを解釈するには、明らかになっていない何かがあると考えざるを得ません。
皆さんも是非、この時代について、なぜなぜ?とあれこれ考えてみても面白いと思います。
また、旧唐書にもありましたが、
「日本は小国だったので、倭に併合され、そこで倭が日本という国名を奪ったのだ。」
と日本が説明した話。中国側があやしいと思ったというのが、面白いところです。ようは説明があやふやだったわけです。そしてなぜあやふやだったのかと言えば、一連の経緯、すなわち今までお話しした
倭奴国(九州王朝)
↓
倭国(九州王朝)
↓
日本国(大和朝廷)
へと変わった経緯を、明確に説明できない、或いはしたくない事情があったのでしょう。つまり自らの正統性に確信がもてなかった、ということではないでしょうか?。
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