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金石文の中の倭人 ~ 河姆渡(かぼと)遺跡と倭人の関係とは? 

張莉氏の論文の続きです。

[論文]
安徽(あんき)省北西部の亳県(はくけん)の元宝抗村一号墓から発見された磚(せん)
倭人、時を以って盟すること有りや否や」(170年頃のものと推定される)
とある。 磚文の「盟」とは古代中国の近接する国々の間で神明にかけて交わされる不可侵や同盟の近いを意味するのであり、そこからするとこの「倭人」が遠く離れた倭人とは考えにくく、安徽省亳県に定住していた倭人と考えるのが妥当である。この金石文は倭人が中国国内に定住していた動かぬ証拠である。

[解説]
磚(せん)とは、
「東洋建築に用いられたレンガ。正方形や長方形の厚い板で、中国周代に始まり、漢代に発展、城壁・墓室などに用いられた。」(デジタル大辞泉)

また金石文とは、
「金属や石に刻まれた文字や文章。刀剣・甲冑・土器などに刻んだものを含まれることもある。」(デジタル大辞泉)
です。

金石文は、極めて資料価値の高いものです。なぜなら、三国志などの紙の書物は、書かれた当時の書物が残っているわけではなく、時代を経て人々の手によって書写されたものしか我々は見ることができないからです。だから、誤写などの可能性が出てきて、様々な解釈がされてしまうわけです。

その点、金石文は当時の文字がそのまま残っているわけですから、研究していく上でとてもありがたいわけです。

さらに論文を読んでいきます。

[論文]
越人は単一の民族ではなく、百越と呼ばれていた。この越族の中に倭人が含まれていた。長江下流域に住んでいた倭人の一部が北上し、山東半島から朝鮮を経て、日本に渡ったのであろう。・・(中略)・・その(倭人の)出自は概ね長江流域の中下流域の南側で、その文化を伝える最大の遺跡は現在の浙江省余姚市にある河姆渡(かぼと)遺跡で7000年~5000年前の遺跡であり、稲と高床式建物がすでに出土している。 

[解説]
倭人出自の遺跡として河姆渡(かぼと)遺跡を挙げています。時代としては、日本で言えば縄文時代で、青森県の三内丸山遺跡(5500~4000年前)の少し前に当たります。
河姆渡遺跡は、発見されたのが1973年と新しいのですが、人工的かつ大規模に稲の栽培が行われていた世界最古の稲栽培の遺跡として有名です。その他、ひょうたん、なつめ、ハス、ドングリ、豆などの植物をはじめ、ブタ、イヌ、水牛などの家畜も確認されています。

中国国内最古の漆器や陶器も発見されました。高床式住居が数多く発見されましたが、当時は気候温暖期であり、頻繁な雨など高温多湿の気候に対するものであったと考えられています。

河姆渡遺跡から出土した黒陶
 河姆渡遺跡黒陶 (506x640)

地名がいろいろ出てきたので、前回の図に書き加えます。

周時代の越族領域2 
だいぶすっきりしてきました。

確かにこの地図を眺めていると、記録に書かれていることが、海を渡った日本に関することであったとは想像しにくいですよね。

また、越人について百越と呼ばれ、長江下流域に住んでいたとありますが、もう一つ、興味深い話があります。

は、粤(えつ)とも書く。漢書地理誌に「その王は皆夏王朝の始祖禹(う) の子孫であり、又その子孫、帝小康の諸子の後胤」と書かれている。その分派が多いので、百粤(ひゃくえつ)とも言われた。」(wikipediaより)

夏王朝とは、周王朝のさらに二つ前の王朝で、紀元前2000年頃~紀元前1600年頃に現在の河南省付近にあったとされる中国最古の伝説の王朝です。「史記」には、471年続き、殷(いん)に滅ぼされた、とされています。
従来、伝説とされてきましたが、近年、遺跡の発掘などにより、実在の可能性もあると考えられるようになりました。

王朝の流れとしては、

夏王朝(BC2000頃-BC1600頃)
    ↓
殷王朝(BC1600頃-BC1046)
    ↓
周王朝(BC1046-BC256)

となります。

もしこの記載が事実に基づくものであるなら、「夏王朝の子孫が、黄河中流から揚子江以南にやってきて始祖となった」ことになります。

もっとも河姆渡遺跡が越族の遺跡であるなら、年代的には河姆渡遺跡の方が夏王朝よりはるかに昔なので、話が合いません。ここでいう始祖になったというのは、すでにその地域に住んでいた越族の支配者になったということでしょう。

ところで、似たような話をどこかで聞いたと思います。そうです、以前のブログ
「翰苑(かんえん)を読む (前編) ~ 日本人は古代中国周王朝の末裔だった!?」(2015/10/6号)
でお話しした、
”黄河中流域にいた周の太伯が、揚子江下流域にやってきて、呉(春秋時代のです)を建国した”
という話です。

似たようなパターンだけに、真偽のほどは疑いももちえますが、ここではそれはそれとして置いておきます。

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論衡(ろんこう)の中の倭人 ~ 倭人が周王朝に献じたものとは?  

これまで日本、特に倭国および倭人に関する中国史書を紹介してきました。
具体的には、国家として正式に編纂された二十四史として、魏志倭人伝、後漢書倭伝、宋書倭国伝、隋書俀(たい)国伝、旧唐書倭国伝・日本国伝、新唐書日本伝、それに二十四史ではありませが、翰苑(かんえん)を読んできました。
これらをひと通り読み解いていくことにより、古代日本の姿、倭国と邪馬台国、日本国の関係が、浮かびあがってきました。

それは、今まで私たちが歴史の授業で習った世界とは、全く別の世界です。日本国の成立は、畿内から始まったのではなく、もともと九州北部を中心とした倭国(九州王朝)があり、時代を経て権力の移動の結果として、最終的に大和朝廷ができた、というストーリーです。

さて、それではその九州王朝はどのように成立したのでしょうか?。

さらに古い中国史書を、見ていきましょう。

倭人が初めて中国史書に登場したのは、「論衡(ろんこう)」です。「論衡 」は、王充(おうじゅう、27-97年)が著しました。ちなみに王充は、次にお話しする「漢書」の著者、班固(はんこ)の5歳先輩で、親交がありました。

【現代訳】
の時代、天下は太平で、倭人がやって来て暢草(ちょうそう)を献じた。(異虚篇第一八)

成王(せいおう)の時代、越常(えっしょう)を献じて、倭人暢草を献じた。(恢国篇第五八)

の時代は天下太平で、越裳(えっしょう)白雉を献じ、倭人鬯草(ちょうそう)を献じた。白雉を食べ鬯草を服用したが、凶を除くことはできなかった。(儒増篇第二六)

【解説】
周というのは、ここでは西周(BC1046頃-BC771年)のことです。
この文章を単純に受け取ると、
「倭人は当時から日本にいて、周王朝へ朝貢していた。」
となります。
事実、そのように解釈する方もいます(古田武彦氏の解釈もそのようです)。

しかしながら、紀元前1000年と言えば、日本では縄文時代です。直感的に、考えにくいのではないでしょうか?。そもそも、まだ倭人は、日本に渡ってきていなかったのではないか、という疑問です。

中身を見ていきます。(「邪馬一国への道標」古田武彦著参照)
まず越裳ですが、安南(ベトナム中北部)の南部にあった国です。
「周公の居摂(きょせつ)六年に白雉を献じた」と記録されています(後漢書南蛮伝)。
この献上された雉は、周の天子たちによって食べられ、これを食べれば”吉を招き凶を除く”と信じられたと
考えられます。いわゆる”縁起物”です。

また暢(鬯)草ですが、「鬯」とは「にほいざけ」で、くろきびで作った酒、神に供える酒だ、と言います。そして
「鬯草」とは、その神酒にひたす、香りのいい草のことです。今でも正月に飲む「おとそ」のようなものでしょう。
周の天子たちは、”縁起物”としてこれを飲んだようです。そしてこの香草を献上したのが「倭人」というわけです。ところが、それは”効き目がなかった”と書かれています。

これが具体的に何を指しているのか?。
成王が若くして崩御した(「史記」周本紀より)ことと関係しているのかとも考えられますが、古田氏は、”周王朝が滅んだことを指している”と言っています。

さらに、ここから論を展開し、「ここでいう倭人とは、日本本土にいた縄文人をさしている」と結論づけています。なかなか面白い内容なのですが、やはり「縄文人が周王朝に献じた」というのには、違和感があります。ただしこれ以上は詳細に入ってしまうので、興味のある方は、「邪馬一国への道標」(古田武彦著)をご覧ください。

こうした様々な意見を検討していくには、「縄文人」と「倭人」がどこに住んでいたどの人々を指すのか、を明確にする必要があります。このブログでは、倭人を「縄文人」と区別して、「渡来系弥生人(渡来以前も含む)」と仮説を立て、お話していきます。

さてそれではここでいう「論衡」でいう「倭人」とはどこにいた人々なのか?です。
これに対しては、このブログでもたびたび引用させていただいている張莉氏(元同志社女子大学准教授)が、鋭い指摘をしています。以下、氏の論文(「倭」「倭人」について)を引用しつつ考えていきます。

[論文]
周の成王(BC1115-BC1079年の頃といえば日本では縄文時代にあたるから、この話は信じるべきではないという意見が多い。ところが、古代中国の歴史を辿っていくと、にわかに信憑性を帯びてくる。  
暢(ちょう)は鬯艸(ちょうそう)のことであり、「鬯」と同意の「鬱」について、説文解字五下に
「一に曰く、 鬱鬯は百艸の華、遠方鬱人の貢ぎする所の芳 艸なり。これを合醸 して、以って神を降ろす。 鬱は今の鬱林郡なり。」とある。
 鬱林郡は今の広西省桂平県に当たり、「鬯」の産地が中国南方にあったことが知られ、「論衡」の 鬯艸 とつながる。「三国志」魏書倭人条の中には、 鬯草の記録はない。周王朝に鬯草を献上した倭人のことは著者陳寿も必ず知っていたはずで鬯草が日本産であるならば、1988文字の長文で書かれた倭人条内に特産物としてそのことが記されないはずがない。したがって「論衡」の倭人とは、中国南部に定住していた越族の中の倭人を指すと思われる。

[解説]
ここで説文解字とは、
「最古の部首別漢字字典。後漢の許慎の作、100年に成立。漢字を540の部首に分けて体系付けその成り立ちを解説し、字の本義を記す。」(wikipediaより)
であり、古代の漢字の意味を知るうえで、極めて価値の高いものです。

また「越族」とは、
「古代中国大陸の南方、主に江南と呼ばれる長江(揚子江)以南から現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいた、越諸族の総称。周代の春秋時代には、呉や越の国を構成する。」(wikipediaより)
とあります。
その中で安南の南(今のベトナム)に住んでいた人々を「越常(裳)」と呼び、揚子江下流域に住んでいた人々を「倭人」と呼んだと思われます。

その越常が、白い雉を献じ、倭人が暢草を献じた、と対比しているわけです。

そして確かに指摘のとおり、魏志倭人伝には、倭国の風俗文化はじめ資源から植生、特産物に至るまで、こと細かに記載されていますが、暢草と思しきものは記載されていません。

このことからも、当時の倭人とは、日本本土に住んでいた人々ではなく、揚子江下流域に定住していた越族の倭人を指す、と言えそうです。

地名がいろいろ出てきて、ゴチャゴチャしてきましたが、図示するとよくわかります。

周時代の越族領域 (2) 
 
「鬯」=暢草(ちょうそう)の産地が中国南方鬱林郡であったのなら、日本本土に住んでいた縄文人が、周に献上したという説は、どうみても無理がありますよね。

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後漢書倭伝から翰苑(かんえん)までのまとめ ~ 浮かびあがってきた九州王朝の姿

ここまで、後漢書倭伝、宋書倭国伝、隋書俀(たい)国伝、旧唐書倭国伝・日本国伝、新唐書日本伝、翰苑(かんえん))を、読んできました。
日本について書かれている中国史書として、魏志倭人伝の他にもこれだけ多くの史書があることを知って、驚かれた方もいらっしゃると思います。
編纂された時代や編者の立場も異なるので、すべてぴったり、というわけにはいきませんが、中国人がとらえた日本の姿はほぼ一貫していることがわかります。


内容が膨大になってますので、ここでおさらいをしておきましょう。各史書のポイントをまとめますが、魏志倭人伝などに既出の内容は、重複しますので割愛します。
魏志倭人伝のまとめは、
「魏志倭人伝を読む まとめ ~ 邪馬台国の真の姿が見えてきた!(2015/5/28号)」
を参照ください。


【後漢書倭伝】
・前漢の武帝の頃、三十国ほどが使者を遣わしてきた。
・大倭王は邪馬臺国(邪摩惟(やまゐ)の訛りと思われる)に住んでいる。
・倭の地は、中国の会稽東冶(かいけいとうや)の東にある。
・朱崖(しゅがい)、耳(たんじ)に近く、制度・風習も同じものが多い。
・57年、倭奴(いど)国の使者が、光武帝のもとに朝貢してきた。
・倭国は南海を極めたので、倭国王に金印を賜った。
・107年、倭国王の帥升(すいしょう)が朝貢してきた。
・女王国から東、海を渡って千里に 奴(こぬ)国がある。
・会稽郡の海の彼方に東鯷 (とうてい)国がある。二十余国である。
・同じく会稽郡の海の彼方に夷州(いしゅう)、州(せんしゅう)がある。秦の始皇帝が徐福を派遣したところである。
・夷州、州の人々は、たまに会稽の市に来る。


【宋書倭国伝】
・421年、高祖武帝が倭国王讃(さん)に官職を授けた。
・425年、讃が朝貢した。
・讃の弟の珍(ちん)が後を継ぎ、朝貢した。安東将軍・倭国王に任命した。
・443年、倭国王の済(せい)が朝貢した。安東将軍・倭国王に任命した。
・451年、倭王済に、使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事の官職を加えた。
・世継ぎの興(こう)が朝貢した。
・462年、安東将軍・倭国王に任命した。
・興の弟の武(ぶ)が倭王となった。
・478年、武は上表文を奉った。
・上表文の内容は、「東方では毛人の国55国、西方では衆夷の国66国、海を渡って北の95国を征した。高句麗が百済を攻めたので、戦おうと思う。自分を開府儀同三司に任命していただきたい」
・武を、使持節・都督倭・新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任命した。

【隋書俀(たい)国伝】
・国の境界は五か月行程、南北は三か月行程。東方は高地で西が低い。
邪靡堆(やまたい)に都を置いている。これが「魏志」の「邪馬臺(やまだい)」である。
・146-189年の頃には、戦乱があって王が定まらなかった。
・600年、俀王で姓は阿海(あま)、字は多利思北孤(たりしほこ)阿輩雞弥(あほきみ)という者が、使者を派遣してきた。
・俀国王の妻は雞弥(きみ)という。
・王の後宮には女が六、七百人いる。
・太子は、利歌弥多弗利(りかみたふり)という。
・中央官の位階に十二等級ある。
・阿蘇山という山があり、突然噴火する。
・607年、多利思北孤が朝貢してきた。国書には「日出ずる処の天子から、日没する処の天子へ」とあり、煬帝は不機嫌になった。
・608年、煬帝は使者裴世清(はいせいせい)を、俀国に派遣した。
竹斯(ちくしこく)に至り、また東に行き秦(しん)王国に着いた。秦王国の人々は、中国人と同じである。そこが夷州(いしゅう)と思われる。
・十余国を過ぎて海岸に達する。
竹斯国から東の諸国はみな俀国に属している。
・俀国王は裴世清らを迎えさせ饗応した。
・こののち往来は途絶えた。

【旧唐書倭国伝】
・倭国は古の倭奴(いど)国である。
・倭国王の姓は阿海(あま)氏で、一大率を置いて諸国を取り締まらせている。
・631年、倭国王は朝貢した。
・高表仁(こうひょうじん)を倭国に派遣したが、倭国の王子といさかいをおこした。
・648年、倭国王は新羅の使者にことづけて上表文を届けにきた。

【旧唐書日本国伝】
日本国は倭国の別種である。
・日本とつけたのは「太陽が昇るかなたにあるから」「倭国という名が雅美でないから」「日本はもと小国であったが、倭国の地を併合した」と言われる。
・唐に入朝した日本人は自慢を言い、信用のおける事実を挙げて質問に答えようとしないので、信用できない。
・703年、日本国の大臣粟田朝臣真人(あわたあそんまひと)が来朝して朝貢した。
・713-741年の初め、再び使者がやってきた。
・副使朝臣仲満(なかまろ)は朝衡(ちょうこう)と改め、日本に帰国しなかった。
・753年、また朝貢にやってきた。
・804年、使者がきた。空海らを滞在させた。
・839年、また朝貢にやってきた。

【新唐書日本伝】
・日本は古の倭奴(いど)国である。
・国王の名は阿海氏、初代の国王は天御中主(あめのみなかぬし)、彦瀲(ひこなぎさ)に至るまで三十二代、すべて尊(みこと)と呼ばれ、筑紫城に住んでいた。
・彦瀲の子の神武が立ち、あらためて天皇と呼ぶようになり、都を大和に遷した。
・650-656年の初め孝徳が即位し、年号を白雉(はくち)と改め、朝貢してきた。
・662年、蝦夷人とともに入朝してきた。
・670年、使者を遣わしてきて、唐が高句麗を平定したことを慶賀した。
・701年、国王に文武が立ち、大宝と改元した。
・日本国の東海の島々の中にがあり、は、邪古(やこ)・波邪(はや)・多尼(たに)の三つの小国の王がいる。
・国王は、神武の次の綏靖(すいぜい)から光孝(光孝、885年即位)まで続いている。

【翰苑(全訳)】
a.倭国は、山をよりどころとし、海に接したところに、国の鎮めを置き、そこを「馬臺(またい)」と称して都を建てている。
b.官職を分って任命され、女王に統率されてそれぞれ「~部」という形に分けられている。
c.卑弥呼は妖(あや)しい術によって民衆を惑わしている、とわたしたち中国人に見えるが、それはかえってこの国の民衆の心にかなっているようだ。
d.臺与(たいよ)は、まだいとけないうちに即位したが、ちょうどそのとき多くの人々の(内乱終結)への望みをかなえ、やわらげた。
e.倭人は、身体にも顔にも入れ墨をしており、さらに呉(ご)の太伯(たいはく)の子孫だと称していた。
f.隋代には、倭国の王「阿輩雞弥(あはきみ)」は、自ら天児の称を名乗って上表してきた。
g.中国の「礼」「義」や「智」「信」といった徳目によって官職名をつけ、それを倭国内の官僚組織としている。
h.倭国の都は、ななめに伊都(いと)国に直接届き、その向こうに斯馬(しま)国が連なる、という地理的位置に存在している。
i.倭国は、後漢の中元年間(光武帝の末年)に金印紫綬の栄を受け、
j.魏の景初年間にあや錦をうやうやしく献上するといったふうに、中国の天子との淵源は深い。


いかがでしょうか?。
書かれている内容に多少の齟齬はあるものの、ほぼ整合性がとれていると言えるのではないでしょうか?。
そしてここに書かれていることは、
”北部九州を中心とした領域に国々があり、それらの国々を総称して倭国と呼んだ。それらの国々を治めていたのが、博多湾岸にあった邪馬台国(九州王朝)であり、その女王が卑弥呼や壹与であった。かつて「漢委奴国王」の金印を紫綬されたのも九州王朝の王である。

九州王朝の後の王が、倭の五王と呼ばれた王であり、「日出ずる処の天子」として隋の煬帝に国書を送ったのも、九州王朝の王であり、多利思北孤(たりしほこ)、阿輩雞弥(あほきみ)である。

一方、神武も九州筑紫の出身であり、大和へ都を遷した。
倭国から日本国へと国名が変わったが、その経緯はよくわからない。”

概略こんな内容です。
ここでいまひとつはっきりしないのが、大和へ都を遷したとしている神武天皇と、九州王朝の関係です。中国側も、倭国から日本国へと国名を変えた経緯について、疑いをもっています。
どうしてそうなったかというと、日本国の使者が明確に説明しなかった、あるいはできなかったからです。ここに、大きなポイントがあると言えます。

そのあたりを解明するには、今度は日本の史書、すなわち古事記、日本書紀なども研究する必要があります。それは今後のお楽しみということになりますが、だいぶ先になりますので、気の早い読者のためにとりあえず結論を先に言ってしまいます。

九州王朝は、7世紀まで続きます。一方、畿内に進出した神武天皇は大和で基盤を築き、次世代以降次第に勢力を増していきます。ただしあくまで九州王朝の一分派の位置づけです。
白村江の戦い(663年)で敗れた九州王朝は力を失い、代わって畿内勢力が台頭、ついに701年をもって九州王朝は消滅し、大和朝廷が日本を治めることになりました。”

図で示すと、このようなイメージです。


<前>倭国領域
倭国領域 (2) 
<後>倭国から日本国へ
倭国から日本国へ

このブログを以前から読まれている方にとっては、納得しうるストーリーでしょうが、初めて読まれた方にとっては、単なるトンデモ説の一つと思われた方も多いと思います。

これから、ひとつひとつ掘り下げてお話していきたいと思いますが、その前に、そもそも九州王朝がどのようにしてできたのか、次回からはそのあたりを探っていきたいと思います。


*当ブログにおいて、著作を数多く引用させていただいている古田武彦氏(元昭和薬科大学教授)が、
  去る10月14日に天寿を全うされました。謹んでご冥福をお祈りいたします。


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翰苑(かんえん)を読む (後編) ~ やっぱり日出ずる処の天子は北部九州にいた!

 後半です。原文を再掲します。

【原文】
a.憑山負海鎮馬臺以建都
b.分職命官統女王而列部
c.卑弥娥惑翻叶群情
d.臺与幼歯方諧衆望
e.文身黥面猶太伯之苗
f. 阿輩雞弥自表天児之称
g.因禮義而標秩即智信以命官
h.邪届伊都傍連斯馬
i. 中元之際紫綬之栄
j. 景初之辰恭文錦之献
 
【現代訳]
f.隋代には、倭国の王「阿輩雞弥(あはきみ)」は、自ら天児の称を名乗って上表してきた。
g.中国の「礼」「義」や「智」「信」といった徳目によって官職名をつけ、それを倭国内の官僚組織としている。
【解説】
f.倭国の王「阿輩雞弥(あはきみ)」とは、隋書倭国(原文は俀国 (たいこく))伝に出てくる多利思北弧(たりしほこ)のことです。
「自ら天児の称を名乗って上表した」とは、有名な「日出ずる処の天子」より、607年、隋の煬帝に国書を出したことを指しています。
「日出ずる処の天子」とは、推古天皇ではなく、まして聖徳太子ではありえないという話は、
「隋書倭国伝を読む その3 ~ 倭国王の多利思北孤(たりしほこ)とは推古天皇なのか?(2015/7/23号)」
「隋書倭国伝を読む その7 ~ 「日出ずる処の天子」と表現した理由とは?(2015/8/12号)」
でお話ししました。
g.徳目によって官職名をつける話も、隋書俀国 伝にありました。

【現代訳】
h.倭国の都は、ななめに伊都(いと)国に直接届き、その向こうに斯馬(しま)国が連なる、という地理的位置に存在している。
【解説】
さて、ここで倭国の都の位置、すなわち邪馬臺国の位置を示しています。
原文の「邪」は、「斜めに」の意味です。また、同じく原文の「連」とは、「間に国がある」ことを示しています。すると、現代訳に書いたように、
「ななめに伊都(いと)国に直接届き、その向こうに斯馬(しま)国が連なる」意味となります。
さて、以前のブログ
「魏志倭人伝を読む その2 ~ 邪馬台国までの道程 ここが長年の論争の天王山!(2015/4/26号)」
にて、魏志倭人伝の記載から倭国の国々の位置を推定しました。
ブログでは、帯方郡から伊都国さらに邪馬台国までの道程を示しながらでしたので、道程上にない斯馬国は示してません。では、斯馬国はどこにあったのか、ですが、
かつては、糸島半島の北側が斯馬郡、南側が恰土(いと)郡だったことから、斯馬国、伊都国の位置が、特定できます。
図に表すと、下図のとおりです。

邪馬台国位置

この地図をご覧ください。邪馬臺国から見て、確かに斜めの位置に伊都国があり、その向こうに斯馬(しま)国があるのがわかります。
翰苑の編者は、当然のことながら魏志倭人伝を念頭に置きながら、別の表現を用いて邪馬臺国の位置を示したわけです。
もちろん文字の解釈の違いから、異なる考え方をとる方もいますが、少なくとも邪馬臺国は、伊都国や斯馬国の近傍にあったことは動かし難いでしょう。
そうなると、邪馬台国畿内説は、とてもではないが成り立ち得ないことが、はっきりわかります。

【現代訳】
i.倭国は、後漢の中元年間(光武帝の末年)に金印紫綬の栄を受け、
j.魏の景初年間にあや錦をうやうやしく献上するといったふうに、中国の天子との淵源は深い。
【解説】
あの後漢の光武帝から、建武中元二年(57年)に金印を授けられた話です。金印は、九州博多湾岸の志賀島から出土しました。

志賀島から出土した金印
King_of_Na_gold_seal.jpg 

刻印
King_of_Na_gold_seal_imprint_1935.jpg


「漢委奴国王」と刻印されており、通常は「かんのわのなのこくおう」と読まれ、倭の奴(な)の国王に授けられた印とされてます。
それに対して、
本当は「かんのいどこくおう」と読むべきであり、委奴(いど)国王に授けられた印である。
さらに、

  委奴(いど)国
=委(い)国
=倭(い)国
 (邪馬(やまい)国の「壹」と同じ表音)
=大倭(たいい)国
=俀(たい)国 (邪馬(やまだい)国の「臺」と同じ表音)

である、とお話ししました。
詳しくは、
「隋書倭国伝を読む その1 ~ なぜ倭国伝(わこくでん)ではなく俀国伝(たいこくでん)なのか?(2015/7/13号)」
をご覧ください。

いずれにしろ、ここでは、金印を授けられたのは倭国であり、奴国という国名はどこにも出てこないことは注目すべきことです。
つまり、中国側にとっての相手国は倭国であり奴国ではなかったということが、ここからも明確になります。

そして最後に、倭国からの朝献について記載されています。景初の年号から、景初二年(238年)の卑弥呼による朝献を指していることがわかります。

以上で、翰苑は終わりです。
短い文章のなかに、1世紀から7世紀までの倭国すなわち九州王朝の歴史を、見事に凝縮して描いています。このような歴史的に見てもきわめて貴重な書物が、九州の太宰府天満宮に保存されていることは、ありがたいことです。
この点をもってしても、太宰府という地が、古代よりどれほど大切なところだったかがわかると思います。

そして最も大事なポイントは、金印授与から、卑弥呼、さらには「日出ずる処の天子」にいたる一連の話を、同じ王朝の話として捉えていることです。そしてその王朝の都は、必然的に北部九州ということになります。


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翰苑(かんえん)を読む (前編) ~ 日本人は古代中国周王朝の末裔だった!?

今回から、翰苑(かんえん)をみていきます。
翰苑は、中国の正式な史書である二十四史ではありませんが、編纂されたのが660年と古く、古代の蕃夷(ばんい)部のみが奇跡的に太宰府天満宮に残ってます。現在、国宝に指定されています。

【原文】
a.憑山負海鎮馬臺以建都
b.分職命官統女王而列部
c.卑弥娥惑翻叶群情
d.臺与幼歯方諧衆望
e.文身黥面猶太伯之苗
f. 阿輩雞弥自表天児之称
g.因禮義而標秩即智信以命官
h.邪届伊都傍連斯馬
i. 中元之際紫綬之栄
j. 景初之辰恭文錦之献

【現代訳(古田武彦氏による)】
a.倭国は、山をよりどころとし、海に接したところに、国の鎮めを置き、そこを「馬臺(またい)」と称して都を建てている。
b.官職を分って任命され、女王に統率されてそれぞれ「~部」という形に分けられている。
【解説】
わずか92文字のなかに、一世紀の金印授与から七世紀の白村江の戦い直前までの倭国を、簡潔明瞭に凝縮して表現しています。見事としか言いようがありません。
a.冒頭、倭国は「山をよりどころとし、海に接したところにある」とあります。この文ひとつをとっても、倭国の中心は、山に囲まれている畿内ではありえず、九州博多湾岸がふさわしいことがわかります。
その倭国の都である「馬臺」は「邪馬臺」を省略したもので、とは天子のいる宮殿を指し示す文字です。

b.女王とは卑弥呼や壹与を指していると思われますが、それ以外にも女王の時代があり、女王による統治も普通に行われていた可能性も示唆しています。また「官職を分けて統率する」は、魏志倭人伝には見られなかった表現です。

【現代訳】
c.卑弥呼は妖(あや)しい術によって民衆を惑わしている、とわたしたち中国人に見えるが、それはかえってこの国の民衆の心にかなっているようだ。
d.臺与(たいよ)は、まだいとけないうちに即位したが、ちょうどそのとき多くの人々の(内乱終結)への望みをかなえ、やわらげた。
【解説】
c.卑弥呼が「鬼道(きどう)に道(つか)えた」という、魏志倭人伝の話です。われわれ日本人にとっては、現代でも神社で巫女さんを目にするので、すんなりと入ってくる記載ですが、中国人にとっては異様に見えたのでしょう。その違いが、興味深いです。

d.卑弥呼の宗女である臺与が即位して国が治まった話です。なお、魏志倭人伝では、臺ではなく、壹の文字でした。それが、のちの時代に「壹→臺」と表記されるようになったわけです。邪馬国も、魏志倭人伝では、邪馬国でした。
そのあたりの事情は、
「魏志倭人伝を読む その5 ~ 倭の政治 いよいよ卑弥呼登場! 謎の国々とは?(2015/6/2号)」
でお話しました。

【現代訳】
e.倭人は、身体にも顔にも入れ墨をしており、さらに呉(ご)の太伯(たいはく)の子孫だと称していた。
【解説】
e.倭人は全身に入れ墨をしていたようですが、ここで驚くべきことを言います。
「自分たちは、呉の太伯の子孫だ。」
呉の太伯とは、中国周王朝の古公亶父(ここうたんぽ)の長男です。紀元前12-11世紀頃の人物で、呉の祖とされます。父である古公亶父が、跡継ぎを末子の季歴の子の昌(のちの文王)にしたいとの意向を知り、弟虞仲(ぐちゅう)とともに荊蛮の地(長江中流域の原住民に対する別称)へと向かいます。
後になって、周の者が二人を迎えにきたが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るのに相応しくない人物だとして、断りました。
そこで太伯が興した国がで、荊蛮の人々は、多くこれに従いました。(wikipediaより)

もし倭人の言うことが本当であれば、倭人は周王朝(紀元前11、12世紀頃-紀元前771年・東周)の末裔ということになります。となると、その流れをくむわれわれ日本人も、周王朝の末裔ということになります。なんとも興味深い話です。

もちろん倭人が本当のことを言っていたかはわかりません。自分たちの出自に箔をつけるために作り話をすることは、よくあります。しかしながら、この話を中国史書に載せたということは、少なくとも当時の中国人の間では、充分ありうる話と考えたのではないでしょうか。

ところで今までこのブログを読まれている方のなかで、似たような表現が魏志倭人伝のなかにあったのを覚えておいででしょうか?。
「昔からずっと、この国の使いは、中国へやってくると、みんな大夫だと自称していた」というくだりです。詳細は
「魏志倭人伝を読む  その3 ~倭の風俗 倭人は海洋民族だった!(2015/5/1号)」
を参照ください。
実は、この大夫とは、単なる日本の官職名ではありません。
「大夫とは、中国の周代から春秋戦国時代にかけての身分を表す言葉で、領地を持った貴族のこと」(wikipediaより)。
つまり、ここでの「呉の大伯の末裔」という話につながっています。

もうひとつ、この大伯の話のなかで、注目すべきものがあります。
「二人は髪を切り全身に刺青を彫った」との話です。
これは、現地の風習を受け入れることにより、周王朝のみならず、現地の住民に対しても覚悟を示した、ということでしょう。
そして魏志倭人伝に記載されているとおり、倭人には入れ墨の風習があったわけですから、呉と倭の間に何らかの関連があったと考えて差し支えないでしょう。

一般的にも、春秋戦国時代(西周滅亡の紀元前771年から紀元前221年の秦の始皇帝による統一までの550年間)に、中国中平原での戦乱を避けて、多くの人々が散らばり、日本を目指した人も相当いたと考えられています。

となると、

周(長安、現在の西安)
    ↓
呉(揚子江下流域)
    ↓
日本(北部九州)

と人が移動したとの説が成立する可能性も充分ありそうです。

図で表すと下図のイメージです。

周から呉・日本へ


なお、ここでいう呉とは、三国志の呉( 222年-280年)ではなく、春秋戦国時代の呉( 紀元前11世紀頃-紀元前473年)です。呉越同舟の熟語でおなじみですが、越との戦いの末、破れ、多くの難民が、逃れました。そのなかに、朝鮮半島を経由したりあるいは舟で直接日本を目指した人々もいたことでしょう。

では、それを実証できるのか?ですが、科学的なデータとして、
「古代揚子江下流域の古代人の骨と、北部九州、山口の渡来系弥生人の骨のミトコンドリアDNAが一致した」
との調査報告があります。
(1999年、中日共同調査団)

また、稲の日本への伝播ですが、温帯ジャポニカ米(水稲)については、DNA解析の結果、揚子江流域が原産であることが報告されています。

もちろんこうした調査結果だけでは単純に結論づけられませんが、ひとつの根拠にはなります。
科学的データについては、いずれ詳しくお話しします。


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新唐書日本伝を読む その6(最終回) ~ 大和朝廷(日本国)の本当の始まり

国内体制も安定し、律令国家が確立します。

【現代訳】
長安元年(701年)、日本の国王に文武が立ち、大宝と改元した。文武は、朝臣真人粟田(あそんまひとあわた)を遣わして、日本の産物を唐に朝貢させた。朝臣真人とは、ちょうど唐の尚書(しょうしょ)のような役である。粟田は進徳冠(しんとくかん)をかぶり、冠の頂には四本の花飾りがあり、紫の上衣を着、白絹の帯をしめている。真人は学問を好み、文章を書き連ねることができ物腰が美しかった。則天武后は彼を麟徳殿(りんとくでん)に招いて宴を開き、司膳卿(しぜんけい)の位を授けたうえで帰国させた。
文武が死ぬと、その子の阿用(あよう)が位を継いだ。
元明(げんめい)が死ぬと、その子の聖武が位を継ぎ、白亀(はくき)と改元した。
開元年間(713-741年)の初め、粟田は再び来朝し、唐の儒者たちから経書の額を教えてもらいたいと願い出た。そこで帝は、四門助教(しもんじょきょう)の趙玄黙(げんもく)に、鴻臚寺(こうろじ)に出向き、粟田の指南役になってやるようにと詔(みことのり)した。粟田は趙に大幅の布を献じて弟子入りの礼とし、帰国する時ぬは、唐朝から贈られた物をすべて書物に換えて持ち帰った。
粟田の副使として来朝した朝臣仲満(なかまろ)は、中国を慕って帰国を承知しなかった。彼は姓名を中国風に変えて朝衡(ちょうこう)と名乗り、左補闕(さほけつ)・儀王(ぎおう)の学友を歴任し、広く知識を備え、長期間滞在したのちにやっと帰国した。
聖武が死んで、その娘の孝明が位を継ぎ、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)(749年)と改元した。
天宝十二年(753年)、朝衡は再び来朝し、そのまま住みついて、上元年間(760-762年)には、左散騎常侍(ささんきじょうじ)・安南都護(あんなんとご)に抜擢された。
【解説】
701年に、あの有名な大宝律令が制定されるとともに、年号が大宝に定められます。
すでに九州王朝(倭国)は、白村江の戦いで破れ疲弊して没落し、それに代わり大和朝廷(日本国)が、実権を握っていきます。その実権を完全掌握したのが、701年です。
古田武彦氏は、701年を「ONライン」と名付けています。つまり、OLD(倭国)からNEW(日本国)へ変わる境目という意味です。
それを内外に高らかに宣言したのが、大宝律令の制定と大宝という年号開始というわけです。

引き続いて、朝臣真人粟田(あそんまひとあわた)の話になります。旧唐書にも出てきましたが、破格の扱いです。私たちにとっては、のちほど出てくる 阿部仲麻呂の方が有名ですが、彼をしのぐ賞賛ぶりです。
ちなみに朝臣真人粟田とは、唐より帰国後、その知見を活かして藤原不比等らとともに大宝律令の編纂にかかわるなど、大きな功績を挙げ、大宰帥も歴任、正三位になってます。

朝臣真人粟田
粟田真人

【現代訳】
当時、新羅が海路を封鎖したので、日本は航路を変更して明州(めいしゅう)・越州(えっしゅう)経由で朝貢するようになった。
日本では孝明が死に、大炊(おおい)が位を継いだ。淳仁が死ぬと聖武の娘の高野姫(こうやひめ)を王とした。高野姫が死ぬと、白壁(しらかべ)が位を継いだ。
建中元年(780年)、日本国の使者の真人興能(まひとおきよし)が国の産物を献上した。真人とは、おそらく官名を氏(うじ)とした者であろう。興能は書にすぐれており、彼の用いる日本産の紙は、蚕の繭に似てつやがあり、唐の人は初めて目にするものであった。
貞元年間(785-805年)の末、日本国王は桓武といい、使者を遣わして来朝させた。使節団の中にいた学士の橘逸勢(たちばなのはやなり)と仏僧の空海は、そのまま唐に残留して学問を習得したいと望んだ。それから二十年以上たって、日本国の使者の高階真人(たかしなのまひと)が来朝した(806年)。そして橘逸勢たちと一緒に帰らせてほしいと願い出た。憲宗(けんそう)は「よろしい」と詔した。
桓武の次に諾楽(なら)が位を継いだ。その次は嵯峨(さが)、その次は浮和(ふわ)、その次は仁明(にんみょう)である。仁明は、開成(839年)にまた唐に入貢した。その次は文徳(もんとく)、その次は清和(せいわ)、その次は陽成(ようぜい)である。その次の光孝(こうこう)が即位したのは、わが光啓(こうけい)元年(885年)にあたる。
【解説】
歴代天皇の話が続きます。この時代になると、事実関係もしっかりとしてきますので、さらりと流すことにします。
細かい話になりますが、真人興能がもっていった紙が「蚕の繭に似てつやがあり、唐の人は初めて目にするものであった」とあります。日本での紙づくりは、日本で始まったとの説と、中国・朝鮮より伝わったと説があります。いずれにしろ、当時の技術先進国である中国の人が驚くほどの紙製造技術をもっていた、というのは驚きです。当時から、様々な技術を取り入れながら改良していく技術立国であったことを示していると言えますね。

【現代訳】
日本国の東海の島々の中には、邪古(やこ)・波邪(はや)・多尼(たに)の三つの小国の王がいる。日本国の周囲は北は新羅と海をへだて、西北は百済と海をはさんで向いあい、西南は越州(えっしゅう)の方角にあたる。日本には絹糸や綿を産し、珍しい物があるということである。
【解説】
最後に、総論的な話になります。
三つの国がどこなのかはわかっていませんが、表音から邪古(やこ)は屋久島、波邪(はや)は隼人つまり九州南部、多尼(たに)は種子島とも言われています。
ここであえて3つの国名を挙げ、国王がいる、とまで言っているということは、ウラを返せば日本国に完全には服属していなかったということでしょう。

以上で、新唐書日本伝は終わりです。

これまで中国王朝の正史として、二十四史を順に紹介してきました。次に宋史があるのですが、だいぶ時代が下ってから編纂されたものであり、日本古代史からみた同時代史とは言い難いので、新唐書までとします。今後、必要に応じて随時取り上げることとします。

実はもうひとつ、二十四史ではありませんが、同時代史として価値のある史書「翰苑(かんえん)」があります。次回は、その翰苑を読んでいきます。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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