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三国史記新羅本記を読む その2 ~ 卑弥呼は超長生きだった?

続きです。

【現代訳】
6.倭国と好誼を結んで、たがいに訪問しあった。<59年5月条>
7.倭人が木出島を侵した。(脱解)王は、角干(かくかん)の羽烏(うう)を遣わして、防御させた。戦いに敗れて羽烏は戦死した。<73年条>
8.倭人が東辺を侵した。
9.大風が東方から吹き寄せて、木を折り、瓦を飛ばした。夕方になって収まった。都の人が、倭兵が大挙してやって来ると流言したので、(人々は)山や谷に争って逃げた。(祇摩)王は、伊滄(いさん)の翌宗(よくそう)らに、これを諭させ止めさせた。<122年条>
10.倭国と講和した。<123年条>
11.竹嶺(の路)を開いた。倭人が来訪した。<158年条>
12.倭の女王卑弥乎が、使者を遣わして来訪させた。<173年条>

【解説】
倭国との間で講和したり、戦ったり、を繰り返します。
そして173年に、卑弥乎が使者を遣わしてきた、とあります。「卑弥乎」=「卑弥呼」は、まちがいないでしょうが、問題は、その年です。173年とありますね。魏志倭人伝によると、卑弥呼が、魏に使いを出したのが、238年です。詳しくは、
「魏志倭人伝を読む その6 ~ 倭の政治 卑弥呼の使いに魏の皇帝が感動した理由は?」(2015/5/16号)
をご覧ください。
そして最大のライバル国である狗奴(くな)国との戦いが、247年です。詳しくは、
「魏志倭人伝を読む その7(最終回) ~ 倭の政治 卑弥呼最後の戦い! 死して壹与が立つ」(2015/5/22号)
をご覧ください。
狗奴国との戦いののち、卑弥呼死すとあります。卑弥呼が死去した年を翌年の248年とすると、少なくとも
248年-173年 = 75年間
もの長きにわたって、邪馬台国の女王として、君臨したことになります。女王になったのが幼少の頃として、仮に10歳としても、
10 + 75 = 85 歳
まで生きたことになります。当時の平均寿命は、せいぜい40歳前後と言われてますから、たいへんな長生きだったことになります。

ここで再び魏志倭人の記載に注目してみましょう。卑弥呼を描写した箇所を読み下し文にしますと、
「鬼道(きどう)に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす。年、已(すで)に長大なれども、夫壻(ふせい)なし。男弟有りて国を佐(たす)け治む。王と為りて以来、見(まみ)ゆること有る者少なし。婢千人を以って自ら侍らしむ。」
とあります。あまりにも有名な文章です。
これをそのまま読むと、密室で妖しげな呪術を使い、人びとを幻惑する老婆の姿をイメージしてしまいますよね。

一方、これらの一般的な説に対し、古田武彦氏は異なる説を唱えています。
”「年、已に長大なれど」とは、三十代半ばとの意味であり、また、新羅に出した遣いも、178年ではない”
との説です。これも面白い説なのですが、話が複雑になるので、今回はここまでにしておきます。
ここでは、「173年に倭の女王卑弥乎が、使者を遣わして来訪させた」という記載があることを、頭の片隅にいれておいていただければと思います。

中国人使者が見た卑弥呼は、妖しげな呪術で人々を幻惑する八十過ぎの老婆だったのか、それとも三十代半ばの妖艶な女性だったのか・・・?


<卑弥呼想像図>
himiko.jpg
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三国史記新羅本紀を読む その1 ~ 新羅第四代国王脱解(だっかい)の出身地である多婆那(たばな)国とはどこにあったのか?

これまで、中国史書、資料を読んできました。外国の史書としては、他にも朝鮮の「三国史記」「三国遺事」などが、日本について記載してます。
今回は、「三国史記」を読みます。「三国史記」とは、
”高麗17代仁宗の命を受けて金富軾らが作成した、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。朝鮮半島に現存する最古の歴史書である。1143年執筆開始、1145年完成、全50巻。”(WIKIPEDIAより)
編纂された時代は、12世紀とやや新しくなりますが、かなり詳しく書かれており、参考になります。
まず、新羅本記です。訳は、「三国史記倭人伝 他六篇 朝鮮正史日本伝Ⅰ」(佐伯有清編訳)からです。

【現代訳】
1.倭人が軍隊をつらねて、辺境を侵犯しようとした。始祖(赫居世)には、神の威徳があると聞いて、引き返していった。
2.  瓠公(ここう)を派遣して馬韓を訪れさした。馬韓の王は、瓠公を責めとがめて、「辰韓と卞(べん)韓の二韓は、私の属国なのだ。(にもかかわらず)毎年、貢物を送ってよこさぬ。大国に仕える礼儀は、そのようなものではないではないか」と言った。(瓠公は)答えて、「我が国は、二聖(始祖赫居世と妃閼英(あつえい))が国を建ててから、世の事柄は治まり、天候は不順で、穀倉は充ち、人民は敬い譲り合っている。辰韓の遺民より卞韓・楽浪・倭人に至るまで、敬い懐(なつ)かないものはない。それでもわが王は謙虚であって、下臣を遣わして修交しようとしたのである。礼儀に過ぎたことと謂うべきであろう」と言った。そこで(馬韓の)大王は、激しく怒って、武器で脅かした。(瓠公は、)「これはどういう意味なのか」と言った。(馬韓の)王は、怒って瓠公を殺そうとした。近臣は諌めとどめた。そこで帰国を許されたのであった。
3.瓠公は、その族姓が詳(つまび)らかではない。もとは倭人であって、はじめは瓠(ひさご)を腰につけて、海を渡って来たのである。だから瓠公といった。<BC20年条>
4.倭人が、兵百余艘をくり出して、海辺の民家を略奪した。六部の強力で勇敢な軍隊を出して、防御した。

【解説】
冒頭から、倭人が侵犯してくる話ですが、この類の話は非常に多く出てきます。ということは、頻繁に起こっており、新羅は常に倭に対して脅威を感じていたことでしょう。
ここで、瓠公(ここう)の登場です。瓠公とは、”新羅の建国時に諸王に使えた重臣で、新羅の王統の始祖の全てに関わる、新羅建国時代の重要人物です”(wikipediaより)。彼が「腰に瓢(ひょうたん)をつけて、倭からやってきた」とあります。「海を渡ってやってきた」とあることから、日本出身ということになります。


【現代訳】
5.脱解は、もとは多婆那国の生まれであった。その国は、倭国の東北一千里にあった。<脱解尼師今即位前紀>

【解説】
脱解(だっかい)とは、新羅第4代の王である脱解尼師今(だっかいにしきん、在位57-80年)です。その脱解が、倭国の東北1千里にある多婆那(たばな)国からやってきた、とあります。問題は、その多婆那国は、どこにあったのか?、です。さまざまな説がありますが、ここでも古田武彦氏が、納得感のある説を、提唱しています。以下、「倭人伝を徹底して読む」(古田武彦著)からです。

"『三国史記』つまり新羅・高句麗・百済三国の歴史を書いた朝鮮半島最古の史書の書き方では、倭国の東北一千里という場合は、多婆那国は「倭国」の一部分なのであって、「倭国」とは別国ではないのです。これと同じような例は、他にいくつも出てきます。だから脱解も、いってみれば「倭人」です。「倭人」の中でも「多婆那国の人」であるということです。「倭人」というのは、非常に広い概念なのです。
この(a)(b)から言えることは、新羅第四代は、国王が「倭人」であり、宰相も「倭人」であるということです。すると先ほどの『三国志』魏志韓伝の(4)で、辰韓人というのは男女とも倭に近しと書いた陳寿の暗示は、ズバリ当たっていることになります。国王も「倭人」、宰相も「倭人」というのですから関係が深くなければおかしい。ですからこの段階の新羅という国は、「倭人」とか「穢*人」「韓人」が寄り集まって一つの国をつくっていたようで、その中で「倭人」の占めている比重はかなりのものだったと思われます。そうでなければ国王と宰相の地位を「倭人」が占めることはできないはずです。"

たしかに、新羅第四代国王(脱解)も倭人、宰相(瓠公)も倭人となれば、当時の朝鮮半島は、韓人、穢人、倭人が入り混じって生活してたと考えてよいでしょう。先を読みます。

"ついでながら、多婆那国というのはどこかということについて結論だけのべておきます。いまの福岡県の遠賀(おんが)川下流から関門海峡一帯であろうとわたしは考えています。というのは、倭国は、博多湾岸を原点と考えていますから、そこから東北一千里というと、ちょうどこの一帯となるからです。ただしこの場合の里程には、長里と短里があって、長里の場合、一里が四三五メートル、短里(周朝代に短里が行われ、そのあと魏朝がこれを復活し西晋朝まで受け継いだ)が七六~七七メートルの間、約七七メートルです。『三国志』は、この短里で書いてあるとわたしは見ています。もしこれを長里で考えると、この話は、全く成り立たない。博多を原点にしてそこから東北へ一千里とすると出雲では止まらず、但馬から舞鶴、下手をすると能登半島まで行ってしまうからです。
なぜそれがだめかというと、脱解の話にはその続きがあります。脱解は、多婆那国王と妃の間に生まれたが、「卵」で生まれました。人間の形ではなかった。母親はこれを大変いとおしんだけれども、父親はこんなものはみっともない、壊してしまえという。母親は壊すにしのびずそっと舟に乗せて沖合に流した。それが最初に金官国(いまの釜山の近辺)に流れ着いた。金官国の人は、こんな不思議なものがと気味悪がってまた沖合へ流した。そのあと新羅の都慶州の海岸に流れ着き、そこで老夫婦に拾われ、持って帰って床の間に置いていたところ、卵から男の子が生まれた。大変美男子で賢く、大きくなって新羅の朝廷に仕えるようになり、二代目の国王に見込まれ、その娘と結婚し、四代目の国王になるというのです。こんなことはありうる話ではありませんが、それを語る人がおり、語られる人がいるのですから、語る人と語られる人の地理感覚に合っていない話というのは、成立しえないのです。つまりいまのようにただ単に沖合に(漕ぐ人がいれば別ですが)流れ着くといっても、多婆那国からその沖合へ流したら金官国へ着き、そこからまた流したら慶州へ着くという、そういう海の知識を持っていなければ、いいかえれば語る人と語られる入が「共通の約束事」を持っていなければ、こういう話は成立しないのです。たとえ「ウソ話」でも「おとぎ話」でも、成立しない。とすると、この海の知識というのは、海流です。対馬海流が西から東へ流れているということだけではこの話は絶対成立しない。東鮮暖流をぬきにしては語れないのです。つまり対馬海流は、壱岐・対馬のあたりで二つに分かれます。その一つが東鮮暖流で、これはウラジオストックの方から下りて来た寒流と朝鮮半島東岸部の中ほどでぶつかり、東へ向い、その一帯(竹島付近)は魚の宝庫になっています。
金錫亨氏も倭国博多説で、この問題に関しても博多を前提にして出雲説を出しておられます。朝鮮半島の人が『三国史記』や「魏志」に出てくる「倭国」を“博多あたり”だというのは、そう考えないと辻棲が合わない事件や説話がたくさん出てくるからです。別に論証はされていませんが、常識的な判断から倭国というのは博多付近として扱われています。金氏は、その東北だから出雲であろう、と論じておられるわけです。
しかしわたしは、その方角はいいけれども、長里で千里では舞鶴か能登半島近くへ行ってしまって出雲ではとまらないし、また短里では出雲まではいかない。関門海峡近辺どまりです。また短里だと博多湾岸から遠賀川の下流、関門海峡あたりまでが千里になります。なお大事なことは、出雲だとしたら、そこから卵だけを乗せた無人の舟を沖合に流しても釜山へ流れ着くことはまず無理だと思われることです。風などのこともあって、絶対とはいえませんが、常識的に見て難しい。とすると、この話はどうしても、遠賀川の下流域から関門海峡近辺ということになります。ここからだと東鮮暖流に乗ることができます。もちろんこの場合でも、もう一つ風がプラスしなければなりません。というのは、冬は風が北から南へ吹くので出雲へ行く可能性が強いのですが、春から夏にかけては北に向かって風が吹くので東鮮暖流の方に乗る可能性が強いからです。このようにシーズンによってもちがってきます。
また関門海峡は、潮の干満によっても流れが変わります。瀬戸内海に流れ込む時間帯と、逆に流れ出る時間帯がある。この流れ出る時間帯に流せば、卵を乗せた舟は東鮮暖流に乗りやすい。とすると、卵を乗せた舟が、「釜山→慶州」に流れるのに合う時期は、春夏の季節で、しかも関門海峡の潮の流れが外へ流れ出る時間、ということになります。したがって多婆那国は、大体この関門海峡あたりにあったとわたしは理解しています。
こうしてみていくと、この『三国史記』に出ている「倭国」も、実は、第一次の「チクシ倭国」であるということがいえます。これを「ヤマト倭国」にしたらどうなるか。「大和倭国」から東北一千里というと新潟か山形の方へ行ってしまいます。そこから卵を乗せた無人の舟が釜山へ流れ着くというのは、奇跡に近いでしょう。"

多婆那国の位置について考察しています。結論として、遠賀川の下流域から関門海峡近辺としてます。その根拠としては、倭国の中心が博多湾岸であり、そこから東北1千里にあたるからです。その際のポイントは、長里、短里という距離の単位ですが、ここは議論が分かれるところなので、詳細はあらためてお話しします。もう一つの根拠が海流です。こちらは、下の図をみれば合点がいきます。

紀元前後の朝鮮半島

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三国志魏志東沃祖(とうよくそ)伝を読む ~ 海流が解き明かす昔話とは?

今回は、東沃祖(とうよくそ)伝を読みます。倭に関するところを抜粋します。

現代訳】
東沃祖は、高句麗の蓋馬大山(がいまだいさん)の東の大海のほとりに住んでいる。土地の形は東北に狭く、西南に長く、千里くらいである。北方は挹婁(ゆうろう)・夫余(ふよ)と、南方は濊貊(わいぱく)と地つづきである。戸数は五千戸で、大君主は無く、代々、村を作っていてそれぞれの村に長がいる。その言語は高句麗とほぼ同じで、たまに違うところがある。

【解説】
冒頭は、いつもどおり国の所在です。戸数五千戸とあり、人口も少なかったようです。また、大君主がいない、とあり、国を束ねる王のような存在はいなかったようです。


【現代訳】
・・(中略)・・魏の将軍王頎(おうき)、別働隊として派遣されて、(高句麗王の)宮(きゅう)を攻めたとき、北沃祖の東の境をきわめた。そこの年寄りに、「海(日本海)の東に、またさらに住んでいる人がいるのかどうか」
と聞くと、年寄りが言うには、
「北沃祖の者が船で魚を取っていたとき、大風にあって何十日も吹き流され、東の島にたどり着いた。島には人がいて、言葉が通じなかった。そこの習慣では、毎年七月に少女を海に沈める」

【解説】
ここからの話は、さっと読むと、何を言っているのかよくわからず、おとぎ話の世界かな、程度に思えます。ところが、古田武彦氏によれば、これらは極めてリアルな話になります。以下、「倭人伝を徹底して読む」(古田武彦著)から引用します。なお書籍ではこの話を穢伝としてますが、東沃祖伝の誤りと思われますので、東沃祖の話と修正してます。

"東沃祖 の人が、船に乗って魚をとっているときに、風に遭い、数十日漂って、一つの島に流れ着いた。これは先ほども言いましたように、北の方から北鮮寒流が下がってきて東鮮暖流とぶつかる、その海域では魚がよく獲れます。そこへ東沃祖人たちは、漁に出ていた。ところが荒天で遭難、数十日漂った後、ある一つの島に流れ着いたというわけです。そこはどこかわかりませんが、日本列島の日本海岸であることはまちがいありません。そこでは七月に人身御供の少女を海に沈めていた。これもリアリティーあふれる記事です。実際日本海側でこういう風習、伝承が残っているところがあります。海神を鎮めるために部落の者を人身御供として海に沈めていた。そこへ異人が流れてきたので、部落の者の身代わりに海に沈めた。しかし全然関係のない、よその人を犠牲にしたという良心の呵責(かしゃく)に耐えられず、その霊を祀るためにこの祠をつくったという類の伝承が、日本海側ではいくつか残っているのです。だからこの『三国志』「東沃祖伝」の記事は全くの作り話とは思えない。こうしたことは日本海側だけではありません。太平洋岸でも、例の日本武尊が東征のとき、走水海で海神の怒りをなだめるため尊に代わって弟橘媛が海に身を投じた話があるように、いわば日本列島では各地で人身御供の習俗があったのです。そういう問題もふくんでいます"


なぜ海流の話が出てくるのかというと、海流がこれからの話のポイントだからです。図示します。

朝鮮半島海流

そして、意味のよくわからなかった「少女を海に沈める」話も、残酷な話しではありますが、人身御供の話と捉えれば、理解できます。


【現代訳】
さらに年寄りが言うには、
「もうひとつの国が海中にあり、そこは女ばかりで男はいない」

【解説】
"海中というは、日本海の中ということでしょう。そこに女だけの国があると。これも案外リアリティーがあります。というのは、福岡県宗像(むなかた)の沖ノ島瀛津嶋(おきつしま)姫、湍津(たきつ)姫、田心(たごり)姫という天照大(あまてらす)神と素戔嗚尊(すさのおのみこと)のうけひ(誓約)で生まれた三女神が祭られているからです。
現在は、宗像神社の神官が交代で島へ渡って勤めておられますが、昔はそうではなかったと想像されます。女の島であった時期もあったのではないかと思うのです。宗教的な意味において、女しか立ち入ることができない島というのがありえても不思議ではない。現在は反対に女が入ると三女神が嫉妬するというので、女人禁制になっていますが。あるいはまた、大分県の国東(くにさき)半島の沖合にある姫島も女神の島であった可能性がありますし、広島県の厳島(いつくしま)も三女神の島です。面白いことにここでは子どもを宮島で生むと汚れるというので、島を出て生まなければならないことになっていますが、とにかくそんなタブーをもった女神の島というのが日本列島の各地にあります。"

今でも女人禁制すなわち「男だけの島」があるのですから、かつて「女だけの国」も、実在した可能性はあるでしょう。しばしばメディアでも取り上げらる沖縄の久高(くだか)島。ノロといわれる神女、シャーマンがいることでも有名で、「神の島」と言われています。島の聖地をウタキ(御嶽)と呼んでいますが、第一の聖地であるクボーウタキは、今でも男子禁制です。同様の話は、古代日本の各地に多数あったのではないでしょうか?。

12年に一度行われる秘祭イザイホーの様子です。
イザイホー

【現代訳】
更に年寄りが言うには、
「一人の庶民を引き上げたことがある。海上を漂ってきたものであった。身につけている服は、中背の人の服の大きさほどであったが、両袖の長さが三丈もあった。それから難破船を手に入れたこともある。波にもまれて岸辺に寄ってきたもので、その船の中に一人、首筋の後ろ正面に別の顔のあるものがいた。彼を生け捕りにしたが、言葉が通ぜず、物を食べずに死んでしまった」
これらの地は、どれも沃祖の東、大海の中にある。

【解説】
"これも非常に哀れな話です。端的にいえば、「シャム双生児」といって、胴体が一つで頭が二つという不幸な奇形児だと思うのですが、それが船に乗せられて流されて来た。彼は言葉はしゃべるけれども、東   沃祖人にはわからない。食料を与えても食べずに死んでしまったという話です。簡潔な文章です、が、あまりにもリアリティーのある表現で、胸の痛む思いがします。しかもこれと対応する習俗が、やはり『古事記』に書かれているのです。
然れども久美度(くみど)に興(おこ)して生める子は、水蛭子(ひるこ)。此の子は葦船に入れて流し去りき。(『古事記』二神の結婚)。
不具の子が出来たときは、葦船に乗せて水に流すという習俗があったことを、この神話は語っています。これも中心地は、壱岐・対馬あるいは博多湾岸のようにわたしには思えます。そこから流すと東鮮暖流に乗れる、地理的な位置になるからです。"

古田氏のように解釈すればかなしい話になりますが、かつてこのような風習があった可能性はある気はします。ここでも海流の話が出てきます。海流を考えると、この話の舞台は日本それも九州北部である、ということになります。

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三国志魏志濊(わい)伝・韓伝を読む 後編 ~ アイアン・ロードとは? 

 続いて後編です。

【現代訳】
・・・(中略)・・・
建安年間(196-220年)には、公孫康(こうそんこう)楽浪郡の屯有県(とんゆうけん)以南の荒地を分割して帯方郡を新設した。また、公孫模(こうそんも)・張敞(ちょうしょう)らを帯方郡に派遣して、漢の遺民を終結させて、軍隊を組織し、韓・濊を征討させた。そのため、韓・濊の諸国に住んでいたもとの漢の郡県の支配下にあった人々が、少しずつ出てくるようになった。
このあとで、倭も韓も帯方郡に所属するようになったのである。

【解説】
公孫康とは、
"中国後漢末期から三国時代にかけての群雄。幽州遼東郡襄平県の人。家系公孫氏。父は公孫度。弟は公孫恭。子は公孫晃公孫淵建安9年(204年)、父の後を継いで太守となった。
年、楽浪郡18城の南半分である屯有県(現在の黄海北道黄州か)以南を裂いて帯方郡を設置し、韓やまで勢力を広げた
建安12年(207年)、烏桓の大人(単于)楼班と袁煕袁尚兄弟らが曹操に追われ遼東郡に逃れてきた時、袁尚らがいることを理由に曹操が攻めてくる事を恐れ、楼班をはじめ袁煕・袁尚らを殺し、その首を曹操へ差し出した。これにより、曹操から襄平侯・左将軍に任命された。"
です。(wikipediaより)
あの卑弥呼が、魏に使いを出した238年頃に、帯方郡を支配していた公孫淵の父親です。興味深いのは、その頃は、倭は、韓とともに、帯方郡すなわち公孫氏に属していた、とあることです。古代から必ずしも、一貫して中国王朝に属していたわけではないことになります。



【現代訳】
の景初中(237-239年)、明帝(めいてい)は密かに帯方太守劉昕(りゅうきん)と楽浪太守鮮干嗣(せんうし)を派遣して、海を渡って帯方・楽浪の二郡を平定させた。そして諸韓国の国王たちである臣智(しんち)には邑君(ゆうくん)の印綬を賜い、次位の者には邑長(むらちょう)の印綬を下し与えた。一般の風習としては、衣服と頭巾を好み、庶民が楽浪郡や帯方郡に来て挨拶するときは、みな衣服と頭巾を借りて身につける。自分で印綬や衣服・頭巾をつける者は千人以上もいる。
魏の部従事(ぶじゅうじ)の呉林(ごりん)は、楽浪郡がもともと韓の諸国を統轄していたという理由で、辰韓のうち八国を分割し、楽浪郡に編入した。その際、役人の通訳に、話の違うところがあった。臣智は諸韓国の人々をも奮激させて怒り、帯方郡の崎離営(きりえい)を攻撃した。当時の帯方郡太守の弓遵(きゅうじゅん)と楽浪郡太守の劉茂(りゅうも)は、軍隊を編成して韓族を討伐した。弓遵は戦死したが、
帯方・楽浪の連合軍はとうとう韓族を制圧してしまった。

【解説】
公孫淵に支配されていた帯方郡を、魏が奪いとる話(238年8月)を具体的に描いています。まさにこの直前に卑弥呼が、魏に使いを出しました(238年6月)。そして最終的に「辰韓のうち八国を分割し、楽浪郡に編入した。」のですが、その理由を「楽浪郡がもともと韓の諸国を統轄していた」としています。これは暴挙です。もしこうした理由で併合が可能なら、朝鮮半島のほとんどの部分は、漢の四郡の下にあったから同じように、併合可能になってしまいます。
では、なぜ中国はそのような暴挙に出たのでしょうか?。単に領土拡張のためだけでしょか?。


【現代訳】
・・・(中略)・・・
弁辰(べんしん)の土地は肥沃で、五穀や稲をつくるのに適している。蚕を飼い桑を植えることを知っており、縑布(けんぷ)を作り、牛馬に乗ったり車を引かせたりしている。婚姻の際の礼儀風習は、男女の区別がなされている。死者を送るときは、大鳥の羽を飾る。その意味は、使者をその大鳥の羽で天へ飛翔させようとするものである。弁辰の国々は鉄を産出し、韓・濊・倭の人々はみなこの鉄を取っている。いろいろな商取引にはみな鉄を用い、中国で銅銭を用いるのと同じである。またこの鉄は帯方・楽浪の二郡にも供給されている。

【解説】
このなかで注目すべき記載は、「弁辰の国々は鉄を産出し、韓・濊・倭の人々はみなこの鉄を取っている。」です。当時弁辰は、朝鮮半島における鉄の最大の産地であったことはよく知られています。その鉄を、周辺の韓、穢、倭の国々が、先を争うように取りにきていたわけです。そして、「いろいろな商取引にはみな鉄を用い、中国で銅銭を用いるのと同じである。」とある通り、当時の鉄は貨幣の役割を果たしているきわめて貴重なものだったわけですから、その争奪戦もたいへんなものであったことでしょう。

このあたりの事情から、古田武彦氏は、「当時の朝鮮半島での戦いは、資源そのなかでも特に鉄を確保するためのものだった」と分析してます。さらに、いずれお話しますが、「高句麗の広開土王(好太王)と倭国の戦いも、この鉄をめぐる戦いではなかったか」として、朝鮮半島を南北に縦断するルートを、シルクロードをもじってアイアン・ロードと名付けています。なかなか面白い発想です。
確かに、戦争といっても単なる領土拡張だけではたいしたうま味がないわけで、そこに何かの資源があるなど何らかのメリットがあったからこそ、軍隊を派遣し人民を犠牲にしてまで、戦う意味があったと言えます。詳細は、「よみがえる卑弥呼(古田武彦著)」を参照ください。

アイアン・ロード図です。
アイアン・ロード


【現代訳】
弁辰の風俗としては、歌舞や、飲酒を好む。筑(ちく)に似た形の瑟(しつ)があって、これで弾く音曲もある。子供が産まれると、石でもってその頭を圧迫し、平らにしようとする。それで、今、辰韓の人はみな扁平な頭をしている。男女の風習は倭人のそれに近く、男女ともに入れ墨をしている。戦闘では歩戦し、兵器は馬韓と同じである。弁辰の習慣では、道で人に行き会えばみなとまって路をゆずる。
弁辰は、辰韓の人と入り混じって生活している。また城郭がある。衣服や住居などは辰韓と同じである。言葉や生活の規律はお互いに似ているが、鬼神の祭り方は違っている。竈(かまど)はみな家の西側につくっている。弁辰の瀆蘆(とくろ)国は、と隣り合っている。弁辰の十二国にはそれぞれ王がいる。弁辰の人は、みな背が高い。衣服は清潔で、髪は長くのばしている。また広幅の目の細かい布を織ることができる。規律は大変厳しい。

【解説】
筑(ちく)、瑟(しつ)とも、日本の筝(そう)に似た中国古代の弦楽器です。弁辰の風習は、全体として、倭と近いとあります。そして、弁辰の瀆蘆(とくろ)国は、倭と隣り合っている。」とあり、ここからも、弁辰と倭が陸地で接していたこと、すなわち倭が朝鮮半島南部に領土をもっていたことがわかります。

<注>
なお、上記の話と現代における領土問題とは、まったく別の話です。あくまで当時の資料を読み解くとこのような解釈となる、という古代史学上の話です。念のため・・・。


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三国志魏志濊(わい)伝・韓伝を読む 前編~ 中国が朝鮮半島を南下した結果・・・?

前回・前々回と、三国志魏志東夷伝の序文を読みました。今回は、同じ東夷伝のなかの、濊(わい)伝韓伝を読んでいきます。長文になるので、倭に関するところだけを、抜粋して取り上げます。現代訳は、「倭国伝(藤堂明保・竹田晃・影山輝国訳)」によります。まず濊伝からです。

【現代訳】
朝鮮の東海岸に住む濊(わい)の国は、南は辰韓(しんかん)と、北は高句麗・沃祖(よくそ)と境界を接し、東は海となっている。今の朝鮮の東の地のすべてが濊の国である。戸数は二万戸である。
昔、殷(いん)の貴族である箕子(きし)が朝鮮に行き、国をつくり、八条の教えをこしらえて民に教えた。門にかんぬきをおろさなくても、人民の中で盗みをするものはいなかった。
その後、王が四十代替わり、朝鮮候の準(じゅん)が、自分勝手に王と名乗った。秦(しん)末に陳勝たちが蜂起して、天下の人々が秦にそむいた(前209年)。燕(えん)・斉(せい)・趙(ちょう)の人民で戦乱を避けて、朝鮮に逃げた人は、数万人もあった。燕の出身で、衛満(えいまん)という人が、さいづちまげを結い、朝鮮族の服装をして、この人々の王となった。漢の武帝が朝鮮半島を攻めて滅ぼした時(前108年)、その地方を漢の領土として四つの郡を置いた。これから後、胡(こ)族と漢族とは分れて住むようになった。・・(以後略)・・・

【解説】
殷(いん)の箕子(きし)が、朝鮮に行き、その民を教化した話は、以前のブログで紹介しました(箕氏朝鮮、BC12世紀-BC194年)。詳しくは
「漢書地理志の中の倭人 ~ 孔子は日本にあこがれていた!?」(2015/11/12号)
を参照ください。
その後の話です。秦の始皇帝が死去し(BC210年)、配下の陳勝が蜂起し(陳勝・呉広の乱)、最終的に国王となり、国名を張楚と定めます。その動乱で、多くの民が朝鮮に逃れました。その中の一人が燕の衛満で、朝鮮の王となりました(衛氏朝鮮、BC195年)。その衛氏朝鮮を、漢の武帝が攻め滅ぼしたわけです(BC108年)。中国側からみれば征服したのですが、朝鮮側からみれば、征服されたことになります。一連の話は、次の韓伝にも描かれています。


では、韓伝を読んでいきます。


【現代訳】
韓は帯方の南にあって、東西は海まで続いている。南は倭と境を接している。面積はおよそ四千里四方である。三種類に分かれていて、一つめは馬韓(ばかん)と、二つめは辰韓(しんかん)、三つめは弁韓(べんかん)という。辰韓とは、昔の辰国(しんこく)のことである。馬韓は西に位置している。そこの人は土著の民で、耕作を絹を作ることを知り、綿布も織っていた。

【解説】
冒頭は、韓の位置を説明した上で、馬韓・辰韓・弁韓という3つの国から成り立っているとしています。
注目すべきは、東西は海まで続いている。南は倭と境を接している。」との記載です。東西は、地図を見ても明らかに海なので、異論はありませんが、問題は「南は倭と境を接している。」です。現在の国境を考えると、ここも「海まで続いている」とすべきですが、「南は倭と境を接している。」となっているのは、なぜでしょうか?。
答えは簡単です。ようするに、海に国境があったのではなく、陸地すなわち朝鮮半島南部に国境があった、ということです。つまり、倭国は、朝鮮半島南部を領土として韓と接していた、ということになります。
図示します。
三国志時代の朝鮮半島


【現代訳】
・・(中略)・・・
朝鮮候の箕準(きじゅん)は、以前から自分で王と名乗っていたが、燕から亡命してきた衛満に国を攻めとられてしまった。箕準は側近の官人たちを率いて逃げ、海路、馬韓人の土地に入って住みつき、自ら韓王といった。箕準の子孫はその後途絶えてしまったが、韓人には今でも箕準の祭祀を奉る人がいる。
韓は、中国の漢代には楽浪郡に属し、季節ごとに郡の役所に挨拶に来ていた。
後漢の恒帝(かんてい)・霊帝(れいてい)時代(146-189年)の末頃になると、韓や濊が強盛になり、楽浪郡やその支配下の県が統制することができなくなってきた。そして、それらの郡県の人々が多数韓の諸国に流入した。

【解説】
穢伝にある箕子朝鮮が、燕から亡命してきた衛満に滅ぼされた話です(BC195年)。それに伴い、箕準が馬韓の地に逃れ、韓王となりました。その後も多くの人々が韓の地にはいってきた、とあります。以上の流れとともに、多くの中国にいた倭人も朝鮮半島に入り、さらに南下してきたと思われます。詳しくは、
「中国最古級資料からみた倭人の源流 ~ やっぱり倭人は揚子江下流域からやってきた! 」(2015/11/18号)
を参照ください。

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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