三国史記新羅本記を読む その2 ~ 卑弥呼は超長生きだった?
続きです。
【現代訳】
6.倭国と好誼を結んで、たがいに訪問しあった。<59年5月条>
7.倭人が木出島を侵した。(脱解)王は、角干(かくかん)の羽烏(うう)を遣わして、防御させた。戦いに敗れて羽烏は戦死した。<73年条>
8.倭人が東辺を侵した。
9.大風が東方から吹き寄せて、木を折り、瓦を飛ばした。夕方になって収まった。都の人が、倭兵が大挙してやって来ると流言したので、(人々は)山や谷に争って逃げた。(祇摩)王は、伊滄(いさん)の翌宗(よくそう)らに、これを諭させ止めさせた。<122年条>
10.倭国と講和した。<123年条>
11.竹嶺(の路)を開いた。倭人が来訪した。<158年条>
12.倭の女王卑弥乎が、使者を遣わして来訪させた。<173年条>
【解説】
倭国との間で講和したり、戦ったり、を繰り返します。
そして173年に、卑弥乎が使者を遣わしてきた、とあります。「卑弥乎」=「卑弥呼」は、まちがいないでしょうが、問題は、その年です。173年とありますね。魏志倭人伝によると、卑弥呼が、魏に使いを出したのが、238年です。詳しくは、
「魏志倭人伝を読む その6 ~ 倭の政治 卑弥呼の使いに魏の皇帝が感動した理由は?」(2015/5/16号)
をご覧ください。
そして最大のライバル国である狗奴(くな)国との戦いが、247年です。詳しくは、
「魏志倭人伝を読む その7(最終回) ~ 倭の政治 卑弥呼最後の戦い! 死して壹与が立つ」(2015/5/22号)
をご覧ください。
狗奴国との戦いののち、卑弥呼死すとあります。卑弥呼が死去した年を翌年の248年とすると、少なくとも
248年-173年 = 75年間
もの長きにわたって、邪馬台国の女王として、君臨したことになります。女王になったのが幼少の頃として、仮に10歳としても、
10 + 75 = 85 歳
まで生きたことになります。当時の平均寿命は、せいぜい40歳前後と言われてますから、たいへんな長生きだったことになります。
ここで再び魏志倭人の記載に注目してみましょう。卑弥呼を描写した箇所を読み下し文にしますと、
「鬼道(きどう)に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす。年、已(すで)に長大なれども、夫壻(ふせい)なし。男弟有りて国を佐(たす)け治む。王と為りて以来、見(まみ)ゆること有る者少なし。婢千人を以って自ら侍らしむ。」
とあります。あまりにも有名な文章です。
これをそのまま読むと、密室で妖しげな呪術を使い、人びとを幻惑する老婆の姿をイメージしてしまいますよね。
一方、これらの一般的な説に対し、古田武彦氏は異なる説を唱えています。
”「年、已に長大なれど」とは、三十代半ばとの意味であり、また、新羅に出した遣いも、178年ではない”
との説です。これも面白い説なのですが、話が複雑になるので、今回はここまでにしておきます。
ここでは、「173年に倭の女王卑弥乎が、使者を遣わして来訪させた」という記載があることを、頭の片隅にいれておいていただければと思います。
中国人使者が見た卑弥呼は、妖しげな呪術で人々を幻惑する八十過ぎの老婆だったのか、それとも三十代半ばの妖艶な女性だったのか・・・?
<卑弥呼想像図>

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【現代訳】
6.倭国と好誼を結んで、たがいに訪問しあった。<59年5月条>
7.倭人が木出島を侵した。(脱解)王は、角干(かくかん)の羽烏(うう)を遣わして、防御させた。戦いに敗れて羽烏は戦死した。<73年条>
8.倭人が東辺を侵した。
9.大風が東方から吹き寄せて、木を折り、瓦を飛ばした。夕方になって収まった。都の人が、倭兵が大挙してやって来ると流言したので、(人々は)山や谷に争って逃げた。(祇摩)王は、伊滄(いさん)の翌宗(よくそう)らに、これを諭させ止めさせた。<122年条>
10.倭国と講和した。<123年条>
11.竹嶺(の路)を開いた。倭人が来訪した。<158年条>
12.倭の女王卑弥乎が、使者を遣わして来訪させた。<173年条>
【解説】
倭国との間で講和したり、戦ったり、を繰り返します。
そして173年に、卑弥乎が使者を遣わしてきた、とあります。「卑弥乎」=「卑弥呼」は、まちがいないでしょうが、問題は、その年です。173年とありますね。魏志倭人伝によると、卑弥呼が、魏に使いを出したのが、238年です。詳しくは、
「魏志倭人伝を読む その6 ~ 倭の政治 卑弥呼の使いに魏の皇帝が感動した理由は?」(2015/5/16号)
をご覧ください。
そして最大のライバル国である狗奴(くな)国との戦いが、247年です。詳しくは、
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狗奴国との戦いののち、卑弥呼死すとあります。卑弥呼が死去した年を翌年の248年とすると、少なくとも
248年-173年 = 75年間
もの長きにわたって、邪馬台国の女王として、君臨したことになります。女王になったのが幼少の頃として、仮に10歳としても、
10 + 75 = 85 歳
まで生きたことになります。当時の平均寿命は、せいぜい40歳前後と言われてますから、たいへんな長生きだったことになります。
ここで再び魏志倭人の記載に注目してみましょう。卑弥呼を描写した箇所を読み下し文にしますと、
「鬼道(きどう)に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす。年、已(すで)に長大なれども、夫壻(ふせい)なし。男弟有りて国を佐(たす)け治む。王と為りて以来、見(まみ)ゆること有る者少なし。婢千人を以って自ら侍らしむ。」
とあります。あまりにも有名な文章です。
これをそのまま読むと、密室で妖しげな呪術を使い、人びとを幻惑する老婆の姿をイメージしてしまいますよね。
一方、これらの一般的な説に対し、古田武彦氏は異なる説を唱えています。
”「年、已に長大なれど」とは、三十代半ばとの意味であり、また、新羅に出した遣いも、178年ではない”
との説です。これも面白い説なのですが、話が複雑になるので、今回はここまでにしておきます。
ここでは、「173年に倭の女王卑弥乎が、使者を遣わして来訪させた」という記載があることを、頭の片隅にいれておいていただければと思います。
中国人使者が見た卑弥呼は、妖しげな呪術で人々を幻惑する八十過ぎの老婆だったのか、それとも三十代半ばの妖艶な女性だったのか・・・?
<卑弥呼想像図>

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