邪馬台国までの道程をたどる(8)~最大の難問である「水行十日、陸行一月」は12,000里に等しい!!
前回までで、邪馬台国まで、たどり着きました。ここで、大きな論点があります。
【原文】
南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日、陸行一月、(中略)、可七万余戸、自女王国以北、其戸数道里得略載、其余旁国、遠絶不可得詳
【読み下し文】
南、邪馬壹国に至る。女王の都する所、水行十日、陸行一月。女王国自(よ)り以北、其の戸数・道理、得て略載す可し。其の余の旁(ぼう)国は遠絶にして、得て詳(つまびら)かにす可からず。
【解説】
”南にある邪馬壹(台)国に到着したが、そこは女王のいる首都である”とありますが、この直後に、「水行十日、陸行一月」が、出てきます。この解釈をめぐり、長年の論争が起こっているわけです。ようするに、「どこを起点として、水行十日、陸行一月かかったのか」です。
多くの学者は、これを、「投馬国」、または「伊都国」から、としました。さらに、南邪馬壹国の「南」を「東」の書き間違いとすれば、うまいことに、「畿内」へ行き着く、というわけです。「邪馬台国畿内説」の完成です。
ずいぶんと都合がいい解釈ですが、多くの論者はこれを、自明としています。
一方、古田氏は、この日程を、帯方郡から邪馬台国までの旅程日数としています。その根拠として、魏志倭人伝が書かれた目的ー軍事報告書ーを挙げています。
つまり、以前お話ししたように、倭国は魏に対して忠誠を誓っており、倭国が他国から攻められた場合、援軍を出す必要があります。その際、どれだけの軍隊を送ればいいのかから始まり、兵站すなわち兵器や食料も用意しなければなりません。その際、首都である邪馬台国まで、どのくらいの日数がかかるのか、それが最も重要なはずです。
それが、記載されていなければ、意味がありません。戦時において、「文中の日数をたせばわかります」みたいな悠長なことを言っている暇はないはずです。
これひとつ考えてみても、答えは明らかですが、さらに別の観点からも、はっきりします。
先に進みましょう。
【原文】
(中略)、此女王境界所尽、其南有狗奴国、男子為王、(中略)、不属女王、自郡至女王国、万二千余里
【読み下し文】
此れ女王の境界の尽くる所なり。其の南、狗奴(こぬ)国有り。男子王為(た)り。(中略)、女王に属せず。郡より女王国に至る、万二千余里。
【解説】
女王国に属する国の名前が、21国続き、最後の国名が挙げられたのち、ここが女王国の境界の尽きるところである、と記載しています。その南に、邪馬台国のライバルである狗奴(こぬ)国がある、とあります。そして、最後の最後に、[郡より女王国に至る、万二千里]とあります。これが、「帯方郡から邪馬台国までの距離が、12,000里である」ことは、明らかでしょう。
となると、古田説によれば、「水行10日、陸行1月」は、当然のことながら、12,000里に等しいことになります。
本当にそれでつじつまがあっているのか、検証してみましょう。
帯方郡から、狗邪韓国、そこから海をわたり、対海国、一大国、そして末蘆国へ上陸し伊都国へ行きましたが、そこまでの距離は、わかっているだけで、7,000里+1,000里+1,000里+1,000里+500里=10,500里です。厳密には、対海国と一大国の島内の距離がありますが、話がややこしくなるので、ここでは加算しません。
帯方郡から邪馬台国までの距離が、12,000里ですから、伊都国から邪馬台国までは、単純な引き算で、
12,000里-10,500里=1,500里
となります。
放射線式読法では、
伊都国~邪馬台国まで、水行10日、陸行1月
です。
直線式読法で、
伊都国~奴国~不弥国~投馬国~邪馬台国
であり、不弥国から投馬国まで水行20日、さらに投馬国から邪馬台国まで、水行10日、陸行1月ですから、約2ケ月近くかかったことになります。
いずれにしろ、
水行10日(或はさらに+20日)+陸行1月=1,500里
となります。
これは、きわめておかしな数字です。1500里と言えば、
短里で、
1500里×75m/里=112,500m=約112km
です。たかだか、約100kmの距離を、水行10日、陸行1月かかるはずもありません(投馬国を経由する場合は、さらに20日プラスされます。)。
どう考えても、計算上成立しないことは、おわかりいただけたと思います。
そもそも、伊都国から100kmでは、とてもではないが、畿内には行き着きません。
なお「長里であれば、1500里×400m/里=600,000m=600kmとなり、方角を東にすれば、畿内に行き着く。」
というのが、畿内説ですが、前にもお話した通り、長里すなわち1里=400mは、ここまでの行程を検証してみても、成立不可能です。
以上を、図示します。
ここまでの話で、「水行1日、陸行1月」=12,000里(短里で900km)であることが、おわかりいただけたと思います。
ところで、中国史書のなかに、このように同じ区間を、距離と日数の両方で記載した事例はあるのでしょうか。あれば、この仮説にグッと現実味が増します。実はあるのです。再び「邪馬台国はなかった」からです。
”わたしたちは、陳寿が史書の先例とし、表記の模範とした「漢書」西域伝の中に、その端的な例を見出すのである。
(難兜国) 西南、罽賓(けいひん)に至る、三百三十里。
(罽賓国) 東北、難兜(なんとう)国に至る、九日行。
これは、一方が「西南」、一方が「東北」とあって、方角相応じている点から見ても、両国間の同一ルートをさしているのは当然である。ところが、その同一区間について、一方は「里程」でm一方は「所要日数」で表記されているのである。”
このように、同じ区間を、一方は330里と記載し、他方では9日と、記載している事例があるわけですから、魏志倭人伝でも、同じ区間を、水行10日・陸行1月と記載しても、何ら不自然ではないことがわかります。
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【原文】
南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日、陸行一月、(中略)、可七万余戸、自女王国以北、其戸数道里得略載、其余旁国、遠絶不可得詳
【読み下し文】
南、邪馬壹国に至る。女王の都する所、水行十日、陸行一月。女王国自(よ)り以北、其の戸数・道理、得て略載す可し。其の余の旁(ぼう)国は遠絶にして、得て詳(つまびら)かにす可からず。
【解説】
”南にある邪馬壹(台)国に到着したが、そこは女王のいる首都である”とありますが、この直後に、「水行十日、陸行一月」が、出てきます。この解釈をめぐり、長年の論争が起こっているわけです。ようするに、「どこを起点として、水行十日、陸行一月かかったのか」です。
多くの学者は、これを、「投馬国」、または「伊都国」から、としました。さらに、南邪馬壹国の「南」を「東」の書き間違いとすれば、うまいことに、「畿内」へ行き着く、というわけです。「邪馬台国畿内説」の完成です。
ずいぶんと都合がいい解釈ですが、多くの論者はこれを、自明としています。
一方、古田氏は、この日程を、帯方郡から邪馬台国までの旅程日数としています。その根拠として、魏志倭人伝が書かれた目的ー軍事報告書ーを挙げています。
つまり、以前お話ししたように、倭国は魏に対して忠誠を誓っており、倭国が他国から攻められた場合、援軍を出す必要があります。その際、どれだけの軍隊を送ればいいのかから始まり、兵站すなわち兵器や食料も用意しなければなりません。その際、首都である邪馬台国まで、どのくらいの日数がかかるのか、それが最も重要なはずです。
それが、記載されていなければ、意味がありません。戦時において、「文中の日数をたせばわかります」みたいな悠長なことを言っている暇はないはずです。
これひとつ考えてみても、答えは明らかですが、さらに別の観点からも、はっきりします。
先に進みましょう。
【原文】
(中略)、此女王境界所尽、其南有狗奴国、男子為王、(中略)、不属女王、自郡至女王国、万二千余里
【読み下し文】
此れ女王の境界の尽くる所なり。其の南、狗奴(こぬ)国有り。男子王為(た)り。(中略)、女王に属せず。郡より女王国に至る、万二千余里。
【解説】
女王国に属する国の名前が、21国続き、最後の国名が挙げられたのち、ここが女王国の境界の尽きるところである、と記載しています。その南に、邪馬台国のライバルである狗奴(こぬ)国がある、とあります。そして、最後の最後に、[郡より女王国に至る、万二千里]とあります。これが、「帯方郡から邪馬台国までの距離が、12,000里である」ことは、明らかでしょう。
となると、古田説によれば、「水行10日、陸行1月」は、当然のことながら、12,000里に等しいことになります。
本当にそれでつじつまがあっているのか、検証してみましょう。
帯方郡から、狗邪韓国、そこから海をわたり、対海国、一大国、そして末蘆国へ上陸し伊都国へ行きましたが、そこまでの距離は、わかっているだけで、7,000里+1,000里+1,000里+1,000里+500里=10,500里です。厳密には、対海国と一大国の島内の距離がありますが、話がややこしくなるので、ここでは加算しません。
帯方郡から邪馬台国までの距離が、12,000里ですから、伊都国から邪馬台国までは、単純な引き算で、
12,000里-10,500里=1,500里
となります。
放射線式読法では、
伊都国~邪馬台国まで、水行10日、陸行1月
です。
直線式読法で、
伊都国~奴国~不弥国~投馬国~邪馬台国
であり、不弥国から投馬国まで水行20日、さらに投馬国から邪馬台国まで、水行10日、陸行1月ですから、約2ケ月近くかかったことになります。
いずれにしろ、
水行10日(或はさらに+20日)+陸行1月=1,500里
となります。
これは、きわめておかしな数字です。1500里と言えば、
短里で、
1500里×75m/里=112,500m=約112km
です。たかだか、約100kmの距離を、水行10日、陸行1月かかるはずもありません(投馬国を経由する場合は、さらに20日プラスされます。)。
どう考えても、計算上成立しないことは、おわかりいただけたと思います。
そもそも、伊都国から100kmでは、とてもではないが、畿内には行き着きません。
なお「長里であれば、1500里×400m/里=600,000m=600kmとなり、方角を東にすれば、畿内に行き着く。」
というのが、畿内説ですが、前にもお話した通り、長里すなわち1里=400mは、ここまでの行程を検証してみても、成立不可能です。
以上を、図示します。

ここまでの話で、「水行1日、陸行1月」=12,000里(短里で900km)であることが、おわかりいただけたと思います。
ところで、中国史書のなかに、このように同じ区間を、距離と日数の両方で記載した事例はあるのでしょうか。あれば、この仮説にグッと現実味が増します。実はあるのです。再び「邪馬台国はなかった」からです。
”わたしたちは、陳寿が史書の先例とし、表記の模範とした「漢書」西域伝の中に、その端的な例を見出すのである。
(難兜国) 西南、罽賓(けいひん)に至る、三百三十里。
(罽賓国) 東北、難兜(なんとう)国に至る、九日行。
これは、一方が「西南」、一方が「東北」とあって、方角相応じている点から見ても、両国間の同一ルートをさしているのは当然である。ところが、その同一区間について、一方は「里程」でm一方は「所要日数」で表記されているのである。”
このように、同じ区間を、一方は330里と記載し、他方では9日と、記載している事例があるわけですから、魏志倭人伝でも、同じ区間を、水行10日・陸行1月と記載しても、何ら不自然ではないことがわかります。
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