邪馬台国位置比定の考古学的根拠とは?(9) ~ 三種の神器出土遺跡④(須玖岡本遺跡)
次は、三種の神器出土遺跡の中では、一番東にある須玖岡本(すくおかもと)遺跡です。博多を流れる那珂川の中流、春日市に位置している南北2km、東西1kmにわたる大規模な遺跡(墳丘墓、甕棺墓、青銅器鋳造跡の遺跡)群です。
昭和54、55年の調査で、弥生時代中期〜後期初頭の116基以上の甕棺墓、木棺墓、中期後半の祭祀遺構など、合わせて約300基が、確認されました。
この遺跡の中の、D地点の遺跡(巨石下甕棺墓)に、三種の神器が出土しました。明治期に発見されたもので、遺物は散逸していますが、当時の記録を合わせ考えると、強大な勢力を誇った王の墓と推定されています。
D地点の遺跡(巨石下甕棺墓)の副葬品
・銅剣2、銅矛1、銅戈1
・銅鏡(前漢鏡)32面以上
・ガラス璧(瑠璃璧)2個片以上
・ガラス勾玉(長さ4.8cm、弥生時代最大級)、ガラス管玉
<銅鏡破片>
<勾玉・管玉>
副葬品の豪華さもさることながら、特徴的なのは、なんと言っても、墳墓を覆っている上石でしょう。長さ3.3m、幅1.8m、重さ4tという巨石です。
<発掘現場>
<上石>
周辺も含めた須玖遺跡群からは、青銅器鋳型が200点以上、広さが2000㎡に及ぶ国内最大のものも含めた工房跡がいくつも発見されました。ここでつくられた青銅器は、西日本の各地にもたらされました。さらに、ガラス玉も作られたと考えられるガラス工房跡や、鉄器工房跡も見つかってます。
つまり、このあたり一帯は、当時の先端技術の一大生産拠点だったわけです。これらを、支配したのが、巨石下甕棺に眠る王だったのでしょう。
<青銅器鋳型>
(奴国の丘歴史資料館HPより)
一般的には、この王を、「奴国王」と称しています。金印「漢委奴(な)国王」が出土した志賀島に近いことや、那珂(なか)川に代表されるように、このあたりはかつて「那(な)」と呼ばれていたと考えられることがその理由ですが、はたしてどうでしょうか?皆さんは、どのように考えますか?
ここまでこのブログを読まれている方にはおわかりと思いますが、「奴国王」というのは成り立ちません。奴国の位置は、伊都国の東南約7.5km(東南百里)のところにあるわけですから。
では、どこの国の王なのか?ですが、位置、副葬品の豪華さ、当時の先端技術を支配していたことを考えると、倭国の首都すなわち「邪馬壹国」以外考えられない、ということになります。つまり、「邪馬壹国王」の墓です。以前のブログで示した「邪馬壹国」想定エリア内にもあります。
また、須玖遺跡群は、南北2km、東西1kmという広大な範囲(約200ha)に広がってます。これだけでは、ピンとこないかもしれませんが、吉野ケ里遺跡が、外環濠の内側の面積が、約40haです。須玖遺跡群には明確な環濠がないとの指摘もありますが、それは”丘陵があり、敵から守るための環濠を作る必要がなかったからで、平野に面したところには環濠があります。環濠の内側の春日丘陵の地域は100ヘクタール以上にもなる一つの単位集落と思われます。
博多駅の近くの比恵から、那珂を経て春日市の須玖遺跡に至るそれぞれ100ヘクタール級の広さの地域に遺跡が途切れなく存在しています。この地域の遺跡は連続した遺跡であり、環濠を設けることなしに繋がっています”(柳田康男氏、国学院大学教授の話による)。
図示します。
ご覧のとおり、吉野ケ里遺跡の規模を、はるかに上回る巨大な遺跡群であるわけです。少なく見ても、吉野ヶ里の10倍以上です。周辺にも同じように人々が暮らしていたことでしょう。そうなると、以前、魏志倭人伝に記載されている邪馬壹国の人口7万戸を40~50万人と仮定しましたが、ぐっと現実味を帯びてきますね。
ところで皆さんは、これだけ全国的にみても「質・量」ともに傑出した遺跡群の存在をご存じでしたでしょうか?知っていたという方は、少ないのではないでしょうか?。わたくしも、かつて知らなかった一人です。
ではなぜこうした事実が世間に知られていないのかというと、須玖遺跡群をはじめとした遺跡群は、昔から人々の生活していたエリアにあるため、長い年月の間に発見されずに破壊されたものが多いうえ、発見されたにしても発掘の歴史が古く、記録も正確に残っていなかったり出土物も散逸していることが、大きな要因かと思われます。また柳田氏によれば、吉野ケ里はマスコミなどへの打ち出し方がうまいこともあるようです。
これだけ素晴らしい観光(?)資源となりうるものがあるのに、今一歩活かしきれていないのは何とももったいない話と感じるのは、わたくしだけでしょうか?
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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昭和54、55年の調査で、弥生時代中期〜後期初頭の116基以上の甕棺墓、木棺墓、中期後半の祭祀遺構など、合わせて約300基が、確認されました。
この遺跡の中の、D地点の遺跡(巨石下甕棺墓)に、三種の神器が出土しました。明治期に発見されたもので、遺物は散逸していますが、当時の記録を合わせ考えると、強大な勢力を誇った王の墓と推定されています。
D地点の遺跡(巨石下甕棺墓)の副葬品
・銅剣2、銅矛1、銅戈1
・銅鏡(前漢鏡)32面以上
・ガラス璧(瑠璃璧)2個片以上
・ガラス勾玉(長さ4.8cm、弥生時代最大級)、ガラス管玉
<銅鏡破片>

<勾玉・管玉>

副葬品の豪華さもさることながら、特徴的なのは、なんと言っても、墳墓を覆っている上石でしょう。長さ3.3m、幅1.8m、重さ4tという巨石です。
<発掘現場>

<上石>

周辺も含めた須玖遺跡群からは、青銅器鋳型が200点以上、広さが2000㎡に及ぶ国内最大のものも含めた工房跡がいくつも発見されました。ここでつくられた青銅器は、西日本の各地にもたらされました。さらに、ガラス玉も作られたと考えられるガラス工房跡や、鉄器工房跡も見つかってます。
つまり、このあたり一帯は、当時の先端技術の一大生産拠点だったわけです。これらを、支配したのが、巨石下甕棺に眠る王だったのでしょう。
<青銅器鋳型>

(奴国の丘歴史資料館HPより)
一般的には、この王を、「奴国王」と称しています。金印「漢委奴(な)国王」が出土した志賀島に近いことや、那珂(なか)川に代表されるように、このあたりはかつて「那(な)」と呼ばれていたと考えられることがその理由ですが、はたしてどうでしょうか?皆さんは、どのように考えますか?
ここまでこのブログを読まれている方にはおわかりと思いますが、「奴国王」というのは成り立ちません。奴国の位置は、伊都国の東南約7.5km(東南百里)のところにあるわけですから。
では、どこの国の王なのか?ですが、位置、副葬品の豪華さ、当時の先端技術を支配していたことを考えると、倭国の首都すなわち「邪馬壹国」以外考えられない、ということになります。つまり、「邪馬壹国王」の墓です。以前のブログで示した「邪馬壹国」想定エリア内にもあります。
また、須玖遺跡群は、南北2km、東西1kmという広大な範囲(約200ha)に広がってます。これだけでは、ピンとこないかもしれませんが、吉野ケ里遺跡が、外環濠の内側の面積が、約40haです。須玖遺跡群には明確な環濠がないとの指摘もありますが、それは”丘陵があり、敵から守るための環濠を作る必要がなかったからで、平野に面したところには環濠があります。環濠の内側の春日丘陵の地域は100ヘクタール以上にもなる一つの単位集落と思われます。
博多駅の近くの比恵から、那珂を経て春日市の須玖遺跡に至るそれぞれ100ヘクタール級の広さの地域に遺跡が途切れなく存在しています。この地域の遺跡は連続した遺跡であり、環濠を設けることなしに繋がっています”(柳田康男氏、国学院大学教授の話による)。
図示します。

ご覧のとおり、吉野ケ里遺跡の規模を、はるかに上回る巨大な遺跡群であるわけです。少なく見ても、吉野ヶ里の10倍以上です。周辺にも同じように人々が暮らしていたことでしょう。そうなると、以前、魏志倭人伝に記載されている邪馬壹国の人口7万戸を40~50万人と仮定しましたが、ぐっと現実味を帯びてきますね。
ところで皆さんは、これだけ全国的にみても「質・量」ともに傑出した遺跡群の存在をご存じでしたでしょうか?知っていたという方は、少ないのではないでしょうか?。わたくしも、かつて知らなかった一人です。
ではなぜこうした事実が世間に知られていないのかというと、須玖遺跡群をはじめとした遺跡群は、昔から人々の生活していたエリアにあるため、長い年月の間に発見されずに破壊されたものが多いうえ、発見されたにしても発掘の歴史が古く、記録も正確に残っていなかったり出土物も散逸していることが、大きな要因かと思われます。また柳田氏によれば、吉野ケ里はマスコミなどへの打ち出し方がうまいこともあるようです。
これだけ素晴らしい観光(?)資源となりうるものがあるのに、今一歩活かしきれていないのは何とももったいない話と感じるのは、わたくしだけでしょうか?
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