一年で二回の年を数えたという「二倍年歴」説は本当か?(3) ~ 孔子も「二倍年歴」だった?
前回、古代「二倍年歴」が、現代にもその痕跡をとどめているというお話をしました。では、古代の中国では、どうだったのでしょうか?
魏志倭人伝が書かれた当時の中国(3世紀)において、「二倍年歴」が使われていなかったことは確実です。なぜなら、使われていなかったからこそ、あえて魏志倭人伝のなかで倭人のことを、
"其の俗、正歳・四節を知らず 。但春耕・秋収を計りて年紀と為す。 (当時の倭人は暦をもっておらず、春と秋、つまり種まきや苗の植え付けの時期と、刈り入れの時期をもって、1年と数えている)”
と、、珍しい、あるいはあたかも文明が未開の民族のように記したわけです。
では、それより以前の中国では、どうだったのでしょうか?
古代中国で有名な人と言えば、孔子(BC552-BC479)が挙げられます。孔子は、春秋戦国時代の春秋の時代に生きた、思想家、哲学者であり、儒家の始祖でもあります。多くの弟子をもち、自らの思想を伝えました。その語録が、論語です。論語は、日本においても、江戸時代に として、広く読まれ、思想的にも大きな影響を与えました。
<孔子>

その一節に、あの有名な言葉があります。
[読み下し文]
子(し)曰(いわ)く、
a.吾(われ)十有五(じゅうゆうご)にして学に志こころざす。
b.三十にして立つ。
c.四十にして惑わず。
d.五十にして天命を知る。
e.六十にして耳(みみ)順(したが)う。
f.七十にして心の欲する所に従いて、矩(のり)を踰(こ)えず。
[現代訳]
師(孔子)がおっしゃるには、
a.十五歳で学問で身を立てる決心をした。
b.三十歳で学問の基礎が確立した。
c.四十歳であれこれ迷うことがなくなった。
d.五十歳で天が自分自身に与えた使命を悟った。
e.六十歳で何を聞いても素直に受け入れることが出来るようになった。
f.七十歳で、心のおもうままに行動しても、人としての道理を外れることは無くなった。
男子の一生のそれぞれの段階における心構えを、端的に表現したものです。我々現代人からみても、感覚的にも合っており、さまざまな場面で引用されてますね。つまり、実用的な言葉であるとも言えます。
ところが、よくよく考えてみてください。当時の寿命は三十歳台と言われていますから、十五歳と言えば、人生の半ばに近づきつつある歳です。そんな歳で、「学問で身を立てる決心をする」とは、あまりに遅すぎないでしょうか?。また、四十歳で「惑わず」は今でもよく使われますが、当時の世の中の大多数の人が亡くなる歳に、「惑わず」といっても、遅すぎはしませんでしょうか?
五十歳で「天命を知る」とありますが、たとえ長生きしたとしても、「残りの人生あとわずか」で、一体何ができるというのでしょうか?。「天命」などもっと若いときに知っておかなければ意味がありません。さらに、六十歳、七十歳での心境を語られても、そこまで生きる人はほとんどいないわけで、当時聴いてる人たちにとって、あまりにピンとこない話になってしまいます。それとも、「だから孔子さまは、われわれ凡人には及びもつかない、お偉い、超人的なお方なのだ」と理解すべきなのでしょうか?。
これを、「二倍年歴」で解釈してみます。
a.七歳半ばで、学問で身を立てる決心をした。
⇒ 現代でも、小学校入学は六歳ですから、合ってますね。
b.十五歳で、学問の基礎が確立した。
⇒日本では、十五歳で元服、つまり成人とされたわけですから、これも合ってますね。
c.二十歳で、あれこれ迷うことがなくなった。
⇒現代の感覚では、二十歳はまだまだ「青い」年頃とされますが、当時は十五歳で成人となり、
さまざまな経験を積むわけですから、迷いもなくなると表現したのでしょう。
d.二十五歳で天が自分自身に与えた使命を悟った。
⇒平均寿命三十歳台の時代、二十五歳と言えば、残りの人生十数年、いよいよ自分が何を
成し遂げるべきかを、悟ったというこでしょう。
e.三十歳で何を聞いても素直に受け入れることが出来るようになった。
⇒天命を悟り、人生経験を積み、人間としての円熟味が増す年代です。
f.三十五歳で、心のおもうままに行動しても、人としての道理を外れることは無くなった。
⇒人生の終わりが見え、心が何ものにもとらわれず、自由自在になったということでしょう。
こうした心境を目指したいものです。
いかがでしょうか?。当時の三十台という平均寿命を考えると、ぴったりくるのではないでしょうか?。
なお、当時が二倍年歴とすると、孔子の寿命(73歳前後)は、36~37歳となります。孔子というと、何となく髭を生やした老人をイメージするのですが、それも大きく覆しますね。
もっとも、この説が正しいかどうかは、今の段階では何とも言えません。たとえば、孔子は、19歳のときに宋の幵官(けんかん) 氏と結婚して、翌年、子の鯉(り) (字は伯魚)が誕生しています。幵官(けんかん) 氏が当時何歳だったのかは定かではありませんが、二倍年歴とすると、孔子が10歳のときに子供を作ったことになりますから、無理があります。もちろん、その子供が実子であったとしたら、ですが。
ということで、ここでは、孔子が二倍年歴であったかどうかは、あくまで”可能性がある”ということにしておきます。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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魏志倭人伝が書かれた当時の中国(3世紀)において、「二倍年歴」が使われていなかったことは確実です。なぜなら、使われていなかったからこそ、あえて魏志倭人伝のなかで倭人のことを、
"其の俗、正歳・四節を知らず 。但春耕・秋収を計りて年紀と為す。 (当時の倭人は暦をもっておらず、春と秋、つまり種まきや苗の植え付けの時期と、刈り入れの時期をもって、1年と数えている)”
と、、珍しい、あるいはあたかも文明が未開の民族のように記したわけです。
では、それより以前の中国では、どうだったのでしょうか?
古代中国で有名な人と言えば、孔子(BC552-BC479)が挙げられます。孔子は、春秋戦国時代の春秋の時代に生きた、思想家、哲学者であり、儒家の始祖でもあります。多くの弟子をもち、自らの思想を伝えました。その語録が、論語です。論語は、日本においても、江戸時代に として、広く読まれ、思想的にも大きな影響を与えました。
<孔子>

その一節に、あの有名な言葉があります。
[読み下し文]
子(し)曰(いわ)く、
a.吾(われ)十有五(じゅうゆうご)にして学に志こころざす。
b.三十にして立つ。
c.四十にして惑わず。
d.五十にして天命を知る。
e.六十にして耳(みみ)順(したが)う。
f.七十にして心の欲する所に従いて、矩(のり)を踰(こ)えず。
[現代訳]
師(孔子)がおっしゃるには、
a.十五歳で学問で身を立てる決心をした。
b.三十歳で学問の基礎が確立した。
c.四十歳であれこれ迷うことがなくなった。
d.五十歳で天が自分自身に与えた使命を悟った。
e.六十歳で何を聞いても素直に受け入れることが出来るようになった。
f.七十歳で、心のおもうままに行動しても、人としての道理を外れることは無くなった。
男子の一生のそれぞれの段階における心構えを、端的に表現したものです。我々現代人からみても、感覚的にも合っており、さまざまな場面で引用されてますね。つまり、実用的な言葉であるとも言えます。
ところが、よくよく考えてみてください。当時の寿命は三十歳台と言われていますから、十五歳と言えば、人生の半ばに近づきつつある歳です。そんな歳で、「学問で身を立てる決心をする」とは、あまりに遅すぎないでしょうか?。また、四十歳で「惑わず」は今でもよく使われますが、当時の世の中の大多数の人が亡くなる歳に、「惑わず」といっても、遅すぎはしませんでしょうか?
五十歳で「天命を知る」とありますが、たとえ長生きしたとしても、「残りの人生あとわずか」で、一体何ができるというのでしょうか?。「天命」などもっと若いときに知っておかなければ意味がありません。さらに、六十歳、七十歳での心境を語られても、そこまで生きる人はほとんどいないわけで、当時聴いてる人たちにとって、あまりにピンとこない話になってしまいます。それとも、「だから孔子さまは、われわれ凡人には及びもつかない、お偉い、超人的なお方なのだ」と理解すべきなのでしょうか?。
これを、「二倍年歴」で解釈してみます。
a.七歳半ばで、学問で身を立てる決心をした。
⇒ 現代でも、小学校入学は六歳ですから、合ってますね。
b.十五歳で、学問の基礎が確立した。
⇒日本では、十五歳で元服、つまり成人とされたわけですから、これも合ってますね。
c.二十歳で、あれこれ迷うことがなくなった。
⇒現代の感覚では、二十歳はまだまだ「青い」年頃とされますが、当時は十五歳で成人となり、
さまざまな経験を積むわけですから、迷いもなくなると表現したのでしょう。
d.二十五歳で天が自分自身に与えた使命を悟った。
⇒平均寿命三十歳台の時代、二十五歳と言えば、残りの人生十数年、いよいよ自分が何を
成し遂げるべきかを、悟ったというこでしょう。
e.三十歳で何を聞いても素直に受け入れることが出来るようになった。
⇒天命を悟り、人生経験を積み、人間としての円熟味が増す年代です。
f.三十五歳で、心のおもうままに行動しても、人としての道理を外れることは無くなった。
⇒人生の終わりが見え、心が何ものにもとらわれず、自由自在になったということでしょう。
こうした心境を目指したいものです。
いかがでしょうか?。当時の三十台という平均寿命を考えると、ぴったりくるのではないでしょうか?。
なお、当時が二倍年歴とすると、孔子の寿命(73歳前後)は、36~37歳となります。孔子というと、何となく髭を生やした老人をイメージするのですが、それも大きく覆しますね。
もっとも、この説が正しいかどうかは、今の段階では何とも言えません。たとえば、孔子は、19歳のときに宋の幵官(けんかん) 氏と結婚して、翌年、子の鯉(り) (字は伯魚)が誕生しています。幵官(けんかん) 氏が当時何歳だったのかは定かではありませんが、二倍年歴とすると、孔子が10歳のときに子供を作ったことになりますから、無理があります。もちろん、その子供が実子であったとしたら、ですが。
ということで、ここでは、孔子が二倍年歴であったかどうかは、あくまで”可能性がある”ということにしておきます。
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