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日本人は、どこからやってきたのか?(14) ~ アイヌと琉球先住民は同祖?

前回は、アイヌ民族について、お話しました。アイヌ民族は縄文人に近いが、遺伝子からみると同じではなく、文化的にも北方の影響を強く受けている、との内容ですが、では、南方の沖縄はどうなのでしょうか?。

今一度整理しますと、
アイヌ民族 C3系統 北方系移動性狩猟採集文化(細石刃文化)  
        D2系統 漁労・雑穀農耕・定住狩猟・採集(縄文文化)
縄文人   上のC3系統+D2系統に加えて、
        C1系統 南方系漁労文化(貝文文化)?

に対し、琉球先住民は、縄文人のうち、
        D2系統 漁労・雑穀農耕・定住狩猟・採集(縄文文化)
        C1系統 南方系漁労文化(貝文文化)?
を多くもっていたことが、推定されます。
さらに、それに加えて、台湾・フィリピンなどのオーストロネシア系であるO1系統ももっていたと推定されます。


また、崎谷氏によれば、その後、紀元後11~12世紀以降、D2系統(縄文系)、O2b系統(弥生系渡来人)、O3系統(漢民族系渡来人)が、九州から渡ってきた、としてます。つまり、確かに沖縄には縄文系のD2系統も多いのですが、それは縄文時代にやってきた人々ではなく、後代(12~13世紀)にやってきた人々ということになります。となると、沖縄先住民は、主としてC1系統だった、となります。

以上のことから崎谷氏は、琉球諸島の先史時代における先住民は、アイヌ民族とは異なるヒト集団であった、として、いわゆる「アイヌ・琉球同祖論」に対して、否定的な見解を示してます。

また、前にお話しした「日本人二重構造モデル」すなわち、
”もともと沖縄を含めた日本列島には縄文人が住んでいて、あとから大陸からやってきた渡来系弥生人・漢民族の人々により、次第に北と南へ押しやられたという説”
も、琉球においては成り立たなくなります。

ところで、古代沖縄先住民と言えば、「港川人」が挙げられます。

「港川人」は、沖縄本島で見つかった旧石器時代の人骨から名づけられました。出土地層は約2万年前と推定されてます。全身の骨格と顔面が残っている旧石器時代の人骨は、日本ではその後も発見はない、など、当時の人々を知るうえで、たいへん貴重なものです。
 
国立科学博物館が顔立ちの復元図を作成していたのですが、
”その後、CTなど最新の技術で調べると、発見当初の復元にゆがみが見つかった。下あごが本来はほっそりとしており、そのゆがみを取り除くと、横に広い縄文人の顔立ちと相当に違っている。現在の人類ならば、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近い。
 縄文時代の人骨は、列島の北から南まで顔立ちや骨格が似ていることから、縄文人は均質な存在と考えられてきた。だが、縄文人の遺伝子を分析した結果、シベリアなど北回りの集団、朝鮮半島経由の集団など多様なルーツのあることが見えてきた。
 新たな復元図は、そうした研究を総合したものだ。科博の海部陽介研究主幹は「港川人は本土の縄文人とは異なる集団だったようだ。港川人は5万~1万年前の東南アジアやオーストラリアに広く分布していた集団から由来した可能性が高い」と語った。その後に、農耕文化を持った人たちが東南アジアに広がり、港川人のような集団はオーストラリアなどに限定されたと考えることができそうだ。”(「
朝日新聞DEGITAL(2010年6月28日)」より)

<従来の復元図>
港川人(修正前)

<新たな復元図>
港川人(修正後) 

上の従来の復元図は、縄文人に近いように見えますが、下の新たな復元図は、縄文人というより、ニューギニアなど南方系の顔立ちですね。実際には、顔に多くの入れ墨が施されていたと推定されます。

いずれにしろ、前回のアイヌ民族とはかなり異なる風貌であり、確かにこれを見る限り、「アイヌ・琉球同祖論」は成立しそうもありませんね。

しかしながら、沖縄に住んでいる人とアイヌの人がよく似た風貌である、という話も聞いたことがあります。このあたりを、どう解釈すべきかと考えていたところ、驚くべきニュースが入りました。東北地方で縄文時代に作られた亀ヶ岡式土器が、沖縄で発掘されたというニュースです。

”縄文時代晩期に東北地方を中心に分布した「亀ケ岡式土器」とみられる破片が、沖縄県北谷(ちゃたん)町で見つかった。町教育委員会によると、亀ケ岡式土器が沖縄県内で見つかるのは初めて。担当者は「3千年ほど前に人や物の交流が盛んだったことを示す発見」と説明している。
 町教委によると、土器片は、2003年に返還された米軍基地の跡地にある平安山原(はんざんばる)B遺跡で、貝塚時代中期(縄文晩期)の土砂から09~10年に発掘された。「工」の字を組み合わせたような「工字文」の柄があり、わずかに朱に塗られた跡もあった。専門家の意見を聴き、亀ケ岡式の一種の可能性が高いと結論づけたという。
 亀ケ岡式土器は東日本に数多く分布するが、西日本では出土例が少なく、南は奄美大島や徳之島までしか見つかっていなかった。一方、平安山原B遺跡のすぐ近くの伊礼原(いれいばる)遺跡では、同じ時代の新潟産の翡翠(ひすい)が見つかっており、町教委の山城安生主任主事は「新たに土器片も見つかったことで、縄文晩期から弥生前半にかけて交流が非常に盛んだったことを示している」と話す。”
(朝日新聞デジタル、2017年1月25日)

<出土した土器>
沖縄 縄文土器

他にも、時代は2000年前となりますが、北海道の伊達市有珠(うす)モシリ遺跡から、琉球諸島産とみられるイモガイ製腕輪(ブレスレット)が見つかってます

このように、遠く離れた北海道とも交流していたということは、本土の縄文人との交流もあったということです。ということは、古代から長い年月をかけて、次第に縄文系の血が混ざっていった可能性も考えられます。


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日本人は、どこからやってきたのか?(13) ~ アイヌ民族は縄文人の末裔か?

さて、前回までで、日本人がアフリカから、いつ、どのようにやってきたのか、をお話ししてきました。ここからは、いくつか残された課題について、みていきます。

今回は、アイヌ民族です。


縄文人というと、何となく「アイヌ民族」のことを思い浮かべるのですが、「アイヌ民族」は、縄文人の末裔なのでしょうか?。それをみていきましょう。

<アイヌ民族>

アイヌ民族 
                                                        (Wikipediaより)

今までのデータと比較するため、現代アイヌ民族のY染色体DNAのデータを、他の地域の人々のものと比べます。

アイヌDNA比較

見てのとおり、アイヌ民族のY染色体DNAの88%はD2系統、残りの13%はC3系統であり、他の系統は検出されていないという、極めて特徴的な構成になってます。

ここで各系統を、文化的にまとめますと、

D2系統・・D系統が3万数千年前?に日本に入ってきて、3万年前?にD2系統が誕生。

      「中国華北→朝鮮半島→九州」

       縄文文化(漁労・雑穀農耕・定住型狩猟・採集)       

C3系統・・3万数千年前?に、日本に入ってきた。
      「シベリア→北海道」と「シベリアから→朝鮮半島→九州」

       北方系移動性狩猟採集文化(細石刃文化)

です。

これらから崎谷氏は、”アイヌ民族は、細石刃文化系C3系統が母体となり、その後本州から北上してきた縄文文化の担い手であるD2系統と出会い、シベリア系北方文化と、縄文系日本系文化という2つの文化の要素をもつようになった。その後も、北からの文化の流入が何度にもわたり、13世紀頃から再度北方シベリア系の要素が強いアイヌ文化が成立した。としてます。そして、

アイヌ文化は、縄文文化と同一視することはできない。アイヌ民族・アイヌ文化は、シベリア系北方文化の要素を強く保持し、日本列島中間部に固有の縄文文化の要素が加味されたものであることが想定される。”

としています。


Y染色体DNAからみると、アイヌ民族については、D2とC3であり、これは縄文人と似たようなものです。では、何が違うのでしょうか?


ここからは推測ですが、縄文人は、その他にもC1系統をもっていたはずであり、その文化をもっていたのではないか、と考えられます。ここで、

C1系統・・4万数千年前?に日本に入ってきた南方系。

       「台湾方面→沖縄→九州」あるいは「朝鮮半島→九州北部」

       南方系漁労文化(貝文文化)

です。

このC1系統は南方系であり、この文化はアイヌ文化に伝播しなかったのではないか?、というものです。これが、縄文人との差を生んだと推測されます。


さらに、もうひとつのアイヌ民族の特徴としては、弥生時代以降の大陸からやってきた人々であるO2b,O3系統が、全くないことです。これも、縄文人が、弥生時代以降の大陸からの渡来人を受け入れ、同化していったことからみれば、大きな差異です。このこともまた、アイヌ民族、文化を際立たせる要因の一つでしょう。


もっとも、縄文人とは異なると言っても、同じ時代に同じような地域を生きてきたわけで、基本的な思想などはさほど変わらないと思われます。すなわち、

・自然との共生

・神(カムイ)と人との近しさ

・超越的世界と地上世界とが共存する世界観

などは、縄文人も同じようにもっていたと考えられます。

「縄文文化」を究めるには、やはり「アイヌ文化」を究める必要があることは間違いないでしょう。

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日本人はどこからやってきたのか? (12) ~ 日本神話とも一致する科学的データ

前回は、5000年前から、黄河流域の人々(Y染色体DNA-O3系統)が南下し始めたこと、それは「史記」を始めとした中国史書に、揚子江流域の人々と長年にわたり戦いを繰り返してきたこととして記されており、遺伝子分析結果と史書が一致していることを、お話しました。

今回はその続きです。
黄河流域々から南下した多くの人々のうち、中国周王朝の呉太伯(たいはく、紀元前12-11世紀頃)もその一人です。

呉太伯については、司馬遷の「史記」によれば、

"古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。
父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。

太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。この国はともいわれる。太伯が死んだとき子がいなかったため、弟の虞仲(仲雍)が跡を継いだ。

武王は虞仲の曾孫・周章を改めて呉に封じ、その弟・虞仲(同名の別人)を北方の虞に封じた。これにより太伯・虞仲は呉と虞の二か国の祖となった。"

(Wikipediaより)


ようするに、黄河流域から揚子江下流域にやってきた周王朝一族の太伯が、弟の虞仲とともに、を建国した、という話です。なお、この呉(紀元前11世紀頃-同473年)とは、三国志の呉ではありません。念のため。


そしてこの呉が、「呉越同舟」の古語で有名な「越(紀元前600年頃-同334年)」と戦いの末敗れ、紀元前473年に滅亡します。

その越も、楚に紀元前334年に滅亡します。そしてその楚も、紀元前223年に、始皇帝の秦に滅ぼされます。


このように動乱が長きにわたり続いた時代であり、歴史上春秋戦国時代と呼ばれます。具体的には、西周が滅亡した紀元前770年から秦の始皇帝が中国統一した紀元前221年までの間です。


その時代、黄河流域から揚子江下流域へと多くの人の流れがありました。揚子江下流域に住んでいた多くの人々は、この動乱を逃れ四散しました。そのなかのある人々は朝鮮半島へと逃れ、やがて日本列島にもやってきたことでしょう。またある人々は、舟で直接日本列島にやってきたことでしょう。

時期としては、すなわち2800年前頃から2200年前頃になります。


もうひとつ、今度は、日本の古事記、日本書紀からです。以前のブログ

「「国譲り」と「天孫降臨」はいつだったのか?(No.100)」

にて古事記、日本書紀から読み解いた史実についてお話しました。

具体的には、

1.「国譲り」「天孫降臨」などの神話は、史実を象徴的に描いたものである。それは、対馬、壱岐を中心拠点としていた天孫族(海人族)が、九州北部に進出したことを、表現している。

2.古事記、日本書紀の年齢記載には、1年に二回の歳を数える「二倍年歴」が使われている。それを基に計算すると、「天孫降臨」は、紀元前4~5世紀頃(2400年-2500年前頃)となる。

です。


そして「天孫族」はもともと揚子江下流域から動乱を逃れてやってきた「呉」などの末裔である、とお話しました。ここで、中国史書の記載とつながります。そして、九州北部に進出してきたとされる年代も、ほぼ一致しますね。


以上を図に表すと、下図のとおりです。


周~呉~日本


さてこの図を、Y遺伝子O系統の移動ルート図と比べてみてください。

日本渡来ルート(Y-O系統)

驚くほど、似ていますね。まさに、神話の世界が科学的データと一致している、と言えましょう。

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日本人はどこからやってきたのか?(11) ~ 遺伝子分析結果と史書との関係

ここまで、日本人がどこからやってきたのか、について、人類の誕生から始まり、アフリカから出て、シベリア方面、中国・朝鮮半島、沖縄方面など様々な地域から、長い時間をかけてやってきたことを、お話してきました。その旅は、私たちの想像をはるかに超える苦難を伴う旅であったと思われます。私たちのご先祖さまに対して、自然と敬意と感謝の気持ちが湧いてきますね。何と言っても、ご先祖さまがそうした困難に打ち克ち、日本列島まで来てくれたお蔭で、私たちがこのように生きていられるわけですから・・・。

ところで皆さんのなかには、このブログは途中までは中国史書や日本神話の話だったのに、なぜ突然、人類史のような大きな話になったのか、話が飛躍しすぎではないのか、という感覚をもたれている方もいるかもしれません。

実はここまで詳しくお話してきたのは、理由があります。もしかしたら、勘のいい方はすでに気づかれたかもしれません。

もし中国史書や日本神話に、この移動の痕跡が残っているとしたら、興味深いと思いませんか?。

では、みてみましょう。史書に残る記録としては、数千年前から、といったところでしょうから、その頃からです。数千年前からとなると、主にY染色体DNAのO系統の移動が対象となってきますので、その移動ルートを、まとめます。

日本渡来ルート(Y-O系統)

図に示した通り、O系統は、東南アジアから北へ移動します。時期は、8100年前と推定されてます(Jin et al.2003)。

ひとつは、O3系統で、中国黄河流域で繁栄しました。そして、5000年前から、今度は黄河流域から南へ移動したと推定されます。

もうひとつが、O2系統で、揚子江流域で繁栄しました。O2系統は、その後、揚子江流域から北と南へ移動を開始したと推定されます。その移動の要因は、O3系統の南下に伴う動乱によるものと考えられます。

移動したO2系統からO2b系統が分岐し(3300年前)、移動開始したのが2800年前と推定されてます(Jin et al.2003)。そのうち北へ移動したO2b系統の人々が、朝鮮半島を経て、日本列島にやってきた渡来系弥生人と考えられます(Shinka et al.1999,Jin et al.2003)。
一方、南へ移動したのは、O2系統から分岐したO2a系統で、華南から東南アジアへ移動したと推定されます。

では、この時代について書いてあると考えられる中国史書をみてみましょう。


古代中国の神話時代の人物といえば、
三皇五帝(さんこうごてい)が挙げられます。

三皇と五帝に分かれ、三皇は神、五帝は聖人としての性格を持つとされ、理想の君主とされました。伝説では、最初の世襲王朝・夏より以前の時代とされてます。


三皇については、まさに神話の世界で、架空の人物と考えられてますが、五帝は、実在との説もあります。司馬遷の史記では、黄帝・顓頊・帝嚳・堯・舜の五人としています。最初の黄帝は、紀元前2510年~同2448年とされてます。ちなみに、中国の小学生の教科書では、黄帝が中国人の祖先とされ、”黄帝が車と船を発明し、衣服と帽子の作り方を教えたとあって、黄帝夫人の嫘祖(るいそ)が養蚕を始め、倉頡(そうけつ)が文字を発明したとも説明している。”(「夏王朝」岡村秀典著による)そうです。

<黄帝>
黄帝

                  (Wikipediaより)

O3系統が黄河流域から南下始めたのは、5000年前と推定されているので、黄帝の少し前から、ということになります。では、黄帝についてみていきましょう。「史記」からです。


黄帝は、姓は公孫、名は軒轅(けんえん)といい、乱れた世のなかで、黄河流域で次第に力を蓄えていきます。そして、最大のライバル蚩尤(しゆう)との戦いに勝利し、黄帝として即位しました。


その後、黄帝の死後、顓頊・帝嚳・堯・舜と続き、その舜が後継と指名したのが、です。そして、その禹が開いた王朝が、夏王朝(紀元前1900年~同1600年)となります。


このように、黄帝から最終的に禹が夏王朝を開くまでの間に、数限りない争いの様子が描かれています。そのなかでも、特に南方の揚子江流域の人々との戦いは多く、最終的に、勝利を収めたわけですから、当然それにつれて、黄河流域から南下して、揚子江流域に多くの人々が流れ込んだと推測されます。

実は黄帝のライバルの蚩尤は、南方の苗族(ミャオ族)にまつわる集団との説があります。。黄帝は、その戦いに勝ったわけですから当然人も南方に流れこんだことでしょう。ちなみに、現代のミャオ族は、中国南部、タイ、ミャンマー、ベトナム、ラオスに分布しており、もともと揚子江流域に住んでいたものの、こうした経緯で周辺地域に逃れた可能性はあります。


五帝の神話が、史実なのか作り話なのかは別として、長年の戦いのなかで、黄河流域の人々が南下して揚子江流域にも流れこんだことは間違いないでしょう。Y遺伝子の分析結果と同じです。なお、ここではY遺伝子のうち、O3系統の動きを挙げましたが、D系統についても、揚子江流域から北(黄河流域)へ向かい、そこから東(朝鮮半島方面)や南西(揚子江上流、チベット方面)に移動していることが推測されているので、D系統の移動も絡んでいる可能性もあります。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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