銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (9) ~ 銅鐸の「破壊」と「消滅」の謎
さらなる銅鐸の謎について、迫ります。
銅鐸は、3世紀には消滅したとされてますが、あれほど全国規模で発展した文化が、なぜ突然なくなってしまったのでしょうか?。
春名氏によれば、
”首長の権威が高まるに連れ、次第に共同体祭祀である「畿内勢力(初期大和政権)による銅鐸配布」から、「三角縁神獣鏡の配布」へ、さらに「古墳祭祀」へと変貌していった”となります。
しかしながら、島根県荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡での銅鐸大量出土や、九州北部における銅鐸・銅鐸鋳型の出土など、近年の多くの発見により、現在においてこの説が成立しえないことは、前回お話ししました。
そもそも、先祖が数百年にわたって継承されてきた「銅鐸祭祀」というものを、その子孫が簡単にやめる、ということがあるのだろうか?、というのが、率直な疑問です。
確かに「首長の権威が高まり、今までの祭祀はふさわしくないから新たな祭祀を始めることになったのだ。」という考えもあるでしょうが、よほどのことが起きない限りありえないのではないでしょうか?。
もうひとつ、銅鐸に関しては、「破壊の謎」があります。
多くの地で、破壊された銅鐸破片が見つかってます。これは、何を意味するのでしょうか?。
春名氏によれば、
1.稲が予定とおり生育しなかった場合に、その罪を問われ破壊された。
2.外部の侵入者による。
3.再利用するため。
という3つの可能性を挙げたうえ、
”単に破砕されているという状態ではなく、破砕後一定の形状にそろえようとする意図がうかがえることは、破砕後の再利用を予定していることを思わせる。”として、3の説を主張してます。
ようするに、”「銅鐸配布」から「銅鏡配布」へと変貌したが、それにつれ銅鐸を破壊して再利用した”ということになります。
実際に、銅鐸を破壊して、再利用したと推測される遺構がみつかってます。
” 奈良県桜井市の脇本遺跡で、古墳時代初頭(3世紀初め)に捨てられた銅鐸の破片や銅くず、鋳型などが見つかり、県立橿原考古学研究所が6日、発表した。
銅鐸は弥生時代の祭祀で使われたが、古墳時代には使われなくなったことから、同遺跡は不要になった銅鐸をリサイクルして、別の青銅器を鋳造した小規模な生産工房とみられるという。
北西約4キロで大和王権につながるとされる巨大集落跡・纒向遺跡が同じ時期に出現しており、同研究所の寺沢薫調査研究部長は「纒向の都市建設と関係があり、王権の意向により、ここで青銅器を生産していたのかもしれない」と話している。
銅鐸の破片は3点で、最大で長さ約4センチ、幅3・5センチ。発掘した計9棟の竪穴住居跡のうち、1棟を埋めた土から見つかった。周囲には土製鋳型の外枠や鋳造の際に出る銅くずなどが散乱。集落内の別の場所で生産し、捨てられた可能性が高いという。”
(「四国新聞社WEB版、2007年12月6日」より)
<同上、完形なら1mの大きさだった>
(「朝日新聞WEB版、2007年12月7日」より)
この記事だけ読むと、なるほど銅鐸をていねいに破砕して再利用した、という印象を与えます。
ところが、同じ破壊でも、こうした言わば「おだやかな破砕」とは正反対のものが見つかってます。
”近畿式銅鐸に限って破片で見つかるものがあります。
また、野洲市大岩山1962年4号鐸は故意に双頭渦紋が裁断されています。
近畿式銅鐸の終焉には、故意に壊されて破棄されたものや、飾耳を裁断して銅鐸を否定するような行為が行われています。
銅鐸が前世の共同体を象徴する祭器であり、新たに台頭した権力者にとっては、邪魔な異物となったのです。”(「 野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)資料」より)
明らかに、激しい憎悪などの感情を感じます。つまり銅鐸文化を否定するために破壊された、ということです。
単なる、祭祀の変化といった、生やさしいものではなかった、ということです。そして、この資料においては、破壊したのは「新たな権力者」としています。つまり、「異文化をもった侵入者」ということでしょう。
もちろん、「このように破壊されたのは、銅鐸が稲を守護できなかった責任を負わされたからなのだ。」との考えもあります。
しかしながら、もしそれほどまでの責任を負わせるのであれば、存在するすべての銅鐸を破壊すべきでしょう。では、島根県の荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡のような大量に埋納された銅鐸は、なぜ放置されたのでしょうか?。当然、掘り返され、破壊されるべきでしょう。たまたま忘れたのでしょうか?。
また、銅鐸の分布は、西⇒東へと、移動してます。これはつまり、銅鐸の終焉も、西⇒東ということを表しています。
もし仮に、銅鐸の終焉が、同じ系統の権力者のもとで行われたのなら、なぜ、畿内初期大和政権が配布したはずの銅鐸の祭祀が、西から次第に消滅しているのでしょうか。普通に考えれば、畿内を中心として、ほぼ同じ時期に終焉するのではないでしょうか?。それがなぜ、銅鐸終焉の時期が、東海地方は遅れたのでしょうか?。
これは、やはり「異文化をもった侵入者」を想定しないと、解釈できないと考えます。
すなわち、”銅鐸祭祀をもっていた人々のところへ、異文化をもった人々が侵入した。そして銅鐸を破壊して、再利用した。侵入者は、西からやってきたから、銅鐸の分布も、西から東へ移動した。”
ということになります。
このように解釈すれば、すんなりと理解でみます。
いやいや、まだその説には納得できない、という方のために、もうひとつよく知られている話をします。
もし仮に、銅鐸が初期大和政権の権力の象徴であるなら、たとえ途中でその祭祀をやめたとしても、後世まで伝わるだろうし、記録にも残っているはずです。
ところが、大和政権の歴史をもっとも詳しく記しているはずの「古事記」「日本書紀」には、銅鐸の記載が一切ありません。記録に出てくるのは、
後に編纂された「続日本記」「扶桑略記」などです。
”丁卯。(713年=和銅6年7月)大倭国芋太郡波坂郷の人、大初位上村の君、東人、銅鐸を長岡の野地に得て、之を献ず。高さ三尺、口径一尺。其の制、常に異にして、音律呂に協(かな)ふ。所司に勅して之を蔵めしむ。”(「続日本記」巻九、元明天皇)
”戊辰(668年=(天智7年)正月十七日。近江国志賀郡に於て崇福寺を建つ。始めに地を平らかならしむ。奇異の宝鐸一口を掘り出だす。高さ五尺五寸。又奇好の白石を掘り出だす。長さ五寸。夜、光明を放つ。”(「扶桑略記」第五、皇円撰)
このように、7~8世紀に、銅鐸出土の記録が出てきますが、いずれも、「常に異にして」「奇異の宝鐸」など、いかにも今まで見たことも聞いたこともない宝物を扱うがごとしです。つまり、7~8世紀の人々は、銅鐸のことをまったく知らなかったということです。
もし銅鐸が初期大和政権のものであったとしたら、たとえそれが500年前に途絶えた祭祀だったとしても、何がしかの伝承は伝えられていたはじです。ところが、7~8世紀の大和政権の人々は、その存在すら知らなかったのです。
このことからわかることは、「銅鐸は、初期大和政権のものではなかった」ということです。
では銅鐸は、誰のものだったのでしょうか?。
そして、銅鐸を破壊して消滅させてのは、誰だったのでしょうか?。
次回、考えていきます。
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銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (8) ~ 銅鐸「埋納」の謎
では、あらためて「埋納」について、考えてみましょう。
まず、状況の整理です。
”埋納状況については村を外れた丘陵の麓、あるいは頂上の少し下からの出土が大部分であり、深さ数十センチメートルの比較的浅い穴を掘って横たえたものが多い(逆さまに埋められたものも二例ある)。頂上からの出土がないことは銅鐸の用途や信仰的位置を考える上で重要と考えられる。土器や石器と違い、住居跡からの出土はほとんどなく、また銅剣や銅矛など他の銅製品と異なり、墓からの副葬品としての出土例は一度もないため(墳丘墓の周濠部からの出土は一例ある)、個人の持ち物ではなく、村落共同体全体の所有物であったとされている。なお、埋納時期は紀元前後と2世紀頃に集中している。”
(Wikipediaより)
銅鐸は祭祀に使用されたと考えられますから、住居からの出土はないのはわかりますが、墳墓の副葬品としての出土がない、というのは、きわめて特徴的です。銅剣、銅矛とは、異なる扱いだったということです。なお、
”九州においては、主に集落遺跡の内部や、集落からそれほど遠くない周辺部で見つかってます。また原田(はるだ)遺跡出土小銅鐸のように、副葬品として見つかる例もあります。”(福岡市博物館HP「九州の銅鐸」より)。
つまり、九州における銅鐸の扱いは他の地域とは異なるわけで、ポイントの一つと考えます。
では、なぜ銅鐸は埋納されたのか?、です。Wikipediaに記載されている理由を見てみましょう。
a.平時は地中に埋納し、祭儀等の必要な時に掘り出して使用したが、祭儀方式や信仰の変化により使われなくなり、やがて埋納されたまま忘れ去られたとする説(松本清張等)
<寸評>
もっともらしい説ですが、”使われなくなって忘れられた”というのも、ずいぶんと間抜けな話です。青銅器といえば、今で言えばレアメタルのように高価な超貴重品だったわけで、溶かして他の物を作ることも可能です。簡単に忘れ去られるようなものではないでしょう。
b.米や穀物の豊穣を祈って拝んだのではないかという説
c.大変事にあたり神に奉納したのではないかという説
d.地霊を鎮めるために銅器を埋納した風習という説
<寸評>
こうした風習は、東南アジアでもあったとのこで、ありえるでしょう。ただし、ここでも、青銅器という貴重品を一つ二つならいざしらず、大量に埋めたままにしとく、というのはもったいない気はします。特に島根県の荒神谷遺跡などは、銅鐸6個のほか、銅剣358本、銅矛16本も一緒に埋納されていました。これだけの資源を、将来の利用も何も考えずに単に埋納した、というのも、しっくりきませんね。
いや、祭祀のときに取り出し利用したのだ、との考えもありますが、それではaと同じで、なぜ大量に埋納されたまま放置されたのか、の説明がつきません。
e.文字の未だ定まっていない時代に、任命書に代えて鏡ではなく銅鐸を授与したという説
<寸評>
解説にも”そもそも鏡を任命書として与えるような権力者、集団が当時日本列島に存在したかがまず問題である。”とあります。またもし仮に授与されたものだとしても、なぜ埋納したのか、の疑問は残ります。授与されたなら、恭しくどこかに飾るのが、普通だと思いますが・・・。
f.政治的な社会変動により、不要なものとして(多数の場合は一括して)埋納したという説(三品影映・小林行雄等)
<寸評>
祭祀の象徴を突然中止するほどの「政治的変動」とは何でしょうか?。よほどのことがあったとしか、考えられません。同じ文化をもつ支配者系統内での「政治的変動」考えにくいのではないでしょうか?。
g.銅鐸を祭る当時の列島の信仰的背景とは著しく異なる文化を持った外敵が攻めて来た等の社会的な変動が起きた時に、銅鐸の所有者が土中に隠匿して退散したという説(古田武彦等)
<寸評>
銅鐸が突然消滅したということは、単なる社会変動とは思えません。そうした観点から言えば、異文化をもった外的の侵入があった可能性が高いと考えます。ただし、外敵が攻めてきたときに銅鐸を隠したというのは、考えにくいでしょう。銅鐸埋納場所は、全国どこでもほぼ同様の場所であり、緊急事態のときにあわてて隠したとは、思えないからです。
以上のとおり、どの説も説明しきれない点があります。
では、どのように考えればよいでしょうか?。
確かに、外敵の侵入はあったかもしれません。これについては、次回以降取り上げます。ただし、埋納されている状況が、ほぼ全国同じであるということは、やはり何らかの共通する祭祀や風習などによるものと考えざるをえません。では、それの手掛かりはあるのでしょうか?。
興味深い事例があります。これも春成氏論文に記載されていたものです。
”・東京都府中市人見では、大正時代までは、石に像を彫った塞の神は、祭りが済むと穴を掘って埋めておき、明くる年の祭りの時にはまた掘り出してきれいに洗って祭壇を設けて祭っていた。そしてそれに近いようなことは方々でやっていたという。(「日本文化の形成」(宮本常一)より)
・宮城県船形山神社に神体として伝わる高さ19.4cmの金剛菩薩立像は、古代朝鮮からの渡来仏と推定されているが、平生は山麓に埋めてあり、例祭の日に、別当により秘密の場所から掘り出され、拝殿に安置されるという。(「飛鳥仏の誕生」(久野健)より)
・白川静氏が、殷代の青銅器がやはり、殷都を遠く離れた辺境の地に埋蔵されていることについて、異族を呪詛し、悪霊を圧服するために呪儀を行った痕跡であると論じ、日本の銅鐸についても論及している。”
このように、日本においても、埋納の風習が近年まであるばかりか、中国においても3000年前において、同様の文化があったとすれば、銅鐸埋納もこうした流れのなかで理解してもいいと考えられます。
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銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (7) ~ 従来説では説明できない「埋納」「破壊」「消滅」の謎
ここまで、銅鐸を出土地分布からみてきました。
ここから、いよいよ銅鐸の謎に迫ります。銅鐸に関しては、埋納の謎、破壊の謎、消滅の謎など、多くのことがわかっていません。それをみていきましょう。
銅鐸は、紀元前4世紀頃、中国、朝鮮半島日本にもたらされ、次第に大型化しますが、3世紀頃、突然と姿を消します。ではなぜ、あれだけ発展し、芸術的に見ても美しいものが、突然無くなったのでしょうか?。
銅鐸の埋納、消滅について、論文を紹介いたします。春成秀璽氏(国立歴史民俗 博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授)。によるものです。1981年に書かれた古い論文の一部であり、その後、島根県荒神谷遺跡銅鐸など、画期的な発見が相次ぎ、そうした成果が加味されてないのですが、逆に、かつての学会の見解を知るのにちょうどよくまとまっており、興味深いです。以下「銅鐸の時代」(春成秀璽)より、一部要約です。
"<用途>
・銅鐸は、稲魂信仰の産物である。
<保管場所>
・通常は、稲魂とともに、高倉に安置されていた。
<埋納>
・干ばつ・豪雨・虫害など稲魂をおびやかす非常事態の発生時においては、稲魂を守護できないかもしれないという恐怖感・不安感が、稲魂の座す平野へのいくつかの通路のうち、彼らがその時々に邪霊の侵入路と推断したその入口付近で銅鐸祭祀を行った後埋納された。
・銅鐸の本来の使用・保管状態の否定、おそらく奉献の意味を表そうとしているようにとれる。(銅鐸が丘陵の尾根上つまり境界線上ではなく、その少し手前に埋納されている。)。
<破壊>
3つの説がある。
a.稲の不生育・不稔熟は、稲魂の逃亡を意味する。だから、銅鐸の役割が稲魂の守護にあるとすれば、その責務を果たせなかった際はその罪を問われ、すでにその機能を喪失したものとして破壊措置がとられた。
b.破壊の主体者を他集団に求める。
c.破砕後一定の形状にそろえようとする意図がうかがわれることから、破砕後に再利用した。銅鐸祭祀の終焉時には、地上に遺されていた銅鐸は、むしろ積極的に破砕されて、他の器物に改鋳された。
<鋳造地域>
・畿内や特定の農業共同団体だけが製作にかかわった。
<配布>
・畿内、時に尾張から諸地方の農業共同体に配布・使用された。
<終焉>
・「聞く銅鐸」については、鏡の入手による影響のひとつとして、古式銅鐸の埋蔵がうながされ、銅鐸のもつ意味は忘れられた。
・「見る銅鐸」については、農業共同体間に共通の利害なり同盟関係が成立すると、銅鐸はそれを保護する役目をも課せられる。そうした関係が拡大され畿内中枢部を盟主とする勢力となった場合は、銅鐸は畿内社会を守護する神器として位置づけられる。
自然勢力との対立は、九州・吉備・出雲・東海地方等の諸勢力との対立と表裏一体ととらえられた。そうした勢力との関係も加わり、非常時には、(外部勢力との)境界で祭祀が行われ、埋納された。
<銅鐸祭祀から古墳祭式へ>
・首長権の確立にともない、稲穂信仰から首長霊信仰へと変貌し、首長が銅鐸に代わり穀霊の守護・穀倉の管理の任にあたることとなる。
・三角縁神獣鏡を賜与することは、配布者の霊魂の分与を意味し、畿内中枢勢力と、地方首長との同盟関係は、拡大され、それとともに。境界線の意味(銅鐸祭祀)は失われた。
・そうして、首長霊信仰に基づく「古墳」祭祀へと発展していった。”
銅鐸を、農業との関わりのなかで、「稲魂信仰の象徴」としているのは面白い表現です。通常は高倉に保管されていたが、非常事態に際し侵入を阻止するために境界線上に埋納された、との説は、説得力がありますね。
何と言っても注目は、”畿内勢力が同盟関係の象徴として配布していたが、畿内勢力が拡大して同盟関係が強化されるにつれて、三角縁神獣鏡の配布に代わり、やがて古墳祭祀へと発展していった。”としている点です。つまり、銅鐸は、初期大和政権のものであった、ということです。
これが当時の一般的な見解のひとつであったわけです。当時の考古学的成果から見れば、確かにこれで「なるほど」と思ったことでしょう。
ところが、その後、島根県荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡における大量の銅鐸・銅剣の出土、九州北部における銅鐸鋳型や銅鐸そのものの出土など、画期的な発見が相次ぎ、この説も、根本的な見直しをせざるを得なくなったことは、皆さんご存知のとおりです。
まず、ここまでお話ししたように、銅鐸の分布は、古い時代から、
山陰(出雲)・越前(福井) ・瀬戸内海地方 ⇒ 畿内 ⇒ 東海地方
となってます。
論文では、銅鐸は初期大和政権が同盟関係を示すために配布した、としてます。すると、同盟関係を初めに結んだのは、山陰・北陸・瀬戸内海地方となり、畿内に近い周辺勢力はそれに遅れたことになります。普通であれば、まずは畿内周囲の勢力との同盟を先にするはずです。瀬戸内海地方はいいとして、山陰・北陸地方との同盟が先とはどういうことでしょうか?。
いやいやそれは、たまたま島根で荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡での大量発見があったからだ、という人もいるかもしれません。
では、九州出土の銅鐸、銅鐸鋳型は、どのように説明するのでしょうか?。九州北部で銅鐸が生産されていたことは明らかです。しかもその銅鐸は、出雲出土の銅鐸と同笵で、いずれも九州北部産とされてます。初期大和政権が配布したとすれば、おかしな話です。実際、論文中にもこのことは補足として書かれており、今後の検討課題としてます。
やはり真実を究明するにあたっては、今までの固定観念を一度取り払い、最新のデータを基に、考える必要があります。次回から、あらためて考えていきます。
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銅鐸にみる「西→東」への移動 (6) ~ 九州出土銅鐸が与えたインパクト
ここまで、銅鐸の概略についてみてきました。”銅鐸は中国起源で、直接あるいは朝鮮半島経由で、紀元前4世紀頃、日本列島に伝わり、独自に発達しました。伝播ルートとしては、山陰地方(島根)、北陸地方(福井)、瀬戸内海(淡路島)などから畿内に伝わり、東海地方へと、広がっていった”との仮説を立ててます。
ところで、今まで九州のことには触れてきませんでしたが、九州との関係については、どうなのでしょうか?。
ひと昔前の歴史の教科書なら、銅鐸は畿内中心で「銅鐸圏」、九州は矛を主とする「銅矛圏」とありました。ところが、近年、畿内ではない島根県の荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡から、多くの銅鐸が発見され、これまでの定説が、覆されてます。
かつては九州においては、小銅鐸は出土していたものの、銅鐸は出土していませんでした。だから、「銅矛圏」と呼ばれていたわけです。
ところが、1980年、佐賀県鳥栖市安永田(やすながた)遺跡から、銅鐸の鋳型が発見されました。つまり、銅鐸が生産されていたことが明らかになりました。ここで作られた銅鐸は、主に山陽・山陰地方で出土するものと共通する特徴をもつものです。その後も、福岡市赤穂(あこう)の浦遺跡など、鋳型の発見例も増えました。
そして、1998年、ついに佐賀県の吉野ケ里遺跡で、銅鐸そのものが発見されました。その銅鐸はそれまでに発見されていた鋳型と、文様などの特徴が同じで、九州でも製作だけでなく。銅鐸を用いた祭祀が行われていた可能性が強くなりました(以上、「福岡市博物館HP、九州の銅鐸」参考)。
さて、この吉野ケ里銅鐸ですが、何と出雲で出土したと伝わる「伝出雲出土銅鐸(木幡家銅鐸)」と、同笵(どうはん、同じ鋳型で作られたもの)であることが、明らかになりました。
<伝出雲出土銅鐸(木幡家銅鐸)と吉野ヶ里銅鐸(右)>
この「出雲出土銅鐸(木幡家銅鐸)」については、
”・鈕(ちゅう)(吊り手の部分)の上半分が失われていますが、現状で高さ22.3cm、下辺の長径が13.5cmと銅鐸としては比較的小さい部類で、弥生時代の中頃(約2000年~2200年前頃)に製作されたのではないかと考えられています。
・この銅鐸の身の片面には、三段の横帯(横方向の帯状の文様)に挟まれた上下の区画に注目すべき文様が鋳出されています。
・上段には切れ長の目と眉、目の下に連続する鼻が描かれていて、怪しげな雰囲気を漂わせています。このような文様は「邪視文」あるいは「辟邪文」とも呼ばれ、邪悪なものを追い払う意味があるともいわれています。
・下段には首が長くてくちばしの長い鳥(サギだと考えられます)が描かれています。
・これらの特徴をもつ銅鐸は「福田型銅鐸」と呼ばれていて、この種の鋳型が九州で出土したことから、九州で製作されたと考えられます。
(「伝出雲出土銅鐸(木幡家銅鐸)」(市報松江8月号)より)
たしかに、銅鐸のやや上面に、人の顔と思しき怪しい文様が刻まれてますね。ちなみに、佐賀県安永田遺跡出土の銅鐸鋳型も、「福田型」です。
そして、「伝出雲出土銅鐸」は、北部九州で作られた可能性が高いとされています。
”福田型である伝出雲と伝伯耆国出土の横帯文銅鐸も北部九州産と考えられ、製品が移動してきただけでなく、福田型銅鐸を受容した思想的背景には、北部九州と共通する価値感が存在したことを想定してよいだろう。”(「山陰地方の青銅器をめぐって」(石橋茂登、奈良文化財研究所)より)
石橋氏は、伝出雲(現島根県)出土銅鐸のみならず、伝伯耆国(ほうきこく、現鳥取県)出土銅鐸も、北部九州で作られたとしてます。
こうした近年の発見は、これまでの「銅鐸圏」の概念を、一気に吹っ飛ばしてしまいました。
では、これらをどのように考えるかです。
冒頭お話ししたように、前回までで、伝播ルートとして、山陰地方(島根)、北陸地方(福井)、瀬戸内海(淡路島)などから畿内に伝わり、東海地方へと、広がっていったとの仮説を立てました。
ところが、九州北部での銅鐸出土および研究結果からみると、九州北部から山陰地方という伝播の可能性が出てきました。つまり、
九州北部 ⇒ 山陰地方、北陸地方、瀬戸内海 ⇒ 畿内 ⇒ 東海地方
というルートです。
もちろん現時点では、九州北部で出土している銅鐸の数は、他地方に比べ圧倒的に少ないうえに、九州北部では古い形の銅鐸は、出土していませんので、すぐにこうとは言い切れません。出雲からの伝播の可能性もあるでしょう。
しかしながら、少なくとも、出雲出土銅鐸と九州北部出土銅鐸が同笵であり、九州で作られた可能性が高いという事実は、重視すべきです。
また、そもそも銅鐸が、中国、朝鮮半島からもたらされたのですから、最初に九州北部に到達するのも自然です。
となるとたとえば以下のシナリオが考えられます。
1.銅鐸は、中国、朝鮮半島から、九州北部にもたらされた。
2.九州北部で生産が開始され、祭祀としての使用も始まった。
3.九州北部から、山陰、瀬戸内海に広まった。
4.さらに畿内、東海地方にも広まった。
5.九州北部の銅鐸祭祀は、早い時期に下火になった。そのため大型化もされず、生産量も少なかった。
6.他地方は、祭祀として長い期間使用され、次第に大型化していった。
もちろん一つの仮説に過ぎません。
しかしながら、可能性のひとつとしてはありうると考えます。
ちなみに、独自のスタンスで古代史研究に生涯を捧げた森浩一氏(もりこういち、元同志社大学教授)も、銅鐸について、「北部九州説」をとってました。
みなさんは、どのように考えますか?。
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