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土器が語ること(4) ~ 土器の実年代

ここまで、縄文土器から始まり、弥生土器、そして古墳時代の須恵器までみてきました。

これらを、時代の流れとともに表にまとめたものが「土器編年表」です。

「土器編年」とは、わかりやすく言うと、土器が出土した地層、土器の紋様、器形などにより、土器を細かく分類して、古いものから新しいものまで並べたもの、です。土器を時代順に並べただけですから、簡単なように見えますが、実はここに、大きな落とし穴が潜んでいます。

たとえば、”須恵器の登場を紀元400年とし、弥生時代終末を紀元200年と見てその間を土器の種類で均等に割ることにより、それぞれの土器が、実際の年代のいつ頃にあたるかをあてはめる”ということをやっているのです。その200年間を、なぜ均等に割ることができるのか、というところに、根拠はないようです。

随分と乱暴なやり方に思えますね。

では、「土器の編年表」をみていきましょう。多くの研究者が発表してますが、ここでは柳田康雄氏(国学院大学教授)のものを紹介します。

土器編年

柳田氏によれば、弥生時代は紀元前4世紀頃からとして、九州では夜臼式、板付式、となり、古墳時代が始まる紀元後3世紀頃から、土師器が登場します。一方畿内は、弥生時代初めが、船橋式、以下、第一様式から第五様式、古墳時代に入り、庄内式、布留式と並行して、纏向1式~5式まで、細かく分類されています。

見事と言っていいくらいきれいにまた詳細に整理されています。一見すると、これで何も問題なさそうです。しかしながら、いつかの問題があります。

ひとつは、それぞれの土器の製作時期の設定です。弥生時代の初めを紀元前4世紀頃、終わりを紀元後2世紀頃と設定していますが、その根拠は何なのか、ということです。

もうひとつは、分類の仕方が、かなり恣意的というか機械的にされていることです。つまり、時代の初めと終わりを設定して、その間をほぼ等分していることです。

これは一般的に指摘されていることですが、さらにもっと大きな問題があります。

ある地方で土器(Aとします)が出土した場合、その土器Aの製作時期を推定する際、”畿内で同じ種類の土器(たとえば庄内式土器)があれば、それを基準にして、当時は畿内が土器の製作がもっとも進んでいたから、その土器Aの製作時期は、畿内の土器よりやや遅い時期のはずだ。”と類推していきます。

このやり方は、はたしてどうでしょうか?

もちろんこのやり方で正しい製作時期が出る場合もあるでしょうが、ではそもそも”畿内の土器製作がもっとも進んでいた”という前提が成り立たなかったら、どうでしょう。すべては破たんしてしまします。実際、庄内土器の製作技術は、少なくとも播磨からもたらされたことがわかっていますし、さらにはもっと西、具体的には九州北部からという可能性もあるのです。


前に、”太宰府遺構には、古墳時代のものがない”、という話を紹介しましたが、こういうことが起こるわけです。

このように、「土器編年」というものは、私など理工系の頭の人間からみても、どうもしっくりいきません。もっと科学的に、明確なものはないのか、と誰でも考えてしまいます。

そうしたことから、近年は、各土器に付着した物質を科学的に分析して、製作時期を推定する研究が進んできました。

具体的には、土器の外面に付着したスス、吹きこぼれ、内面に付着した煮焦げなどを科学的に分析する炭素14年代測定法で、年代の測定を行います。

ここで炭素14年代測定法ですが(以下、小難しい話になりますので、興味のない方は飛ばしてください)、

”一般に地球自然の生物圏内では炭素14の存在比率がほぼ一定である。動植物の内部における存在比率も、死ぬまで変わらないが、死後は新しい炭素の補給が止まり、存在比率が下がり始める。この性質と炭素14の半減期が5730年であることから年代測定が可能となる。なお、厳密には炭素14の生成量は地球磁場や太陽活動の変動の影響を受けるため、大気中の濃度は年毎に変化している。また、北半球と南半球では大気中の濃度が異なっている。”(Wikipediaより)

簡単に解説すると、自然界のなかには炭素が存在してます。その炭素も、12C,13C,14Cの3種類があります。一番多いのが教科書で習う12Cで約99%、原子番号12の炭素ですね。次が13Cで約1%、一番少ないのが14Cで、その含有量は1.2×10のマイナス12乗と、ごくごくわずかしか含まれていません。
その14Cは、放射性同位体と呼ばれ、半減期5730年つまり約5730年ごとに数が半分に減少します。
生物は生きている限り、外界から炭素を取り込みますが、取り込む炭素の構成割合は、生物がもともともっている炭素の構成割合と同じですから、変わりません。
ところがその生物が死んでしまうと、外界から炭素を取り込まなくなります、すると生物内の炭素のうちC14だけは、放射性同位体ですから、約5730年ごとに、半分の割合になっていきます。
ですから、死んだ生物のC14の割合を調べれば、死んでからの時間が正確にわかる、というしくみです。

さらに、今までは採取できる量が少なくて測定ができなかった試料もありましたが、試料中の14Cの数そのものを直接数える加速器質量分析法(AMS法)が開発されたことから、分析が急速に進みました。

また、大気中の大気中の炭素14量は、宇宙線の変動や、海洋に蓄積された炭素放出事件を反映して変動してきたため、計測結果には誤差が生じます。そこで、年輪年代などで年代を較正します。これを較正年代と言います。

難しい話はこれくらいにして、話をもとに戻します。

こうしてまとめられたものが、下の表です。
「弥生時代の開始年代―AMS -炭素14年代測定による高精度年代体系の構築―」(国立歴史民俗博物館 学術創成研究グループ 藤尾 慎一郎・今村 峯雄・西本 豊弘)より

<較正年代による土器の実年代表>

  土器編年表2

弥生時代が紀元前10世紀頃から始まっているのがわかります。柳田氏の「土器編年表」では、紀元前4世紀頃からでしたから、600年もさかのぼっている、つまり古い時代となってます。

ここで注意が必要なのは、”弥生時代の定義が異なっている”ことです。ここでは、
”日本列島で初めて灌漑施設を備えた水田で稲作が始まった時代”
としています。したがって従来は縄文土器とされた山の寺式が、早期弥生土器となってます。同じく夜臼式Ⅱaも早期、その後の前期に夜臼式Ⅱb、板付式が続きます。

ところで、従来は弥生時代の開始年代を、紀元前4世紀としていましたが、その根拠は何でしょうか?。

同上論文からです。やや長くなりますが、興味深い内容です。

”弥生時代の開始年代にもっとも近くて製作年代の明らかな資料は、前漢時代の前1世紀前半に作られた鏡、いわゆる青銅で作られた前漢鏡である。この鏡は弥生時代中期後半に属する須玖式とよばれる甕棺に副葬品として納められている。日常土器では須玖Ⅱ式の中間の段階にあたる。したがって須玖式の時期が鏡の製作年代をさかのぼることはないので、中期後半が前1世紀前半を上限とすることがまず決定された。弥生時代の開始年代は、前1世紀前半から考古学的にどこまでさかのぼりうるかを検討した上で決定されることになるので、あくまでも推定値である。したがって推定のための仮定が崩れれば、開始年代も変わることになる。

推定のための仮定とは次のようなものである。
須玖式以降、九州北部の甕棺からは、作られた年代の間隔がおおよそ50年はなれた鏡が、甕棺の型式ごとに、製作年代順に出土することから、甕棺1型式の存続幅は、50年前後と推定された。また民族例から、一般に土器は母から娘へと世代を追って製作技法が引き継がれることが知られており、土器一型式=一世代=約25年という存続幅が推定された。このため、中期後半以降の弥生土器一型式の存続幅は25 ~50年と仮定されたのである。

前漢鏡が出土する須玖式の前には順に
汲田(くんでん)式→ 城(じょう)ノの越(こし)式→金海(きんかい)式→伯(はく)玄(げん)社(しゃ)式→板付Ⅰ式
という5つの甕棺型式があるので、25~50年×5型式=125~250年で、前1世紀前半から125年~250年さかのぼった前350~275年の前4~3世紀という開始年代が導き出される。これには中期前半以前の土器型式の存続幅も、中期後半以降の土器の存続幅と同じであるという第2の仮定も加わっている。”

簡単に言うと、中国の前漢時代に作られた鏡(前漢鏡)の製作年代である紀元前1世紀前半を基準に、その時代より古い甕棺型式が5つあり、1型式25~50年としてさかのぼると、紀元前4~同3世紀頃になる、ということです。

土器の製作技法は母から娘に伝えられ、それを1世代25年とするなど、興味深いところもありますが、随分といろいろの前提を積み上げて算出してますね。そのうち一つでも前提が崩れると成立しなくなってしまうわけであり、不安定な論理に感じます。

昔のように、科学的分析ができなかった時代はそれで仕方なかったと思いますが、分析技術が近年めざましい発展を遂げているわけですから、それを使わない手はないでしょう。

ただし、日本の考古学会では、未だに否定的な意見も多いようです。日本人は科学的思考能力に欠けている、などと揶揄されるのも、やむおえませんね。

もちろん炭素14年代測定法は万能ではありませんし、多方面にわたる検証とそれに伴う修正は必要でしょう。ただしそれはあくまで科学の世界の話であって、情緒的にあるいは権威主義から否定すべきものではないことは明らかです。

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土器が語ること(3) ~ 縄文土器から弥生土器、土師器、須恵器への変遷

前回、縄文土器と弥生土器の決定的な違いが、製作方法であることをお話ししました。具体的には、縄文土器が、地面上、掘った穴から、直接焼く「野焼き」であるのに対し、縄文土器は、草や土で覆って焼く「覆い焼き」であるということです。


さて、縄文土器から弥生土器は、そのように変遷を遂げていくわけですが、もう少し詳しく見ていきましょう。


縄文末期の土器として、「突帯文(とつたいもん)土器」があります。”直口縁をもつ煮沸用土器の口縁部や胴部に突帯を貼り付けて めぐらせる文様を主文様とする土器”で、その名のとおり、口縁部や肩部に突帯(とったい)と呼ばれる粘土の帯を貼り付けた特徴をもつ土器です。


九州北部で言えば、「夜臼(ゆうす)式土器」があたります。「夜臼式土器」とは、福岡県糟谷(かすや)郡新宮町の夜臼遺跡から出土した土器です。そして、それが弥生土器である「板付(いたづけ)式土器」へ変遷していきます。

「板付式土器」とは、福岡市博多区にある板付遺跡から出土した土器です。板付遺跡は、佐賀県唐津市の菜畑(なばた)遺跡に次ぐ、日本で二番目に古い水稲耕作跡があった遺跡です。また最初期の環濠集落があったことでも知られてます。

<夜臼式土器(右)と板付式土器(左)>

夜臼・板付式土器 


(福岡市埋蔵文化財センターHPより)

”煮沸用の土器、甕の口縁部と胴部に刻目のある突帯文をめぐらすタイプ(正面右)は、夜臼式(ゆうすしき)とよばれる。ゆるく外反する口縁端部に刻目を加えるタイプは、板付式土器とよばれ、両者は、縄文時代から弥生時代へ移行する過渡期において共存することが確認されている。”

とあります。

ここで注目すべきは、夜臼式土器から板付式土器は、急激に変化したのではなく、並行して使用されていた、という点です。夜臼式土器は、板付式土器より古いタイプですから、縄文系の人々が使用していたことになります。一方、板付式土器は、弥生系の人々が使用していたわけです。

二つの土器が併存していたということは、”縄文系の人々と弥生系の人々が、共存していた”ことになります。つまり、新しい文明(弥生土器)が入ってきた際、ただちに古い文明(縄文土器)を破壊・消滅させるのではなく、ゆるやかに移行していったということです。このあたりに、縄文時代→弥生時代への移行の特徴が表れていると言えます。

板付式土器ののち、九州北部においては、掘ノ越式→須玖式→高三潴式→下大隈式→西新式を経て、よく知られている土師器となります。土師器あたりから、古墳時代(3世紀中頃?~)にはいります。

一方、畿内では、まったく別の分類(編年)をしています。夜臼式の時代は、船橋式、板付式の時代が第一様式、以下第Ⅵ様式まであり、これが下大隈式の時代です。古墳時代に入り、よく知られている庄内式→布留式へとなります。庄内式・布留式は、また纏向1式~5式と分かれます。

<庄内式土器>

庄内式土器(豊中市) 

(大阪府豊中市HPより)

”底の形が尖りぎみで、底にも煤(すす)がべっとりと付いています。これは煮炊きをする時に、土器を台のようなものに載せて浮かし、土器の真下で火を炊いたことを示しています。弥生時代の平底から古墳時代の丸底へという、移り変わりの中間の特徴を示しています。
庄内式の甕は、弥生時代後期の伝統的な甕のつくり方の上に、ケズリや底を丸くするといった新たなわざを取り入れてできました。そのわざとは、当時最も発達した土器文化をもった吉備地方(現在の岡山県)からもたらされたものでした。庄内式の甕は、当時としては最先端の土器だったのです。
土器を薄くし、真下から火をあてることで、より早く煮ることができる…。この炊事時間の短縮という変化は、単に生活文化の変化というにとどまらず、それを必要とした社会の要請があったことを示しています。”(大阪府豊中市HPより)

庄内式土器2 

                                                          (大阪府豊中市HPより)




厚さが非常に薄い(なかには2~3mmのものもある)という技術の進歩もさることながら、その技が吉備地方(岡山県)からもたらされたというところに注目です。吉備と言えば、神武天皇が九州から東征した際の中間居留地であり、また「桃太郎」の伝説地でもあります。巨大古墳があることでも知られていますね。つまり、吉備は当時、畿内をもしのぐ巨大な支配勢力があった可能性があるということです。


<布留式土器>


布留式土器

(天理参考館HPより)

布留式土器は、奈良県天理市の布留遺跡から出土した土器です。布留遺跡は、初期大和王権の軍事を担った物部氏が本拠を置いた集落遺跡と言われています。初期大和政権の拠点とされる纏向遺跡の北方にあり、東側には、物部氏が古くから祭祀を司った石上神社があります。玉工房や武器工房との関連を示す遺物や渡来人とのかかわりを示す遺物も多数出土しており、布留式土器がどのように伝わったかについて、ヒントがあると思われます。

庄内土器、布留土器などの土師器ののち、須恵器の時代となります。
須恵器とは、
”日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器(炻器)である。土師器までの土器が日本列島固有の特徴(紐状の粘土を積み上げる)を色濃く残しているのに対し、須恵器は全く異なる技術(ろくろ技術)を用い、登窯と呼ばれる地下式・半地下式の窯を用いて還元炎により焼いて製作された。考古学的には、須恵器の出現は古墳時代中期、5世紀中頃とされる。日本列島で最古の窯は大阪府堺市大庭寺窯跡であるが、最初に須恵器生産が始まった場所(窯跡)として大阪府堺市南部、和泉市、大阪狭山市、岸和田市、にまたがる丘陵地帯に分布する陶邑窯跡群、福岡県の小隈・山隈・八並窯跡群が知られている。これらの系譜は、いずれも伽耶系である。”(Wikipediaより)

とあります。土師器までと違い、ろくろを使い窯で焼くという当時としては画期的な製法です。最初に須恵器生産が始まった場所として、大阪府の陶邑(すえむら)窯跡群が有名ですが、福岡県にも当初期の窯跡群があります。いずれも朝鮮半島南部の伽耶系であることは、ポイントですね。
 
<日下部遺跡(兵庫県神戸市)から出土した飛鳥時代の甕>
須恵器 


(兵庫県立考古博物館蔵、Wikipediaより)

以上、一通り、土器の変遷をみてきました。

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土器が語ること(2) ~ 縄文土器と弥生土器は何が違う?

前回、一口に縄文土器、弥生土器と言っても、外見だけからは、その違いは一般人にはよくわからない、という話をしました。

では、縄文土器と弥生土器は、具体的にどのように違うのでしょうか?。ここで整理します。

■形
縄文土器は、口が広くて底が深い形(深鉢形(ふかばちがた))が多いといわれますが、壺型や注口型(上写真)、浅鉢、香炉形、高杯、、皿形など様々な形があります。
弥生土器は、壷・甕(かめ)・鉢、皿を台の上に載せた形状の高坏(たかつき)などの簡素な形をしたものが多いです。

■模様
縄文土器は、名前の通り、縄を押し付けてつける縄目の模様がありますが、縄文を使わないものもあります。
弥生土器は、シンプルなデザインが多くなりました。

■製作方法
どちらも紐作りで作成します。紐作りとは、ひも状に伸ばした粘土を積み上げていく技法のことです。
縄文土器は、窯を使わない平らな地面あるいは凹地の中で、やや低温(600℃~800℃)の酸化焼成します(野焼き)。そのため赤褐色系で、比較的軟質です。
弥生土器は、藁や土をかぶせる焼成法でした(覆い焼き)。これが窯の役目を果たし、焼成温度が一定に保たれて縄文土器にくらべて、良好な焼き上がりを実現できました。縄文土器と比べて、明るく褐色で、薄くて堅くなってます。

■使用目的
どちらも、食料資源の調理・加工・盛り付け・貯蔵、祭祀目的で使用されたようです。弥生時代に特徴的なものといえば、九州北部の墓で多くみられる甕棺としての利用でしょう。

<弥生土器>

弥生土器 高松市 
(高松市HPより)

この写真をご覧になればわかるとおり、縄文土器と同じような形のものも多いわけです。他にも、縄文土器、弥生土器とも似たような特徴をもっており、明確な差がはっきりしません。

もちろん、専門家から見れば、いろいろあるのでしょうが、正直一般人からみて、よくわからないと感じます。

その要因は、「弥生土器」の定義があいまいだからではないでしょうか?

「弥生土器」とは、
” 縄文土器のあとに続き ,古墳時代の土師器 (はじき) や須恵器より古い土器。弥生時代を通じて製作,使用され た。”(「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」より)
とあります。

以上のとおり、”弥生時代に作られた土器”としかないわけです。その弥生時代すら時代が数百年遡るなどの議論が出ており、弥生時代の定義があいまいになってます。

その弥生時代ですが、
”日本において縄文時代に続く時代で,弥生土器が使用された時代。”(同上より)
です。

ようは、
「弥生土器とは、弥生時代につくられた土器」
であり、
「弥生時代とは、弥生土器がつくられた時代」
としています。

これは、数学的に見ると、不思議な定義です。お互いにお互いを定義し合ってますね。議論があやふやになるのも頷けます。

最近、日本における水耕稲作の時期が、従来より数百年さかのぼり、紀元前1000年頃とする説が発表されました。

こうしたことから、最近は、

”弥生時代の開始時期=水耕稲作が開始された時期”

となってきてます。
そうなると、

”弥生土器=水耕稲作の時代に作られた土器”

となります。だいぶ、すっきりしてきました。

とはいえ、当時の人々が、”今日から弥生時代になった。今までの土器作り(縄文土器)をやめて、新しい土器(弥生土器)を作ろう。”などと考えて、日本国中、突然弥生土器を作り始めたなどということが起こりうるはずがありません。

弥生時代に入り、弥生土器を作り始めた人々がいた一方で、頑なに縄文土器を作り続けた人々が多数いたはずです。むしろ初めは、そのような人々の方が多かったはずです。そうなると、その土器は、何と呼ぶのか、という問題が出てきます。

ようするに、肝心の土器の実態としての定義がないと、このような混乱が起こるわけです。もう少し、科学的に明確化する必要があると考えます。


では、二つの土器の決定的な違いとは何か、です。

もちろん、弥生土器は、水耕稲作用に作られた土器とも言えますが、祭祀などに使用される場合もあったわけですから、そうとも言い切れません。形、模様、、使用法による分類など
は、先にみてきたとおり、たいへんわかりにくいです。私は、もっとも特徴的なことは、製作法の違いにあるのではないか、と考えます。

つまり、縄文土器が「野焼き」なのに対して、弥生土器は藁や土をかぶせる「覆い焼き」です。その違いこそ、薄手で硬質な品質を可能にしたわけです。まさに、技術革新、イノベーションですね。

<覆い焼きの窯作成の様子>
弥生土器(覆い焼き) 
(秋田県秋田市HPより)

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土器が語ること (1) ~ 縄文土器の素晴らしさ

前回まで、銅鐸の分布などから、古代日本列島における権力移動をみてきました。そこからわかることは、明らかに、”「西→東」への移動があった”、ということです。そしてその結果は、史書や遺跡、科学的データとも一致しています。

では次に、土器についてみていきましょう。

土器の発明は、私たちの祖先の生活に画期的な変化をもたらしました。それまでの大型動物などを捕獲して食糧とするスタイルから、植物採集による食糧自給が可能となり、生活が安定しました。土器により、生では食べられないどんぐりや山菜を、柔らかくしたりアクを抜いたりするために砕いたり煮込んだりして加工することができるようになり、また貯蔵ができるようになったからです。

縄文土器が世界最古級であることは、前にお話ししました。青森県の大平山元Ⅰ(おおだいやまもといち)遺跡から出土した土器片が、16500年前と判定され、当時は世界最古とされました。その後中国において、20000年前とされる土器が出土したとの報告がありました。その真偽について論争はあるようですが、少なくとも、日本の土器が世界最古級であることは、間違いありません。


縄文土器は、弥生時代(紀元前5世紀頃)になるまで、14000年間もの長い間にわたり、日本各地で作られました。

北は北海道、南は沖縄諸島まで広い地域で、長い期間にわたり作られたため、様々な形のものがあります。

縄文時代を通じて派生した型式数は数え切れない程だが、それらを整理して様式としてまとめると70程度とされる。さらに時間軸でまとめると6期に区分され(後述)、時代を通じて概ね継続する地域文化圏ないし領域が日本列島全域で7~9あったようである。

草創期:約16,000年前~(ただし、縄文文化的な型式の変遷が定着するのは草創期後半から)
早期:約11,000年前~
前期:約7,200年前~
中期:約5,500年前~
後期:約4,700年前~
晩期:約3,400年前~(ただし、晩期から弥生時代への移行の様相は地域によって相当に異なる)”
(Wikipediaより)


”前期中頃までは煮沸用の深鉢が唯一の基本となるが,前期後半から浅鉢などの形式が加わり,さらに中期以降,晩期には注口土器,皿,壺など器種が豊富になる。”(「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」より)

縄文土器というと、真っ先に、「火焔(かえん)型土器」を思い出します。あの生命力がみなぎっているような豪快なデザインの土器ですが、縄文土器と言っても、すべてあのような形をしているわけではありません。素人からみると、一見して、弥生土器と間違えてしまうような縄文土器も多数あります。

<火焔型土器(深鉢形土器) 、縄文中期 伝新潟県長岡市関原町馬高遺跡出土>

 火焔土器 
 (東京国立博物館蔵)

<丸底深鉢形土器、 縄文草創期 横浜市都筑区花見山遺跡出土>

縄文土器深鉢  
(東京国立博物館蔵)

<人形装飾付壺形土器、 縄文後期 青森県弘前市十腰内出土 >

縄文土器壺  
( 東京国立博物館蔵)

縄文土器というと、特徴あるものとして、「亀ヶ岡式土器」があります・

”亀ヶ岡式土器(かめがおかしきどき)は、亀ヶ岡遺跡(青森県つがる市)の土器を基準とする東北地方の縄文時代晩期の土器の総称。亀ヶ岡式文化(かめがおかしきぶんか)は、今から約3000年ほど前に始まり、紀元前3-4世紀に終末を迎えた。亀ヶ岡式土器の大きな特徴は、様々な器形に多様で複雑怪奇な文様が描かれ、赤色塗料が塗布されている点である。西日本でもみられる土器だが出土は限られている。”(Wikipediaより)

<注口土器、 縄文晩期 青森県つがる市亀ヶ岡遺跡出土>
亀ヶ岡土器
(ギメ美術館蔵)

なかでも「遮光器土偶(しゃこうきどぐう)」は、世界的に有名ですね。

<遮光器土偶>
遮光器土偶  
(東京国立博物館蔵)

土偶は、女性をかたどっており、安産などの祈願に使用されたのではないかと考えられてます。こうしたことから、縄文時代は、女性崇拝文化だったのではないか、さらには女系社会だったのではないか、との説が出てくるわけです。

そのテーマは別の機会に譲るとして、今年に入り、ビッグニュースが飛び込んできました。

亀ヶ岡土器が、亀ヶ岡遺跡から約2000km離れた沖縄県北谷町の平安山原B遺跡から出土したのです。

”縄文時代晩期(約3100~2400年前)の東北地方を代表する「亀ケ岡式土器」と一致する特徴を持つ、沖縄県北谷町で出土した土器片について、調査した弘前大は19日、「西日本で作られた可能性が高い」と発表した。沖縄まで亀ケ岡文化が伝わったことが分かり、当時の交流を示す手掛かりとなるとしている。
土器の模様が、北陸や関東で作られた亀ケ岡系土器に似ているため、「北陸や関東に住んでいた人が、西日本へ移動し製作したのではないか」と同大の関根達人教授(考古学)は推定。”(河北新報オンライン、2017年5月20日)



亀ヶ岡土器、沖縄1 


亀ヶ岡土器、沖縄2 

(「河北新報オンライン、2017年5月20日」より)

縄文人が日本列島において広く移動し、交流していたことを裏付ける発表であり、興味深いところです。

以上、縄文土器が、外観だけみても、非常に多様性に富んでいることが、理解いただけたと思います。
また、日本列島北から南までの広い範囲にわたり、14000年もの間、継続して作られました。これだけ一つの文化が、長い期間にわたり存続した例は、世界的にみても珍しいわけで、縄文文化の素晴らしいところだと思います。


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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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