土器が語ること(4) ~ 土器の実年代
ここまで、縄文土器から始まり、弥生土器、そして古墳時代の須恵器までみてきました。
これらを、時代の流れとともに表にまとめたものが「土器編年表」です。
「土器編年」とは、わかりやすく言うと、土器が出土した地層、土器の紋様、器形などにより、土器を細かく分類して、古いものから新しいものまで並べたもの、です。土器を時代順に並べただけですから、簡単なように見えますが、実はここに、大きな落とし穴が潜んでいます。
たとえば、”須恵器の登場を紀元400年とし、弥生時代終末を紀元200年と見てその間を土器の種類で均等に割ることにより、それぞれの土器が、実際の年代のいつ頃にあたるかをあてはめる”ということをやっているのです。その200年間を、なぜ均等に割ることができるのか、というところに、根拠はないようです。
随分と乱暴なやり方に思えますね。
では、「土器の編年表」をみていきましょう。多くの研究者が発表してますが、ここでは柳田康雄氏(国学院大学教授)のものを紹介します。
柳田氏によれば、弥生時代は紀元前4世紀頃からとして、九州では夜臼式、板付式、となり、古墳時代が始まる紀元後3世紀頃から、土師器が登場します。一方畿内は、弥生時代初めが、船橋式、以下、第一様式から第五様式、古墳時代に入り、庄内式、布留式と並行して、纏向1式~5式まで、細かく分類されています。
見事と言っていいくらいきれいにまた詳細に整理されています。一見すると、これで何も問題なさそうです。しかしながら、いつかの問題があります。
ひとつは、それぞれの土器の製作時期の設定です。弥生時代の初めを紀元前4世紀頃、終わりを紀元後2世紀頃と設定していますが、その根拠は何なのか、ということです。
もうひとつは、分類の仕方が、かなり恣意的というか機械的にされていることです。つまり、時代の初めと終わりを設定して、その間をほぼ等分していることです。
これは一般的に指摘されていることですが、さらにもっと大きな問題があります。
ある地方で土器(Aとします)が出土した場合、その土器Aの製作時期を推定する際、”畿内で同じ種類の土器(たとえば庄内式土器)があれば、それを基準にして、当時は畿内が土器の製作がもっとも進んでいたから、その土器Aの製作時期は、畿内の土器よりやや遅い時期のはずだ。”と類推していきます。
このやり方は、はたしてどうでしょうか?
もちろんこのやり方で正しい製作時期が出る場合もあるでしょうが、ではそもそも”畿内の土器製作がもっとも進んでいた”という前提が成り立たなかったら、どうでしょう。すべては破たんしてしまします。実際、庄内土器の製作技術は、少なくとも播磨からもたらされたことがわかっていますし、さらにはもっと西、具体的には九州北部からという可能性もあるのです。
前に、”太宰府遺構には、古墳時代のものがない”、という話を紹介しましたが、こういうことが起こるわけです。
このように、「土器編年」というものは、私など理工系の頭の人間からみても、どうもしっくりいきません。もっと科学的に、明確なものはないのか、と誰でも考えてしまいます。
そうしたことから、近年は、各土器に付着した物質を科学的に分析して、製作時期を推定する研究が進んできました。
具体的には、土器の外面に付着したスス、吹きこぼれ、内面に付着した煮焦げなどを科学的に分析する炭素14年代測定法で、年代の測定を行います。
ここで炭素14年代測定法ですが(以下、小難しい話になりますので、興味のない方は飛ばしてください)、
”一般に地球自然の生物圏内では炭素14の存在比率がほぼ一定である。動植物の内部における存在比率も、死ぬまで変わらないが、死後は新しい炭素の補給が止まり、存在比率が下がり始める。この性質と炭素14の半減期が5730年であることから年代測定が可能となる。なお、厳密には炭素14の生成量は地球磁場や太陽活動の変動の影響を受けるため、大気中の濃度は年毎に変化している。また、北半球と南半球では大気中の濃度が異なっている。”(Wikipediaより)
簡単に解説すると、自然界のなかには炭素が存在してます。その炭素も、12C,13C,14Cの3種類があります。一番多いのが教科書で習う12Cで約99%、原子番号12の炭素ですね。次が13Cで約1%、一番少ないのが14Cで、その含有量は1.2×10のマイナス12乗と、ごくごくわずかしか含まれていません。
その14Cは、放射性同位体と呼ばれ、半減期5730年つまり約5730年ごとに数が半分に減少します。
生物は生きている限り、外界から炭素を取り込みますが、取り込む炭素の構成割合は、生物がもともともっている炭素の構成割合と同じですから、変わりません。
ところがその生物が死んでしまうと、外界から炭素を取り込まなくなります、すると生物内の炭素のうちC14だけは、放射性同位体ですから、約5730年ごとに、半分の割合になっていきます。
ですから、死んだ生物のC14の割合を調べれば、死んでからの時間が正確にわかる、というしくみです。
さらに、今までは採取できる量が少なくて測定ができなかった試料もありましたが、試料中の14Cの数そのものを直接数える加速器質量分析法(AMS法)が開発されたことから、分析が急速に進みました。
また、大気中の大気中の炭素14量は、宇宙線の変動や、海洋に蓄積された炭素放出事件を反映して変動してきたため、計測結果には誤差が生じます。そこで、年輪年代などで年代を較正します。これを較正年代と言います。
難しい話はこれくらいにして、話をもとに戻します。
こうしてまとめられたものが、下の表です。
「弥生時代の開始年代―AMS -炭素14年代測定による高精度年代体系の構築―」(国立歴史民俗博物館 学術創成研究グループ 藤尾 慎一郎・今村 峯雄・西本 豊弘)より
<較正年代による土器の実年代表>
弥生時代が紀元前10世紀頃から始まっているのがわかります。柳田氏の「土器編年表」では、紀元前4世紀頃からでしたから、600年もさかのぼっている、つまり古い時代となってます。
ここで注意が必要なのは、”弥生時代の定義が異なっている”ことです。ここでは、
”日本列島で初めて灌漑施設を備えた水田で稲作が始まった時代”
としています。したがって従来は縄文土器とされた山の寺式が、早期弥生土器となってます。同じく夜臼式Ⅱaも早期、その後の前期に夜臼式Ⅱb、板付式が続きます。
ところで、従来は弥生時代の開始年代を、紀元前4世紀としていましたが、その根拠は何でしょうか?。
同上論文からです。やや長くなりますが、興味深い内容です。
”弥生時代の開始年代にもっとも近くて製作年代の明らかな資料は、前漢時代の前1世紀前半に作られた鏡、いわゆる青銅で作られた前漢鏡である。この鏡は弥生時代中期後半に属する須玖式とよばれる甕棺に副葬品として納められている。日常土器では須玖Ⅱ式の中間の段階にあたる。したがって須玖式の時期が鏡の製作年代をさかのぼることはないので、中期後半が前1世紀前半を上限とすることがまず決定された。弥生時代の開始年代は、前1世紀前半から考古学的にどこまでさかのぼりうるかを検討した上で決定されることになるので、あくまでも推定値である。したがって推定のための仮定が崩れれば、開始年代も変わることになる。
推定のための仮定とは次のようなものである。
須玖式以降、九州北部の甕棺からは、作られた年代の間隔がおおよそ50年はなれた鏡が、甕棺の型式ごとに、製作年代順に出土することから、甕棺1型式の存続幅は、50年前後と推定された。また民族例から、一般に土器は母から娘へと世代を追って製作技法が引き継がれることが知られており、土器一型式=一世代=約25年という存続幅が推定された。このため、中期後半以降の弥生土器一型式の存続幅は25 ~50年と仮定されたのである。
前漢鏡が出土する須玖式の前には順に
汲田(くんでん)式→ 城(じょう)ノの越(こし)式→金海(きんかい)式→伯(はく)玄(げん)社(しゃ)式→板付Ⅰ式
という5つの甕棺型式があるので、25~50年×5型式=125~250年で、前1世紀前半から125年~250年さかのぼった前350~275年の前4~3世紀という開始年代が導き出される。これには中期前半以前の土器型式の存続幅も、中期後半以降の土器の存続幅と同じであるという第2の仮定も加わっている。”
簡単に言うと、中国の前漢時代に作られた鏡(前漢鏡)の製作年代である紀元前1世紀前半を基準に、その時代より古い甕棺型式が5つあり、1型式25~50年としてさかのぼると、紀元前4~同3世紀頃になる、ということです。
土器の製作技法は母から娘に伝えられ、それを1世代25年とするなど、興味深いところもありますが、随分といろいろの前提を積み上げて算出してますね。そのうち一つでも前提が崩れると成立しなくなってしまうわけであり、不安定な論理に感じます。
昔のように、科学的分析ができなかった時代はそれで仕方なかったと思いますが、分析技術が近年めざましい発展を遂げているわけですから、それを使わない手はないでしょう。
ただし、日本の考古学会では、未だに否定的な意見も多いようです。日本人は科学的思考能力に欠けている、などと揶揄されるのも、やむおえませんね。
もちろん炭素14年代測定法は万能ではありませんし、多方面にわたる検証とそれに伴う修正は必要でしょう。ただしそれはあくまで科学の世界の話であって、情緒的にあるいは権威主義から否定すべきものではないことは明らかです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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