fc2ブログ

シリーズ第三弾を出版しました!!

<この記事は当面、この位置に掲載します。最新記事は2つ下にあります。>

9月27日に、「図でわかりやすく解き明かす 日本古代史」シリーズ第三弾を出版しました。

前二著で、日本神話の「国譲り」「天孫降臨」から、邪馬台国の誕生、倭の五王、白村江の戦い、壬申の乱を経て、日本国が誕生するまでを、科学的視点をもって解き明かしてきました。

今回は時代をぐっと遡り、「日本人はいつ、どこからやってきたのか?」というテーマです。アフリカを出てから日本列島にたどり着き、繁栄を極めるまでを、描き出します。

今まで同様、科学的視点から切り込みますが、その結果と神話との間に、不思議な関係があることもわかりました。その関係とは?

これまでのブログの内容を編集し直し、ひとつの流れとしてわかりやすくまとめました。是非、購読賜りますようお願い申しあげます。

<目次>
第一章 中国最古級資料からみた倭人の源流
第二章 一年で二回の歳を数えたという「二倍年歴」説は本当か?
第三章 日本人は、いつどこからやってきたのか?<基礎編>
第四章 日本人は、いつどこからやってきたのか?<応用編>
第五章 日本人は、いつどこからやってきたのか?<発展編>



詳しい内容はこちらです。


続きを読む

スポンサーサイト



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

土器は語る(9) ~ 庄内式土器は畿内が最古か?

Purchase and enjoy MagabloSM!
This content is a MagabloSM (pay-to-view).
Purchase this content to continue to read!
What is MagabloSM?

土器が語ること(8) ~ 亀ヶ岡式土器が及ぼした影響

前回、突帯文土器の分布範囲が、福井から愛知県にかけてという話をしました。そしてその範囲の東は、亀ヶ岡式土器の分布エリアでした。今回は、その亀ヶ岡式土器について、みていきます。

亀ヶ岡式土器とは、前にも触れましたが、
”亀ヶ岡式土器(かめがおかしきどき)は、亀ヶ岡遺跡(青森県つがる市)の土器を基準とする東北地方の縄文時代晩期の土器の総称。亀ヶ岡式文化(かめがおかしきぶんか)は、今から約3000年ほど前に始まり、紀元前3-4世紀に終末を迎えた。亀ヶ岡式土器の大きな特徴は、様々な器形に多様で複雑怪奇な文様が描かれ、赤色塗料が塗布されている点である。西日本でもみられる土器だが出土は限られている。”(Wikipediaより)です。

遮光式土偶が世界的にも有名ですね。

<遮光式土偶>

遮光器土偶 

(東京国立博物館蔵)

この亀ヶ岡式土器ですが、突帯文土器など、西日本の土器にも影響を及ぼしたことがわかっています。

その分布範囲の推移を、縄文晩期前葉~縄文晩期後葉(九州では弥生早期)~縄文晩期末(同弥生前期)で、みてみます。

<東日本系土器の西日本への影響>

東日本土器西への影響 


(「新潟県の弥生時代前期~中期」(渡邊裕之、新潟県教育庁文化行政課)より)

縄文晩期前葉には、淡路島~兵庫県あたりまででしたが、縄文晩期後葉(九州においては弥生早期)には、何と九州北部~九州中部にまで、範囲を広げました。それが、縄文晩期(九州では弥生前期)には、岡山県~四国東部まで後退してます。

縄文晩期は、九州では弥生時代早期ですから、九州北部で水田稲作が始まった頃です。ここで亀ヶ岡式土器の影響範囲が次第に東へ後退する時期は、ちょうど水田稲作が東へ伝播する時期と重なることは、注目です。

このように、亀ヶ岡式土器が、西日本の九州にまで影響を及ぼしていたことがわかりますが、さらに驚くべき発見がありました。

亀ヶ岡土器が、亀ヶ岡遺跡から約2000km離れた沖縄県北谷町の平安山原B遺跡から出土したのです(以前紹介しましたが、再掲します。)。

”縄文時代晩期(約3100~2400年前)の東北地方を代表する「亀ケ岡式土器」と一致する特徴を持つ、沖縄県北谷町で出土した土器片について、調査した弘前大は19日、「西日本で作られた可能性が高い」と発表した。沖縄まで亀ケ岡文化が伝わったことが分かり、当時の交流を示す手掛かりとなるとしている。
土器の模様が、北陸や関東で作られた亀ケ岡系土器に似ているため、「北陸や関東に住んでいた人が、西日本へ移動し製作したのではないか」と同大の関根達人教授(考古学)は推定。”(河北新報オンライン、2017年5月20日)



亀ヶ岡土器、沖縄1 


亀ヶ岡土器、沖縄2 

(「河北新報オンライン、2017年5月20日」より)

亀ヶ岡式土器は、まさに日本列島全体に影響を及ぼしたことになります。

ここでさらにもう一つ、興味深い研究成果を紹介します。

ひとつは、九州北部での最初の弥生土器の文様に、亀ヶ岡式土器の影響がある、というものです。これは、先に挙げた亀ヶ岡式土器の影響範囲の話と一致します。

”福岡県や佐賀県など北部九州での調査の結果、最初の弥生土器文様の大部分は、東北縄文の亀ヶ岡式文化の文様に起源することが明らかになりました。分析の結果、土器の粘土は地元産、文様は東北そのものであり、東北縄文人が北部九州に来て土器製作に関わったと考えました。また、東北の漆器も多数北部
九州に来ており、ものづくりでの東北縄文文化の影響は計りしれません。”(「弥生文化のルーツの解明」(国学院大学栃木短期大學 教授 小林青樹)より)




縄文土器から弥生土器
土器としては、突帯文土器のことかと思われますが、土器のみならず、以後隆盛を極める銅鐸の文様にまで影響を及ぼした、という指摘は、興味深いですね。考えてみれば、土器に影響を及ぼしたのであれば、銅鐸にも影響を及ぼしたとしても、何ら不思議はありませんね。

さらに、小林教授は、 
”中国北方の青銅器・鉄器文化の再検討の結果、戦国七雄の一つである燕国の鉄器などの痕跡を北部九州各地で確認したことです。これまでの定説よりも約250年前の紀元前4世紀中頃、すでに燕国や東方の遼寧地域との間に直接的な交流があったことを明らかにしました。
この2つの発見により、弥生文化の成立は、想像を超える遠隔地とのダイナミックな交流によって達成されたものであることがわかりました。”

としてます。

弥生文化形成の流
(以上「弥生文化のルーツの解明」(国学院大学栃木短期大學 教授 小林青樹)より)

”弥生文化の形成に、中国北方地域からの影響もあった”、としてます。朝鮮半島経由でもたらされたのか、或は海上ルートなのかは別として、これも考えてみれば、充分にありうる話でしょう。

以上のとおり、弥生文化は、中国の江南や朝鮮半島のみならず、中国北方、そして日本の東北地域からの影響を受け、複合的に形成された、ということになります。何とも、壮大な話ですね。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。 

にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

土器が語ること(7) ~ 突帯文土器と遠賀川式土器の分布範囲が違う理由とは?


前回、縄文時代から弥生時代へと変わる過渡期における代表的な土器である、突帯文(とつたいもん)土器と遠賀川式(おんががわしき)土器を取り上げ、その違いについて、お話ししました。

突帯文土器は、在地の縄文系の人々のところへやってきた渡来系弥生人が教えて技術を取り入れ、縄文土器をベースに製作されるようになったと推定されます。

一方、遠賀川式土器は、その後、集団でやってきた渡来系弥生人が主体であり、環濠や青銅器副葬などの文化とともに、持ち込まれたと推定されます。そしてこの集団が、首長となり、地域一帯を支配したと考えられます。

このように、異なるバックボーンをもつ2つの土器ですが、実は興味深いデータがあります。

それは、2つの土器の日本列島での分布領域に、大きな違いがあることです。


まずは、突帯文土器の分布領域です。

突帯文土器分布図

(「水稲稲作と突帯文土器」(藤尾慎一郎)より) 

やや見づらいですが、図の通り、突帯文土器は、西日本のみに分布してます。九州北部から東へ伝播したものの、その東限は、福井県から愛知県のラインにかけてであり、そこで伝播が止まったことになります。ここで東日本は、縄文土器である亀ヶ岡式土器分布領域であることは注目です。つまり東日本では、突帯文土器が伝わってきたとしてもそれを受け入れず、従来の亀ヶ岡式土器を使い続けたということになります。


一方、遠賀川式土器です。

遠賀川式土器分布

西日本は「遠賀川式土器」主体で、この領域は、「突帯文土器」の分布とほぼ一致します。そして、中部・北陸・関東地方は「搬入遠賀川式土器+模倣土器」、東北地方は「遠賀川式模倣土器」のみです。

ここで、「遠賀川式模倣土器」とは、遠賀川式土器と類似した土器で、遠賀川式土器を模倣して作られたと考えられている土器で、一般的に「遠賀川系土器」と呼ばれます。


つまり、「遠賀川式土器」は、突帯文土器の分布領域の東限の福井県から愛知県のラインで止まりましたが、「遠賀川系土器」はさらに東へ北へと伝播しました。


最北の「遠賀川式土器」は、「砂沢遺跡」(図参照)から出土した土器です。

”青森県弘前市にある縄文~弥生時代の遺跡。縄文時代終末期の砂沢式土器の標式遺跡であり,古くからその存在は知られていた。 1987年から調査され,砂沢式土器に伴う水田の跡が確認された。それとともに弥生時代前期の土器である遠賀川系の土器が出土し,大きな話題となった。垂柳遺跡で確認された水田より古い時期にさかのぼることは明らかで,北九州に成立した弥生文化はきわめて速い速度で本州北端まで達したことが確認された。しかし稲作農耕はこの地に定着することなく終ったとされる。 ”

(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)


このように、遠賀川系土器と弥生時代水田遺跡の分布域が重なることが知られてます。このことから、水田耕作技術をもった集団が、遠賀川系土器を携えて、東へ北へと移動していったと、推測されます。

 

興味深いのは、その移動速度が速かったこと、そして東北地方の方が、関東地方より早く伝わったと考えられることです。


普通であれば、中部地方→関東地方→東北地方の順に伝播するはずですが、少なくとも現在までの発掘状況からすると、そうはなっていません。むしろ、最北端の青森県砂沢遺跡が、弥生時代前期という、きわめて早い時期に、水田耕作が始まっています。


こうしたことから、伝播は、陸地を伝わったのではなく、海上ルート、特に日本海から伝わったという見方が出ています。縄文時代から、日本海による交易ルートがあったと推定されてますから、不思議ではありませんね。

 水田稲作と遠賀川式土器の広がり
(平成20年度 桜土手古墳展示館特別展「古の農ー古代の農具と秦野のムラ」より)

やや見にくいのですが、赤色のルートが、水田稲作の広がり、青色のルートが、「遠賀川式土器」の伝播を示しています。「遠賀川式土器」は、日本海を北上するルートと、内陸部を北上するルートがあったと推定されます。当時の人や物資の移動事情を考えれば、海上ルートが早かったのも、うなずけます。

では、なぜ「突帯文土器」は、伊勢湾付近で止まり、「遠賀川系土器」は、東北地方へと伝播したのでしょうか?。


その要因はいろいろあるでしょうが、やはり水田耕作技術との関連が強いと考えられます。つまり、”「突帯文土器」の時代の水田耕作技術は、小規模で灌漑技術などが進んでいなかったため、東北地方には受け入れられなかった。一方、「遠賀川系土器」の時代になり、渡来系弥生人の数も増え、水田耕作技術も進み、受け入れられるようになった。"

というストーリーです。

縄文時代の晩期は、気候が寒冷化したものの弥生早期から温暖化し始めたので、そのことも関係しているかもしれません。稲の品種改良により、耐寒性のある品種ができた可能性もあります。

いずれにしろ、水田耕作の東進・北進に連れ、渡来系弥生人も、関東・東北地方へ、相当数移住したことでしょう。


ここで注目すべき点があります。搬入された「遠賀川式土器」と、その「遠賀川系土器」を模倣して現地で製作された「遠賀川系土器」は、混在して出土することです。ということは、やってきた渡来系の人々と、現地の縄文人は、共存していたことになります。これは、九州北部においても同様で、「突帯文土器」と「遠賀川式土器」が、同じ遺跡から出土してます。

通常であれば、文化の異なる人々がやってきたのであれば、そこで大きな争いになるはずですが、そうではなく、お互い協力し合いながら、或は少なくとも棲み分けをしながら生活していたわけです。実際、遺跡や出土物をみても、大きな戦いの痕跡は、少ないとの報告もあります。

これは素晴らしいことではないでしょうか。近代においても、日本人は外来の文化をうまく取り入れて発展してきた、と言われていますが、そういった気質は、古代から引き継がれているのかもしれませんね。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。 

にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村







テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

土器が語ること(6) ~ 突帯文土器と遠賀川式土器

前回までで、土器の型式、実年代、どこから伝わったのか、などについて、概略をまとめました。

今回から、そうした基礎知識を基にして、いくつかの興味深いテーマについて、掘り下げていきます。

今回は、突帯文(とつたいもん)土器・遠賀川(おんががわ)式土器についてです。


突帯文土器については、すでにお話ししましたが、おさらいをしますと、。”直口縁をもつ煮沸用土器の口縁部や胴部に突帯を貼り付けて めぐらせる文様を主文様とする土器”で、その名のとおり、口縁部や肩部に突帯(とったい)と呼ばれる粘土の帯を貼り付けた特徴をもつ土器です。

九州北部でいえば、「夜臼(ゆうす)式土器」などがあたります。

かつては、縄文時代晩期の土器とされていましたが、弥生時代の始まりを”水耕稲作が始まってから”となってきたため、最近では、弥生早期の土器とされています。


もうひとつ、とてもよく知られている土器に、「遠賀川(おんががわ)式土器」があります。

”西日本の前期弥生土器の総称。福岡県遠賀川の河原から発見された立屋敷遺跡より,多くの資料が得られたのにちなんで 1939年,小林行雄によって名づけられた。北部九州から近畿地方に及ぶ地域を中心に分布し,地域間での共通性が非常に強い土器様式である。土器の特徴から北部九州の板付式土器が最も古いと考えられる。”(「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」より)


<夜臼式土器(右)と板付式土器(左)>

夜臼・板付式土器


時代で言うと、突帯文土器が縄文晩期(弥生早期)、遠賀川式土器が弥生前期ですから、突帯文式土器のほうが先行します。


では、それぞれの土器は、誰が作り使用したのでしょうか?

こうした疑問に対して、興味深い論文があります。
「福岡平野における弥生文化の成立過程 狩猟採集民と農耕民の集団関係」(藤尾慎一郎,国立歴史民俗博物館研究報告 第77集 1999年3月)
   
藤本氏によれば、突帯文土器は、在来の狩猟民が縄文土器の系統を引き、半島から得た製作知識をもとに作り始めたとしてます。では、その知識をどのように得たのかです。

論文で、福岡平野における弥生文化の成立過程を説明しうる面白いモデルを紹介してます。


”狩猟採集民の農耕民化を説明するモデルの一つに非農耕民(この場合は地元の狩猟採集民とすでに農耕民化した集団(この場合は朝鮮無文土器時代の人びととの相互交流の結果,非農耕民が農耕民化するという相互関係モデル(interaction model)がある。もともとヨーロッパ北西部の辺境地域における新石器文化の成立過程を説明するモデルとして考え出されたもので,いろいろなケースが想定されている〔ピーターソン 1981〕〔ゼベルビル・ローリーコンウィ 1984〕〔デンネル 1985〕〔ソルベルグ 1989〕〔グリーン・ゼベルビル 1990〕。”

ここで、非農耕民(地元の狩猟採集民)とは「縄文系弥生人」、農耕民とは「渡来系弥生人」、ということになります。(論文中では、弥生時代に生きていた人々は、すべて弥生人と定義してます。)
そして、
”弥生文化の成立過程の場合は多数を占める在来の狩猟採集民が少数の農耕民との関係のなかで農耕民化していくケースにあたり,その意味でデンネルのフロンティア理論にもっとも近いパタ-ンを示すと考えられる。”
としてます。

”在来の狩猟採集民がいる平野に渡来人がやってきた場合,両集団が何らかの関係をとりむすぶ可能性は高い。何かのきっかけによって渡来人と狩猟採集民の一部が一緒になって,これまで利用されていなかった下流域に占地し水稲農耕に専業化したと考えるのが自然である。”

在地人つまり日本列島の縄文人が、朝鮮半島の無文土器時代の人々と交流するなかで得たのではないか、としてます。もちろん、渡来人が実際にやってきて伝えたのでしょうが、その人数は少なく、藤本氏は、全体の人口の1割程度という数字を挙げてます。

そうしたなかで、突帯文土器も製作するようになった、と考えられます。ただし、あくまで在地の縄文系の人々が主体であったことは、間違いないでしょう。”考古学的に渡来人のコロニーが存在した証拠が得られていない”ことからも、明らかです。

このようにして形成された農耕集団が農耕社会化していくなかで、
”地域の環壕集落を形成して地域の拠点集落となり,その後も地域の核として発展し有力首長を生み出していく板付タイプの集団が生まれ、板付Ⅰ式甕の生産と供給をになった可能性がある"としてます。

なお"板付Ⅰ式土器の祖型となる「祖形甕」は、韓国の前期無文土器(検丹里式)の影響のもとで成立した"、としてます。

ここで、板付遺跡の環壕(かんごう)ですが、
”板付遺跡は,古諸岡川や那珂古川(現御笠川)がつくった谷底平野や氾濫原に囲まれた標高12~15mの中位段丘上に,長径が110mほどの内環壕に囲まれた居住域と,そのまわりに広がる貯蔵穴,甕棺墓地,さらにその外側をめぐる幅10mの外環壕と灌漑施設を備えた水田からなる。環壕は南北370m,東西170mに達する巨大な二重環壕である。”

そして"弥生Ⅰ期の終わりには、青銅器を副葬される首長集団をもつにいたった"としてます。

環壕、青銅器などは、大陸から伝わったものであることは確実です。

つまり、遠賀川式土器は、渡来系弥生人主体の集団の人々が作り、使用していたと言えます。

渡来系弥生人は、高身長、高顔であり、甕棺分布域と響灘(ひびきなだ。日本海南西部の海域で、東側は山口県西部、南側は福岡県北部で限られ、大島(福岡県宗像(むなかた)市)を境に玄界(げんかい)灘に続く)沿岸に分布することが、知られています。

板付遺跡はその分布域圏内ですから、渡来系弥生人主体の集団といえましょう。

以上のとおり、突帯文土器と遠賀川式土器は、形や文様などの型式のみならず、製法、そして作り始めるに至った経緯など、大きな違いがあることが、わかります。(なお論文では、遠賀川式土器と板付Ⅰ式土器を分けていますが、話をシンプルにするため、ここでは板付Ⅰ式土器も、遠賀川式土器に含めるとします。)

そして、弥生早期に、在地の縄文系の人々により突帯文土器製作が始まり、やがて渡来系の人々の数が増えて、遠賀川式土器を製作するようになったわけです

そのあたりは、どのような経緯だったでしょうか?。

これはあくまで推測になりますが、2つ考えられます。

A.当初は渡来系の人々の数は少なかったが、渡来系の人々の割合が増すにつれ、次第に渡来系文化に染まっていった。
B.途中から、遠賀川式土器製作の技術のほか、環壕、青銅器などの文明をもった集団がやってきて、勢力を拡大して、地域を支配した。

Aは「穏便な進化」、Bは「急進的な進化」とでも言えましょう。

進化という観点では、大きな社会変革と言ってよいくらいのものですから、Bの可能性が高いと考えますが、皆さんはどのように考えますか?。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。 

にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村







テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

土器が語ること(5) ~弥生土器はどこから伝わったか?

前回、縄文晩期から弥生時代、古墳時代までの土器の実年代について、お話しました。さらに、特に弥生時代の開始時期について、”水田稲作が開始された紀元前10世紀頃”として、土器もそれに合わせた較正年代も紹介しました。

ところで、その弥生時代から作られ始めた「弥生土器」は、どこから伝わってきたのでしょうか?

弥生土器の最大の特徴を、”「覆焼き」で作られた土器”とすれば、それと同じあるいはそれの進化形の「窯焼き」が、それ以前にどこで行われていたかを調べれば、すぐにわかります。

その前に、日本最古の「弥生土器」はどこで出土したのか、みていきます。

「弥生土器」といっても、実は明確な定義はなく、”弥生時代につくられた土器”としかないのですが、ここでは、「板付Ⅰ式土器」を最古の弥生土器とします(福岡市博物館HPより)。その名のとおり、福岡県福岡市博多区板付から出土した土器です。

<板付Ⅰ式土器>
板付Ⅰ式土器

(福岡市埋蔵文化財センターHPより)

となると、その土器の製作技術は、大陸から伝わったと考えるのが自然な流れですね。

中国は、古代より世界の陶磁器をリードしてきました。英語のチャイナ(China)という単語が、普通名詞の「磁器」を意味することをご存じの方も、多いと思います。「ボーン・チャイナ」も有名ですね。ちなみに、「ボーン・チャイナ」とは、”骨灰磁器。動物,おもに牛の骨灰を磁土やカオリンと混ぜて焼成したイギリス独特の磁器。”です(世界大百科事典第2版より)。つまり、”ボーン=bone(骨)”という意味です。私はかつて、”ボーン=born(生まれた)”であり、”「ボーン・チャイナ」=中国で生まれた”という意味だと思い込んでました・・・(汗)。

それはさておき、中国でいつごろから窯を使った陶器が作られ始めたのかです。

華北では、河南省新鄭市(しんてい-し)の裴李崗(はいりこう)遺跡(紀元前7000-同5000年頃)では中国最古級の窯跡が検出されてます。また、陝西省(せんせいしょう)西安市半坡遺跡(はんぱ いせき、BC4000年頃)は、環濠を伴う集落遺跡で、共同墓地や窯が検出されています。

<彩文土器、仰韶文化半坡類型>

彩文土器 

こうした文化は、その後の殷王朝(紀元前17世紀-同11世紀)にも引き継がれました。


<印文白陶壺、殷時代>

印文白陶壺 
              (ともにWikipediaより)

一方、朝鮮半島をみてみます。

朝鮮半島では、考古学上の年代を大きく分けて、櫛目文(くしめもん)時代(紀元前8000年-同1500年)、と無文(むもん)土器時代(紀元前1500年-紀元後300年)の、2つがあります。

櫛目文土器とは、その名のとおり、土器に櫛の歯のようなもので模様がつけられことから命名されました。朝鮮半島では、紀元前4000年頃に出現しました。

<櫛目文土器、ソウル市岩寺洞遺跡出土>

櫛目文土器 

           (Wikipediaより)

もともとの櫛目文土器ですが、
”ユーラシア大陸北部の森林地帯で発達し、バルト海沿岸、フィンランドからボルガ川上流、南シベリア、バイカル湖周辺、モンゴル高原、遼東半島から朝鮮半島に至るまで広く分布する。
最古のものは遼河文明・興隆窪文化(紀元前6200年頃-紀元前5400年頃)の遺跡から発見されており、フィンランドでは紀元前4200年以降、朝鮮半島では紀元前4000年以降に初めて現れることから、遼河地域を原郷にして朝鮮や、西はシベリアを経て北欧まで拡散していったようである。
日本の縄文土器にも類する土器(曽畑式土器)があり、また、弥生土器にも似た文様をもつものがある。”(Wikipediaより)

とあります。

つまり、もとは中国の内モンゴル自治区一帯で栄えた遼河文明で製作が開始され、それが朝鮮半島、そして日本列島にも伝わった可能性が指摘されてます。また興味深いのは、その文明が西へ伝播し、北欧のフィンランドまで伝わったことが推定されていることです。これはいずれ取り上げます。

さて、朝鮮半島では、紀元前1500年頃から、無文土器の時代となります。無文土器とは、その名のとおり、表面に模様をもたない様式の土器です。

<中期無文土器、大坪遺跡出土>
無文土器  
                           (Wikipediaより)

無文土器時代の前期(紀元前1500年-同850年)には、無文土器の他、支石墓、甕棺墓などが生まれましたが、同様のものが九州北部でも多くみられることから、九州北部との結びつきが強いと考えられます。


これをもって、朝鮮半島の無文土器は、九州北部から伝わったとする論者もいるようですが、無文土器では製法において「覆い焼き」の技法も使われていたので、無理筋のような気はします。


以上のとおり、中国から直接あるいは朝鮮半島を経て伝えられたのは、間違いありません。


なお、そのうちどちらのルートかについてですが、中国ではすでに窯を使った土器製作がされていたわけですから、中国から直接伝われば、日本でも弥生時代初期から、窯を使った土器製作をしていてもよさそうですが、その痕跡はありません。となるとやはり、朝鮮半島から伝わった、ということになりますね。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。 

にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



最新記事
最新コメント
読者登録
メールで更新情報をお知らせしますので、こちらに登録ください。
メルマガ購読・解除
図とデータで解き明かす日本古代史の謎
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
月別アーカイブ
カテゴリ
おすすめ
twitter
amazon business
おすすめの本
ブロとも一覧

アアト日曜画家

魏志倭人伝その他諸々をひもといて卑弥呼の都へたどりつこう

☆☆ まり姫のあれこれ見聞録 ☆☆&

中国通史で辿る名言・故事探訪

幕末多摩・ひがしやまと

客船の旅

黒田裕樹の歴史講座

しばやんの日々

Paradise of the Wild bird…野鳥の楽園…
更新通知登録ボタン

更新通知で新しい記事をいち早くお届けします

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR