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古墳は語る(3)~支石墓の伝播ルート

前回、日本古代の墳墓について、整理しました。見方によっては大胆な分類表かもしれませんが、おおまかなイメージをつかむのには、たいへんわかりやすいと思います。


これから詳細について、みていきます。

まず、支石墓です。

日本では、なかなか目にしない、特徴的なお墓です。支石墓とは、
”中国、朝鮮半島、日本に広く分布する巨石墳墓の一形態。北朝鮮で板石を3~4枚立てて方形石室をつくり、平たい大石をかぶせた卓子形のものを支石と称するのに由来する。
わが国には縄文時代晩期に農耕技術とともに西北九州地域に伝来した蓋石式、碁盤式があり、福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島県に分布している。
西暦1世紀後半ごろまでにはほぼ姿を消してしまった。
”(「日本大百科全書(ニッポニカ)」より)


新石器時代から初期金属器時代にかけて、世界各地で見られる巨石墓の一種であるドルメンの一種とする説もあります。確かに、同じ形ですね。西ヨーロッパが起源とされてますが、そこから伝播したというより、各地で独自に発祥したという説が有力です。
ただ、このような特異な形のものが、世界の各地で偶発的に発生するものなのか?、という疑問は残りますね。

<アイルランドのPoulnabroneにあるドルメン>
ドルメン
(Wikipediaより)

さて、東アジアの支石墓ですが、紀元前1500年頃に遼東半島付近で発生し、その周辺(現在の中国吉林省付近)へ広まったようです。当初は、地上に支石を箱形に並べその上に天井石が載るというテーブル状形態を示しており、天井石の下部では葬祀が行なえるようになっていました。中国東北部・遼東半島・朝鮮半島西北部に分布してます。

紀元前500年頃、支石墓は朝鮮半島(無文土器時代)へ伝播したようです。遺構は半島のほぼ全域で見られ(約4~6万基とされる)、世界の支石墓の半数が朝鮮半島にあるといわれてます。

南へ伝播するに従い、支石は地下へ埋設されるようになり、天井石が地表近くまで下りてます。大韓民国では、高くそびえるものテーブル式)を「北方式」、低いもの(碁盤式)を「南方式」と分類しており、両形式のおおよその境界は全羅北道付近とされます。また、天井石が碁盤状を呈するなど多様な類型を示していることも、朝鮮半島の支石墓の特徴です。紀元前後になると、銅剣(細型銅剣)が副葬されるようになりました。

朝鮮半島において、分布が特に顕著なのは半島南西地域(現在の全羅南道)です。同地域ではもっとも多い場所で500~600基の支石墓が群集してます。

日本では、縄文時代最晩期の九州北西部に出現しました。朝鮮半島南西部の強い影響があったと想定されてますが、日本の支石墓は朝鮮半島のものより小型化が著しく、また、屈葬の採用や甕棺を伴うことなど、一定の独自性も認められます。日本の支石墓は、弥生時代前期が終わる頃に、ほぼ終焉を迎えました。
(Wikipredia他より)

一般論的に解説すれば、上記の通りですが、もう少し細かくみていきます。

まず、日本の支石墓は、韓国のどこから九州北部のどこへ伝わったのか、という「伝播ルート」についてです。

ここで、たいへん緻密に解析した論文があるので、それを引用します。「支石墓伝播のプロセス 韓半島南端部・九州北部を中心として(2003.7  端野晋平、九州大学大学院比較社会文化学府)」からです。
 
論文では、韓半島南端部(47遺跡)および九州北部(49遺跡)の支石墓を対象に、墓地形態・墓壙・石槨施設・密閉施設・支石・埋葬容器という項目について、統計的に処理し分析してます。

そのアプローチ方法もたいへん興味深いのですが、膨大になりますので割愛して、結論のみ紹介します。


【日本の支石墓の韓国での起源地】
”ⅡA1類とⅡA2類の共存が認められる南江流域以西地域が起源地として推定される。これまでの見解では単純に支石墓の密集度から全羅南道を範囲とする西南部が注目されてきた(西谷1980;本間1991)が,支石墓型式からみると慶尚南道南江流域もその候補地として挙げることが可能であろう。”
としたうえで、さらに
日本で主としてみられる,柱穴を中央土壙の外側にもつ松菊里式住居址(検丹里型),外湾刃半月形(短舟形)石庖丁、愛媛県大渕遺跡,岡山県南溝手遺跡,兵庫県口酒井遺跡,大阪府船橋遺跡等で出土しているナスビ紋土器の分布を重ね合わせ、
”日本支石墓の祖型は、韓半島南端部の南江流域に起源する可能性が最も高い。”

としてます。ⅡA1類・2類というのは、支石墓を形態等で分類した区分の名称です(詳細は煩雑になるので、割愛します)。


<韓国支石墓起源地推定図>

支石墓源流地


【日本への伝播ルート】

学会的には、「済州島ルート」と、「対馬・壱岐ルート」に分かれてるようですが、論文では、「対馬・壱岐ルート」としてます。

さらに、九州北部内での到達地について、「五島列島を含む長崎県の西北九州」と「玄界灘沿岸」の2説について検討し、「玄界灘沿岸」と結論づけてます。ここで「玄界灘沿岸」とは、佐賀県唐津市・東松浦郡、福岡県糸島市近辺を指していると思われます。

以上より、”韓半島南端部から玄界灘沿岸に到達し、そこから西北九州・佐賀平野へと拡散した”、としてます。

<支石墓伝播ルート>

支石墓伝播ルート

【情報伝達の手段】

では、支石墓は、当時の在地系の縄文人、渡来系の弥生人と、どのような関わりのなかで伝播したのでしょうか?。論文によると、

”これまでの研究の中では特に本間元樹氏(1991)が出土人骨の形質との関係を踏まえ,この問題に踏み込んでいる。本間氏は福岡県新町遺跡・佐賀県大友遺跡・長崎県宇久松原遺跡の支石墓から検出された人骨がいずれも縄文的形質であり,かつ縄文的抜歯風習の頻度も高いことから,まず支石墓の伝播と渡来人の移住を分離する。そして,支石墓は渡来人の移住というよりは習俗の伝播の一例としてまず西北九州へ伝播し,一方,渡来人は支石墓よりやや遅れて稲作を始めとする諸技術を携え北部九州へ移住したと言うのである。”

という従来説を紹介してます。

これはしばしば引用される説です、ようは、支石墓の人骨が、低上顔・低身長であるから、在地の縄文人ではないのか?、という推測です。


ところが、縄文的形質をもつとされている新町遺跡出土9号人骨(熟年男性)の眼窩示数から、
”渡来人的であり、そのまま縄文人の末裔とすることはできない”、
としてます。そして、

”田中良之氏の研究(DoiandTanaka1987;土肥・田中1987)によると,人骨にみられる渡来的形質は,稲作適地である北部九州から適地ではない西北九州へと至るルートでは急激に失われていくという。これは先述の支石墓を含む稲作関連の諸要素の拡散の在り方と同様である。すなわち,北部九州(稲作適地)から西北九州(稲作不適地)へと至るにつれ,渡来人の遺伝的情報の欠落と同様に,支石墓を含む稲作関連の文化的情報も,変形あるいは欠落すると考えられるのである。”

と考察してます。さらに、

縄文晩期から継続した少数の移住者を想定する(田中・小沢2001;田中2002)のが,現在の研究の到達点としては最も合理的であろう。”

”半島南部と九州北部の各地域間で移住・婚姻・交易等を含む情報伝達の在り方に濃淡がみられること,とりわけ韓半島南部から北部九州へと支石墓築造と稲作に関する文化的情報,及び遺伝的情報が,縄文晩期中葉以来の渡来人の継続的な少数の移住によって,より濃密に伝達され,二次的にそこを起点として,通常の婚姻・交易等を媒介として周辺へと拡散したということである。”

長くなりましたが、簡単に言えば、

韓半島南端部から、対馬・壱岐を経由して、佐賀県唐津市・福岡県糸島市などの玄界灘沿岸に到達した。そこから九州西北部や佐賀平野へと伝播した。その伝播は、少数の渡来人が継続的にやってきたことによって、もたらされた。

ということです。


ここで注目したいことがあります。

一つは、九州北部への到達地点が、佐賀県唐津市・福岡県糸島市などの玄界灘沿岸だった、という点です。このルートは、以前お話しした、中国の使節が、邪馬台国へとやってきたルートと、ほぼ同じです。詳しくは「邪馬台国までの道程をたどる」を参照ください。


つまり、このルートは決して偶然ではなく、長い間にわたり、韓半島と日本列島との交流・交易に使われていたルートである、ということがわかります。


もう一つが、九州北部での、伝播範囲です。北西および南へは伝播しましたが、東つまり隣の福岡平野には伝播しなかった点です(須玖岡本遺跡に支石墓に似た墓がありますが、支石墓と言えるかは、微妙です。)。

支石墓分布 
では、なぜ福岡平野には伝播しなかったのでしょうか?


論文からです。

”支石墓不在地である福岡平野では,土器様式構造の変化,すなわち最古の弥生土器=板付I式の成立(田中1986)と連動して,支石墓の要素の内,上石・蓋石・石槨等の石を用いた構造物が欠落し,埋葬容器である木棺のみが導入される過程を示した。そして,このような変容過程を,周辺地域に対する福岡平野の文化的自立性の高まりを示すものと考えた。”

としてます。

少しわかりにくい表現ですが、ようは、福岡平野には確立された文化が形成されつつあり、容易に支石墓を受け入れなかった、ということでしょう。


実際、福岡平野(早良平野含む)には、吉武高木遺跡群、須玖岡本遺跡群など、三種の神器をはじめ豪華な副葬品が副葬された墓が数多く発見されてます。そしてそれらの墓は、支石のない甕棺墓や木棺墓などです。


こうしたことから推測するに、福岡平野(早良平野含む)には、当時すでに強大な権力をもった支配者がおり、彼らの文化とは異質であったため、支石墓の文化をもった人々はそこに入っていけなかった、ということが考えられます。

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古墳は語る(2) ~ 古代墳墓を分類整理すると・・・

前回、縄文時代から、弥生時代、古墳時代までの、お墓について概略お話ししました。

さまざまな名前が出てきて、頭の中がこんがらがりそうですね。ここで整理します。

気付いた方もおられると思いますが、それぞれのお墓は全く別のものということではなく、分類の切り口が異なるだけです。

たとえば、墳丘の有る無しとか、棺の有る無しとか、です。

もう少しわかりやすい整理がないものかと調べてみましたが、体系的にわかりやすく整理されたものがないので、自分なりに作成しました。学問的にみれば異論もあるかもしれませんが、あくまで理解を深めるためのものであることを、ご承知おきください。


墳墓分類表 
 


冒頭お話ししたとおり、分類の切り口が異なるだけですから、ダブることが多いです。

たとえば、弥生時代の代表的な墓である「甕棺墓」は、地下に埋めるだけのものから、上に大石を載せる「支石墓」であったり、墳丘を盛り土する「墳丘墓」であったりします。

<甕棺墓の種類>
甕棺墓種類


どうでしょうか。だいぶすっきりとしたのではないでしょうか。


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古墳は語る(1)~まずは古代墳墓の基礎知識から

ここまで、銅鐸、土器、という古代人の遺した文明の利器をみてきました。全国的な分布などを見ると、細かい点は置いておいて、大きな流れとして「西→東」という動きは確認できたと思います。

次に、古墳をみてみます。何と言っても古代というと、あの大仙陵古墳などの、巨大な前方後円墳を思い出します。そしてそれが畿内に多くあることから、4世紀頃には大和朝廷が全国支配したという論拠になっているわけです。また邪馬台国畿内説の根拠にもなってます。

まず始めに基本的なことの整理です。古墳については、銅鐸や土器以上に、話が複雑かつ多岐にわたるため、ここをしっかりやらないと、話がごちゃごちゃになってしまいます。

まずそもそも「古墳」とはなんでしょうか?

単純に、”古代人のお墓”と考えがちですが、それだけでは不充分です。

厳密に言うと、
”古代の墓で,土を高く盛り上げ,その中に遺骸を納めたもの。中国,朝鮮にもみられるが,日本では3世紀の後半から7世紀頃にかけて造られた墳墓をさし,特にその時代の貴族や地方の豪族など当時の支配者またはそれに準じる身分の高い人を葬ったものと考えられている。日本史の時代区分ではこの古墳の造られた時代を古墳時代という。”(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
となります。

つまり、
形状・・・土を盛り上げている
時代・・・3世紀後半から7世紀頃

ことが条件となります。

土を盛り上げた墓は、弥生時代にも作られてますが、それは「古墳」とは呼ばず、「弥生墳丘墓」と呼びます。

このあたりがややこしいというか、わかりにくいところです。つまり、
「古墳」=”古墳時代に作られた墳丘墓”
であり、
「古墳時代」=”古墳が作られた時代”
ということです。

お互いを定義し合ってますね。数学的にみてこれでいいのかな?、と理工系出身の私としては思ってしまいます。

土器のときにも同じ話がありましたね。
「弥生土器」=”弥生時代に作られた土器”
であり、
「弥生時代」=”弥生土器の作られた時代”
でした。
もっとも、最近は、
「弥生時代の始まり」=”水田稲作の始まった時代”
となっているようですが・・・。

まあ、現状はこうなっているので、これはこれとして話を進めます。また、今回の題も、「古墳は語る」としてますが、これはこういった事情で、正確に書くと「弥生墳丘墓」だのとも表記する必要があるのですが、かえってわかりにくくなるので、あえてそうしましたこと、ご了解ください。

ここで、日本のお墓の歴史をみてみましょう。

1.縄文時代

縄文時代のお墓は、残された遺構から推定して、土を掘ってそこに直接埋める「土壙墓(どこうぼ)」が一般的だったと考えられます。

これは考えてみればよくわかることですね。人が亡くなって、その亡骸をどうかするときに、もっとも簡単で、手間のかからないやり方ですから、それが一般的だったのではないか、と考えられます。

<土壙墓>
三内丸山遺跡 土壙墓 

”他にも、自然の洞窟や岩陰に遺体を葬ったものから、墓壙の上面や内部に礫を配した配石墓、板状あるいは扁平な礫を組み合わせた石棺内に遺体を納めた石組石棺墓、深鉢や甕などの土器内に遺体を埋めた土器棺墓(甕棺墓)、竪穴住居内に遺体を放置あるいは埋葬した廃屋墓など、実にバラエティーに富んでいました。”(「縄文時代における墓の変遷と祭り・親族・地域」(佐々木藤雄、国際縄文学協会)より)

<配石墓>
三内丸山遺跡 配石墓
(以上、三内丸山遺跡HPより)

埋葬方法は、当初は手足を折り曲げてしゃがんだ姿勢で埋葬する「屈葬」がほとんどであり、次第に体を伸ばした姿勢で埋葬する「伸展葬が増えていったとみられます。

甕棺墓は、弥生時代の九州北部を中心に大いに取り入れられますが、縄文時代においては、主として子供や乳幼児が埋葬されました。
また、地中に埋められた甕棺の上に数個の支石を並べ、その上を平らな1枚石で覆う「支石墓」が、縄文時代晩期に出現します。

なお、日本各地にあるストーンサークル(環状列石、かんじょうれっせき)も、配石墓ではないかとの見方もあり、興味深いところです。

2.弥生時代
弥生時代になると、さらに発展した形の墓が出現します。以下、Wikipediの分類に基づき整理します。

甕棺墓
”甕・壺を棺とする墓である。弥生時代前期~中期の北部九州で非常に顕著に見られる。甕棺墓は縄文時代から一部に見られていたが、甕棺は小型でありもっぱら乳幼児の葬送用であった。弥生時代前期の北部九州において、成人埋葬用に大型の甕棺が製造され始め、甕棺墓が定着し始める。この頃は、支石墓の直下に甕棺を埋葬する形態も見られた。弥生時代中期に甕棺墓は最盛期を迎える。主として糸島市付近、福岡市付近、佐賀県神埼郡付近などに分布していた。弥生時代後期から衰退し、末期にはほとんど見られなくなる。このような変遷は、地域社会の大きな変貌があったと考えられる。
弥生時代の甕棺墓の特色は、成人を埋葬した点、成人埋葬用に大型の甕棺を製造した点にあり、世界的にも朝鮮半島南部や中国の長江中流域の遺跡にも見られ、非常に珍しいとされている
。”

<甕棺墓>
甕棺墓  
(吉野ヶ里遺跡展示より)

②支石墓
”数個の支石の上に長方形に近い天井石を載せる碁盤式の墓である。日本では、縄文時代晩期の九州北西地域に出現する。当時、朝鮮半島南西部で支石墓が最盛期を迎えており、朝鮮半島からの強い影響があったものと考えられている。主に松浦半島、前原市付近、糸島半島、島原半島などへ広まった。支石墓直下の埋葬方式としては、土壙墓・甕棺墓・石棺墓など様々な形態がとられていた。”

<新町支石墓群、福岡県糸島市>
新町支石墓群
(文化遺産オンラインより)

石棺墓
”板石を箱状に組み合わせて棺とする墓である。箱式石棺墓ともいう。石棺墓は弥生時代前期に、支石墓に伴う形で現れた。石棺墓は北部九州から中国地方西半部まで広がったが、内陸には見られず、海岸地域に集中していた。弥生中期には、北部九州で甕棺墓が主流となり、石棺墓の分布の中心は中国地方の瀬戸内沿岸となった。”

<綾羅木郷遺跡(あやらぎごういせき)、山口県下関市>
綾羅木郷遺跡石棺 
(Wikiwandより)

木棺墓
”木製の棺を用いる墓である。北部九州でも当初は木棺を用いた。しかし、前期末以降は集団墓地が中核となり、独自に生み出された甕棺を用いる甕棺墓へと変遷していった。近畿地方や伊勢湾沿岸部での主流となった。木棺を作るには、製板技術が必要であり、そのためには金属器(または磨製石器)の使用が不可欠であることから、弥生時代前期に出現したと考えられている。しかし木材は土中の保存状態が悪く、その実態は詳しく判っていない。”

<雁屋遺跡、大阪府四条畷市>
雁屋遺跡木棺 
(四条畷市HPより)

墳丘墓
”遺体埋葬地に土で塚を築く墳丘墓(ふんきゅうぼ)は、弥生時代前期から見られたが、比較的小規模であった。弥生後期になると墳丘の規模が一気に大きくなり、その後の古墳へとつながっていく。
a.方形周溝墓(方形低墳丘墓)
木棺埋葬地の周囲を一辺6~25mほどの方形に区画するように幅1~2mの溝を掘り、さらに土盛りして墳丘を築く墓が登場した。平坦な丘の頂、沖積地の微高地などにおいて集落のちかくに営まれることが多く、これを方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)という。平面形に多様さや石列は見られない。”


<平原1号墳、福岡県糸島市>

平原遺跡1号墳 
(Wikipediaより)

b.大型墳丘墓
”弥生後期、それまでより規模の大きい墳丘墓が営まれ始める。特に吉備地方(岡山県〜広島県東半)では、全長数十メートルに及ぶ墳丘墓も現れ、埴輪の祖型である大型の壺や器台を伴うようになる(特殊器台・特殊壺)。
山陰にも墳丘墓の大型化が起こるが形態は四隅突出型墳丘墓と呼ばれる方墳の角が突き出したような形態となっている。
これらの墳丘墓は、弥生中期以前の墳丘墓と規模的に一線を画している。このような墳丘墓は、3世紀中葉過ぎに出現する前方後円墳などの古墳へと発展することになる。”

<四隅突出型墳丘墓>
西谷3号墳(模型) 
(島根県HPより)


3.古墳時代
3世紀頃から、突如大規模な墳丘墓が築造され始めます。以下「日本大百科全書(ニッポニカ)」によります。

”規模の大小は別として、土もしくは石を積んだ墳丘を有し、その内部に遺骸(いがい)の埋葬施設をもっている。また質・量に関係なく副葬品が添えてあることが基本的な姿である。この遺骸埋葬施設を、古墳の内部主体あるいは内部構造とよんでいる。
古墳は死者に対する手厚い埋葬の方法であり、だれもが古墳に埋葬されたものではなく、ある特定の人物のための墓であり、一般民衆の墓ではない。つまり政治的権力者あるいは社会に君臨した支配者のための墓であって、それ自身が墓であると同時に、一種の歴史的・社会的な記念物である。したがって古墳の出現は政治的権力者の登場、政治的社会への変質を意味しているので、前の弥生時代と区別して、古墳がつくられていた時代すなわち「古墳時代」とよんでいる。[大塚初重]”

形状により名称がつけられてます。
円墳・帆立貝形古墳・方墳・上円下方墳・前方後円墳・前方後方墳・双方中円墳・双方中方墳・双円墳・八角墳などです。
古墳というと「前方後円墳」を連想しますが、耳慣れない名前の古墳も多いですね。

<前方後円墳、大仙陵古墳>
300px-NintokuTomb.jpg 
(Wikipediaより)

以上が、縄文時代から、弥生時代、古墳時代までの、お墓の歴史です。

いろいろな墓の名前が出てきて、頭の中がこんがらがってきますね。後ほど整理しますので、ご安心を。


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土器が語ること(11) ~ 中国遼河文明と縄文土器との関係

器について様々な視点からみてきましたが、今回が最終回です。

中国の古代文明というと黄河文明、長江文明などが思い浮かびますが、その文明に影響を及ぼしたと考えられる文明があります。「遼河文明」です。

”中国東北の遼河流域で起こった中国の古代文明の一つ。紀元前6200年ごろから存在したと考えられている。
1908年に考古学者の鳥居龍蔵が遼河文明の一つである紅山文化を発見したことから始まる。
大規模な竪穴式住居が出土しており、特に遼寧省凌源市から建平県で発見された紅山文化の遺跡の一つ牛河梁遺跡は広範囲にわたって墳墓や祭壇などの神殿が発見され、先史時代の「国」があったのではないかと考えられている。紅山文化の遺跡からは風水の原型と見られるものも出土している。 興隆窪文化の遺跡からは中国最古の龍を刻んだヒスイなどの玉製品が発見されている。また最古の遼寧式銅剣(琵琶形銅剣)や櫛目文土器などが出土している。
このように黄河文明や長江文明と異質でありながら、古代の中華文明に大きな影響を与えたと考えられ、現代でも大きく注目され盛んに研究されている。”(Wikipediaより)

遼河文明の名前を初めて聞いた方も、多いのではないでしょうか?。

それは、発見、発掘が新しかったこともさることながら、われわれの固定観念として、遼河流域は、砂漠地帯であり、とても文明が発展したような地域には思えなかったこともあるでしょう。

ところが実際には、
”従来は過去100万年にわたって砂漠であったと考えられていた同地帯は12,000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在したが、約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化した。このために約4,000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住し、のちの中国文化へと発達した可能性が指摘されている。”(Wikipediaより)
というわけです。

有名な紅山文化をみていきましょう。
中華人民共和国河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部に紀元前4700年頃~紀元前2900年頃に存在した新石器時代の文化。万里の長城より北方、燕山山脈の北から遼河支流の西遼河上流付近にかけて広がり、農業を主とした文化で、竜などをかたどったヒスイなどの玉から、現在の中国につながる文化や宗教の存在の可能性が考えられている。”(Wikipediaより)

紅山文化領域


<紅山文化出土品、玉竜>
紅山文化 玉竜

<円筒陶器(紀元前4700-2900年)>
 紅山文化 円筒陶器

<太陽神の玉器>
紅山文化 太陽神の玉器 

<象頭の玉器>
紅山文化 象頭玉器

出土品を見ると、確かにのちの中国文明とも共通するものを、感じさせますね。

さて、ではこの遼河文明ですが、どのように始まったのでしょうか。

”遼河文明遺跡における6500年前から3600年前にかけての古人骨のY染色体ハプログループ分析では、ウラル系民族で高頻度に観察されるハプログループNが60%以上の高頻度で認められることから、遼河文明を担った集団はウラル語族を話していた可能性も考えられる。”

なんと、遼河文明を担った人々と、北欧のフィンランドやノルウェー、ロシア北西部などに住むウラル系民族は、同じルーツだというのです。実際に、ウラル系民族住んでいるところからは、櫛目文土器が出土してます。

では、北欧の人々と、遼河文明の人々は、どのような関係なのでしょうか?

下図は、Y染色体ハプログループN系統の人々の分布領域です。

Y染色体N系統と紅山文化  


シベリア(ロシア北部)から北欧にかけて、濃く分布しています。一方、遼河文明の地は、薄い分布です。これは、どのように理解したらよいのでしょうか?

N系統の人々の移動を、あらためて見てみましょう。

崎谷満氏(CCC研究所所長)は、”祖先型が出アフリカ後、南アジアへ達し、東へルートをとって東南アジアへ達したようである。ここでNO*祖型からN祖型、O祖型が分化したと推定される(N系統の分化は8800年前か6900年前)。”と述べてます。(「DNAでたどる日本人10万年の旅」より)

このことから、当初東南アジアにいた祖先型であるNO*が,N祖型とO祖型に分岐したのち、そのN祖型が北上して遼河流域にやってきて、遼河文明を発展させたと推定されます。

ちなみにもうひとつのO祖型は、その後O2系統やO3系統に分岐して、黄河文明や長江文明を開化させたと考えられます。

その後、遼河文明を担った人々は、気候の変動や、他民族から追われて北上したのち、さらに西へ、西へと移動して、最終的に、北欧の地にたどりついたと、考えられます。
一部の人々は、朝鮮半島さらには日本列島にもやってきたと推定されます。実際、現代日本人のなかにも、少ないながらもN系統の人がいます。

Y染色体N系統移動ルート


ではその根拠はあるのでしょうか?

最もわかりやすいのが、櫛目文土器の出土です。
”最古のものは遼河文明・興隆窪文化(紀元前6200年頃-紀元前5400年頃)の遺跡から発見されており、フィンランドでは紀元前4200年以降、朝鮮半島では紀元前4000年以降に初めて現れる。
日本の縄文土器にも類する土器(曽畑式土器)があり、また、弥生土器にも似た文様をもつものがある。”

以前のブログで、土器は東アジア発祥であり、西へと伝播した、との話をしました。その時期はさらに古い時代ではありますが、同じ流れです。

<櫛目文土器、ソウル市岩寺洞遺跡、紀元前4000年頃>
櫛目文土器 
(Wikipediaより)

そして注目すべきは、日本との関係です。

上記の通り、曾畑式土器との類似が指摘されているように、縄文文化にも影響を及ぼした、との説があります。確かに、Y染色体N系統の人々は、日本にもやってきたと考えられてますから、その可能性も充分にあります。

このように、中国遼河流域に紀元前6200年頃から繁栄した文明が、北欧に伝播し、さらには朝鮮半島、日本列島にも伝播し影響を及ぼしたことが、考古学のみならず、遺伝子工学的にも言えることは、興味深いですね。

最後にもうひとつ、興味深い話を紹介します。

突然ですが、皆さんは日本の「ズーズー弁」についてご存じでしょうか?。

「ズーズー弁」とは、一般的には東北地方の方言で、「し」対「す」、「ち」対「つ」およびその濁音「じ」対「ず」(「ぢ」対「づ」)の区別がありません。
たとえば「寿司(すし)」を、「すす」と発音します。
東北・北海道地方のほか、富山県・島根県・鳥取県など日本海沿岸にみられます。

なぜこのように発音するのかと言えば、諸説ありますが、「寒い地方であり、少ないエネルギーで発音しやすくするため」との説が強いようです。確かに、極寒の冬に外で話すときは、唇がかじかんで話しにくくなるので、「ズーズー弁」の方が話やすい、とも思えます。

ところがです。とても興味深い説があるのです。

ズーズー弁の音を中舌母音の[ɨ]と呼びますが、その起源は、ウラル語族(およびアルタイ語族)だ、というのです。

となると、「ズーズー弁」は、N系統の人々が、遼河文明とともに日本にもってきた可能性があります。

そう考えると、東北・北海道のみならず、日本海側の島根、鳥取、富山で、「ズーズー弁」が話されているのも、うなずけます。

古代世界の文明が、東アジアの日本列島から西の北欧までつながっている、とは何とも壮大な話ですね。

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土器は語る(10) ~ 「遠賀川式土器」と神武天皇

今回は、話題を「神話」に絡めてお話しいたします。

弥生式土器の代表的なものとして、「遠賀川式土器」の話をしました。「遠賀川式土器」とは、弥生時代初期に、福岡県の遠賀川流域付近で作られ始め、やがて西日本に伝わり、さらには東北地方へも、製作技術が伝播しました。伝播ルートとしては、陸地は当然として、海上ルートによるものもあったことが推定されています。

<遠賀川式土器の伝播>
 水田稲作と遠賀川式土器の広がり
(秦野市HP「平成20年度桜土手古墳展示館特別展」より)

さて、この話を聞いて、何か連想した方はいるでしょうか?。

キーワードは、「遠賀川」「西から東へ」「海上ルート」です。

ここでピンときた方は、かなりな古代史マニアです。

答えは、「神武天皇東征神話」です。時代は異なるのですが、同じパターンであり、注目したいところです。

「神武天皇東征神話」とは、
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、のちの神武天皇)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いた彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く。宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って彼らに食事を差し上げた。彼らはそこから移動して、岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。”(「古事記」、Wikipediaより)

その後大和へ向かい、在地の長髄彦(ながすねひこ)と戦い、一度は敗れるものの勝利して、居を構え、即位します。

神武天皇の出発地は、一般的には、宮崎県の日向とされてます。私は、筑紫の日向、具体的には福岡市西部、糸島市境の日向峠周辺地域と考えてますが、それはいずれ取り上げるとして、ここでの注目は、一年間滞在したという「岡田宮」です。実は、この[岡田宮」の場所が、よくわかっていません。

今のところ、3つの候補地があります。福岡県の岡田宮(おかだのみや)、一宮神社、神武天皇社です。

神武東征出発地

一番わかりやすい岡田宮ですが、福岡県北九州市八幡西区岡田町にあります。
”かつて崗地方(旧遠賀郡)を治めた熊族が洞海菊竹ノ浜(貞元)に祖先神を祀ったのが始まりとされ、そのためにこの地域一帯を『熊手』と号したといわれる。後、神武天皇が東征(神武東征)の途上に、この地に1年間逗留し八所神を祀ったとされ、神武東征にある岡田宮の候補地の一つである。”(Wikipediaより)

次が、福岡県北九州市八幡西区山寺町にある一宮神社です。一宮神社は岡田神社(岡田宮)の元宮で、王子神社、大歳神社、諏訪神社の三社が昭和25年に合祀された神社です。
神社由緒書きによると、
”・王子神社は、神武天皇が日向の国より東征の途上、筑前のこのところにおいでになり、一年間政務をみられた宮居の地で、境内には古代祭場など考古学的にも貴重な跡があります。
大歳神社は、三代実録や続風土記にも表れている古くてかつ由緒深い神社であります。
諏訪神社は、花尾城主麻生氏が、信州の諏訪神社を御手洗池のほとりに分祀、厚く祭られた神社であります。”

王子神社ですが、神武天皇が天皇即位前で、王子(皇子)だったので、その名がついたとか。

最後の神武天皇社ですが、福岡県遠賀郡芦屋町にあります。芦屋(あしや)は、古くは蘆屋と書き、筑前国続風土記は、「蘆屋こそが神武天皇が東征のおり入った岡湊(おかのみなと)である」としています。正確には、芦屋岡松原の地にあったとされてます。社用地が陸軍飛行場として徴用されたため、現在地に移転させられました。

以上3つの候補地ですが、まず岡田宮は、元宮が一宮神社なので、消えます。では一宮神社と神武天皇社とどちらなのか?、ですが、今のところ不明です。一宮神社の王子神社内には古代祭祀場があるなど、雰囲気的にもぴったりですが、神武天皇社のほうは、移転したため、歴史的なものは、破壊消滅した可能性もあります。何とも言えないところです。

ですがひとつだけはっきりしていることがあります。

いずれの場所にしろ「遠賀川流域」であることです。


日本書記によれば、神武天皇は、崗之水門(おかのみなと、崗の湊)を経たとあります。つまり、「崗」が、「遠賀(おんが)」に変化したわけです。その名の通り、当時は海岸線が現在より上流部まで入り込んでおり、港として発展しました。神武天皇は、その後舟で進軍したわけですから、その出立地にふさわしいところになります。 


「遠賀川式土器」が、西日本さらには東日本にも広まっていったのは、海運によるところが大きかったわけですが、その理由がわかりますね。


ところで古事記によれば、神武天皇は、岡田宮で一年間、何をしていたのでしょうか?。東へ行くのなら、すぐに出発すればよさそうなものです(なお日本書記には、逗留の記載なし)。

それはおそらく、舟を築造したり、兵士、兵器や食料を集めたりなど、兵力を調達していたのではないでしょうか?。

そのように考えれば、納得できますね。

そしてその後、阿岐国(広島県)、吉備国(岡山県)を経て、畿内に向かいます。この海上ルートも、瀬戸内海があったからたまたま進んだのではなく、遠賀川式土器の伝播ルートになるなど、古代から極めて重要であった海上ルートを使った、ということでしょう。

ここで、神武天皇が、「海人族」であることを思い出してください。この海上ルートは、「海人族」の海上ルートであったはずです。そして阿岐国(広島県)、吉備国(岡山県)は、その「海人族」の配下にあった国でしょう。その海上ネットワークを使って、畿内侵攻を試みた、ということになります。

<神武天皇東征>
神武東征1 

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テーマ : 歴史
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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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