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古墳は語る(8)~四隅突出型墳丘墓

弥生墳丘墓で特異なものと言えば、「四隅突出型墳丘墓」が挙げられます。


 ”弥生時代中期以降、吉備・山陰・北陸の各地方で行われた墓制で、方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態である。四隅突出型弥生墳丘墓とも呼称する。”

<四隅突出型墳丘墓>

西谷3号墳(模型)



”現在の調査では、弥生中期後半の広島県の三次盆地に最も古い例がみられる。 弥生後期後葉から美作・備後の北部地域や後期後半から出雲(島根県東部)・伯耆(鳥取県西部)を中心にした山陰地方に広まった。北陸では少し遅れ能登半島などで造られている。源流は今のところ判明していないが、貼り石方形墓から発展したという可能性もある。
山陰地方すなわち日本海側を中心に約90基が確認されている。北陸地方(福井県・石川県・富山県)では現在までに計8基が知られている。”(以上Wikipediaより)


最古のものは広島県三次盆地とありますが、2004年に、島根県の青木遺跡から弥生時代中期(紀元前1世紀頃)の最古の型式の四隅突出型墳丘墓が、出土しました。やはり、出雲でしたね。


興味深いのは、分布範囲です。広島・島根・鳥取というエリアと、越すなわち北陸(福井・石川・富山)に多く分布していることから、日本海を介した文化圏と言えます。ところが、その間に位置する丹波地方には、四隅突出型墳丘墓がありません。


丹波は古代から丹波王国とでも呼びうる巨大勢力があったことが知られてます。ということは、その巨大勢力は、出雲・越勢力とは別の勢力であった、ことになります。


”大規模な墳丘墓と吉備の楯築墳丘墓がほぼ同時期に存在したと推測されている。そして、西谷3号墳丘墓の埋葬施設が楯築墳丘墓のそれと同じような構造の木槨墓であり、埋葬後の儀礼に用いた土器の中に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰東部や北陸南部からの器台・高杯などが大量に混入していた。
山陰の四隅突出型は、突出部に1メートルほどの石を使っているものがあるが、北陸の四隅突出型は石を使っていない。四隅突出型が似ているということは、山陰地方東部から北陸地方南部にかけての首長の間に強い結びつきがあり、政治的勢力の同盟関係があったのではないかと推測できる。さらに、
備の場合も同様なことが考えられる。”(Wikipediaより)


そして出雲・越勢力は、吉備と強い結びつきがあった、ということになります。同じ時期には、畿内勢力がありました。特殊器台・特殊壺が、畿内に伝播していったことは前回お話ししましたが、そのことから考えると、「吉備・出雲・越」勢力が、次第に畿内を含めた東へ勢力を広げていったことが、推定されます。銅鐸や土器の伝播と同じですね。

<各地域の祭祀>

弥生地域別祭祀 
(「鳥取県HP 第67回県史だより、鳥取県の西と東―弥生時代のお墓から見た地域性―」より)


この四隅突出型墳丘墓ですが、実はさらに分布範囲が広まるのでないか、とみられています。

福島県の耶麻郡塩川町で、似たような墳丘墓が発掘されました。列石や貼り石がないのですが、一辺、一辺が内湾しているので、四隅突出型墳丘墓だと認定しています。(「和光大学リポジトリ 第三回宮川寅雄記念講座 講演会 最近の発掘から見た東日本(大塚初重、2000/3/18)」より)

大塚氏は、会津地方に北陸加賀の土器や渡来系の土器がたくさん出ていることから、「北陸→会津」のルートを推定してます。新潟から阿賀野川で上れば、会津にたどり着きます。

また、積石塚が四隅突出型墳丘墓の原型ではないか、との説も唱えてます。積石塚とは、読んで字の如しで「石を積んで墳丘を造る墓」ですが、その故地を朝鮮半島北部(高麗)と推定してます。確かに高麗には、数多くの積石塚があります。このことから高麗から海を渡って出雲にやってきて四隅突出型墳丘墓に発展して北陸はじめ、各地に広まっていったという説です。国内にも、
長野県大室・松本市里山辺、群馬県高崎市長瀞西、甲府市桜井横根、など広く分布してます。こうした地域に馬を飼育した痕跡が残っていることからも、渡来系の人々が移り住んできたことがわかる、としてます。

四隅突出型墳丘墓伝播ルート

上の図をみると、もっともらしくは見えますね。そして大塚氏は、高麗の積石塚が、前方後円墳の祖型である、という説も提唱してます。

興味深い説ではありますが、それほど単純な話ではないと思われます。

実は2002年に島根県出雲市の中野三保遺跡において、2000年前(弥生時代中期)の方形貼石(はりいし)墓の上に、約200年後(同後期)、この墓を覆うように四隅突出型墳丘墓が造られたことが分かりました。この発見により、四隅突出型墳丘墓は、方形貼石墓の四隅を突出させて発展させた可能性が高くなりました(知恵蔵より)。

このように、お墓の発展過程はとても複雑であり、前方後円墳の成り立ちについても、積石塚、四隅突出型墳丘墓、貼石墓、周溝墓、さらに前回紹介した吉備の楯築遺跡の双方中円形墳丘墓など、さまざまな墳墓の要素を総合的に勘案して検討すべきと考えます。

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古墳は語る(7)~楯築墳丘墓の不思議

弥生時代後半から、墳丘を伴った墓が増えていきますが、それらを弥生墳丘墓と呼びます。

方形周溝墓、方形台状墓、円形周溝墓、円形台状墓などがあります。
方形・円形周溝墓は、墓の四周に溝を掘り主に平地に築かれ、墓の周囲の地山を削り出す台状墓は主に丘陵上に築かれました。

そして墳丘が次第に大型化していきますが、そのなかで最大の墳丘墓が、楯築(たてつき)弥生墳丘墓です。非常に特徴的であり。また示唆に富んだ墳丘墓なので、取り上げます。

場所は、岡山県倉敷市にあり、2世紀後半から3世紀前半築造とされてます。

特徴1.形状が「双方中円形墳丘墓」である。
”円形の主丘の前後両側に方形の突出部2つが接続する形式。定型化したものが前方後円墳・双方中円墳になると見られている。”
(Wikipediaより)
「双方中円形墳丘墓」とは聞きなれない言葉ですね。簡単に言えば、普通の円墳に「前方後円墳」についている突出部が2つ付いている形です。非常に珍しいもので、弥生時代からありますが、古墳としては、香川県高松市の猫塚古墳や奈良県天理市の櫛山古墳など全国でも4つしかありません。「双方中円形墳丘墓」が発展して、「前方後円墳」になったとの見方もあります。

<楯築墳丘墓平面概略>

楯築墳丘墓


特徴2.弥生時代最大規模である。
両端72m、墳丘直径50mであり、弥生時代墳丘墓のなかで、全国最大です。周辺では、後の古墳時代中期には造山(350メートル)、作山古墳(270メートル)という大前方後円墳が築造されます。ということは、当時の周辺地域の中で、最大勢力を誇っていた首長がいた、ということになります。当然、その首長の勢力は、畿内勢力を上回っていたということになります。

特徴3.特殊器台・特殊壺の出土
特殊器台・特殊壺とは、”弥生時代の後期後葉に吉備地方で生まれ、華麗な文様を施し、丹で赤く塗るなどの装飾性に富んだ大きな筒型・壺型の土器で、首長の埋葬祭祀に使用された。これらの特殊土器類が発達し変遷して円筒埴輪の発生や成立に関係した。”( Wikipediaより)

<楯築墳丘墓出土特殊器台>
 楯築 特殊器台

”器台に壺などを載せて、祭祀に使われたのではないかと推測される。後期中葉から後期後葉に遷る頃の器台と壺の中から、特殊器台と特殊壺が生まれる。この二つは備中南部に現れ、吉備中に広がっていく。特殊器台・特殊壺は、弥生時代後期後葉の盛り土した首長墓(墳丘墓)からしか出土していない。”

特殊器台・壺は、箸墓古墳はじめ大和の古墳で出土してますが、吉備から伝播したものであることは注目です。またその後の円筒埴輪にもつながったとされることも、留意したいところです。
文様にも注目したいところです。
綾杉文、鋸歯文、綾杉文と三角形の組み合わせ、、横に走る文様は見られない。弧帯文様は帯をぐるぐる巻きにしたり、帯を潜らしたり、帯を折って反転させたり、帯を結んだりしたようにみえる。”(Wikipediaより)

特徴4.弧帯文石
もうひとつ、「弧帯文(こたいもん)石」という、面白い石があります。
”墳丘上には大正時代の初め頃まであった楯築神社に、代々伝世し、ご神体として神石(亀石)と呼ばれる全表面に毛糸の束をねじったような弧帯文様が刻まれた石が安置されていたが、現在はこの遺跡のそばの収蔵庫に祀られている。こちらは「伝世弧帯文石」と呼ばれる。 この弧帯文は、纏向遺跡の弧文円板と葬送儀礼で共通するといわれている。ここにも吉備津神社や鬼ノ城などのように温羅伝説が残っており、吉備津彦命が温羅との戦いに備えて石楯を築き、防戦準備をしたと伝わっている。”

<弧帯文石 >
楯築遺跡出土_旋帯文石(模造)  
(Wikipediaより)

弧帯文は特殊器台や特殊器台形埴輪とともに畿内に伝わっており、奈良盆地の纒向石塚古墳からは木製の弧文円板、纒向遺跡の弧文板、同遺跡東田地区から弧文石などが見つかっています。

九州でもみられますが、一般的には、畿内から伝わった、とされてます。

ところが本当にそうでしょうか。

実は、九州北部では、弥生時代から、弧帯文がみられます。
「福岡市博物館HP-装いの考古学」より、

”雀居遺跡から出土した木製の短甲(たんこう)(よろい)は背面部だけが出土したものですが、この狭い範囲に鋸歯文(きょしもん)・直弧文(ちょっこもん)・弧帯文(こたいもん)が配置されていました。これは弥生時代の人々が体に施していた入れ墨を模したモノだという説もあります。弧帯文・直弧文は縄目や帯を編んだ状態をモチーフとした文様で、結び留めるという意味が込められ、文様の持つ呪力が信じられていたと考えられます。”

雀居(ささい)遺跡は、福岡空港内で発掘された遺跡で、弥生時代から古墳時代にかけての濠をめぐらした集落や大型の掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)などがあることがわかりました。時期も紀元後2世紀中頃まで遡るとされてます。

弧帯文の他にも、多くの文様が発掘されてます。

”比恵遺跡から出土した赤彩線刻紋(せきさいせんこくもん)をもつ木製の円板には赤色顔料が塗られ、鋸歯文をアレンジした幾何学模様が線刻されていました。これは儀器の一種と考えられています。”


<赤彩線刻紋木製品>
福岡市博物館377_06

”先の拾六町ツイジ遺跡の木製腕輪には、朱漆でシダの葉の文様が力強く描かれています。植物のもつ生命力を表現することでこれを身に纏い、災厄から身を守るめの文様であったと考えられています。”


”上月隈遺跡から出土した中細(なかぼそ)銅剣は刀身が綾杉(あやすぎ)状に研ぎ分けられていました。シャーマンが祭りの時に人々の前で高く掲げると光りを反射して輝き、その輝きに畏(おそ)れを抱いたと考えられます。”

<中細銅剣>
福岡博物館377_04_1

”西区の石ヶ元古墳から出土した金銅装単凰素環大刀(こんどうそうたんおうそかんたち)の外環には、龍と単凰の装飾が施されていました。”

<金銅装単凰大刀(部分)>
福岡博物館377_05

このように、弧帯文は、九州北部雀居遺跡から出ています。さらに、雀居遺跡からは、鋸歯文、綾杉文があるものが出土してますが、同じ文様が、楯築墳丘墓の特殊器台・壺に刻まれてます。

雀居遺跡は、楯築墳丘墓より時代が古いと推定されてます。このようにみてくると、こうした文様の発祥は、九州北部の可能性がある、と言えます。

5.ストーンサークル
もう一つ興味深いのは、墳丘頂上に配置された巨石群です。埋葬施設を囲むようにして円形に配置されてます。ストーンサークル(環状列石)そのものですね。

<墳頂部>
楯築墳丘墓巨石(Wikipediaより)  

巨石は吉備津彦伝説では、鬼である温羅(うら・おんら)と戦ったときに、矢を跳ね返すために作った石の楯(たて)と言われています。吉備津彦とは、桃太郎伝説のもととなった人とされてます。吉備だんごの「吉備」でわかりますよね。それは伝説として、何らかの祭祀が行われていたということでしょう。

ストーンサークルは、縄文時代に日本各地で作られました。秋田県の大湯環状列石など有名ですね。そうした流れが、弥生時代にもなって継続されていたとなると、ますます興味が湧きますね。

以上みてみると、ストーンサークルは別として、楯築墳丘墓は、畿内の前方後円墳のもととなっている可能性があり、また楯築墳丘墓自身、弧帯文などは、九州北部から伝播している可能性があります。
「西→東」の流れですね。

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古墳は語る(6)~甕棺分布と消滅の謎

甕棺墓の風習が、弥生時代に中国沿岸部から直接九州北部に伝播したことは、確認できました。

そして次第に周囲に広まっていくわけですが、その広まり方は、特徴的です。図示します。以下、「九州の甕棺ー弥生時代甕棺墓の分布とその変遷ー」(藤尾慎一郎)からです。」

<九州における大型甕棺分布図>

九州甕棺分布2



”全時期的には九州の西半に分布し,とくに北部九州地城に集中して分布することを示しているのである。なかでも唐津,糸島,早良,福岡・春日の玄界灘沿岸地域,向陸部地域,神埼,佐賀,小城の有明海北岸地域,熊本県白川流域に集中した分布をみせている。”
そして
長崎県対馬,福岡県宗像,遠賀川下流域,豊前,豊後,日向,大隅,天草にはまったく分布しない。”
という、極めて偏った分布になっています。

これを九州北部について、支石墓の分布範囲と重ねて、図示します。

  甕棺墓分布

見てのとおり、支石墓が福岡平野より西にしか分布していないのに対して、甕棺は、福岡平野(早良含む)やさらに東の遠賀川上流東側にまで分布しており、支石墓より範囲が広がってます。

福岡平野には、豪華な副葬品の墓が数多くあり、三種の神器(玉・鏡・剣)が出土した吉武高木遺跡・須玖岡本遺跡があります。そうしたことから、支石墓の風習をもった集団より、はるかに大きな勢力をもった集団だったと言えます。

ところがよく見ると、福岡平野の東、遠賀川下流域より東には、全く分布してません。

ということは、福岡平野を中心拠点とした集団と、遠賀川流域以東の集団とは、別の集団であったと推定されます。前に、神武天皇の東征出立地が、遠賀川下流域の岡田宮であることを、お話ししました。このことと何か関連がありそうな気がしますね。

なお、遠賀川下流域西側には、あの宗像大社があります。先般、沖ノ島を含む三つの信仰の場からなる宗像大社と沖ノ島祭祀を行った古代豪族宗像氏 が眠る新原・奴山古墳群が、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」として、世界遺産 に登録され、話題になりました。宗像氏は、海人(あま)族として知られてます。一方、博多湾岸には志賀海神社があり、こちらは同じ海人族でも安曇(あずみ)族です。このことと、甕棺分布がどのように関係するのか、注目されるところです。

さて、かように流行した甕棺ですが、弥生時代後期に、なぜか急に使用されなくなり、木棺や石棺に変わっていきます。

埋葬という人生の根源にかかわる風習が変わったというからには、大きな力が働いたことは間違いありません。外来文化の影響とか、宗教上の理由とか、征服者がいたとか、いろいろ言われてますが、決め手となる根拠に欠けます。

甕棺の製作には専門家集団がいたと考えられており、製作労力・コストもたいへんなものだったはずです。当時は、内乱もあったでしょうから、次第に製作が容易な木棺や石棺に移行していった可能性もあります。

あるいは、墳丘墓へ移行するにつれ、割れやすい甕棺が避けられたとの説もあります。

何に関しても言えることですが、「理由」というのはよくわからないものです。一つの要因ということとは限らず、様々な要因が複合的に重なり、次第に消滅していったということではないでしょうか。いずれにしろ、その後、墳丘墓中心へと変わっていきます。

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古墳は語る(5)~甕棺の伝播ルートとは?

ところで、甕棺葬の風習は、古代東南アジアにもあったことが、知られています。以下、「ベトナムの甕棺葬ーその起源に関する予察ー」(山形真理子)からの、抜粋です。

”インドシナ半島東岸にあたるベトナム中部には、甕棺墓を特徴とする鉄器時代サーフィン文化の遺跡が分布している。サーフィン文化は紀元前3世紀頃から後1世紀頃まで続いた文化で、北部九州の弥生時代甕棺葬が行われた時期と、おおむね並行している。どちらの文化も、成人の死者を土器棺に納めて集合墓地に埋葬する習慣をもっていた。”

これはベトナム南部ホーチミン市のゾンカーヴォ・ゾンフェット遺跡なども同様であり、またベトナム北部の華やかな青銅器群で知られるドンソン文化でも、甕棺墓の風習があった、としてます。また、島嶼部他地域では、サーフィン文化より古い時期の遺跡があり、甕棺墓も発見されてます。

さらに東北のタイでも、後期旧石器時代(紀元前二千年紀前半)に、成人用甕棺墓が発見されてます。また、フィリピンのパラワン島でも、サーフィン文化と類似した甕棺墓がみられます。

筆者は、これらがどのように伝わってきたのか、について考察を進めてます。

ひとつは、(中国南部・台湾から南下して)南シナ海を越えてインドシナ半島の海岸に到達したオーストロネシア語族によって、サーフィン文化が形成された、とする説です。そしてもう一つは、ベトナム在地の諸文化の発展の結果形成された、というものです。

<考古学・言語学からみたオーストロネシア語族の拡散年代(Bellwood,2004,P27)>
オーストロネシア拡散


後者は、ベトナム考古学から支持されているとのことです。どこの国でもそうでしょうが、「自国の文化は自国民によって作られた」と考える傾向は強いようです。

筆者は、どちらかということではなく、”他地域と相互に関連しあいながら、長い時間をかけて何回も繰り返された人の移動と、多方向の往来の集積のほうが、より重視されるべき”と、しています。そして、中国南部からのオーストロアジア語族の南下と稲作の伝播を重ね合わせる仮説との関連についても言及してます。

確定的な結論は出ておらず、今後の研究成果を期待したいところですが、これを前にお話ししたY染色体DNAからみた人類移動から、みてみます。


日本渡来ルート(Y-O系統)

この移動図でみると、中国南部から2つのルートで南下していることがわかります。ひとつが大陸を南下するO2a系統(オーストロアジア語族)、もうひとつが台湾を経由して海上を南下するO1系統(オーストロネシア語族)です。

ちなみに、O2a系統はオーストロアジア語族ですが、日本列島にやってきた渡来系弥生人(O2b)もオーストロアジア語族と姉妹関係にあります。

この2つのルートで伝わったと考えれば、すっきりと説明できるのではないでしょうか?。

そして同じような時期に、日本へも海上ルートで伝わった可能性が高いと考えられます。

以前、渡来系弥生人の渡来時期・ルート推定図を示しました。この移動は、様々な集団に属する多くの人々が、長い年月をかけてやってきたと考えられます。その集団のなかに、甕棺墓の習慣をもった人々がいたということでしょう。

日本への渡来ルート 

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古墳は語る(4) ~ 甕棺葬の起源地

次に「甕棺墓」です。

「甕棺墓」は、縄文時代からありましたが、縄文時代は、主として乳幼児の埋葬に使用されていました。弥生時代に入り、特に九州北部を中心にして、成人の埋葬用に広く採用されました。甕のなかに、うずくまるように埋葬されており(屈葬)、まるで胎児が、母親の胎内にいるときのような形ですね。

地上に大石を載せた「支石墓」であったり、墳丘を盛り土する「墳丘墓」であるものもあります。それらは身分の高い人の墓であったと考えられます。

そして何と言っても、特徴的なのは、副葬品の豪華さでしょう。
鏡・玉・剣の三種の神器をはじめとして、様々な品が、遺骸とともに副葬されていた墓もありました。

甕棺墓 

(吉野ヶ里遺跡展示より)

ところで、この「甕棺墓」ですが、どこから伝わったのでしょうか?


縄文時代にも、乳幼児を甕棺に入れて埋葬する風習はありましたから、それが発展したとも思えます。しかしながら、大人を埋葬する「甕棺墓」は、九州北部を中心として分布してますから、大陸の影響を受けたことは間違いありません。


では、中国には、「甕棺墓」はあったのでしょうか?


まず黄河流域ですが、中流域で仰韶(ぎょうしょう)文化が栄えました(紀元前4800年-同2700年頃)。そのなかの陝西省西安市の半坡(はんぱ)遺跡は、環濠で囲まれた集落ですが、墓も発見され、成人が土壙墓、幼児や子供は甕棺に入れられていました。

また、同じ中流域の河南省鄭州市の西山遺跡(紀元前3300年-同2700年)は、中国最古の城塞都市として話題になりました。そこからも、子供を埋葬した甕棺が出土しました。ちなみにこの遺跡は、「史記」に登場する五帝の初代「黄帝」の城跡ではないか、との説も出されました。


南の長江流域では、中流域で屈家嶺(くつかれい)文化が栄えました(紀元前2600年前-同2000年前頃)。その湖北省京山県屈家嶺遺跡は、城壁都市であり、甕棺墓も発見されました。成人が埋葬されていたかは、不明です。


以上みてきたとおり、古代中国においても、甕棺墓は存在してました。ただし、成人が埋葬されたかは不明で、子供・乳幼児用ということなら、日本の縄文時代と同じです。また、何と言っても、弥生時代からみると、時代が古すぎて、関連がよくわかりません。


そんななか、昨年中国で、甕棺発見のニュースがありました。

”河北省黄■市(■は馬へんに華)の郛堤城遺跡付近で、今年5月に初めて甕棺が埋葬された甕棺墓が見つかった。数カ月にわたる発掘調査を経て、現在まで113の甕棺墓が見つかっている。考古学者によると、同遺跡から出土した甕棺は戦国時代から漢代までの棺で、吉林大学辺境考古研究センターによってそのうち6基は一次葬として埋葬された大人の甕棺墓で、残りの107基は子供の墓と鑑定されている。新華社が伝えた。”(Record China、2016年10月12日、より)

<出土した甕棺>
中国甕棺1

中国甕棺2 

弥生時代と同時代であり、しかも大人用にも使用されていた点も、同じ
です。


このことから、古代中国甕棺埋葬の風習は途切れることなく伝えられ、少なくとも戦国時代(紀元前403年-同221年)から漢代(前漢として紀元前206年-8年)までは、風習として残っていたと考えられます。


そうした戦乱を逃れて、多くの人々が日本列島にやってきたことは、繰り返しお話ししてきましたが、彼らが甕棺葬(特に成人の)の風習ももってきたのでしょう。


河北省黄驊市は、黄河河口北側にありますが、そこから南の揚子江下流域にかけてにも、甕棺葬の風習が残っていた可能性もあります。


朝鮮半島には、南部を除いて甕棺は発掘されてませんから、朝鮮半島経由陸路ではなく、海路で伝わった可能性が高いと考えられます。

<古代中国甕棺出土地>
中国甕棺分布

なお、甕棺墓の風習は、東南アジアへも伝播したと考えられてますので、そのルートも図に記載しました。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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