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電子書籍でまた第一位になりました(「古代史」無料部門)

このたび第一弾の「図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎 神話の世界から邪馬台国へ」を、電子書籍出版しました。

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

古墳は語る(13)~前方後円墳の一番多い県はどこ?

前方後円墳の起源が、畿内ではなく、もっと西、具体的には、四国東部、播磨、九州北部といった地域の可能性が高いのではないか、という話をしました。


この点については議論百出のところなので、すぐに結論は出ません。そこでひとまず置いておいて、今回は前方後円墳の全国分布を、統計的にとらえてみましょう。


ここで皆さんに質問です。

「前方後円墳が、日本全体でどのくらいの数があるでしょうか?」


私などは、数百基ぐらいかな、などと思ってましたが、何とそれをはるかに上回り、約4700基もあるのです(5200基とも)。


随分とたくさんあるものですね。北海道・青森・秋田・沖縄を除く都府県にありますから、平均すると一都府県あたり、100基程度ある計算になります。


ではまた質問です。

「前方後円墳が一番多くある都府県は、どこでしょうか?」


まず思い浮かぶのは、奈良県・大阪府でしょう。前方後円墳が、大和王権の全国支配の象徴とされており、あの大仙陵(伝仁徳天皇陵)などの超大型古墳が大阪にあり、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳が、奈良県にあります。


ところがです、一番多い県は、何と意外にも東国の千葉県であり、733基もあります。そして2位が東国の群馬県(455基)、3位も東国の茨城(391基)と続きます。ようやく奈良県が4位(312基)で入りますが、5位が福岡県(267基)、6位が鳥取県(252基)と続き、大阪府が7位(202基)です。(「前方後円墳の理解-規模地域展開-」(白井久美子)より、以下も同様)


 前方後円墳分布



これまで抱いていたイメージと、ずいぶん異なりますね。これをどう理解すればいいのでしょうか。


”奈良県や大阪府は、面積が狭かったりなど、古墳の築造に適した土地が少ないからだ”、等の反論もあるでしょう。しかしながら、奈良県(3,671k㎡)・大阪府(1,905k㎡)を合計しても514基、合計面積(5,576㎡)では千葉(5,158k㎡)を上回りますが、千葉県の733基に遠く及びません。


”エリアからみても、千葉・群馬・茨城県で1,579基、全体の(34%)におよぶ。一方、近畿地方の上位3 府県の合計は642 基(14%)にとどまる。また、中国地方では旧伯耆国に際だって多く、山陰地方で確認された約400 基のほとんどが旧因幡・伯耆・出雲に所在するため、必然的に鳥取県に集中している。その数は、古墳時代を通じて別格の大規模古墳を築いた岡山県(旧備前・備中)を凌いでおり、ここにもまた別の原理が働いていると思われる。九州地方では、約560 基の半数近くが福岡県に在り、宮崎県と合わせて約8 割が2 県に集中している。半島に近い北部九州と瀬戸内海に通じる日向灘に偏在するといえる。”

ポイントとしては、
・東国の3県が多く、近畿3府県の約2.5倍にのぼる。
・中国地方では鳥取県に集中しており、その数は古墳大国ともいえる岡山県をしのいでいる。
・九州では半数が福岡県にあり、宮崎県と併せて8割を占める。
となります。

全国で4700基と言いながら、かなり偏っていることがみてとれます。

では別の切り口でみてみましょう。古墳の築造時期別に、どこの地域でどれだけ築造されたのかを表すグラフです。

 前方後円墳数量推移

このグラフでは、墳丘長60 m以上の大型前方後円墳の時期別分布を示しました。時期区分は前期・中期・後期に大別し、出現期の例は前期に、終末期の例は後期に含めてあります。
大型前方後円墳の年代観については、

・出現期新段階を3 世紀前葉、
・前期を3 世紀中葉~ 4 世紀中葉、
・中期を4 世紀後葉~ 5 世紀末葉、
・後期を6 世紀初頭~ 6 世紀末葉、
・終末期を7 世紀初頭~中葉

としてます。

また、ここで王権中枢域(中枢域と略称)としたのは奈良県・和歌山県・大阪府・京都府・滋賀県域と兵庫県の旧摂津・丹波、福井県の旧若狭を加えた地域です。その西側を西国、東側を東国としてます。

みての通り、中枢域は、前期・中期・後期と漸減してます。西国は、中期に増加しますが、後期に減少してます。
ところが、東国は、中期にやや減少しますが、後期には、235基と、約2倍に急増してます。

これをどのように理解すればよいのでしょうか?

普通に考えると、「前方後円墳」が大和王権の全国支配の象徴であるなら、大和王権が「前方後円墳」築造をやめれば、それから少し遅れて、各地方でも漸次やめていく、というのが自然です。実際、西国では、後期に中枢域と同じように、減少しています。

ところが、東国では、後期に急増してるわけです。

下図は、後期の大型前方後円墳(墳丘長60m以上)の分布です。

後期大型前方後円墳分布 
古代の行政区画別に、数量を記載してます。

”東国では、北武蔵などの新興の地も加えて内陸・海道の各地に大型前方後円墳が築造され、西国・中枢とは大きく異なる様相を呈してくる。さらに6 世紀後半以降に絞ると、関東地方(相模・武蔵・上総・下総・安房・常陸・上野〈上毛野〉・下野〈下毛野〉からなる古代の板東八国に相当する地域)に65 基が確認され、畿内(中枢域)11 基の6 倍に及んでいる(第3 図)。”

現代の奈良県にやや色の濃いところがみられるものの、群馬県・千葉県をはじめとした関東地方が圧倒してます。

さらに、”墳丘長100 m以上の大型前方後円墳は、関東地方に33 ~ 35 基あり、畿内17 基の2 倍に達している。しかも、それらは畿内の大王や有力豪族の墓に匹敵する規模をもち、上毛野・高崎市観音塚古墳・綿貫観音山古墳、上総・木更津市金鈴塚古墳では、王族や中央の有力豪族の墓に迫る豪華な副葬品が出土している。”

以上のとおり、関東地方の前方後円墳は、数量で中枢域のもを大きく上回り、大きさ・副葬品も、王族や中央の有力豪族の墓に匹敵するものとなってます。

こうした事実に対して、白井氏は、

”後期大型前方後円墳の造営に見える関東の特異性は、ヤマト王権のより北方への進出を背景とした政治的・軍事的基盤としての重要性によるところが大きい。また、関東各地の豪族がそれぞれ中央の有力豪族と結んで一定の領域を支配した構造を反映したものといえよう。この点で、関東の前方後円墳体系は後期に至って充実し、王権の思惑とは別により整備され強化されたといえよう。”と解釈してます。


簡単に言えば、「東北地方に勢力を張る「蝦夷」を支配する拠点としての象徴」ということでしょう。


しかしながら、「象徴」としての築造はわかりますが、そうであるなら中枢域を上回る巨大古墳の築造を、王権がやすやすと認めるものでしょうか?。そんなことを認めれば、王権の権威にも影響しかねません。


そもそも白井氏は、「大和王権はすでに関東以西を支配しており、その支配構造の象徴として前方後円墳がある」ことを前提としてますが、はたしてどうでしょう。頭を白紙にして純粋に統計データを分析すると、そのよう前提は成立してないのではないでしょうか?。


たとえば、図をご覧になれば一目瞭然ですが、新潟県には、一つも築造されてません。これはどういうことでしょうか?。


新潟県は、「蝦夷」支配の拠点でした。実際、647年に
渟足柵(ぬたりのき/ぬたりのさく)越国(新潟県新潟市付近)、648年に磐舟柵(いわふねのき/いわふねさく)が、新潟県村上市岩船周辺築かれたことが、日本書記に記載されてます。「柵」とは、蝦夷支配のための軍事的防御施設のことです。


当時、そのような防御施設が築かれたということは、未だその地域は、蝦夷支配が確立していなかったことを表します。となると、
なぜこの地域にも、関東と同じように前方後円墳が築造されなかったのしょうか?。


「いやいや、柵が築かれたのは7世紀であり、すでにその時期には、前方後円墳の築造は、終焉を迎えていたからだ」と言うかもしれません。


それならば、7世紀以前には、新潟県では蝦夷支配が確立されてなかったわけですから、その防御拠点は、富山・石川・岐阜県北部あたりとなります。そうでないと、大和まで一気に攻め込まれてしまいます。ところが、
その3県もまた、前方後円墳はほとんど築造されていません。


このように、前方後円墳の分布は多様であり、畿内一元論的な立場では、解釈しきれません。
実際論文中でも
王権中枢域であった近畿地方を中心とする放射状の動向だけでは説明しきれない古墳時代社会の側面が表れた”
と指摘してます。


特に東国については、それが顕著であり、

”王権の思惑とは別により整備され強化された”

とも指摘してます。

なお、東国には、前方後「円」墳伝播前に、前方後「方」墳が数多く築造されてます。このことから、大和王権の勢力が及ぶ前には前方後「方」墳だったが、支配下に入るにつれ、前方後「円」墳になった、との見解がされてます。つまり、

前方後「方」墳=大和王権支配前

前方後「円」墳=大和王権支配後

という図式です。ところが、前方後「方」墳は、大和をはじめとした畿内にも、後期になってさえも築造されているのです(河内、山城など)。この事実を、どのように解釈すればいいのでしょうか?

また論文中には、畿内中枢域には、”百舌鳥・古市・佐紀から交互に輩出される王陵の動向を見ると、王権が特定の一族に限られていたわけではなく、中枢域の複数の勢力が政権を担っていた状況がわかる。とあります。


以上の客観的」データから見る限り前方後円墳は、大和王権による全国支配の象徴である」と断定するには、決定的な論拠に乏しいことがわかります。

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古墳は語る(12)~前方後円墳の祖型とは?

前回は、「前方後円墳」の鍵穴のような何とも言えない不思議な形、あれがどうしてできたのか、の説を紹介しました。

あまりに説が多すぎて、結局よくわかりませんね。

今回は切り口を変えて、そもそも「前方後円墳」の祖型は何なのか、をみていきます。それがわかれば、あの形状になった理由がわかります。

そんな中、昨年、ビッグニュースがありました。


”奈良県橿原市の瀬田遺跡で、弥生時代終末期(2世紀後半ごろ)の陸橋付き円形周溝墓が見つかった。奈良文化財研究所が12日、発表した。円形墓を囲む溝の南側が陸橋になっており、古墳時代に造られた鍵穴型の前方後円墳に似ている。奈文研は「弥生時代の墳丘墓の発展過程を考える上で貴重だ」と評価、前方後円墳の先駆けとみる研究者もいる。

  奈文研によると、円形部分が直径約19メートルで、周囲に幅約6メートル、深さ約50センチの溝が残っていた。南側の陸橋は台形状で短辺約3メートル、長辺約6メートル、長さ約7メートルあった。同様の陸橋を持つ弥生時代の円形周溝墓は瀬戸内地方東部などで確認されているが、奈良県内では初めて。

 橿原市の東隣の同県桜井市にある纒向石塚古墳(古墳時代初頭、全長約100メートル)などは「纒向型前方後円墳」と呼ばれ、前方後円墳の前段階ともいわれる。桜井市纒向学研究センターの寺沢薫所長は「纒向型は後円部と前方部の長さの比が2対1で、今回の円形周溝墓は近似している」と指摘する。古墳出現期土器研究会の森岡秀人会長(考古学)は「纒向型に先行する遺構で、弥生時代の墳墓から古墳時代の前方後円墳への変遷を見直す資料だ」と話した。 ”(毎日新聞、2016年5月13日)

<瀬田遺跡陸橋付円形周溝墓>
瀬田遺跡
(同上より)

なぜこれがビッグニュースかというと、近年は前方後円墳の先駆けは「陸橋付円形周溝墓」ではないかと考えられているわけですが、それが大和地方で初めて出土したので、色めき立っているわけです。

過程前方後円墳成立

(朝日新聞デジタル「前方後円墳のルーツ発見か 奈良で弥生末期の円形墓」
より)

これはこれで、「だから大和は前方後円墳の発祥の地なのだ」と言っているように聞こえます。


もちろん、「陸橋付円形周溝墓」が日本で初めて出土したとか、日本最古だった、となればそうは言えます。


ところがです。「陸橋付円形周溝墓」は、さらに古いものが今までにいくつも発掘されているのです。

一つが、徳島県の名東(みょうどう)遺跡から出土してます。弥生時代中期前半「紀元前1世紀)ころのものとされてます。


さらに、弥生後期後葉になりますが、四国東部には、讃岐(香川県)の林・坊城1号・2号、尾崎西などがあります。隣の阿波(徳島県)においては、「陸橋付円形周溝墓」の発展形とされる帆立貝型前方後円墳である萩原1・2号墓(弥生時代終末期、積石塚)があります。萩原2号墓は、日本最古の前方後円墳、あるいはそのルーツとも言われ、奈良県の纏向型古墳であるホケノ山古墳との関連も指摘されてます。

<萩原2号墓>
萩原2号墳


(「鳴門市教育委員会2011」より)

また、瀬戸内海を挟んで反対側の兵庫県播磨(赤穂市)の有年原・田中1号墳も、同じく弥生後期の「陸橋付円形周溝墓」です(「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」(岸本直文)による)。

有年原・田中(うねはら・たなか)1号墳は、”周溝から円形周溝墓に供えられたと考えられる通常の土器のほか、特殊な装飾を施した土器(装飾壺・装飾器台・装飾高坏)が出土しています。また、周溝内にはマウンド斜面から滑り落ちたと考えられる石材が多数見つかっており、マウンド表面に石材が貼られていたのではないかと考えられています。”(赤穂市立有年考古館 平成27年度特別展、「播磨の弥生墓 - 円形周溝墓と方形周溝墓 -」より)

とあり、古墳の祖形と考えられます。

有年原・田中遺跡 
また、播磨と言えば、最古の「方形周溝墓」である「東武庫(ひがしむこ)遺跡」(尼崎市)が出土しましたが、
それにも「陸橋」がついてます。その年代が、なんと紀元前5世紀に遡るのではないか、と推定されてます。


東武庫遺跡

”方形周溝墓からは、「擬朝鮮系無文土器」とよばれる朝鮮半島の土器をまねて日本列島で作られた土器や、「瀬戸内型」とよばれる瀬戸内地方で多くみられる土器が墓に供えられたと考えられる状態で出土しています。”


周溝墓の起源はまだ定まっていませんが、何か朝鮮半島由来とも思わせますね。

一方、私が九州王朝があったと考えている九州北部では、福岡県糸島市にある王墓「三雲南小路(みくもみなみしょうじ)王墓」が「陸橋付方形周溝墓」です。
弥生時代中期後半(紀元前1世紀頃)とされ、銅鏡・武器・装身具・身分を表す威信具など、多種多様な副葬品が出土しました。
2つの甕棺のうち、1号甕棺は男王、2号甕棺は王妃の墓と推定されてます。
三種の神器(鏡・玉・剣)が出土したほか、1号甕棺の中から出土した直径27.3cmの大型鏡は、中国王侯クラスがもつ鏡です。さらに
ガラス璧や金銅四葉座飾金具については、皇帝から下賜されたものと推定、
”男王は中国から東夷の王と認識されていた可能性が高い”としてます(伊都国歴史博物館「常設展示図録」より)




三雲王墓1 
 

 三雲王墓2


(伊都国歴史博物館「常設展示図録」より)


以上「陸橋付円形周溝墓」をみてきましたが、発祥は大和ではなく、四国東部であり、「方形周溝墓」まで含めれば、播磨、あるいは九州北部という可能性が高いと言えます。


そして「陸橋付周溝墓」が「前方後円墳」の祖型であるなら、「前方後円墳」の発祥は大和ではなく、四国東部、播磨、あるいは九州北部あたりの可能性が高い、ということになります。

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古墳は語る(11)~いよいよ前方後円墳です

古墳の基礎知識を整理したところで、いよいよ皆様お待ちかねの「前方後円墳」に入ります。

「前方後円墳」とは、何でしょうか?。

読んで字の如しで、前が「方形」、後ろが「円形」の古墳です。語感から言うと、なんだか前が「主」で、後ろが「従」のような印象を与えてしまいます。

ところが、実際は、「円形」の部分が主たる埋葬施設で、「方形」部分は祭祀などを行う場所だったのではないか、とされてます。
ようは、「円墳」に台状部がついた形ということです。

ところであの鍵穴のような不思議な形は何を意味しているのしょうか?。中国など外国にもない、日本独自の形です。

<前方後円墳の形状>
 前方後円墳形

(Wikipediaより)

昔からさまざまな説が唱えられてます。以下、「古墳の始まりを考える 五.王権の成立と王墓の築造」(金関恕)からです。


1.器物模倣説

a.宮車模倣説

 ”中国帝王や后妃の乗る馬車である宮車を上から見た形”(江戸時代の学者蒲生君平)。最も有名な説ですね。

b.楯模倣説

 ”前方部の形は、の形を模倣した”(浜田耕作・1936)。

c.家屋模倣説

 ”古墳時代の家屋の形を模倣した”(原田淑人・1955)。あまりそうには見えませんが・・・。

d.壺模倣説

 ”の形を模倣した”(三品彰英、原田大六・1954)。確かに、壺の形と言えなくもないですね。


2.円丘・方丘合体説

  ・”「円墳」と「方墳」が結合した”(W・ゴーランド・1897、梅原末治・1926)。
  ・”主墳である円丘と陪塚である方丘が結合した”(清野謙次・1906)。

3.前方部祭壇説
 ”埋葬が行われた後円部に対して、前方部はその拝所として、あるいはその祭壇として設けられたもので、宣命(祝詞)が読み上げられた場所である”(喜田貞吉・1914)。

4.外来影響説
 ・”古代中国の天円地方思想”(重松明久・1978)
 ・”古代アジア世界における円と方の複合のもつ意味を具現化したもの”(山折哲雄・1970)
  ・”円丘に方丘状の祭壇を付設する墳形は中国の郊壇にある”(山尾幸久・1970)
  ・”匈奴起源説”(鈴木治・1973)

5.工法発生説
 ・”丘陵の尾の上に円墳を築き、墳墓の境界線を尾端と反対の方向に画するときに、自然と造りあげられる”(浜田耕作・1919)

   ・”土木工事の結果生み出された”(網干善教・1959)


あまりにたくさんあるので、驚いた方も多いと思います。これだけあると、いくらでも言いようがありますね。私などは、人があおむけにゴロンと寝ている姿のようにも見えてしまいます・・・。

宮車などの模倣などというより、古代中国の天円地方思想といった方が、哲学的にみて深遠な気もしますが、いまだに結論は出ていません。

では結局、「前方後円墳」のあの不思議な形は何なのか?。

これ以上、あの形とにらめっこしても、答えは出こないでしょう。

これを推論していくには、”前方後円墳の祖型は何だったのか?”という切り口から入っていくのが、わかりやすいと思います。次回、お話しします。

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古墳は語る(10)~こんなに多くの種類がある古墳

ここまで、墳墓の歴史から始まり、支石墓、甕棺墓、弥生墳丘墓などをみてきました。そして弥生時代後半頃から、次第に規模が大きい墳丘が作られるようになってきた、というところまでを、お話してきました。


今回から、いよいよ古墳時代のお墓つまり「古墳」に入ります。本丸は前方後円墳なのですが、まずは古墳全体を押さえたいと思います。

”古墳とは、日本の古代、ことに弥生(やよい)時代終末の西暦3世紀後半に出現し、7世紀末ごろまでに築造された高塚の墳墓を古墳とよんでいる。

日本の古墳は古代の東アジア世界のなかでは、もっとも多様な墳丘の形態を示している。

全国には約25万基前後の古墳が分布するが、その約95%が円墳と考えられる。”(日本大百科全書(ニッポニカ)より)


日本の古墳所在件数が最も多いのは兵庫県で16,577基にのぼる。以下、千葉県13,112基、鳥取県13,094基、福岡県11,311基、京都府11,310基とつづき、全国合計では161,560基となる。”(平成13年3月末 文化庁調べ)(「兵庫県教育委員会 兵庫県の遺跡・遺物数の全国的な位置」より)


古墳の数は、正確にはわからないようですが、未確認のものやすでに破壊されている古墳もかなりな数にのぼるのでしょうから、数十万基といった膨大な数になるでしょう。全国、いたるところ古墳だらけ、といった感じですね。


そして形については、90%が「円墳」とあります。古墳というと、すぐに「前方後円墳」を思い出しますが、割合でいうと圧倒的に「円墳」が多いわけです。他にも様々な形状があります。

<古墳の形状>
古墳の形

(デジタル大辞泉より)

・上段の「方墳」は、上から見た形が正方形であり、シンプルで数も多いです。
・同じく上段の「帆立貝形古墳」とは、「前方後円墳」の兄弟みたいなもので、上から見ると帆立貝のような形をしているため名付けられました。
・中段の「前方後方墳」は、「前方後円墳」の「円墳」を「方墳」にした形です。
・下段の「双方中円墳」は、「前方後円墳」の方部を2つつけた形で、前回お話しした楯築墳丘墓がそうでした。
・あとは「上円下方墳」「双方中方墳」「双円墳」など、複雑なものが多いですが、組み合わせですね。
・右下の「八角墳」は、その名の通り八角形で、古墳時代後期になり、天皇陵(天武・持統天皇陵他)などで作られました。高貴なお墓、といったところでしょうか。

他にも、墳丘を石で構築した積石塚、石室に線刻、絵画などを施した装飾古墳、石室の壁に絵画を細越した壁画古墳(高松塚古墳・キトラ古墳)といったものもあり、埋葬施設の一種である横穴などもあります。

古墳の内部構造ですが、竪穴系と横穴系に分かれます。
・竪穴系
”築造された墳丘の上から穴を掘り込み(墓坑 ぼこう)、その底に棺を据え付けて埋め戻したものである。基本的にその構造から追葬はできず、埋葬施設内に人が活動するような空間はない。 竪穴式石槨・粘土槨・箱式石棺・木棺直葬などがある。”
・横穴系
地上面もしくは墳丘築造途上の面に構築され、その上に墳丘が作られる。 横穴式石室・横口式石槨などがある。”

簡単に言うと、穴を上から掘るのが竪穴系、横から掘るのが横穴系となります。竪穴系は、上から土をかぶせてしまいますので、それ以後、別の人を一緒に埋葬する(追葬)ことができなくなります。
それに対して、横穴系は追葬が可能になり、進化系と言えます。

ここで「槨(かく」)という言葉が出てきました。「槨」とは、遺体を納めた棺を包むものです。

また、よく「竪穴式石室」と言いますが、明確な石室があるということではないという理解です。
”発掘過程で竪穴の石室のように検出する事からその名がついた。割竹形木棺を墓壙の底に安置したあと、棺に接する部分に板状の石を重ねていき、棺と板石の間に角礫を隙間なく詰め込んで、最後に大きな蓋石をかぶせる。木棺と石で築いた壁のあいだに空間があまりないので、これを石室ではなく外側の棺と解釈して竪穴式石槨と表記する場合も多い。 4世紀半ばから簡略化された粘土槨が普及する。”(以上Wikipediaより)

竪穴式石室と横穴式石室のイメージ図です。
石室 
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古墳は語る(9)-積石塚は前方後円墳の祖型?

前回、四隅突出型墳丘墓の祖型が積石塚であり、積石塚が朝鮮半島北部(高麗)に多いことから、四隅突出型墳丘墓は朝鮮半島由来ではないか、という大塚初重氏の説を紹介しました。大塚氏はさらに、前方後円墳の祖型は積石塚ではないか、との説も唱えてますが、このあたりは見解が分かれます。


さてその積石塚ですが、どこが発祥なのか?、というテーマがあります。とても興味深い話なので、今回はこのテーマを掘り下げます。


まず、そもそも積石塚とは何なのか、を確認しましょう。

”石を積み上げて棺槨(かんかく)をおおった墳墓をいい,礫石(れきせき)を封土の代りに積んだケルンと,切石を規則的に置いた石塚とに分けられる。ケルンは,バルト海周辺,ヨーロッパロシア,シベリアに多く,石塚は中国東北,朝鮮半島に数段からなる形式の整ったものが見える。”(百科事典マイペディアより)


中国東北部と言えば、以前お話しした遼河地域があります。そこで栄えた文明を、遼河文明と呼びます(紀元前6200年~紀元前500年頃)。そのうちの紅山文化は、中国河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部にわたり、紀元前4700年~紀元前2900年頃に栄えました。

”龍をかたどったヒスイの玉や泥で作り筆で絵付けした彩陶(彩文土器)などが特徴的ですが、後期には、敖漢四家子草帽山の積石塚、咯左東山嘴の祭壇、牛河梁の女神廟、積石塚といった巨大な「ピラミッド式」建築が造られました。
そして、東山嘴の祭壇の前円・後方、左右対称の作りが、以後の中国の壇・廟・塚の有機的統一体の大型建築群の 矢となった、との説もあります。”(以上「紅山文化と中国北方文明の起源について」(徐子峰)より抜粋要旨)

牛河梁の積石塚 >
牛河梁積石塚 
( 中文百科在線「遼寧凌源牛河梁新石器時代遺址」より)

遼河文明が、のちの黄河文明など中国古代文明に大きな影響を与えたと考えられてますが、その流れで当然朝鮮半島にも大きな影響を与えたことでしょう。朝鮮半島に積石塚が多くある理由がわかります。

ところで東アジアの積石塚とともに、バルト海周辺,ヨーロッパロシア,シベリアにも同様なものがあり、ケルンと呼ばれています。ケルンというと、近年では,登頂の記念に登降路や尾根・山頂にピラミッド型に積んだ石のことを意味するようになりましたが、もともとは,石を積み上げて墓室を覆ったものをいいます(百科事典マイペディアより)。

ここでこのブログを通して読まれている方の中には、ピンときた方もいるかもしれません。

「遼河文明~シベリア~バルト海周辺」です。


そうです。「櫛目文土器」の想定伝播ルートと重なりますね。そしてその伝播は、DNAのY染色体ハプログルプN系統の人たちが伝えたのではないか、との説も紹介しました。
土器が語ること(11) ~ 中国遼河文明と縄文土器との関係

残念ながら、今のところそのような報告はされてないようです。土器が伝播したのであれば、墓地も伝播するのも自然な流れだと考えますが・・・。積石塚とケルンは違うということなのでしょうか?

それはともかく、遼河文明の積石塚が、朝鮮半島に伝播したのは、間違いないでしょう。
下の写真は、中国と北朝鮮の国境付近にある将軍塚です(中国吉林省集安市)。高句麗第20代国王の長寿王(394-491年)の墓とされてます。
かなりがっしりとした造りですね。

<将軍塚>
将軍塚 
(Wikipediaより)

積石塚は、韓国にもあります。石村洞古墳群です。ソウル特別市松坡区(ソンパく)にある、三国時代百済の古墳群です。そのうちの3号古墳は、百済第13代王の近肖古王(きんしょうこおう、生年不詳 -375年)の墓との説もあります。

<石村洞古墳群>
石村洞古墳 
(Wikipediaより)

こうした積石塚の文化が、日本列島にも伝播したと考えて差支えないでしょう。

日本列島の主要な積石塚としては、

・剣崎長瀞西遺跡(群馬県)  5世紀後半
・下芝谷ツ古墳(群馬県)   6世紀初頭
・横根・桜井積石塚古墳群(山梨県) 6世紀後半~7世紀
・大室古墳群(長野県)       5世紀~7世紀
・二本ケ谷積石塚群(静岡県)  5世紀後半~6世紀前半
・茶臼塚古墳群(大阪府)    4世紀
・石清尾山古墳群(香川県)   4世紀~5世紀
・野田院古墳(香川県)      3世紀後半 
・相島積石塚群(福岡県)     4世紀~7世紀
・見島ジーコンボ古墳群(山口県) 8世紀~9世紀
などが有名です。

<野田院古墳>
野田院古墳 
(香川県善通寺市HPより)

野田院古墳とは、
”3世紀後半につくられた全長44.5mの前方後円墳です。前方部は長さ23.5m×最大幅13m×高さ約1.6mで、盛り土をした後に表面に石を置き、後円部は直径21m×高さ約2mで石だけを積んでつくった「積石塚」になっています。
 平成9年(1997年)からの発掘調査では、それまで確認されていた堅穴式石室の他にもうひとつの石室が発見され、ガラス玉や鉄剣、土師器(はじき)などが出土、古墳の周囲からは壷形土器が数多く出土しました。こうした副葬品は弥生時代の特徴をもつもので、もっとも古い時代の古墳と考えられます。
 また、中世には野田院という山岳仏教寺院があったといわれています。”(香川県善通寺市HPより)

ご覧のとおり、前方後円墳の形状です。写真の右上部に、小さいながら前方にあたる張り出し部が確認できます。同じ型式の積石塚が、徳島県鳴門市の萩原墳墓群にあり、こちらは3世紀前葉の築造で国内最古の積石塚とされてます。前方後円墳の祖型として、注目されます。

日本各所にみられる積石塚ですが、伝播ルートとしては、朝鮮半島経由と、高麗から直接海路での2通り考えられます。両ルートの可能性もあるでしょう。

<伝播ルート>
積石塚伝播ルート

上の図で、赤丸(No.1)が紅山文化(遼河文明)です。ちなみにNo.2 が大汶口文化(だいぶんこうぶんか、黄河文明)、No.3が仰韶文化(ぎょうしょうぶんか、黄河文明)、No.4が大渓文化(だいけいぶんか、長江文明)です。こうした位置関係をみると、遼河文明が黄河文明や長江文明に影響を及ぼしたという説も、よくわかります。

その遼河文明ですが、朝鮮半島、さらには日本に伝播して、縄文文化にも影響を及ぼしたと考えられてます。積石塚の伝播ルートも、それと同じルートになります。積石塚が伝播した時代は、弥生時代後期以降でしょうから時代は異なりますが、同じルートである点は注目ですね。

そして積石塚の積石が、日本では貼石に代わり、やがて葺石に変わっていった可能性があります。また東山嘴の祭壇の前円・後方、左右対称という思想が、日本の前方後円墳に取り入れられた可能性もあるでしょう。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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