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古墳は語る(19)~箸墓(はしはか)古墳が「卑弥呼の墓」になりえないこれだけの理由①

前回、”「前方後円墳は大和王権の全国支配の象徴である」といういわゆる「前方後円墳体制」なるものは、少なくとも古墳の統計データからみると、成立していたとは言えない。”という話をしました。

これは世間一般的な考え方とは対極にある考え方であり、皆さんのなかにはまだ納得できない、という方もおられると思います。
これからそのあたりをみていきます。

まず想定される質問は、
”大和にある箸墓古墳は、邪馬台国の女王卑弥呼の墓と報道されているではないか?。その話との関連はどうなるのか?”
というものです。

仮に「箸墓古墳=卑弥呼の墓」であったとしても、今までお話してきたデータから導かれた結論を覆すことはできないと考えられますが、それはそれとして、本当に「箸墓古墳=卑弥呼の墓」なのか、そのあたりをみていきましょう。

はじめに卑弥呼の墓です。まったく幸運なことに、卑弥呼の墓については、中国史書の三国志魏志倭人伝に記されてます。
以下訳文です。訳は豊田有恒氏(作家、元島根県立大学教授)の「歴史から消された邪馬台国の謎」を基に、一部修正。

まずは、倭の風俗について描写しているところに、一般的な墓についての説明があります。
”人が死ぬと棺桶には入れるが、棺の周囲を覆うようなものはない。土を小高く盛って墓を作る。

そして最終章に、卑弥呼が亡くなり、墓を造ったことが書かれています。
同八年(247年)、太守の王頎(おうき)が、上京した。
倭の女王の卑弥呼は、狗奴国(くなこく)の男王の卑弥狗呼(ひみくこ)と以前から仲がよくなかった。倭国では、載斯(さいし)、烏越(うえつ)などを派遣して、郡へ行かせ戦況を説明させた。郡では、辺境監督官の張政(ちょうせい)たちを倭国へ派遣した。皇帝の命令書、中国の権威を示す黄色い軍旗などを難升米に与え、(中国が介入することを)檄を飛ばして知らせたのである。

卑弥呼は死に、小高い盛り土のある墓を造らせた。直径百歩あまりである。男女の奴隷を百人以上も殉葬した。あらためて男の王を立てたが、国中が従おうとしなかった。そのため殺し合いになり、そのとき千人以上も殺した。”

紀元後247年に、ライバル国である狗奴国(くなこく)との戦いがありました。卑弥呼はその後亡くなったわけですから、没年は247年以降しばらくしての頃です。3世紀半ばとしていいでしょう。そして卑弥呼の墓について説明してます。

卑弥呼の墓についてまとめますと、
a.築造年代は3世紀半ば
b.盛り土した「墳」ではなく、「
冢」である。・・「大作冢」
c.直径が百歩あまり。・・「徑百餘歩」
d.棺はあるが、槨(棺の周囲を覆うもの)はない・・・「有棺無槨」
e.男女百人以上の奴隷を殉葬した。・・「狥葬者奴碑百餘人」

bは注意を要するところです。「墳」とあれば、明らかに盛り土した古墳となりますが、あくまで「冢(ちょう、つか)」です。
「冢」・・土を小高く盛り上げて造った墓(EDR日中対訳辞書より)
それほど大きな盛り土の墓ではなかったことになります。なお、「大きな冢を作った」ではなく、「大いに冢を作った」とあることにも、注意が必要です。

cも解釈が分かれるところです。「径」とありますから、円墳であったことがわかります。前方後円墳はどうなのかですが、後円部を主丘とみたとすれば、可能性ありといったところです。

問題は、「百余歩」です。
一般的な説として、
当時は、1里=300歩
ですから、
1里=約400m
 1歩=400(m/里) ÷ 300(里/歩) =約1.3(m)
です。
したがって、「余」を1~2割増しとして、
「百余歩」=150m前後
となります。

これに対して、当時は1里=約75mの「短里」であると指摘したのが、古田武彦氏(元昭和薬科大学教授)でした。詳しくは、
邪馬台国までの道程をたどる(4)~1里=約75mという「短里」を検証する
を参照ください。

「短里」によれば、
1歩=75(m/里) ÷ 300(里/歩) = 約0.25m =約25cm
です。
したがって、
「百余歩」=130歩~140歩=30~35m前後
となります。

ずいぶんと、異なる結果となりましたが、”「墳」ではなく、「冢」である”とありますから、30~35m前後のほうが、感覚的にも合っている気はします。

dの、”棺はあるが、槨(棺の周囲を覆うもの)はない。”ですが、倭国の一般的な墓について記載したものなので、卑弥呼の墓も同様と考えるのが自然でしょう。

fの、”男女百人以上の奴隷を殉葬した。”は、ずいぶんと生々しい表現ですね。さりげなく記載されているところをみると、古代では一般的に行われていたのでしょう。ちなみに、殉葬のかわりに埴輪を据えるようになったと言われてます。

以上、卑弥呼の墓についての情報が整理できました。

一方の、「箸墓古墳」です。(Wikipediaより)
”・奈良県桜井市箸中にある古墳。形状は前方後円墳。
・纒向遺跡の箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられている3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳。
・実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)の墓に治定されている。
・現状での規模は墳長およそ278メートル、後円部は径約150メートル、高さ約30メートルで、前方部は前面幅約130メートル、高さ約16メートル。”


<箸墓古墳>
箸墓古墳
(Wikipediaより)

ここで出てくる倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)について、『日本書紀』崇神天皇19月の条に、つぎのような説話が出てきます。
”百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝え、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたという。”

また”『日本書紀』崇神天皇7年2月15日条では、国中で災害が多いので天皇が八百万の神々を神浅茅原(かんあさじはら:比定地未詳)に集めて占うと、大物主神が百襲姫に神憑り、大物主神を敬い祀るように告げたという。”(Wikipediaより)

このように倭迹迹日百襲姫命は、第7代孝霊天皇の皇女であり、神のお告げを伝える巫女のような存在でした。大物主神の妻とされてますが、大物主は三輪山の神なので、神婚譚ということでしょう。

こうした神がかりの存在であったことから、同じように巫女的な存在であった邪馬台国の女王卑弥呼のことだ、と解釈する説があるわけです。

ただし、倭迹迹日百襲媛命が皇族の一人ではあっても「女王」と呼べるほどの地位と権威を有していたとは、考えにくい等、かなりの無理がある説に思われます。

さらに倭迹迹日百襲媛命は、皇紀によれば、紀元前3世紀頃、二倍年暦でも紀元2世紀頃の人と推定されるので、卑弥呼の時代(紀元3世紀頃)とは合いません。また箸墓古墳の築造年代(3世紀半ば)とも合いません。

ということで、箸墓古墳の被葬者は、倭迹迹日百襲媛命ではない、ということになります。

実際、”『日本書紀』・『古事記』およびその原史料の『帝紀』・『旧辞』の編纂段階では、すでにヤマト王権の初期王陵とする伝承が失われ、新たな意味付けがなされている点が注目されている。・・・ 元々は土師氏の伝承であったのが新たに三輪山伝承に付加されたとする説があり、加えて「はしはか」の墓名も「土師墓(はじはか)」に由来すると指摘される。”「記紀から読み解く、巨大前方後円墳の編年と問題点」『古代史研究の最前線 天皇陵』(仁藤敦史)
との説もあります。つまり、「あとづけ」ということですね。

以上のとおりなのですが、それでは話がここで終わってしまい、「何だ、そんなことだったのか」とガクッときてしまう方もおられるでしょう。世間的には、「箸墓古墳=卑弥呼の墓」説が強くありますので、次回、もう少し科学的にみていくことにします。

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古墳は語る(18)~「前方後円墳体制は」なかった!?

さてここ数回にわたり、前方後円墳について、客観的データを基にした分析をしてきました。その結果わかったことは、「前方後円墳が、大和王権の全国支配の象徴である」という私たちの認識と大きく異なるものでした。

そうなると、そもそも「前方後円墳が、大和王権の全国支配の象徴である」という前提自体、「?」ということになります。今回は、この点をみていきましょう。

これまで「前方後円墳が、大和王権の全国支配の象徴である」という表現を使ってきましたが、難しい表現をすると、「前方後円墳体制」と呼ばれます。この言葉は、都出比呂志氏(大阪大学名誉教授)が提唱しました。
”奈良県桜井市の箸墓古墳をはじめとする定型化した前方後円墳の造営をもって古墳時代の始まりとし、古墳時代は、その当初からすでに国家段階に達していたとして、葬制の定型化にみられるような一元化された政治秩序を前方後円墳体制と呼ぶべきだ”としました。

その後多くの方が使っており、たとえば
広瀬和雄氏(国立歴史民俗 博物館考古研究系教授)は、
”日本列島各地に展開した前方後円墳の特質として「見せる王権」としての可視性、形状における斉一性、そして、墳丘規模に顕現する階層性の3点を掲げ、前方後円墳を、大和政権を中心とした首長層ネットワークすなわち「前方後円墳国家」と呼ぶべき国家の表象である”
としてます。(以上Wikipediaより)

小難しい表現ですが、いずれにしろ「大和王権による全国支配」が前提であり、その「象徴的存在である」点は、同じとみていいでしょう。

もう少しかみくだいていうと、たとえば
・大和王権が、地方豪族に対して築造を命じて、支配の象徴とした。
あるいは
・地方の豪族が、大和王権に服属の証として、自らの意志で築造した。
といったところでしょうか。

さてそれでは、「前方後円墳体制」が成立しているとみなすのには、どのような要件が考えられるでしょうか?
「前方後円墳体制が成立していたことを立証するための要件」ということです。
以下のものが考えられます。


1.数、分布
大和王権が中心であるということは、当然大和を中心に分布しており、数も畿内が圧倒的に多いはずである。
2.築造の時代推移
大和王権が日本において築造の先導的であり、したがって大和王権が最も早く築造を開始して、その動きが同心円上に地方に伝わり、大和王権による築造中止とともに、地方も次第に築造を中止しているはずある。
3.祖型
当然のことながら、最古の前方後円墳は大和にあり、その祖型も大和にあるはずである。
4.規模
前方後円墳が支配・権威の象徴であるからには、大和王権築造の前方後円墳,特に天皇陵を上回る築造は、認められないはずである。同時代築造においては、なおさらありえないはずである。

いかがでしょうか。「前方後円墳体制」というと、常識的に考えて、このようなことが当然のこととして思い浮かぶのではないでしょうか?。

では実際のデータでみていきます。

1.数、分布
すでにお話ししたとおり、前方後円墳の築造数は、東国が多く、千葉・茨城・群馬県で上位3番を占めます。4位に奈良県が入りますが、以下5位福岡県、6位鳥取県で、7位に大阪府、8位岡山県となります。
つまり、数、分布からみると、前方後円墳体制成立要件「数、分布は畿内が圧倒的に多い」は満たしていません。
前方後円墳分布 
 
2.築造の時代推移
では、次に「前方後円墳の築造は畿内で始まり、同心円状に広がり、同心円状に終焉する」は、満たしているでしょうか?
既にお話ししたとおり、東日本では、畿内で築造終息に向かった後期に、築造が大幅に増えています。
前方後円墳数量推移

また、西日本においても、九州北部においては、後期に大型前方後円墳が築造されています。特に、岩戸山古墳(福岡県八女市)は、九州北部で最大の古墳です。
九州前方後円墳3

以上より、「前方後円墳の築造は畿内で始まり、同心円状に広がり、同心円状に終焉する」という要件は、満たしていません。


3.祖型
前方後円墳の祖型とされる「陸橋付円形周溝墓」の最古は、紀元前1世紀築造とされる四国の名東(みょうどう)遺跡です。「陸橋付方形周溝墓」になると、播磨の東武庫遺跡が、なんと紀元前5世紀にさかのぼります。九州北部でも、三雲南小路王墓が、紀元前1世紀とされてます。
以上より、祖型の最古は、大和にはありません。
なお、最古の前方後円墳についてはよくわかっていませんが、纏向石塚古墳(大和)の他にも、権権塚古墳(福岡県糸島市)、萩原2号墳(香川県)などもあり、どれが最古かはわかっていません。

東武庫遺跡

4.規模
1,2,3とどれも成り立っていないとなると、いよいよ最後の砦です。「そんなことを言ったって、大仙陵、誉田御廟山古墳があるじゃないか。あれを大和王権が作ったということは、日本を支配した何よりの証拠だ。」、というわけです。
ではみていきましょう。
まず大仙陵、誉田御廟山古墳が、本当に、仁徳天皇陵、応神天皇陵なのか?、という問題があります。多くの学者から疑問を呈されてはいますが、それだけで一大テーマとなってしまいますので、ここではあえて触れません。真実の解明は、内部の発掘調査を待つしかないでしょう。


今回は、別の切り口でみます。

天皇陵が真実であるなら、少なくとも同時代の墳墓は、それより小規模であるはずです。そうでなければ、支配の象徴になりません。
下図は、古墳時代中期の前方後円墳を規模の大きいもの順に並べたものです。上が宮内庁比定の天皇陵、下が皇室関係を除いた(一般または被葬者不明)陵です。宮内庁比定の天皇陵のうち、明らかに真陵ではないとされているものは、除いてます。

 古墳中期大前方後円墳


ご覧のとおり、古墳時代中期の前方後円墳でみれば、確かに仁徳天皇陵(大仙陵)、応神天皇陵(誉田御陵山古墳)の大きさは突出してます。ところが、次の反正天皇陵になると、急激に小さくなり、清寧天皇陵にいたっては、115mに過ぎません。一方、下の一般の前方後円墳は、造山古墳360m、岡山県)を筆頭に、200mを超える大規模なものが5基もあります。さらに、清寧天皇陵を超えるものは、グラフのなかだけでも10基にものぼります。

この傾向は、後期になると、さらに著しくなります。

古墳後期大前方後円墳

天皇陵が前方後円墳であったのは、30代の敏達天皇陵までであり、以後は方墳、八角墳などに変わっていきます。天皇陵の前方後円墳として最後と言える敏達天皇陵は93mであり、かなり小型化してます。一方、一般の前方後円墳は、断夫山古墳(愛知、151m)を始め大型古墳が多く築造されており、敏達天皇陵の大きさを上回る古墳は、このグラフだけでも、6基もあります。実際には、敏達天皇陵を上回る前方後円墳は、さらに多く全国に分布しています。


以上のとおりみてくると、「前方後円墳体制」があったことを立証する要件1・2・3・4は、一つも成立していないことがわかりました。


このことは何を意味するのでしょうか?。


それは言うまでもなく、”「前方後円墳体制」なるものはなかったのではないか?”、ということに他なりません。


これまで歴史の教科書で習ってきたことと正反対の結論なので、受け入れがたい、と感じられた方も多いかもしれません。しかしながら、純粋に古墳のデータだけみると、このような結論にならざるをえないわけです。


それは、前回紹介した「王朝交代説」~”畿内の王朝は大和王権のみがあって他地域の豪族を支配していたのではなく、いくつかの地域の豪族がかわるがわる支配した”~にも通じる考え方です。考古学的成果からみても、王朝交代説を支持する要素は多々あることは、お話ししました。

最後に、「前方後円墳体制」はなかったとする説を提唱する専門家の一人、藤田憲司氏(前大阪近つ飛鳥博物館長)の論文からです。
”巨大前方後円墳の築造が続いた約350年間の当初から「全土的」に一体的な体制が成立したという想定は、多くの問題点を抱えており、同意できない。「古墳時代」中期までは各地に大きな前方後円墳を築く権力構造が成立しており、「近畿中央部の首長と地方の首長との間にあったのはせいぜい同盟的な関係であったろう」(白石2002)という指摘は一つの指標になると思う。”(「日本前方後円墳時代研究課題」より)

さて皆さんは、どのように考えられるでしょうか?

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古墳は語る(17)~天皇陵と宮の関係からわかること

前回は、古代天皇陵を一通り整理しました。そこからわかることは、古代天皇陵は代が代わるごとに激しく移動しているということでした。そしてその理由は何か?、というところまででした。

理由としては一般的には、
”古代は天皇陵に定められた場所があったということではなく、天皇が宮を置いたところなどにより定められたのだ。、宮も天皇ごとに移動しているから、天皇陵も移動しているのだ。”
といった説明がされます。

では天皇陵と宮の位置についてみていきましょう。

下の図は、古代天皇陵と宮の所在地をまとめた表です。天皇の宮と陵が同じ府県にあるものを、だいだい色で網掛けしました。
 
天皇陵と宮1 


天皇陵と宮2 
見づらくて恐縮ですが、10代崇神天皇から12代景行天皇までは、宮が奈良県桜井市、宮は奈良県天理市→奈良市→天理市と移動はするものの、同じ奈良県内です。ところが、13代の成務天皇は滋賀県大津市、14代仲哀天皇は最後は福岡県福岡市であり、陵(それぞれ奈良県、大阪府)とは全く別です。

次の神功皇后は最終宮は奈良県桜井市で、陵は奈良県奈良市で一致します。ところが15代の応神天皇の宮は奈良県橿原市に対して、陵は誉田御陵山古墳(大阪府)で一致しません。16代の仁徳天皇の宮は難波高津宮(大阪府)で陵も大仙陵(大阪府)と一致します。

以下17代履中天皇から25代武烈天皇まで、宮は18代(反正天皇)を除いて奈良県、陵は奈良県と大阪府を移動します。

特徴的なのは26代の継体天皇です。最終宮は奈良県桜井市ですが、陵はなんと大阪府北部の茨木市(三島野古墳群)と大きく飛びます。これは継体天皇の出身地が北陸であり、宮も当初大阪府枚方市(河内樟葉宮)にあったことが影響していると考えられます。ちなみに三島野古墳群にある天皇陵は、継体天皇陵だけです。

27代安閑天皇から35代皇極天皇まで宮は奈良県と安定しますが、陵は大阪府と奈良県をいったりきたりです。

36代孝徳天皇の宮が難波長柄豊碕宮 (難波宮)です。通説で、大阪府大阪市中央区法円坂とされてますが、よくわかっていません。陵は大阪府です。

37代の斉明天皇は、皇極天皇の重 (同一人物)で、最終宮は福岡県朝倉市です。これは唐・新羅連合軍と戦った白村江の戦いのためとされてます。陵は、奈良県です。

38代天智天皇の最終宮は近江大津京(滋賀県大津市)で、陵は京都府にあります。39代の弘文天皇の宮は天智天皇と同じで、陵は滋賀県大津市です。

40代天武天皇の宮は飛鳥浄御原(奈良県明日香村)で、陵も明日香村、41代の持統天皇から藤原京(奈良県橿原市)で陵は天武天皇と同じ明日香村です。42代の文武天皇の宮も藤原京、陵も明日香村です。つまり天武天皇から、宮と陵が一致してます。

以上みてきたとおり、天皇宮と天皇陵は、多くが同じ府県にありません。10代から42代の32天皇のうち、没時の宮と陵が同じ府県にないのは、15代であり、実に47%にものぼります。なお奈良県内に宮と陵があれば、すべて一致としてますが、実際には、大和北部の佐紀古墳群と南部の大和・柳本古墳群、西の馬見古墳群、さらに明日香村・橿原市周辺とは距離が離れ、別系統との見方があります。そうしたことも考慮に入れると、没時の宮と陵が一致していないとみなされるものは、さらに多くなり、一致しているものは、数えるほどしかないことになります。

もちろんこのなかには、熊襲征伐で九州に行き、そこで亡くなった仲哀天皇や、大阪府に宮があった継体天皇や、白村江の戦いで九州にいっていた斉明天皇など、特殊事情もあります。それを差し引いても、統計的にみれば、とてもではありませんが「天皇の没時の宮と陵は同じ地域である」とは言えません。

ここで話を整理します。

テーマは、天皇陵が代を替わるごとに大きく移動するのはなぜか?、です。

通説では、”当時は天皇が代わるたびに宮を移したのだから、それに合わせて陵も代ごとに移動したのだ。”という説明がされてます。ところが、上にみてきたとおり、その説は成り立っていないことがわかります。

では本当の理由は、何なのでしょうか?

可能性として、
1.天皇の宮と陵の位置比定が違っている。
2.法則性はない。その時々で決定した(例として神のお告げや風水の占いなどによる)。
3.天皇を支えた豪族の拠点の近くに築造した。各豪族から天皇を輩出した。
4.そもそも大和王権なるものはなく、各地の豪族の事績をとりこんで系譜としてつなげただけだ。

などが、考えられます。

では分析してみましょう。

1.天皇の宮と陵の位置比定が間違っている
この可能性は高いでしょう。実際、陵のみならず宮の位置にしても、多くの説が出されており、確定してません。それは、遺跡の発掘がされていないことも大きな要因であり、致し方ないところではあります。ただ、古事記、日本書記の記載から、おおむねの位置は推定されているわけですから、古事記、日本書記の記載は信用ならない、となってしまいます。

2.法則性はない。その時々で決定した(例として神のお告げや風水の占いなどによる)。
この可能性も考えられなくもありませんが、そんな気まぐれのように陵の位置を移動させるものでしょうか?。祖霊信仰というものは、現代にくらべてはるかに大きかったと想像されます。そうであれば、なおさら、先祖が代々住んでいたとか、代々の陵があったとかの場所に陵を定めるのが、自然な考え方だと思われます。
なお宮にしても、すでにそこに都市機能があり、多くの人々が住んでいるわけで、それを天皇が代わるたびに、今まで住んでいた都市を捨てて、これほど激しく移動するものなのか、という疑問はあります。このあたりも興味深いところですね。

3.天皇を支えた豪族の拠点の近くに築造した。各豪族から天皇を輩出した。
これもありえそうな説ですね。当時は女系社会であったとの説もあり、そうなると天皇といえども、奥さんの実家に気を遣わなくてはならなかったはずです。なんだか、いつも奥さんの顔色をうかがっている肩身の狭い婿養子のようです。天皇としての威厳が、感じられませんね。
実際、佐紀古墳群は、和邇(わに)氏ならびに息長(おきなが)氏との関連が指摘されてます。大和・柳本古墳群近くには石上神社があり、物部氏の勢力範囲です。馬見古墳群は、葛城氏の勢力範囲です。こうした豪族の後ろ盾のもとに、大和王権が成り立っていたという説です。

たびたび引用させていただいている「前方後円墳の理解」(白井久美子)では、もう少し踏み込んだ表現をしています。
”百舌鳥・古市・佐紀から交互に輩出される王陵の動向を見ると、王権が特定の一族に限られていたわけではなく、中枢域の複数の勢力が政権を担っていた状況がわかる。”
とあります。
これだけ読むと、(大和)王権は、一つの系譜として継承されていたわけではないことを示唆している表現ですね。

4.そもそも大和王権なるものはなく、各地の豪族の事績をとりこんで系譜としてつなげただけだ。
これは、3の説(特に白井氏説)をさらに発展させたものでもあります。‘各天皇の宮と陵がこれだけ移動しており、またそこに関連性が見出せないのだから、大和王権が存在した証拠とならない。”ということです。
何の制約もなく古代天皇の宮と陵を見たとき、”バラバラであるのだから、それぞれに明確な関連性はない”、と考えれば、一番すっきり解釈できるわけです。

具体的にどういうことかと言えば、”畿内においては、各地域の豪族が興亡を繰り返していたのであり、それをあたかも一つの系譜としてつながっているように、古事記、日本書記が作文した大和王権は、それらのうちの一つにすぎなかった、すなわちone of them に過ぎなかった。”という考え方です。

これだけ読むと、なんてへんなことを書くのだ、と思われた方も多いでしょう。ところが、古事記、日本書記を読めば、明らかに系譜が断絶していると考えられる箇所が、いくつも出てきます。また記載されている系譜自体、多くの矛盾があることは、多くの論者が指摘しているところです。

かつて学会においても「王朝交代説」として提唱されてます。
たとえば水野祐氏(早稲田大学名誉教授)
・崇神王朝(三輪王朝)(イリ王朝)
・応神王朝(河内王朝)(ワケ王朝)
・継体王朝(近江王朝)

の3つの王朝があったとしてます。

また岡田英弘氏(東京外国語大学名誉教授)は、
・河内王朝
・播磨王朝
・越前王朝
・日本建国王朝(舒明天皇以降)

を挙げてます。

また鳥越憲三郎氏(大阪教育大学名誉教授)は、葛城王朝説を唱えたことで有名です。

これらの説は、主として文献を中心とした研究から導かれましたが、今回の古墳という考古学的視点からみた結論と似たようなものになってます。これは果たして偶然でしょうか?。

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古墳は語る(16)~古代天皇陵の謎

さて、前方後円墳を、全国分布、築造時期の推移などのデータを、頭の中を白紙にして客観的にみていくと、「大和王権が全国支配した象徴である」ということは言えないと、いうことをお話ししてきました。

このような話をすると、かならず出てくるのは、
”いや、データを見ればそうかもしれないが、世界一と言われる大仙陵(伝仁徳天皇陵)など巨大古墳は、畿内に集中しているではないか。あれだけの古墳を築造できるのは、大和王権しかいないではないか。”
という反論です。

大仙陵が本当に仁徳天皇陵かどうかは別として、あれだけの古墳群を築造したということは、卓越した勢力が、古代あの地域に存在したことは確かでしょう。そのあたりを、どう解釈するかというテーマが出てきます。

ということで、今回は古代天皇陵について、データからみていきましょう。


下表は、実在説のある第10代崇神天皇から第42代文武天皇までの、古代天皇陵の位置、宮内庁比定の古墳とその推定築造年代等についてまとめたものです。参考までに、古事記・日本書記等から推定される亡くなった年(没年)も、記載してます。左側が皇紀、右側が二倍年歴によるものです。
二倍年歴とは、古事記・日本書記の年齢は、1年に二回の歳を数えたとする説です。
詳しくは
一年で二回の年を数えたという「二倍年歴」説は本当か?
をご覧ください。
(ここでは簡易的に、23代顕宗天皇以前を二倍年暦としてます。)

天皇陵一覧  


見づらくて恐縮ですが、各古墳の推定築造年代をご覧ください。各天皇の没年と全く合っていない古墳が、多数あります。そのような古墳は、年代に×をつけるとともに黄色で網掛けしました。また、その他の論拠により、明らかに別の陵であるとされている陵も、21代雄略天皇、26代継体天皇、29代欽明天皇、32代崇峻天皇、37代斉明天皇、42代文武天皇とあり、そうした古墳も×をつけ黄色で網掛けしました。

このようにみていくと、宮内庁比定の古代天皇陵のうち、実在とされる10代崇神天皇以降42代文武天皇までの32陵のうち、14陵が間違い、ということになります。なんと、44パーセントが、間違いということになります。


一般的に、仮説を立て(ここでは天皇陵比定)、調査実証した結果、44パーセントも間違ってましたとなると、そもそもの仮説の立て方(ここでは天皇陵比定の方法)が間違っていた、とされてしまいます。もっと言うと、残りの56パーセントも間違っているのではないか、という疑いをもたれるわけです。


これら天皇陵とされている古墳(10代崇神天皇~42代文武天皇)がどこに分布しているのか図示したのが下の図です。
畿内前方後円墳分布地域


天皇陵の所在エリアは、大きく分けて6つに分けられます。奈良県の大和・柳本・佐紀・馬見古墳群、大阪府南部の古市・百舌鳥古墳群、大阪府北部の三島野古墳群です。ずいぶんと広い範囲で分布しているのが、よくわかります。

  
さらに年代別、地域別にまとめたのが、下の図です。

天皇陵分布と移動


移動を矢印で示しました。10代崇神天皇陵から30代敏達天皇陵までです。

10代の崇神天皇陵(行燈山古墳)は奈良県大和東南の柳本古墳群にあります。13代の成務天皇陵(石塚山古墳)は奈良県大和北部の佐紀古墳群にありますが、ここまでは、柳本古墳群↔佐紀古墳群と、大和の内部での移動です。

ところが14代の仲哀天皇になると、一気に大阪府東南部の古市(ふるいち)古墳群の岡ミサンザイ古墳に飛びます。ここから古市古墳群が続くかと思いきや、次の神功皇后陵(五社神古墳)は再び大和北部の佐紀古墳群に戻ります。

そして次の応神天皇陵(誉田御廟山古墳)は、古市古墳群です。

次の16代仁徳天皇陵が、あの巨大古墳である大仙陵古墳で、これは古市古墳群の西にある、百舌鳥古墳群です。17,18代と百舌鳥古墳群ですが、19代允恭天皇陵(市ノ山古墳)は古市古墳群に戻ります。

ここからがまた複雑で、20代安康天皇陵(古城1号墳、図には不記載)は佐紀古墳群、21代雄略天皇陵(高鷲丸山古墳、不記載)、22代清寧天皇陵(白髪山古墳)は古市古墳群、23代は馬見古墳群、24代は古市古墳群、25代に再び馬見古墳群近くと行き来して、26代の継体天皇陵は大阪府茨木市の三島野古墳群と、一気に大阪北部へ移動します。
 
ただしそこは一代限りで、27代安閑天皇陵は古市に戻り、28代・29代はまた大和南へ飛びます。そして30代敏達天皇陵は、再び古市に戻ります。


31代以降は、古市↔大和を繰り返し、38代天智天皇陵は京都府、39代弘文天皇陵は滋賀県です。40代天武天皇・41代持統天皇陵は合祀で奈良県明日香になり、42代文武天皇も同様です。最後の最後に、神武天皇陵のある橿原市の近辺に戻ってきたわけです。

ずいぶんと大きく移動しているのが、おわかりいただけたと思います。

もっともこれらはあくまで、宮内庁比定による陵墓位置を基にしているものであり、そもそもの信ぴょう性に欠ける、とされてます。実際、表を見ればわかるとおり、歴代天皇陵は時代順に並んでおらず、バラバラです。

こうしたことから、多くの学者から、天皇陵比定についての様々な説が提起されているわけです。

私は以前、天皇陵比定というのは古代からの言い伝えがあり、それを基にしているのかと思ってましたが、実はそうではないのです。
現在につながる天皇陵の探索および治定は、そのほとんどが江戸時代に行われており、一部のものについては明治時代以降にまでずれこんだ。
江戸時代には、尊皇思想の勃興とともに、天皇陵探索の気運が高まり、松下見林、本居宣長、蒲生君平、北浦定政、谷森善臣、平塚瓢斎などが、陵墓の所在地を考証したり、現地に赴いたりしており、幕府による修陵もこうした動きと無関係ではない。”(Wikipediayより)

ようするに、主として江戸時代になって文献や言い伝えを基に定められたのであり、逆に言えば、それ以前はほとんどわからなかった、ということです。
 
かつては学校の授業で、今の大仙陵古墳を仁徳天皇陵、誉田御廟山古墳を応神天皇陵と習いました。ところがその後、多くの学者(たとえば森浩一氏(同志社大学名誉教授))から、「論拠に乏しい」との指摘が出て、それぞれ大仙陵古墳、誉田御廟山古墳と呼ぶようになったわけです。その論争は、今でも続いています。

天皇陵asahi

この論争は、半永久的に続くのでなないかと思われます。なぜなら、比定するための資料が、あまりにも少ないからです。ご存じのとおり、天皇陵の発掘調査は認められていません。肝心要の中身がわからなくては、断定的なことは言えません。あくまで推測に推測を重ねるだけでしょう。

この話の決着はさておき、興味深いことがあります。

応神天皇皇紀による没年は313年です。一方、応神天皇陵に比定されている誉田御廟山古墳推定築造年代は、5世紀初頭です。100年もの差異があります。いくらなんでも死後百年も経過して築造したということはないでしょう。これを二倍年歴ですと、没年が407年となり成立します。

「誉田御廟山古墳=応神天皇陵」と考えている方は、皇紀を無視しており、結果として二倍年歴を肯定していることになります。このあたりを、「誉田御廟山古墳=応神天皇陵」を唱えている方は、どのように解釈しているのでしょうか?。逆に、二倍年歴の正しさが、実証されているとも言えますね。

話を戻します。天皇陵の真陵については多くが不明と言っていいでしょうが、おおまかな場所については、日本書記等の記載からおおむね推定されてます。そこからわかることは、上記のとおり「大きな移動があった」ということです。

では、こうした「激しすぎる移動」は何を意味しているのでしょうか?。

次回、分析していきます。

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古墳は語る(15)~最古の前方後円墳はどこにある?

前回、前々回と、前方後円墳の分布は、数からみれば東国に多く、特に中枢域や西国で減少する古墳時代後期に急増していること、西国でもたとえば九州北部では、古墳時代中期に衰退するものの後期に隆盛を極めることがわかりました。そしてこうしたデータから見る限り、「前方後円墳が大和朝廷全国支配の象徴である」という一般論は論拠に乏しいこと、をお話しました。

この話を聞いて、「いやいやそんなはずはない。第一、最古の前方後円墳として、大和に箸墓古墳があるではないか。最古の古墳があるということは、前方後円墳の起源は大和であり、それが全国支配の象徴になったのだ。」
という反論が聞こえてきそうです。

新聞報道などでは、さかんに初期の前方後円墳として箸墓古墳が取り上げられますね。確かに、最古の前方後円墳が大和にあり、また初期の築造数も大和が全国各地を圧倒していれば、そのように言って差支えないでしょう。

では、実際はどうなのか、データで客観的に見ていきましょう。

「前方後円墳集成」(近藤義郎編)を基にします。

「前方後円墳集成」では、全国各地の前方後円墳を、築造された時期別に、畿内編年の1期から10期の10段階に分けて整理してます。最古の段階である1期の前方後円墳の数を、古代の行政区分別に整理したものが、下のグラフです。

1期前方後円墳数量


グラフからわかるとおり、1期が最も多いのは、筑前(福岡県北部)で9基、第二位が播磨(兵庫県)で8 基、第三位が大和で6基、以下備前、美作、備中(岡山県)、讃岐(徳島県)が続きます。


なおこのグラフは、すべての前方後円墳をカウントしているわけではなく、築造年代が不明なものは除いてます。したがって、実際の数は、これを上回るでしょうし、不明あるいは未発見のものもあるでしょう。ですから正確な数ではありません。あくまで地域的な傾向を理解してもらえればOKです。また規模は考慮していません。


それらを踏まえたなかであらためてみても、やはり大和が第三位というのには、「あれ?」と思われたのではないでしょうか。そして、第一位は、筑前、つまりこのブログで邪馬台国所在地として挙げている九州福岡県博多湾岸です。第二位の播磨、第四位以下の備前~備中、讃岐と、瀬戸内海沿岸ですね。やはり、こうした地域が、キーであることがわかります。


さてこうしたデータに対する、

「いや待ってくれ、最古の前方後円墳は、大和の箸墓古墳と言われているではないか?」

との反論ですが、それについてお答えいたします。


実は、最古の前方後円墳は、わかっていません。箸墓古墳は、最古級ですが、最古ではありません。
ここでは、最古の古墳がどの地域にありそうなのか、データから推測してみましょう。

まず、各地域で最古の前方後円墳を整理します。1期に築造された前方後円墳のうち、地域最古と考えられるものを、ピックアップしました。

最古級前方後円墳集計表  

「前方後円墳集成」の表中、1期のなかで、前半・後半など明らかにされているものは、表記しました。また参考までに、3世紀後半など具体的年代が推定されているものは、それも表記しました。

見てのとおり、各地域において、1期に築造された前方後円墳は、畿内のみならず全国に散らばっていることがわかります。

ここで注意しなくてはいけないのは、1期といっても、それはあくまで「相対年代」であって、「絶対年代」とは限らない、ということです。

これはどういうことかというと、古墳の築造年代は、型式の他、出土した土器から推定する場合が多いわけです。たとえば、大和の石塚古墳からは、土師器(纏向1式期)が出土してますので、そこから古墳時代初頭であり、古墳時代は3世紀からとされるので、3世紀初頭とされます。他の地域の古墳も同様の方法で推定されます。

たとえば大和の古墳Aで出土した庄内土器と同じ種類の土器が、地方の古墳Bで出土した場合、
”庄内式土器は大和(畿内)が最も古いから、地方の土器は大和より新しい時代のものであり、したがって地方の古墳Bは大和の古墳Aより新しい”。
とされます。すなわち「相対年代」です。ちなみに、表右側の具体的年代についても、このやり方で推定してます。

一見、合理的ですが、ここに大きな落とし穴があります。なぜなら、「庄内式土器は大和が最も古い」ことを前提としているからです。

逆に言えば、「庄内式土器の発祥が大和でないならば、古墳築造の年代推定は、すべて異なった結果になる」ということです。

そして、庄内式土器は大和が発祥ではなく、兵庫・岡山県あたりではないか、という説が出てきていることは、すでに紹介しました。
”庄内式土器は畿内が最古か?”

となると、表にある1期の前方後円墳も、大和の前方後円墳より古い古墳が、その他の地域にある可能性が出てきます。

そもそも1期、2期という区分自体、畿内の編年である上に、あいまいな要素が多いのです。
たとえば1期とは
”円筒埴輪はまだみられず、都月式すなわち特殊器台形埴輪や特殊壺型埴輪を伴う場合が多い。仿製鏡はなく、中国鏡のみが副葬される。バチ型の前方部をもつ。”
となってます(「前方後円墳集成」)。


何か、はっきりしませんよね。この基準で畿内のみならず他地域の古墳築造時期も決めていくとなれば、誤差が出るのも、致し方ないところです。

ところでここで皆さんの中には、”他との比較から推定する「相対年代」ではなく、科学的データから算出する「絶対年代」で測定できないのか?”という疑問をもたれる方も、多いのではないでしょうか?。

具体的には、遺物に残された炭素の同位体測定や木の年輪測定による方法などですが、まだまだ確定させる段階には至っていません。こうした科学的手法が何より大切だと考えるのですが、未発掘・未調査の古墳も多く、資料の収集蓄積が充分ではないようです。早急なデータ蓄積が望まれるところですね。

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古墳は語る(14)~前方後円墳分布の不可思議

新年明けましておめでとうございます。

今年も精魂こめて発信していきたいと考えてます。
よろしくお願いいたします。

さて、前回は、前方後円墳の分布について、データを基にした全体的な傾向をみてきました。
前方後円墳が大和朝廷の全国支配の象徴であるなら、常識的に考えれば、その分布の傾向として、

1.数量は、大和を中心とした畿内(中枢域)が最も多いはずである。
2.時代の推移に伴う築造数は、中枢域から同心円的に波及するはずである。たとえば、中枢域での築造が減少するに連れ、その他の地域でも減少していくはずである。

という視点で、解析しました。

すると、私たちの予想とは大きく反し、
1.数量が最も多い地域は、東国(千葉・茨城・群馬県)である。
2.中枢域での築造が減少した古墳時代後期に、東国で最も盛んに築造された。

という事実が、浮かび上がってきました。

さて前回は、主として中枢域と東国との比較をメインとしましたが、西国特に私が九州王朝があったと考えている、九州北部との比較をします。

まず数量ですが、福岡県が267基と、奈良県(312基)に迫り、大阪府(202基)・京都府(128基)を上回っていることは、前回グラフの通りです。
次に、数量の推移です。果たして、中枢域が減少していくにしたがい、九州北部でも、減少しているでしょうか?
図でみてみましょう。

下図は、中枢域である畿内(摂津・和泉・河内・大和・山城)における主な前方後円墳を記載したものです。
畿内前方後円墳 
 

ご覧のとおり、3世紀中頃(古墳時代前期)、大和において大型前方後円墳の築造が始まり、4世紀後半(古墳時代中期)になり、河内・和泉において、大仙陵古墳、誉田御陵山古墳をはじめとした巨大前方後円墳が築造されます。ところが、突然5世紀終わりごろ(古墳時代後期)には大古墳は築造されなくなります。以後、大規模な前方後円墳は築造されなくなります。例外として、大和最大の前方後円墳である見瀬丸山古墳(318m)が、終末期の6世紀後半に築造されます。なぜこの時期に突然築造されたのか、「?」ですね。

では次に、九州北部ではどうだったのか、みてみましょう。
九州前方後円墳1 

九州前方後円墳2 九州前方後円墳3


見ての通り、1期(古墳時代初頭)には、糸島~今宿平野、早良~福岡~糠屋平野、遠賀川流域で、多くの前方後円墳が築造されてます。その後大きな古墳(銚子塚古墳など)が築造されますが、5期(古墳時代中期)あたりから数が減り、規模も小さくなっていきます。

そのまま衰退に向かうのかと思いきや、再び築造数が増え始めます。その後の最大規模の前方後円墳も、
糸島~今宿平野では、今宿大塚古墳(9期)
早良~福岡~糠屋平野では、東光寺剣塚古墳(9期)
津屋崎・宗像・遠賀川下流域では、在自剣塚古墳(9期)
遠賀川中流では、桂川大塚古墳(9期)

と、終末期に築造されます。

また、久留米、八女地方では、前方後円墳築造が中期以降活発になりますが、最大のものは、筑紫の君磐井の墓として有名な岩戸山古墳(9期)です。ちなみに岩戸山古墳は、墳長138mで、北部九州最大の前方後円墳です。

以上みてきたとおり、畿内において前方後円墳築造が隆盛を極める古墳時代中期(5世紀、5・6・7期)に、九州北部では築造が衰退し、畿内で衰退する古墳時代後期(6世紀、8・9・10期)において、九州北部で再び活発化することが、わかります。

この事実を、どのように解釈すればいいのでしょうか?

これに対して、たとえば
「畿内で大古墳が築造されていた中期は、他の地方では築造が規制されたが、畿内で築造されなくなった後期は、規制がなくなり、各地方で自由に築造できるようになったのだ。」
という説明がされるかもしれません。

実際、天皇陵も、用明天皇(587年没)以降は、方墳・八角墳へと変遷します。それに伴い、前方後円墳は全国支配の象徴ではなくなった、という解釈です。

しかしながら、そのようなことが現実的にありうるでしょうか?

”畿内においては、後期になって前方後円墳に対する興味がなくなり、各地方の豪族に対して、
「以後、ご自由に造ってくださって結構です。」
などという詔でも出した。”
ということでしょうか?。
それほど大和朝廷は、地方豪族に寛容で心優しい人々の集団だったのでしょうか。

そんなことはありえないでしょう。

たとえ築造を自由に許すにしても、少なくとも「天皇陵を上回るものは築造してはならない。」程度の規制はかけるはずです。そうでなければ、過去の天皇陵の権威を、貶めてしまいかねないからです。

ところが実際には、八女の岩戸山古墳(9期)は、墳長138mであり、同年代の天皇陵の墳長を上回ってます。他にも、同時代の天皇陵を上回る古墳が数多くあります。こんなことを、当時の大和朝廷が、やすやすと認めたのでしょうか?。

こうなってくると、そもそも「前方後円墳が大和朝廷の全国支配の象徴であった。」という前提自体、「?」ということになってこざるをえません。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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