古墳は語る(19)~箸墓(はしはか)古墳が「卑弥呼の墓」になりえないこれだけの理由①
これは世間一般的な考え方とは対極にある考え方であり、皆さんのなかにはまだ納得できない、という方もおられると思います。
これからそのあたりをみていきます。
まず想定される質問は、
”大和にある箸墓古墳は、邪馬台国の女王卑弥呼の墓と報道されているではないか?。その話との関連はどうなるのか?”
というものです。
仮に「箸墓古墳=卑弥呼の墓」であったとしても、今までお話してきたデータから導かれた結論を覆すことはできないと考えられますが、それはそれとして、本当に「箸墓古墳=卑弥呼の墓」なのか、そのあたりをみていきましょう。
はじめに卑弥呼の墓です。まったく幸運なことに、卑弥呼の墓については、中国史書の三国志魏志倭人伝に記されてます。
以下訳文です。訳は豊田有恒氏(作家、元島根県立大学教授)の「歴史から消された邪馬台国の謎」を基に、一部修正。
まずは、倭の風俗について描写しているところに、一般的な墓についての説明があります。
”人が死ぬと棺桶には入れるが、棺の周囲を覆うようなものはない。土を小高く盛って墓を作る。
そして最終章に、卑弥呼が亡くなり、墓を造ったことが書かれています。
”同八年(247年)、太守の王頎(おうき)が、上京した。
倭の女王の卑弥呼は、狗奴国(くなこく)の男王の卑弥狗呼(ひみくこ)と以前から仲がよくなかった。倭国では、載斯(さいし)、烏越(うえつ)などを派遣して、郡へ行かせ戦況を説明させた。郡では、辺境監督官の張政(ちょうせい)たちを倭国へ派遣した。皇帝の命令書、中国の権威を示す黄色い軍旗などを難升米に与え、(中国が介入することを)檄を飛ばして知らせたのである。
卑弥呼は死に、小高い盛り土のある墓を造らせた。直径百歩あまりである。男女の奴隷を百人以上も殉葬した。あらためて男の王を立てたが、国中が従おうとしなかった。そのため殺し合いになり、そのとき千人以上も殺した。”
紀元後247年に、ライバル国である狗奴国(くなこく)との戦いがありました。卑弥呼はその後亡くなったわけですから、没年は247年以降しばらくしての頃です。3世紀半ばとしていいでしょう。そして卑弥呼の墓について説明してます。
卑弥呼の墓についてまとめますと、
a.築造年代は3世紀半ば
b.盛り土した「墳」ではなく、「冢」である。・・「大作冢」
c.直径が百歩あまり。・・「徑百餘歩」
d.棺はあるが、槨(棺の周囲を覆うもの)はない・・・「有棺無槨」
e.男女百人以上の奴隷を殉葬した。・・「狥葬者奴碑百餘人」
bは注意を要するところです。「墳」とあれば、明らかに盛り土した古墳となりますが、あくまで「冢(ちょう、つか)」です。
「冢」・・土を小高く盛り上げて造った墓(EDR日中対訳辞書より)
それほど大きな盛り土の墓ではなかったことになります。なお、「大きな冢を作った」ではなく、「大いに冢を作った」とあることにも、注意が必要です。
cも解釈が分かれるところです。「径」とありますから、円墳であったことがわかります。前方後円墳はどうなのかですが、後円部を主丘とみたとすれば、可能性ありといったところです。
問題は、「百余歩」です。
一般的な説として、
当時は、1里=300歩
ですから、
1里=約400m
1歩=400(m/里) ÷ 300(里/歩) =約1.3(m)
です。
したがって、「余」を1~2割増しとして、
「百余歩」=150m前後
となります。
これに対して、当時は1里=約75mの「短里」であると指摘したのが、古田武彦氏(元昭和薬科大学教授)でした。詳しくは、
邪馬台国までの道程をたどる(4)~1里=約75mという「短里」を検証する
を参照ください。
「短里」によれば、
1歩=75(m/里) ÷ 300(里/歩) = 約0.25m =約25cm
です。
したがって、
「百余歩」=130歩~140歩=30~35m前後
となります。
ずいぶんと、異なる結果となりましたが、”「墳」ではなく、「冢」である”とありますから、30~35m前後のほうが、感覚的にも合っている気はします。
dの、”棺はあるが、槨(棺の周囲を覆うもの)はない。”ですが、倭国の一般的な墓について記載したものなので、卑弥呼の墓も同様と考えるのが自然でしょう。
fの、”男女百人以上の奴隷を殉葬した。”は、ずいぶんと生々しい表現ですね。さりげなく記載されているところをみると、古代では一般的に行われていたのでしょう。ちなみに、殉葬のかわりに埴輪を据えるようになったと言われてます。
以上、卑弥呼の墓についての情報が整理できました。
一方の、「箸墓古墳」です。(Wikipediaより)
”・奈良県桜井市箸中にある古墳。形状は前方後円墳。
・纒向遺跡の箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられている3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳。
・実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)の墓に治定されている。
・現状での規模は墳長およそ278メートル、後円部は径約150メートル、高さ約30メートルで、前方部は前面幅約130メートル、高さ約16メートル。”
<箸墓古墳>

(Wikipediaより)
ここで出てくる倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)について、『日本書紀』崇神天皇19月の条に、つぎのような説話が出てきます。
”百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝え、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたという。”
また”『日本書紀』崇神天皇7年2月15日条では、国中で災害が多いので天皇が八百万の神々を神浅茅原(かんあさじはら:比定地未詳)に集めて占うと、大物主神が百襲姫に神憑り、大物主神を敬い祀るように告げたという。”(Wikipediaより)
このように倭迹迹日百襲姫命は、第7代孝霊天皇の皇女であり、神のお告げを伝える巫女のような存在でした。大物主神の妻とされてますが、大物主は三輪山の神なので、神婚譚ということでしょう。
こうした神がかりの存在であったことから、同じように巫女的な存在であった邪馬台国の女王卑弥呼のことだ、と解釈する説があるわけです。
ただし、倭迹迹日百襲媛命が皇族の一人ではあっても「女王」と呼べるほどの地位と権威を有していたとは、考えにくい等、かなりの無理がある説に思われます。
さらに倭迹迹日百襲媛命は、皇紀によれば、紀元前3世紀頃、二倍年暦でも紀元2世紀頃の人と推定されるので、卑弥呼の時代(紀元3世紀頃)とは合いません。また箸墓古墳の築造年代(3世紀半ば)とも合いません。
ということで、箸墓古墳の被葬者は、倭迹迹日百襲媛命ではない、ということになります。
実際、”『日本書紀』・『古事記』およびその原史料の『帝紀』・『旧辞』の編纂段階では、すでにヤマト王権の初期王陵とする伝承が失われ、新たな意味付けがなされている点が注目されている。・・・ 元々は土師氏の伝承であったのが新たに三輪山伝承に付加されたとする説があり、加えて「はしはか」の墓名も「土師墓(はじはか)」に由来すると指摘される。”「記紀から読み解く、巨大前方後円墳の編年と問題点」『古代史研究の最前線 天皇陵』(仁藤敦史)
との説もあります。つまり、「あとづけ」ということですね。
以上のとおりなのですが、それでは話がここで終わってしまい、「何だ、そんなことだったのか」とガクッときてしまう方もおられるでしょう。世間的には、「箸墓古墳=卑弥呼の墓」説が強くありますので、次回、もう少し科学的にみていくことにします。
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