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古墳は語る(23)~魏の曹操の「薄葬令」の与えた影響

ここまで、古墳を中心とした墳墓についてみてきました。

その実態は、学校の教科書で習ったものとは大きく異なったものでした。特に、前方後円墳は大和王権の全国支配の象徴であるという「前方後円墳体制」なるものは、データでみる限りは存在してないことがわかりました。

ところでここまでは、日本国内の墳墓のみの話でしたが、陵といえば、なんと言っても中国の秦の始皇帝陵に代表されるように、中国にも大きな陵が数多くあります。そうした陵墓と、日本の墳墓はどのような関係にあるのでしょうか?。

中国の墓は、日本にまったく影響を及ぼさなかったとする方ももちろんいるでしょう。しかしながら、当時の東アジアの状況を考えれば、影響をまったく受けなかったと考えるのは、無理があると思われます。

なぜなら、少なくとも紀元前後から遣唐使の時代までは、当時の東アジアを支配していたのは中国であり、日本もその中国に朝貢して、金印や称号をもらっていたわけです。その長きにわたる時代において、お互いに人が激しく行き来し、文化風習も受け入れてきたのは周知の事実です。そうしたなか、墓制についても、何らかの影響を受けたと考えるのが自然でしょう。

ではまず、中国の墓制について、みていきましょう。出典は「中日古代墳丘墓の比較研究」(劉振東、立命館大学大学院文学研究科博士論文)です。

 ”中国で現在分かっている最も早い時期の墓葬は旧石器時代に遡り、新石器時代を経て夏・商・西周時代に至るまで、中原地区の墓葬には墳丘はなかった。墓坑を埋め戻した時にわずかながらの残土の盛り上がりがあったとしても、そのままの状態で留まることはなかったのである。墓葬上に版築による高大な墳丘を築くようになるのは、春秋戦国の交あたりから始まったと一般的に考えられている。”(P1)

中国(ここでは中原一帯)の墓というと、すぐに有名な秦の始皇帝陵を思い出すので、歴代皇帝の陵はすべてあのような巨大な墳丘墓だったかのような先入観をもってしまうのですが、そうではないのです。

遠い古代では、中国では土を盛って墓を造るという風習はなく、すべて地面に穴を掘って埋葬する、というスタイルだったようです。日本でも、縄文時代は同じですね。

それが時代を経て、春秋戦国時代の交あたり、すなわち紀元前5世紀頃から、土を盛った墳丘墓がみられるようになります。ちょうど孔子が生きていた時代あたりですね。

その墳丘の規模が次第に大きくなっていきます。そして中国全土を初めて統一した秦の始皇帝(紀元前259年-同210年)が、自らの巨大な墳丘墓築造を命令したわけです。

その実態は長らく謎でしたが、1974年に地元住民が兵馬俑を発見したことにより、明らかになってきました。
<兵馬俑>
兵馬俑 
(Wikipediaより)

始皇帝陵全体の規模は想像を絶するものでした。
墳丘こそ、東西345m,南北350mと、日本の大仙陵古墳に劣るものの、外園を含めると、2188m×2186mという、途方もない広さです。

”まず墳丘を中心としてその周囲を外壁で囲み、陵園を構え、その中に建物や陪葬坑、陪葬墓などを配置されている。”
”陵園の仕組みのすべては都城を模倣しているようである。それは、冥界都城の主人として地下宮殿に住んでいるとはいうものの、生前同様に天下に君臨したいという願望を抱いているように思われる。”(P36)

<始皇帝陵>

始皇帝陵
(Weblioより)

始皇帝陵園


ちなみに、兵馬俑は、外園の外側1.5kmの位置にあります。陵園の中にあるのかと思ってましたが、そうではないのですね。そうなるとますます途方もない規模の大きさに驚いてしまいます。ただこのことから、兵馬俑は始皇帝陵の一部ではないとする説もあります(建築学者、陳景元氏)。

このような陵墓の型式はその後も、前漢~後漢へと受け継がれます。

ところがです。その後、大きな変革が行われます。三国志の時代です。

三国志といえば、魏・呉・蜀の争いを描いた壮大なドラマです。魏の曹操・呉の孫権・蜀の劉備玄徳が覇権を競い合い、最終的に魏の曹操が勝利し、改革に着手します。

<魏の曹操、155-220年>
曹操

(Wikipediaより)

”曹操はあちこちに征戦し、北方を統一する過程で、当時の貧弱化した社会現状に対し、一連の改革を行った。政治方面では官制を改革し、司法制度も改革し、経済方面では屯田を実行し、文化教育方面では県学を起こし、民俗方面では厚葬を禁止し、風俗を改めた。かつ政令の形式をもって頒布実行した。”

曹操は、当時の混乱を収拾するために、次々と改革をしますが、そのひとつに埋葬を華美にすることなく質素に行うようにと定めたと言われてます。いわゆる「曹操の薄葬令」です。

”『三国志』魏書一 · 武帝紀
(民は個人的な復讐をしてはならず、厚葬を禁じ、すべてを法に統一する)”

”庚子のとき、王は洛陽で崩御した。六十六歳であった。遺令では「天下はまだ定まっておらず、古いしきたりに従うことはできない。…遺体は平服で埋葬し、金銀や珍しい宝を納めてはならない」といわれた。”

・数百年にわたり行われた墳丘墓制をやめ、地表上に墳丘を設けず、すなわち「不封不樹」である。
・玉衣を用いず、遺体は平服で埋葬し、前漢・後漢 400 年余りの玉衣葬制を止めさせた。
・金玉珍宝を埋葬せず、副葬品は土器を主とし、少量の鉄器・銅器・玉石器を用いた。”(P95)

豪華な墳墓を築造して、死後の世界も永遠でありたいという秦の始皇帝のような欲望は、権力者であればもってしかるべしでしょうが、それを止めさせたのですから、大英断であったわけです。

三国志(特に吉川英治の)では、蜀の劉備玄徳と彼を支える軍事の天才諸葛孔明を英雄として描いており、曹操は、悪役のイメージが強いですが、このような立派な政治も行っていたのですね。

さてこの「曹操の薄葬令」ですが、日本とは無関係だったでしょうか?

もちろん海で遠く隔てた国のことですから、まったく関係なかった、とも考えられます。現に今の日本で、中国の墓の影響を受けているとも思えません。

一方で、当時の日本すなわち倭国は、魏の冊封(さくほう)体制に入っていました。
冊封とは、
”称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・ 諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を 伴う、外交関係の一種。”(Wikipediaより)

卑弥呼も魏の皇帝から「親魏倭王」の金印を授与されてます(238年)。たびたび使節団を派遣して、朝貢もしてますね。当然魏の政治情勢含めたさまざまな情報は、倭国にも伝わっていたはずです。

となると、倭国には、その「薄葬令」の話も伝わっていたはずです。それを受けて、倭国にも「薄葬」の風習が広まっていったとしても、何ら不思議はありません。なぜなら、当時の倭国は「内乱」が頻発して、財政的にも苦しい状況であったことは、間違いありません。「薄葬」になれば、余計な出費が抑えられますから、支配者としても、メリットがあるからです。

なぜここまで「薄葬令」について長々とお話してきたかというと、これがまさに「卑弥呼」の時代だからです。

「卑弥呼の墓」と聞くと、壮大なスケールをもった巨大古墳をイメージしがちです。大和の「箸墓古墳」があてはまりますね。ところが、もし「薄葬令」の影響を受けていたらどうでしょう。さほど大きな墓であるはずがありません。

これは三国志魏志倭人伝にある「卑弥呼の墓」に関する記載、
盛り土した「墳」ではなく、「冢」である。
  →
土を小高く盛り上げて造った墓である。
・直径が百歩あまり。
  →
直径30~35m程度である。
という描写にもあってきますね。

卑弥呼の墓に関しては、「大きなことはいいことだ=権力の象徴だ」という固定観念がついて回りますが、事実はその逆である,すなわち巨大古墳ではなく、「こじんまりとした墓」である可能性が高い、ということになります。

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古墳は語る(22)~巨大古墳はすべてが人工物なのか?

さて、ここまで
・前方後円墳は、大和王権の全国支配の象徴ではないこと
・最古の古墳は大和にある、とは言えないこと
・前方後円墳発祥の地は、大和でないこと
・「箸墓古墳=卑弥呼の墓」は、成立しえないこと

などをお話してきました。

ずいぶんと教科書で習った話と違うので、混乱されている方も多いでしょう。しかしながら、少なくとも、考古学的なデータを素直にみると、このようなことが自然と導き出されるわけです。

これに対して、次のような反論が予想されます。
大仙陵(伝仁徳天皇陵)や誉田御陵山(伝応神天皇陵)等の巨大古墳はどうなのだ。卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳だって当時としては、突出して大きい。あれだけの大きな古墳を造ったということは、それだけ大和王権が大きな勢力をもっていたということだ。」
というものです。

今回はこの点に関して、みていきましょう。

まず大前提として、あのような大古墳を築造したわけですから、巨大な勢力をもった支配者がいたことは、間違いありません。その点は、しっかりと押さえて置く必要があります。

大きさの比較の対象として、エジプトのクフ王ピラミッドや、中国の秦の始皇帝陵が挙げられますね




大仙陵規模比較 

(大阪府堺市HP「三次元表示による三大墳墓の比較」より)


とあるとおり、なんといってもその大きさに特徴があるわけです。

そのうえで、ではその「巨大な勢力をもった支配者」が、本当に大和王権の人々なのか?、という問題があります。

その疑問は、多くの学者からも提起されているところです。私も学校の歴史の授業では、仁徳天皇陵、応神天皇陵と習いました。ところが現在は、大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)、誉田御陵山(伝応神天皇陵)と呼ばれているわけで、そのあたりの状況をよく表していますね。

この件に関しては、ここまでで歴代天皇陵の連続性という観点から問題提起しました。

そもそも大仙陵古墳が仁徳天皇陵であり、誉田御陵山が応神天皇陵という論拠は希薄です。

”応神天皇の陵は、『古事記』には「御陵は川内の恵賀(えが)の裳伏(もふし)岡にあり」、『日本書紀』には陵名の記載はないが雄略紀に「蓬蔂丘(いちびこのおか)の誉田陵」とある。
『古事記』では、オオサザキ(仁徳天皇)は83歳で崩御したといい、毛受之耳原(もずのみみはら)に陵墓があるとされる。『日本書紀』には、仁徳天皇は87年正月に崩御し、同年10月に百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬られたとある。”(Wikipediaより)

以上のとおり、位置についてかろうじて地名が記載されているだけです。もし本当にこの巨大古墳が、応神天皇陵や仁徳天皇陵であるなら、その築造について具体的に描かれていてもよさそうなものです。なぜなら多くの民が長年にわたり工事に狩り出されて築造されたはずだからです。

応神天皇陵を築造したのは、子である仁徳天皇です。仁徳天皇といえば、仁政で知られています。
”難波に都を定め、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった。”
と言う記紀の逸話(民のかまど)があります。

このような民の心を思い量る心優しい仁徳天皇が、このたいへんな時期に、巨大土木工事に多くの民を従事させたのか?、という疑問が出ます。

「いやそういう時だからこそ、古墳造営といういわば公共事業をやることにより、経済を活性化させたのだ。」という考えもあるかもしれません。そうであるなら一層のこと、そのことを天皇を讃える事績として
「天皇はあえてこの時期に、先の天皇(応神天皇)の陵墓築造という巨大事業を敢行して、民の生活を向上させるというすばらしいことをされたのだ。」
という記載があって、しかるべきしょう。しかしながら、その記載はありません。

というより、むしろそれだったら、もっと民の生活を直接潤す施策ーたとえば食料の配給などーをやったほうがいいのではないか、考えてしまいます。

いずれにしろ、こうした議論も多くの論者がしているところですが、内部調査をしないことには、最終的な結論は出ないでしょう。

さてこのような巨大古墳は、どのように造られたのでしょうか?。

当時、建設機械はなかったのですから、人力で土を運んできて盛り土したことになります。盛り土といっても、ただ単に土を積み上げていったのでは、軟弱であり、地震などですぐに崩壊してしまいます。そこで使われた技術が、「版築(はんちく)」工法です。”

”中国古来の土壁,土壇の築造法。板わくの中に土を盛り,1層ずつ杵(きね)で突き固めていく方法。”(百科事典マイペディアより)

このように一層ずつ突き固めていけば、強固になります。先日この断面がよくわかる古墳の写真が新聞に掲載されました。

<船山1号墳、愛知県豊川市>
船山1号墳 断面

”「重さ約25キロの土の塊を運んで積み上げ、層をつくっていく築造過程の一端が明らかになった」という。近畿を中心とした西日本でよく見られる工法で、その影響を受けていることもわかった。”(朝日新聞デジタル、2月8日)

このように、巨大古墳は、人力の「版築工法」で築造されたわけです。

それはそれでいいのですが、ここでは、別の視点の問題提起をしたいと思います。それは、
「巨大古墳は、水田のような平坦な状態の土地に盛り土して造ったものなのか?」
です。

実際、平坦地から人力で造ったことは、当然の前提として語られてます。

”工程によって1日あたり最大で2000人が従事して、完成には15年8カ月の期間が必要という試算がある。”(毎日新聞 歴史散歩・時の手枕「大山古墳(仁徳天皇陵、堺市堺区) 風格堂々 都会の森」(2017.9.16)より)
という記事にも、それが表れています。

私はかつて土地造成の仕事をしていたことがあるので、このような話にはすぐにピンとくるのですが、いつもある疑問をもっていました。

「あれだけの盛り土をしたというからには、それだけの土をどこからかもってきたはずだが、それはどこか?」
という疑問です。

土地の造成をするということは、現地に搬入した土の量と採掘地から搬出した土の量は、当然イコールになるはずです。

「周囲を掘削して濠(ほり)を造り、その土を盛り土した。」という説明がされますが、大仙陵古墳の高さは、最大で35mほどもあり、盛り土の量でいうと、140万㎥という途方もない土量です。一方、濠の深さは、たかがしれています。とても濠の掘削土量だけではまかないきれません。

となれば、古墳近辺のどこかの山を削って、運んできたはずですが、上の図のとおり、ざっとみてピラミッドの容積と同じくらいの盛り土量です。ピラミッドくらいの大きさがある山が一山消えてなくなる計算です。そんなことを、当時本当にしたのでしょうか?。


しかも大仙陵古墳だけならいざしらず、その他の多くの古墳もすべて平地から造ったとすると、畿内の山々は軒並み削られたことになります。その掘削土量はピラミッド数十個分にもなるでしょう。そうしないと、盛り土を確保できません。

それだけの山々が消えてなくなったことなど考えられないでしょうし、そんな記録も一切ありません。

では真実は何か?です。

そこから導き出されることは、
「多くの古墳は、もともとの自然の地形を利用して造られたのではないか?」
ということです。

ここに大変興味深い論文があるので紹介します。
「応神天皇陵付近の地質と地形について」(梅田甲子郎、書陵部紀要第35号・昭和58年)
です。概要は次のとおりです。

崇神天皇陵、景行天皇陵および仁徳天皇陵などのような巨大な前方後円墳は、周辺の地質と地形からみて、平坦地に新しく築造されたものではなくて、既存の天然の小丘を十二分に利用して、それを前方後円状に整形したものと推定しているが、当地方の応神天皇陵をはじめその他の古墳も例外ではないと考えている。

応神天皇陵付近の大阪層群は、南北方向の断層運動によって隆起した羽曳野丘陵の大阪層群の北方延長であるとするのが妥当である。とくに、清寧天皇陵・白鳥陵・墓山古墳・応神天皇陵・皇后仲姫命および允恭天皇陵が羽曳野丘陵からみて同一方向にほぼ一直線にならんでおり、応神天皇陵と允恭天皇陵の大阪群層の方向も同じ方向を指しているという事実がこのことを裏付ける。

以上の地質構造より、当地方はもとより羽曳野丘陵の北部であったが、その後かなりに侵食を受けたものと考えられる。しかし、その丘陵頂部付近は侵食し尽くされずに残丘の列となった。原野に散在するこれらの残丘群は陵墓とするのに適当な大きさであったため、前方後円墳状に加工整形して陵墓としたものであろう。なお、これらの陵墓は、規模に差があるのみならず、形態にも違いがあり、向きもまちまちであることは、築造に関して出来るだけ残丘の原形を利用して労力の節約をはかったことを物語るものではないだろうか。”

大和の山の辺の道の崇神天皇陵・景行天皇陵付近や明日香村周辺などでは、墳丘以外にも似たような大きさの未利用の残丘が処々で散見され、陵墓はこのような残丘を利用したものであろうと自ら察し得る。ところが応神天皇陵付近では墳丘以外に残丘が見当たらないため、陵墓はすべて平坦地に新しく築造されたかに見えるので、地質構造から考え得る一つの見方をここに示した。



応神天皇陵付近


たしかに、何もない水田のような平坦地から築造したのであれば、古墳の向きもすべて同じ方向を向くなり、統一感のあるようにしてもよさそうなものですが、実際はバラバラの方向を向いてます。

この調査が、宮内庁書陵部からの依頼というのも、興味深いところですが、それはそれとして、梅田氏(元奈良教育大学教授)は、理学博士(京都大学)であり、地質に関する専門家です。史書などの記載をまったく考えずに、科学的に純粋に推論した結果を、報告しています。

論文最後に
”要するに古墳については門外漢の私見に過ぎないから、諸賢の御批判を賜らば望外の喜びである。”
と謙虚な姿勢を示していますが、論文に対する反論も見当たりません。

最終的な結論は、古墳自体の地質調査(ボーリング調査)を待つしかありませんが、可能性の高い推論と考えていいと思われます。

なお梅田氏は、大和の古墳については、別論文で発表してます(「山の辺の道付近の地質と地形」(奈良教育大学学術リポジトリNEAR、古文化財教育研究報告、1975-03-31)より)。

山の辺の道付近は、大和朝廷の頃は都心に近い便利な丘陵地帯であったため古墳が多いが、それらの古墳牒、表面の風化部を除くと極めて硬い岩盤である花こう岩地帯にはなく、すべてがなだらかであり軟い朝和累層の残丘を加工したものである。
また、会田陵のみは奈良市北部の古墳群と同じように南を正面とした前方後円墳であるが、崇神陵と仲山古墳は西北西を前面とし、景行陵はほぼ真西を前面とし、薯墓もほぼ西で心持ち南を向いた細長い前方後円墳である。これらの方向はそれぞれの地域の侵食方向即ち残丘の延びと配列の方向に一致している。このことは、古墳の築造に際して、東西方向に長く延びた残丘をそのまま十二分に利用し、原地形の変形に要する労力を節約するよう努力されたことを示すものと考えられる。”

<山の辺の道付近の地質と古墳>
山の辺の道 
(同論文より)

「大和前方後円墳集成」(奈良県立橿原考古学研究所)においても、同様の記載がされてます。
たとえば、箸墓古墳などは、
”古墳は墳丘の南を流れる巻向川の自然堤防を利用して築かれており、同じ微高地上にはホケノ山や堂ノ後などの古墳がある。” (P171)  ”
です。

このようにみてくると、前方後円墳は自然の地形を利用して、それを加工整形して築造されたと考えるのが妥当でしょう。

なお、古墳のなかに「横穴墓(よこあなぼ)」と呼ばれる墓があります。山の斜面に横穴を掘って埋葬する形式で、6~7世紀に、山陰・山陽近畿・東海・北陸・関東・東北南部まで分布しました。
大化2年(646年)に出された「薄葬(はくそう)令」前後から、急増したとされます。

<吉見百穴(よしみひゃくあな)、、埼玉県比企郡>
吉見百穴
(Wikipediaより)

横穴墓は、自然の山を利用して、なおかつ盛り土をまったくしないで造った墓であり、言わば「前方後円墳(横穴式石室)」の簡略版といったところです。

このような発想が、当然出現するとも思えません。もともとの前方後円墳のなかに、自然の山を利用するという思想があったからこそ、生み出されたのではないでしょうか?。

さて以上のとおり、前方後円墳は、自然の地形を活かしながら加工整形して築造された可能性が高いわけですが、だからと言って、巨大古墳の価値が下がるということではありません。盛り土して形を整え、内部には石室等を造り、外部には石を葺き埴輪を置き、さらに外側には濠を設けるなど、大変な労力を要したことでしょう。また独特の型式をもっており、芸術的にも、非常に美しいですね。

あくまで「純粋に科学的に考えるとこうなる」ということですので、その旨ご承知おきください。

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古墳は語る(21)~卑弥呼の真の墓はどこにある?

前回、科学的見地からみて、「箸墓古墳」=「卑弥呼の墓」は成り立たない、ということがわかりました。

では、本当の「卑弥呼の墓」は、どこにあるのでしょうか?。

今一度、条件を確認しましょう。

1.築造年代 3世紀中頃
2.形状    円墳または前方後円墳
3.規模    30~35m程度
4.内部構造 棺はあるが槨(棺の周囲を覆うもの)はない
5.副葬品等 三種の神器(鏡・玉・剣)、絹などが出土するのが望ましい


前回は5を入れてませんでしたが、真実の墓を探す際には、あれば望ましいという意味で加えました。

卑弥呼の墓といわれている墓は、全国各地にあります。そのすべてを検証することはできないので、主な古墳をみていきます。

a.楯築弥生墳丘墓
吉備(岡山県倉敷市)にある弥生時代最大の墳丘墓です。双方中円形という独特の形をしていることで知られてます。墳丘上には大正時代まで楯築神社があり、ご神体として神石(亀石)と呼ばれる弧帯文様が刻まれた石が安置されていました。 この弧帯文は、纏向遺跡の弧文円板と葬送儀礼で共通するといわれてます。吉備津彦命(7代孝霊天皇皇子)が温羅(古代の鬼)との戦いに備えて石楯を築き、防戦準備をしたと伝わってます。

楯築墳丘墓 

卑弥呼の墓と言われている墓は、他にも全国各地に多々ありますが、きりがないので、あとはこの条件に照らし合わせて、皆さんに考えていただければと思います。この条件を満たす古墳は、なかなか見当たらないのがわかると思います。

私は、邪馬台国は九州北部にあったと考えてますので、ここからは、九州北部の候補地をみていきます。

b.平原1号墳
福岡県糸島市にあります。日本最大の直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡をはじめ、豪華な副葬品が出たことでも知られてます。管玉、勾玉、耳璫(耳飾)なども副葬されており、女王の墓とみられます。邪馬台国甘木・朝倉説の、安本美典氏(元産業能率大学教授)が提唱してます。


平原遺跡(Wikipediaより) 

平原遺跡女王 
(伊都国歴史博物館「常設展示展図録」より)


c.須玖岡本遺跡(D地点)
福岡県春日市にある、巨石下甕棺墓です。三種の神器(剣・鏡・玉)や絹の出土など、豪華な出土品がありました。明治期に発見されたもので、今現在、遺物は散逸していて、正確な内容は不明です。古田武彦氏(元昭和薬科大学教授)が提唱しました。三種の神器や絹の出土など、王の墓にふさわしいといえますが、副葬品に武器が多く、男の王の墓ともみられます。また築造時期が、一般的には、紀元前1世紀頃とされており、卑弥呼の時代より3世紀ほど古いとされてます。ただし、古田氏によると、出土した夔鳳(きほう)鏡)からみて3世紀前半が上限としてます。


須玖岡本遺跡王墓1 

須玖岡本遺跡王墓2 
(筆者撮影)


d.祇園山古墳
福岡県久留米市にあります。九州自動車道建設の折に調査され、市民運動により、かろうじて8割ほどが保存されました。


祇園山古墳 
(御井町誌HPより)

e.津古生掛(つこしょうがけ)古墳
福岡県小郡市で、昭和60年に住宅地造成により、発見されました。そのため現在は、消滅してます。歴史家の佃収氏(東アジアの古代文化を考える会会員)が提唱してます。

津古生掛古墳 
(小郡市埋蔵文化材調査センターHP「古代体験館おごおり」より)

f.那珂八幡古墳
福岡県福岡市博多区にある古墳です。那珂八幡社の下にあるため、主体部の調査はされていなません。絹の出土もあります。出土した三角縁神獣鏡の同笵鏡が京都府椿井大塚山古墳、岡山県岡山市湯迫車塚古墳から出土、また伝奈良県奈良市富尾丸山古墳出土品やアメリカフーリア美術館所蔵品などが注目されます。榊原英夫氏(福岡県糸島市立伊都国歴史博物館館長)が提唱してます。

那珂八幡古墳
(Wikipediaより)

詳細を表で整理しました。
卑弥呼墓候補地 一覧 
まず、前回お話したとおり、箸墓古墳は、規模が大きすぎるうえ、槨(棺を覆うもの)があることが推定されますので、条件を満たしません。
楯築墳丘墓は、時期が古く、大きさが過大です。
平原1号墳は、豪華な副葬品があり、女王の墓と推定されるのでふさわしいのですが、時期がやや古いこと、方墳であること、規模が小さすぎることなどがネックです。
須玖岡本遺跡は、時期が紀元前1世紀とされてます。3世紀中頃との見解もありますが、何とも言えません。豪華な副葬品があり、絹の出土もあるのですが、男王の墓とも考えられており、そのあたりがネックです。
祇園山古墳は、方墳であり、規模がやや小さいです。
津古生掛古墳は、比較的よく条件を満たしていますが、時期がやや新しいとみられるのが難です。
那珂八幡古墳は、2号主体から絹の出土もあるなど、ふさわしいのですが、規模がやや過大です。

ところで、卑弥呼の墓は、当然のことながら、邪馬台国の領域内または周辺にあったことでしょう。邪馬台国の位置については、以前
出土物からみても邪馬台国はここだ!
でお話ししたとおり、九州福岡県の博多湾岸にあったと推定してます。
(なお、その後の研究成果より、邪馬台国、伊都国がもう少し広い可能性も考えられるため、下図はそれを反映したものになってます。)

この地図をみてのとおり、邪馬台国中心領域に、須玖岡本遺跡、那珂八幡古墳があり、やや離れたところに津古生掛古墳、周辺西に平原1号墳があります。ですからこの4つは、可能性があると言えます。なお祇園山古墳は、さらにずっと南にあります。


卑弥呼墓候補地 



以上まとめますと、候補地としては九州北部にも数多くあります。ただし、どれも条件を完璧に満たしているとは言いがたい状況です。このなかのどれか一つなのか、それとも別にあるのか、あるいはまだ発見されておらず、土の中に眠っているのか、わかりません。遠い昔に、破壊されてしまった可能性もあります。

ただし、邪馬台国のあった地域内あるいは周辺にあったことは間違いありません。つまり、
上の図のエリアにあった可能性が高いでしょう。

↓ シリーズ第一弾を電子書籍でも出版しました。


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古墳は語る(20)~箸墓(はしはか)古墳が「卑弥呼の墓」になりえないこれだけの理由②

前回、「箸墓古墳の被葬者と比定されている倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)は、伝承の内容からみても、時代的に見ても卑弥呼ではないことをお話しました。

今回は、実際の箸墓古墳を、卑弥呼の墓の条件と照らし合わせて、科学的に検証します。

検証の視点と
して、以下を挙げます。
1.築造時期
2.形状
3.規模
4.内部構造


では順にみていきます。
1.築造時期の一致
魏志倭人伝によれば、卑弥呼の没年は3世紀半ばです。一方の「箸墓古墳」は、従来は3世紀末~4世紀初頭とされていましたが、最近では少しさかのぼり3世紀半ば~3世紀後半とされてます。無理やりさかのぼらせたのではないか、との疑いもないわけではありませんが、ここではぎりぎりでセーフとしておきます。

2.形状
魏志倭人伝には、具体的な形状は記載してませんが、
・大作冢・・・土を小高く盛り上げて造った墓を大いに作った
・徑百餘歩・・・直径が百歩あまり
とありますから、さほど大きくない盛り土のある円墳ということになります。「箸墓古墳」は前方後円墳ですが、後円部を主丘とみれば、これもぎりぎりのセーフといったところです。

3.規模
ここが大きな議論の分かれ目です。従来の解釈ですと、
1歩=約1.3m
したがって、
100余歩=約150m
となり、「箸墓古墳」の後円部の直径150mとほぼ合っているとしてます。

一方、当時は、1里=約75mの短里でしたから、
1歩=約25cm
したがって、
100余歩=約30~35m
となることは、前回お話しました。となると、「箸墓古墳」の後円部の直径150mと合いません。

4.内部構造
箸墓古墳は内部調査されていないので、詳細は不明ですが、ほぼ同じ時期に築造されたと推定される「中山大塚古墳」「桜井茶臼山古墳」は、槨(かく、棺の周囲を覆うもの)がありますので、箸墓古墳にも槨(竪穴式石槨)があると推測されます。(「中日古代墳丘墓の比較研究」(劉振東)より)
一方、魏志倭人伝には、当時の一般的な墓について、「槨なし」と記載してますから、卑弥呼の墓にも槨はなかったと推定されます。

槨についてはわかりにくいので、少し解説します。
まず竪穴式石室ですが、
”発掘過程で竪穴の石室のように検出する事からその名がついた。竪穴式石室に割竹形木棺を埋葬する方法は、3世紀代から4世紀代にかけて流行した。
その基本構造は、割竹形木棺を墓壙の底に安置したあと、棺に接する部分に板状の石を重ねていき、棺と板石の間に角礫を隙間なく詰め込んで、最後に大きな蓋石をかぶせる。木棺を置く場所にあらかじめ粘土を敷いたり、墓壙の床全面に砂利を敷いたりしている。墓壙内に浸透してきた雨水を排水するための暗渠排水施設を設けている石室もある。 木棺と石で築いた壁のあいだに空間があまりないので、これを石室ではなく外側の棺と解釈して竪穴式石槨と表記する場合も多い。 4世紀半ばから簡略化された粘土槨が普及する。この場合も、木棺を覆う空間を残さず、直接木棺を棺床の粘土と同じ粘土で包み込んだ後、墓壙を埋める。その被覆粘土は、棒状の道具で念入りに叩き締められている。”(Wikipediaより)

ようは、竪穴式石室といっても、はじめに石室のような部屋を作るわけではなく、棺の周囲に板状の石を重ねて、最後に蓋石をかぶせるので、あたかも部屋のように見える、ということです。その点、はじめに部屋をきちんと作り、あとで棺を納める横穴式石室とは異なるということです。そして、この積み重ねた石を「石槨」とも呼ぶわけです。



  竪穴式石槨

石室 
解説が長くなりましたが、卑弥呼の墓には「槨」がなく、「箸墓古墳」には「槨」があることが推定されているので、内部構造については、一致してないことがわかります。

以上を整理しますと、
時期・・・ぎりぎりセーフ
形状・・・ぎりぎりセーフ
規模・・・アウト
内部構造・・・アウト
となります。

つまり、規模と内部構造からみても、、「箸墓古墳」=「卑弥呼の墓」は成り立たない、ということがわかります。

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テーマ : 歴史
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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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