古墳は語る(23)~魏の曹操の「薄葬令」の与えた影響
ここまで、古墳を中心とした墳墓についてみてきました。
その実態は、学校の教科書で習ったものとは大きく異なったものでした。特に、前方後円墳は大和王権の全国支配の象徴であるという「前方後円墳体制」なるものは、データでみる限りは存在してないことがわかりました。
ところでここまでは、日本国内の墳墓のみの話でしたが、陵といえば、なんと言っても中国の秦の始皇帝陵に代表されるように、中国にも大きな陵が数多くあります。そうした陵墓と、日本の墳墓はどのような関係にあるのでしょうか?。
中国の墓は、日本にまったく影響を及ぼさなかったとする方ももちろんいるでしょう。しかしながら、当時の東アジアの状況を考えれば、影響をまったく受けなかったと考えるのは、無理があると思われます。
なぜなら、少なくとも紀元前後から遣唐使の時代までは、当時の東アジアを支配していたのは中国であり、日本もその中国に朝貢して、金印や称号をもらっていたわけです。その長きにわたる時代において、お互いに人が激しく行き来し、文化風習も受け入れてきたのは周知の事実です。そうしたなか、墓制についても、何らかの影響を受けたと考えるのが自然でしょう。
ではまず、中国の墓制について、みていきましょう。出典は「中日古代墳丘墓の比較研究」(劉振東、立命館大学大学院文学研究科博士論文)です。
”中国で現在分かっている最も早い時期の墓葬は旧石器時代に遡り、新石器時代を経て夏・商・西周時代に至るまで、中原地区の墓葬には墳丘はなかった。墓坑を埋め戻した時にわずかながらの残土の盛り上がりがあったとしても、そのままの状態で留まることはなかったのである。墓葬上に版築による高大な墳丘を築くようになるのは、春秋戦国の交あたりから始まったと一般的に考えられている。”(P1)
中国(ここでは中原一帯)の墓というと、すぐに有名な秦の始皇帝陵を思い出すので、歴代皇帝の陵はすべてあのような巨大な墳丘墓だったかのような先入観をもってしまうのですが、そうではないのです。
遠い古代では、中国では土を盛って墓を造るという風習はなく、すべて地面に穴を掘って埋葬する、というスタイルだったようです。日本でも、縄文時代は同じですね。
それが時代を経て、春秋戦国時代の交あたり、すなわち紀元前5世紀頃から、土を盛った墳丘墓がみられるようになります。ちょうど孔子が生きていた時代あたりですね。
その墳丘の規模が次第に大きくなっていきます。そして中国全土を初めて統一した秦の始皇帝(紀元前259年-同210年)が、自らの巨大な墳丘墓築造を命令したわけです。
その実態は長らく謎でしたが、1974年に地元住民が兵馬俑を発見したことにより、明らかになってきました。
<兵馬俑>
(Wikipediaより)
始皇帝陵全体の規模は想像を絶するものでした。
墳丘こそ、東西345m,南北350mと、日本の大仙陵古墳に劣るものの、外園を含めると、2188m×2186mという、途方もない広さです。
”まず墳丘を中心としてその周囲を外壁で囲み、陵園を構え、その中に建物や陪葬坑、陪葬墓などを配置されている。”
”陵園の仕組みのすべては都城を模倣しているようである。それは、冥界都城の主人として地下宮殿に住んでいるとはいうものの、生前同様に天下に君臨したいという願望を抱いているように思われる。”(P36)
<始皇帝陵>

(Weblioより)
ちなみに、兵馬俑は、外園の外側1.5kmの位置にあります。陵園の中にあるのかと思ってましたが、そうではないのですね。そうなるとますます途方もない規模の大きさに驚いてしまいます。ただこのことから、兵馬俑は始皇帝陵の一部ではないとする説もあります(建築学者、陳景元氏)。
このような陵墓の型式はその後も、前漢~後漢へと受け継がれます。
ところがです。その後、大きな変革が行われます。三国志の時代です。
三国志といえば、魏・呉・蜀の争いを描いた壮大なドラマです。魏の曹操・呉の孫権・蜀の劉備玄徳が覇権を競い合い、最終的に魏の曹操が勝利し、改革に着手します。
<魏の曹操、155-220年>
(Wikipediaより)
”曹操はあちこちに征戦し、北方を統一する過程で、当時の貧弱化した社会現状に対し、一連の改革を行った。政治方面では官制を改革し、司法制度も改革し、経済方面では屯田を実行し、文化教育方面では県学を起こし、民俗方面では厚葬を禁止し、風俗を改めた。かつ政令の形式をもって頒布実行した。”
曹操は、当時の混乱を収拾するために、次々と改革をしますが、そのひとつに埋葬を華美にすることなく質素に行うようにと定めたと言われてます。いわゆる「曹操の薄葬令」です。
”『三国志』魏書一 · 武帝紀
(民は個人的な復讐をしてはならず、厚葬を禁じ、すべてを法に統一する)”
”庚子のとき、王は洛陽で崩御した。六十六歳であった。遺令では「天下はまだ定まっておらず、古いしきたりに従うことはできない。…遺体は平服で埋葬し、金銀や珍しい宝を納めてはならない」といわれた。”
・数百年にわたり行われた墳丘墓制をやめ、地表上に墳丘を設けず、すなわち「不封不樹」である。
・玉衣を用いず、遺体は平服で埋葬し、前漢・後漢 400 年余りの玉衣葬制を止めさせた。
・金玉珍宝を埋葬せず、副葬品は土器を主とし、少量の鉄器・銅器・玉石器を用いた。”(P95)
豪華な墳墓を築造して、死後の世界も永遠でありたいという秦の始皇帝のような欲望は、権力者であればもってしかるべしでしょうが、それを止めさせたのですから、大英断であったわけです。
三国志(特に吉川英治の)では、蜀の劉備玄徳と彼を支える軍事の天才諸葛孔明を英雄として描いており、曹操は、悪役のイメージが強いですが、このような立派な政治も行っていたのですね。
さてこの「曹操の薄葬令」ですが、日本とは無関係だったでしょうか?
もちろん海で遠く隔てた国のことですから、まったく関係なかった、とも考えられます。現に今の日本で、中国の墓の影響を受けているとも思えません。
一方で、当時の日本すなわち倭国は、魏の冊封(さくほう)体制に入っていました。
冊封とは、
”称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・ 諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を 伴う、外交関係の一種。”(Wikipediaより)
卑弥呼も魏の皇帝から「親魏倭王」の金印を授与されてます(238年)。たびたび使節団を派遣して、朝貢もしてますね。当然魏の政治情勢含めたさまざまな情報は、倭国にも伝わっていたはずです。
となると、倭国には、その「薄葬令」の話も伝わっていたはずです。それを受けて、倭国にも「薄葬」の風習が広まっていったとしても、何ら不思議はありません。なぜなら、当時の倭国は「内乱」が頻発して、財政的にも苦しい状況であったことは、間違いありません。「薄葬」になれば、余計な出費が抑えられますから、支配者としても、メリットがあるからです。
なぜここまで「薄葬令」について長々とお話してきたかというと、これがまさに「卑弥呼」の時代だからです。
「卑弥呼の墓」と聞くと、壮大なスケールをもった巨大古墳をイメージしがちです。大和の「箸墓古墳」があてはまりますね。ところが、もし「薄葬令」の影響を受けていたらどうでしょう。さほど大きな墓であるはずがありません。
これは三国志魏志倭人伝にある「卑弥呼の墓」に関する記載、
・盛り土した「墳」ではなく、「冢」である。
→土を小高く盛り上げて造った墓である。
・直径が百歩あまり。
→直径30~35m程度である。
という描写にもあってきますね。
卑弥呼の墓に関しては、「大きなことはいいことだ=権力の象徴だ」という固定観念がついて回りますが、事実はその逆である,すなわち巨大古墳ではなく、「こじんまりとした墓」である可能性が高い、ということになります。
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ところでここまでは、日本国内の墳墓のみの話でしたが、陵といえば、なんと言っても中国の秦の始皇帝陵に代表されるように、中国にも大きな陵が数多くあります。そうした陵墓と、日本の墳墓はどのような関係にあるのでしょうか?。
中国の墓は、日本にまったく影響を及ぼさなかったとする方ももちろんいるでしょう。しかしながら、当時の東アジアの状況を考えれば、影響をまったく受けなかったと考えるのは、無理があると思われます。
なぜなら、少なくとも紀元前後から遣唐使の時代までは、当時の東アジアを支配していたのは中国であり、日本もその中国に朝貢して、金印や称号をもらっていたわけです。その長きにわたる時代において、お互いに人が激しく行き来し、文化風習も受け入れてきたのは周知の事実です。そうしたなか、墓制についても、何らかの影響を受けたと考えるのが自然でしょう。
ではまず、中国の墓制について、みていきましょう。出典は「中日古代墳丘墓の比較研究」(劉振東、立命館大学大学院文学研究科博士論文)です。
”中国で現在分かっている最も早い時期の墓葬は旧石器時代に遡り、新石器時代を経て夏・商・西周時代に至るまで、中原地区の墓葬には墳丘はなかった。墓坑を埋め戻した時にわずかながらの残土の盛り上がりがあったとしても、そのままの状態で留まることはなかったのである。墓葬上に版築による高大な墳丘を築くようになるのは、春秋戦国の交あたりから始まったと一般的に考えられている。”(P1)
中国(ここでは中原一帯)の墓というと、すぐに有名な秦の始皇帝陵を思い出すので、歴代皇帝の陵はすべてあのような巨大な墳丘墓だったかのような先入観をもってしまうのですが、そうではないのです。
遠い古代では、中国では土を盛って墓を造るという風習はなく、すべて地面に穴を掘って埋葬する、というスタイルだったようです。日本でも、縄文時代は同じですね。
それが時代を経て、春秋戦国時代の交あたり、すなわち紀元前5世紀頃から、土を盛った墳丘墓がみられるようになります。ちょうど孔子が生きていた時代あたりですね。
その墳丘の規模が次第に大きくなっていきます。そして中国全土を初めて統一した秦の始皇帝(紀元前259年-同210年)が、自らの巨大な墳丘墓築造を命令したわけです。
その実態は長らく謎でしたが、1974年に地元住民が兵馬俑を発見したことにより、明らかになってきました。
<兵馬俑>

(Wikipediaより)
始皇帝陵全体の規模は想像を絶するものでした。
墳丘こそ、東西345m,南北350mと、日本の大仙陵古墳に劣るものの、外園を含めると、2188m×2186mという、途方もない広さです。
”まず墳丘を中心としてその周囲を外壁で囲み、陵園を構え、その中に建物や陪葬坑、陪葬墓などを配置されている。”
”陵園の仕組みのすべては都城を模倣しているようである。それは、冥界都城の主人として地下宮殿に住んでいるとはいうものの、生前同様に天下に君臨したいという願望を抱いているように思われる。”(P36)
<始皇帝陵>

(Weblioより)

ちなみに、兵馬俑は、外園の外側1.5kmの位置にあります。陵園の中にあるのかと思ってましたが、そうではないのですね。そうなるとますます途方もない規模の大きさに驚いてしまいます。ただこのことから、兵馬俑は始皇帝陵の一部ではないとする説もあります(建築学者、陳景元氏)。
このような陵墓の型式はその後も、前漢~後漢へと受け継がれます。
ところがです。その後、大きな変革が行われます。三国志の時代です。
三国志といえば、魏・呉・蜀の争いを描いた壮大なドラマです。魏の曹操・呉の孫権・蜀の劉備玄徳が覇権を競い合い、最終的に魏の曹操が勝利し、改革に着手します。
<魏の曹操、155-220年>

(Wikipediaより)
”曹操はあちこちに征戦し、北方を統一する過程で、当時の貧弱化した社会現状に対し、一連の改革を行った。政治方面では官制を改革し、司法制度も改革し、経済方面では屯田を実行し、文化教育方面では県学を起こし、民俗方面では厚葬を禁止し、風俗を改めた。かつ政令の形式をもって頒布実行した。”
曹操は、当時の混乱を収拾するために、次々と改革をしますが、そのひとつに埋葬を華美にすることなく質素に行うようにと定めたと言われてます。いわゆる「曹操の薄葬令」です。
”『三国志』魏書一 · 武帝紀
(民は個人的な復讐をしてはならず、厚葬を禁じ、すべてを法に統一する)”
”庚子のとき、王は洛陽で崩御した。六十六歳であった。遺令では「天下はまだ定まっておらず、古いしきたりに従うことはできない。…遺体は平服で埋葬し、金銀や珍しい宝を納めてはならない」といわれた。”
・数百年にわたり行われた墳丘墓制をやめ、地表上に墳丘を設けず、すなわち「不封不樹」である。
・玉衣を用いず、遺体は平服で埋葬し、前漢・後漢 400 年余りの玉衣葬制を止めさせた。
・金玉珍宝を埋葬せず、副葬品は土器を主とし、少量の鉄器・銅器・玉石器を用いた。”(P95)
豪華な墳墓を築造して、死後の世界も永遠でありたいという秦の始皇帝のような欲望は、権力者であればもってしかるべしでしょうが、それを止めさせたのですから、大英断であったわけです。
三国志(特に吉川英治の)では、蜀の劉備玄徳と彼を支える軍事の天才諸葛孔明を英雄として描いており、曹操は、悪役のイメージが強いですが、このような立派な政治も行っていたのですね。
さてこの「曹操の薄葬令」ですが、日本とは無関係だったでしょうか?
もちろん海で遠く隔てた国のことですから、まったく関係なかった、とも考えられます。現に今の日本で、中国の墓の影響を受けているとも思えません。
一方で、当時の日本すなわち倭国は、魏の冊封(さくほう)体制に入っていました。
冊封とは、
”称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・ 諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を 伴う、外交関係の一種。”(Wikipediaより)
卑弥呼も魏の皇帝から「親魏倭王」の金印を授与されてます(238年)。たびたび使節団を派遣して、朝貢もしてますね。当然魏の政治情勢含めたさまざまな情報は、倭国にも伝わっていたはずです。
となると、倭国には、その「薄葬令」の話も伝わっていたはずです。それを受けて、倭国にも「薄葬」の風習が広まっていったとしても、何ら不思議はありません。なぜなら、当時の倭国は「内乱」が頻発して、財政的にも苦しい状況であったことは、間違いありません。「薄葬」になれば、余計な出費が抑えられますから、支配者としても、メリットがあるからです。
なぜここまで「薄葬令」について長々とお話してきたかというと、これがまさに「卑弥呼」の時代だからです。
「卑弥呼の墓」と聞くと、壮大なスケールをもった巨大古墳をイメージしがちです。大和の「箸墓古墳」があてはまりますね。ところが、もし「薄葬令」の影響を受けていたらどうでしょう。さほど大きな墓であるはずがありません。
これは三国志魏志倭人伝にある「卑弥呼の墓」に関する記載、
・盛り土した「墳」ではなく、「冢」である。
→土を小高く盛り上げて造った墓である。
・直径が百歩あまり。
→直径30~35m程度である。
という描写にもあってきますね。
卑弥呼の墓に関しては、「大きなことはいいことだ=権力の象徴だ」という固定観念がついて回りますが、事実はその逆である,すなわち巨大古墳ではなく、「こじんまりとした墓」である可能性が高い、ということになります。
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