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古墳は語る(28)~まとめ

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古墳は語る(27)~阿蘇のピンク石とは?

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古墳は語る(26)~装飾古墳分布の不思議

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古墳は語る(25)~朝鮮半島の前方後円墳の被葬者は誰?

前方後円墳は、長らく日本列島のみに存在すると考えられてきましたが、1980年代になり、朝鮮半島南部の栄山江流域で発見されました。以降、現在まで計13基が確認されてますが、いずれも5世紀末から6世紀前半にかけて造られたものです。

今回は、その朝鮮半島の前方後円墳をテーマに、掘り下げます。「韓半島南部に倭人が造った前方後円墳ー古代九州との国際交流ー」(朴天秀、慶北大学考古人類学科教授)を参照します。

まず、被葬者は誰か?、です。

1.出現過程とその出自
[論文]
在地的な古墳系列を持たず、5 世紀末から 6 世紀前葉にかけて突如として現れることから、在地首長墓とは想定しがたい。(P4)

栄山江流域における前方後円墳の被葬者は、横穴式石室、繁根木型のゴホウラ製貝釧、栄山江流域産の土器の分布、江田船山古墳の副葬品のような百済系文物の分布から周防灘沿岸、佐賀平野東部、遠賀川流域、室見川流域、菊池川下流域などに出自をもつ複数の有力豪族と想定できる。(P5)

[解説]
在地の、例えば百済の王族の墓との説もありますが、「在地首長墓とは想定しがたい。」と一刀両断してます。そして、被葬者の出自は、九州北部としてます。

朝鮮半島前方後円墳

2.被葬者の性格と役割
[論文]
公州市丹芝里の横穴墓群の被葬者は、横穴墓の形態が周防灘沿岸と遠賀川流域のそれと類似する点から、北部九州地域の倭人として、その性格は百済王都の防御と関連する集団と推定することができよう。丹芝里横穴墓群の被葬者は、出自、出現時期、性格が栄山江流域の前方後円墳の被葬者と相関関係を見せ、前方後円墳被葬者の出自と百済王権との関係を雄弁に物語っている。
579年、『日本書紀』雄略23年の記録によれば、百済の三斤王が死去した際、東城王の帰国を筑紫国軍士 500 人が護衛したという。この記録は、栄山江流域の前方後円墳の石室構造が北部九州系である点、北部九州地域における百済産の威身財、栄山江流域の倭系古墳に甲冑や刀剣などの武器・武具が顕著に副葬されるという考古学資料と符合する。したがって、護衛のため韓半島に渡った彼らが帰国せずに栄山江流域に配置され、百済王権に仕えたと推定される。”(P6)

[解説]
三斤王(464?-479年)とは百済の第23代の王で、東城王(?-501年)は第24代の王です。「日本書記雄略記」では
”「百済文斤王(三斤王)が急死したため、当時人質として日本に滞在していた昆支王の5人の子供のなかで、第2子の末多王が幼少ながら聡明だったので、天皇は筑紫の軍士500人を付けて末多王を百済に帰国させ、王位につけて東城王とした。”(Wikipediaより)


朝鮮王朝系図

(Wikipediaより)

護衛についた筑紫国軍士500人が、百済王権に仕えたと推定してます。このように当時は、九州北部の人達が多く百済に渡ったわけで、そうした人達のいずれかが被葬者ではないかとしてます。

[論文]
百済は栄山江流域最大の中心地である潘南地域は、在地首長をとおすことで間接的に支配し、その周辺は外郭から前方後円墳の被葬者のような倭系の百済勢力を移植することで、在地の豪族勢力を牽制するといった両面的な政策をとっていたと考えられる。
海南半島に位置する倭系古墳の被葬者は、西海と南海を連結する海上交通の要衝の確保と、大伽耶の南海岸の要衝である、任那四県の麗水半島と帯沙の河東地域を掌握しようとする百済の戦略下に配置されたと推定される。また、栄山江上流域に位置する光州地域と潭陽地域の前方後円墳被葬者も、大伽耶を圧迫する百済の戦略によって配置されたと考えられる。このような状況と関連するのが、512 年、『日本書紀』継体 6 年、任那四県の記事に見られる哆唎国守の穂積臣押山の存在であり、倭人が百済の地方官として、対大伽耶攻略、対倭交渉に活動していたことを物語っている。"(P7)

[解説]
百済の戦略です。栄山江流域中心地である潘南地域を在地の首長に、周辺は倭系豪族により支配するという、巧妙な戦略をとっていたとしてます。そして倭系豪族は、海上交通を確保するとともに、大伽耶に対する要衝に配置されたとしてます。

”『日本書紀』継体天皇6年(512年?)4月6日条によると、穗積押山は百済に遣わされ、筑紫国の馬40頭を贈った。
同年12月条では、百済が使者を派遣して朝貢し任那上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県割譲を要求した際、哆唎国守の押山は百済に近く日本から遠いことから是とする旨を上奏し、大伴金村に賛同を受けた。そして任那4県は割譲されたが、のちに大伴金村と押山は百済から賂を受けたとの流言が立ったという。
継体天皇7年(513年?)6月条では、百済が五経博士の段楊爾を献上し、伴跛国に奪われた己汶の地の奪回を求めた際に、姐弥文貴将軍とそれに副えて押山が日本に派遣されている。”(Wikipediaより)

百済の任那(みまな)割譲の要求に対する調整を行ったのが、哆唎国守の穂積臣押山です。なお任那とは、古代朝鮮半島南部に存在した地域で、
”『三国志』魏書東夷伝倭人条の項目における狗邪韓国(くやかんこく)の後継にあたる金官国を中心とする地域、三韓の弁辰、弁韓および辰韓の一部、馬韓の一部(現在の全羅南道を含む地域)を含むと看做すのが通説である。”(Wikipediaより)
ただし、その位置については、諸説あり定まってません。

朝鮮半島古代領域
左の図には任那が描かれていませんね。韓国では任那の存在は否定する意見が強いようです。一方、右の図はしっかりと任那が描かれてます。このうち半島南西部に上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県があり、日本書記ではそれが百済に割譲されたとしてます。そこに前方後円墳が集中してるのが象徴的です。

3.歴史的背景
長くなりますが、興味深い考察ですので、是非ともお読みください。

[論文]
6 世紀前葉以降、日本列島と地理的に近い加耶地域の文物と交代するように、百済地域の文物が急激に倭へ流入するようになる。筆者はその背景として、百済がそれまで独自的に克服できなかった対外海上交通の不利を、交通の要衝である己汶、帯沙、任那四県の占有と、栄山江流域の前方後円墳被葬者を媒介に克服した結果と解釈したい。百済による倭王権と九州北部の豪族勢力に対する両面的な外交戦略は、韓半島と日本列島における百済の影響力を強化し、その一方で北部九州勢力も、日本列島における影響力を強化するというように、相互に理にかなったものであった。その仲介役を担った栄山江流域の前方後円墳の被葬者は、百済王権に臣属しながら倭王権と百済王権間の外交で活躍した人物と推定することができ、欽明紀に見える倭系百済官僚の原型とも言える。すなわち、江田船山古墳の百済系装身具や銘文大刀と、その後の欽明紀に見える倭系百済官僚のあり方は、栄山江流域における前方後円墳の被葬者である九州の有力豪族が、倭王権とともに百済王権に両属していたことを示唆しているのである。

[解説]
6世紀前葉以降の日本と百済との交流活発化の背景として、百済が任那4県等を取得しさらに九州有力豪族の媒介によるもの、と分析してます。そしてその有力豪族は倭王権とともに百済王権にも従属していた、としてます。

[論文]
栄山江流域における前方後円墳の被葬者は、先進文物を本国の氏族集団に与え、その代替として、一族の軍事力を提供する窓口の役割を果たしていたと想定される。また、畿地域の牧が栄山江流域からの移住民によって成立したことは、九州勢力の活動が大和王権との何らかの関わりのなかで行われていたことの傍証となろう。
百済王権が九州地域の豪族を選択した背景は、単に九州が韓半島に近いという理由だけではなく、彼らが 5 世紀後半から瀬戸内海沿岸と山陰・北陸などに広い関係網を持っていたことが挙げられる。また、畿内の豪族ではなく彼らが選ばれたのは、やはり倭王権の意向よりも、百済王権の意向によるものと考えられる。
6 世紀前葉における突如とした九州勢力の興起を象徴するのは、北部九州系石室の拡散と、華麗な装飾古墳の存在である。その背景には、栄山江流域における前方後円墳の被葬者を仲介とした北部九州勢力が、百済の先進文物の受け入れの窓口的役割を担ったことに起因するのであろう。
6 世紀前葉における江田船山古墳の百済産副葬品と高野槇製の武寧王陵の木棺は、これまでの加耶地域と倭の日常的交易関係を越え、百済が対倭交易の主導権を握ったことを示すものである。熊津期に栄山江流域に前方後円墳が突如出現することは、このような変化と強い相関性が認められる。

[解説]
百済が窓口として、畿内ではなく九州の豪族を選んだ理由として、「単に九州が韓半島に近いという理由だけではなく、彼らが 5 世紀後半から瀬戸内海沿岸と山陰・北陸などに広い関係網を持っていたこと」としてます。そしてそれにより、百済が倭との交易の主導権を、伽耶地域から奪ったとしてます。

[論文]
以上のように百済と倭の本格的な交易は、6 世紀以降活発になり、したがって継体朝出現の背景は、百済との活発な交渉と何らかの関わりが求められる。くわえて、東城王が廃され、武寧王が即位する百済の政変と、雄略王権から継体王権に替わる倭の政治的な変動も相互に連動するものであろう。
継体一族は近江に本拠地を置き、以前から若狭湾をつうじて韓半島との交易を含めた交渉を行ってきた一族であった。やがて 6 世紀前葉になり、百済との交渉を主導することによって王権を掌握したと想定される。そのなかで継体勢力は、これまで河内勢力と密接な関係にあった加耶勢力を排除し、百済を交易の窓口として先進文物を導入しながら河内勢力との差別化を図り、近畿の中での優位を確保していったと考えられる。
また継体王権の擁立には、5 世紀後半から瀬戸内海沿岸と山陰・北陸などに広い関係網を持っていた九州勢力が百済王権との仲介などの役割をしたと推定される。その一方で、栄山江流域の前方後円墳被葬者を含めた北部九州の有力豪族の対外活動が頂点に達し、倭王権をおびやかすようになった。その結果が527 年に起きた磐井の乱(戦争)と考えられる。
その後、百済による栄山江流域の直接支配と百済の対大伽耶攻略が一段落する状況下で、当地における前方後円墳の造営は停止するようになる。また、倭系百済官僚の出自が畿内周辺に集中することになるが、これは磐井の戦争以後、九州勢力の衰退を示すものであろう。”

[解説]
ここから継体朝の話になります。継体一族は出身地が越の国(福井県)であり、当時から半島との交易を行っており、近江に移ってからは百済との交渉を主導して、王権を掌握したと推測してます。その交渉を担っていたのは九州勢力であり、百済との仲介など継体の擁立に役割を果たした、としてます。

以上、引用が長くなりましたが、整理しますと、
・半島南西部にある前方後円墳の被葬者は、九州豪族出身者である。
・百済は、在地の首長と九州豪族をうまく使い分けて、日本との交易の主導権を伽耶から奪った。
・九州豪族は、百済王権に仕えるとともに、畿内王権との窓口としての役割を果たした。
・九州豪族は、継体王権の擁立にもかかわり、勢力を拡大したが、継体王権をおびやかすようになり、磐井の乱で破れ、衰退した。


ここで疑問が浮かびます。

当時、半島との交易の主導権をとるかどうかは、王権にとり死活問題だったはずです。当然、交易の主導権をもっているものが絶対的に強いわけで、その主導権をとったものだけが支配者になりえます。それは歴史の必然です。

ところが少なくとも畿内王権はその主導権をもっておらず、主導権をもっているのは九州の豪族です。それは朴氏も認めているところです。畿内王権といいながら、九州の豪族に振り回されており、なんか頼りない感じですね。

となると、そもそもの主従関係は、
<主>畿内王権、<従>九州豪族
ではなく、
<主>九州豪族、<従>畿内王権
ではなかったのか、という話になります。

ここで「九州豪族」としてますが、ようはその「九州豪族」とは、「九州王朝」の豪族ではなかったのか?、ということです。

九州王朝説とは、古代の日本、倭国の時代の都は、九州北部にあったとする説です。中国史書にある倭国も、志賀島の金印をもらったのも、卑弥呼がいたのも、一貫して九州北部にあった九州王朝だったという説です。

朝鮮半島との交易を主導したのも九州王朝ですし、百済との交渉も九州王朝が中心になった、ということになります。

このように考えれば、”なぜ百済が畿内王権ではなく、九州の豪族を相手にしたのか?”、という疑問に対しても、すんなりと説明できます。

朴氏は、あくまで大和一元論、つまり「有史以来日本列島を支配してきたのは大和王権である」という思想なので、論文のような理解になります。

その文脈のなかで、”なぜ百済が畿内ではなく九州の豪族を選んだのか?”、という疑問に対して、いろいろ説明してますが、何か腹落ちしませんね。そもそも朴氏がそのようなことに言及しているということ自体、そのことを不自然だと考えたからの裏返しとも言えます。

前方後円墳の被葬者は九州王朝の豪族であり、百済はあくまで九州王朝と外交した、と考えれば、何も小難しい解釈をこねくり回すことなく、自然な説明ができますね。

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古墳は語る(24)~墓制からみた中国と日本の関係

ところでその後の中国の墓制はどうなったでしょうか?。

中国の歴史をおさらいしますと、
三国志の時代に勝利して全土統一した魏(220-265年)ののちの西晋(265-316年)が滅亡後、南方に建康(南京)を都とする東晋(317-420年)ができます。その後、宋(420-479年)に替わり南朝が開始され、斉(479-502年)~梁(502-557年)~陳(557-589年)と続きます。

一方、北方は西晋から前趙(ぜんちょう)が独立(304年)、以後、多くの小国が興亡を繰り返す十六国の戦乱の時代となり、最後に北魏により統一され(439年)、北朝が開始されます。

その北朝系統のが、中国全土を統一します(581年)。ちなみに統一したのは、有名な隋の煬帝の父親文帝です。その後唐(618-907年)の時代になります。

以上のとおり、大きく分けて、魏の流れを引く南朝系と北方民族系の北朝系に分かれます。当然墓制も、異なる流れになります。

南朝系は、魏の流れを引いてますから、西晋~東晋と墓制も魏の「薄葬」を引き継ぎました。そしてその後東晋の時代すなわち5世紀半ば以降は、再び大規模な墳丘が築造されるようになります。

一方の北朝系ですが、4世紀初頭から十六国時代になり、「薄葬」が崩れはじめ、次第に大規模な墳丘が復活します。

つまり、大規模な墳丘の復活が、北朝系が早く(4世紀初頭)、南朝系は遅かった(5世紀半ば)、ということになります。話が複雑になったので、図で整理します。

中国王朝変遷


<南朝(宋)と北朝(北魏)>
中国南北朝 
(Wikipediaより)

ここでひとつ、日本の前方後円墳と関連して、面白い仮説が立てられます。

まずは畿内の天皇陵の系譜です。


天皇陵分布と移動  

築造開始当初(3世紀半ば頃)から、箸墓古墳はじめ大規模な前方後円墳が、次々と築造されているのがわかります。最大規模の大仙陵古墳や誉田五廟山古墳が築造されたのは、4世紀終わり~5世紀前半です。その後、古墳の規模は急速に小さくなっていきます。曹操の「薄葬令」とは関連がなさそうですし、むしろ中国南朝系の動きと逆ですね。

一方、九州北部はどうでしょうか?。

少し前のブログ
古墳は語る(14)~前方後円墳分布の不可思議
で、九州の前方後円墳は初期~中期にかけては、数も少なく規模が小さいのですが、後期になり築造が活発化して大型化することを、お話しました。岩戸山古墳(福岡県久留米市、6世紀初頭)は、九州北部で最大の前方後円墳です。大和で築造が縮小する6世紀に、地方では逆に活発化しています。こうしたことが謎とされ、専門家の方々も説明に窮しているわけです。



九州前方後円墳3


上の図のとおり、九州の久留米~八女地方では、古墳前期~中期前半には、前方後円墳がほとんど築造されていないのに、中期後半(5世紀半ば)以降、大きな古墳が築造され始めました。この時期は、中国南朝で大規模墳墓が築造され始めた時代です。一致してますね。

簡単に言うと、九州北部は中国南朝の影響を受け、畿内勢力は受けてないということです。

このことをどのように理解すればいいのでしょうか?

もちろん「単なる偶然だ」と解釈することもできるでしょう。

しかしながらもし実際に、九州北部が南朝の影響を受けていたのであるならどうでしょうか?。

中国皇帝(南朝系)に近かったのは九州北部勢力であり、畿内勢力は近しい関係になかった、ということになります。つまり、九州北部勢力がより中国皇帝に近い関係であった、ということになります。

もっと言えば、中国皇帝(南朝系)の外交上の相手は、九州北部だったということです。いわゆる九州王朝です。

「そんなのはこじつけだ」という方も多いと思いますが、データからみると、成立しうる話です。
逆に言えば、このような解釈をしないと、
なぜ畿内の前方後円墳築造が中期後半(5世紀半ば以降)には衰退する一方、九州北部ではそれ以降活発化したのか?”、という疑問に対する答えを見つけるのも、なかなか難しいところです。

ところでその北朝ですが、畿内との関係が強いとの説があります。北朝の北魏についてです。

北魏と日本文化との間には数多くの関連があることが指摘されている。
法隆寺の仏像など、日本に残存する諸仏像は多く北魏様式である。(伊東忠太の説)
・日本の源氏という氏族のおこりは、北魏の太武帝が同族に源氏を名乗らせたことに影響されたものではないか。(杉山正明の説)
・北魏の国家体制は、日本古代の朝廷の模範とされた。このため、北魏の年号・皇帝諡号・制度と日本の年号・皇帝諡号・制度には多く共通したものが見られる。平城京・聖武天皇・嵯峨天皇・天平・神亀など、枚挙に暇がない。(福永光司の説)”
(Wikipediaより)

もし北魏と畿内との関係性が強いのであれば、墓制についても北魏にならった、との見方もできます。

北魏は、西魏~北周へと引き継がれていきます。実は北周(556-581年)は再び「薄葬化」へと向かいます。背景として、
北斉との政治、軍事的対峙及び数年間の戦争による経済的な困窮などと関係があり”
としてます。そして
”墳丘、陵園、神道、建物などすべての地上施設を徹底的に禁止した。”(P138)
とあります。

北周ののち、が建国されます(581年)。
2013年に、隋の煬帝のものではないかとされる墓が発掘されましたが、ずいぶんとこじんまりとしたものでした。

天皇陵も6世紀後半にはさらに小規模なものになっていきます。ちなみに推古天皇(628年没)陵は古市古墳群のなかの山田高塚古墳ですが、63m×56mの方墳というこじんまりとした陵です。この伝統はその後も引き継がれます。

このようにみてくると、
”大和王権の陵は、北朝の影響を受けている”
という可能性も出てきます。

そうなると、
九州王朝     ・・・中国南朝の影響
大和王権(王朝)・・・中国北朝の影響
という図式が成立するかもしれません。

もちろんこの考え方にはさらなる検証が必要ですが、現時点でひとつの仮説として提起したいと思います。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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