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イネは語る(6)~縄文の心、弥生の心

5回にわたり、イネが日本に渡ってきた歴史をみてきました。稲作は私たちが学校の歴史の授業で習ったような「弥生時代の渡来」ではなく、はるかに時代をさかのぼり、縄文時代の6400年前には、日本列島にやってきました。そのイネは、熱帯ジャポニカ(陸稲)であり、焼畑により栽培していました。

温帯ジャポニカ、すなわち水田稲作が伝わったのは、紀元前10世紀ころと推定されてます。ただし水田稲作と言っても、私たちが思い描くようなものではなく、耕作を数年行っては移動する焼畑農法に近いものであったようです。その状態は中世まで続き。私たちのイメージするような農民が定住して広々とした水田で稲作をする、といったスタイルになったのは、近世以降のことと考えられます。

今回は、たびたび引用させていただいている佐藤洋一郎氏の著作のなかに、とても興味深い話があったので、紹介したいと思います。古代史というより文化に関する話ですが、これからの私たちのあり方にも大いに示唆を与えてくれると思います。

私たち現代人は何かと、「きちんとしている」のがいいことだ、と考えます。また余計なものが入り込まず、「純粋なもの」がいいものだ、と感じます。特に日本人は几帳面な正確な人が多いせいか、その傾向が強いように思われます。その何事に対しても徹底的に突き詰める姿勢が、多くの繊細なかつ精緻な文化を生み出してきたとも言えます。

それはそれでいいのですが、はたしてそれだけでいいのか?、というのが、問題提起です。佐藤氏は、「イネの日本史」のなかで、以下のように書いています。

”一本でもヒエを生やした田の持ち主は堕農とまでいわれ蔑まれた。田植え機が作る畝(うね)が少しでも曲がっていると「根性が曲がっているからだ」などと冗談半分にいわれたものだった。だからどの農家も、条がまっすぐなるように細心の注意を払った。一本のヒエも許さないこと、田を緑の絨緞のように管理しておくこと、それは文字通り弥生の要素がもつ論理であった。

一株のヒエ、畝の曲がりが生産に大きな影響を及ぼすわけではない。それは農民の心を映す鏡だったからである。それは農民の心を試す「踏み絵」のようなもので、元はといえば、支配者たちが人びとを「農民」として土地に縛りつけておくために尽くしたてだての精神的産物である。

一方土地に縛りつけられた農民にとって、生態系とのせめぎ合いに勝つしか、そこで生きてゆく道はない。彼らが這いつくばるようにして草をとったのは、それ以外、遷移という大自然の力に勝つ術がなかったからである。”


ヒエは雑草ですが、少し水田に生えていたところでさしたる影響があるわけでもなく、畝が曲がっていることも同様でしょう。それにもかかわらず、そうした小さなことにこだわる精神性というかメンタリティを、「弥生の要素」と呼んでます。

その「弥生の要素」が、いつごろどういった経緯で生まれたのかについて、それは農民が土地に縛りつけられるようになってから、としてます。それ以前は、水田稲作といっても、数年おきに耕作地を移動させる焼畑のような方法をとっていました。「弥生の要素」に対して「縄文の要素」とでも呼べるでしょうか。

1969年、休耕が政策決定されたときの農民の怒りは、相当のものでした。彼らにとって休耕は文字通り「人生観、世界観の否定」とみえました。

彼らが心配したのは、単に米を作らず何を作るかという経営上のことではなく、休耕した後の田で土が再びその命を復活するかどうかということであった。先祖代々の血と涙と汗が凝縮された田が、自分たちの代で野にかえってしまったとあっては、ご先祖にあわせる顔がない。彼らの心は土地と一体化していたのである。”

たしかに美しい水田が放置され、草ぼうぼうになっているのを見ると、私たちも心配しますよね。

ところがここから佐藤氏は、逆説的な論を展開します。

「休耕は土地を荒らすか」
と。

”生態学の立場から考えると、ヒエは水田という生態系に回復可能までのダメージを与えるわけではない。”
としたうえで、焼畑の稲作りについて紹介してます。

”開いて三年も経った畑は草ぼうぼうの状態になり、やむなく耕作を放棄せざるを得なくなる。しかしイネにとってもっとも手強い競争相手であった雑草たちも、数年せずして姿を消し、やがては多年生の草本にとって代わられ、やがては森に戻ってゆくのだった。休耕をはじめてすぐならば強雑草の休眠種子はまだ土中に残っていて、そこでもし稲作を再開しようものなら彼らはたちどころに発芽して土地を草だらけにすることだろう。だが森に戻った土地は、もはや雑草の種子を残しておらず、火を入れて開きさえすればその土地はまた肥沃な田へと姿を変える。そうしてみると焼畑の耕作ー休耕のシステムは、今の私たちの常畑された水田に比べて特別原始的なわけでも遅れているわけでもない。それは二つの選択肢の片方ともう片方であるに過ぎない。

常畑の水田という縛りの中でものを考えようとするから休耕田は悪い存在になってしまうのである。「弥生の要素」の呪縛から解放されれば、休耕は悪いことでも何でもない。”

いかがでしょうか。今までの概念が、180度転換する見方ではないでしょうか?。

佐藤氏は今の水田がよくない、とは言ってません。環境の保全など、大きな役割を果たしていることは認めてます。

”だが、今の水田稲作が環境保全に何の問題もないかと言えば決してそうではない。”
として、病害虫を防ぐために多量の化学肥料や農薬を使わざるをえない現実を指摘してます。
そして
”水田が、本当に地球にやさしいと言えるだけの証拠を、私たちはまだもっていない。”
とまで言い切ってます。

そして
”私たちが感じる逼塞感(ひっそくかん)、ゆきづまり感は、その大半が弥生の要素のゆきづまりに起因している。”
と結論づけてます。

ではどうしたらいいのでしょうか?。

佐藤氏は、「縄文の要素の復活」を提唱してます。

その第一歩として、「多様性の復活」を挙げてます。
農業で言えば、たとえば”いろいろな品種を植えてみよう”ということです。

要約すると、
”地域固有の品種を作るのもよし、何品種か混ぜて栽培しても構わない、作る作物も米に限ることはない。品種や作物が多様化すれば、調理の仕方や食べ方もまた、多様化せざるを得なくなる。”

”多様性の復活は、日々の生活にも必要であって、あまりにも一元化しすぎた価値観、教育の分野なら、受験一辺倒の価値観。学生も、自然に親しむとか、木や草の名前を覚えるとか、幼少のころの遊びの中で身についたはずの知識をもっていない。”

確かに私たちは、自分自身の人生の生き方でさえも、知らず知らずのうちに、皆と似たような考え方に染まっている気がします。それがテレビ・新聞などの影響なのか、あるいは学校教育のせいなのかはわかりません。それが何であれ、私たちはもっと自由に、周りの目や世間の評価を気にすることなく、自分の価値観に自信と誇りをもって生きていきたいものですね。

さて佐藤氏の挙げる「縄文の要素」のもう一つは、「森の恵み」です。
”若い頃を下北地方で過ごし、今は青森市の稽古館(民俗博物館)の館長である田中忠三郎氏によれば、「森は下北のデパート」である。昔は、山に入れば木は薬となり、つるは紐の代わりをなし、という風であった。飢饉のときにも飢えることなく、なかには飢饉の年のほうがよく採れる食料資源もあったという。森といえば水、また森を育てることは漁場を育てることになる。”

そして、
”森とかかわるということは、人の感性の基となる五感を育てるということである。”
と述べてます。

考えてみれば、私たちの遠い先祖は、ジャングルの中で生活してました。そこですべてをまかなっていたわけです。

古代日本においては、山は信仰の対象でした。霊峰(れいほう)と呼ばれる山各地にあります。

私の周囲には、週末になると山登りに行く方々が多くいます。目的は人そrぞれでしょうが、何か心惹かれるものがあるからでしょう。

「森は人間の故郷である」といっていいかもしれません。

最後に感動的な話を紹介します。
”ある縄文遺跡から、一部に生活反応のある損傷をもった人骨が出土した。三内丸山遺跡の発掘担当者であった岡田康博氏はその骨を見て、「縄文人はある意味で現代人よりも心優しかった。障害者となった手負いの仲間をしばらく介抱し続けたのですから」と語っていた。”

私も同様の話を、ある考古学者から聞いたことがあります。
どこの発掘現場か失念しましたが、縄文時代の人骨が出土したそうです。年齢60歳くらいと推定されますが、歯が一本も有りませんでした。当時の食べ物は固い食べ物がほとんどだったので、普通であれば生きることができないわけですが、それでも生活していた。ということは、その方と一緒に住んでいた人が、わざわざ柔らかい食べ物を作ってあげていたのではないか、という話です。

いかがでしたでしょうか?。

もちろん、縄文時代をやみくもに美化すべきではありません。縄文時代というと、何か牧歌的で平和な光景を思い浮かべがちですが、実際にはそればかりではなかったでしょう。多くの戦いがあったでしょうし、自然災害、飢餓や疫病など私たちには想像もできないような困難が数多くあったに違いありません。

しかしながら、縄文人はそうした試練を乗り越え、生き延びてきました。だから今、私たち日本人がいるわけです。縄文文化は1万年以上続きましたが、これほどまでに一つの文化が継続した例は、世界でも類をみないといわれてます。

それは海に囲まれ、気候にも恵まれたという幸運もあったのかもしれませんが、それだけではないはずです。そこまで一つの文化を長期にわたり繁栄させることができたのには、何がしかの要因があるはずです。
縄文人の哲学・物の考え方やライフスタイルといったものも、その一つでしょう。

今、世の中は混沌としてます。いまだに世界中で紛争は絶えませんし、政治・経済も曖昧模糊としており、先行きが見えない状況です。

何となく不安定なようにも見えますが、逆に言えば、大きな時代のうねりの転換点にいるのではないでしょうか?

こうしたなか、私たち日本人の祖先である縄文人の生き方、考え方というものは、何がしかのヒントを与えてくれるような気がします。

今回は古代史というよりも、文化論といった話になりましたが、皆さんの今後の生き方に、少しでも参考にしていただければ幸いです。

★縄文文化が世界を救う!?

<三内丸山遺跡>
三内丸山遺跡
(三内丸山遺跡公式HPより)

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イネは語る(5)~「道上の道」と人の移動とイネの伝播

前回、イネは古代東南アジアにあったスンダランドから直接伝わった、という話をしました。

皆さんのなかにはそれを読んで、日本からみてはるか遠い地域から直接伝わるなどということがあるのだろうか、と思われた方も多いと思います。

ここで改めて、前々回お話した「新・海上の道」を再掲します。「新・海上の道」とは、小田静夫氏(元東京都教育庁文化課職員)の命名で、”柳田國男氏が「椰子の実」から想定した原日本人南方渡来仮説になぞって、「黒曜石」の分析結果から「新・海上の道」とも呼称できる最古の日本列島人の南方渡来説を追跡してきた”ものです。


新・海上の道 
<「石斧のひろがり・・・黒潮文化圏」(小田静夫著)より>

石斧の伝搬した時代は、はるかに古く3~4万年前と推定されてますが、その時代からこのような海流を利用した伝播ルートがあったことになります。イネの伝搬は、それと比べればはるかに新しい時代ですが、当然その時代にもこのルートはあったでしょう。

このようにみてくると、熱帯ジャポニカの伝搬ルートは、「海上の道」による
東南アジア(スンダランド)
 ↓
日本
という可能性が充分ありうることがわかります。

さらに別の観点からみてっましょう。

このようなイネや石斧の伝播、大きく表現すれば「文明の伝播」があったのであれば、当然のことながら人も移動したはずです。

こうした移動は、日本人の成り立ちとどのような関係なのでしょうか?。

まったく関係なしに、「文明の伝播」だけがあったのでしょうか?

そんなはずはありません。当然、人の移動を伴ったはずです。というよりむしろ、人の移動により伝播した、というほうが正確かもしれません。

私たち日本人の祖先がどこからやってきたのか、については様々な説があり、まだよくわかっていません。
北方からやってきたとする説、南方からやってきたとする説、中国朝鮮半島からやってきたとする説など、さまざまです。

有名なものとして「日本人二重構造モデル」があります。埴原和郎東京大学名誉教授が提唱したもので、簡単にいうと、
”東南アジア起源の縄文人という基層集団の上に、弥生時代以降、北東アジア起源の渡来系集団が覆いかぶさるように分布して混血することにより現代日本人が形成された”
というものです。

この説に対しては、その後さまざまな意見が出て、方向性が出ませんでした。ところが近年のY染色体DNA解析技術の向上により、日本人の起源についてさまざまなことがわかってきました。

下の図はそれを示す一例です。


Family tree DNA Map  
(Family Root DNA による)

A,B・・・などは、ハプログループといい、Y染色体DNAをグループ分けしたものです。父親から息子へは同じハプログループが伝わりますので、それを追いかければ、男性の移動がわかります。

この図をみると、C・Dタイプの人々が、東南アジア(スンダランド)から直接日本列島にやってきたことを示してますね。

もちろんこれは数ある説の一つにすぎませんが、参考になるでしょう。

さらに最近では、核DNAそのものの解析により、
”縄文人はこれまで考えられていたより古い時代に他の東アジア人集団から孤立し、独自の進化をとげた集団である可能性が出てきた。”(「縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く(神澤秀明(国立科学博物館)(生命誌ジャーナル)より)

この研究成果はまだ具体的なことまで言及してませんが、少なくとも”日本人が大陸からやってきた、という単純なものではない”、ということを示してます。

となると、”どこか遠いところから大陸を経ずに舟でやってきた”、と考えざるをえません。それはどこからか、となれば、海流に乗って東南アジア方面からやってきた可能性が高いでしょう。

そうだとすれば、それに伴いイネをもってきたと考えても、不自然ではありません。

このようにまだ確定的なことはわかっていないとはいうものの、ここ近年の研究成果は、”イネが東南アジア(スンダランド)からやってきたとする説を充分支持している”と言えるでしょう。

ここでひとつ疑問が浮かびます。

最古の稲作遺跡は、
中国長江流域の浙江(せっこう)省・河姆渡(かぼと)遺跡と羅家角(らかく)遺跡で、約7000年前のものです。
さらに
”中国の国営通信、新華社は22日、中国の長江(揚子江)下流の新石器時代の上山遺跡(浙江省浦江)から、約1万年前の世界最古の栽培稲のもみ殻が見つかった、と伝えた。新華社電によると、これまで最古の栽培稲は長江中流の遺跡などで見つかった8000年前のものとされており、稲作の起源はさらに約2000年さかのぼることになる。” (毎日新聞、2005年1月23日)
との報道もされたところです。

一方、日本では、岡山県の6400年前の朝寝鼻貝塚(岡山県)検出のプラントオパールが最古です。

”長江流域のほうがはるかに古いではないか。それをどう説明するのだ。”
という疑問です。

実は、日本ではそれらよりさらに古いのではないかとされるプラントオパールが見つかってます。
”鹿児島県の遺跡では、12000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラントオパールが検出されたことから、稲作起源地と想定されている中国長江流域より古い年代が与えられる結果となっている。”’(「九州先史時代遺跡出土種子の年代的検討」(甲元眞之他、2003年3月31日、熊本大学学術リポジトリより))

この結果に対して、論文ではかなり慎重ですが、それは分析精度が不充分であり断定できない、といった趣旨です。否定しているわけではありません。

そのあたりは今後の科学的成果に期待したいところですが、可能性としては充分あるのではないかと考えます。

そうなると、ではなぜ日本において、もっと多くのプラントオパールや遺構が発見されないのか?、との疑問が浮かびます。

ここで考慮すべき、日本列島に大きな影響を及ぼした自然現象があります。

九州本島の南海底にある「鬼界カルデラ」の巨大噴火です。約7300年前に噴火して、九州南部は最大1mの火山灰で覆われ、火山灰は東北地方にまで達しました。

この噴火により、当時暮らしていた縄文人の生活は、壊滅的な被害を受けました。

<幸屋火砕流と鬼界アカホヤの広がり>・・九州南部・東部、四国、本州瀬戸内海沿い、および和歌山県で20cm以上あり、広くは朝鮮半島南部や東北地方にも分布する。
鬼界カルデラ噴火 
(Wikipediaより)

当然のことながら、当時の暮らしがわかるものは、すべて厚い火山灰の下に覆われてしまいました。また火山灰は酸性であり、化石などは残りにくいことが知られています。

ですから、1万年以上前などはるか遠い昔のイネのプラントオパールや稲作遺構がみつからなくても、それはやむおえません。 

今後、中国でもさらに古いプラントオパールや稲作遺構がみつかることでしょう。日本においても、もしかしたら見つかるかもしれません。

どちらが古いのかの論争は永遠に続くかもしれません。ただし、「海上の道」を考えた場合、どちらに軍配があがってもおかしくないことになります。

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イネは語る(4)~熱帯ジャポニカの原産地は?

前回までで、縄文時代に伝わった稲作(陸稲、熱帯ジャポニカ)と、弥生時代に伝わった稲作(水稲、温帯ジャポニカ)が、どこからやってきたのかについて、お話しました。

縄文稲作(熱帯ジャポニカ)は、長江中下流域から、直接あるいは朝鮮半島経由で伝わったとする従来の説のほか、南方から伝わったとする「海上の道」説の可能性もある、とのことでした。


イネの渡来経路 
(「イネの日本史」(佐藤洋一郎)より)

ここでよく見てください。弥生時代に伝わったとされる温帯ジャポニカは、揚子江下流から、あるいは朝鮮半島経由で日本に伝わったことが示されてます。

一方やや見にくいですが、縄文時代に伝わったとされる熱帯ジャポニカは、南方から「海上の道」で伝わった図になってます。

つまりこの図を見る限り、佐藤氏は、熱帯ジャポニカは南方の「海上の道」で伝わった、としているように見えます。

一方佐藤氏は、「イネの歴史」「イネの日本史」にて、稲作(熱帯ジャポニカ)の起源は、長江中下流域と結論づけてます。

「海上の道」の出発地がどこかは定かでありませんが、地図の西南の方向にあることは明らかです。そうなると、東南アジア島嶼部が挙げられます。
少なくとも長江流域ではないことは明らかです。そうなると整合性がないことになりますが、このあたりについて、著書からは確たることはわかりません。

ところで、2008年7月7日に、Nature Geneticsのonline版で、画期的な研究結果が公開されました。
「コメの大きさを決める遺伝子を発見!日本のお米の起源に新説!」(独)農業生物資源研究所他
です。

以下プレスリリースからの抜粋です。
”お米の粒の幅の決定に関与する遺伝子の一つである、qSW5遺伝子を発見しました。”

”お米の粒の形や大きさは、イネの収量に影響するため、農業にとって重要な形質ですが、どのような遺伝子がお米の粒の形や大きさを決めているかは今まで殆ど知見がありませんでした。今回、お米の粒の幅の決定に関与するqSW5遺伝子を世界で初めて発見し、qSW5が野生イネの栽培化の過程で遺伝子機能を失うことで、日本のお米(ジャポニカイネ)の外側のもみのサイズが約2割増大し、その結果、ジャポニカイネの米粒の幅が大きくなったことを明らかにしました。”

”さらに、様々な地域で栽培されていた約200種の古いイネ品種でqSW5の機能の有無等の遺伝子の変化を調査した結果、従来の学説(長江起源説)とは大きく異なり、ジャポニカイネの起源は東南アジアで、そこから中国へ伝わり、そこで温帯ジャポニカイネが生まれたことを示す結果が得られました。”

”インディカイネでは、qSW5, qSH1,WaxyのDNA変化はほとんど見られませんでしたが、ジャポニカイネでは、いろいろな変化のパターンが見られました。このことは、インディカイネとジャポニカイネは、独立な過程で栽培化が進んだことを示しています。また、比較した3つの遺伝子がオリジナル(変化する前の元の遺伝子)であるタイプのジャポニカイネが東南アジア、特に、インドネシアやフィリピンの在来種に見られることを見出しました。このことは、ジャポニカイネの起源がインドネシアやフィリピンであることを示唆していると考えられます(図2)。

従来、温帯ジャポニカイネの起源は、考古学的な水田遺跡の年代推定や遺跡から見つかったコメの遺物のDNA鑑定から中国の長江流域と考えられていました。今回の解析結果では、qSH1遺伝子の変化をもつ系統が中国や日本でしか見られず、東南アジアでは見つかりませんでした。このことと従来得られている証拠から、1.現在東南アジアで陸稲として栽培されている熱帯ジャポニカイネがジャポニカイネの起源に近い、2.熱帯ジャポニカイネが中国に伝わって長江流域で水田化され、温帯ジャポニカイネが生まれた、3.温帯ジャポニカイネが更に日本に伝わった、と考えられます(図2)。”

この研究は、イネの収量性の向上を目的としたものですが、そのなかでイネの原産についても判明したわけです。
かなり専門的な内容ですが、結論としては、
1.熱帯ジャポニカイネの起源は、東南アジア(インドネシア・フィリピンなど)である。
2.その熱帯ジャポニカイネが中国に伝わって長江流域で水田化され、温帯ジャポニカイネが生まれた。
3.温帯ジャポニカイネが更に日本に伝わった。

イネ原産地 東南アジア 
図2 栽培化遺伝子の変化からみたイネの栽培化
3つの栽培化遺伝子(qSW5qSH1,Wx)が米の幅、穂からのでこぼれ易さ、米のモチモチ感を決定している。赤い矢印は、3つの栽培化遺伝子の変化から推定されるイネの栽培化の流れを示す。


この発表に対して、佐藤氏は否定的です。分析方法が不充分であるというのがその理由ですが、それ以前に、インドネシア・フィリピンには、当時の稲作遺跡が見つかってないことも、大きな根拠になってます。

ところがです。このブログを長らく読まれている方は、ピンときたのではないでしょうか?。

「日本人は、どこからやってきたか? (18) ~ 古代に「海上の道」があった!!②」
にて、かつて東南アジアにあった「スンダランド」の話をしました。

「スンダランド」とは、
”現在ではタイランド湾から南シナ海へかけての海底に没しており、マレー半島東岸からインドシナ半島に接する大陸棚がそれに当たる。氷河期に、海面が100メートル程度低くなり広大な平野であった。最近では、紀元前70000年頃から紀元前14000年頃にかけてのヴュルム氷河期には陸地であった。紀元前12000年頃から紀元前4000年にかけて約8000年間にわたる海面上昇により海底に没した。”

<スンダランド位置>
スンダランド・サフルランド
(以上Wikipediaより)

つまり、少なくとも14000年前までは、東南アジア島嶼部は陸地でつながっており、温暖化による海面上昇により徐々に陸地が狭まり、紀元前4000年までには完全に水没して、現在の姿になったことになります。

海面上昇は120mにも及んだと推定されてますから、当時の陸地は海面下最大120mに沈んでいるわけです。

当時の熱帯ジャポニカ(陸稲)がどのような場所で栽培されたのか、知るよしもありません。しかしながら、スンダランドにすんでいた人々はもともとは海洋性民族であったと考えられてますから、海岸に近い場所に住み、その近くでイネを栽培した可能性は充分あります。

となると仮にスンダランドでイネ栽培をしていたとしても、その遺構やプラントオパールが見つかる確率はきわめて低いでしょう。稲作の遺構が発見されていないことをもって、稲作が行われていなかった、と拙速に結論づけることはできないと考えます。

また佐藤氏は、分析方法が不充分であるとしてますが、それはあくまで「不充分」なのであって、「誤っている」とまでは言ってません。

このようにみてくると、「稲作(熱帯ジャポニカ)起源=スンダランド」説は充分可能性があるのではないか、と考えます。

もうひとつあります。

この論文では、イネの伝搬について、
東南アジア(熱帯ジャポニカ)
 ↓
中国長江流域(熱帯ジャポニカ)
 ↓
中国長江流域(温帯ジャポニカ)
 ↓
日本(温帯ジャポニカ)
としてます。

一方、日本列島に、縄文時代に熱帯ジャポニカが伝わったのは確実です。
現時点で最古の熱帯ジャポニカは、
・中国 長江河姆渡(かぼと)遺跡7000年前
・日本 岡山県朝寝鼻貝塚6400年前
です。

このことから、佐藤氏も
中国長江(熱帯ジャポニカ)
 ↓
日本(熱帯ジャポニカ)
と推定してます。

ところがもし佐藤氏のいう「海上の道」ルートで伝わったとしたらどうでしょう。わざわざ長江を経由する必要はなく、直接日本にきた可能性が高まります。
つまり、
東南アジア(熱帯ジャポニカ)
 ↓
日本(熱帯ジャポニカ)
となります。

皆さんはどのように考えるでしょうか?。

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イネは語る(3)~弥生時代の稲作の実態とは?

前回は、稲作は縄文時代に伝わった、ということをお話しました。ただしそのイネは熱帯ジャポニカであり、陸稲稲作であったと考えられます。

その後弥生時代になり、温帯ジャポニカの水田稲作が伝わりました。

かつてその時期は、紀元前3~4世紀頃とされてきましたが、近年紀元前10世紀にまでさかのぼるとする説が発表され、衝撃を与えました。まだまだ異論もありますが、次第に浸透しているように感じます。

ところで学校の歴史の教科書では、このように習いませんでしたでしょうか?
縄文時代は、家族単位の狩猟採集の移動生活でしたが、弥生時代になって稲作が伝わり、生活が安定向上して、定住するようになりました。”

ところがです。佐藤氏によれば、それは「幻想にすぎない」といいます。
弥生時代がイネと稲作に関して歴史上の画期であるというのが一種の幻想ではなかったかとさえ思えるほどである。”
”今までの歴史観が正しいならば、水田の遺構を伴うような典型的な弥生時代の遺跡からは水稲。つまり温帯ジャポニカが出るはずである。ところが青森県田舎館(いなかだて)村・髙樋(たかひ)Ⅲ遺跡といわれる遺跡から出てきた一粒の炭化米が、熱帯ジャポニカの反応を示した。”

”熱帯ジャポニカが混ざっているという事象は、時期や場所によらず普遍的。”
弥生時代が始まってから急速に温帯ジャポニカが広まったとはいいにくい状況にある。”

”弥生時代に稲作が一気に普及したというのは一種の幻想に過ぎず、実態はむしろ開田しては廃絶し、また新たな土地を田に開くということを繰り返していたのではないかとさえ考えられる。”
”耕作の放棄はイネを作りつづけることによる地力の低下、雑草の増加など生態的要因によるもの。”

静岡県曲金北(まがりかね)きた)遺跡は、1600年前の遺跡であり、5ha 中規模の野球場が2つ入る大きさです。 1区画数㎡の区画が、総数1万区画にのぼります。そこでの稲作について、推定してます。

”かつてイネを植えていた区画が何らかの理由で放棄されて草ぼうぼうになる。するとある一定のエリア内には水田として使われている部分と耕作が放棄された部分とが交錯するようになる。それは、幾年も前から見続けてきたラオスの焼畑での耕作と基本的な構造を一にするものであった。耕作と休耕をくりかえす焼畑のやり方。それが古墳時代の水田にも残されていたと考えられないだろうか。”
(「イネの日本史」(佐藤洋一郎)より)

以上を解説すると、稲作(陸稲、熱帯ジャポニカ)が伝わったのは縄文時代で、弥生時代になって水田稲作(温帯ジャポニカ)が伝わったが、そこに画期的なことは起こらなかった。もともと陸稲稲作という基盤があり、そこに水田による稲作技術が導入された。
水田稲作と言っても、私たちの思い描く水田ではない。もともとの陸稲(熱帯ジャポニカ)と混ざった状態で、しかも耕作と休耕を繰り返す焼畑のような形態だったというのです。稲作民は、耕作してから数年でその土地を放棄して別の地に移り、また耕作を始める、というものだったというのです。

広い水田でイネが風にソヨソヨとゆられるという一般的な田園風景とは、かけ離れてますね。そしてその状況は中世まで続き、近世になってようやく定住して水田を営む形態ができあがった、というのです。

ずいぶんと私たちのもつイメージと異なりますね。

さてその水田稲作すなわち温帯ジャポニカは、どのルートで日本に伝わったのでしょうか?

朝鮮半島ルートなのか、中国大陸から直接なのか?、です。

少し小難しくなりますが、イネ遺伝子DNAにはRMIというSSR領域があります。言ってみればイネの血液型みたいなものです。日本、中国、朝鮮半島のイネ(温帯ジャポニカ)250品種について調査したそうです。250種のイネのなかに8つの変型版があります。これらを、aからhまでの文字をあて、どこに分布しているかを示したのが、下の図です。



イネRMI分布 
(「イネの日本史」(佐藤洋一郎))

するとたいへんおもしろいことがわかったのです。

中国には8タイプがすべてがあり、多様性があることがわかりました。
朝鮮半島には、bタイプを除く7タイプがありました。
それに対して日本はほとんどがaタイプまたはbタイプに限られてます。

ここからわかることは、”日本に運んでこられたイネの量は、ごくわずかだった”、というのです。なぜかと言えば、もし大量に運んできたのなら、、さまざまなタイプが紛れ込む可能性が高くなり、a或いはbタイプに限られる確率が、きわめて低いものになるからです。

佐藤氏は、RM1以外のSSR領域も調べ、同じ結論を導き出してます。

このことから、渡来ルートについて、
bタイプの品種は、中国にも日本にも多く存在する。bタイプが朝鮮半島にだけなかった理由は、おそらくそれが中国で生まれ、朝鮮半島を経由せずに直接日本に来たからである”
”一方、aタイプのほうだが、これは朝鮮半島ではメジャーなタイプながら、中国における頻度はそう高くない。このタイプが、朝鮮半島で生まれたかまたは中国で生まれたかは別として、とにかく朝鮮半島から日本にきたことはたしかだろう。
と推定してます。

ようは、中国から直接渡来したルート(bタイプ)と、朝鮮半島から渡来したルート(aタイプ)の二つである、ということです。

では、日本に渡来したイネ(温帯ジャポニカ)は、その後どのように伝播したのでしょうか?。

佐賀大学の和佐野喜久雄氏は、国内外の遺跡から出土する種子(炭化米)の大きさと形の分析から、日本列島にきたイネ品種に次の三つの波があったとしてます。

第一波(縄文時代晩期、紀元前7,8世紀ころ、中国の春秋戦国時代)
朝鮮半島から壱岐(いき)を経由
・粒のごく丸い品種

第二波(縄文時代歳晩期から弥生時代はじめ、紀元前4,5世紀ころ)
中国から「北部九州北岸域」に直接渡来
・短粒の品種

第三波(弥生時代前期から中期、紀元前2,3世紀ころ)
有明海に入りその後山陰地方から日本海岸に沿って北上
・長粒の品種を中心としたさまざまな変異を含んだ品種

この説は、寺澤薫氏(橿原考古学研究所=当時)の説を参考にしたものと思われる、ということです。寺澤氏の描いた図を載せます。


イネの伝播経路 
(「イネの日本史」(佐藤洋一郎))

和佐野氏の説とこの図が、完全に合致しているわけではありません。

たとえば和佐野氏は、第二波は中国からきたとしてますが、上の図では朝鮮半島からきたように見えます。
また第三波はどこから伝搬したのか明確にしてませんし、上の図でもよくわかりません。

そのあたり詳細はいろいろあるところですが、おおまかなルートということで理解したいと思います。

興味深いのは、第三波の直接有明海に入ったルートがある、としているところです。このあたりが、九州北部とどのような関係性になるのか、注目ですね。

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イネは語る(2)~縄文時代にやってきた稲作

前回のとおり、稲作は約7000年前に長江中下流域にて始まりました。それより古い遺跡も発見されてますが、出土した種子などの年代が測定されていないため、現時点では最古は7000年前ということになります(佐藤洋一郎氏による)。

その稲作が日本列島に伝わったとしてます。

かつては稲作は、弥生時代の紀元前3~4世紀頃に伝わったとされてきました。それが弥生時代の幕開けでもあったわけです。

ところが遺跡の発掘調査により、日本各地で縄文時代に稲作されたとみられるプラントオパールが発見され、日本列島における稲作開始時期は、大きく時代をさかのぼることとなりました。

ここでプラントオパールとは、
”イネ科植物の葉に含まれるケイ酸が化石化したもの。枯れた後も、その植物に特有な細胞の形のままで残り、ガラス質で、安定性が高い。”(大辞林 第三版より)

ちなみに、ケイ酸とは、ケイ素、酸素、水素の化合物ですが、ケイ素(Si)と言えば、最近よく美容・健康で話題になる「シリカ」ですね。人間の人体にも必須で、骨の成熟にも欠かせない成分です。植物にとっても必須で、茎は太く頑丈に、葉は上向きで硬く厚くなるそうです。
実は「二酸化ケイ素」の結晶が「水晶」です。「水晶」に含まれている「ケイ素」がイネに含まれているのですから、イネの茎や葉がピンとしている理由もわかる気がします・・・。以上、豆知識でした。

話を戻しましょう。

現在、最古の事例としては、6400年前の朝寝鼻貝塚(岡山県)検出のプラントオパールがあります。

縄文稲作遺跡 

(「稲の日本史」(佐藤洋一郎)より)

縄文前期となると、岡山県近辺の瀬戸内海沿岸、九州中北部に集中しており、あとは畿内に一つのみです。すべて西日本ですね。なおこの時代のイネは、熱帯ジャポニカであり、陸稲であったと考えられます。

では縄文稲作は、どこから伝わったのでしょうか?。

”最古の稲作遺跡は浙江(せっこう)省・河姆渡(かぼと)遺跡と羅家角(らかく)遺跡で、約7000年前のものである。江西省の仙人洞遺跡や湖南省玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡、韓国ソロリ遺跡には1万年をはるかに超える記録があるが、いずれも地層の年代を測定したものであって出土した種子(ソロリ遺跡)やプラントオパール(仙人洞遺跡)の年代が測定されたわけではない。”
アジアでの稲作は数千年前から1万年前の間に始まったと考えるのがよいようである。”


中国稲作遺跡 
(「稲の日本史」(佐藤洋一郎)より)

こうしたことから、長江中下流域から伝わった、ということが考えられます。

それが朝鮮半島を経ての陸路なのか、直接舟で伝えられた海路なのかは、確実なことはわかってません。

さらにここで佐藤氏は、もうひとつのルートを提起してます。
南方から舟で伝わった九州南部へ伝わったという「海上の道」です。

稲渡来ルート 
(「稲の日本史」(佐藤洋一郎)より)

熱帯ジャポニカは中国南西部からインドシナ奥地にかけてと、フィリピンからインドネシアなど熱帯島嶼部に広がっている。”
”熱帯ジャポニカの固有の遺伝子をもつ品種が、台湾の山岳部から南西諸島を経て九州に達していた。”
”柳田國男がかつて「海上の道」と呼んだルートは捨てきれない魅力をもっている。”
”もともと海上の道は海人たちの道であった。舟を操り大海原を駆け巡ることのできた人々が、熱帯ジャポニカをもたらしたと考えられる。”

長江中下流域で7000年前に始まった稲作は、熱帯ジャポニカであったと考えられます。その熱帯ジャポニカは、中国南西部からインドシナ奥地と、さらに南方のフィリピン、インドネシアなど島嶼部に広がってます。イネの原種は南方にありますから、こうした東南アジア島嶼部から、海路を経て九州に伝わったとのではないかとする考えは、ごくごく自然な推論です。

ここで柳田国男氏の「海上の道」が出てきました。以前、このブログでも、「新・海上の道」についてお話しました。「新・海上の道」とは、元東京都教育庁職員の小田静夫氏が提唱してます。

簡単にいうと、旧石器時代の石斧の分布などから、日本人の祖先は、3~4万年前に東南アジア島嶼部から黒潮に乗って、琉球列島、本州太平洋沿岸と渡り、神津島で黒曜石を発見した、としてそのルートを「新・海上の道」と名づけたものです。詳しくは

日本人は、どこからやってきたか? (18) ~ 古代に「海上の道」があった!!②
を参照ください。

新・海上の道 
(  )

このルートでの石器伝搬は3~4万年前であり、今回の稲作伝搬のはるか昔のわけですが、1万年前にも同様な人と文化の移動はあったでしょう。ですからイネの伝搬もこのルートだったと考えても、なんら不自然ではありません。

ただしこの説の弱いところは、東南アジア島嶼部に1万年前にさかのぼるような稲作の遺跡が発見されていないことです。この点については、のちほど取り上げます。

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イネは語る(1)~意外な実態とは?

このところ、数十回にわたり、土器、銅鐸、墳墓についてみてきました。一連のデータからわかったことは、大きな流れとして、「西→東」という移動があったことです。もちろん実際にはそのような単純な話ではなく、さまざまな複雑な流れがあったわけですが、大まかな流れとして、そのようなことが言えるわけです。

そして前回までの古墳の話のなかで、畿内王権の全国支配の象徴とされる「前方後円墳体制」なるものは、少なくともデータからみれば無かったといわざるをえないこともお話しました。

つまり古墳時代の畿内は、さまざまな豪族が覇権を競い合っており、大和王権というものは、one of them に過ぎなかった、というこです。

この話は、土器や銅鐸のデータからみても同様に考えざるをえない、ということがわかります。教科書で習ったこととは、まったく違いますね。

このように客観的データを整理すると、今までの私たちの認識とは大きく異なる新たな世界が見えてきます。

さてそれでは、もう少しいろいろなデータをみていきましょう。

今回から「イネ」です。

「イネ」といえば、2千年以上にわたり私たち日本人が食べてきたもので、私たちの文化にも強く浸透しています。

「イネ」がどこから渡ってきて、どのように広まったのかは、実はよくわかってませんでした。なんとなく「弥生時代に大陸から伝わり、耕作されるようになり広まっていった。」といった程度でした。

ところが近年の科学技術の向上や遺跡の発掘等により、次第にさまざまなことが解明されつつあります。それを紹介しつつ、考えていきましょう。「イネの歴史」「イネの日本史」(佐藤洋一郎)を参照します。

「イネ」というと、どのような姿を思い浮かべるでしょうか。

広々とした水田に規則正しく植えられている青々とした姿や、穂を豊かに実らせている姿を思い浮かべる方が、多いのではないでしょうか?。それが私たち日本人の心の奥深くに抱いている「原風景」だからでしょう。

学校の歴史の授業でも、”イネは弥生時代に伝わり、それ以降水田耕作が急速に広まった。”と習いましたね。私たち日本人は、2000年以上にわたり、営々と水田耕作をして、コメを主食としてきたことになります。これが私たちのもつ「原風景」の由来でしょう。

ところが佐藤氏によれば、こうしたことは近世以降のことであって、”「米」は中世までは人々の暮らしの中で、今の私たちが考えるほどには大きな位置を占めていなかった。”というのです。ずいぶんと私たちの認識と違いますね。

さらに驚くべき話が出ます。

「水田稲作」は「稲作」の一部に過ぎない。”
”私たちが毎日みているような水田稲作のスタイルは、アジアの中では極めて例外的なスタイルである。”
のです。

そして
”水田稲作ともうひとつの稲作は、両者が並列な関係にあるのではない。”
としてます。
ここで「もうひとつの稲作」とは、「焼畑による陸稲栽培」などを指してますが、そのような稲作こそもともとの稲作であり、水田稲作はのちになって開発された栽培法だ、ということです。

つまり、、「焼畑による陸稲栽培」などが世界の多くの地域で行われている稲作だ、ということになります。冒頭から、イネについての認識が大きく揺るがされます。

<水田>
水田  
(Wikipediaより)

<焼畑>海南島内陸部にわずかに残る焼畑での陸稲栽培
陸稲
(京都大学東南アジア研究所HPより)

実は一口にイネと言っても、さまざまな種類があります。皆さんのなかにも、ジャポニカ米とか、インディカ米という言葉を聞いたことがあるかもしれません。
ジャポニカ米とは、普段私たち日本人が口にしている米で、「コシヒカリ」などがそれに当たります。
一方、インディカ米とは、俗に「タイ米」などと呼ばれrている米です。

特徴として一番わかりやすいものは食感です。ジャポニカ米はモチモチとして粘り気がありますが、インディカ米はパサパサとしてます。ですからインディカ米は、ピラフ・チャーハンなどに合います。南国にはそのような料理が多いですね。

そしてジャポニカ米は、「熱帯ジャポニカ」と「温帯ジャポニカ」に分かれます。おおまかにいえばその名のとおり、「熱帯ジャポニカ」は熱帯に多く、「温帯ジャポニカ」は温帯に多いです。
イネはもともと熱帯のものですから、「熱帯ジャポニカ」からのちに「温帯ジャポニカ」が生まれたことになります。

ではイネの原産地はどこだと思いますか?

イネは南方のものということから、東南アジアと考える方が多いと思われます。

それはそうなのですが、ではさらにさかのぼりイネの原種(オリザといいます)は、どこで生まれたのでしょうか?

なんと、今のオーストラリアからパプアニューギニア一帯の地域と考える研究者が多いというのです。つまり、「イネはオセアニアの生まれ」ということです。

オリザの祖先は、もともとは森のすきまに生きてきた草の一つにすぎませんでした。日陰の植物であって、サンサンと日光を浴びて育つ植物のイメージとはほど遠いものだったそうです。

その後野生イネは長い年月をかけて広まり、突然変異などでさまざまな種類が生まれました。

その野生イネが北上して、長江の流域、湖南省あたりの中流域か江蘇省、浙江省あたりの下流域あたりで、初めて人の手で栽培されるようになったと推定しています。

古代稲作遺跡 

稲の伝播 
(「イネの歴史」佐藤洋一郎より)

なぜイネの栽培が、長江の中流域から下流域にかけての地域で始まったのでしょうか?。

長江流域でジャポニカの稲作が始まったひとつのきっかけになったのがヤンガードリアスの低温ではなかったかという仮説がある。ヤンガードリアスとは、二万年前ほどまえをピークとする最終氷期から温暖期(そのピークは7千年前ほど前の「ヒプシ・サーマル期」)に移行する途中に起きた急激な寒冷期のひとつ。低温によって野生植物の収穫が減ったことは農耕のひとつのきっかけにはなろう。”

つまり氷期の低温により、狩猟採集だけでは栄養補給ができなくなり、イネ栽培という食物自給方式への転換が行われたのではないか、としてます。一方、熱帯地域の場合、生態が豊かなため「狩猟採集」で十分であって、農耕を取り入れるモチベーションは一貫して低かった、として、

”このように考えれば、熱帯における農耕の開始は温帯地域より相当遅かったと考えるのが自然である。”
としてます。

一方のインデイカ米ですが、”インディカの起源地は熱帯にあると考えられるが、その誕生は相当最近のことなのかもしれない。”
としてます。

長江流域で初めに栽培されたジャポニカは、熱帯ジャポニカとみられます。それがのちに品種改良され「温帯ジャポニカ」が生まれたわけです。

ところでイネ栽培について、東南アジア(インドネシア・フィリッピン、マレーシアなど熱帯島嶼部)起源ではないか、との論文が2008年に「ネイチャー・ジェネティックス」という雑誌に掲載されました。

この論文に対して、佐藤氏は否定的です。理由として
・考古学的成果とまったく合わない。東南アジア島嶼部における稲作の始まりは、考古学的にはせいぜい4000年ほど前である。
・長江流域と島嶼部の間にある南中国や台湾にも、それほど古い遺跡はまったくない。
・これら島嶼部に現在住む人々の祖先が伝わったのが、せいぜい数千年前である。

としたうえで、遺伝子解析方法が不充分ではないか、と結論づけてます。

はたしてどうなのかは、後の回で改めてとりあげます。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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