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纏向遺跡は邪馬台国か?(3)~纏向遺跡とは

さて、それでは本論である「纏向遺跡」にはいります。

”奈良県桜井市域の北部、JR巻向駅周辺に展開する。3世紀初頭~4世紀前半にかけて存続した。南北約1.5km、東西約2kmにも及ぶ。現在までの調査は、全体面積の5%程度である。”(「邪馬台国ー近畿説の一例 纏向遺跡の調査とその特質」(橋本輝彦、桜井市教育委員会文化財課)より)

面積は約300ha(万㎡)にも及ぶ広大な弥生時代末期から古墳時代前期にかけての遺跡です。卑弥呼の時代(3世紀前半)にも合致し、遺跡の大きさもさることながら、宮殿ともみなされうる大型建物跡がみつかったことなどから、邪馬台国ではないか、と言われてます。

位置を確認しましょう。

纏向遺跡位置図 
さらに詳しく、奈良盆地での位置をみてみます。
奈良盆地の東南部、山辺の道沿いにあります。大型前方後円墳の集積する柳本古墳群内です。東には古代から信仰されている三輪山があります。
北には大和古墳群があり、物部氏と関わりが深い石上神社があります。
弥生時代の巨大集落として有名な唐古・鍵遺跡は、北東の近い位置にあります。

纏向遺跡というと、土地勘がないと、何となく初代天皇である神武天皇の陵や橿原宮、あるいは蘇我馬子の墓とされる石舞台で有名な明日香村などに近いのかと思ってしまいますが、そうではなく、前者は西南方向、後者は南方向にあり、距離もかなりありますね。

西方向には、葛城氏の拠点とされる、馬見古墳群があります。

また遺跡のさらに北方、現在のJR奈良駅北東には、神功皇后陵などがある佐紀古墳群がありますが、これもかなり距離が離れてます。

纏向遺跡位置


位置を把握したたところで、遺跡の概要をみてみましょう。 
特徴としては、以下の8つが挙げられてます。(「纏向遺跡と初期ヤマト政権」(寺澤薫)を要約)

1.集落規模が極めて大きく、前段階の弥生時代の拠点的な集落の規模をはるかに上回るばかりでなく、同時期の集落でも同等の規模を持つものは皆無であること。

2.弥生時代には過疎地域であった纏向遺跡に3世紀初めに突如として大規模集落が形成されること。また、遺跡の出現・繁栄や消長が周辺の前期古墳の動向と時期が一致していること。

3.本来近畿の墓の系譜には無い墓制である前方後円墳、纏向型前方後円墳と呼ばれる纏向型石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳などの共通の企画性を持った発生期の前方後円墳が存在し、後の古墳祭祀に続く主要な要素をすでに完成させていたこと。

4.農具である鍬の出土量が極めて少なく、土木工事用の鋤などが多く出土しており、農業を営む一般集落懸離れた様相を呈していること。遺跡内の調査では未だ水田・畑跡が確認されていないことなどを考え合わせると農業をほとんど営んでいない可能性があること。

5.吉備地域をルーツとする孤帯文様を持つ特殊器台・孤文円板・孤文石板などの出土から、吉備地域との直接的な関係が想定されること。孤帯文様を持つものは吉備地方を中心に葬送儀礼に伴って発展したものであり、纏向遺跡ではこれらの祭式が直接古墳や集落での祭祀に取り入れられた可能性が高いこと。

6.他地域から運び込まれた土器が全体の15~30パーセント前後を占め、量的に極めて多いこと。そして、その範囲が九州から関東にいたる広範囲な地域からであること。

7.奈良盆地東南部という各地域への交通の要所に位置し、搬入土器の存在と合わせて付近に市場の機能をもった「大市」の存在が推定されること。

8.建物の中にほぼ真北方向に構築され、柵をめぐらし、付属建物を配する極めて特殊な掘立柱建物が存在すること。

等の要素が挙げられ、「新たに編成された政権の政治的意図によって建設された日本最初の都市」と位置づけられるに至っている。


注目の一つは、「3世紀初めに突如として出現した集落であること」でしょう。これが卑弥呼の時代とほぼ重なることから、邪馬台国説の大きな論拠となってます。しかしながら、邪馬台国は少なくとも紀元前後から存在していたと考えられるわけですから、それとの整合はどうなのか、という問題が出てきます。別の場所から移動してきた、と考えるよりありませんが、ではどこからやってきたのか、が不明です。

ここには記載されてませんが、4世紀初頭頃には、忽然と遺跡がなくなります。つまり纏向遺跡というのは、わずか100年ほどの短い期間の遺跡です。では彼らはどこへ行ったのか?、という謎が残ります。

次の注目は、前方後円墳、纏向型前方後円墳を、「本来近畿の墓の系譜には無い墓制である」としている点です。墓制といものは、先祖代々引き継ぐものですから、それが近畿にないということはすなわち、纏向型前方後円墳のルーツは「近畿以外」ということになります。

ではどこか?、については、5に大きなヒントがあります。
「吉備地域をルーツとする孤帯文様を持つ特殊器台・孤文円板・孤文石板などの出土から、吉備地域との直接的な関係が想定されること。」とあることから、吉備地域もしくは吉備地域と強い関係をもった地域からやってきた、と考えるのが自然でしょう。

次の注目は、「農具である鍬が少なく土木工事用の鋤が多こと、水田・畑が発見されていない」ことです。つまり、まったく農業を行わない遺跡、ということになります。となると、住んでいた人々の食料はどこから供給されたのか、という点も不明です。さらに今後の発掘状況にもよりますが、それほど多くの人々が生活していなかったのではないか?、ということにもなりえます。

また、「他地域からの搬入土器が多い」とあります。実は搬入土器の多くは炊飯用の甕とのことです。そこから当時の纏向遺跡の人に出会えば、1.5人~3人は外来の人が居たと推定されます。
また住居も、当時一般的であった竪穴式住居は確認されておらず、高床式の建物や平地式の建物で居住域が構成されていた可能性が高いとのことです(「日本における都市の出現ー纏向遺跡の調査から」(橋本輝彦))。

農業がまったく行われおらず、土木用の鋤が多い、土器も外来が多い、となると、出稼ぎでやってきた人たちが造った都市、というイメージですね。しかも竪穴式住居もないとなると、何となく人の生活の匂いが感じられない気もしますね。

なお橋本氏は、纏向遺跡について、
吉備などの祭りの道具立てを取り入れて纏向遺跡の中で古墳の祭祀を行ったり集落の祭祀を行ったり、そういうことがおこなわれている。あるいは近畿の中にもともとない墓制であるはずの前方後円墳の墓も吉備、瀬戸内海を中心とする弥生後期の墓制ですし、葺き石を葺く様なやり方もやはり近畿に元々ない、埋葬施設に鏡を納めるような風習も九州地域で多くみられたもので元々は近畿にない。そういった点を見ていきますと、この吉備地域からの孤文を用いたり祭りの道具に代表されるように、纏向遺跡の墓制、あるいは集落内における祭祀の様式に国内の他地域の要素というものが色濃く取り入れられ、祭祀のスタイルが完成されている。このことは大和が当時の社会の中で圧倒的に優位で、大和がほかの地域を制圧したという考えではなくて他の地域と協調関係・連合関係の中で纏向遺跡というものがつくりあげられたのではないかというふうに言われてます。”(「日本における都市の出現ー纏向遺跡の調査から」(橋本輝彦))。

と述べてます。ずいぶんと一般的なイメージと違うのではないでしょうか?。こうした考えが、実際に纏向遺跡の発掘調査をしている方から発せられていることは注目です。

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纏向遺跡は邪馬台国か?(2)~魏志倭人伝が記す「倭国」の詳細

「邪馬台国」がどこなのか?、は日本古代史最大のミステリーと言ってもいいでしょう。前回は、同時代の西日本集落をまとめましたが、多くの遺跡があることがわかります。

ではどこなのかについては、議論百出といったところで、結論が出てません。

それは一つには、「邪馬台国」について最も詳細に記している中国史書「三国志魏志倭人伝」が示す位置が、いかようにでも解釈しうるからからです。実際には丁寧に読み解くと、位置はみえてくるのですが、そのあたりは、
邪馬台国までの道程をたどる(7)~中国史書のルールにしたがえば邪馬台国の位置はここだ!!
にてお話してますので、参照ください。

いずれにしても、今もって結論が出てないのが実情です。

ではそれ以上話が進まないじゃないかとなります。

幸い魏志倭人伝には、邪馬台国について、位置のほかにも文化・風習など事細かに記してます。それらが大きなヒントになります。そこで今回は、そのあたりをまとめてみましょう。

魏志倭人伝の全文から、抜粋します。訳文は、「歴史から消された邪馬台国の謎」(豊田有恒著)を一部修正してます。

A.”山ばかりの島で、国や集落を営んでいる。昔は百国ばかりあって、漢の時代には、貢ぎ物を持ってくる国もあった。”
【解説】
 ”山ばかりの島”というのは、日本列島内すべてに当てはまりますね。
問題は次の、”漢の時代には、貢ぎ物を持ってくる国もあった。”です。これは具体的には、後漢書倭伝
建武中元二年(57年)、倭奴国(いなこく)の使者が、貢物を捧げて後漢の光武帝のもとに挨拶にきた。使者は大夫(だいふ)と自称した。倭奴国は、倭国の南界を極めたので、倭奴国の王に印章と下げ綬を賜った。”
を指していると推察されます。
これはCに出てくる”昔からずっと、この国の使いは、中国へやってくると、みんな大夫だと自称していた。”との表現に共通してます。

ここから導きだされることは、倭国(倭奴国)は、少なくとも紀元57年から継続している国だということです。
ということは、その都である「邪馬台国」も、紀元後から継続している可能性が高い、ということになります。
もちろん都が移動した可能性もありますが、魏志倭人伝に「都が移動した」という記載はありません。

B.”南へ行くと、邪馬台(壹)国(やまいちこく)に着く。・・・七万戸ちょっとである。”
【解説】
邪馬台国(原文は邪馬壹国)に関する記述です。戸数が七万戸余とあります。一戸当たり何人なのかは定かでありませんが、仮に一戸当たり6~7人とすると、42~49万人と、すさまじい人口になります。

では、邪馬台国はどのくらいの広さだったのでしょうか?。
何も記載されていませんが、推定してみます。
吉野ヶ里遺跡の面積は、外環濠内で約40ha,人口は最大時で1200人程度、クニ全体で5400人程度と推定されてます(吉野ヶ里歴史公園HPより)。
ここから人口密度は、
1200人 ÷ 40ha = 30 人/ha
となります。
クニの広さがわかりませんが、環濠の面積の10倍の400haと仮定します。
すると、人口密度は、
5400人 ÷ 400ha =13.5 人/ha
となります。
そうしますと、邪馬台国の人口からみた面積は、人口を45万人として
45万人 ÷  13.5人/ha = 約33,000 ha
となります。

これだけではピンとこないかもしれませんが、
福岡市の面積34,100haに匹敵する広さです。
ちなみに福岡市の現在の人口は約150万人ですから、人口密度は
150万人 ÷ 34100ha = 44人/ha
となります。 
そうなると、邪馬台国の人口密度は、現福岡市の3分の1となります。ずいぶんと高い人口密度ですね。もちろん計算の仮定を変えれば、それに応じて変わります。あくまで一つの目安として考えてください。

C.”昔からずっと、この国の使いは、中国へやってくると、みんな大夫だと自称していた。・・・現代の倭人は、潜るのが大好きで、魚やハマグリを採っている。”
【解説】
前半は、Aで解説したとおりです。後半に注目です。”潜るのが大好きで、魚やハマグリを採っている。”とあります。明らかに海辺に住み、漁業を盛んに行っていたことを表しています。対海(たいかい)国や末盧(まつろ)国に同様の記載がありますが、邪馬台国を含む倭国全体の様子と理解して差し支えないでしょう。

D.”稲と麻などを栽培している。蚕に桑を与え、絹糸を紡いだりしている。細い麻布や硬めの絹織物や真綿を作る。牛、、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)はいない。”
【解説】
当時の日本では、水田稲作が西日本から東日本へと伝搬してますので、どこでもみられる光景だったでしょう。注目は、「絹」です。すでに蚕から、絹を紡ぎ、絹織物を生産してます。中国に献上していることから、技術水準もある程度のものだったと考えらえれます。
がいないのも注目です。騎馬民族であれば、当然馬を飼い常備してるはずです。ここから、倭人は騎馬民族ではないことがわかります。

E.”武器としては、矛、盾、弓がある。この木の弓は、上半分が長く、下半分が短く、鉄や骨の矢じりを使う。”
【解説】
武器として、をまず挙げてます。鉄矛なのか銅矛なのかはわかりませんが、いずれか或いは両方でしょう。”鉄の鏃を使っていた”とあり、鉄が普及していたことがわかります。

F.”海南島の儋耳(たんじ)、朱崖(しゅがい)と、共通したところが多いようである。倭国の土地柄は、温暖であるから、一年中、生野菜が食べられる。”
【解説】
文化・風習は”海南島の儋耳(たんじ)、朱崖(しゅがい)と共通している”とあります。海南島は中国のかなり南部にある島で、気候温暖です。その文化・風習に共通しているということは、南方からそうした文化・風習をもった人々がやってきた可能性が高いと言えます。

G.”人が死ぬと棺桶には入れるが、槨(かく)はない。埋めてから土を盛って塚を作る。”
【解説】
埋葬の仕方です。棺桶はありますが、その回りをふさぐもの槨(かく、棺の周囲を覆うもの)はない、と記してます。ここまで細かい描写をしたということは、この様式が中国人からみて特殊だと思ったからでしょう。実際、日本の墓地においても、の有無は、地域による大きな特徴となってます。

H.”真珠、青玉が採れる。”
【解説】
青玉は、「碧(へき)玉」ではないか、といわれてます(寺村光晴氏、和洋女子大学名誉教授)。
碧玉(Jasper)とは
”ジャスパーとも呼ぶ。不純で不透明な玉髄。多くは酸化鉄によって紅,黄,褐,緑,黒などの色を呈する。硬さは石英よりやや低い。比重は 2.6~2.9で不純物が多いほど重い。色やつやにより次の種類がある。赤碧玉は俗に赤玉といい,象眼 (ぞうがん) 細工に使われ (佐渡の岩首,石川県国府) ,また庭石として珍重される。緑・青色碧玉島根県出雲地方の玉造石 (たまつくりいし) が名高く,歴代玉造りの中心素材であるため特に出雲石とも呼ばれる。”(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

I.”山では(硫化水銀)がでる。”
【解説】
丹とは、
1 鉱物の一。辰砂(しんしゃ)。
2 赤色の顔料。赤い色。
3 丹砂を配合した不老不死の仙薬。
(デジタル大辞泉)
流化水銀は、国内に多くの産地があります。秦の始皇帝が、水銀を不老不死の仙薬として珍重したことは有名ですね。また墳墓の内部を赤く塗るのにも使われました。魔よけの意味もあったとされます。

J.”物納された税を入れる邸閣(大型倉庫)がある。”
【解説】
高床式の建物と考えられます。弥生時代を象徴する建物ですね。

<吉野ヶ里遺跡復元倉庫>
吉野ヶ里倉庫(Wikipediaより) 

K.”この国は、もともと男を王としていた。一つの都に七、八十年も住みつづけたのち、倭国は内乱になり、何年もの間、お互いに攻撃し合ったりしていた。そこで国々が協議して、一人の女を王に立てた。この女の名を卑弥呼という。”
【解説】
「倭国大乱」の話です。魏志倭人伝には「大乱」とはなってませんが、それはそれとして、大きな戦いがあったことは事実でしょう。

L.”卑弥呼のいる宮殿や楼観には、厳重な城柵がつくってあり、警備兵が武器をもって護衛している。”
【解説】
ものものしい雰囲気が伝わってきます。兵器とは、矛・盾・弓が中心だったでしょうから、そうした武器をもった兵士が護衛していた様子が見えます。

<吉野ヶ里遺跡北内郭想像図>
吉野ヶ里北内郭 
(吉野ヶ里歴史公園HPより)

M.”そこでそなたを親魏倭王に任命しよう。紫の綬(ひも)のついた金印も授けよう。
赤地に二頭の竜をデザインしたを五匹、赤いシャギー・モヘアの布地を十張、茜色の紬を五十匹、紺青の織物を五十匹など、そなたがもたらした貢物に報いてとらせよう。また、そなたには、特に、紺地に模様のついたを三匹、斑の細かい模様の毛織物を五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀を二口、銅鏡を百枚、真珠と鉛丹それぞれを五十斤を、与えることにしよう。”
【解説】
魏の皇帝が卑弥呼に与えた品々です。紫の綬(ひも)のついた金印、錦、絹、刀、銅鏡、真珠等が列挙されてます。ちなみにこの時下賜された銅鏡(いわゆる卑弥呼の鏡)は、古墳から数多く出土している三角縁神獣鏡ではないか、という説があります。しかしながら近年の鉛成分分析等から、三角縁神獣鏡は国産であることがほぼ確実であり、成立しません。

N.”倭王の位を授け、皇帝の命令書をもたらし、刀、鏡などの贈り物を与えた。”
【解説】
M同様です。

N.”倭の女王の卑弥呼は、狗奴国(くなこく)の男王の卑弥狗呼(ひみくこ)と以前から仲がよくなかった。・・・
卑弥呼は死に、大きな盛り土のある墓を造らせた。直径百歩あまりである。男女の奴隷を百人以上も殉葬した。あらためて男の王を立てたが、国中が従おうとしなかった。そのため殺し合いになり、そのとき千人以上も殺した。”

【解説】
卑弥呼と狗奴国との戦い、卑弥呼の死後の動乱と、国中が乱れます。ここでも多くの戦死者が出ました。

O.”かれらは、臺(魏の天子の宮殿および天子直属の中央政庁)にやってきて、男女の奴隷三十人を献上し、真珠五千個、大きな青玉二個、エスニック風デザインの錦二十匹などをもたらした。”
【解説】
卑弥呼のあとを継いだ壹与(いよ)が、魏の皇帝に朝貢した品々です。真珠、青玉、錦が倭国を代表する特産品だったことがうかがえます。錦とは、
”種々の色糸を使って模様を織り出した多彩色の織物の総称。
錦は、『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)に異文雑錦(いもんざっきん)・倭錦(わきん)とみえるのが初見であるが、これは当時の事情から推して複雑な織機を使用したものではなく、簡単な縞織に類するものを錦とよんだのであろう。”(日本大百科全書(ニッポニカ))

他にも、動植物に関する記載もありますが、判然としないので、割愛します。

以上から、邪馬台国であるならば、遺跡・出土物には、以下の特徴があることが条件となります。
1.紀元前後から継続している遺跡である。
2.周辺含めた全体領域は、33000ha以上,人口は40~50万人に及ぶ。
3.海辺にあり、漁業を中心としている。
4.稲・麻を栽培している。
5.養蚕を行い、絹織物を生産している。錦も生産している。はいない。
6.、盾、弓、鉄や骨の矢じりを兵器として、常備している。
7.南方系の風習である。
8.棺はあるが、
槨(かく)はない。埋葬してから盛り土する。
9.真珠・青玉が採れる。
10.丹(硫化水銀)が採れる。
11.宮殿・楼閣・倉庫(高床式)・城柵がある。
12.大きな戦いが幾度かあり、多くの戦死者が出た。


だいぶイメージが浮かび上がってきました。

では纏向遺跡は、この条件に合致してるでしょうか?

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纏向遺跡は邪馬台国か?(1)~まずは遺跡の整理から

前回までで、イネ・土器・銅鐸・古墳などのさまざまなデータから、日本古代史の動きを推定してきました。さらにそれらの動きを時系列的・横断的に整理して、史書に記されてい史実と対比させると、興味深い関連性があることも、お話しました。
年表
それらをさらに極めていきたいと考えてます。

今回は、大和(奈良県)の纏向(まきむく)遺跡です。

纏向遺跡といえば、最近遺跡の発掘が進み、時期や規模の大きさ、出土物などから、邪馬台国ではないか、との報道がしばしばされていることは、承知のことと思います。

確かに上の時系列・横断整理表をみても、倭国大乱で卑弥呼が共立され国が治まった時期、青銅器祭祀が衰退し、銅鐸が消滅した時期、前方後円墳が築造され始めた時期、が3世紀前後であり、纏向にて巨大都市が造営され始めた時期と、ほぼ重なります。

こうしたことから、「纏向遺跡=邪馬台国」論に真実性があると捉えられるのも、無理からぬところはあると言えます。

しかしながらその結論は、あまりに拙速でしょう。

邪馬台国の様子は、中国史書「三国志魏志倭人伝」に文化・風習はじめ、事細かに記載されてます。まずそれらと合致しているのか、という問題があります。

また邪馬台国の候補地としては、国内だけでも数多くあるわけで、それらと比較して纏向遺跡が比較優位な条件を備えているのか、という視点も不可欠です。

それらを満たして初めて、「纏向遺跡=邪馬台国」論が真実味を帯びてきます。

魏志倭人伝には、邪馬台国の人口を、7万戸と記載してます。1戸当たり何人かは定かではありませんが、仮に1戸当たり6~7人とすると、42万人~49万人となります。とてつもない巨大都市ですね。

では、邪馬台国があったとされる弥生時代後期(3世紀前後)に、日本に大規模な集落がどれだけあるのかをみてみましょう。
弥生時代集落



関東以西に限っても、多くの集落があったことがわかります。

規模の大きな遺跡を挙げれば、畿内では、唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡が有名です。
・奈良盆地の中央にある弥生時代前期から古墳時代前期の環濠集落遺跡。外濠を含めた全体では約42ha(万平方メートル)の面積で、大型建物や高床・竪穴住居、木器貯蔵穴などの遺構で構成されている。
・出土遺物は土器、農工具・容器などの木製品、石鏃や石包丁などの石器、骨角器、卜骨などの祭祀遺物、炭化米、種子、獣骨類など多種多様な遺物、さらには銅鐸の鋳型などの鋳造関係遺物、褐鉄鉱容器に入ったヒスイ製勾玉、楼閣が描かれた絵画土器など特殊な遺物も出土してます。
近畿地方の盟主的な集落と考えられてます(田原本町唐古・鍵総合サイトより)。

<復元楼閣>

唐古鍵遺跡復元楼閣 
(Wikipediaより)

池上・曽根遺跡
は、大阪府和泉市と泉大津市にまたがる弥生時代中期の環濠集落で、面積約60haにもわたります。
東奈良遺跡は、大阪府茨木市にある弥生時代前期から中世におよぶ集落址です。範囲は800m四方におよび、銅鐸(どうたく)、銅戈(どうか)、勾玉(まがたま)の鋳型などが大量に発見され、これら、銅鐸などの製造地です。

一方九州では、吉野ヶ里遺跡が有名です。
・佐賀県神埼郡にある、弥生時代の大規模環濠集落で、面積は約50ha。最大の特徴とされるのが集落の防御に関連した遺構で、木柵、土塁、逆茂木(さかもぎ)といった敵の侵入を防ぐ柵、見張りや威嚇のための物見櫓が環濠内に複数置かれていた。
・祭祀が行われる主祭殿、東祭殿、斎堂、食料を保管する高床式倉庫、貯蔵穴、土坑、青銅器製造の跡なども発掘、墓地は、甕棺、石棺、土坑墓、墳丘墓。
・出土物には、多数の土器、石器、青銅器、鉄器、木器、勾玉や管玉などのアクセサリー類、銅剣、銅鏡、織物、布製品などの装飾品や祭祀に用いられるものなどがある。(Wikipediaより)

<南内郭 ~王や支配者層が住んでいた場所~>
吉野ヶ里遺跡 
(吉野ヶ里歴史公園HPより)

福岡平野東側には、比恵・那珂遺跡があります。参照資料にはなぜか記載されてませんが、一帯とみなしうる周辺遺跡と合わせて面積は数百haにも及びます。一般的には「奴国」跡とされますが、私は「邪馬台国」ではないかとみてます。詳細はのちほどお話いたします。

他にも、福岡市糸島市の井原・南雲遺跡(約41 ha)、福岡県朝倉市の平塚川添遺跡(約17ha)などあります。

山陰地方では、妻木晩田(むきばんだ)遺跡が大規模遺跡です。鳥取県西伯郡から米子市かけて所在しており、面積は約156haにも及びます。
弥生時代中古末(1世紀前半)~古墳時代前期(3世紀前半)の遺跡で、弥生時代後期に栄えた古代出雲の中心地と考えらえれてます。
集落関係では竪穴住居395基、掘建柱建物跡502基、墳丘墓(四隅突出型墳丘墓含む)24基、環壕等が検出されてます。土器、石器(調理具・農工具・狩猟具・武器)、鉄器(農工具・武器)、破鏡等が出土している(Wikipediaより)。
 
妻木晩田遺跡
(鳥取県大山町役場 観光商工課HP、観光マップより)

あまり知られていませんが、特徴的な遺跡として、滋賀県守山市・栗東市の伊勢遺跡があります。弥生時代後期(紀元1世紀末から2世紀末にかけて栄えていた)遺跡で、面積は約30haにも及びます 。
特筆すべきこととして、
弥生後期、近畿地方では、中期の巨大環濠集落が解体して、小さな集落に分散するなかで、伊勢遺跡のように巨大化する遺跡は稀です。
・さまざまな形式の大型建物が計13棟も発見されており、それらが円と方形(発掘はL字形の部分)の組み合わせて計画的に配置されています。直径220mの円周上に等間隔に配列された祭殿群、中心部には方形に配列された大型建物がならび、柵によって囲われています。そばには楼観が建っています。 建物の型式・配列から見て、巨大な祭祀空間が存在していたと考えられています。伊勢神宮の神明造りや出雲の大社作りとよく似た様式のものがあり、先駆的な建物として関連性が注目されます。
・このような大規模な遺跡であるにも関わらず、大勢の人たちが日常的に生活していたような痕跡が見当たりません。
・弥生時代後期半ばに、何もない扇状地に突然現れて巨大化し、後期末にはその使命を終えます。それは、紀元1世紀後半から2世紀末と考えられ、祭祀空間として栄えるのは 100年程度の短い間です。 。(NPO法人 守山弥生遺跡研究会HPより)

<伊勢遺跡の建物(復元想像図)、後ろは三上山(近江富士) >

伊勢遺跡 
(CG制作:MKデザイン 小谷正澄氏、NPO法人 守山弥生遺跡研究会HPより)

また東海地方では、愛知県の朝日遺跡が知られてます。弥生時代の東海地方最大の環濠集落で、面積は80haにも及びます。最古型式である菱環紐式銅鐸の石製鋳型が出土しました。尾張地域を特徴付ける赤彩土器(パレス・スタイル土器)も出土してます。

朝日遺跡赤彩土器 
(朝日遺跡インターネット博物館、愛知県教育委員会HPより)

以上主な弥生時代の集落を紹介しましたが、全国各地に多くの集落遺跡があったことが確認できます。未発掘のものも数多くあると推定されますから、さらに多くの集落があったことでしょう。

ところで、ここまでで纏向遺跡がないことに、あれっと思われたことも多いのではないでしょうか?

実は、纏向遺跡には、大集落跡が未だに発見されてません。そのため、参照した資料に記載されなかったのかもしれません。となると、それだけで「纏向遺跡=邪馬台国」説は成立しなくなるのですが、それではここで話が終わってしまいます。今後の発掘により発見される可能性もあるので、結論づけることはできません。その他の要素もみながら、総合的に推定すべきでしょう。それはのちほど・・・。

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まとめ~土器、銅鐸、古墳、イネが語る古代日本の真実

ここまで長らく、土器、銅鐸、古墳、イネについて、科学的データからみてきました。それぞれを時系列でみれば、複雑かつダイナミックな動きがあったことが改めてわかりました。

その動きを歴史のなかでとらえれば、「西→東」という大きな流れがあったと言えるわけです。もちろん細部についてはいろいろあるでしょうが、鳥瞰的にみれば、そのような流れがあったことは、明らかです。

これまではそうした動きを個別にみてきたわけですが、今回はそれらを横断的に並べてみて、それぞれどのような関連があるのか、そして史書などから推測される史実とどのような関係性になるのか、を考えていきます。

まずは、それぞれのデータを、年表の形で整理します。

年表

左から順に説明しますと、
・イネは、縄文時代に伝わったのですが、それは熱帯ジャポニカで(陸稲)であり、紀元前10世紀頃に温帯ジャポニカ(水稲)が大陸から伝わりました。3つの大きな波があり、第一波は紀元前7~同8世紀頃で朝鮮半島から、第二波は紀元前5~同4世紀頃で中国長江下流域から、第三波は紀元前3~同2世紀頃です(渡来元は不明)。
・土器は、皆さんご存知のとおり縄文時代から盛んに作られたました(縄文土器)。いわゆる弥生式土器が大陸から伝わったのが、紀元前8~同7世紀頃と推定されます。その後、日本国内で、庄内式土器、布留式土器へと発展しました。
・青銅器は、紀元前5世紀頃に伝わったと推定されてます。その後、銅鐸が国内で作られるようになり、銅鐸祭祀が隆盛を極めますが、3世紀頃に忽然と姿を消します。
・鉄器も、青銅器と前後して伝わったようです。
・墳墓は、紀元前から支石墓、周溝墓などが伝わり造られました。その後墳丘が築かれ始めます。出雲など山陰地方では、四隅突出型墳丘墓という独特の墳墓が築造されますが、3世紀頃には、姿を消します。
・古墳時代に造られた墳丘墓を古墳といいますが、特に3世紀以降に前方後円墳が盛んに造られ始め、次第に東へと広がりました。

概略は以上のとおりです。

ではこうした動きは、国内の政治状況など国内の史実と、どのような関係になるでしょうか?
まったく無関係でしょうか?

そんなはずはありません。強い関連性があるはずです。なぜなら、こうした文化・文明をもつことは大きなメリットとなる一方、手に入れるには大きな財力が必要だからです。一般大衆単独ではできないことであり、支配・被支配の関係を生み出すものだからです。

このように強い関連性があることが推定されるものの、今までこうした動きを横断的にとらえた論調は少ないようです。ここでは、まず時系列ごとに横断的に整理して、そこから考えたいと思います。

表の右側に、主な動きを記しました。
・まずなんと言っても、古代の日本列島をゆるがした一大事は、国譲り・天孫降臨でしょう。具体的には、対馬・壱岐を拠点としていた海人族が、九州北部に侵攻した史実を、脚色したものと考えます。時期としては、紀元前5~同4世紀(あるいは紀元前3~同2世紀)ころのことと推定します。
・その後次第に勢力を拡大、倭国を形成します。
・倭国の傍系である神武天皇が九州日向より東征して、大和に進入、橿原にて即位します。これを紀元前1世紀前半と推定してます。
・倭国は57年に中国に朝貢して、金印「漢倭奴国王」を拝受されます。
・倭国内が乱れ(倭国大乱)て、女王卑弥呼が共立され、国が治まります(3世紀ころ)。
・卑弥呼の死後、再び国が乱れ、壹与を立て、国が治まります(3世紀中ごろ)。
倭の五王の時代となり、朝鮮半島に出征します
(5世紀ころ)。

こうして横断的に並列すると、興味深いことがわかります。大きなものを二つ挙げます。

A.紀元前8~同7世紀ころ遠賀川式土器が作られるようになってしばらくしてから青銅器・鉄器が伝わります。中国大陸から
イネの伝搬第二波がやってきます。九州北部では、甕棺墓が盛んになります。これらの時期は紀元前5~同4世紀ころとみられますが、ほぼ国譲り・天孫降臨と同時代です。

B.青銅器祭祀が衰退して銅鐸が消滅し、四隅突出型墳丘墓が作られなくなった3世紀ころは、倭国大乱ののち、卑弥呼が共立され国が治まった時期です。そのころ畿内の纏向に突如として都市が出現し、前方後円墳が、盛んに造られるようになります。


Aの天孫降臨すなわち弥生人渡来の時期が、水田稲作・弥生土器・青銅器・鉄器・甕棺墓などの伝搬時期と重なってくるというのは、なんとなく感覚的にも理解できると思います。
なお天孫降臨の時期については、紀元前5~同4世紀頃としてますが、古事記の解釈の仕方によっては、紀元前3~同2世紀頃の可能性もあります。
詳しくは
"一年で二回の年を数えたという「二倍年歴」説は本当か?(6) ~ 「国譲り」と「天孫降臨」はいつだったのか?"
を参照ください。
その場合は、イネの第三波渡来の時期と重なります。

一方、Bの倭国大乱ののち卑弥呼が共立され、国が治まった時期が、青銅器祭祀・銅鐸祭祀が衰退し、畿内の纏向にて巨大都市が突如出現して、前方後円墳が築造されるようになった時期と重なることは、さまざまな推測がされてます。
たとえば、
・倭国大乱を治めた卑弥呼が畿内に邪馬台国を造ったのではないか?
・神武天皇東征神話は、このことを象徴化したのではないか?
などなどです。

はたしてどうなのか?。
私はここまでブログでお話しているように、それほど単純に断定できるものではないと考えます。さらに多くの切り口からみていく必要があります。

最近の報道で盛んに「邪馬台国」ではないかとされる奈良県の纏向(まきむく)遺跡などは、その一つです。はたして纏向遺跡は、「邪馬台国」の要件を満たしているのか?、という課題の検証が求められます。

というわけで、次回から纏向遺跡について、みていきます。

<天孫降臨絵図>・・・彼らは、イネ・鉄器・青銅器を携えてやってきたのか?

天孫降臨

(狩野探道作)

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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