纏向遺跡は邪馬台国か(7)~広域地域圏という概念
前回、邪馬台国の広さを仮定したところ、奈良盆地だけでは納まりきらないことをお話しました。
こうなると邪馬台国畿内説が成立しなくなります。
一方、広域地域圏という考え方があります。簡単に言うと、邪馬台国はひとつのクニではなく、近隣の多数のクニの連合国家だ、という概念です。興味深い論文があるので、紹介します。
「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」(岸本直文、国立歴史民俗博物館研究報告 第185 集 2014 年2 月)からです。
論文は、まずC14炭素同位体測定法による土器の年代測定の話から入ってます。結論だけいうと、「第Ⅴ様式土器」については、2世紀前葉までとして、庄内0式(纏向1式≒大和Ⅵ4)を2世紀第2四半期頃としてます。
これが何を意味するかというと、纏向遺跡の形成=庄内式土器の開始という考古学的事象から、纏向遺跡の開始を従来の「3世紀頃」から「2世紀前半」まで遡ることができる、ということです。これにより、従来評価が低かった畿内の弥生時代の評価を上げることができることになる、というわけです。
ようは、今まで「邪馬台国=纏向遺跡」説の大きな障害は、纏向遺跡は卑弥呼登場の3世紀頃に突然出現する遺跡のため、それ以前は何もなかったではないか、という疑問に応えられなかったことですが、纏向遺跡の開始が古くなれば、その疑問に答えられるということです。
もっともこの国立歴史民俗博物館の年代測定は、多くの論者から疑問の声が挙がっており、決着をみてません。今後の科学者による研究成果を待ちたいと思いますので、ここでは以上にとどめます。
次に、ヤマト国の形成というテーマになります。
”弥生時代中期末の紀元前1世紀、北部九州のナ国とイト国が二大国に成長して、中国王朝と結びつき、北部九州に大きな影響を及ぼしていた。東方でも環濠集落が規模を拡大して、緊張が高まっていた。
1世紀に入り激動の弥生時代後期となる。北陸や濃尾平野まで西日本諸地域において、急速に広域地域圏が形成される。土器の地域色が強まり、独自の大型墳墓を発展させる地域も現れる。弥生後期に形成される畿内圏もそのひとつである。”
として、弥生時代後期に、畿内において広域地域圏が形成された、としてます。その畿内の様相ですが、
”近畿地方の弥生時代中期までの拠点集落は、後期に入ると存続しないものが多く、解体して小規模集落が広がる。これは共通した外部要因・大きな強制力が働いているとみられる。銅鐸の埋納はこれと連動する。
しかしながら中河内や大和南部の拠点集落は存続する。河内の亀井遺跡や大和の唐古・鍵遺跡がその代表である。”
”中河内や大和南部で成立した「第Ⅴ様式土器」が、弥生時代後期に、近畿地方で斉一化すること、及び中河内や大和南部の拠点集落が存続していることから、この頃、両地域の主導勢力が、畿内圏を形成した。それは武力的圧力をかけての覇権行為であった。”
つまり「第Ⅴ様式土器」の発祥と拠点集落の存続という2点からみて、中河内と大和南部の勢力が畿内統一を主導した、と断定してます。
この広域地域圏は、北陸や東海までの西日本各地で形成された、としてます。
”このうちの畿内圏が、のちに「邪馬台国」と呼ばれるヤマト国である。この形成には鉄器化の進行が大きく作用した。鉄素材は朝鮮半島南部に依存することから、その安定した確保には、他地域との関係構築が不可欠である。”
として、「鉄」の確保が広域地域圏の形成を進行させた、としてます。
よくあるストーリーであり、もっともらしいですね。
ところがです、肝心要の「鉄」が、弥生時代後期のヤマト国からは、さほど出土してないのです。この点に関して、岸本氏はどのように説明しているでしょうか?
"弥生時代後期のヤマト国の評価は高くない。これまでの鉄器出土量は多くなく、吉備・出雲・丹後のような大型墳丘墓はないとされる。”
として、畿内の評価の低さを認めてます。
ところがここで、
”ヤマト国を主導する中河内・大和南部は広い平野部を擁し、生活拠点も墳墓も低地部にあり、遺跡の実態は、まだ限定的にしか明らかになっていない。”
という解釈をしてます。
ようはこれから畿内でどんどん鉄器が出土するのだ、という予言的な論調です。
そして、(1)畿内の潜在的生産性(農業生産力)、(2)青銅器生産、(3)武器の発達、(4)「見る銅鐸」、(5)鉄器化の進行、(6)中国鏡の入手、といった観点から論を進め、
”鉄器の少なさや王墓の不在をもって、簡単に結論を下す論調には同意しがたい。”
と主張されてます。
さらに、
”畿内のヤマト国王が倭国王とされるのは、2世紀はじめにさかのぼり、その時期は、、纏向遺跡の外来系土器の出土の頃である。2世紀初めの頃には、中国鏡の量は北部九州と匹敵するようになっていた。”
としてます。
そして、「後漢書倭伝」にある倭国王帥升らによる中国皇帝への朝貢(107年)とほぼ同じ時期である、としてます。
私はこうした考えを、頭ごなしに否定するつもりはありません。しかしながら、このような考え方が成立するためには、大きなハードルがあることは、充分に認識しなくてはいけないでしょう。
まず初めに確定しなくてはいけないことは、年代測定の件です。
国立歴史民俗博物館のC14炭素同位体測定法による年代測定に対しては、多くの学者からも古く出過ぎているとの指摘があり、それに対して、答えなくてはなりません。これが成立しないと、以後のすべての推論が、不成立になるからです。
仮に年代が正しかったとします。
次の問題は、「矛」の問題があります。魏志倭人伝において、「矛」が重要な武器であると記載されていることは、すでにお話ししたとおりですが、ヤマト国の広域地域圏が銅矛圏にないことは、明らかです。この矛盾を説明しなくてはいけませんが、説明はありません。

(「弥生銅鐸のGIS解析ー密度分布と埋納地からの可視領域ー」吉田広他より)
そして最後に、銅鐸祭祀の問題です。
広域地域圏の祭祀が、「銅鐸祭祀」であったことは、論文記載のとおりです。
では、纏向遺跡で銅鐸祭祀が行われていたのか?、という疑問があります。
確かに、銅鐸片は出土してますが、それが遺跡での祭祀に使用されたかどうかは、わかりません。周辺遺跡では、銅鐸が破砕され、他の青銅器に改変されたと思われるものもあります。
もし纏向遺跡において銅鐸祭祀が行われていなかったのであれば、文化が異なるわけですから、広域地域圏は成立しません。
岸本氏は、纏向遺跡で銅鐸祭祀は行われていたと主張しているように読めます。ではなぜその銅鐸祭祀が、纏向遺跡出現頃、もしくはしばらくして消滅したのか?、という根本的な疑問に答える必要があります。
岸本氏は、広域地域圏の成立を、鉄器の進行等による地域ネットワークの必要性の高まりとしてます。それはそれでいいとしても、ではなぜ銅鐸祭祀が消滅したのか?、について、
”中河内や大和南部の勢力が、武力的圧力をかけての覇権行為により、畿内圏を形成したことに連動した。”
としてます。
つまり同じ畿内の一部の勢力であった中河内や大和南部の勢力が畿内統一した、その際に、銅鐸祭祀という文化を捨て去ったという解釈です。いわば、「畿内というコップのなかの覇権争い」の結、ということです。
しかしながら、中河内や大和南部の勢力は、もともとは銅鐸祭祀文化をもった勢力です。畿内を統一したといって、数百年にわたって継続して行われてきた祭祀の様式を、簡単にやめるわけがありません。
それは現代でも同じです。たとえば神道にしても、太平洋戦争敗戦後、国家神道として禁止されたにもかかわらず、現代においても脈々と受け継がれています。普段関心をもたない人でも、正月には初詣にいったりしますね。ましてや古代社会において、先祖から大切に受け継がれてきた祭祀の伝統を、簡単にやめるはずがありません。
ではその要因は何なのか?、です。
普通に考えれば、それは「異文化をもった人々」の侵入と考えるのが自然でしょう。「異文化」とは、銅鐸祭祀の文化をもたない人々です。
では「その異文化をもった人々」とはどこの人々なのか?、です。
銅鐸祭祀をもたない文化の人々であること、および、これまでお話してきたように、イネ、土器、銅鐸、古墳などはすべて西から東へと伝搬していることを考え合わせると、西からやってきた、というのが自然な推論です。
そしてその西とはどこを指すのか?、です。
ここで纏向遺跡内の箸墓古墳出土の特殊壺、宮山型特殊器台、特殊器台型埴輪は、吉備由来であることが知られています。特に特殊壺と宮山型特殊器台は、弥生時代後期後半に吉備の墳墓で使用された葬送儀礼用の土器で、吉備を象徴する土器です。
また同じく纏向遺跡出土の孤文石、孤文板も、吉備由来です。
ここから、纏向遺跡を造った人々は、吉備地域と強い結びつきがあったことが強く推察されます。
そしてもう一つの注目は、鏡の副葬です。鏡の副葬というと、三角縁神獣鏡を想起して、畿内に多いものだ、という固定観念をもちがちです。
ところが、鏡の副葬の風習は、もともとは弥生時代の九州北部の風習です。実際、畿内の弥生時代の墳墓からは、鏡の副葬はありません。それが古墳時代になり、九州北部から畿内に伝わっていったわけです。
となると、纏向遺跡を造った人々は、九州北部の文化を持った人々ではないか?、という仮説が生まれます。
寺沢薫氏(元橿原考古学研究所)は、大和の弥生時代の拠点集落が環濠を埋め廃絶し、纏向遺跡が現れてくることを非連続として理解しました。そして、纏向遺跡を倭王権の成立にともなう王都とみなした上で、”倭国は筑紫を中心とする北部九州勢力と、吉備・播磨・讃岐の東部瀬戸内勢力によって樹立されたもので、イニシアチブは吉備が握っていた。”と述べてます。
ここで先にあげた、吉備と九州北部という二つの地域の名前が、共通していることに注目です。
そして王都たる纏向遺跡が、外部の異文化をもった人々の侵入によるものとすると、邪馬台国は紀元前後から継続しているクニではなくなりますから、邪馬台国としての要件を備えていない、となります。
ところでこうした外部の異文化の人々侵入を、神武天皇の東征神話ととらえる人もいます。
もっともらしく、面白い説ですが、そうは単純にはいきません。
このあたりを見極めるには、もう少し多面的にみていく必要があります。それは次回以降ということで・・・。
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こうなると邪馬台国畿内説が成立しなくなります。
一方、広域地域圏という考え方があります。簡単に言うと、邪馬台国はひとつのクニではなく、近隣の多数のクニの連合国家だ、という概念です。興味深い論文があるので、紹介します。
「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」(岸本直文、国立歴史民俗博物館研究報告 第185 集 2014 年2 月)からです。
論文は、まずC14炭素同位体測定法による土器の年代測定の話から入ってます。結論だけいうと、「第Ⅴ様式土器」については、2世紀前葉までとして、庄内0式(纏向1式≒大和Ⅵ4)を2世紀第2四半期頃としてます。
これが何を意味するかというと、纏向遺跡の形成=庄内式土器の開始という考古学的事象から、纏向遺跡の開始を従来の「3世紀頃」から「2世紀前半」まで遡ることができる、ということです。これにより、従来評価が低かった畿内の弥生時代の評価を上げることができることになる、というわけです。
ようは、今まで「邪馬台国=纏向遺跡」説の大きな障害は、纏向遺跡は卑弥呼登場の3世紀頃に突然出現する遺跡のため、それ以前は何もなかったではないか、という疑問に応えられなかったことですが、纏向遺跡の開始が古くなれば、その疑問に答えられるということです。
もっともこの国立歴史民俗博物館の年代測定は、多くの論者から疑問の声が挙がっており、決着をみてません。今後の科学者による研究成果を待ちたいと思いますので、ここでは以上にとどめます。
次に、ヤマト国の形成というテーマになります。
”弥生時代中期末の紀元前1世紀、北部九州のナ国とイト国が二大国に成長して、中国王朝と結びつき、北部九州に大きな影響を及ぼしていた。東方でも環濠集落が規模を拡大して、緊張が高まっていた。
1世紀に入り激動の弥生時代後期となる。北陸や濃尾平野まで西日本諸地域において、急速に広域地域圏が形成される。土器の地域色が強まり、独自の大型墳墓を発展させる地域も現れる。弥生後期に形成される畿内圏もそのひとつである。”
として、弥生時代後期に、畿内において広域地域圏が形成された、としてます。その畿内の様相ですが、
”近畿地方の弥生時代中期までの拠点集落は、後期に入ると存続しないものが多く、解体して小規模集落が広がる。これは共通した外部要因・大きな強制力が働いているとみられる。銅鐸の埋納はこれと連動する。
しかしながら中河内や大和南部の拠点集落は存続する。河内の亀井遺跡や大和の唐古・鍵遺跡がその代表である。”
”中河内や大和南部で成立した「第Ⅴ様式土器」が、弥生時代後期に、近畿地方で斉一化すること、及び中河内や大和南部の拠点集落が存続していることから、この頃、両地域の主導勢力が、畿内圏を形成した。それは武力的圧力をかけての覇権行為であった。”
つまり「第Ⅴ様式土器」の発祥と拠点集落の存続という2点からみて、中河内と大和南部の勢力が畿内統一を主導した、と断定してます。

この広域地域圏は、北陸や東海までの西日本各地で形成された、としてます。

”このうちの畿内圏が、のちに「邪馬台国」と呼ばれるヤマト国である。この形成には鉄器化の進行が大きく作用した。鉄素材は朝鮮半島南部に依存することから、その安定した確保には、他地域との関係構築が不可欠である。”
として、「鉄」の確保が広域地域圏の形成を進行させた、としてます。
よくあるストーリーであり、もっともらしいですね。
ところがです、肝心要の「鉄」が、弥生時代後期のヤマト国からは、さほど出土してないのです。この点に関して、岸本氏はどのように説明しているでしょうか?
"弥生時代後期のヤマト国の評価は高くない。これまでの鉄器出土量は多くなく、吉備・出雲・丹後のような大型墳丘墓はないとされる。”
として、畿内の評価の低さを認めてます。
ところがここで、
”ヤマト国を主導する中河内・大和南部は広い平野部を擁し、生活拠点も墳墓も低地部にあり、遺跡の実態は、まだ限定的にしか明らかになっていない。”
という解釈をしてます。
ようはこれから畿内でどんどん鉄器が出土するのだ、という予言的な論調です。
そして、(1)畿内の潜在的生産性(農業生産力)、(2)青銅器生産、(3)武器の発達、(4)「見る銅鐸」、(5)鉄器化の進行、(6)中国鏡の入手、といった観点から論を進め、
”鉄器の少なさや王墓の不在をもって、簡単に結論を下す論調には同意しがたい。”
と主張されてます。
さらに、
”畿内のヤマト国王が倭国王とされるのは、2世紀はじめにさかのぼり、その時期は、、纏向遺跡の外来系土器の出土の頃である。2世紀初めの頃には、中国鏡の量は北部九州と匹敵するようになっていた。”
としてます。
そして、「後漢書倭伝」にある倭国王帥升らによる中国皇帝への朝貢(107年)とほぼ同じ時期である、としてます。
私はこうした考えを、頭ごなしに否定するつもりはありません。しかしながら、このような考え方が成立するためには、大きなハードルがあることは、充分に認識しなくてはいけないでしょう。
まず初めに確定しなくてはいけないことは、年代測定の件です。
国立歴史民俗博物館のC14炭素同位体測定法による年代測定に対しては、多くの学者からも古く出過ぎているとの指摘があり、それに対して、答えなくてはなりません。これが成立しないと、以後のすべての推論が、不成立になるからです。
仮に年代が正しかったとします。
次の問題は、「矛」の問題があります。魏志倭人伝において、「矛」が重要な武器であると記載されていることは、すでにお話ししたとおりですが、ヤマト国の広域地域圏が銅矛圏にないことは、明らかです。この矛盾を説明しなくてはいけませんが、説明はありません。

(「弥生銅鐸のGIS解析ー密度分布と埋納地からの可視領域ー」吉田広他より)
そして最後に、銅鐸祭祀の問題です。
広域地域圏の祭祀が、「銅鐸祭祀」であったことは、論文記載のとおりです。
では、纏向遺跡で銅鐸祭祀が行われていたのか?、という疑問があります。
確かに、銅鐸片は出土してますが、それが遺跡での祭祀に使用されたかどうかは、わかりません。周辺遺跡では、銅鐸が破砕され、他の青銅器に改変されたと思われるものもあります。
もし纏向遺跡において銅鐸祭祀が行われていなかったのであれば、文化が異なるわけですから、広域地域圏は成立しません。
岸本氏は、纏向遺跡で銅鐸祭祀は行われていたと主張しているように読めます。ではなぜその銅鐸祭祀が、纏向遺跡出現頃、もしくはしばらくして消滅したのか?、という根本的な疑問に答える必要があります。
岸本氏は、広域地域圏の成立を、鉄器の進行等による地域ネットワークの必要性の高まりとしてます。それはそれでいいとしても、ではなぜ銅鐸祭祀が消滅したのか?、について、
”中河内や大和南部の勢力が、武力的圧力をかけての覇権行為により、畿内圏を形成したことに連動した。”
としてます。
つまり同じ畿内の一部の勢力であった中河内や大和南部の勢力が畿内統一した、その際に、銅鐸祭祀という文化を捨て去ったという解釈です。いわば、「畿内というコップのなかの覇権争い」の結、ということです。
しかしながら、中河内や大和南部の勢力は、もともとは銅鐸祭祀文化をもった勢力です。畿内を統一したといって、数百年にわたって継続して行われてきた祭祀の様式を、簡単にやめるわけがありません。
それは現代でも同じです。たとえば神道にしても、太平洋戦争敗戦後、国家神道として禁止されたにもかかわらず、現代においても脈々と受け継がれています。普段関心をもたない人でも、正月には初詣にいったりしますね。ましてや古代社会において、先祖から大切に受け継がれてきた祭祀の伝統を、簡単にやめるはずがありません。
ではその要因は何なのか?、です。
普通に考えれば、それは「異文化をもった人々」の侵入と考えるのが自然でしょう。「異文化」とは、銅鐸祭祀の文化をもたない人々です。
では「その異文化をもった人々」とはどこの人々なのか?、です。
銅鐸祭祀をもたない文化の人々であること、および、これまでお話してきたように、イネ、土器、銅鐸、古墳などはすべて西から東へと伝搬していることを考え合わせると、西からやってきた、というのが自然な推論です。
そしてその西とはどこを指すのか?、です。
ここで纏向遺跡内の箸墓古墳出土の特殊壺、宮山型特殊器台、特殊器台型埴輪は、吉備由来であることが知られています。特に特殊壺と宮山型特殊器台は、弥生時代後期後半に吉備の墳墓で使用された葬送儀礼用の土器で、吉備を象徴する土器です。
また同じく纏向遺跡出土の孤文石、孤文板も、吉備由来です。
ここから、纏向遺跡を造った人々は、吉備地域と強い結びつきがあったことが強く推察されます。
そしてもう一つの注目は、鏡の副葬です。鏡の副葬というと、三角縁神獣鏡を想起して、畿内に多いものだ、という固定観念をもちがちです。
ところが、鏡の副葬の風習は、もともとは弥生時代の九州北部の風習です。実際、畿内の弥生時代の墳墓からは、鏡の副葬はありません。それが古墳時代になり、九州北部から畿内に伝わっていったわけです。
となると、纏向遺跡を造った人々は、九州北部の文化を持った人々ではないか?、という仮説が生まれます。
寺沢薫氏(元橿原考古学研究所)は、大和の弥生時代の拠点集落が環濠を埋め廃絶し、纏向遺跡が現れてくることを非連続として理解しました。そして、纏向遺跡を倭王権の成立にともなう王都とみなした上で、”倭国は筑紫を中心とする北部九州勢力と、吉備・播磨・讃岐の東部瀬戸内勢力によって樹立されたもので、イニシアチブは吉備が握っていた。”と述べてます。
ここで先にあげた、吉備と九州北部という二つの地域の名前が、共通していることに注目です。
そして王都たる纏向遺跡が、外部の異文化をもった人々の侵入によるものとすると、邪馬台国は紀元前後から継続しているクニではなくなりますから、邪馬台国としての要件を備えていない、となります。
ところでこうした外部の異文化の人々侵入を、神武天皇の東征神話ととらえる人もいます。
もっともらしく、面白い説ですが、そうは単純にはいきません。
このあたりを見極めるには、もう少し多面的にみていく必要があります。それは次回以降ということで・・・。
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