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纏向遺跡は邪馬台国か(7)~広域地域圏という概念

前回、邪馬台国の広さを仮定したところ、奈良盆地だけでは納まりきらないことをお話しました。

こうなると邪馬台国畿内説が成立しなくなります。

一方、広域地域圏という考え方があります。簡単に言うと、邪馬台国はひとつのクニではなく、近隣の多数のクニの連合国家だ、という概念です。興味深い論文があるので、紹介します。
「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」(岸本直文、国立歴史民俗博物館研究報告 第185 集 2014 年2 月)からです。

論文は、まずC14炭素同位体測定法による土器の年代測定の話から入ってます。結論だけいうと、「第Ⅴ様式土器」については、2世紀前葉までとして、庄内0式(纏向1式≒大和Ⅵ4)を2世紀第2四半期頃としてます。

これが何を意味するかというと、纏向遺跡の形成=庄内式土器の開始という考古学的事象から、纏向遺跡の開始を従来の「3世紀頃」から「2世紀前半」まで遡ることができる、ということです。これにより、従来評価が低かった畿内の弥生時代の評価を上げることができることになる、というわけです。

ようは、今まで「邪馬台国=纏向遺跡」説の大きな障害は、纏向遺跡は卑弥呼登場の3世紀頃に突然出現する遺跡のため、それ以前は何もなかったではないか、という疑問に応えられなかったことですが、纏向遺跡の開始が古くなれば、その疑問に答えられるということです。

もっともこの国立歴史民俗博物館の年代測定は、多くの論者から疑問の声が挙がっており、決着をみてません。今後の科学者による研究成果を待ちたいと思いますので、ここでは以上にとどめます。

次に、ヤマト国の形成というテーマになります。

”弥生時代中期末の紀元前1世紀、北部九州のナ国とイト国が二大国に成長して、中国王朝と結びつき、北部九州に大きな影響を及ぼしていた。東方でも環濠集落が規模を拡大して、緊張が高まっていた。
1世紀に入り激動の弥生時代後期となる。北陸や濃尾平野まで西日本諸地域において、急速に広域地域圏が形成される。土器の地域色が強まり、独自の大型墳墓を発展させる地域も現れる。弥生後期に形成される畿内圏もそのひとつである。”


として、弥生時代後期に、畿内において広域地域圏が形成された、としてます。その畿内の様相ですが、

”近畿地方の弥生時代中期までの拠点集落は、後期に入ると存続しないものが多く、解体して小規模集落が広がる。これは共通した外部要因・大きな強制力が働いているとみられる。銅鐸の埋納はこれと連動する。
しかしながら中河内や大和南部の拠点集落は存続する。河内の亀井遺跡や大和の唐古・鍵遺跡がその代表である。”

”中河内や大和南部で成立した「第Ⅴ様式土器」が、弥生時代後期に、近畿地方で斉一化すること、及び中河内や大和南部の拠点集落が存続していることから、この頃、両地域の主導勢力が、畿内圏を形成した。それは武力的圧力をかけての覇権行為であった。”

つまり「第Ⅴ様式土器」の発祥と拠点集落の存続という2点からみて、中河内と大和南部の勢力が畿内統一を主導した、と断定してます。

ヤマト国
この広域地域圏は、北陸や東海までの西日本各地で形成された、としてます。
広域地域圏

”このうちの畿内圏が、のちに「邪馬台国」と呼ばれるヤマト国である。この形成には鉄器化の進行が大きく作用した。鉄素材は朝鮮半島南部に依存することから、その安定した確保には、他地域との関係構築が不可欠である。”

として、「鉄」の確保が広域地域圏の形成を進行させた、としてます。

よくあるストーリーであり、もっともらしいですね。

ところがです、肝心要の「鉄」が、弥生時代後期のヤマト国からは、さほど出土してないのです。この点に関して、岸本氏はどのように説明しているでしょうか?

"弥生時代後期のヤマト国の評価は高くない。これまでの鉄器出土量は多くなく、吉備・出雲・丹後のような大型墳丘墓はないとされる。”
として、畿内の評価の低さを認めてます。

ところがここで、
”ヤマト国を主導する中河内・大和南部は広い平野部を擁し、生活拠点も墳墓も低地部にあり、遺跡の実態は、まだ限定的にしか明らかになっていない。”
という解釈をしてます。

ようはこれから畿内でどんどん鉄器が出土するのだ、という予言的な論調です。

そして、(1)畿内の潜在的生産性(農業生産力)、(2)青銅器生産、(3)武器の発達、(4)「見る銅鐸」、(5)鉄器化の進行、(6)中国鏡の入手、といった観点から論を進め、
”鉄器の少なさや王墓の不在をもって、簡単に結論を下す論調には同意しがたい。”
と主張されてます。

さらに、
畿内のヤマト国王が倭国王とされるのは、2世紀はじめにさかのぼり、その時期は、、纏向遺跡の外来系土器の出土の頃である。2世紀初めの頃には、中国鏡の量は北部九州と匹敵するようになっていた。”
としてます。

そして、「後漢書倭伝」にある倭国王帥升らによる中国皇帝への朝貢(107年)とほぼ同じ時期である、としてます。

私はこうした考えを、頭ごなしに否定するつもりはありません。しかしながら、このような考え方が成立するためには、大きなハードルがあることは、充分に認識しなくてはいけないでしょう。

まず初めに確定しなくてはいけないことは、年代測定の件です。

国立歴史民俗博物館のC14炭素同位体測定法による年代測定に対しては、多くの学者からも古く出過ぎているとの指摘があり、それに対して、答えなくてはなりません。これが成立しないと、以後のすべての推論が、不成立になるからです。

仮に年代が正しかったとします。
次の問題は、「矛」の問題があります。魏志倭人伝において、「矛」が重要な武器であると記載されていることは、すでにお話ししたとおりですが、ヤマト国の広域地域圏が銅矛圏にないことは、明らかです。この矛盾を説明しなくてはいけませんが、説明はありません。

銅鐸分布

(「弥生銅鐸のGIS解析ー密度分布と埋納地からの可視領域ー」吉田広他より)

そして最後に、銅鐸祭祀の問題です。

広域地域圏の祭祀が、「銅鐸祭祀」であったことは、論文記載のとおりです。

では、纏向遺跡で銅鐸祭祀が行われていたのか?、という疑問があります。

確かに、銅鐸片は出土してますが、それが遺跡での祭祀に使用されたかどうかは、わかりません。周辺遺跡では、銅鐸が破砕され、他の青銅器に改変されたと思われるものもあります。

もし纏向遺跡において銅鐸祭祀が行われていなかったのであれば、文化が異なるわけですから、広域地域圏は成立しません。

岸本氏は、纏向遺跡で銅鐸祭祀は行われていたと主張しているように読めます。ではなぜその銅鐸祭祀が、纏向遺跡出現頃、もしくはしばらくして消滅したのか?、という根本的な疑問に答える必要があります。

岸本氏は、広域地域圏の成立を、鉄器の進行等による地域ネットワークの必要性の高まりとしてます。それはそれでいいとしても、ではなぜ銅鐸祭祀が消滅したのか?、について、
”中河内や大和南部の勢力が、武力的圧力をかけての覇権行為により、畿内圏を形成したことに連動した。”
としてます。

つまり同じ畿内の一部の勢力であった中河内や大和南部の勢力が畿内統一した、その際に、銅鐸祭祀という文化を捨て去ったという解釈です。いわば、「畿内というコップのなかの覇権争い」の結、ということです。

しかしながら、中河内や大和南部の勢力は、もともとは銅鐸祭祀文化をもった勢力です。畿内を統一したといって、数百年にわたって継続して行われてきた祭祀の様式を、簡単にやめるわけがありません。

それは現代でも同じです。たとえば神道にしても、太平洋戦争敗戦後、国家神道として禁止されたにもかかわらず、現代においても脈々と受け継がれています。普段関心をもたない人でも、正月には初詣にいったりしますね。ましてや古代社会において、先祖から大切に受け継がれてきた祭祀の伝統を、簡単にやめるはずがありません。

ではその要因は何なのか?、です。

普通に考えれば、それは「異文化をもった人々」の侵入と考えるのが自然でしょう。「異文化」とは、銅鐸祭祀の文化をもたない人々です。

では「その異文化をもった人々」とはどこの人々なのか?、です。

銅鐸祭祀をもたない文化の人々であること、および、これまでお話してきたように、イネ、土器、銅鐸、古墳などはすべて西から東へと伝搬していることを考え合わせると、西からやってきた、というのが自然な推論です。

そしてその西とはどこを指すのか?、です。

ここで纏向遺跡内の箸墓古墳出土の特殊壺、宮山型特殊器台、特殊器台型埴輪は、吉備由来であることが知られています。特に特殊壺と宮山型特殊器台は、弥生時代後期後半に吉備の墳墓で使用された葬送儀礼用の土器で、吉備を象徴する土器です。

また同じく纏向遺跡出土の孤文石、孤文板も、吉備由来です。

ここから、纏向遺跡を造った人々は、吉備地域と強い結びつきがあったことが強く推察されます。

そしてもう一つの注目は、鏡の副葬です。鏡の副葬というと、三角縁神獣鏡を想起して、畿内に多いものだ、という固定観念をもちがちです。

ところが、鏡の副葬の風習は、もともとは弥生時代の九州北部の風習です。実際、畿内の弥生時代の墳墓からは、鏡の副葬はありません。それが古墳時代になり、九州北部から畿内に伝わっていったわけです。

となると、纏向遺跡を造った人々は、九州北部の文化を持った人々ではないか?、という仮説が生まれます。

寺沢薫氏(元橿原考古学研究所)は、大和の弥生時代の拠点集落が環濠を埋め廃絶し、纏向遺跡が現れてくることを非連続として理解しました。そして、纏向遺跡を倭王権の成立にともなう王都とみなした上で、”倭国は筑紫を中心とする北部九州勢力と、吉備・播磨・讃岐の東部瀬戸内勢力によって樹立されたもので、イニシアチブは吉備が握っていた。”と述べてます。

ここで先にあげた、吉備と九州北部という二つの地域の名前が、共通していることに注目です。

そして王都たる纏向遺跡が、外部の異文化をもった人々の侵入によるものとすると、邪馬台国は紀元前後から継続しているクニではなくなりますから、邪馬台国としての要件を備えていない、となります。

ところでこうした外部の異文化の人々侵入を、神武天皇の東征神話ととらえる人もいます。

もっともらしく、面白い説ですが、そうは単純にはいきません。

このあたりを見極めるには、もう少し多面的にみていく必要があります。それは次回以降ということで・・・。

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纏向遺跡は邪馬台国か?(6)~広さを検証する

前回は、魏志倭人伝の記載と、纏向遺跡を比較すると、11項目のうち、合致しているといえるのはわずか4項目、36%に過ぎないことをお話しました。

今回は、前回検証を飛ばした項目について、みていきます。

その項目とは、「人口」と「面積」です。飛ばした理由は、実態があいまいであり、検証しにくいものだからです。とはいえそれでは話が進みませんから、仮定を設けて進めます。

魏志倭人伝に、「邪馬台国は七万戸余り」とあります。

一戸当たりの人口が何人だったのかはわかりませんが、仮に6~7人と仮定しますと、42万人~49万人という数字にあります。すさまじい人口ですね。「弥生時代に一つの国に、そんなに人がいたわけがない。」と思われた方も多いでしょうが、このまま進めます。

では仮にこの数字が正しかったとすると、どのくらいの広さだったのでしょうか?。

何も記載されていませんが、推定してみます。

すでにお話してますが、再記します。

吉野ヶ里遺跡の面積は、外環濠内で約40ha(400,000㎡),人口は最大時で1200人程度、クニ全体で5400人程度と推定されてます(吉野ヶ里歴史公園HPより)。
ここから外環濠内の人口密度は、
1200人 ÷ 40ha = 30 人/ha
となります。
クニの広さがわかりませんが、環濠の面積の10倍の400haと仮定します。
すると、人口密度は、
5400人 ÷ 400ha =13.5 人/ha
となります。
そうしますと、邪馬台国の人口からみた面積は、人口を45万人として
45万人 ÷  13.5人/ha = 約33,000 ha=約33千ha
となります。

これだけではピンとこないかもしれませんが、
福岡市の面積34,100haに匹敵する広さです。
ちなみに福岡市の現在の人口は約150万人ですから、人口密度は
150万人 ÷ 34100ha = 44人/ha
となります。 
そうなると、邪馬台国の人口密度は、現福岡市の3分の1となります。ずいぶんと高い人口密度ですね。もちろん計算の仮定を変えれば、それに応じて変わります。

感覚的にも、人口45万人とはちょっと多いな、といったところですね。また人口密度も、今の福岡市の3分の1というのも、考えにくいですね。

仮定を変えて、人口を10分の1にして4.5万人、人口密度も10分の1にして、1.35人/haにしましょう。1.35人/haとは、100m×100mの面積に1人強が住んでいることを表しますので、ありえそうですね。

すると面積は、
4.5万人 ÷ 1.35人/ha = 約33,000ha=約33千ha
となります。

あたりまえのことですが、結果は同じですね。

ということで、あくまで仮定の仮定の話にはなりますが、仮定を設定しないと話が進まないので、これで進めます

では仮にこの仮定が正しかったとして、纏向遺跡を含めた地域、すなわち奈良盆地は、これだけの広さがありかつ当時、集落が分布していたのでしょうか。

まず奈良盆地ですが、現在人が住めるような平地は、おおよそ34千haほどあります。この数字だけみると、邪馬台国のクニの広さがあるではないか、と思われるでしょうが、そうは問屋がおろしません。

一つは、当時奈良盆地全体に人が住める状態だったのか、という問題があります。

まず奈良盆地の全体をつかみましょう。

盆地底は標高 40~80mの平坦な沖積地で,大和川の諸支流が集まってます。

”かつては瀬戸内海の前身にあたる海域の一部であったり、淡水の湖沼(こしょう)や沼沢地(しょうたくち)をなしていた時代があった。現在の大和川にあたる河川によって排水が進み、盆地底は次第に陸化した。
山地から奈良盆地に流入した河川によって扇状地が形成される。
「山辺の道」などは山麓扇状地や段丘状になった扇状地上を縫うように通じている。”(奈良検定より)

遠い太古の時代には、海や湖沼だったときもありましたが、扇状地が形成されるとともに、陸地化されたわけです。
弥生時代から古墳時代初頭にかけての時期には、まだ安定しておらず、盆地の中央部から西北の大和川にかけては、網状流路だったことが知られてます。
”川筋が幾本にも別れて、川の中に比較的不安定で小さな島を作った状態で流れ、まるで川が網の目のように流れている状態のことである。”(Wikiediaより)

当時の集落は、山稜と網状流路地帯の間の扇状地や氾濫平野に集中してます。

大和盆地と網状流路 


図中、盆地内の網掛け部分が、網状流路地帯です。 確かに弥生時代の集落は、網状流路地帯(盆地中央部から西北の大和川にかけて)には、ありませんね。ようは河川の氾濫が頻発して、人が定住できなかったということです。

この地域を除いた面積、つまり人が定住できる面積は、おおよそですが、29千haとなります。

冒頭仮定した邪馬台国の面積33千ha以上と比べると、やや狭いですね。

こんなのは誤差の範囲ではないか、と思われる方もいるかもしれませんが、ここで大きな問題があるのです。

ひとつは、奈良盆地内には、弥生時代の遺跡が密にはない、ということです。点在といっていいでしょう。となると、人口も多くは見込めません。

もうひとつは、仮に多くの集落があったとしても、はたしてこの奈良盆地内一帯を、弥生時代ひとつの「クニ」として認定できるのか、という問題です。

一つのクニというからには、同じ文化を共有していることが前提でしょう。

当時の文化の代表的なものに、銅鐸祭祀があります。実際、周辺の唐古・鍵遺跡では、銅鐸祭祀が行われていたことがわかっています。

ところが、纏向遺跡出現時期と同じような時期に、銅鐸祭祀は終焉を迎えます。他の遺跡からは、故意に破壊されたと考えられる銅鐸破片が見つかってます。詳しくは
銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (9) ~ 銅鐸の「破壊」と「消滅」の謎
を参照ください。

纏向遺跡からも銅鐸小片が見つかってますが、詳しいことはわかってません。ただし、古事記・日本書紀には銅鐸の記載が一切ないことから、大和王権は銅鐸祭祀を行っていなかったのではないか、との推測が成り立ちます。

もし纏向遺跡がのちの大和王権につながるのであれば、纏向遺跡では銅鐸祭祀を行っていなかったことになります。

となると、纏向遺跡はこれまでの奈良盆地内の他の弥生遺跡とは異なる文化をもっていた、ということになります。このことから、奈良盆地内全体を一つのクニとみなすことはできない、ということがいえます。

つまり、邪馬台国を奈良盆地全体とみなすことは、無理があるということです。

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纏向遺跡は邪馬台国か?(5)~魏志倭人伝記載との検証

ここまで纏向遺跡の概要をお話してきました。遺跡内には、遺構、遺物、古墳などがあるわけですが、ではそうした考古学的なものは、三国志魏志倭人伝に描かれているものと、一致しているのでしょうか?。そのあたりをみてみます。

改めて魏志倭人伝の描く倭国の様子を再掲します。

1.紀元前後から継続している遺跡である。
2.周辺含めた全体領域は、少なくとも3万ha以上,人口は40~50万人に及ぶ。
3.海辺にあり、漁業を中心としている。
4.稲・麻を栽培している。
5.養蚕を行い、絹織物を生産している。錦も生産している。はいない。
6.、盾、弓、鉄や骨の矢じりを兵器として、常備している。
7.南方系の風習である。
8.棺はあるが、槨(かく)はない。埋葬してから盛り土する。
9.真珠・青玉が採れる。
10.丹(硫化水銀)が採れる。
11.宮殿・楼閣・倉庫(高床式)・城柵がある。
12.大きな戦いが繰り返され、多くの戦死者が出た。


では一つずつ検証してみましょう。

1.紀元前後から継続している遺跡である。
魏志倭人伝の”漢の時代には、貢ぎ物を持ってくる国もあった。”
という記載は、後漢書倭伝
建武中元二年(57年)、倭奴国(いなこく)の使者が、貢物を捧げて後漢の光武帝のもとに挨拶にきた。”
を指していると考えられます。
つまり、倭奴国(いなこく)は倭国と同義と考えられますが、少なくとも紀元前後からあった国です。ということは、倭国の都であった邪馬台国も紀元前後からあったと推定されます。

一方、纏向遺跡はどうでしょうか?。
3世紀から4世紀にかけての遺跡であり、弥生時代の遺構・遺物はほとんどありません。ということは、1の要件を満たしていませんね。

2は、長くなるので、回を改めてお話します。

3.海辺にあり、漁業を中心としている。
”潜るのが大好きで、魚やハマグリを採っている。”とあります。対海(たいかい)国や末盧(まつろ)国にも同様の記載がありますが、倭国全体の話として捉えていいでしょう。当然、都である邪馬台国も該当しているとみるのが自然です。

一方、纏向遺跡といえば、奈良盆地内の南東にあり、海辺とはほど遠いですね。確かに、山(生駒山)を超えれば河内から海沿いに出ることはできますが、かなりの行程です。少なくとも纏向遺跡を邪馬台国とすると、合致してません。

4.稲・麻を栽培している。
水田稲作は、弥生時代には畿内に伝搬してましたから、これは合格です。麻も栽培していたでしょう。

5.養蚕を行い、絹織物を生産している。錦も生産している。はいない。
纏向遺跡から、弥生時代の絹は発掘されてません。巾着状絹製品は発掘されてますが、3世紀後半から4世紀のものと推定されており、時代が新しいです。
馬もいないとあります。箸墓古墳周濠の上層に堆積した植物層中層から木製輪鎧(わあぶみ)出土しましたが、これは4世紀初め頃のものとみられます。

以上から、少なくとも絹に関しては、纏向遺跡は要件を満たしてません。

6.、盾、弓、鉄や骨の矢じりを兵器として、常備している。
倭国の特徴を最もよく表しているものの一つが、「矛」でしょう。これが「銅矛」なのか、「鉄矛」なのかはわかりませんが、いずれかです。
弥生時代の「矛」の分布に、明確な地域性が表れていることは有名ですね。簡単にいえば、九州北部を中心とする「銅矛」圏と、畿内を中心とする「銅鐸」圏、瀬戸内海を中心とする「銅剣」圏の分布です。


銅鐸分布 
(「弥生銅鐸のGIS解析ー密度分布と埋納地からの可視領域ー」吉田広他より)

鉄の各地域の出土数もみてみましょう。
弥生時代の鉄出土状況表①(都道府県別) 
順位弥生時代の鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄 
鉄の刀鉄剣鉄矛
都道府県個数都道府県個数都道府県個数都道府県個数
1福岡県17福岡県46福岡県7福岡県70
2鳥取県16京都府44佐賀・山口2京都府48
3福井県6長崎県23  佐賀県25
4佐賀県5兵庫県21長崎・長野1長崎県29
5長崎県5佐賀県18  鳥取県16
6京都府4群馬県16  兵庫県21
7山口・広島3千葉県14  群馬県16
         
 奈良県0奈良県1奈良県0奈良県1
*「弥生時代鉄器総覧」(広島大学考古学研究室 川越哲志編、2002年2月刊行)による。

弥生時代の鉄出土状況表①(都道府県別)
順位鉄の鏃
都道府県個数
1福岡県398
2熊本県339
3大分県241
4京都府112
5岡山県104
6宮崎県100
7山口県97
   
 奈良県4
*「弥生時代鉄器総覧」(広島大学考古学研究室 川越哲志編、2002年2月刊行)による。

鉄矛、鉄鏃とも、福岡県に集中してます。奈良県は、鉄矛はゼロ、鉄の鏃もほとんど出土しません。

さてこうしたなか、纏向遺跡はどうでしょうか?。
これまでのところ「矛」は出土してませんね。
となると、弥生時代の倭国を象徴する「矛」について、纏向遺跡は、まったく合致していないことがわかります。

7.南方系の風習である。
気候温暖であり、中国南方系の風習をもっている、ということです。一つには、
男は、大人も子供も、顔にクマドリして、体にはイレズミをしている。赤土で作った絵の具を体に塗る。
というのがあります。
弥生人が実際にイレズミをしていたのかの検証は、難しいところがありますが、「古事記」に、ヒントとなる話があります。
神武天皇の巻です。
”7人の少女が、高佐士野(タカサジノ)に遊びに行ったときに、その7人の少女の中にイスケヨリヒメがいました。
そのとき神武天皇の家来の大久米命(オオクメノ命)がイスケヨリヒメを見て、歌で神武天皇に申し上げました。
「大和の高佐士野を行く、7人の少女たちのうち誰を妻にしますか」
イスケヨリヒメは少女たちの先頭に立っていました。神武天皇はその少女たちを見て、歌で答えました。
「ともかく一番先に立っている年上の少女を妻としよう」
そこでオオクメノ命が神武天皇の言葉をイスケヨリヒメに伝えました。するとイスケヨリヒメは、オオクメノ命が目尻に入れ墨をして精悍な眼つきをしているのを見て、不思議に思って歌い尋ねました。
「どうしてそんなに大きな目をしているのですか??」

オオクメノ命は歌って答えました。
「お嬢さんをお見つけしようと大きな目になったのです」
こうしてイスケヨリヒメは天皇に「仕えます」と答え、天皇の后となることを承知しました。”(「古事記」福永武彦訳参照)

この話から、イケスヨリヒメは、「目尻の入れ墨」を初めて見たことが推察されます。

考古学的にはどうでしょうか?

鯨面絵画というものがあります。顔に入れ墨をした絵ですが、弥生後期に愛知、岐阜、岡山を中心に発掘されてますが、近畿地方からは一つも出土していないというのです(「三国志がみた倭人たち」設楽博己より)

以上より、畿内の男たちは、入れ墨の風習をもっていなかったことになります。

いずれにしろ、畿内の人々が南方系の風習をもっていたとは、考えにくいですね。

以上から、この要件も満たしてません。

8.棺はあるが、槨(かく)はない。埋葬してから盛り土する。
墓に関する倭国の大きな特徴です。槨(かく)とは、石棺の外側を覆うものです。そんな細かいところまでわざわざ記載したのは、中国人にとって興味深かったでしょう。

纏向遺跡の古墳のうち、内部調査されているものとして、ホケノ山古墳があります。内部構造は木棺ですが、石囲い木槨があります。その他の古墳も同様とみていいでしょう。
つまり、魏志倭人伝の記載と一致してません。

9.真珠・青玉が採れる。
青玉は、碧玉(jasper)ではないかと考えられます。
”ジャスパーとも呼ぶ。不純で不透明な玉髄。多くは酸化鉄によって紅,黄,褐,緑,黒などの色を呈する。緑・青色碧は島根県出雲地方の玉造石 (たまつくりいし) が名高く,歴代玉造りの中心素材であるため特に出雲石と呼ばれる。”(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

ちなみに、”赤碧玉は俗に赤玉といい,象眼 (ぞうがん) 細工に使われ (佐渡の岩首,石川県国府) ,また庭石として珍重される。”(同上)
とあります。

真珠もそうですが、碧玉は日本各地で採れますから、この要件は、合致してるといっていいでしょう。

10.丹(硫化水銀)が採れる。
こちらも9同様、日本各地で採れますから、合致しているといっていいでしょう。

11.宮殿・楼閣・倉庫(高床式)・城柵がある。
宮殿・楼閣・倉庫(高床式)は、それと推定される遺構が纏向遺跡において発掘されてますから、合致してます。城柵というのは、宮殿・楼閣を守る軍事的な柵ですが、纏向遺跡で発掘された柵にその機能があったかは、不明です。

ただし、纏向遺跡を長年発掘された関川尚功氏(元橿原考古学研究所)によると、
”纏向遺跡は環濠をめぐらせる遺跡ではなく、弥生環濠集落のような防御的あるいは閉鎖的な性格はあまり認められなず、むしろ開放的な立地形態である。”としてます(「考古学からみた邪馬台国大和説への疑問(1)」季刊邪馬台国126号、2015年7月)。また柵についても、”柱痕とされる小穴は不揃いなところが多い。明確かつ整然とした柵と比較することは困難であろう。”と述べてます。
つまり、下の写真の吉野ヶ里遺跡でみられるような城柵とはいえない、ということです。

なお関川氏は、纏向遺跡の建物群についてさえ、”ただちに庄内期の頃の王宮クラスの遺構とするには、さらなる検証が必要である。”と述べてます。


<宮殿復元(纏向遺跡)>
纏向遺跡大型建物復元 
(奈良県HP「歩く・なら」より)

<物見櫓と柵(吉野ヶ里遺跡)>
吉野ヶ里、柵 
(筆者撮影)

以上より、城柵については合致しておらず、宮殿についても、まだ確証は得られてません。

12.大きな戦いが繰り返され、多くの戦死者が出た。

大きな戦いとは、卑弥呼共立前の戦乱(いわゆる倭国大乱)、狗奴国との戦い、卑弥呼死去後の戦乱などです。こうした戦いが、邪馬台国内あるいは周辺で繰り広げられたわけです。ですから、邪馬台国の境界域あるいはその周辺は、厳重に防御施設で固められていたはずです。

関川氏によれば、纏向遺跡は、”防御的な性格は認められず、むしろ開放的な立地形態”ですから、これについても?ですね。また九州北部のように、戦死者とみられる人骨も見つかってません。つまりこの項目も合致しません。

さて以上みてきましたが、整理します。

・魏志倭人伝の記載と合致していると考えられるもの。
4.9.10・11(4項目)

・魏志倭人伝の記載と合致していないと考えられるもの。
1・3・5・6・7・8・12(7項目)

となります。

11項目のうち、合致しているのは、4項目、割合で言えば36%に過ぎません。
逆に合致していないものは、7項目で64%になります。

さて皆さんは、この結果をどのように考えるでしょうか?。

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纏向遺跡は邪馬台国か?(4)~纏向遺跡の遺構・出土物・古墳

前回は、纏向遺跡の特徴をお話しました。今回は、実際の遺構・出土物をみていきたいと思います。
桜井市纏向学研究センターHPより、ポイントをまとめました。

まずは遺構です。

纏向遺跡遺構


大型建物群は、卑弥呼の館かと話題になりました。住居は炉跡がないなど、生活の臭いが感じられません。祭祀の場だったのでしょうか?

<大型建物遺構>
纏向遺跡大型建物遺構 

<大型建物復元模型>

纏向遺跡大型建物復元 

(奈良県HP「歩く・なら」より)

次に遺物をみましょう。

纏向遺跡遺物

弧文石、弧文板は、吉備由来です。ということは、纏向遺跡の人々の故郷は、吉備地方に関連した地域という可能性が高くなります。

<木製仮面>
纏向遺跡木製面 
(奈良県HP「歩く・なら」より)

銅鐸片が出土しました。ということはこの地域では銅鐸祭祀が行われていたでしょうか。しかしながら古事記・日本書記には銅鐸の記載が一切ありません。となると、先住民の銅鐸を破壊した残骸なのか、という見方もできますね。

<土器>
纏向遺跡土器 
(Wikipediaより)


最後に古墳です。
纏向遺跡古墳
 
<箸墓古墳>
箸墓古墳2
(Wikipediaより)

いかがでしょうか?。感想は人それぞれでしょうが、あれ?、という感を持たれた方も多いのではないでしょうか?。

なぜなら魏志倭人伝に描かれている生活感が感じられませんし、遺物も「矛」は一つも出土してません。も3世紀後半と、卑弥呼の時代より新しいものです。そもそも遺構や古墳も古くてもせいぜい3世紀前半であり、ではそれ以前はどうだったのか?、という疑問が浮かびます。

そのあたり、次回詳しくみていきます。

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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