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宗像神を祭る神社のデータは語る(3)~厳島神社との関係とは?

前回までで、宗像神信仰は、イチキシマ・タゴリ・タギツの三女神の信仰が分かれており、イチキシマ信仰は突出して多いこと、三女神セットの信仰は西日本に偏っているというデータを紹介しました。これらのデータから、もともとはイチキシマ・タゴリ・タギツ信仰があり、後代になり宗像三女神に変わっていったのではないか、という仮説が立てられるという話をしました。

さて今回は、三女神のなかでも突出して多いイチキシマ信仰について、考えていきましょう。

イチキシマと聞いて、何か連想した方はおられるでしょうか?

ここで広島県安芸の宮島にある「厳島(いつくしま)神社」を連想した方は、かなりの神社通です。

実際、深い関係があるのです。

<厳島神社大鳥居>
厳島神社 
(Wikipediaより)

矢田氏論文を見ていきましょう。

厳島信仰も、宗像神の普及に大いに寄与したと考えられる。現在の安芸の厳島神社の祭神は、宗像大社と同一の三女神である。しかし延喜式神名帳の伊都伎嶋神社は一座であるので、「宗像神社史」はその社名から、はじめ市杵島姫命が祭られ、後に三女神になったと推定している。安芸の厳島神社が三神の順序が市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命としているのも、市杵島姫命を特別視していることを示す。明治時代の神社明細帳に拠っている「調」にも安芸の厳島神社の祭神をイチキシマ一神とするので、三女神となったのは比較的新しいようである。イチキシマの語源が「斎(いつく)島」とされていることからも、「宗像神社史」の推定は正しいと思われる。”

”厳島系の名をもつ全国の神社は650社あるが、祭神はイチキシマ一神が472社(厳島神の18社を含む)と全体の75%で、ほかにタゴリ一神の5社、タギツ一神の2社などがある。三女神を祭る社は116社で、全体の18%に過ぎない。都道府県別の分布を図2に示す。宗像神全体と同様に、三女神は東瀬戸内海を中心とする西日本にやや多く、東部瀬戸内以東はイチキシマ一神が圧倒的に多い。このことははじめ安芸の厳島神社に伝えられた宗像神はイチキシマ一神であり、ここを経由して伝搬したときもその一神であったことを示す。”


【解説】
下の図からわかるとおり、三女神を祭る厳島系神社は、広島、山口、愛媛西瀬戸内海を中心として多く、
次いで、福岡、佐賀、熊本、島根と、西日本の各県が続いてます。
それが東日本に行くにしたがい、イチキシマ一神を祭る神社が圧倒します。このことから、厳島神社においても、はじめはイチキシマ一神であったのが、のちに厳島神社(広島県)を発端として三女神に代わっていった、
と推定されます。広島県において、三女神を祭る厳島系神社が多いことが、それを示唆してます。
前回は、全国のデータからイチキシマをはじめ三女神はもともと別であり、のちに三女神化された、との仮説を紹介しましたが、それを補強する内容です。

厳島系神社と宗像神  


”以上のことから、厳島信仰は宗像神信仰の一類型であって、両者の間にはっきりとした線を引くことは難しいと言える。また「いつくしま」の名をもつ神社で、イチキシマ一神を祭るのは406社であり、全国のイチキシマ一神を祭る神社の23%に過ぎないので、イチキシマ信仰の大勢は安芸の厳島とは独立に(おそらくそれより古く)全国に広まったものと考えてよかろう。”

【解説】
ここまでの話からいうと、一見「宗像信仰=厳島信仰」なのか?、とも思えます。ところがそうではなく、イチキシマ信仰は、安芸の厳島神社とは別で、おそらくそれより古く全国に伝搬したのではないか、という説です。なかなか興味深い推測ですね。

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宗像神を祭る神社データは語る(2)~三女神の分布の違い

さて全国の宗像神を祭る神社は3532社ありますが、そのすべてが元来の宗像神であったわけではない、といいます。地名にもある八王子を祭る八王子信仰社は、のちに宗像神にすり替えられたと考えられます。
ここからは、八王子信仰社607社を除いた2925社について解析してます。

”宗像神が最も多く祭られているのは、広島県の240社で、以下山口・愛媛・三重・福岡の順となる。福岡県を信仰の出発点と仮定すると、宗像信仰は周防灘から瀬戸内へ集中的に広がったようにみえる。”
【解説】
宗像信仰は、福岡県から東へ向かい、瀬戸内海へ広がった、という指摘です。
 
ムナカタ神全国分布

三女神そろって祭られている神社は814社で、全体の約28%にすぎない。三女神を祭る神社の比率が多いのは、青森県を除けば西日本の諸県が多く、特に山口県が79%になっている。”
【解説】
宗像神というと三女神セットを考えがちですが、実際には三女神セットの神社は3割にも満たない、ということです。しかも三女神セットの神社は、西日本が多いということです。意外ですね。

”最も多いのは、三女神のうちイチキシマのみを祭る神社で、1755社と全体の60%を占める。その比率は遠方の諸県で高く、北海道・東京都・大阪府と茨城・群馬・埼玉・富山・岐阜・三重・兵庫・奈良・和歌山・宮崎の諸県では、80%以上がイチキシマ一神を祭る。
タゴリのみを祭る神社は151社あるが、栃木県に61社が集中していて、他には少ない。
タグツにみを祭る神社は69社と少なく、北陸地方にやや多く分布する。
このように少なくとも一部の地方では、三女神のそれぞれが選択的に単独で祭られてきたことがわかる。二神の組み合わせはさらに少ない。また注目されるのは、宗像神の海神のイメージにもかかわらず、栃木・群馬・埼玉など、海のない諸県に多くの宗像神が祭られていることである。
このような分布の特徴を図1に示す。三女神を祭る神社が多いのは中国地方以西であり、それ以東では少数の例外を除きイチキシマ一神の比率が圧倒的に多い。このことは、イチキシマ信仰の伝搬が先にあって、その後宗像神社の三神化がその近隣諸地方に波及した、と解釈できよう。そして他の二神も、三神化以前のそれぞれある程度の信仰域を持っていたと見られる。”
【解説】
三女神のなかでもイチキシマのみを祭る神社で60%、ついでタゴリで約5%と急減して、タグツのみを祭る神社は約2%に過ぎません。そして三女神を祭る神社が多いのは中国以西であることから、興味深い推測をしています。すなわち、
”三女神はもともとセットで存在したのではなく、それぞれ信仰域をもっていた。そのうちもっとも伝搬が早く信仰域が広かったのはイチキシマ信仰であり、あとになり三女神化が波及した。
という仮説です。

実に大胆な仮説ですが、確かにもとから三女神がセットであれば、なぜイチキシマ信仰だけ突出して、しかも遠方の地域で広まったのかという理由が考えにくいです。
逆に、先行してイチキシマ信仰など単独神の信仰があったとすると、あとから三女神化しようとしても、一度根付いた信仰というものをなくすのはなかなか困難でしょうから、グラフのような分布になるのも頷けますね。

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宗像神を祭る神社データが語ること(1)~宗像三女神とは?

さて前回まで、纏向遺跡は邪馬台国なのか?、というテーマでお話してきました。
結論は、纏向遺跡は邪馬台国の要件を満たしておらず、むしろ九州北部の福岡平野にあったとされる奴国(通説)が、ほぼ条件を満たしているという話でした。

当時倭国の中枢は九州北部の邪馬台国にあったわけです。それが時代を経て、畿内に中枢が移っていった、ということになります。このブログのテーマでもある、「西→東」への移動の一つです。
こうした流れは、中国史書のほか、考古学をはじめとした科学的データによっても、裏づけられます。

さてこのような動きがわかるものは、他にないでしょうか?

私は、前々から関心をもっていたものがありました。

それは、神社です。
神社には祭神があり、由緒も記録として残ってます。そうしたデータを集めて解析すれば、古代を推測できるのではないか、と考えていました。

ところで神社というと、鳥居や本殿などの形式が、もともと日本にあったものだと考えがちです。ところが遠い縄文時代は、巨石信仰であったり、山や太陽を崇めたりというものであったと考えられます。

”神社の起源は、磐座(いわくら)や神の住む禁足地(俗に神体山)などでの祭事の際に臨時に建てた神籬(ひもろぎ)などの祭壇であり、本来は常設ではなかった。例としては沖縄の御嶽(ウタキ)のようなものだったと考えられる。”(Wikipediaより)

神社を特徴づける鳥居の起源については諸説あります。

”現在の雲南省とビルマとの国境地帯に住むアカ族(ハニ族)「パトォー・ピー(精霊の門)」という村の入口の門では、上に木彫りらしき鳥が置かれることや、鳥を模した造形物を飾る風習もあることが実地を調査した研究者(鳥越憲三郎(大阪教育大学名誉教授)他)から報告されていることから、日本の神社でよく見られる「鳥居」の原型は、アカ族らが長江流域から南下、避難してくる前、長江流域に住んでいた時代(百越人であった時代)の「鳥居」ではないのか、という説もある。アカ族の村の門には鳥の木形が置かれるが、同様の鳥の木形は日本での稲作文化の始まりとされる弥生時代の遺蹟である池上・曽根遺跡纒向遺跡でも見つかっており、また他にも多くの遺蹟でも同様である。”(同上)

長江流域に住んでいた百越の人々の文化であったが、戦乱で雲南省あたりまで南下したのがアカ族であり、北上してあるいは海上で直接日本列島にたどり着いたのが、渡来系弥生人であった、と推定されます。そして渡来系弥生人の風習と、もともとの縄文人の風習が習合して、今の神社の形態になったのではないか、と考えられます。
最古の神社が、対馬にある「阿麻氐留(アマテル)神社」といわれるのも、この説を裏付けてます。

そこから日本各地に広がっていったのではないか?、と考えられます。
そのあたりをデータでみていきたいと思います。

神社に祀られる神様を統計データで解析した、たいへん興味深い論文があるので、それを紹介しつつ考えていきましょう。
「宗像神を祭る神社の全国分布とその解析ー宗像神信仰の研究(1)ー」(矢田浩、静岡理工科大学名誉教授)です。

論文では、宗像神をテーマとしてます。

宗像といえば、2017年7月に、「「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群」として、世界遺産登録されましたね。
その古代の宗像と沖ノ島には多くの謎があります。その理由を、
”沖ノ島祭祀の開始が、文献の欠如している「空白の4世紀」の出来事であるためである。「日本書記」にも、宗像三女神誕生の誓約神話以降は、胸形大神または胸神についての五世紀代の二・三の説話が載るのみで、そのあとは天武紀まで登場しない。「古事記」には、上つ巻の神話以降は全く登場しない。”
として、
”文献と考古学との隙間を埋めるものとして、神と神社に注目することが重要ではないか。”
と提起してます。

では内容をみていきましょう。

基礎資料として、神社本庁が、所属の78,960社の祭神、祭礼、由緒などを調査して、「平成「祭」データ」として公表しており、それを使用してます。

論文では、宗像神をテーマとしてますが、宗像神といっても、一種類なのではなく、三女神といって、
田心姫神(たごりひめのかみ、表中では「タゴリ」と標記)
湍津姫神(たぎつひめのかみ、表中では「タギツ」と標記)
市杵島姫神(いちきしまひめのかみ、表中では「イチキ」と標記)
と種類があることに留意です。

三女神とは、
”宗像大社(福岡県宗像市)を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称である。”

三女神は、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)によって生まれました。
伊邪那岐命(イザナギ)建速須佐之男命(スサノオ)に海原の支配を命じたところ、建速須佐之男命は伊邪那美命(イザナミ)がいる根の国(黄泉の国)へ行きたいと泣き叫び、天地に甚大な被害を与えた。イザナギは怒って「それならばこの国に住んではいけない」と彼を追放した。
スサノオは、姉のアマテラスに会ってから根の国へ行こうと思い、アマテラスが治める高天原へ昇る。すると山川が響動し国土が皆震動したので、アマテラスはスサノオが高天原を奪いに来たと思い、武具を携えて彼を迎えた。
スサノオはアマテラスの疑いを解くために、宇気比(誓約)をしようといった。二神は天の安河を挟んで誓約を行った。まず、アマテラスがスサノオの持っている十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の三柱の女神(宗像三女神)が生まれた。”(古事記、概訳はWikipediaによる)

<誓約(うけい)の系図>

誓約系図 

(Wikipediaより)

宗像神を本殿に祭る表記別神社数をまとめたのが、下表です。
Aは日本書紀、Bは古事記に拠った表記とみられるものです。
宗像神表記別数 
 


神社により、表記が異なることがわかります。ちなみに、古事記・日本書紀による表記は、下表のとおりです。

宗像神記紀表記  


古事記・日本書紀で表記に違いがあり、さらに同じ日本書紀の中でさえ、違いがあることがわかります。

以上で、宗像神の概要が把握できました。



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纏向遺跡は邪馬台国か(18)~まとめ、纏向遺跡と神話の関係とは?

さてここまで17回にわたり、纏向遺跡についてみてきました。ここでまとめをします。

■纏向遺跡は3世紀始め頃に出現し、3世紀半ばには消滅するという、わずか100年余の期間に存続した遺跡である。

■周辺の弥生時代遺跡と同様の特徴をもつことなどから、異文化の人々がやってきて征服して造られたものではない。

■造った人々は、周辺に住んでいた人々だったと推定される。ただし、吉備や九州北部の影響を受けており、出自として注目される。

■三国志魏志倭人伝の描く「倭国」や「邪馬台国」の様子とは異なる部分が多い。項目で検討すると、12 項目中4項目(33%)しか合致していない。

■畿内全域を広域地域圏として「邪馬台国」を捉える考え方もあるが、銅鐸祭祀との関連などからみて、同一文化圏として成立するかは疑問である。

■一方、同時代の遺跡として最大級である九州北部の「比恵・那珂周辺遺跡群」は、魏志倭人伝からみると、100%合致している。

■九州北部の広域地域圏としては、福岡平野から筑紫平野にまでわたる地域が想定され、一つの文化圏として想定しうる。

■客観的データからみると、「纏向遺跡=邪馬台国」は成立し難い。「比恵・那珂周辺遺跡群」のほうが、可能性が高いといえる。

■纏向遺跡には、人が居住していた臭いが感じられないという特異性がある。造られた目的として、「三輪山信仰の施設ではないか」、あるいは「古墳造営キャンプではないか」という説がある。

■天皇の宮と仮定すると、第10代の崇神天皇のころに造られた可能性がある。ただしそれには、「二倍年暦」説を採用する必要がある。

以上です。

最後に、大胆な仮説をお話したいと思います。

古事記・日本書紀によれば、神武天皇が九州日向から大和にやってきて、大和地方を支配下に置くようになったわけです。

その話と、纏向遺跡とはどのような関係になるのでしょうか?。

神武天皇が大和にやってきたのは紀元前1世紀前半と推定してることは、すでにお話しました。
” 一年に二回の年を数えたという「二倍年歴」説は本当か?(5) ~ 神武天皇即位はいつか” 

古事記・日本書紀によれば、すぐに大和一帯を支配したかの如き描写です。しかし実態は、そのようなものではなかったのではないか?、と考えられます。

史実としては、大和に入ったものの、実権を握るというにはほど遠く、地元有力豪族の娘と結婚することにより、姻戚関係を築きながら、次第に力を蓄えていったと考えます。実際、初代神武天皇から第4代の懿徳(いとく)天皇の皇后は、すべて地元有力者である事代主、磯城県主、物部系です。
そのようにして地盤を固めながら、最終的に大和地方を支配するようになったのであり、纏向遺跡はその拠点であった、と捉えられます。

ちなみに第2代の綏靖(すいぜい)天皇から第9代の開化(かいか)天皇までは、欠史八代といわれ、架空の人物とされてます。古事記・日本書紀の事績がないからですが、上の仮説であれば、いうなれば彼らは有力豪族の婿養子のようなもので、力もなかったから事績に残るようなこともできなかった、という解釈もできますね。

さてこの仮説は立証できるでしょうか。

まとめで記したように、纏向遺跡はもともと周辺に住んでいた人々が造ったわけです。
また吉備や九州との係わりが深いことがわかってます。

私の仮説からみれば、もともと周辺に住んでいた人々とは、神武天皇の末裔です。
神武天皇は吉備・九州北部と関わりが深いわけですから、これとも合致してます。

遺跡と上のストーリーが一致しているといえそうです。

もうひとつ、この説を補強する資料を紹介します。

下の図は、5世紀から7世紀にかけての、大和盆地の勢力分布図です。
この図をみると、大王(天皇)家は確かに纏向遺跡周辺に基盤をもってますね。一方、そのすぐ北に物部氏、南に大伴氏、北方離れた春日地域に和邇(わに)氏、西方に葛城氏が勢力をもっていたことを示しています。

大和盆地勢力図 
よくみると、奈良盆地の中央が空白地帯になっていますね。これは前にお話したように、この地帯は網状流路であり、川が幾筋にも流れていて氾濫が頻繁に起こるので、人が常住するのに適していない土地でした。そのため各氏族も支配が及んでいなかった、という解釈ができます。

さて、この図をみて、あれ?、と思いませんでしょうか?

他の氏族たとえば和邇氏や葛城市氏が広大な面積を支配しているのに比べて、天皇家の支配領域がずいぶんと狭くないでしょうか?。

しかもこの図は、纏向遺跡のあった3世紀頃より200年以上のちの勢力図です。纏向遺跡のあった時代は、その範囲はもっとずっと小さかったでしょう。とても大和盆地全体を支配していたとはいえません。

位置も大和盆地の南東部です。必ずしも条件のいい土地とは思えません。条件のよくない土地だったからこそ、それまであまり利用されてなかったわけです。

その後の宮である藤原宮や平城京は、遠く離れた場所です。裏を返せば、その時代すなわち7世紀後半まで、そのような場所に進出できなかったのだ、という見解も成り立ちます。

このことからも、大和王権は神武天皇がやってきた当初から大和盆地全体を支配してきたのではなく、はじめは小さな地域から何代もかけて次第に勢力を拡大してきた、ということが窺えます。

あくまで現時点での仮説であり、可能性はあると考えますが、皆さんはどのように考えられるでしょうか?。

さて長きにわたり纏向遺跡についてみてきましたが、以上でこの章は終わりにしたいと思います。

ここまでみてきたとおり、「纏向遺跡=邪馬台国」という説に対しては多くの疑問が出されているところです。したがって安易に結論づけることなく、まずは調査研究を粛々と進めることが大切でしょう。

纏向遺跡の発掘調査はまだ全体の数パーセントしか行われていせん。もしかしたらこれからあっと驚くものが出土する可能性もあります。今後の調査状況を見据えつつ、いずれまた取り上げたいと考えてます。

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纏向遺跡は邪馬台国か?(17)~残された謎。纏向遺跡はどの天皇の宮か?

ここまで纏向遺跡について、概要、広域地域圏の考え方についてみてきました。魏志倭人伝の倭国や邪馬台国に関する記載内容との照合もしましたが、合致している項目の割合は、12項目中の4項目、33%とかなり低いことがわかりました。

一方、私が邪馬台国と考えている福岡平野の比恵・那珂周辺遺跡群(通説の「奴国」含む)についてもみてきました。その結果、奴国(通説)は魏志倭人伝の記載内容と合致している項目の割合は、ほとんど100%といっていいことが確認できました。

ということは、邪馬台国は、纏向遺跡ではなく、比恵・那珂周辺遺跡群を中枢とする福岡平野にあったと考えるのが合理的ということになります。

さてここでひとつ疑問が浮かびます。

「纏向遺跡が邪馬台国でなかったなら、あの広大な遺跡群は何だったのか?」
という疑問です。

今回はそれを考えてみましょう。

まず纏向遺跡の特徴のおさらいです。

”纒向遺跡は大集落と言われながらも、人の住む集落跡が確認されていない。現在確認されているのは祭祀用と考えられる建物と土抗、そして弧文円板や鶏形木製品などの祭祀用具、物流のためのヒノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)だけである。遺跡の性格としては居住域というよりも、頻繁に人々や物資が集まったり箸墓古墳を中心とした三輪山などへの祭祀のための地と考える学者も多 い。”(Wikipediaより)

なんといっても、人が生活していたという「生活臭」が感じられません。大きな建物については、三輪山信仰に関わる施設だった可能性があります。

あるいは、周辺の大型古墳群造営のための「古墳造営キャンプ」である、という説(酒井龍一氏、奈良大学名誉教授)もあるようです。長年発掘調査にあたってこられた関川尚功氏(元橿原考古学研究所)は、
”纏向遺跡を含む遺跡群と大型古墳群の位置関係と時期の近接性は充分根拠になり得るであろう。”
として、肯定的な見解を示してます。

確かにそのように考えると、纏向遺跡がなぜ2世紀末頃に出現して4世紀中頃には消滅したのか、という疑問に対する答えにはなりえます。

とはいえ、これでは纏向遺跡に対する夢が無くなってしまします。

纏向遺跡が初期大和王権の宮とする論者は多いです(たとえば「ヤマト王権の誕生-王都・纒向遺跡とその古墳」(寺沢薫)など)。
下図のようなイメージ図も描かれてます。
纏向遺跡復元イメージ

この図をみると、壮大な宮殿のある都市、といった印象です。
では、纏向遺跡が初期大和王権の宮だったと仮定して、話を進めましょう。

まずはじめに考えるべきは、ではどの天皇の宮だったのか、です。

一般的には、第10代崇神天皇ともいわれてます。

ここで疑問が浮かびます。
時代は合っているのか?、です。

ここで歴代の天皇と宮、その推定所在地をまとめたものが下表です。皇暦(紀元暦)からみた没年と二倍年暦からみた没年も入れてます。

皇暦とは、初代神武天皇即位を紀元前660年として、その年をゼロ年としてそこからカウントする方法です。ちなみに今年西暦2018年は、紀元2678年となります。

それに対して二倍年暦とは、古代は1年で二回年を数えていたとする説です。いつから一倍年暦になったのかによりますが、24代の仁賢天皇あたりからとして、そこから単純に逆算した数字が、表の二倍年暦です。ちなみに神武天皇没年は、紀元前581年となります。
詳細は
一年で二回の年を数えたという「二倍年歴」説は本当か?(1) ~ 古代天皇が超長寿な理由
を参照ください。

古代天皇宮

皇暦からみると、崇神天皇の没年は、紀元前29年です。纏向遺跡の出現時期3世紀とは、全く合いませんね。

古事記には、没年を干支(えと)で、戊寅(つちのえとら)と記してます。戊寅は、60年に一度回ってきますが、258年,318年とする説があります。これですと、何とか遺跡の年代と合ってきそうですが、皇暦とは無関係です。

一方、二倍年暦ではどうでしょうか?。
崇神天皇の没年は、紀元後211年で、遺跡出現時期とほぼほぼ合ってきます。戊寅の198年と258年の間ですね。

皇暦を認める、という立場であれば、遺跡出現とと皇暦が一致しません。その一方、二倍年暦では合ってくるわけで、結果として、二倍年暦を認めていることになります。
纏向遺跡が崇神天皇の宮と考える論者は、このあたりどのような立場に立っているのでしょうか?

さてこの表をよくみると、興味深いことがわかります。

9代開化天皇(没年177年)の宮は、春日率川宮 (春日之伊邪河宮)、推定地は奈良県奈良市本子守町
10代崇神天皇(没年211年)の宮は、磯城瑞籬宮 (師木水垣宮)、推定地は奈良県桜井市大字金屋
11代垂仁天皇(没年261年)の宮は、纒向珠城宮 (師木玉垣宮)、推定地は奈良県桜井市大字穴師
12代景行天皇(没年291年)の宮は、纒向日代宮、推定地は奈良県桜井市大字穴師
13代成務天皇(没年321年)の宮は、志賀高穴穂宮、推定地は滋賀県大津市穴太1丁目
です。
つまり10代崇神天皇から12代景行天皇の3世紀代のみ纏向遺跡内と考えられるわけです。この期間を、図の赤矢印で示しました。

このことは、纏向遺跡が3世紀初めに突然出現して、4世紀半ばには消滅した、という考古学的事実と一致してます。
これが果たして偶然の一致なのか、それとも必然なのかは、これだけでは判断しかねるところです。

以上のとおり、纏向遺跡が何だったのか、については諸説あります。仮に天皇の宮とすると、崇神天皇のころ、ということになりますが、今のところ、これ以上いいようがありません。

また仮に崇神天皇の宮であったとしても、邪馬台国との関係については、懐疑的にならざるをえません。
というより、邪馬台国とは無関係の宮だった可能性が極めて高い、ということです。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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