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宗像神を祭る神社データ(8)~栃木県の田心信仰

次は、栃木県です。

2.栃木県の田心信仰

栃木県でタゴリを祭る66社はすべて神名を田心と表記し、「古事記」風の表記は全くない。これはこの信仰が、古くかつ強固であることを示唆する。
タゴリのみを祭る神社61社のうち社名がもっとも多いのは滝尾(瀧尾)神社(タキオまたはタキノオ)の14社(うち1社は日光滝尾神社)で、うち20社は田心のみを祭り、他神がない。
1社はイチキシマを配祠し、3社は他に大己貴(オオナムチ)命味耜高彦根(アジスキタカヒコネ)命(「古事記」に阿治志貴高日子根)を祭るが、いずれも筆頭神が田心である。日光神社が8社あるが、これはいずれも田心、オオナムチ、アジスキの三神を祭る。二荒(山)神社の7社のうち6社もこの三神を祭るが、1社は田心とオオナムチである。”

表8で見たようにオオナムチは全国で6千社以上が祭る出雲系の主神であるが、栃木県には最多の334社で祭られている。このように強い出雲信仰に伴って、田心が祭られるようになったと思われる。”
【解説】
”タゴリの表記がすべて田心であり、古事記風の表記(たとえば多紀理)などが全くみられないことから、この信仰が古くかつ強固である。”、と推定してます。信仰が古いのはそうでしょうが、古事記風の表記がないことがなぜその根拠になるのかは、不明です。
矢田氏は「日本書紀」の内容の方が「古事記」の内容より古いと考えているから、ということでしょうか?。これだけでは何とも言えません。
それはさておき、栃木県には強い出雲信仰があり、それで田心が祭られるようになったことは、間違いなさそうです。

アジスキは、「古事記」に大国主命タゴリとの間に子とし、出雲本宗家の系譜を乗せる「旧事紀」にもオオナムチとタゴリの子とする。記紀神話にもこの神の挿話がかなり詳しく書かれており、天平五年(733年)撰上の「出雲国風土記」にも5箇所も出てくるので、古代出雲の重要神であったことは間違いない。アジスキは全表記を合わせても全国で225社が祭るのみで、なかでは栃木県が46社と飛び抜けて多い。これも栃木県が、出雲信仰の中心の一つであったことを示す。このように、宗像神、とくにタゴリについては、その信仰伝播の検討には出雲神との関係が考慮されなくてはならない。”
【解説】
アジスキというあまり聞きなれない神様が出てきました。大国主命とタゴリの子ですから出雲系です。アジスキを祭る神社は、全国でも225社と少ないにもかかわらず、栃木県はその2割があるのですから、特徴的です。ここでも出雲との関連がうかがわれます。

”図5に、これら神社の県内の分布を示した。ここは、思川の流域である。思川は、はじめ上記小山市の胸形神社の主祭神から田心川と呼ばれていたのが、田心の二字が結合して思川になったと言われている(Wikipediaより)。”
”この流域にはタゴリを祭る神社が特に多い。タゴリ信仰は、おそらく利根川から栃木県に入り思川を遡ったと考えられる。そして日光市方面に向かい山内の滝の上に祭られた神社が、滝尾神社として拡がったのであろう。”

【解説】
「田+心」川が「思」川となったということで、面白いですね。かつてこのあたりはよくゴルフに行ったものですが、まさか「田+心」=「思」とは、まさに思いもよらなかったです・・・。
さて注目は、タゴリ信仰が伝播したルートです。利根川を遡上して栃木県に入った、と推測してます。

栃木宗像神社 
  
この図をよくよくみると、確かに思川流域およびその上流部に分布している一方、東にも並行して分布しているのがわかります。ここは鬼怒川流域にも近いので、鬼怒川を遡上した可能性もあると思われます。

”西隣の群馬県でタゴリを祭る神社は、いずれも利根川流域にある。長野県の千曲川上流の佐久市に純宗像系の山田神社があり、上田市には「思姫」を合祀する八幡神社がある。”
”千曲川流域には、弥生時代後期鉄剣など鉄器流入が顕著であることなどから考えても、タゴリーアジスキ信仰は千曲川を遡って毛野(けぬの)国(群馬・栃木)にもたらされた可能性が強いであろう。西隣の福島県にも式内の隠津島神社と、4社の宗像神社がり、宗像神が多い。”
【解説】
栃木県においては利根川から思川を遡ったと推定してますが、群馬県でも利根川流域にあります。長野県佐久市・上田市にも宗像系があることから、さらに興味深い推測をしてます。
こうした伝播は、千曲川(新潟県では信濃川)を遡って佐久市・上田市に伝わり、さらに峠を超えて群馬に入り、利根川沿いに栃木まで到達した、というものです。つまり「日本海から入った」ということになります。
下の図にルートを示しました。

関東宗像神伝播ルート  
上田・佐久から群馬まで行くには、峠を超えなくてはいけませんが、一つのルートとしては軽井沢あたりから碓氷峠を越えたのではないでしょうか。碓氷峠といえば、あの「峠の釜飯」で有名ですね。そこから利根川まで下り、群馬県や栃木県を遡ったと考えられます。

これはこれでいいのですが、先ほど思川だけでなく、東側の鬼怒川を遡上した可能性にも触れました。

鬼怒川は、現在利根川系統なのですが、実は利根川は、江戸時代頃から大土木事業が行われてます。改修前は、何と今の利根川は、千葉県銚子に流れていたのではなく、東京湾に流れていたのです。そして鬼怒川は常陸川といって、今の利根川とほぼ同じルートで、太平洋に流れていました。

つまり、上の図でもわかるとおり、思川~(旧)利根川は、鬼怒川と系統が異なっていたわけです。

となると、疑問が浮かびます。

「太平洋から(旧)常陸川を遡上して、鬼怒川へ伝播した可能性はないのか?」

太平洋側には、高知県、和歌山県、愛知県、静岡県、千葉県と、純宗像系と推定される神社が、分布してます。このルートは、黒潮のルート上でもあります。

となると、海人族である宗像族が、黒潮に乗って千葉県までやってきて、鬼怒川を遡上したとしても、何ら不自然ではありません。

遠賀川式土器も、日本海側のみならず、太平洋側からも、伝播していることが確認されてます。

日本海側からと太平洋側から、という2つのルートを想定しておくべきと考えます。

ところで上の図に、長野県に安曇野諏訪の2つの地名を記載しました。なぜあえて記載したのかというと、この2つの場所は、海人族にかかわりが深いからです。

まず諏訪ですが、「国譲り」で敗れた、大国主命の息子である建御名方(たてみなかた)神が逃げた先です。つまり出雲からやってきた、ということになります。

また安曇野は、その名のとおり「阿曇(あずみ)族」が進出した土地といわれてます。阿曇族の本拠地は、九州北部の志賀島一帯といわれてます。

諏訪、安曇野とも、日本海から千曲川を遡ってきたと想定されます。

このようにとらえると、九州北部~出雲~新潟県~長野県~群馬県~栃木県」という日本海を介したルートが遠い古代からあったということは、明確ですね。

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宗像神を祭る神社の全国分布(7)~津軽のムナカタ神社

さて宗像神信仰は、古代から広く分布していたことが、データからも確認できました。

今回は、現代においても顕著に分布している地域をみていきましょう。それを知ることにより、伝播の姿がみえてくるかもしれません。

論文で挙げられている地域と信仰は、
1.津軽のムナカタ神社
2.栃木の田心信仰
3.千葉印旛沼周辺の宗像神社群
4.中国山地の宗像神

です。
以下、概要をまとめます。

1.津軽のムナカタ神社

「平成データ」によると、少なくとも昭和期には、12社もの胸肩神社と1社の宗像神社が存在してます。
さらに胸肩神社にならなかった宗像系神社もあります。そのうちのひとつ、青森県庁近くにある善知鳥(うとう)神社の祭神は、宗像三女神です。ちなみに津軽の版画家として有名な棟方志功(むなかたしこう、1903-1975)氏は、その氏子の家に生まれ、宗像族であることを、誇りにしていたそうです。

なぜ九州北部から遠く離れた津軽の地に、多くのムナカタが祭られているのでしょうか?

実はとても興味深いことがあります。

青森県といえば、初期の水田遺跡が出土したことで知られていることは、前にお話ししました。その遺跡と、ムナカタ神社が、近い位置にあるのです。

下の図は、ムナカタ神社と弥生の水田遺跡を記した図です。

津軽ムナカタ神社  
 弥生水田として知られる「垂柳地区」周辺に、ムナカタ神社がありますね。また「垂柳」よりさらに古い水田が、「砂沢地区」で発見されてます。これは、宗像神の分布するルート上にあるともいえます。

下の図は、以前示した水田稲作と遠賀川式土器の伝播推定ルートです。
赤が水田稲作の広がり、青が遠賀川式土器の広がりルートです。


水田稲作と遠賀川式土器の広がり 

(平成20年度 桜土手古墳展示館特別展「古の農ー古代の農具と秦野のムラ」より)

実は「垂柳地区」で、遠賀川系の壺などが出土してます。遠賀川といえば、福岡県の旧宗像郡内を流れてますね。
またここでは省略してますが、宗像系式内社は、米子市、舞鶴市、小松市、能登半島、富山、新潟と日本海の道に沿っています。

水田稲作、遠賀川式土器の伝播とともに、ムナカタ神社も伝わったようにみえますね。

さらに矢田氏は、津軽に来た九州氏族は、宗像族だけではないらしい、としてます。

”鰺ケ沢町を中心に、胸肩神社の分布内に9社もの高倉神社が分布する。高倉の名をもつ神社は、中世の高倉天皇または以仁(もちひと)王を祭る神社を除けば、全国で29社しかない。このように集中するのはきわめて異例である。”

”高倉神社の祭神は、本来高倉下(タカクラジ)命である。この神は、古事記・日本書紀に、神武東征の時に熊野で神武一行を救ったとされるので、熊野地方の4社などで祭られている。
この神は、「先代旧事本紀」にニギハヤヒノミコトの大和入植以前の子の天香語山(アマノカゴヤマ)命の別名とされている。”

”この高倉神社の古社7が、宗像市の隣の遠賀郡岡垣町にある。その祭る神は大倉主(オオクラヌシ)命とツブラヒメノミコトという珍しい神で、「日本書紀」仲哀紀に仲哀天皇らが遠賀川河口の港に入ってとき出てくる。この大倉主命は、タカクラジと同一神と考える人が多い。”

”以上のことから、北部九州の物部系の人々が、宗像神を祭る人々と同様、古代以前に津軽に入った可能性が考えられる。”

またまた新しい神様が出てきました。「タカクラジ」です。神武東征の際、熊野で悪神の毒気によって倒れましたが、タカクラジがもたらした剣によって覚醒した、という話です。

ちなみにこの剣は、布都御魂ともいわれ奈良県天理市の石上神社に祀られてます。

「先代旧事本紀」によれば、「タカクラジ」は、ニギハヤヒの子のアマノカゴヤマと同一とされてます。ニギハヤヒは物部氏の祖神とされてますから、タカクラジは物部系です。このことは、布都御魂が祀られている石上神社が物部系であることとも、合致してます。

そして高倉神社の古社7社が、宗像市の隣の遠賀郡岡垣町にあるということは、物部氏もそこからやってきた可能性が高い、ということになります。

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宗像神を祭る神社の(6)~古代における宗像神の位置と現在の比較

前回、現在の神社を、信仰されている系統別に整理しました。
1位が八幡信仰、2位が伊勢信仰、3位が天神信仰でした。そして多くの神社において、さまざまな神様が習合されていることも、お話しました。

では、古代においては、どのような神様が信仰されていたのでしょうか。今回はそれをみていきます。

表7は、延喜式神名帳から、社名が同一であるか、同一と判断される社の数を集計したものです。


延喜式内社数  

1位が、2位が兵主、3位がミワ系、4位が物部系と続き、6位に宗像系が入ってます。
さらに7位にわたつみ系、9位にオオナムチ系と、神話でおなじみの名前が入ってます。

これらの系統が現在どうなっているか、をみてみましょう。

これは前回示した表8をみると、はっきりします。たとえば、表7において1位の鴨系統が、表8においてかろうじて26位に入っているにすぎません。2位の兵系統、3位のミワ系統などは、表8には入ってません。

このことからわかることは、古代に広まっていた社名は、現代では目立たなくなっている、ということです。


現代信仰社数 
 

では古代において流行していた神々に対する信仰は、現在までに消えてしまったのでしょうか?

下の表は同じ表8の右側です。現在の神社における祭神別に整理したものです。1位が八幡神、2位がアマテラス、3位がスサノオとなっており、6位のイザナギ・イザナミ神、7位のオオヤマツミと続きます。

表8左側の社名で検索したものと比べると、かなりよく対応してるのがわかります。ここから矢田氏は
”現在の神社の社名の多くは、中世以降の流行神に基づいていることがわかる。”
としてます。

はたしてそこまで言い切れるのか、とも思われますが、それはそれとしておきます。

ここで注目は、オオナムチ・大国主命です。

8位に入っていますね。ところが表8の左(現代の社名数)でみると、26位にも入ってません。つまり現代では、オオナムチ・大国主信仰は、大きな勢力となっていない、ということです。

一方、表7(延喜式内社)では、9位です。さらに表7の2位の兵主、3位のミワ系、9位のオオナムチ系の神社の現在の祭神には、その多くにオオナムチ・大国主命が祭られているということで、そこから、
”神話の時代にヤマト勢力に屈した出雲勢力であるが、古代にはその神を祭る神社が有力であったのである。”
と結論づけてます。

これは感覚的にも、納得できますね。


現代祭神数  

では宗像神はどうでしょう。

、”表7で上位(6位)にある宗像神は、中世以降の流行神を除くと、オオナムチ・大国主命に次ぐ数の神社に祭られている。八幡信仰社と厳島信仰社にも祭られているが、前者は573社、後者は571社でそれぞれその一部に止まる。宗像神の多くが、古代以前から祭られていたことが示唆される。”

少しわかりにくいですが解説します。
宗像神は、延喜式内社の数では6位です。つまり延喜式神名帳策定時(10世紀頃)においては、宗像神は広く信仰されていたことは確実です。
一方、現代においては、表8の左側の信仰社名では26位にも入っていません。では宗像神は無くなってしまったのかというとそうではなく、表8の右側の祭神でみると、オオナムチの8位についで、11位に入ってます。
このことから宗像神は、古代においては広く信仰されていたが、次第に中世以降の流行神に習合され、信仰社名としては消えていった。習合されても祭神としては残るため、現代でも祭神では11位という多さである、ということです。
なるほど、といった推論です。

”以上から、全国の神社には古代以前から祭られてきた祭神がかなりの比率で残っていること、そしてその解析により古代以前の信仰の姿が浮かび上がってくることがわかる。有名社の由緒の研究や、現存神社の社名分布などからは、このことは見えてこないのである。”

まとめです。まさしくそのとおりです。特に最後の、
”有名社の由緒の研究や、現存神社の社名分布などからは、このことは見えてこないのである。”という指摘は重要です。
各神社には、多くの由緒が伝わっており、たいへん貴重でありかつ参考になるわけですが、後年になって作られた話である可能性もあるわけです。鵜呑みにすることなく、さまざまなデータから、総合的に推測していかなくてはいけないと考えます。

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宗像神を祭る神社データは語る(5)~現代で最も多い神社の神様は?

ここまで宗像神をみてきましたが、ここで一度、全国の神社に目を向けましょう。

ここで皆さんに質問です。

「日本全体で、最も信仰されている神様は何でしょうか?」

すぐに思いつくのは、天照大神でしょうか。あるいは天神さまやお稲荷さん?

実は信仰されている神様で最も多いのは、神社の系統でいうと八幡信仰で7817社もあります。
次が、伊勢信仰の神社で、4425社です。
三位が、天神信仰で、3953社、以下、稲荷信仰、熊野信仰と続きます。

現代信仰社数  

ここで、主な信仰について、整理しておきましょう。少し長くなりますが、興味深い点もいくつかありますので、読んでみてください。

■1位の八幡信仰
”八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)は、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られた。
現在の神道では、八幡神は応神天皇(誉田別命)の神霊で、欽明天皇32年(571年)に初めて宇佐の地に示顕したと伝わる。応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神、応神天皇の母である神功皇后を合わせて八幡三神として祀っている。また、八幡三神のうち、比売神や、神功皇后に代えて仲哀天皇や、武内宿禰、玉依姫命を祀っている神社も多くある。
八幡神を応神天皇とした記述は『古事記』・『日本書紀』・『続日本紀』にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係であった『東大寺要録』や『住吉大社神代記』に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定される。”(Wikipediaより)

【解説】
八幡信仰というと宇佐神宮、そして応神天皇とつながるのですが、もともとは八幡神と応神天皇は別神だったのです。それが奈良時代ころから次第に習合された、ということです。

■2位の伊勢信仰
伊勢の神宮に対する、主として庶民の信仰をいう。『太神宮諸雑事記(だいじんぐうしょぞうじき)』に、934年(承平4)神嘗祭(かんなめさい)の日に「参宮人千万貴賤(きせん)を論ぜず」と記され、また1031年(長元4)6月の月次(つきなみ)祭にも多くの参宮人のあったことが記されるが、当時はまだ私幣禁断(しへいきんだん)、すなわち天皇のほかは私的な幣帛(へいはく)を捧(ささ)げ祈祷(きとう)することが禁じられており、本格的な庶民の参宮といえない。庶民一般が親しんで信仰し参宮したのは、中世に入ってからといえよう。古代末、院政時代に熊野(くまの)三山に対する朝野の厚い信仰が出たあとを受けて、中世初頭、源頼朝(よりとも)が神宮に神馬(しんめ)、幣帛を奉り、御厨(みくりや)・御園(みその)を寄進して以後、東国のみならず諸国の武士がこれに倣った。また僧侶(そうりょ)の参宮も増加するとともに、伊勢の神宮における権禰宜(ごんねぎ)層が御師(おし)として各地を回るようになって、熊野信仰に増して伊勢信仰が発達、私祈祷をするようになった。(日本大百科全書(ニッポニカ)より)

【解説】
伊勢信仰とは伊勢神宮に対する信仰です。伊勢神宮の内宮には、天照大神をお祭りしてるので、天照大神に対する信仰となります。一方、伊勢神宮には、天照大神〔内宮〕、豊受大神(外宮)のほかに123の宮社があります。ここから、125の神社を総称した「神宮」を詣でることを伊勢信仰ということもでます。
いずれにしても庶民に広まったのは、中世以降です。

■3位の天神信仰
”平安時代の公卿(くぎょう)・政治家・学者であった菅原道真(すがわらのみちざね)の死後、その霊は天満(てんまん)天神として崇(あが)められて信仰が広まり、現在に至るまで全国で1万数千社の天満宮を中心に、「天神さま」として親しまれてきた。903年(延喜3)道真は流罪となった筑紫(つくし)国大宰府(だざいふ)(福岡県太宰府市)にて没したが、京都では落雷などの天災が相次ぎ、また藤原氏一族の変死が重なり、世人はこれを道真の怨霊(おんりょう)によるものと畏怖(いふ)した。当時、社会的に強い影響のあった怨霊・御霊(ごりょう)信仰と結び付き、道真の霊は雷神、疫神(えきしん)、そして天満天神と観念された。”(日本大百科全書(ニッポニカ))
【解説】
学問の神様として有名な天神さまです。菅原道真を祭りますが、もともとの怨霊・御霊信仰と結びついたようです。

■4位の稲荷信仰
”京都市の伏見稲荷大社を中心とした信仰。本来は倉稲魂(うかのみたま)神を主祭神とし,農耕の神で,里と山を往来していると信じられていた。平安奠都(てんと)の前後から東寺の守護神として,仏教の枳尼(だきに)天と習合し,諸願祈請の神と仰がれ,キツネをその霊獣とする信仰が生まれた。分社は全国に分布し,江戸時代には商売繁盛の神として庶民の信仰を集めた。”(百科事典マイペディア)
【解説】
皆さんおなじみの「お稲荷さん」です。キツネを想起しますが、平安時代に、仏教の枳尼(だきに)天習合したものです。

■5位の熊野信仰
熊野三山(本宮・新宮・那智)を中心にした信仰。古く三熊野(みくまの)と呼ばれ霊山視されていたが,平安後期に至り,密教呪術(じゅじゅつ)と修験(しゅげん)道の隆盛に伴い,熊野三山の本地(ほんじ)が阿弥陀仏とされ,神宮寺の建立,修行場としての清水,長谷,金峰山の確立があった。907年宇多(うだ)法皇の熊野御幸(ごこう)以来次第に民間にも広まり,鎌倉時代には,現世安穏,来世善所を願う廷臣・武士・庶民で〈蟻(あり)の熊野詣(もうで)〉と呼ばれるほどにぎわった。”(百科事典マイペディア)
【解説】
修験道、山伏(やまぶし)で知られてますね。古くからの霊山であったことから、山岳信仰としての歴史はかなり古いと推測されますが、民間に広まったのは10世紀以降です。

■6位の諏訪信仰
”長野県諏訪市にある諏訪大社を尊崇する全国的信仰。祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)とされるが、この神は『古事記』の国譲りの段によると、国譲りを不服として高天原(たかまがはら)の使者と闘争して敗れ、科野国(しなののくに)洲羽海(すわのうみ)に逃れて、その地に封ぜられたと伝えられる。すなわち、神代以来の古社であり、全国に勧請(かんじょう)された分社は約1万を数えるともいう。この信仰は、かつては諏訪神人(じにん)とよぶ遊行者(ゆぎょうしゃ)によって流布されたもので、その分布状態からみると、北陸から信濃(しなの)にかけて居住していた出雲(いずも)系族類による信仰に起源するが、時代によって変遷がある。大昔は狩猟神として尊敬されたが、農耕時代には農耕神として、また武家時代になると武神として全盛を極めた。”(日本百科事典ニッポニカ)
【解説】
祭神の建御名方神(たてみなかたのかみ)は、出雲の大国主命の息子です。諏訪に逃れて、先住民の守矢一族と戦い、和睦したともいわれてます。ちなみに諏訪大社というと、奇祭「御柱(おんばしら)祭」で有名ですが、あの柱は、守矢(もりや)一族が祀るの古代自然神「ミシャグチ」の依り代(よりしろ、「神霊が依り つくもの」の意)とも伝えられます。

■7位の祇園信仰
牛頭天王に対する信仰で,天王信仰の一つ。牛頭天王は,仏教上では八部衆の一つ天部の神で,武塔天神あるいはスサノオノミコト(素戔嗚尊)とされることもあり,疫病をはらう威力をもつと信じられた。平安時代の初期,伝染病が流行したとき,その病をもたらした怨霊をしずめるための御霊会(ごりょうえ)が,牛頭天王を合祀した京都府の八坂神社において執行されたが,これがのちになって祇園祭として知られるようになった。”(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
【解説】
牛頭天王(ごずてんのう)とはあまり聞きなれませんが、仏教の神です。のちにスサノオと習合されました。なお牛頭天王には八人の王子がおり、そこから八王子権現・八王子神社という名前が生まれました。

概略は以上です。
信仰の対象が、必ずしも始まった当初と同じではなく、のちに習合したものが多いことに気づきます(八幡信仰の応神天皇など)。また全国に広まったのは、古代というより中世以降のものがほとんどですね。

これで現代の主な信仰神について、データがそろいました。

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宗像神を祭る神社のデータは語る(4)~弁天信仰との関係

日本各地に、「弁天さま」と呼ばれるものがあります。安芸の厳島も、日本三大弁天(弁財天)として、知られてます。ちなみに日本三大弁天とは、厳島神社のほか、宝厳寺・竹生島神社(滋賀県 竹生島)と江島神社 (神奈川県 江の島)です。

<江島神社>
江島神社
(Wikiediaより)

”弁財天とは、もとはインドの川の神サラスヴァティーである。それが仏教に取り込まれ、中国経由で日本に入ってきたのは奈良時代とされる。平安時代に日本の女神と習合し、厳島神社のイチキシマも弁才天と見なされるようになった。さらに平安末期以降{才」が「財」と同音であることから弁財天とも書かれるようになり、室町時代以降は七福神の一神として日本国中に信仰が広まった。”
【解説】
「弁天さま」は財宝神としての性格をもち、鎌倉市の銭洗弁財天宇賀福神社は、同神社境内奥の洞窟内の湧き水で持参した銭を洗うと、数倍になって返ってくるという信仰があります。

<弁才天立像(8臂像)>
弁財天
(京都府木津川市・浄瑠璃寺伝来(鎌倉時代 吉祥天像厨子絵))

さてデータです。

”「平成データ」に登録されている神社のうち、218社に弁(才)天の通称が記録されている。このうち85%の186社に宗像神が祭られている。うち154社はイチキシマ一神を祭っていて、厳島系の名を持つ神社は145社である。弁天信仰がイチキシマと、そして厳島神社と強い縁があることがわかる。図3に、厳島系神社のうち弁(才)天の通称を持つ全国の神社の分布を示す。”
【解説】
弁天信仰が、宗像神(特にイチキシマ信仰)、そして厳島神社と強い関連性があるとしてます。

”弁(才)天の名は東国に多く残っており、東国が弁天信仰の影響を強く受けていたことがわかる。ただしこれは、弁(才)天を祭る神社が創始されたことを意味するものではない。後に実例で示すように、あくまで宗像神が先に祭られていて、それに弁(才)天が習合したと考えられるのである。またこれは、西国で弁天信仰が普及しなかったことを意味するものでもない。江戸時代中期の「筑前続風土記付録」には、宗像系神社や厳島神社とは別に弁天社や弁天堂が記録されているが、その多くは明治時代以降に残っていない。
このように弁天信仰は、現在祭られている宗像神を祭る神社数に、大きな影響を及ぼしていないと考えられる。”

【解説】
図3をみてもわからないのですが、弁天信仰と宗像信仰の関係は、宗像神が先に祭られていて、後から弁天信仰が習合された、としてます。

厳島系神社と弁天 

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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