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北部九州の宗像神と関連神を祭る神社データは語る(2)~他の神々との棲み分け

前回は、九州北部における宗像神の分布がきわめて偏っている、という話でした。

ではなぜそれほどまでに偏っているのか、矢田氏は推測します。

それは「他の神との棲み分け」があったのではないか?、と。

図6は、北部九州4県で祭られる代表的な祭神と、それらを全国平均に対する集中度で示したものです。

横軸が北部九州で祭られる代表的祭神で、全部で20挙げてます。
縦軸は全国に対する集中度で、1が平均、上にいくほどその地域に集中している、すなわち信仰が浸透していることを示し、下にいくほど集中していない、すなわち別神を信仰している地域であることを示してます。
北部九州諸神全国割合

左の3つが宗像神です。1番左が全宗像神、2番目が三女神(八王子除く)、3番目がイチキシマ単神です。
両者とも、宗像郡の集中度(緑色)が圧倒的であり、福岡県(赤色)、北部九州(青色)とも、全国平均を上回っています。
それに対して、イチキシマ単神が全国平均とほぼ同じであり、これはもともとあったイチキシマ信仰がのちに宗像を中心とした宗像神信仰に置き換えられていった、という推測の正しさを後押ししてます。

左から4番目から6番目の、志賀神・住吉神・玉依姫の三神は、北部九州で宗像神と並んで海神として祭られることの多い神々です。ちなみに玉依姫とは、神武天皇の母親であり、京都市下鴨神社の主祭り神として全国の加茂神社に祭られてます。
三神とも、北部九州に多く祭られてますが、特に福岡県で集中度が高く、その中でも玉依姫の集中度が高いですね。

続く八幡神(応神天皇)・神功皇后・武内宿弥の三神は、八幡系神社で主に祭られる神々で、主神の応神天皇は全国平均と同程度の分布であるのに対し、神功皇后と武内宿弥は北部九州、特に福岡県に強い分布を示してます。

次のオカミ神・ミズハノメの二神は、記紀神話で宗像神より先に登場する由緒の古い水神です。
”剣の柄に溜つた血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)とともに闇龗神(クラオカミノカミ)が生まれたとされる。龗(おかみ)は龍の古語であり、龍は水や雨を司る神として信仰されていた。
ミズハノメは、『古事記』の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたとしている。『日本書紀』の第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神(ハニヤマヒメ)罔象女(ミズハノメ)神を生んだとしている。淤加美神とともに、日本における代表的な水の神(水神)である。 ”(Wikipediaより)。


オカミ神とミズハノメは、北部九州に集中して分布し、特にオカミ神は宗像郡を含む福岡県に強く集中してます。オカミ神は重要な神で、この後出てきます。

イザナギ・イザナミが生んだ神々



イザナミの病死によって生まれた神々 

続くオオナムチ+大国主命、スクナビコナ、事代主の三神は一般に出雲系として知られる神々です。出雲の主神オオナムチ(「書紀」に大己貴神(オオナムチノカミ)、大国主命(オオクニヌシノミコト)と同神とされる)の集中度は高くありませんが、他の二神(スクナビコナ、事代主)は福岡県に多く、特にスクナビコナ(「書紀」に少彦名命(スクナビコナノミコト))が宗像郡に多いのが目立ちます。

スサノオ、アマテラス、菅原神、稲荷神、オオヤマツミは、全国的に広く知られている古代後半以降の流行神です。
スサノオは、記紀神話では出雲の重要神ですが、「出雲国風土記」では重要神の扱いはされてません。現在は後年盛んになった熊野信仰の神として祭られるケースが多いのですが、宗像郡に少ないのはこのためであろう、と推測してます。
アマテラスは、北部九州に少なく、特に宗像郡には殆ど祭られていません。これは、”天皇家の祖神アマテラスは、古代に一般に祭られることが少なかったためと思われる。神祇世界の成立が古かった北部九州では、中世以降の伊勢信仰の影響が入りにくかったのであろう。”と推測してます。
菅原神はその由緒から北部九州に多いのですが、その中で宗像郡は平均的です。
稲荷神(「書紀」に倉稲魂(うかのみたま))を祭る社数は、全国の普及度よりかなり低いです。。
オオヤマツミ(「書紀」に大山祇)は、宗像郡に少ないことが特徴的です。

以上いずれも宗像郡に少ない理由として、
”これらの特徴は、宗像郡の神祇世界が殆ど古代のうちに成立していたために、中世以降の流行神が入る余地がなかったことを示すと思われる。”
と推測してます。
ただしこれら全てが中世以降の流行神であったためなのかは、なんとも言えません。信仰された地域が別の地域であった可能性もあるでしょう(オオヤマツミなど)。

最後の二神、「書紀」に出る土の神、埴安(ハニヤス)神(埴安姫が殆どであるが、男神の埴安彦もある)埴山神(北部九州で少なく、すべて埴山姫)は一般に同じ神とされ、実際相互に殆ど区別なく祭られていることが多いので、両神を合計して扱ってます。
”カグツチ(火の神)を産んで死ぬ間際のイザナミの大便からハニヤス神・ハニヤスヒメ神の二神が化生したとする。『日本書紀』では埴安神と表記される。他に、神社の祭神で埴山彦神・埴山姫神の二神を祀るとするものもある。
なお「ハニ」(埴)とは土のことである。”(Wikipediaより)

オカミ神・ミズハノメ同様、記紀神話で宗像神より先に登場する由緒の古い神です(上図参照)。この神は、北部九州、中でも福岡県の集中度が高いです。宗像郡ではそれほど集中度が高くないので、それ以外の地域に集中していることが推定されますね。

さて以上みてきましたが、各神同士の関係性は、どのようになっているでしょうか。
統計学上の相関係数という関数を使って解析します。詳細は割愛して、結果だけ記します。

三女神と相関が大きい、すなわち三女神を信仰する社数が多い地域で、同じように社数が多くなる信仰がオオナムチ+大国主、スクナビコで、ここから出雲と宗像の強い関わりが推定できます。

逆に相関がマイナスの関係性にある、すなわち三女神を信仰する社数が多い地域で、社数が少なくなる信仰が神武天皇の母親である玉依女(タマヨリヒメ)です。

もうひとつ三女神とマイナスの関係性にあるのが、埴安神です。

この二神は共同で他神が入りにくい独自の信仰圏をもっていた、ことがみてとれます。

では具体的にどういうことなのか、次回みていきます。

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北部九州の宗像神と関連神を祭る神社データは語る(1)~宗像神信仰の地域偏在が示すこと

前回まで、「宗像神を祭る神社の全国分布とその解析ー宗像神信仰の研究(1)ー」(矢田浩)を基に、みてきました。

宗像神というと三女神(イチキシマ・タゴリ・タギツ)をセットで考えがちですが、実際にはそうではなくそれぞれ別個の信仰であったことが、統計データから推測できました。そのなかでも特にイチキシマ信仰が最も古く全国に広がっていたと推測されます。時代を経て、次第に三女神が宗像神として統合されていったとしてます。

今回から、その第二弾「北部九州の宗像神と関連神を祭る神社の解析ー宗像神信仰の研究(2)ー」をみていきます。

宗像神信仰の起源と考えられる九州北部での信仰を、宗像神以外の神との関連も含め、統計データで解析してます。これもまた前論文同様、たいへん興味深いものとなってます。

”宗像神信仰の起源と考えられる福岡県では、宗像神を祭る神社の存在比は全国の平均レベルであった。これは福岡県が地勢的・歴史的に広域にまたがり、その中で宗像神信仰が他信仰と棲み分けしているためと考えられる。そこで本報では、北部九州諸県について旧郡単位で分布を調査し、不均一な分布の一因と思われる他神信仰との関係についても調べた。
図2に旧郡別の宗像神の分布を示す。旧郡間で社数が大きく異なることが分かる。福岡県内で見ると、宗像郡の17社はやはり大きいが、隣の遠賀郡が20社とより多い。県内ではほかに企救・三瀦郡が10社を超えている。
その他の郡、特に筑前南部と筑後の諸郡にはきわめて少なく、県内で分布が偏っている。一方、佐賀県の東西松浦・杵島郡や、大分県の宇佐・大野郡など、宗像郡と同程度またはそれ以上に宗像神が祭られている郡がある。”


【解説】
宗像神の分布は、宗像郡が多いのは当然ですが、隣の遠賀郡や大分県の宇佐郡・大野郡が、宗像郡での数を上回っていることに注目です。さらに佐賀県の東西松浦・杵島郡も多いのに対して、筑前南部と筑後には極めて少ないなど、分布が偏っていることが確認できます。

北部九州郡名図  

北部九州宗像神分布


”前報の全国分布では、三女神のうちイチキシマのみを祭る神社が全宗像神を祭る神社の60%以上を占め、特に宗像から遠方で多いことを指摘した。これに対し北部九州4県ではその比率が48%で、宗像郡では17%ときわめて低い。
反対に三女神を祭る神社は、全国で22%に対し北部九州で42%と高く、宗像大社のある宗像郡では17社中三女神を祭る神社が11社(67%)と極めて高い。あきらかに宗像大社の影響によりその周辺で三女神化が進んでいることが窺われる。"

【解説】
数字がいろいろ出てきてわかりにくいので整理しますと、全宗像神を祭る神社のうち、
a.イチキシマのみを祭る神社の割合は、
  宗像郡(17%)<九州北部4県(48%)<全国平均(60%以上)
b.三女神を祭る神社の割合は、
  宗像郡(67%)>九州北部4県(42%)>全国平均(22%)
とa,bがきれいに逆になってます。
このことから、宗像大社の影響でその周辺で三女神化が進んでおり、遠ざかるにつれ三女神化が進んでいない、つまり昔の信仰が残っている、としてます。

”宗像神を祭る神社の各郡全社数に対する比の分布を示したのが、図5である。
九州東北部の沿海3郡に宗像神が集中して祭られており、やはりこのあたりに信仰の中心があったことを示している。この3郡に続く九州東海岸に比較的宗像神の多い地域が連続しており、宇佐郡から国東半島にかけて分布する。そして内陸部の直入・大野郡でまた高まりを見せ、宮崎県の東臼杵郡が続く。ここでは宗像郡の全てがイチキシマ単神である。
そして筑前中央部の比較的宗像神の希薄な地域を挟んで、佐賀県東部にこれに劣らない宗像神集中域がある。”


【解説】
全社に対する宗像神を祭る神社の割合を示した図です。分布がきれいに分かれており、とても興味深い図です。
九州東北部の3郡(宗像・遠賀・企救)から東側にかけて、すなわち瀬戸内海側の地域に集中してます。一方、西側は佐賀県東部に集中してます。そして真ん中に当たる筑前中央部が空白地帯となっており、たいへん特徴的に分布していることがわかります。
また、対馬北部五島列島での割合が高いことにも注目です。

北部九州宗像神割合図

ではこの偏った分布は、何を意味しているのか?

大きな視点で見ると、”もともとは宗像神を祭る人々(海人族)が北部九州一帯に住んでいたが、「別の信仰」をもった人々(「別の海人族」)が筑前・筑後にやってきて、その一帯を支配した”、という流れが想定できます。

ではその「別の海人族」とは何なのか?、「別の信仰」とは何なのか?、次回詳しくみていきましょう。

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宗像神を祭る神社データは語る(11)~宗像神が祭られた時期

ここまで、矢田氏論文のデータを基に、宗像神についてみてきました。

矢田氏は、膨大なデータを駆使して、見事な分析をしてます。古代史において、ここまで統計データを用いて解析をするのは、なかなかないのではないでしょうか?。なにか理系の臭いを感じますね。

ここまで論者である矢田氏について紹介してませんでした。
矢田氏は、元静岡理工科大学 理工学部 機械工学科教授で、金属工学が専門のようです。神社関連の研究は、趣味でやっているのでしょうか。よくわかりませんが、理系の思考法で解析しているのは確かです。データを基に、バッサ、バッサと容赦なく推論を進めてます。私も理工系出身なので、何か爽快な気分になります。

論文では最後に、宗像神が祭られた時期について、推測してます。

矢田氏は、ここまで素晴らしい論考を進めていたのですが、以後については私の見解と大いに異なるものとなってます。

まずは論文からです。
宗像神の広域活動は、有史以前であったとしたうえで、
”そのような古代の活動は、縄文時代ムナカタ周辺に根拠を持っていた海人の広域活動に起源があったように思われる。そこで養われた全国の地理や物産に関する知識の蓄積が、弥生文化の東漸に当たって大いに力を発揮したらしい。具体的には、北部九州に収まりきれない稲作農耕民集団が各地へと渡航を企てる際に、有望地の紹介や水先案内人を務め、その後の各集落間の交易や有用資源探索とその流通など、現代の総合商社的な活動を担っていたと推定することができよう。”

このように日本海側を中心に、大活躍してきた宗像海人族ですが、次第にその活動に陰りがみえてきます。その時期、および要因について次のように述べてます。

”このような広域活動は、中央集権国家が確立し律令体制が敷かれるとその余地がなくなり、秩序を乱すとされて規制されるようになったと思われる。歴史資料にその痕跡を求めると、まず宗像三女神が誕生する誓約神話がある。それ以前に宗像神を祭る人々の活動が全国に広がっていたにもかかわらず、この神話では三女神の活動を「海北道中」に限定していることが重要な意味を持つと考えられる。つまり、「国内交易はもう結構だから、朝鮮半島との交通路に活動を限定しなさい」という意味に受け取れるのである。”

【解説】
さて問題はここからです。まず時期として「中央集権国家が確立した時期」としてますから、4から5世紀頃となります。そしてそれを暗示するように誓約神話が作られた、としてます。
その要因として、「中央集権国家が確立したので、交易についても宗像海人族に頼る必要がなくなり、かえって邪魔な存在になった。」と推論してます。

ここで誓約神話のあらすじですが、
イザナギスサノオに海原の支配を命じたところ、スサノオはイザナミがいる根の国(黄泉の国)へ行きたいと泣き叫び、天地に甚大な被害を与えた。イザナギは怒って「それならばこの国に住んではいけない」と彼を追放した。
スサノオは、姉のアマテラスに会ってから根の国へ行こうと思い、アマテラスが治める高天原へ昇る。すると山川が響動し国土が皆震動したので、アマテラスはスサノオが高天原を奪いに来たと思い、武具を携えて彼を迎えた。
スサノオはアマテラスの疑いを解くために、宇気比(誓約)をしようといった。二神は天の安河を挟んで誓約を行った。まず、アマテラスがスサノオの持っている十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の三柱の女神(宗像三女神)が生まれた。
この三姉妹の女神は、アマテラスの神勅により海北道中(玄界灘)に降臨し、宗像大社の沖津宮、中津宮、辺津宮、それぞれに祀られている。
次に、スサノオが、アマテラスの「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の五柱の男神が生まれた。”(Wikipediaより)

<誓約>
誓約系図

確かに誓約により、三女神は海北道中に降臨しましたが、三女神はこのとき初めて生まれたわけです。少なくともこの話からは、以前に広域的に活動していた三女神(特にイチキシマ)の活動を、これ以後海北道中に限定する、とは読み取れません、

また時代も、誓約神話は神代の時代であり、天孫降臨(私の推定で紀元前5~4世紀ころ)より前の話です。ましてこれから出てくる神功皇后の時代(4世紀後半以降)の話からみれば、はるか遠い時代になります。古事記・日本書紀の作者が、これらの話を同時代の話として描いたとは、とても思えません。

矢田氏は続いて、次のように述べてます。

”これと同一文脈の「日本書紀」の記事として、応神天皇の三年に、処処の海人が命に従わないので、阿曇連(あずみのむらじ)の祖大浜宿弥(おおはまのすくね)を遣わしてそのソバメキを平らげ、海人の宰(みこともち)としたことが載る。これは、これまで広く国内航路で活躍していた宗像海人族を締め出し、安曇族の首領に海人の統括を委ねたと解釈できる。このあと応神天皇の五年に、「諸国に令(みことのり)して海人及び山守部を定む」とあるので、明らかに全国の海人を、諸国の国造を介して中央の統制下に置いたのである。”

”このような措置が取られた理由は明らかではないが、神功皇后伝説を信用するとすれば、平和的な通商活動を旨とするムナカタの海人が、四世紀後半以降と考えられる朝鮮半島への武力侵攻に協力しなかったのが原因ではないか。
「日本書紀」によれば、宗像海人と関係があったと考えられる(あるいはその代表であった可能性がある)岡県主(おかのあがたのぬし)の熊鰐(わに)が、はじめ仲哀天皇と神功皇后を大歓迎したのにその後の記述が全くなく、朝鮮半島への航路に不案内な吾瓮(あえ)の海人(新宮町沖の相島と考えられる)や磯鹿(しか)の海人(福岡県の志賀島と考えられる)に国見をさせて、後者が山から島が見えたというのでやっと渡海したという。案内役がいないため神功皇后が困った様子がわかる。
住吉神の創始も神功皇后の出兵に絡んでおり、宗像神に代わる朝廷に従順な海神(とそれを祭る海人族)が必要であったと思われる。神功皇后が実在の人物かは疑問があるにしても、広開土王碑文から倭国が4世紀末から5世紀初めにかけて朝鮮半島南部に出兵していたのは事実であり、この伝説はそれを反映していると思われる。”

矢田氏は、宗像海人族が締め出されたとしたうえで、その理由を「朝鮮半島の武力侵攻に協力しなかったためではないか」と推測してます。
その根拠として
a.宗像海人族と考えられる岡県主の熊鰐(わに)が、その後登場しないこと。
b.安曇海人族の吾瓮(あえ)や磯鹿(しか)の海人が朝鮮半島への航路に不案内であり、神功皇后が困ったこと。
を挙げてます。

まずaですが、これだけでは何ともいいようがありません。
ただし、古事記・日本書紀によれば、
”天照大神の子供である三女神は天照大神から「歴代の天皇を助け、歴代の天皇からお祭りを受けるように。」との神勅を奉じて、国の守護神としての使命をおびて、三宮(さんぐう)に降臨した。”
とあります。
つまり、宗像族は天皇を助けるミッションをもっていたわけです。それにもかかわらず、なぜ神功皇后の朝鮮出兵の命に従わなかったのか、という問いに対する答えが見つかりません。

次のbですが、現代訳では、
吾瓮海人鳥摩呂(あへのあまおまろ)を使って、西の海に出て、国があるかと見させられた。還っていうのに、「国は見えません」と。また磯鹿(しか)(志賀島)の海人ー草を遣わして見させた。何日か経って還ってきて、「西北方に山があり、雲が横たわっています。きっと国があるのでしょう」といった。”(「日本書紀」(宇治谷孟訳)より)

となってます。
はたしてこの文章から、安曇海人族が朝鮮半島への航路に不案内だと言えるのか、よくわかりません。神功皇后は、そんな頼りない安曇海人族を頼りに朝鮮半島まで出征して、戦果を収めたのでしょうか。そもそも航海術を糧としている安曇海人族が不案内というのもありえません。

このようにa,bともに無理筋な解釈に思えます。したがってここから「宗像族族が、朝鮮半島の武力侵攻に協力しなかったために締め出された」という推測も、成立しえないと考えます。

”四世紀後半に始まるとされる沖の島祭祀は、まさにこの時期に対応している。誓約神話が創られ宗像神が神格化されたのも、この頃ではないか。原則として古代氏族が複数神を祭ることはないので(祖神の家族神を共祭する場合を除き)、神名の性格が全く異なる三神が共祭されるのはきわめて異例であり、そこには政治的意図が感じられる。本報で見た祭神分布から、宗像海人族がはじめに祭っていたのはイチキシマ一神であったのは疑いない。
本報で見た宗像神の全国分布の特徴の多くは、ヤマト政権が確立したとされる4世紀以前の、宗像海人族の広域活動を反映していると思われる。”

論文では、ここから沖ノ島祭祀との関連について述べてます。世界遺産登録で話題の沖ノ島ですが、その祭祀は4世紀後半頃始まったとされてます。なぜその時期に始まったのかです。

”391年に倭国が高句麗へと出兵した際、北部九州が前線となった時期に相当する。また、宗像氏がヤマト王権の力を背景に朝鮮半島や中国(当時は北魏)との交易に乗り出したのも同時期であり、そうした遺物も確認されている。”(Wikipediaより)

沖ノ島祭祀が始まった時期が、朝鮮半島との戦いや交易と密接に関係しているのは、間違いないでしょう。

ではその祭祀を執り行った主体は誰で何のために行ったのか?、という大きなテーマがあります。通説ではヤマト王権が航海の安全を祈るため、ということになってますが、果たして本当にそのように言えるのか、後ほどあらためて取り上げます。

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宗像神を祭る神社データは語る(10)~中国山地の宗像神

広島県は、宗像神を祭る神社が最も多いのですが、その分布をみてみましょう。

図7を見てください。上段の数字は各郡の全神社数に対する宗像神を祭る神社の比率、下段の数字は純宗像系神社(宗像神社を含む)の数です。
宗像神は、安芸の厳島神社のある海岸地帯ばかりでなく、内陸部にも多く、特に現在三次(みよし)市の一部となっている旧三谿(みたに)郡で、最も高い集中を示してます。ではなぜこのような山奥に、宗像神が祭られているのでしょうか。

広島県宗像神社

矢田氏は次のように論説してます。長くなりますが、詳細に論じており、とても興味深いので、引用させていただきます。
”このあたりは、島根県江津市に河口を持つ江(ごう)の川の流域である。図7のとおり、江の川は広島県東部の山間部に広い流域を持ち、流域面積は広島県全体の面積の3分の1に近い。宗像神は、このような江の川の支流に沿って、祭られている。旧三谿郡は、その名が示すように東・南方からの馬洗(ばせん)川、北方からの神野瀬(かんのせ)川、北西からの三川が合流する交通の要衝である。江の川から入り、瀬戸内海方面に出るにも、岡山県方面に向かうのも、ここを経由することになる。
この地帯はまた、岡山県の西部を流れる高梁(たかはし)川の上流域と近い。有名な帝釈峡(たいしゃくきょう)も、岡山県の高梁川支流の成羽(なりは)川(広島県では東条川)に流れ込む渓谷である。このあたりは内陸交通の要衝であるとともに、岡山県を通って兵庫県まで続く吉備高原の西の入り口である。”

【解説】
三谿(みたに)郡は、山陰と瀬戸内海を結ぶまさに「交通の結節点」といえますね。この地には、弥生時代に「四隅突出型墳丘墓」が早い段階で築造されたことで知られてます。「四隅突出型墳丘墓」は、山陰地方を代表する特異な形状をした墳墓ですが、のちに吉備にも築造されました。旧三谿(みたに)郡には、古代から巨大勢力であった出雲と吉備をつなぐ役割があったことが窺われますね。

”この帝釈天峡周辺は、縄文時代を中心とする多くの遺跡で有名である。ここからは九州南部に起源を持つ縄文前期(約6000年前)の轟B式土器が出土している。この土器は、中国地方では山陰に多く分布し、山陽には少ない。形式から見ても、山陰から帝釈天経由で山陽にこたらされたとみられている。
この土器は、最近宗像市のさつき遺跡で、これに続く時期の曽畑(そばた)式土器と共に出土している。これらの形式の土器は、遠賀川河口から下流域の多数の貝塚から出土しており、さらに海を渡って釜山市の東三洞(とんさんどん)貝塚など朝鮮半島南部の遺跡からも出土していて、北部九州海人族の広域活動で拡散したものと考えられている。
曽畑式土器は沖ノ島からも大量に見つかっており、これらの土器の伝播に宗像から遠賀川河口付近の海人族が関与した可能性が高い。この時期に宗像神信仰がすでにあったかはわからないが、宗像海人族が縄文時代以来中国山間部とつながりを持っていたことが推定できる。”


【解説】
このことをはっきり示唆する例として、「分銅形土製品」を挙げてます。弥生時代中期から後期のはじめにかけての中国地方や愛媛県などの諸遺跡から出土する奇妙な形の土器です。
出雲を代表する西川津遺跡から出土した「分銅形土製品」は、岡山県北部から広島県北東部にかけて分布するクローム鉄鉱というきわめて希少な鉱物を原料として作られているそうです。またこの遺跡から出土した北部九州型の漁業用の石錘(せきすい)(弥生時代前期から中期)も同一の原料から作られているとのことです。
この鉱物は先の広島県の西城川、岡山県の成羽川・高梁川、鳥取県の日野川の上流域に分布しており、帝釈天はその西の端に当たります。
そしてこの地域には、宗像神を祭る神社が集中的に分布してます。西川津遺跡との関連から、”土地を離れられない農民に代わって、宗像神を祭る人々が原料の採取と運搬に関わった。”と推測してます。

さらに、高梁川上流域には、他にも多くの鉱産資源があることから、”その情報を弥生集落にもたらし、採取と運搬に携わったのが、宗像神を祭る人々だったのではないか。”と述べてます。

広島県の鉱床が岡山県側に多く、「分銅形土製品」が岡山県に多いのと対応して、広島県の宗像系神社も岡山県側に多いことから、”宗像族が分水嶺を越えて瀬戸内海方面へのルートを開拓していたことを示す。このような南北交通の起源は、縄文時代にまで遡るようである。”と述べてます。

他にムナカタと縁のあるこの時期の出土品として、中国系の土笛(陶塤(とうけん))があります。西川津遺跡からは、隣り合うタテチョウ遺跡と合わせて、38個も出土しており、日本最多だそうです。
この土笛の出土は、旧宗像郡の2個(宗像市と福津市)が最西端で、ムナカタ経由で日本海沿岸に広まったものと考えられています。

以上の二例より以降に重要になったと思われる中国山地縦断ルートを挙げてます。丹波市の氷上回廊(ひかみかいろう)です。

”このルートの分水界の高さは95mしかなく、重量物を水運で運ぶのに適している。このルートの入口は舞鶴港外の栗田湾に注ぐ由良川であて、河口から約10km遡った河畔にタゴリを祭る志高神社がある。福知山市の東で土師(はぜ)川に入りさらに竹田川に入るが、このあたりにも宗像神を祭る神社が多い。竹田川流域には市島町という地名もある。丹波市春日町で本流と分かれ、黒井川を西流し突き当たる辺りにタゴリを祭る楯縫神社がある。ここを南に折れると分水界で、殆ど高低差なく加古川の流域に入る。このルートに沿って宗像神を祭る神社が多いが、中でも集中するのが、西方に分岐する万願寺川に沿った加西(かさい)市域である。”

氷上回廊周辺宗像神社 
【解説】
加西市に三女神のみを祭る石部(いそべ)神社があります。石部神社は、前にお話した延喜式内社社名系統数で、13社(8位)と古代に栄えていた神社です。

”イソベを名とする神社(磯部と書かれることが多い)は全国で30社あるが、おおむね出雲系の神を祭り、宗像神を祭るのはここだけである。祭神として多いのは、(天日方、アメノヒカタ)奇日方(以下クシヒカタ)である。上記分水界にあるイソベ神社も、この神を主神としている。この神は「旧事記」にオオナムチ三世の孫として出ていて、父はオオナムチとタギツとの子八重事代主(ヤエコトシロヌシ)神とされている。イソベ社に出雲の主神オオナムチよりもこの神が多いのは、このルートが比較的後で開発されたからである。”
”このルートに沿って、宗像神でもタゴリを祭る社が多く、アジスキを祭る社もあることは、栃木県と同様鉄器の流入に関係があるように思われる。このルートは、弥生時代後期に丹後に多くの鉄器製造基地が開かれた後、重量物である鉄を、鉄の欠乏していた畿内方面に運ぶために利用されたのではないか。”

【解説】
加西市とその周辺には、非常に多くの溜池がありますが、これも宗像族の水理土木技術との関連を指摘してます。
丹波といえば、古代の鉄の一大産地ですが、この氷上回廊を通って播磨に出て、そこから畿内に運ばれた、というのはもっともな説です。いうなれば「アイアン・ロード」といったところでしょうか。

中国地方宗像神伝播ルート
”加古川河口付近に厳島系の神社が多いのには、安芸の厳島神社の影響もあると思われる。これに続く神戸市に、三女神それぞれを単独で別社に祭る三社があるのが注目される。その一つ、タギツを祭る三宮神社神戸三宮の名になっている。”

【解説】
加古川と安芸の厳島神社との関係です。同じ瀬戸内海ですから、当然交流があったことでしょう。
ここで三宮が出てきました。三宮とは、
生田神社の八柱の裔神を祀った一宮から八宮までの神社(生田裔神八社)の中の三柱目に当たり、祭神としては湍津姫命(たきつひめのみこと)を祀っている。 航海の安全と商工業の繁栄を守る神として、古くから一般の崇敬厚い神社。古い記録がなく、いつ創設されたかなどについては未詳。
生田裔神八社(いくたえいしんはちしゃ)とは、兵庫県神戸市の生田神社を囲むように点在している裔神八社のことである。
祀られているのは、日本神話のアマテラスとスサノオの誓約の段で産まれた三女神五男神とされているが、七宮神社のみ全く関係のない祭神となっている。さらに、活津日子根命(イクツヒコネ)はどこにも祀られていない。 ”(Wikipediaより)


創建については不明ですが、生田神社は「日本書紀」に、神功皇后の三韓外征の帰途立ち寄り祭った地、と記録されてます。それが起源なのかは判然としませんが、いずれにしろ「航海の安全と商工業の繁栄を守る神」ですから、かなり古い時代に創建されたと考えてよいと思われます。

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宗像神を祭る神社データは語る(9)~印旛沼周辺の宗像神社群

次に千葉県です。引き続き矢田氏論文からです。長くなりますが、たいへん興味深くかつまた参考になるので、引用させていただきます。

3.印旛沼周辺の宗像神社群

”千葉県の13社の宗像神社は、すべて旧印旛沼の北岸に沿って丘陵上に分布する。印旛沼は、現在ではいくつかの小さい湖沼に分かれているが、かつては利根川に繋がる長大な河跡湖であった。図6に郷土史家の小倉博氏による分布略図を示した。この図に示すように、この宗像神社群と接して、19社の鳥見神社群(かつては21社)がある。またさらに、印旛沼を挟んで15社(かつては18社)の麻賀多(まかた)神社がまとまって分布する。”

印旛沼周辺神社


”この分布が、宗像神を祭る氏族(宗像族)の役割を示していると思われる。小倉氏によると、麻賀多神社は全国でもここだけに分布する神社で、応神天皇の時代に印波国造(いにはのくにみやつこ)となったという伊都許利(いつくり)命を祭る。すなわち地元のローカルな祖先神である。”
”一方鳥見神社群は、全て物部族の祖先神ニギハヤヒを主神として祭っている。鳥見の名のある神社は全国でここだけであり、ニギハヤヒを祭る神社の135社のうちでもここが最も多い。この社名は現在殆どトリミと読まれるが、2社はトミと読む。地名もかつてはトミといったようである。”


【解説】
印旛沼を取り囲むようにして、宗像神社群、鳥見神社群、麻賀多神社群があります。さらに埴生(ハニヤス)神社群があります。ハニヤスもキーとなる神様であり、回を改めてお話します。

社伝によれば、景行天皇42年6月晦日、東征中の日本建尊が当地を訪れ、杉の幹に鏡を懸け「この鏡をインバノクニタマオキツカガミと崇めて祀れば、五穀豊穣になる」と言い、伊勢の大神を遥拝したのが当社の起源であるという。応神天皇20年、神八井耳命の8世の子孫である印旛国造・伊都許利命が現在の成田市船形に社殿を造営し、その鏡を神体として稚日霊命を祀った。また、伊都許利命は杉の木の下から7つの玉を掘り出し、それを神体として和久産巣日神を併せ祀った。この2神は「真賀多真(勾玉)の大神」と呼ばれた。推古天皇16年、伊都許利命の8世の子孫の広鋤手黒彦命が、神命により現在の成田市台方に和久産巣日神を遷座し、それまでの社殿を奥宮とした。
延喜式神名帳に記載の際、「真賀多真」が三種の神器の1つと同名であるとして、1字取って「真賀多神社」に改称した。後に、一帯が麻の産地であることから麻賀多神社に社名を改めた。”(Wikipediaより)


【解説】
鳥見神社の起源を、日本建尊(やまとタケルノミコト)に結びつけてます。神八井耳命(かんやいみみのみこと)とは、初代神武天皇の皇子、第2代綏靖天皇の同母兄で、多臣(多氏)及びその同族の祖とされてます。その8世子孫の印旛国造・伊都許利命も関係しているとしてます。
「真賀多真」が、三種の神器の「勾玉(まがたま)」と同名として、「真賀多神社」、さらに「麻賀多神社」に変わったというのも、興味深いですね。 

"これらの組み合わせは、大和の櫻井市に見られる。大和の聖山三輪山の南に向かい合うのが鳥見山である。これはトミヤマとも読まれるが、すぐ下に鳥見(とりみ)という字名があるので、トリミがトミとも呼ばれたことは間違いない。そしてこの一帯の大字は、外山(とび)である。この地名は、もちろんトミから来たものと思われる。この外山の鳥見山北麓に、前述の式内の宗像神社がある。そして鳥見山の西麓桜井には、古社の等彌(とみ)神社がある。この神社の祭神は現在大日孁貴(おおひるめのむち)命(天照大神の別神)を祭神としているが、本来の祭神がニギハヤヒとする説も根強い。外山に対して大和盆地の反対側の奈良県石木町に同じ発音の登彌神社があってニギハヤヒ他四神を本殿に祭るが、神社の由緒には本来の祭神をニギハヤヒとしている。神武紀にニギハヤヒが大和に入り土地の豪族長髄彦(ナガスネヒコ)(「古事記」に登美(とみ)の那賀須泥毘古(ナガスヌビコ))の娘三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)(亦の名鳥見屋媛(トミヤヒメ)、「古事記」に登美夜毘売(トミヤビメ))を娶って可美真手(ウマシマデ)命(「古事記」に宇摩志麻遅(うましまじ)命)を生んだとある。このようにトミがニギハヤヒと特別な縁のある地名であるので、等彌神社の祭神もニギハヤヒであった可能性が高い。これらから、上記印旛沼周辺の鳥見神社の社名と祭神の由来が理解できる。そして、宗像神社の鳥見神社群とのつながりも、大和以来であることがわかる。”

【解説】
この組合せが、大和の桜井、つまり纏向遺跡周辺にあることに注目です。ここでウマシマジとは、物部氏の祖とされる人物です。

”物部系を名乗る古代の氏族はきわめて多かった。京および畿内の古代日本の氏族を分類した「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)(平安時代初期編纂)によると、「神別」(神代の神々の末裔)の404氏のうち、ニギハヤヒの末と名乗る物部系は107氏で、最多である。しかし前述のように、ニギハヤヒを祭る神社は少なく、畿内には16社しかない。大和にも物部系氏族7氏が記録されているが、ニギハヤヒを祭る神社は前記2社のみである。物部系氏族でも、おそらく本宗家に属する人々だけがニギハヤヒを祭っていたのではないか。これは本宗家の根拠地のあった大阪府に、ニギハヤヒを祭る神社が11社集中することからもわかる。”
”その畿内の物部本宗家は、587年の「蘇我・物部戦争」で滅びた。本宗家ゆかりの人々はおそらく土地を取り上げられ、各地に四散したであろう。その人々が落ち着いた土地の一つが、印旛だったのではないか。


【解説】
ニギハヤヒの末裔と名乗る物部系の数は多いにもかかわらず、ニギハヤヒを祭る神社が少ない理由を、”本宗家のみがニギハヤヒを祭っていたのではないか?。”としてます。
その本宗家が「蘇我・物部戦争」で滅びたのち、各地に四散し、その一つが印旛だった、と推測してます。
この説が正しいとなると、物部氏が印旛に住むようになったのは、6世紀後半となります。
一方、大森・小林の鳥見神社には崇神天皇五年との伝承もあります(千葉県神社名鑑)。さらに平岡の鳥見神社の伝承には、”饒速日命の部下が東征して、印旛沼・手賀沼・利根川に囲まれた土地に土着し、祭神の三神を産土神として祭り鳥見神社と称した。”とあります(全国神社名鑑)。
これらの伝承が史実ならば、ずっと古くなり、紀元前まで遡る可能性もあると考えます。

では宗像族は、なぜ物部族の隣に住んだのでしょうか?。

矢田氏が推測をしています。

”宗像の周囲の筑豊地方には物部系の神社が多く、宗像市の東隣岡垣町の古社高倉神社は、物部系を祭る神社と考えられる。そのほかにも筑豊地方には物部神を祭る神社が多く、宗像市の南隣宮若市の天照(てんしょう)神社とその他三社が、ニギハヤヒを祭る。「旧事紀」のニギハヤヒ東征説話に出てくる地名ゆかりの氏族名からも、物部族の故地が筑豊であったとする考えが強い。

以上のように、津軽でも、印旛でも、ムナカタと同様、物部系氏族が宗像族の近くに住むが、決して混在はしないという現象が認められる。これが両者の関係を表しているのであろう。このことは、両者はおそらく出自がかなり異なり、相互の利益供与のため近接して住んでいることを示すと思われる。そして、居住地の状況を見ると、いずれも宗像族が先に到着し、その後物部系氏族が入植したように見られる。これをはっきり示しているのが、印旛の例である。図6の各神の配置から、麻賀多神を祭る地元の氏族の隣にまず宗像族が入植し、続いて物部系氏族が到着した状況が明らかである。”

”宗像族は、宗像神の広い全国分布が示すように、おそらく通商のために、日本全国に足跡を印し、各所に拠点を作っていた。しかしおそらく縄文以来の海人としての性格上、武力による土地の占拠とは無縁であった。しかしその宗像族が、弥生文化の伝達を始め、各所に弥生集落が成立すると、土地占拠の争いが生ずるようになる。そうすると武力を持つ氏族の後ろ盾が必要になってくる。
”印旛の場合、宗像族が入植した理由は、その配置から見て、印旛沼の干拓であったと思われる。これは後世のことになfるが、「宗像市史」によると、「続日本紀」解工(げこう)の宗像朝臣(あそん)赤麻呂が褒章を受けた記事が載るという。解工とは、土木工事の技術者と考えられている。正史に載るということは、その背後に大きな技術集団が居たことを意味しよう。印旛沼でも、麻賀多神社を祭る地元の豪族が、干拓のために宗像系の技術者を呼んだのではないか。干拓には長い時間がかかるので、宗像族の人が定住することになったのであろう。”


物部本宗家ゆかりの人々は、かつての両者の故地でのつながりから宗像族の住む土地を追って入植したのではないか。武力をもつ物部系の人々は、宗像族を護る役割も持っていたであろう。また宗像族は、武力を持つ両氏族の間で、緩衝の役割を持っていたとも考えられる。”
”以上三カ所の例から、宗像神の広い分布から推測される古代宗像族の広域活動には、有力な友好族、特に出雲族と物部族の関わりが強かったことがわかる。”

【解説】
まず物部族の故地を、筑豊としたうえ、そこで宗像族の近くに住んでいるものの明確な棲み分けがあった、としてます。その構図が、津軽、印旛でもみられる、としてます。
ここから、両族は、出自がもともと異なっているのではないか、そしてお互い持ちつ持たれつの関係だったのではないか、という推測です。実に興味深い推測です。
具体的には、宗像族は縄文海人族として、全国ネットワークをもっていた。そのなかで干拓などの土木工事を行っていた。麻賀多神を祭る氏族は、もともと印旛沼周辺に住んでいた人々だった、物部族は、武力を持って彼らを守った、ということです。
入植は先に宗像族が入り、あとから物部族が追ってきた、としてます。宗像族の入植の時期は、相当古い時代で紀元前だったと推定されます。そうなると、宗像族を追って物部族がやってきたのも、やや遅れてだったのではないでしょうか?。
となると、その時期は「蘇我・物部戦争」(587年)の後というより、神社伝承にあるような古い時代としたほうが、つじつまが合ってくると思われます。

ここで、前回掲載した、宗像神の推定伝播ルート図に、印旛沼を落とした図を示します。

関東宗像神伝播ルート2

この図をみますと、宗像族や物部族が太平洋側からやってきた可能性も、感じさせますね。

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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