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新著キャンペーンについて

いつもブログを読んでいただきありがとうございます。

8月27日に、シリーズ第四弾
イネ・土器・銅鐸の東伝が語る真実~図とデータで解き明かす 日本古代史の謎4~」
を出版しました。

その電子書籍版を今月出版しましたが、このたび日頃の感謝の気持ちを込めて、
無料キャンペーンを実施します。

12月28日から1月1日までです。

どうぞこの機会をお見逃しなく、ご購読ください。
感想などいただけるとうれしいです。



内容は
イネ・土器・銅鐸は、どこで生まれ、どのように日本列島で広まっていったのか?。
これらは日本古代史解明の鍵を握っているともいえるが、その実態について、統一的な見解はない。
本書は科学的データを駆使して分析、さらに史実との関係を明らかにして、日本古代史界に大胆な仮説を提唱する。
・イネは朝鮮半島から伝わったのか、中国本土から直接か?
・縄文土器と弥生土器の違いは何か?
・銅鐸は本当に畿内発祥なのか?
様々な疑問を解明する中で明らかになったこととは「西→東」の伝播である。
さらに「これらの事実と邪馬台国との関係とは?」という未知の問いにヒントを与えてくれる刺激的な著作。 

第一章イネの東伝                     
1.意外な実態
2.縄文時代にやってきた稲作
3.弥生時代の稲作の実態とは?
4.熱帯ジャポニカの原産地は?
5.「道上の道」と人の移動とイネの伝播
6.縄文の心、弥生の心
第二章 土器の東伝
1.縄文土器の素晴らしさ  
2.縄文土器と弥生土器は何が違う?
3.縄文土器から弥生土器、土師器、須恵器への変遷
4.土器の実年代
5.弥生土器はどこから伝わったか?
6.突帯文土器と遠賀川式土器
7.突帯文土器と遠賀川式土器の分布範囲が違う理由とは?
8.亀ヶ岡式土器が及ぼした影響
9.庄内式土器は畿内が最古か?
10.「遠賀川式土器」と神武天皇
11.中国遼河文明と縄文土器との関係
第三章 銅鐸の東伝
1. そもそも銅鐸とは?
2. 銅鐸を分類すると・・・
3.銅鐸の分布からわかること ①
4.銅鐸の分布からわかること ②
5.最古の銅鐸が出土した場所とは?
6.九州出土銅鐸が与えたインパクト
7.従来説では説明できない「埋納」「破壊」「消滅」の謎
8.銅鐸「埋納」の謎
9.銅鐸の「破壊」と「消滅」の謎
10.銅鐸を使用していたのは誰か
11.最後の謎、 銅鐸を消滅させたのはどの人々か?
エピローグ~イネ・土器・銅鐸の東伝が語ること

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

北部九州の宗像神と関連神を祭る神社データは語る(8)~宗像神の信仰域

本年もブログを読んでいただきありがとうございます。
2018年の最終回です。

今回は、北部九州で宗像神が信仰されている地域を、詳細にみていきます。

<図再掲>
ムナカタルート


”宗像神信仰の強い地域は北部九州東部の東宗像ベルトと西部の西宗像ベルトとに分かれている。前者については、前報で見たように弥生文化の東方への伝播に宗像海人族が果たした 役割を示すものと考えられる。オカミ神などとの分布の重なりも、渡来系の人々の拡散と結びつけて考えることができる。”

【解説】
北部九州では、宗像神信仰の強い地域が東部と西部に分かれていて、オカミ神信仰域と重なっています。その領域に押し入るように分布しているのが、神武天皇の母である玉依姫や土の神様である埴安神の信仰域という話でした。
両分布域とも海人族の領域ですが、前者が宗像海人族、後者が阿曇海人族の領域です。

”北西九州における宗像神の広い分布は、このような考えでは説明できない。その中でも、宗像神が特に集中しているのが、佐賀県の伊万里湾から有明へ到る西宗像ベルトである。この西松浦郡と 杵島郡が作る回廊は、その南の宗像神が殆ど見られない東彼杵郡および藤津郡と対蹠的である。この回廊は、前述の田島神社群が示唆するように、伊万里湾へ入る海上交易ルートを有明海方面に繋げるものと考えられる。すなわち、宗像神を祭る 宗像海人族が、海路だけではなく、これに繋がる内陸交易路にも関与していたことを物語ると思われる。
この内陸ルートは、対馬―壱岐を経由する国際交易ルートを、有明海の対岸筑後地方から熊本県方面へ繋げることが主な目的ではないか。次項に述べる古代宗形社があった地域も、そのターゲットの一つであったと思われる。熊本県の西北部にも、図5に見るように宗像神を祭る神社が多い。その中心菊池郡の菊池市宗方に、宗方八幡宮がある。”


【解説】
北西九州についてです。佐賀県の伊万里湾から有明海につながるルートであり、ここから対岸の筑後地方から熊本方面に繋げている、としてます。交易ルートでいうと、
大陸・朝鮮半島~対馬・壱岐~佐賀県~筑後地方~熊本県西北部
ということになります。
熊本県西北部中心である菊池郡に宗方八幡宮があります。

菊池郡といえば、魏志倭人伝に出てくる狗奴国の官「狗古智卑狗(クコチヒコ)」との関連を想起させます。

”その(邪馬台国の)南には狗奴国がある。男を王としている。その官には、狗古智卑狗(クコチヒコ)がおり、女王には属していない。”

”倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼(ヒメクコ)と以前から仲が悪かったので、倭の載斯(ソシ)・鳥超(ウオ)らを帯方郡に遣わし、お互いに攻めあっている様子をのべさせた。”(「倭国伝」(藤堂明保他訳)より)

狗奴(くなorこぬ)国がどこにあったのかは諸説ありますが、菊池郡にあったという説が多いようです。

菊池川流域は、チブサン古墳はじめ装飾古墳が117基と、国内一の密度を誇ります。装飾古墳は九州に多く分布しますが、熊本県から福岡県筑後川流域にかけてが中心地です。宗像地方にもありますが、数は圧倒的に少ないです。

九州の装飾古墳分布 
装飾古墳は筑紫君を中心とした勢力範囲内で築造された、と考えられます。

”『釈日本紀』巻9所引筑後国風土記逸文には岩戸山古墳後円部背後東北隅の方形区画と合致する別区の様子が描かれており、衙頭=政所での政務として解部なる役職の存在、偸盗に対する裁判が知られ、石馬・石殿・石蔵の描写は磐井の居館と倉庫や軍事力を支える馬のあり方を示している。その他、当該地域に特有な石人・石馬装飾古墳の分布圏、乱後の屯倉設置場所などにも磐井の勢威やその勢力範囲を読み取ることができ、磐井はなお独自の地域支配を行う首長であったと思われる。
(「交流史から見た沖ノ島祭祀」(森公章)、 宗像・沖ノ島と関連遺産群」研究報告Ⅲ、平成25年「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議」より)


ここで磐井とは筑紫君磐井です。いわゆる磐井の乱で殺害されたとされます。
磐井の乱とは、
”527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井(『日本書紀』は筑紫国造だったとする)がはばみ、翌528年(継体22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱。”(Wikipediaより)

下の図は、装飾古墳石人石馬、屯倉の位置を落としたものです。これらの大半が磐井の勢力範囲とすると、筑前・筑後・豊前・肥後を、支配下に置いていたことになります。

となると、佐賀県~筑後地方~肥後(熊本県)西北部のルートも、少なくとも筑後~肥後については筑紫君が押さえていた可能性があります。筑紫君と阿曇海人族は、同系列とされてます。となると、このルート(少なくとも筑後~肥後)は、阿曇海人族が支配していた可能性があります。

磐井勢力図 

 


次に、古代の記録から対比してます。

”前報で紹介したように、古代筑後地方に宗像神を祭る神社が多く存在したことが記録に残る。天慶(てんぎょう)七年(944)成立の『筑後国神名帳』に、筑後7郡のうち御原・御井・三瀦・上妻の4郡に宗形の名を 冠した神社が計8社も見える(図14参照)。そしてそこには、宗形神以外の海神が全く記されていない。宗形神の起源が古代以前に遡り、他の海神はこの頃殆ど祭られていなかったことが分かる。
ところが、『平成データ』には、現在筑後地方にムナカタの名を冠する神社は全く登録されていない。上記4郡には現在宗像神を祭る神社が12社あるが、上記の8社とは必ずしも対応しない。たとえば 『筑後国神名帳』では御原郡に宗形神、宗形若草神、宗形御弁天社の3社が記されるが、『平成データ』には宗像神を祭る神社が全くない。海神としては住吉神のみ7社登録されているので、あるいは祭神が交替したのであろうか。
現在この4郡には、合計で志賀神が52社、住吉神が65社、玉依姫が6社も祭られ、それらの多くはそれぞれの神を表す社名を持つ。少なくとも筑後国については、国内神名帳が編まれた時期以降に大幅な信仰世界の変化が起こったようである。”

【解説】
ここで興味深いデータが挙げられてます。10世紀頃、筑後4郡にあったはずの宗形の名を冠した神社8社が現在は無い、というのです。そして逆に、志賀神・住吉神・玉依姫が多く祭られてます。
ここから、10世紀以降に信仰の変化があったのではないか、と推測してます。
ここで注目は、志賀神・住吉神・玉依姫は、阿曇海人族系であることです。つまり、
宗形海人族→阿曇海人族
への、信仰の変化があったことになります。

”この古層の宗像神信仰は、前報で指摘したようにイチキシマ信仰であったと思われる。これは イチキシマのみを祭る神社が有明海を挟んで筑後と相対する杵島郡に14社(かつて18社)と多く、 また大分県大野郡のような山間部でも18社(かつて28社)に祭られていることからも支持される。
このように考えると、本来宗像神(イチキシマ)の分布には図5のような大きな空白域はなくて、沿海地方や内陸水運(一部陸行を含む)の盛んだった地域に洩れなく祭られていたに違いないのである。その中に独自の神信仰を持つ人々が入り込み、伊都国や奴国のような「クニ」の連合を作り結果として宗像神を祭る人々が排除されたものと思われる。そしてこれらの国々は専用交易路を構築したので、これに 参加する海人をも専属化したのではないか。そしてその祭る神の名も、対馬や壱岐の交易の重要中継地で祭られている玉依姫などに変えられたのであろう。対馬や壱岐でもそれら諸国の交易に参加していなかった地域では、海人が引き続き宗像神を祭り、相互に干渉がないように交易を続けていた。これが 図13・14に見るような宗像神を祭る神社の配置として残ったと思われる。”

【解説】
ここでこの古層の宗像信仰は、ここまでお話したように、イチキシマ信仰と推定されます。そこに独自の信仰を持つ人々が入り込み、伊都国・奴国そして邪馬台国を形成したことにより、宗像神を祭る人々が、東と西に分断された、ということになります。
ここでいう独自の信仰を持つ人々とは、大陸・朝鮮半島からやってきた渡来系弥生人ということでしょう。

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北部九州の宗像神と関連神を祭る神社データは語る(7)~ムナカタルート2

次にムナカタルート2についてです。あらためてルート図を載せます。



ムナカタルート 
”一方対馬南部の宗像神を祭る2神社は、いずれも良港に面していて、壱岐西岸郷ノ浦の渡良三島に 近い。これが壱岐を経由するムナカタルート2の中心航路であったと思われる。ここからは、必要により上記石田郡南部や小呂島、三所神社のある宮浦などを経由してムナカタへ向かったと思われる。一方 松浦半島の12社の田島神社や図5の「西宗像ベルト」地帯は、伊万里湾から有明海へ出る交易ルートの存在を推定させる。渡良三島は、伊万里湾に直行するルートや、西海や五島方面への起点として絶好の 位置にある。西海からは高来半島を迂回するか、諫早市宗方で低い峠を越えるかで有明海へ出るルートの存在も推定される。
『魏志倭人伝』に登場する国々のうち所在についてほぼ異論のない5国を図上に示したが、そのうち本土部の伊都国奴国埴安ベルトの中にある。このベルトが甕棺文化以来のものであれば、このベルトは邪馬台国時代にもあったことになる。そうすると、『魏志倭人伝』に出る不彌国以降のいくつかの国々も、おそらくこのベルト内にあったのではないかと想像される。ただし投馬国と邪馬台国はいずれも大国であるので、この両者を埴安ベルトの中に収めるのは難しいかも知れない。これ以上『魏志倭人伝』の国々の所在についての議論をこの小論中に容れることは難しいので、別報に譲ることとする。
ムナカタルート1は対馬の寄港地を選べば邪馬台国連合との相互干渉はないと考えられるが、 ムナカタルート2を形成している宗像系神社もこれらの国々の中心部をできるだけ避けているように 見える。壱岐で宗像からは反対側の西岸に根拠地があるのは、原の辻遺跡を中心としたと思われる一支国中心部を避けたためであろうが、一方伊万里湾へ入るルートや西海や五島へ向かうルートの起点としては絶好の位置にある。”

【解説】
ムナカタルート2のうち、対馬南部~壱岐~松浦郡(末蘆国)のルートに注目です。
このルートは、魏志倭人伝の記載する行路と同じです。つまりこのルートは、弥生時代末期には、主要行路であったことは確実です。
魏志倭人伝の行路全体については、前に、
https://aomatsu123.blog.fc2.com/category38-1.html
で詳細にお話してますので、参照ください。

末蘆国~邪馬台国 


さて問題はここからです。
魏志倭人伝では、最終到達地は邪馬台国です。邪馬台国は、上の図の「埴安ベルト」に中心領域がありました。
ということは、末蘆国からの交易ルートは、中国・朝鮮半島と「埴安ベルト」との交易ルートだったはずです。

そうなると、論文の
ムナカタルート2を形成している宗像系神社もこれらの国々の中心部をできるだけ避けているように 見える。”
とは真逆の結論になります。

どちらが正しいのでしょうか。

他の研究者の成果をみてみましょう。

下の図は、前に紹介した、楽浪郡から奴国(通説)中心領域までの交易ルートです。
対馬~壱岐~三雲(伊都国)~奴国(通説)
というルートが弥生時代後期にあったことを、考古学的見地から提唱したものです。

論文では、この交易ルートが、後に壱岐・三雲(伊都国)を通さずに、対馬から直接博多に結ばれることを述べています。
それはそれとして、いずれにしろ、対馬~博多という交易ルートがあったことは、間違いありません。
つまり、私の見解とほぼ同じです。




原の辻~三雲貿易 

 そしてこのエリアを仕切っていたのは、阿曇族であることが知られてます。

矢田氏は論文で、ムナカタルート1・2とも、宗像海人族が仕切っていたとの見解ですが、そうではないことになります。
少なくとも、
ムナカタルート2の壱岐~末蘆国ルート
は阿曇海人族が仕切っていたことが考えられます。

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北部九州の宗像神と関連神を祭る神社データは語る(6)~ムナカタルート1

前回、北部九州の対馬・壱岐から本土側までー「海北道中」「西海」-の、宗像神系神社をみてきました。宗像海人族は、交易を担っていたと考えられるので、ここから朝鮮半島からの交易ルートが浮かび上がってきます。今回は、そのルートをみていきましょう。

ムナカタルート
ルートとしては、
・対馬から沖ノ島を経由して本土に向かう「ムナカタルート1」
・対馬から壱岐を経由して本土に向かう「ムナカタルート2」
が想定されてます。

沖の島を経由するムナカタルート1では、ムナカタと繋がる ルートの他に、直接響灘沿岸に達するルートがあったと思われる。これは特に弥生時代後半、鳥取県の妻木晩田(むきばんだ)遺跡青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡などから著しい量の鉄器が発見されているからである。鉄器の出土は さらに東に向かい、兵庫県や京都府の北部に鉄器製造基地がつくられる。このような多量の運搬物を 運ぶ場合は、ムナカタに寄航せず対馬暖流を利用して沖ノ島から一気に下関市西海岸を目指すことが 多かったと思われる。この沿岸には朝鮮半島の土器など多くの渡来人の痕跡が見られる。

山口県は明治末期の神社合祀の影響を強く受け、残念ながら純宗像系の神社が殆ど残っていない。しかし下関市武久にはかつて宗像神社があったと記録されていて、ここの武久浜遺跡の石棺 からは中国の半両銭が出土している。また弥生時代初めから宗像の影響を受けてきた角島にも、2社の 厳島神社があったことが、『調』に記されている。ここは山陰へ向かう絶好の寄港地であったと思われる。
ただし朝鮮半島へ向かう逆コースは、海流に逆らうので手漕ぎでの直接の船行は困難であったと想像される。したがって沖ノ島への最短距離のムナカタから出発することが多かったと思われるので、 ムナカタの重要性が失われることはなかったであろう。”

【解説】
まず対馬~沖ノ島~本土の「ムナカタルート1」です。ムナカタを経由せずに、直接対馬海流に乗り、山陰地方を経てさらに兵庫県・京都府の日本海側に達したルートもあったことでしょう。青谷上寺地遺跡といえば先般、注目の発表がありました。

「弥生時代の人骨“渡来系”か 青谷上寺地遺跡」(毎日新聞2018年11月18日)
”国史跡・青谷上寺地(かみじち)遺跡(鳥取市)で出土した弥生時代の大量の人骨=2世紀ごろ=のDNA分析の中間報告で、人骨の大半は朝鮮半島や中国大陸などからの“渡来系”である可能性が高いことが分かった。分析が進み、日本人の成り立ちの解明につながる成果が期待される。弥生時代の人骨の本格的なDNA分析は全国で初めて。【園部仁史】
遺跡は弥生時代前期~古墳時代前期に存在した。保存状態の良い、多種多様な出土品や老若男女の人骨が100体以上見つかるなど「地下の弥生博物館」と呼ばれている。
DNA分析を進めてきた国立科学博物館などは17日、鳥取市内で報告会を開催。同館の篠田謙一副館長は約40の人骨から母系の遺伝情報が分かる「ミトコンドリアDNA」を分析し、32体の塩基配列の特徴を調べることができたと説明した。
その結果、日本古来の“縄文系”は32体のうち、わずか1体だったといい、出土した人骨のほとんどは新たに大陸から渡ってきた人のものとみられる。さらにその“渡来系”の人骨は少なくとも12のDNAのグループに分けられることから、同遺跡が多様な人の集う交易拠点だったとする従来の説を強く裏付ける結果になった。篠田氏は「父系の遺伝情報もわかる『核ゲノム』の分析を進めることで、日本人のルーツを探りたい」と話した。
出土した人骨には殺傷痕のあるものも含まれ、戦乱などがあったとされる。弥生時代の日本について記された中国の史料「魏志倭人伝」などには「倭国(わこく)大乱」の記述もあり、人骨を保管する県埋蔵文化財センターの浜田竜彦係長は「『どのような人が殺害されたか』などを知ることで、当時の日本の状況を探る手がかりになるかもしれない」と期待する。 ”


【解説】
なんといっても山陰地方は神話の里であり、人々やクニの成り立ちについてはさまざまな推測がされてました。今回の調査により、母系ではありますが、大陸から渡ってきた人々が多くいたことが確認されました。当然、交易も活発に行われていたことがわかります。
そしてそこから海流に乗れば、容易に兵庫県・京都府の日本海側、当時大国であったと考えられる丹波のクニに達します。丹波のクニが、鉄器供給を武器に勢力を拡大したと考えられます。

さてここで重要な点があります。皆さんは疑問をもたれたでしょうか?

それは、「畿内との関係はどうだったのか?」です。

畿内大和の弥生時代の遺跡からは、鉄器は出土していません。最大の遺跡である「唐古・鍵遺跡」からも出土してませんし、それに続く「纏向遺跡」からも出土してません。

もしムナカタルートで、瀬戸内海を通過して畿内に達するルートがあれば、当然鉄も供給されたことでしょう。しかしながら畿内で弥生時代の鉄は出土してません。

ということは、少なくとも鉄に関して、当時は「北部九州~瀬戸内海~畿内」という交易ルートはなかった、という結論にならざるをえません。

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北部九州の宗像神と関連神を祭る神社データは語る(5)~航海神としての宗像神

次に、航海神としての宗像神の分布を見ていきます。
図13は、島嶼部を含む北部九州沿岸のおもな宗像系神社です。

北部九州宗像系神社分布



”『書紀』の「海北道中」に対応して、対馬北部東岸に宗像神を祭る神社が多い。宗像を名乗る神社は 大増の宗像神社だけであるが、この宗像神はより南の佐賀(さか)から勧請されたと言い伝えている。佐賀の和多都美(わたつみ)神社は、旧名を佐賀宗形宮と言ったという。佐賀には有名な縄文貝塚があり、宗像海人族との繋がりが縄文以来である可能性を示す。なお大増の宗像神社を支えている神主や氏子の殆どが比田勝氏であるので、この神社もしくはその元社がかつて良港の比田勝にあった可能性が高い。実際に、比田勝港近くの倉庫で「宗像神社」の扁額を実見した。比田勝は「日高津」のことで、に漕ぎ出す港の意味と考えられる。これらは沖ノ島経由で直接宗像やその他の響灘沿岸地方に向かう航路に対応 すると考えられ(これをムナカタルート1とする)、まさに『書紀』の「海北道中」に位置する神社群である。
一方対馬南部にも三女神を祭る2社があり、壱岐の西海岸に対している。前述のように壱岐には南部に宗像神が多いが、郷ノ浦港の湾口にある渡良(わたら)三島(みしま)と呼ばれる大島、長島、原島(はるしま)に、それぞれ島の名を社名とし、宗像三神のみを祭る三社がある。”

【解説】
対馬北部東岸にある「佐賀」「和多都美(わたつみ)神社」に注目です。
綿津見神社は海の守護神である綿津見三神を多くは祭神として祀るが、娘である豊玉姫玉依姫や、豊玉姫の子の阿曇磯良を祀る神社もある。
福岡県福岡市東区志賀島の志賀海神社を総本社とする。綿津見三神は阿曇氏の祖神とされ関わりが深い。”(Wikipediaより)

ここから対馬北部でも、阿曇族が活動していたことがうかがえます。
前に対馬北部は宗像神が多く祭られるのに対して、南部は玉依姫が多く祭られている、とお話しました。また魏志倭人伝の「対海国」は対馬南部と考えられる、とお話しました。
とはいえ対馬南部にも宗像神を祭る神社がありますから、対馬の中で宗像族と阿曇族は活動地域が明確に区分されていたのではなく、入り混じって活動していたことが推測されます。
また「佐賀」は、位置関係からいっても、佐賀県の「佐賀」と何らかの関係があるかと思われます。

壱岐東南部にも、原の辻遺跡に近い石田町池田西触に宗像三神を祭る田嶋神社がある。この神社は、 呼子の加部島にある式内の名神大社の田島神社の系列社と見られる。ここからは、東行宗像へ向かうルートが考えられる(ムナカタルート2)。この経路にも、要所に宗像系神社がある。唐津湾口の姫島にイチキシマが祭られており、博多湾口唐泊崎に護られた宮浦港には三女神を祭る古社三所神社がある。玄界灘に浮かぶ小呂島には、三女神を筆頭祭神とする七所神社がある。
この社は、かつて宗像神のみを祭っていたことが『付録』に記されている。福岡市香椎の名島神社(江戸時代は弁才天社)も、古くから宗像神を祭ってきたことが『付録』に記される。”

【解説】
壱岐は、魏志倭人伝の「一大国」です。原の辻遺跡は、弥生時代の大型環濠集落遺跡が出土して、クニの都と推定されてます。魏志倭人伝では、壱岐から本土の唐津に渡海したと考えられますが、本土にも宗像神を祭る神社が分布してますね。

田島(田嶋・多島)神社は、東・西松浦郡に12社(『調』には13社)あり、いずれも三女神を祭る。伊万里湾内に多く、ここから内陸に入るルートに関与した人々が祭った神社と見られる。図5で見たように、ここから有明海沿岸までは濃厚な宗像神分布地帯となっている。
一方西海地方にも宗像神が多く分布する。前報で見たように、長崎県は千葉県と青森県に次ぎムナカタ神社が多い。そのうち対馬以外の五社は本島部西海岸にある。平戸市田平(たびら)の宗像神社は、『日本三代実録』の貞観一三年(871)と同一五年(873)に見える「宗形天神」とされている。この神社は、平戸島と九州本土を隔てる平戸瀬戸の本島側に約2km入ったところにある。この神社は、著名な里田原(さとたばる)遺跡の範囲内に ある。この遺跡は縄文晩期に始まるが、最盛期は弥生時代前期から中期までで、後期までも続いていることが最近確認された。遺物も豊富で、朝鮮半島製の初期青銅鏡多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)が甕棺墓から出土している。そのほかにも小型板状鉄斧、無文土器、天河石や瑪瑙の丸玉など、朝鮮半島からの直輸入と思われる遺物が多い。海人族の交易中心地であったことが分かる。
ここから約3 kmに、平戸瀬戸に面した縄文時代のツグメノハナ遺跡がある。ここからは、100点以上の石銛とともに多量のクジラ、イルカ、サメの骨が出土し、縄文海人の根拠地があったと見られる。この石銛は沖ノ島でも多く出土しており、宗像海人族との繋がりが縄文時代に始まることを支持する。
さらに南下すると、西彼杵半島の北部、西海市中浦に宗像神社がある。さらに南下して長崎市の展望台稲佐山に登る長崎ロープウェイの乗り場のところに淵神社があるが、この主祭神が宗像三女神である。”

【解説】
魏志倭人伝の「末盧國(まつら・まつろ)国」にあたると考えられる東・西松浦郡ですが、特に西側の伊万里湾に多いですね。
里田原(さとたばる)遺跡は、弥生時代の水田稲作遺構や夜臼式土器、支石墓も出土するなど、当時最先端の文化が開いていました。
ツグノハナ遺跡から出た多量のクジラ・イルカの骨からわかるとおり、当時から捕鯨をやっていたことがわかります。貴重な動物性たんぱく質だったことでしょう。

さらに長崎を回り雲仙諸峯の麓の橘湾に臨む海岸沿いに、三社の宗像神社があります。また五島列島にもいくつかの純宗像系社があり、西海にもうひとつの古い海の道があった、と推測してます。
そして
”福江島の岐宿(きしく)には三女神を祭る古社巖立(いわたて)神社がある。この神社はかつて岐宿湾中の宮の小島にあったのを移したものというが、由緒記によればこの島に祭られたのは桓武天皇の時代で、空海が入唐の 際立ち寄ったとき島民から神のお告げを聞き、この島に社を建てることを勧め三女神を勧請したという。このころの遣唐使は岐宿の西約10 kmの三井楽から出発していたが、岐宿はこの島北岸最大の 集落であり、名も唐船の浦という深い湾があるので、空海らもここに停泊して風待ちをしたのではないか。そして三井楽にも三女神のみを祭る柏神社がある。『調』は、そのほか三井楽にイチキシマを祭る 市杵島神社を載せている。”

【解説】
巖立(いわたて)神社ですが、空海が三女神を勧請したと伝えられている、とのことです。ということはのちの空海の時代にも、この周辺において三女神信仰が盛んだったことが推定されます。

以上のとおり、多くの宗像系神社がありますが、多くは海岸沿いに立地してます。こうしたことからも、海人族の信仰だったことがうかがえます。

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北部九州の宗像神と関連神を祭る神社データは語る(4)~「オカミベルト」と「埴安ベルト」

次に、オカミ神と埴安神の分布です。この両神は、はっきりとした棲み分けの関係にあります。

オカミ神は、宗像郡から始まり、国東半島および直入郡に到る連続した「オカミベルト」を示している。特に遠賀郡から宇佐郡に到る地域の分布が濃厚で、豊前地方に信仰の中心があるように見える。”
一方埴安神は、糸島半島から上座郡に到る連続した「埴安ベルト」を形成している。分布の中心は、那珂郡から夜須郡の辺りにあるとみられる。このベルトは、オカミベルトと接していて、ほとんど重複しない。唯一の例外は、両社が5%以上祭られる旧嘉麻郡である。”


埴安神・オカミ神を祭る神社分布  
【解説】
前回の宗像神と玉依姫の棲み分けと、似たような棲み分けになってます。すなわち、
宗像神の分布≒オカミベルト
玉依姫の分布≒埴安ベルト

です。

この分布領域を「どこかで見たな」と思われた方は、私のブログをかなり熱心に読んでいただいている方と推察します。
そうです。埴安ベルトは、甕棺分布域と重なっているのです。
論文では、以下のように述べてます。

”以上のような明確な信仰圏の対立は、文化圏の対立を示していると思われる。このような筑前西部とそれ以東の文化の対立としては、弥生時代の甕棺葬文化圏とそれ以東の地域との隔絶が想起される。”
埴安神が佐賀県域と熊本圏域に殆ど祭られていないことを除けば、両者の分布はよく一致している。二つのベルトの境界領域の嘉麻郡で埴安神とオカミ神が共存するのも、立岩遺跡とその周辺に甕棺文化が割り込んでいることと対応している。先述の玉依姫信仰がこの地域に進出していることも、これに対応する。”
甕棺文化圏で埴安神が祭られていたのは、甕棺製作に当たって原料の土に特別の神威を感じ、土の神である埴安神を祭ったと考えれば理解できる。古代人が土器の原料である土に特別の呪術的意味を感じていたことは、神武東征伝説中の説話などに見ることができる。
かつて甕棺文化圏に属しない宗像以東は、弥生文化の後進地と見なされていたが、田熊石畑遺跡の再発見で、甕棺文化圏に比肩する繁栄を誇っていたことが明らかになった。宗像から始まるオカミベルトは、この地域が甕棺文化圏と異なる精神文化の伝統を持っていたことを示している。”


【解説】
埴安神は土の神様とされます。したがって土器とつながることは間違いないでしょうが、さらに解釈を広げれば、土は五穀豊穣の源ですから、稲作とも深いつながりがるのではないか、とも考えられます。
実際この地域一帯は、日本の水田稲作発祥の地域ですね。
それはさておき、甕棺分布を見てみましょう。

北部九州甕棺分布  
そしてこの領域は、以前「邪馬台国広域地域圏」としたものと重なります。
詳しくは
纏向遺跡は邪馬台国か?(14)~北部九州の「邪馬台国広域地域圏」
を参照ください。

邪馬台国広域地域圏 
この設定が正しいとすると、邪馬台国の人々は、土の神様である埴安神、神武天皇の母である玉依姫(と姉の豊玉姫)信仰していた、ということになります。
こうしたことから、邪馬台国は稲作、土器の先進地域であり、神武天皇と強いつながりがある、ということがわかります。

論文ではこれに続き、
”このように、弥生時代に起源を持つ精神文化の伝統が、祭神の継承を通じて、現代まで連綿と受け継がれてきたと考えられる。このことは、少なくとも北部九州においては、祭神分布とその解析が古代史を理解する上で重要な鍵になることを示したと言えよう。”
と述べてますが、まさにその通りですね。

古代史は文献も少なく、考古学的データも不足してます。こうしたなか、ともすると安易な推測・想像をしてしまいがちですが、まずはこうした地道なデータの積み重ねが大切だと考えます。

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北部九州の宗像神と関連神を祭る神社データは語る(3)~玉依姫を祭る神社分布

前回お話した各神間の関係を、具体的にみていきましょう。

図9をご覧ください。神武天皇の母である玉依姫を祭る神社の北部九州での分布を、宗像神と重ねて示したものです。
図中、オレンジ色・黄色が玉依姫を祭る神社の割合が高い旧郡、紺色・青色が、宗像神を祭る神社の割合が高い旧郡です。

玉依姫を祭る神社分布  
この図を見ると、両神の分布域は殆ど重ならず、はっきりした対立関係を示しているのがわかります。

興味深いのは対馬
”宗像神は上県郡に多く特にその東岸に多く分布するのに対し、玉依姫を祭る神社はすべて下県郡にあり、中央部の浅茅(あそう)郡沿いと、そこから西岸および東岸へ出た入り江に多く分布する。浅茅湾内には弥生時代の遺跡が集中し、魏志倭人伝が示す対馬国の中心があったと考えられている。


【解説】
魏志倭人伝に出てくる「対海国」のことです。魏志倭人伝に、
”居する所は絶海の孤島で、およそ四百余里四方。土地は、山が険しくて深い林が多く、道路は鳥や鹿の道のようである。千余戸の家がある。”
対海国は、「四百余里四方」とあるので、ほぼ四角で一辺が約30km(短里)です。私はここから、対海国とは対馬の下県郡を中心とした国ではないか、と推定してました。今回そのエリアは、玉依姫の信仰域とほぼ一致することがわかりました。
ちなみに、浅茅湾に面したところに豊玉町があります。豊玉町には、和多都美神社(わたづみじんじゃ)があり、豊玉姫が祭られてます。「豊玉姫」とは玉依姫の姉で、神武天皇の祖母にあたります。

”玉依姫は、本土部では旧糟屋郡に集中する。多くが志賀系海神を代表する豊玉姫少童神(ワタツミノカミ)とともに祭られており、本来海人族が祭った神であることを示している。しかしその他の郡では、宝満山の竈神社から広まった竈門神社や宝満神社に、多くは八幡神と神功皇后との組み合せで祭られている。しかしその中に玉依姫一神を祭神とする社も多いので、宝山系神社は本来玉依姫信仰であって、八幡神と神功皇后は後に併祭された祭神と思われる。
筑前西部の中でも、志摩郡で宗像神が玉依姫に対して優勢なのは、宗像から壱岐や西海方面への航路の寄港地があったからであろう。”


【解説】
旧糟屋郡は、海人族である安曇族の本拠地です。このエリアが玉依姫が集中している一方、その東と西には宗像神が集中しており、信仰する神によって、きれいに分かれてます。
このあたり一帯は、もともとは宗像神を信仰していたが、のちに玉依姫を信仰する海人族がやってきて、博多湾岸に勢力を張った、という構図が見えてきますね。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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