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北部九州の宗像神と関連神を祭る神社データは語る(13)~倭人の活動領域との関係

前回お話したことから、海人族の活動範囲として、九州~沖縄~中国沿岸~台湾というエリアが想定されます。

ところで、前にこのブログならびに著書において、倭人の活動範囲を推定しました。
これは、
・古代中国殷周の時代(紀元前17世紀~同8世紀頃)に、台湾・沖縄周辺からキイロタカラ貝を黄河流域まで運ぶルートがあったこと。
の時代に倭人がやってきて、暢草(ちょうそう)を献じたという記録があり(論衡)、暢草の原産地が中国南部の鬱林郡と考えられること。
から、推定したものです。
詳細は
日本人は、どこからやってきたのか?(20) ~ 古代「貝の道」があった!
日本人は、どこからやってきたのか?(21) ~ 「倭人」は東アジアの交易を担っていた!? 
を参照ください。

この範囲と、上の海人族の
九州~沖縄~中国沿岸~台湾
という活動範囲が、ほぼ重なっていることに注目です。
時代は異なるものの、ほぼ同様の活動範囲と推定されるということは、海人族は縄文の時代から東アジアの海域で脈々と活動してきたことを、推測させます。




倭人活動領域



さて、論文ではここまでの論考より、
”縄文海人族の伝統は、九州北部「の遠賀川河口域(旧遠賀郡)にあるようにみえる”
と述べてます。となると宗像神信仰の中心である旧宗像郡は、旧遠賀郡からはやや西にあり、縄文海人族の中心拠点ではない、といことになります。

この不整合について矢田氏は、かつては旧遠賀郡から宗像郡にまたがる「大ムナカタ」があったのではかいか?、という仮説を提起してます。

その論拠として、ムナカタとは、「胸の形」から来ているのではないか、と推測してます。
具体的には、
”湯川山(標高471 m)と孔大寺(こだいじ)寺山(標高499 m)の2山を斜め海上から、女性の胸の盛り上がりと見た地名ではないか。したがって、古代ムナカタの範囲は、湯川山と孔大寺山の西側のかつての宗像郡だけではなく、この2山を同様に仰ぎ見る東側をも含んでいたのではないか。少なくとも遠賀郡の西部、遠賀川河口付近までが、その範囲に入るのは当然である。”
と推測してます。

面白い推測ですが、はたしてこれが当たっているのか、正直よくわかりません。もっと別の見方ができるのではないか、とも思えます。

それはいずれということにして、本論文(2)は今回で終わりです。、次回から論文(3)をみていきます。

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北部九州の宗像神と関連神を祭る神社データは語る(12)~女性祭祀の伝統

前回の話を受けて論文では、
”福岡県芦屋町の山鹿貝塚から出土する土器は、前記の轟B式に始まり、曽畑式、中期の式船元式、阿高式
などから、後期の中津式鐘崎式など、さらに弥生時代直前の晩期後半に至るまで、約3000年に亘って続いている。この場所が、縄文海人族にとっていかに重要であったかがわかる。”
として、福岡県芦屋町一帯が、縄文海人族にとって非常に重要な地域であった、としてます。

ここで福岡県芦屋町一帯とは、遠賀川河口域を示してます。弥生時代に東日本まで広く伝播した「遠賀川式土器」「遠賀川系土器」の「遠賀川」です。

”なかでも注目されるのが、後期の層(約3500年前)から出土した18体の人骨とそれに伴う出土品である。このうち数体の女性は豊富な装身具を伴っていた。とくに、ほとんど同時に埋葬されたと思われる2体の成人女性は、それぞれ19個および26個の貝輪を腕にはめていた。山鹿貝塚では全7体の女性人骨が多数の貝輪を着けていた。これに対して男性の人骨は、ほとんど装身具を伴っていなかった。これはこの時期の東日本とは大きく異なる。東日本での縄文人では装身具を着けていたのが ほとんど男性に限られていたのに対し、西日本では女性がつける比率が高かった。南九州から北上した縄文人は、もともと女性を尊ぶ風習を持っていたらしい。

【解説】
女性装身具、特に貝の腕輪に注目です。縄文時代、西日本では女性がつける比率が高く、東日本と対照的なのが、興味深いところです。

論文では、貝輪出土地として、下記も挙げてます。
榎坂貝塚(岡垣町の矢矧やはぎ川流域の糠塚)
鐘崎(上穴こうじょう)貝塚
轟貝塚
阿高貝塚
貝の腕輪を着けた女性の骨が出土している。女性が貝輪を着ける慣習が中・南九州から来たもので、土器の北上に伴っていたことが 推測される。)

九州貝塚分布 
 

”岡山県の船元貝塚でも出土している。山鹿貝塚から船元式土器が出土していることからわかるように、縄文時代中期以降北部九州では瀬戸内地方との交流を示す遺物が多くなっている。沖ノ島でも中期には瀬戸内地方など宗像以東の土器が多く、船元式土器も多数出土している。前期以来の海人による交流の伝統が縄文時代中期以降も受け継がれていたことを示す。”

以上を踏まえ、矢田氏は以下のように推測してます。

宗像海人族が女神を祭ることの起源は、このような縄文海人族の伝統を受け継いだものではないか。 神に仕え、神の託宣を受けた古代の巫覡(ふげき)(かんなぎ)は、卑弥呼の例のように、女性であることが多い。日本神話の最高神天照大神(あまてらすおおみかみ)も、書記本文ではまず大日孁貴(おおひるめのむち)と書かれているように、元々は位の高い巫女(みこ)と考えられていたらしい。
時代は下るが、現在でも台湾や中国沿海部を中心に信仰を集める漁業・ 航海の守護神媽祖(まそ)は、宋代に実在した官吏の娘であったが、海洋気象や海難事故を予測する能力を身に つけ、多くの人を海難事故から救ったという。
山鹿貝塚に葬られていた貝輪をつけた女性も、おそらくこのような巫女であったであろう。前記春成の著書によると、このような貝輪は幼いときにつけたものらしく、ふつう取り外しができなかったと考えられる。したがって労働もできず、少女の頃から特別な存在として育てられていた。そのような巫女で 特に予知能力の優れたものは、やがて神と崇められるに至ったであろう。
任東権によると、韓国東海岸の漁村に祭られている海神は、ほとんど女神であるという(一方西海岸では男性の海神を祭る)。このような信仰の習俗の分布も、図19の漁具の分布と符合している。海神としての女神信仰は、このような縄文時代以来の日韓古代海人族の共通習俗を母体としていると思われる。”

【解説】
さてこうしたことから、矢田氏は、宗像海人族が女神を祭る起源を、縄文海人族に求めてます。古代日本においては、卑弥呼やその宗女壹與(いよ、通説ではとよ)からもわかるとおり、女性祭祀者が絶対的な力をもっていました。この伝統はさらに古く、縄文時代に遡ると推測してます。
注目すべきは、現在の台湾・中国沿岸部にも同様の信仰がある、ということです。となると、そうした地域とは古来から交流があり、共通の文化圏にある、ともいえます。

”女性の巫女は、最近まで南島(琉球列島)で健在であった。南島では、祖霊の祭りをノロ・ヌルまたはユタと呼ばれる巫女が執り行ってきた。沖縄ではピラミッド形の巫女の組織があり、最上位の巫女は聞得大君(きこえおおきみ)と呼ばれ、斎場(せーふぁ)御嶽(うたき)で行われるその即位式は、御新下(うあらう)りと呼ばれ国王の即位式をしのぐ重要な式典であったという。各所にある御嶽(うたき)は、もともと男子禁制であった。
現在でも奄美大島などで農耕儀礼として行われている女性による平瀬マンカイという儀式は、本来 巫女による海上の安全を祈るものであったであろう。このような南島の信仰文化は、縄文以来の古代 海人族の習俗を残していると言えよう。”


【解説】
さらに同じ風習が、沖縄にまであることを指摘してます。実はこの夏、斎場(せーふぁ)御嶽(うたき)を訪れました。パワースポットとしても人気とのことで、多くの見学者でにぎわってました。何か神々しさを感じる場所です。磐座信仰であり、はるか遠い昔から受け継がれているように感じました。縄文海人族の原初的な信仰のようにも見受けられます。
近くには、23000年前という世界最古の釣り針が発見されたサキタリ洞遺跡があります。そこに暮らした人々の末裔が信仰したのかもしれませんね。

斉場御嶽 

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北部九州の宗像神と関連神を祭る神社データは語る(11)~宗像神の起源

ところで、宗像神の起源はどこにあるのでしょうか?。

矢田氏はここで、その要因を自然災害に求めてます。

”縄文時代早期の南九州にはかなり高度な文化が発達し、丘陵上などで狩猟採取生活を営んでいた。この生活環境を一変させたのは、約7300年前に起こった九州島南端と屋久島との間の海上で起こった鬼界カルデラの噴火である (図17)。その火山灰は風に運ばれて遠く韓国南部や東北地方南部にまで達した。
この噴火の時期に九州で多かった土器が轟A式で、同図に見るように主に南九州山間部中心に分布 する。これらの遺跡は鬼界アカホヤ噴火以降消滅し、これ以降九州の遺跡は北部に多くなる。植生が壊滅的打撃を受けた南九州から多くの移住者が あったと見られる。九州の土器は噴火以降轟A式から変化した轟B式が中心となり、急増した貝塚などから多く出土する。陸上での狩猟採集が困難になったため、多くの人が魚介類の採集に依存した生活に変わったと見られる。州海人族の誕生である。
この頃気候が温暖化し、遠賀川中・下流域には大きな「古遠賀湾」が出現していた。多くの貝塚が、 この内陸水面に沿って形成された。図18に、そのうち縄文時代晩期まで続く主な貝塚を示した(芦屋町史などによる)。隣接する宗像市上八(こうじょう)のさつき松原海岸からも、最近轟B式土器が出土したので、この頃から同一文化圏に属していたと考えられる。”


【解説】
7300年前、鹿児島県の鬼界カルデラで、大きな噴火があり、九州南部は壊滅的な被害を受けました。鬼界カルデラの噴火については、以前もお話しました。

鬼界カルデラと土器 
矢田氏は、この噴火により陸上での狩猟採集が困難になったため、多くの人々が海人族になった、としてますが、はたしてどうでしょうか?
確かにそのような人々もいたかもれません。しかしながら九州海人族の起源は、もっと時代をさかのぼるのではないでしょうか?。

これまでに何回か紹介した小田静夫氏の「新・海上の道」によれば、
”旧石器時代の石斧の分布などから、日本人の祖先は、3~4万年前に東南アジア島嶼部から黒潮に乗って、琉球諸島、本州太平洋沿岸と渡り、神津島で黒曜石を発見した。そしてその後も本土内と神津島他との交易は継続して活発に行われた。”
とされてます。
”日本人は、どこからやってきたか? (18) ~ 古代に「海上の道」があった!!②”

つまり3~4万年前から、日本人の祖先は海洋性民族として日本列島近海を生活の場としてきたのであり、各地との交易を担った海人族がいた、ということです。
この流れからすれば、九州海人族はその末裔である、と考えるほうが自然でしょう。

<新・海上の道>
新・海上の道

<「石斧のひろがり・・・黒潮文化圏」(小田静夫著)より>

轟B式土器の影響は、九州を出てさらに山陰から山を越えて瀬戸内地方へ、また海を渡って朝鮮半島南部へ到達する。地理的に見て、北部九州の海人族がこの文化伝播に関与したと考えられる。
図19に、縄文時代の漁撈文化の国際的な繋がりを示した。北部九州と朝鮮半島南部の海人が、 共通の漁業技術を持っていたことが分かる。同図の石銛(C)は、沖ノ島でも多量に出土している。
さつき松原遺跡と沖ノ島では轟B式に次ぐ縄文時代前期後半の曽畑式土器が出土しているが、この土器は図14に示した釜山市の東三洞貝塚などからも出土している。ムナカタと沖ノ島がこの国際交流文化圏内にあることが分かる。この図中のオサンリ(鰲山里)型結合釣り針は、松江市の西川津遺跡や鳥取市の青谷上寺地(かみじち)遺跡など顕著な山陰の弥生遺跡からも出土しており、このような海人の交流が弥生時代にも引き継がれ、さらに東方へ拡散したことを示している。”

【解説】
九州海人族の活動範囲は、山陰や瀬戸内海などの日本列島内のみならず、朝鮮半島南部にも及んでいた、ということになります。これは考えてみれば当然のことです。当時の九州海人族にしてみれば、どこからどこまでがわれわれの国だ、などという認識をもっていたはずがなく、より有利な取引を求めて、近くにある朝鮮半島に出かけるのは、自然な成り行きだからです。

宗像・遠賀の貝輪 

縄文東アジア魚具分布 
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北部九州の宗像神と関連神を祭る神社データは語る(10)~宗像神信仰中心地域の検討(周防灘沿岸部)

次は宗像~遠賀川地域と並んで宗像神が多く分布する周防灘沿岸域です。

”この地域の特徴は、宇佐神宮の影響で宗像神が八幡系神社に多く祭られていることである。現在の宇佐神宮と同様三女神を祭る場合が多いが、Aで示した小倉南区の古社旧県社の蒲生八幡宮は、宗像神としてタギツのみを祭る。このことは、江戸時代の『豊前国志』や「蒲生社来由略記」でも同様で、 この神社に八幡神が勧請される以前から女神が祭られていたとも記されている。Bで記した豊後高田市の二宮八幡社は、その名にもかかわらず八幡神(応神天皇)がなく、タギツのみが祭られている。これらから、八幡神が普及する以前にこの地域には姫神信仰が広まっていて、その神はタギツと考えられていた時期があったことを示唆する。宇佐神宮では八幡神以前に女神が祭られていたことは宇佐神宮発行の『宇佐神宮由緒記』にも書かれており、このことは定説になっているようである。”

【解説】
この地域には、信仰の中心ともいえる宇佐神宮があります。
宇佐神宮の祭神は
一之御殿:八幡大神 (はちまんおおかみ) - 誉田別尊(応神天皇)とする
二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ) - 宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)とする
三之御殿:神功皇后 (じんぐうこうごう) 別名息長足姫命
(Wikipediaより)
です。
このように、この地域は八幡信仰が強いことから、宗像神も八幡神社に多く祭られるようになったと考えられます。

豊国宗像神分布  


もうひとつ注目は、比売大神(ひめのおおかみ)です。比売大神は、謎の女神です。

”神社の祭神を示すときに、主祭神と並んで比売神(比売大神)、比咩神、姫大神などと書かれる。これは特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すものである。
最も有名な比売神は、八幡社の比売大神である。総本宮である宇佐神宮(大分県宇佐市)や宇佐から勧請した石清水八幡宮(京都府八幡市)などでは、宗像三女神を祭神として祀る。
しかし、八幡社の比売大神の正体については諸説があり地域によっても異なる。 比売大神は宇佐神宮南方に位置する御許山に降臨したとされるが、大分県杵築市の奈多宮では、沖合に浮かぶ市杵島(または厳島)と呼ばれる岩礁に比売大神が降臨したと伝えられる。
春日大社に祀られる比売神は天児屋命(あめのこやねのみこと)の妻の天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)である。大日孁貴尊(アマテラス)を比売神としている神社もある。 ”(Wikipediaより)

【解説】
比売大神を、卑弥呼とする説もあります。矢田氏は、八幡信仰が広まる前に、この地域にもともと姫神信仰があり、それはタギツだ、と推測してます。
ちなみに上記中の天児屋(アマノコヤネ)命とは、
”古事記には岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大御神が岩戸を少し開いたときに布刀玉命とともに鏡を差し出した。天孫降臨の際邇邇芸命に随伴し、中臣連の祖となったとある。”(Wikipediaより)
のように、中臣(藤原)氏の祖とされてます。
藤原氏の出自は謎とされてますが、このあたりに何がしかのヒントがあるかもしれませんね。

”一方図中にCで示した中津市の古社闇無浜(くらなしはま)神社には、宗像三女神のタギツの代わりにセオリツが 入っている。同様の例は滋賀県野洲市(旧中主町)の長澤神社、大阪府千早赤坂村の建水分(たけみくまり)神社、鹿児島県出水市の厳島神社(この神社は『平成データ』にはないが鹿児島県神社庁に登録されている)などにあって、いずれも比較的辺地にあることから、かつてタギツがセオリツの名で祭られていたという推測を補強する。記紀神話以来タギツが宗像神として定着した後でも、辺地ではかつてのセオリツの名が 残っている所があったと解釈できる。
図中Dで示した杵築市(旧大田村)の歳神社は三女神のタギツの 代わりに「織津姫」という神を祭るが、これが瀬織津姫の脱字によるものとすると、これと同様のケースである。上記闇無浜神社は豊の国の古名を持つ神「豊日別」を祭る由緒の古い神社なので、神名変更に 従わなかったとも考えられる。このセオリツ→タギツの祭られかたは、ムナカタのセオリツ神が三女神成立の一つの要素であり、その女神が豊の国起源である可能性を示唆する。”


【解説】

タギツはかつての瀬織津(セオリツ)姫だった、そしてその起源は豊の国である、という推測です。
豊日別(とよひわけ)とは、
”国産みの段で、イザナギ・イザナミが産んだ大八島国の一つである筑紫島(九州)は、体は一つで顔が四つあるとし、そのうちの2番目の顔の名前が豊日別であると記されている。 神名の豊は豊国(豊前・豊後)の意で、豊国自体を神とみたもの、すなわち国魂である。 ”(Wikipediaより)
とあり、かなり古い歴史を感じさせます。

イチキシマのみを祭る神社は宇佐以東に多い。特に国東半島沿岸の港附近に多く、対岸の伊予地方への出発地に祭られた神であることを推測させる。別府市から大分市にかけてもこの傾向が続く。

【解説】
イチキシマが国東半島沿岸の港付近に多い、というのは興味深いですね。対岸にある四国の愛媛県伊予地方とは海を通じての交流があったでしょうから、その出発地に祭られた神という推測も、納得感があります。

伊予といえば、国生み神話で出てきます。古事記によれば、イザナギとイザナミが交わって、生まれたのが大八島(おおやしま)です。大八島の初めが「淡道之穂之狭別島(=淡路島)」で、次が「伊予之二名島(四国)」、4番目が「筑紫島(九州)」です。
このように「伊予」は「筑紫島」とともに神話のはじめに出てきますから、遠い神話の時代から交流があったと考えられます。

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北部九州の宗像神と関連神を祭る神社データは語る(9)~宗像神信仰中心地域の検討,ムナカタ~遠賀地域

今回から、宗像神信仰の成立過程を探るため、その発祥の地域と考えられている東部地域について、祭神内容の詳細を検討します。

”図 15 はムナカタ―遠賀地域について宗像神を祭る神社の分布を、祭神別にみたものである。宗像郡では、沿岸部よりも釣川の中流域からその支流域に多く分布する。これは多くの古社の起源が入り海の発達していた上古代に遡ることを示唆している。
 
【解説】
釣川は、遠い昔は入り江のように、海が川の上流部にまで入いり込み、入り海であったことがわかってます。その入り海沿いに分布していることから、古社の起源も遠い昔に遡る、と推測してます。


 宗像・遠賀郡宗像神分布


”これまで見たように宗像郡では三女神を祭る神社が多いが、タゴリのみを祭る神社が 2 社ある。沖ノ島祭祀開始との係わりが議論される 4 世紀後半の東郷高塚前方後円墳のすぐそばに、オオナムチとタゴリを祭る古社矢房神社がある。この神社は田熊石畑遺跡とも至近距離にあるが、その遺跡内にかつてオオナムチを祭る示現神社があった(現在は約 500 m 西に移動)。これら遺跡がある八並川(釣川の支流)の谷には、オオナムチと共にタゴリとの間の神味耜(あじすき)高彦根(たかひこねの)命および下照(したてる)姫命が 3 社の的原神社で祭られる。タゴリとオオナムチは、かつての桂潟に面した福津市奴山の生家大塚前方後円墳のすぐそば大都加(おおつか)神社にも、宗像君徳善など古代宗像を支配した宗像君一族と共に祭られている。沖ノ島祭祀に参画し、後にはその祭祀を中心となって継承したと考えられている宗像君は、出雲系の血を引く氏族であったらしい出雲大社瑞垣内の筑紫社の祭神タゴリが、宗像大社でも祭られるのは当然である。”

【解説】
沖ノ島は、タゴリ信仰です。そのタゴリ信仰の神社が宗像郡にも2社あるので、沖ノ島祭祀との係わりが指摘されてるわけです。さらに下記の4社は、オオナムチ(大国主)・スサノオ・アジスキタカヒコネ・シタデルヒメが祭られていることから、出雲との関連を指摘してます。
各社の祭神
矢房神社
  オオナムチ・天照大神・タゴリ
  
「伊久志神社」(合祀)
    イザナギ・イザナミ
  「貴船神社」(合祀)
    高轗(タカオカミ)神・保食神

示現神社
  スサノオ・オオナムチ
的原神社
  オオナムチ・アジスキタカヒコネ・シタデルヒメ
大都加神社
  大国主タゴリ・阿田賀多
  宗像君阿鳥・宗像君徳善・宗像朝臣秋足主神
  難波安良女神・宗像君烏丸主神

ここまではいいのですが、実はここで論文には触れられていない注目すべきことがあるのです。
たとえば大都加神社です。
江戸時代までは、大塚明神社と呼ばれたいました。
「筑前国風土記付録」(同拾遺)に、「いかなる神を祭れるにや」とあり、奉祀は「在自村無量院」(修験者)が行っていたとあるようです。つまり祭神が誰なのか知られていなかった、ということです。
明治時代以降に、農耕神としての、「埴安神・少彦名命・保食神」が祭られるようになった(福岡県地理全誌記載)とのことです。(
ブログ「正見行脚」大都加神社の祭神の変遷より)。

埴安神はこれまで出てきたように、博多湾岸から筑後地方にかけて信仰されていた神です。となると、このエリアを簡単に宗像海人族のエリアと決め付けていいのか?、という疑問が生じます。もっと具体的に言うと、阿曇海人族のエリアの可能性はないのか?、という問題提起です。
実際、矢房神社内の貴船神社の祭神は、高轗(タカオカミ)神とともに農耕神である保食神であり、大都加神社と対応してます。

”一方タギツは単独では祭られていないが、瀬織津姫(他の表記もあるので以下セオリツ)が津屋崎の古社波折神社に主祭神として祭られている。『宗像郡誌』によると他に 3 社の境内社に祭られている。うち釣川河口に近い辻八幡社内の皐月神社は、かつて宗像神社の頓宮があったと記録される隣接地にあった神社で、現在でもその跡地で祭りが行われる。宗像大社との繋がりの深さを感じさせる。

【解説】

瀬織津姫(セオリツ)は、神道の大祓詞に登場する神で、古事記・日本書紀には記されていない神名です。
水神や祓神、瀧神、川神で、もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流すとされてます。

波折神社の祭神は、セオリツ・住吉大神・志賀大神で、ここでも阿曇海人族系の神が、顔を出してます。
一方、皐月神社の祭神は、セオリツ・宗像三神・速秋津姫・神功皇后です。

速秋津姫(ハヤアキツヒメ)
とは
”神産みの段でイザナギ・イザナミ二神の間に産まれた男女一対の神で、水戸神はその総称である。『日本書紀』の一書第六では「水門の神達を速秋津日命という」としている。『古事記』では、二神の間には以下の四対八柱の神が産まれたと記している。いずれも水に関係のある神である。”
セオリツとともに大祓詞に出てくる 祓戸四神のうちの神で、海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む、とされます(Wikipediaより)。

ハヤアキツヒメ系譜



”一方遠賀郡域では、イチキシマのみを祭る神社が、宗像郡との境界山地の東麓に沿って多く、遠賀川中流域や若松区西部にも多い。このような分布は、後に図 18 で示す古遠賀湾および岡垣町の入り海、および深く入り込んで遠賀川河口と繋がっていた古洞海湾の沿海に沿っている。いかにも海人の祭る神にふさわしい立地である。古洞海湾と続く水路で囲まれた現在の北九州市若松区は古くは恩賀(おか)島と呼ばれていた。その中のかつての島郷村にもイチキシマを祭る神社が多い。”

【解説】
遠賀川は、かつては入り海になっていました。遠賀郡芦屋町船頭町に、岡湊(おかみなと)神社があります。
・岡湊神社の祭神
大倉主(オオクラヌシ)命・菟夫羅媛(ツブラヒメ)命・天照皇大御神・神武天皇・素盞雄命

祭神の大倉主(オオクラヌシ)命・菟夫羅媛(ツブラヒメ)命ですが、日本書紀「仲哀天皇」の巻に登場します。仲哀天皇が熊襲征伐のためこの地にやってきたときに、船が進まなくなりました。それがこの二神のせいだろう、ということで祭ったところ動くようになった、という話です。

この話から当時このエリアは、大倉主(あるいはその末裔)が勢力をもっていた、との解釈もできますね。大倉主が誰なのかは興味深いところですが、それはいずれということにします。

またここに水門(おかみなと)があります。読んで字の如しで、「崗(岡)にある水門」です。かつての入り海の様子がよく表されてますね。その「おか」が訛って「遠賀(おんが)」になったといわれてます。

日本書紀では、舟で穴戸豊浦宮からやってきた仲哀天皇と神功皇后が、この地で合流したとされてます。当時港としての適地だったのでしょう。
また近くに神武天皇ゆかりの、神武天皇社もあります。ここから東征に出発したともいわれてます。
詳しくは、
土器は語る(10) ~ 「遠賀川式土器」と神武天皇
を参照ください。

このようにこの地域一帯は、古代から多くの海にまつわる話が伝わっており、海人族の重要拠点だったことがわかりますね。
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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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