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宗像三女神と沖ノ島祭祀の始まり(9)~タギツはセオリツ?

今回から、三女神の最後の一人「タギツ」です。タギツは謎が多い神です。では論文をみていきましょう。

”タギツを単独で祭る神社はタゴリよりさらに少なく、全国で69社に過ぎず、北部九州4県には4社しかなく、福岡県では小倉北区に1社あるだけでムナカタには全くない。
ところが、三女神のタギツの代わりに瀬織津(セオリツ)姫が入っている神社が、中津市の古社闇無浜(くらなしはま)神社など4社ある。”

ここから「タギツ=セオリツ」との推測が生まれます。

”セオリツは、記紀神話に出ないため一般にはポピュラーな神ではない。しかし神道の最も基本的な祝詞(のりと)の一つである「大祓詞(おおはらえのことば)」では、皇祖神に続いて登場するきわめて重要な神である。
大祓詞は、あらゆる罪を祓え流し人々に和解をもたらす趣旨で、いかにも日本的な祈りの言葉である。セオリツは、罪を祓え流す神々の最初に、「高山(たかやま)・低(ひき)山の末(すえ)より、さくなだりに落ちたぎつ速川(はやかわ)の瀬(せ)に座(ま)す瀬織津比咩という神」(武田祐吉の訓読による)と出る。
上の大祓詞の文言にあるように、セオリツは滝と関係が深いと思われる女神である。実際にセオリツは、滝または急流のある場所に祭られていることが多い。”

【解説】
大祓詞(おおはらえのことば)が出てきました。神社で神主さんが唱える祝詞(のりと)の一つです。大祓詞とは、
”元々は毎年6月と12月の末日に行われる大祓で、犯した罪(神道の観念による「罪」であり、犯罪とは意味合いが異なる)・穢れを祓うために唱えられた祝詞で、中臣氏が京の朱雀門で奏上していたことから中臣祓の称がある。6月と12月では異なる文言であったが、6月の方だけが残った。”
”その成立については賀茂真淵は天智・天武朝説を唱え、本居宣長は文武天皇朝説を唱えているが、いずれの説もその原典になる文章がそれ以前の時代には存在したとしている。”
”大祓詞は、内容から大きく前段と後段の2つに分けられる。前段は、大祓に参集した皇族・百官に対して「祝詞をよく聞け」という内容の文言から始まる。今日の神社本庁の大祓詞ではこの部分は省略されている。次に、葦原中国平定から天孫降臨し天孫が日本を治めることになるまでの日本神話の内容が語られる。そしてそのような国の国民が犯してしまう罪の内容を「天つ罪・国つ罪」として列挙し、そのような罪が出たときの罪の祓い方が述べられる。
後段では、そのような祓を行うと、罪・穢れがどのように消滅するかが語られる。罪・穢れが消滅する様を様々な喩えで表現した後、四柱の祓戸神によって消え去る様子が述べられる。“(Wikipediaより)

大祓詞の前段でさまざまな罪が語られますが、その消滅経路として、セオリツが最初に出てきます。その部分の訳です。
”このようにすべての罪をなくしてしまおうとして、今日こうして朝廷において大祓の儀式を行って、祓い清めて下さる罪(具体的には罪を付けた祓えの品物)を、高い山や低い山の頂から勢いよく落下してさか巻き流れる速い川の瀬においでになる瀬織津比咩せおりつひめという神様が、川から大海原へ持ち出してしまうであろう。”(國學院大學伝統文化リサーチセンター資料館HPより)

このように、すべての罪を川から大海原へ持ち出してくれるという、たいへん有難い神様です。

”一方タギツにも、水が逆巻き流れるイメージがある。実際に「滝(瀧)津姫」という名の神を祭る神社が35社あるが、そのうち27社では三女神のうちのタギツの位置に入っている。タギツの別表記として間違いないと思われるので、前報ではこれらをタギツの表記の一つとしている。・・・このようにタギツとセオリツはきわめてイメージの近い神々である。
県ごとに見ると、タギツとセオリツは互いに排他的でほとんど混在しない。・・・以上のことから、タギツとセオリツが本来同神であり、いずれか一方が名を変えたのではないかという推測を生む。大祓詞は記紀より成立が古いと思われるので、記紀の最終編纂までの間にセオリツがタギツに変わった(あるいは変えられた)と考えることができる。”
”変更の時期は、大祓詞創始の669年以降で、日本書紀の編纂が終わった720年までの期間ということになるであろう。「ウケイ神話」も、最終的にはその期間内に形を整えたことになる。”

【解説】
タギツが三女神の一人に入っている神社が多くあること、排他的で混在してないことなどから、本来は同じ神だったところ、セオリツがタギツに変わった、と推測してます。
大祓詞の成立は669年とありますが、定かでありません。少なくとも7世紀以前、すなわち古事記・日本書記編纂の前と推測されてます。また中臣祓とも称されることから、中臣(藤原)氏が深く関係していることがわかります。
中臣(藤原)氏といえば、乙巳(いっし)の変が645年にありました。中大兄皇子(のちの天智天皇)、中臣(のちの藤原)鎌足が、当時の権力者、蘇我入鹿を暗殺した事件です。

<乙巳の変絵図>
乙巳の変
(談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』(奈良県桜井市))

この事件を機に、中臣鎌足らが権力奪取したわけです。このころ大祓詞が成立したとなると、大祓詞、古事記・日本書記に、中臣氏の思惑が何らか反映されたことは、想像に難くないですね。

これはいちおういいとしても、ではなぜ「セオリツ」→「タギツ」に変わったのか?、という謎は残ります。それはのちほどということにします。

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宗像三女神と沖ノ島祭祀の始まり(8)~阿田賀田須命はなぜムナカタに来たか② 出雲とのかかわり

前回はムナカタと出雲の深いつながりを、出土物からみてきました。今回は、古墳をみていきましょう。

"出土物などから見て、ムナカタを経由した渡来人の最大の最終入植地が出雲であったことはほぼ間違いないであろう。その出雲開発のリーダーは『出雲国風土記』に「天下所造(あまのしたつくらしし)大穴持命(おおあなもちのみこと)」と書かれたオオアナムチであった。強力なリーダーを持つ出雲族は、渡来人材のリクルートや、半島との交易のために出先機関をムナカタに置いていたと思われる。そこにかなりの実力者を置いていたことは、武器形青銅器15本を出した弥生時代前半の田熊石畑遺跡から分かる。このような遺物は、ムナカタのような狭い後背地しか持たない地域首長の持てるものではなく、交易拠点とその背景となる大勢力の存在を想定して始めて理解できる。田熊石畑遺跡出土の玉類は、東日本を含むかなり広い範囲の石材で作られており、広域流通システムの存在が推定されるという(研究報告中の大賀克彦の論文)”

【解説】
ムナカタには、出雲族が渡来人材の確保や半島交易のための出先機関を置いていた、と推測してます。ここで注目すべき観点があります。矢田氏は、あくまで出雲が「主」でムナカタは「従」だった、とみていることです。

”このような山陰地方との繋がりは、古墳時代に入っても続いていた。図3に示すように、古墳時代前期に釣川に沿い下流に向かって前方後円墳が次々に築かれる(この図で集成期とは、古墳の年代を大まかに示した数で、3世紀後葉から4世紀の前期古墳が1-4期、5世紀の中期古墳が5-8期に当たる)。 4世紀半ばの田久瓜ヶ坂1号墳(全長31m)の壺棺に用いられた二重口縁壺が山陰系で、その他前出の 東郷高塚古墳出土の破片も含め宗像出土の二重口縁壺はすべて山陰系の特徴を有するという。

<図3>
ムナカタ前期古墳
”東郷高塚からさらに釣川を下った宗像大社背後の通称宗像山山頂に上高宮古墳(4世紀後葉、円墳23m)が築かれるが、これは現在の辺津宮祭祀との繋がりが推測される。前述の氏八幡神社はこの山の 東麓にあり、この古墳の主を祭る神社であったと思われる。ここから「名児山越え」古道を抜けたところに、津屋崎古墳群の先駆けとなる奴山正園古墳(5世紀初頭、円墳28m)が築かれる。この2古墳に共通するのは、いずれの主体も大ムナカタに多い石棺墓であり、鏡や鉄製の武器・農耕具など、古墳の規模に似合わぬ大量の豪華な副葬品を伴っていることである。両古墳から多量の玉類が出土したが、なかでも勾玉が前者で20個、後者で15個も出ている。詳しく調査されている後者では、瑪瑙製4個、翡翠製・硬玉製 2箇など多様な石材を用い精巧に作られているものが多く、当時の産地として出雲以外は 考えられない。
この頃から新羅の古墳で大量の日本製の玉類が出土するが、一方上記2古墳ばかりではなく畿内などの古墳で大量の鉄製品が出土するようになる。宗像大社周辺が沖ノ島祭祀で開かれた交易ルートの中継地として機能していたことを示すと思われる。それを司っていたのが出雲系の人々であり、宗像ではオオアナムチと共にタゴリを祭っていたらしい。”


<勾玉(奴山正園古墳)>
勾玉(奴山古墳)

(九州国立博物館、特別展「宗像沖ノ島と大和朝廷」H29年パンフレットより)

【解説】
田久瓜ヶ坂1号墳、東郷高塚古墳が山陰系です。上高宮古墳、奴山正園古墳も、出雲系と推測してますが、勾玉の産地を出雲以外考えられない、というのが根拠です。しかしながら、
"碧玉 へきぎょく ・水晶 すいしょう ・瑪瑙 めのう ・翡翠 ひすい・ガラス ・滑石 かっせき を素材とした勾玉。国際色豊かな宗像君に相応しく、アジア各地の多様な素材が用いられています。"(九州国立博物館、特別展「宗像沖ノ島と大和朝廷」H29年パンフレットより)
とあるとおり、出雲産というよりはアジア各地産です。
それにしても、美しい見事な勾玉です。古代の人たちが、霊力を感じたのもうなずけますね。

また鉄器についてですが、確かに同時期に畿内にも鉄製品が出土するようになります。その中継拠点が宗像大社周辺であり、それを司っていたのが出雲系の人々だった、というわけです。

以上前回から長々と解説してきましたが、矢田氏がいいたいことは、阿田賀田須命が畿内を追われたのは、畿内における出雲勢力の力を削ぐためであり、ムナカタに来た理由は、ムナカタが出雲と深いつながりがあり、かつ朝鮮半島との交易において重要な中継拠点だったから”、ということです。

これと沖ノ島祭祀が深く関係している、ということでしょう。

いちおうもっともらしい推測です。ただし阿田賀田須命は崇神天皇の時代の人です。崇神天皇は3世紀ころの人と推定されます。一方、畿内に鉄器など朝鮮半島の製品が入るようになるのは、4世紀以降です。また沖ノ島祭祀が始まったのは4世紀後半からです。

このあたり時代に大きなずれがあるところであり、慎重な論証が必要だと考えます。

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宗像三女神と沖ノ島祭祀の始まり(7)~阿田賀田須命はなぜムナカタに来たか

前回は、「宗像氏の祖である阿田賀田須命がムナカタにやってきた時期」についてでした。論文では、阿田賀田須命が大和からやってきた、と推測してます。
論文はさらに、「なぜ阿田賀田須命はムナカタにやってきたのか?」という視点で進めてます。

前回矢田氏は、阿田賀田須命が大和を去った理由として、大和で力をもっていた出雲勢力の力を削ぐためだった、と推察してます。前回系図のとおり、阿田賀田須命は出雲系です。古事記によれば、甥の大田田根子は大物主の子とされてます。その出雲系である阿田賀田須命をムナカタへ追いやった、というわけです。

ここで疑問が浮かぶわけです。
「なぜ阿田賀田須命は出雲ではなく、ムナカタに行ったのか?」
です。

矢田氏はその理由を、「出雲とムナカタの強いつながり」があったからだ、述べてます。
論文では、出雲とムナカタの古来からの強いつながりを表すものとして、いくつか挙げてます。

”津屋崎港の背後に、在自(あらじ)という変わった地名がある。
「アラ」は、古代韓国の阿羅加耶(あらかや)(安耶(あや)国・阿那(あな)加耶などとも書かれる)から来ているのではないかと思われる)。阿羅は倭国とのつながりが深く、『日本書紀』にしばしば登場する「任那(みまな)日本府」も阿羅に置かれていたと考える人が多い。従って阿羅からは古くから多くの渡来人が来日している。出雲の主神オオアナムチも、大きい「アナ」の貴(むち=貴人)の意味とされ、これを直訳したのが大国主と考えられている。「ナ」には国の意味があるからである。津屋崎港は、阿羅からの渡来人の上陸が多かった港だったのではないか。
実際に津屋崎には、オオアナムチを祭る神社が多い。津屋崎地区に20社ある神社のうち、6社がオオアナムチを祭る。『宗像郡誌』によると、かつては9社が同神を祭っていた。”

【解説】
まずは地名からです。津屋崎港付近の在自(あらじ)が、古代韓国の阿羅加耶(あらかや)からきている、としてます。オオアナムチのアナも「阿羅」からきている、という面白い説です。ただし、
・「オオ」は「大」
・「ナ」は「土地」
・「ムチ」は「高貴な人」
とされ、
「大きな土地に住む高貴な人」
と解されるのが、一般的です。

オオナムチは明らかに「スクナヒコナ」とセットになっています。
スクナヒコナとは、
”『古事記』によれば、スクナビコナは大国主神の国土造成に際し、天乃羅摩船に乗って波間より来訪し、カミムスヒの命によって義兄弟の関係となって国造りに参加した。”()Wikipediaより)

オオナムチと名前を比較すると、
・オオナムチ ・・「大」「ナ」
・スクナヒコナ・・「少」「ナ」
という対になってます。
神世七代あたりを読むと神様が皆、対でセットになってます。
以上のとおり、大穴牟遅神、大己貴命は、「オオナムチ」と呼ぶのが妥当と考えられます。

さて、多くの考古学的証拠も、古くからのムナカタと出雲の繋がりを示してます。いくつか挙げてます。
・土笛
”弥生時代前期後半から中期はじめにかけての日本海沿岸の遺跡から出土する。中国の戦国時代の書物に記述があることから中国起源の祭祀用楽器と考えられ、陶塤(とうけん)という難しい名前が付いている。
現在全国26の遺跡で合計111個見つかっている。分布の中心は図2に示すように出雲地方で、松江市内の西川津とタテチョウの二遺跡から併せて38個も出土している。ムナカタが出土の最西端で、宗像市の光岡長尾(みつおかながお)遺跡と福津市の香葉(かば)遺跡で完形のものが出土している。大陸との繋がりから、ムナカタに 上陸しそこから東に伝播したことが明らかである。陶塤を用いた祭祀も、同時に伝わったであろう。”

<光岡長尾遺跡から出土した土笛>
土笛
(宗像市HP「時間旅行ムナカタ第14回 弥生のメロディー 土笛」より)

<図2>
土笛分布 
【解説】
以前お話した土笛、陶塤(とうけん)です。注目は、ムナカタが出土の最西端と点です。中国から伝わっているのですから、九州北部全域から出土してもよさそうなものですが、そうなっていません。ということは、ムナカタはムナカタ以西とは文化が違うということになります。具体的には、博多湾岸以西とは異なる文化圏だった、ということです。この点はまた取り上げます。

・独特の墓葬形式
”より古い証拠としては、宗像市の弥生早期から前期にまたがる田久松ヶ浦(たくまつがうら)墳墓遺跡で見出された、独特の墓葬形式がある。ここでは墓穴の中に木棺を置いたあと、棺を覆うように石の固まりを積み上げている。原俊一らは、この「松ヶ浦タイプの石槨墓」が韓国で発見されているこの時期の石槨墓(棺の周りを石で囲った墓)とよく似ていると指摘し、朝鮮半島南部から直接もたらされたものと考えた。
このような「配石墓」は、山口県の響灘沿岸の武久浜、山口県の響灘沿岸の武久浜、梶栗浜、吉母浜、中ノ浜と続く弥生前期の墳墓遺跡にも見られ、さらに東進して島根県の大社町(現出雲市)原山遺跡と鹿島町(現松江市)堀部第1遺跡に現れる。特に後者では、調査された31基の墓が全てこのタイプで、遠賀川系土器が供献され、上記の陶塤も出土している。


【解説】
松ヶ浦タイプの石槨墓です。同じく朝鮮半島南部からもたらされたと考えられますが、遠賀川系土器陶塤の分布に重なっていることから、すべて同じ文化圏であることがわかります。

・松菊里系土器
”この遺跡では朝鮮半島の松菊里系土器も見付かっていて、朝鮮半島からの渡来間もない人々が入植していたらしい。福津市の今川遺跡や田久松ヶ浦遺跡は、弥生時代早期から前期に朝鮮半島の松菊里文化の影響を直接受けた文物が出土するので、渡来人が他地域を経由することなくこれら遺跡に到達していたと考えられている。そのような渡来人の一部が、ムナカタに定住することなく出雲に向かったことが示唆される。ムナカタは、朝鮮半島からの渡来人の一時的寄留地としての役割を果たしていたらしい。その後の移動には前報で見た縄文時代以来のムナカタ海人族の広域活動で蓄積された情報が、大いに活用されていたであろう。”


【解説】
ムナカタは朝鮮半島からの渡来人が多くやってきたのでしょうが、一時的居留地だったという推測は興味深いですね。

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宗像三女神と沖ノ島祭祀の始まり(6)~宗像君の祖先はいつ頃ムナカタに来たか

前回は、三女神の一人であるタゴリについて、出雲との関連が深い、という話でした。その論拠として挙げられている人のなかに、阿田賀田須(あたのかたすみ)命がいました。今回はその阿田賀田須(あたのかたすみ)命についてです。

ここまで矢田氏は、神名などの統計データを整理したうえ、見事なくらいの素晴らしい分析をしてきたのですが、今回あたりから、私の見解とは異なる部分が多くなってきます。それはさておき論文を読んでいきましょう。

”宗像君の祖と考えられる阿田賀田須命は、いつ頃ムナカタに来たのだろうか。これを推測できる説話が、『日本書紀』崇神紀にある。
崇神天皇の 6 年国内に災害等の凶事が多発しその理由を占ったところ、大物主が崇神の夢に出て我が子大田田根子(おおたたねこ)に大和の三輪山で祭らせるよう言った。そこで大田田根子を探し求め、和泉の陶邑(すえむら)で見つけて大物主を祭らせ、さらに他の国内諸神を祭らせてようやく国内が落ち着いたとある。
『先代舊事本紀』によれば、大田田根子はスサノオの九世の孫(同時にオオアナムチの八世の孫)で、出雲族の本流を継いでいる。その先代となるスサノオ八世の孫は阿田賀田須命である。ところで『舊事本紀』および三輪氏に伝承されていた系図によると、阿田賀田須命は大田田根子の父ではない。大田田根子の父は、阿田賀田須命の弟の健飯加田須命(たけいかたすのみこと)となっている。古系譜では一般に長子が各世の「孫」になっているので、これはきわめて珍しい例である。
『日本書紀』と『舊事本紀』によれば、天皇家は神武以来安寧天皇まで三代に亘って出雲本宗家直系の孫の妹を皇妃にし、第四代の懿徳(いとく)天皇も出雲直系の天日方奇日方命の妹が生んでいる。物部氏が外戚として王権内で勢威を恣にする以前には、出雲氏がヤマトで強い勢力を持っていたことは間違いない。
阿田賀田須命の母の名が 大 倭 国(おおやまとのくに)民磯姫であるので、このときまでは出雲本宗家直系の子孫がヤマトにいたのであろう。それなのになぜ阿田賀田須命の子孫がスサノオの系譜に書かれず、甥の大田田根子が九世の孫と書かれているのか。”


【解説】
日本書紀にある有名な話です。大物主の子大田田根子(おおたたねこ、古事記では意富多多泥古命)が出てきます。
大田田根子は夫なくしてはらんだ玉依姫(たまよりひめ)の子ですが,その異常な誕生のいきさつを語った説話が三輪山伝説です。三輪山伝説とは、
古事記に見える伝説で、活玉依姫(いくたまよりびめ)のもとに、貴公子が夜な夜な訪れ姫は身ごもる。両親は男の素性を怪しみ、姫に男の衣の裾に糸をつけた針を刺させる。翌朝糸をたどると三輪山に至り、男が三輪山の神であったと知るもの。” (大辞林第三版)
三輪山の神は大物主とされるので、大田田根子は大物主の子というわけです。三輪氏賀茂氏の祖ともいわれます。

ただし、このあたりの系図は、古事記・日本書紀・舊事本紀では、大きく異なります。そもそも古事記・日本書紀には、阿田賀田須命は登場しません。各系図をまとめます。

阿田賀田須命系図  


"その理由は、阿田賀田須命が畿内から退去したためではないか。さらに想像すれば、大和王権は隠然とした勢力を持ち続けている出雲系氏族の力を削ぐために、本宗家の一族を地方へ追いやったのではないか。大田田根子の所在が分からず和泉でやっと探し出したのも、それで理解できる。これに対する出雲系の人々の不満の表面化とその解決が、この説話群の意味ではないのか。
崇神の在位時期については定説がないが、第 16 代の応神天皇が5世紀初めまで在位したことはほぼ確かなので、第 10 代の崇神は逆算して 3 世紀後葉から 4 世紀初頭に在位したと考える人が多いようである。そうすると、阿田賀田須命がムナカタに来たのはその頃になる。阿田賀田須命を祭る神社は、全国で大都加神社の他には天理市の和爾坐(わににます)赤阪比古神社のみであるので(赤阪比古とは阿田賀田須命のこととされる)、阿田賀田須命はヤマトからまっすぐムナカタに来た可能性が強い(注 8)。ちなみに和爾坐赤阪比古神社には阿田賀田須命の他にイチキシマが祭られており、ここにもムナカタとの繋がりが窺われる。”


【解説】
”なぜ阿田賀田須命の子孫がスサノオの系譜に書かれず、甥の大田田根子が九世の孫と書かれているのか。”という謎に対して
"阿田賀田須命が畿内から退去したためではないか。それは隠然とした勢力を持ち続けている出雲系氏族の力を削ぐために、大和王権が本宗家の一族を地方へ追いやるためではないか。”
という大胆な推察をしてます。
もしそうであるなら、出雲系の人々の不満はさぞかし大きなものであったことでしょう。”その不満の表面化と解決がこの説話郡の意味ではないか”、というまことに大胆な仮説です。
はたしてこの大胆な仮説が正しいのかどうかは、何ともいえません。
まず阿田賀田須命が畿内から退去した、とありますが、その証拠はどこにもありません。阿田賀田須命を祭る神社が全国で大都加神社の他には天理市の和爾坐(わににます)赤阪比古神社のみであることから、宗像地方と大和地方に深いつながりがあることは推測できますが、だからといって、阿田賀田須命がもともと大和にいて宗像に行ったのだ、ということは断定できません。

実は阿田賀田須命を祭る神社は、他にもあります。
福岡市博多区 櫛田神社摂社石堂神社「吾田片隅命」
福岡県宗像町玄海町 宗像大社摂社津加計志神社「阿田賀田須命」、氏八幡神社摂社「吾田片隅命」
愛知県春日井市 両社宮神社「阿田賀田須命」、朝宮神社「阿太賀田須命」、天神社「吾田片隅命」、和爾良神社「阿太賀田須命」

http://kamnavi.jp/as/yamanobe/waniaka.htmより

このうち愛知県春日井市の神社については、論文註で”ヤマトで和邇(和仁)氏が成立した後下向した祖先を祭ったものであろう。”としてます。これを除いても、阿田賀田須命を祭る神社の数は、九州北部が最も多いことになります。となると、阿田賀田須命のもともとの本拠地は、九州北部だったのではないか、という推測もできます。
もちろん阿田賀田須命が宗像にやってきてから、神社で多く祭られるようになったのだ、という考えもできますが、何ともいえません。

ちなみに天理市の和爾坐(わににます)赤阪比古神社は、横穴式古墳の上に立っているともいわれてます。横穴式古墳(石室)は4世紀後半頃から九州北部で築造されますが、東に伝わったのは5世紀以降、本格的には6世紀です。そうすると、この神社の創建は早くても5世紀から6世紀以降ということになります。

一方、冒頭に出てきた崇神天皇は、3世紀頃の人です。時代が全く合いません。この説話が史実であるなら、和爾坐赤阪比古神社は、言い伝えを基に後年作られた可能性がありますね。

阿田賀田須命は和邇(和仁、ワニ)氏の祖とされてます。
”ワニ氏は海人族であり、出自については2世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ鍛冶集団とする説がある”(山尾1983 P133、Wikipediaより)
とありますから、ワニ氏は九州北部からやってきた海人族だった可能性があります。

宗像族は縄文以来の海人族ですから、ワニ氏はその一派だったのでしょう。このことからも、阿田賀田須命が畿内にいたのか、それとも北部九州にいたのかは別として、もともとの本拠地は北部九州であった可能性が高いといえるのではないでしょうか?。
その阿田賀田須命の甥の大田田根子に三輪山で大物主を祭らせたという話は、出雲とともに北部九州勢力が畿内でもいかに大きな力を持っていたかを示しているといえますね。

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宗像三女神と沖ノ島祭祀の始まり(5)~タゴリ

次にタゴリをみてみましょう。表記としては、田心姫、田霧(タギリ)姫、多紀理(タキリ)毘賣などいくつかあります。

タゴリは、神話や祭神の分布から、出雲の神である大国主命と親和性が強い、としてます。古事記、日本書紀、先代旧事本紀、播磨国風土記の話から、大国主命との間にアジスキタカヒネノミコトとシタテルヒメの二人の子をもうけたとされてます。

”第一報で見たように、全国でタゴリを単独で祭る神社は151社で、栃木県の61社以外は少なく、北部九州には16社しかない。旧郡単位で見ると、2社が祭るのは、宗像と豊前の下毛、豊後の西国東のみである。なお以下神社の祭神は、断らない限り前2報と同じく神社本庁の『全国神社祭祀祭礼総合調査 (平成七年)』(以下『平成データ』)による。イチキシマを単独で祭る神社が多い遠賀郡には、 全くない。
前報に述べたように、宗像市東郷の矢房神社がオオアナムチとタゴリを祭る(注5)。そのわずか200m西に、宗像市内最大の前方後円墳東郷(とうごう)高塚(たかつか)古墳(全長64m)が、沖ノ島祭祀開始とほぼ同時期の4世紀第三4半期に築かれる。弥生時代中期の日本最多級の武器形青銅器を出した田熊石畑遺跡も、西500mの距離にある。その遺跡の範囲内には、もとスサノオと オオアナムチを祭る示現(じげん)神社があった(現在は南西400mに移動している)。”
”(注5)現在はアマテラスを第一にオオアナムチ、タコリの順となっているが、宝暦一〇年(1760)の置き札によると、アマテラスの名はなく田心姫命・大己貴命の順となっている。三女神筆頭のタコリがここ古代宗像族の原点と思われる東郷-田熊地区の中心にある神社の主神となっているのは、重要な事実と考えられる。”

【解説】
タゴリを祭る神社分布の特徴です。イチキシマと異なり全国的にみて数が少ないのですが、興味深いのは遠賀郡です。遠賀郡にはイチキシマを単独で祭る神社が多いのに対して、タゴリを祭る神社はひとつもありません。このことから、遠賀地方とは信仰圏が異なるといえます。
一方タゴリ信仰が強いのは、宗像・豊前の下毛・豊後の西国東あたりです。東北九州地域一帯なのですが、遠賀地方が異なるのは目立ちますね。

<図1>
ムナカタ神社位置


東郷と田熊の北辺を流れる釣川の支流八並川の谷には、オオアナムチとアジスキおよびシタテルの上記父子三神を祭る的原神社が3社もある。このように現在も宗像市の中心部である八並川の谷とその釣川への合流部は、宗像での出雲勢力の橋頭堡であったと思われる。
タゴリを単独で祭るムナカタのもう一つの神社は、福津市津屋崎古墳群中の奴山生家(ゆくえ)の生家大塚古墳(5世紀後半、現状全長73 m)に隣接する大都加(大塚)神社である。この神社はその名からこの古墳の被葬者を祭った神社と思われる。祭神は上記のオオアナムチ・タゴリ・アジスキと、阿田賀田須命・宗像君阿鳥主命・宗像君徳善主命・宗像君鳥丸主命・宗像朝臣秋足主命・難波安良女命である (注6)。『新撰姓氏録』には右京の宗形朝臣と河内国の宗形君がいずれも「吾田片隅命之後也」と 書かれる。一方大和国の「和仁古」の欄阿太賀田須命が大国主六世孫と書かれるので、上記阿田賀田須命はオオアナムチ直系の子孫であることがわかる(阿田賀田須命・吾田片隅命・阿太賀田須命は同一神)。
(注6)『宗像郡誌』は、この神社の祭神を江戸期の史料も含め考察して不詳としている。それが『平成データ』になって上記祭神が明記されたいきさつについては、さらに詳細な調査が必要である。”

【解説】
宗像市の中心部が宗像での出雲での橋頭堡(上陸や渡河をする部隊を守り、また攻撃の足場とする、上陸地点や対岸の拠点)であった、という推定です。当時は海上ルート中心でしたから、出雲勢力が宗像で勢力を張るにはちょうどよかったということでしょう。
ここで阿田賀田須命(アタノカタスミ)という名が出てきます。5世紀から6世紀にかけて奈良盆地北部に勢力を持った古代日本の中央豪族である和邇(わに)氏の祖ともいわれます。この阿田賀田須命が、オオナムチの直系である、すなわち出雲の流れを汲んでいる、というのです。ここで宗像、出雲、大和の関係が出てきました。

”その後裔である宗形(胸肩・宗像)君を冠する大都加神社の祭神のうち、徳善は天武天皇に嫁して高市皇子(たけちのみこ)を生んだ尼子郎女(あまこのいらつめ)の父として『日本書紀』に名を残す。また鳥丸と秋足はそれぞれいずれも 宗像郡大領で『続日本紀』に出る宗形朝臣鳥麻呂と『類聚国史』に出る宗形朝臣秋足であることは間違いない(詳細は『宗像市史』史料編第1巻参照)。難波安良女も『類聚国史』に秋足の妻で貞節を賞された難波部安良女と対応する。これらは天平元年(729)から天長5年(828)の間に正史に名を残している人々である。
このように、
古代の宗像郡を支配していた宗像君一族の人たちは、実際にオオアナムチとタゴリの血を引く人たちと考えられていたことが分かる。タゴリが「ウケイ」で生まれた三女神の筆頭となっているのは、このためであろう。”

【解説】
いろいろ名前が出てきて、頭の中がこんがらがってきますね。宗像君はオオナムチとその妻タゴリの血を引いている出雲系です。宗像君徳善の娘が天武天皇の嫁になり、高市皇子(たけちのみこ)を生みました。天武天皇は、壬申の乱(672年)で兄の天智天皇の息子大友皇子(おおとものみこ)を破り、天皇の座についた当時の最高権力者です。宗像君徳善は、天武天皇の義理の父にあたるわけですから、その権力たるやさぞかし絶大であったことでしょう。こうしたことから矢田氏は、タゴリが三女神の筆頭になっているのだ、と推測してるわけです。
三女神の中でもっとも古い神はイチキシマであったにもかかわらず、なぜタゴリが筆頭となっているのか、その疑問がこれで説明できるというわけです。

”一方出雲にもタゴリが大事に祭られている。杵築神社(出雲大社)の境内摂社神魂(かむたまの)御子(みこ)神社は、延喜式の時代には独立社であった。この摂社は現在筑紫社と呼ばれ、出雲大社の瑞垣内摂社で最も高い扱いを受けている。その祭神がタコリである。出雲が大陸との交流・通商に当たって最も重視していた筑紫を、宗像神のタゴリで代表させていたことになる。『日本書紀』崇神紀の60年に、天皇が出雲大神の宮の神宝を見たくて使いを遣わしたところ、出雲臣の遠祖出雲振根が筑紫に行っていて会えなかったという記事がある。出雲のトップが頻繁に筑紫(おそらくムナカタ)に赴いていたことが窺われる。

同社の海への玄関口に当たり、朝鮮半島に向かって日本海に突き出した日御碕(ひのみさき)にある日御碕神社にも、境内摂社宗像神社にタゴリのみが祭られている。『式内社調査報告』ではこの神社(延喜式では御碕(みさきの)神社)の主祭神がアマテラスとスサノオ、配祠が三女神五男神となったのはそれほど古く遡らないようであり、『出雲国風土記』に美佐伎(みさき)社と書かれた神社の祭神は、もとはこの摂社の神タコリだったのではないか。『宗像郡誌』によると、吾田片隅命はそのほかにも宗像大社ゆかりの2社に祭られていた。宗像大社背後の「宗像山」中腹の氏八幡(氏八満)社は、宗像大宮司家の祖神など大社ゆかりの神を祭る神社である。吾田片隅命はその神社帳の祭神に記され、かつての中殿(なかどん)神社の祭神であったとする。中殿は、花田勝広の調査で、5 世紀頃宗像大社附近で最初に祭祀が営まれた場所と推定されている。
現在神湊の市街地の南に鎮座する古社津加計志(つかけし)神社も、江戸期の神社史料では阿田賀田須命を祭るとされている(現在は三女神)。この神社はかつて神湊港背後の草崎半島山麓にあり、そこに辺津宮の旧祉もあった。現在でもその旧祉には頓宮が置かれている。以上のように、吾田片隅命が宗像君ばかりではなく、その後の宗像大宮司家からも祖神とされ、宗像神社の祭祀の対象になってきたことが分かる。”

【解説】
出雲とタゴリ、宗像、阿田賀田須命に、深いつながりがあるという話です。
ここで注目すべきことがあります。ひとつは杵築神社(出雲大社)の境内摂社内に、筑紫社という名の神社があることです。
もうひとつは、”『日本書紀』崇神紀の60年に、天皇が出雲大神の宮の神宝を見たくて使いを遣わしたところ、出雲臣の遠祖出雲振根が筑紫に行っていて会えなかったという記事”です。
出雲振根は出雲のトップです。そのトップが筑紫に行っていたということは、なかなかあることではないでしょう。今でもそうですが、国のトップがそうやすやすと他の国に行くことはありません。もし相手の国が格下なら、相手の国のトップに、「自分の国に来い」というでしょう。それができないなら、部下を相手国に派遣するのがふつうです。交通の便が現在よりはるかに劣る古代なら、なおさらです。
となると、次の疑問が浮かびます。
「筑紫は出雲より格上だったのではいか?」
です。
矢田氏は、筑紫とはムナカタではなかったか、と推測してます。私は筑前博多から筑後にかけてにあった九州王朝ではなかったか、と推測しますが、これはまた別の機会にお話したいと思います。

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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