宗像三女神と沖ノ島祭祀の始まり(14)~沖ノ島誓約におけるパラダイムシフト
”勢力を強めてきていたヤマト王権を中心とする畿内や瀬戸内地方では、弥生時代終末期まで依然として鉄の欠乏状態が続いていた。が続く古墳時代前期のうちには、瀬戸内海交易路が開発されたため大量の鉄器が畿内に流入し、古墳にも多量に副葬されるようになる。一方大口の顧客を失った博多湾貿易は、古墳時代前期後半には衰退する。その効果は絶大であった。”
【解説】
畿内では、弥生時代終末期まで鉄が欠乏してました。北部九州には紀元前5-同4世紀には鉄が入っていたのに対して、畿内は3世紀になりようやく入ってきたわけで、実におよそ700年も遅れていたことになります。鉄は最先端の文明を象徴するものですから、畿内は文明の後進地だったことになりますね。
古墳時代前期に瀬戸内海交易路が開発されたことから、ようやく畿内にも鉄が流入しますが、すぐに多量に入ってきたわけではありません。纏向遺跡の3世紀代の遺構から、鉄器生産が行われたことを示す鞴(ふいご)の羽口(はぐち)、鉄滓、鉄片が出土(第174次調査、桜井市纏向学研究センターHPより)しましたが、鉄器としては鉄鏃など少量に限られてます。
少なくともこの時代、ヤマト王権の拠点とされる纏向遺跡に、大量の鉄器が流入した痕跡は見出せません。
一方古墳時代前期後半以降、博多湾貿易が衰退していきますが、以上のこととの関連は何ともいえません。
”このようなパラダイムシフトが起きるには、なにか大きな政治イベントがあったはずである。それは、ヤマト王権をはじめ、安定した貿易ルートを渇望していた東方諸豪族の参加・協力による、貿易路確立の誓約のための会盟であったのではないか。十分な鉄を持っていなかった当時のヤマト王権は、単独で 瀬戸内ルートを確立できるほどの武力を持ち合わせていたとは思われない。しかし崇神天皇の 三輪山祭祀開始の説話にあるように、祭祀権という強力なリーダーシップを持っていた(三輪山祭祀は、沖ノ島とほぼ同時期に始まっている)。その誓約のための祭りが、最初の沖ノ島祭祀であったのではないか。
「ウケイ神話」は、それを象徴的に示したものと思われる。「ウケイ」は、誓約という字で表現されている。まさに多くの関係者が集まって誓約を行ったことを示している。
その会盟の目的は、沖ノ島経由で山陰勢力が直接輸入していた鉄を、沖ノ島から瀬戸内海経由で 畿内方面に安全に運ぶことにあると考えられる。従って焦点の沖ノ島が祭祀場所に選ばれるのは、当然のことである。ただしそれには、特権を奪われる出雲を中心とする山陰勢力の承諾または屈服が必要である。しかも山陰勢力は朝鮮半島の産鉄地に権益を保有していたと思われるし、また出雲は 鉄の最重要な対価であったと思われる玉類の最大の生産地でもあるので、会盟への出雲勢力の積極的な参加が必要であった。”
【解説】
これも以前出てきた推測です。ありうる話であり、読む限りはもっともらしい説です。
しかしながらこの説には欠点があります。
鉄が畿内に入るようになったのは古墳時代前期ころから、すなわち3世紀代からです。一方、沖ノ島祭祀が始まったのは、4世紀後半の岩上祭祀からです。1世紀ものずれがあるのであり、そのあたりをどのように説明しうるのかが課題ですね。
”ここで起用されたのが、出雲本宗家の嫡孫阿田賀田須命(吾田片隅命)だったのではないか。
この人物はヤマトで生まれたと考えられ、実際にヤマトの古社で祭られているが、その子孫は本宗家系図から 外れ、甥の大田田根子が本宗家を継いで三輪山の祭主となっている。一方阿田賀田須命は忽然と ムナカタに現れ、宗像大社ゆかりの複数社で祖神として祭られている。これらの記録や伝承が示唆するのは、ヤマト王権(ここでは崇神天皇)が阿田賀田須命をムナカタに派遣し、沖ノ島貿易の管理と沖ノ島祭祀の継承を任せたのではないか、ということである。このような管理業務や祭祀儀礼は、宗像海人族には手に余る仕事であった。ヤマト王権にとっては、ヤマトで目の上のこぶであった出雲族の首領を放逐できるので、一石二鳥であった。もちろんこれができたのは、ムナカタと出雲との古くからの深い繋がりがあってのことである。こうして、宗像海人族を管理する胸肩君が誕生した。
このような構造は、神代紀第六段本文でタゴリがイチキシマの上に置かれたことにも現れている。”
【解説】
阿田賀田須命(吾田片隅命)(あたのかたすみ)の話もすでにしました。阿田賀田須命がヤマトにいて宗像にやってきたという記載はどこにもありません。また時代としては崇神天皇の時代ですから、3世紀ころの人です。一方沖ノ島の祭祀が始まったのは、4世紀後半で、ここでも時代が大きくずれてます。したがって矢田氏の推測が当たっているかは、「?」です。
ただし、出雲との関連からタゴリがイチキシマの上に置かれたという推測は、ありうるかもしれません。
論文ではこのあと、タギツの話に移ります。
タギツがセオリツから名を変えた話もしました。セオリツはヤマト朝廷の重要神だったのですが、なぜ名前がタギツに変わったのか、その理由を2つ挙げてます。
1番目は、セオリツが、「ソウルの姫」を意味するから、というものです。日本人のアイデンティティーを確立するはずの日本書記に、ソウルの名前があってはまずい、というのです。
2番目は、セオリツを三女神に入れるにあたり、三女神が地祇(くにつかみ)である一方、セオリツは天神であるため、そのままでは入れられなかったのではないか、というものです。
三女神に入れた理由については、「タギツはヤマト王権関連の重要神であるので、全体の祭主が アマテラスと観念されていることと共に、三女神の中のヤマト王権側の「お目付役」としてタギツを加えたのではないか」、と推測してます。
タギツが「三女神の中のお目付け役」というのも、面白い発想です。ただし、もしお目付け役で入れるなら、何もそれを隠す必要はないわけで、堂々とお目付け役である天神として明示すればよいではないのか、という疑問も浮かびます。
最後に、三女神と沖の島祭祀の始まりについては、タギツについてより突っ込んだ考察が必要であるとして、本論文は終わります。次回は、この続きです。

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