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宗像と宇佐の女神(6)~「比咩」は一番偉い神につく?

論文では、「比咩神」について、深堀していきます。

”それにしても古い女神の尊称に「比咩」の字が好んで当てられるのはなぜだろうか。宇佐神宮や香春の女神は、比売と書かれることも多いが、本来は比咩と書かれた。この2女神が、いずれも渡来系の人々が祭った神であることが注目される。
前報で紹介した大祓詞中のセオリツ以下の祓戸四神の他の二女神も、平安時代の『延喜式』には比咩と書かれていた。『延喜式神名帳』で社名から女神の名を全て拾い出すと、「比賣」が60例と圧倒的に優勢であるが、「比咩」も29例ある。しかし「姫」は10例しかなく、まだ十分普及していなかったらしい。あとは「比女」が7例、「日女」が4例、「日賣」と「火賣」が各1例となっている。その分布を見ると、畿内ではほとんどが比賣であり、比咩は全くない。比咩は、能登に12社、伊豆に10社と特定の地方に集中し、いずれも畿内から離れたところにある。比咩が畿内を中心に比賣(比売)に変えられたように見える。”

【解説】
まず「比咩」の表記からです。「咩」は羊の鳴き声の意味で、中国語で「咩咩」は、羊がメエーメエーと鳴くさまを表す擬声擬態語です(白水社 中国語辞典)。
論文では、もともとは「比咩」だったところが、比賣(比売)に変えられたのではないか、と述べてます。

”「比咩」は、現在も多くの神社に受け継がれている。『平成データ』によると、祭神名に「比咩」のある神社が全国で916社ある。県別に見ると、図2のように石川県に208社が集中し、次いで熊本県の101社と岐阜県の82社の順となっている。複数の比咩神を祭る神社が87社あり、比咩神の総数は1110柱である。表1は神社の系統別に見たもので、図2ではそれを県別に表示している。
八幡系の神社が全国で291社と最も多い。そのうち比咩の前に別の名の付かない単なる「比咩神」または「比咩大神」(以下単比咩と書く)を祭るのが258社で、宇佐神宮創始のころの組み合わせが各地に根強く残っている。

【解説】
全国で、祭神に「比咩」のある神社が916社あります。複数の「比咩神」を祭る神社があるので、それらをすべて加えると、1110社にものぼります。系統別にみると、やはり八幡系神社が291社で、32%にのぼります。次いで、白山系・阿蘇系・春日社と続き、以上4系統で82%を占めます。
それにしても、石川県、熊本県、岐阜県が多く、大分県が少ないのは意外です。
石川県、岐阜県が多い理由については触れられてませんが、日本海での伝播ではないでしょうか?。図3をみると、岐阜県は白山系神社、熊本県は阿蘇系神社が多いですね。


比咩神系統別神社数 
比咩神全国分布 

単比咩神全国分布


"このうち、かつての宇佐神宮のように、単比咩を祭る社が351社ある。
次ぎに多い白山系の289社は、白山比咩を祭る188社とククリ系比咩を祭る神社の合計で、両神が重複する例も1社ある(普通ククリは菊里と書かれるが、その他の表記もある)。
比咩神を祭る阿蘇系の神社は、全国95社のうち92社が熊本県にある。
次ぎに多いのが中臣の祖神天兒屋根命(あめのこやねのみこと)(以下コヤネ)を主神とする春日系の79社で、これは春日大社のある奈良県に19社と多い。

以上の比咩神の祭られ方から、中臣氏や渡来系氏族にとって、「比咩」は本来特定の神を指す固有名詞であったことが推測される。"

【解説】
論文では詳細な考察がされているのですが、詳細にわたりますので、概略のみ抜粋です。ようは”中臣氏や渡来系氏族にとって、「比咩」は本来特定の神を指す固有名詞であった。"のではないか、ということです。
さらに考察が続きます。抜粋します。


”二柱以上の女神が祭られる神社では、「比咩」は原則としてそのうち一神のみに附く。「比咩」を祭る916社のうち275社が複数の女神を祭るが、うち183社は比咩が一柱で他は比売・姫・媛などと書かれている。「比咩」が二柱以上祭られるのは、上記阿蘇系の神社のほか、セオリツなどの祓戸の三女神や宗像の三女神など同格の神が並ぶ場合にほぼ限られ、合祀によると思われる場合もごく少数ある。”

”ヒメ神の中で「比咩」神には特別の意味があるらしく、一社にはできるだけ一神だけにする傾向が強い。その「比咩」が附く女神のなかでは、八幡神・春日神に伴う単なる比咩(大)神が最も優先され、次いで白山神・セオリツが優先されている。

以上の傾向は、比咩神を祭る神社の中で、伝播の大元である八幡系神社の祭る単なる「比咩」の神名が、最も尊ばれたことを示す。春日系神社の祭る女神がやはり単比咩であることは、中臣氏が渡来人の圧倒的に多かった豊前出身の可能性が高いことを考えれば理解できる。八幡系神社の祭る「比咩」も、春日系神社の祭る「比咩」も、本来同じ神なのではないか。このことは、長野県の二柱神社と皇大神宮、岐阜県の六社神社などのように、主祭神に八幡神と春日神があって単比咩が一柱だけ祭られている場合があることからも分かる。

以上のことから、宇佐を起源とする比咩神にあやかって、他の尊敬すべき女神にも「比咩」が用いられるようになったのではないかと思われる。そしてそれらを祭るグループや地域を明らかにし大元の比咩神と区別するため、さまざまな修飾語を附けるようになったと解釈できよう。そのような「固有名詞+比咩」の神々の中で、白山神・祓戸神がより早く名付けられたため、八幡系および春日系神社の祭る単比咩に次いで序列が高かったと考えられる。いずれにせよ「比咩」が附く神名は、大元の宇佐の女神に対する崇敬の念に根ざしているように思われる。

【解説】
「比咩」神は、特別な神であり、それは宇佐を起源としているのではないか?、という推測です。その可能性はあるとしても、ではなぜ本家本元の大分県では、「比咩」神を祭る神社が少ないのか?、という疑問は残ります。

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宗像と宇佐の女神(5)~比咩神と玉依姫

前回は、香春神社の由緒とともに、「高良玉垂宮神秘書」の話に広がりましたが、論文に戻ります。もうひとつ、八幡信仰発祥の地とされる古宮神社があります。

由緒は
”古宮八幡神社は平安時代にできた「延喜式」の「神名」に挙げられている豊比咩命神社の本社でありその最初の鎮座地は香春三ノ岳の麓、阿曾隈という所である。
創祀は元明天皇和銅2年(709)今より実に壱千弐百八拾余年の古社である。
香春岳三山に祀られる神々は式内社豊前国座のうち三座でその一ノ岳に鎮まる香春神社の神は辛国息長大姫大目命で「豊前国風土記」に新羅の神が渡ってきて住みついたとある。三ノ岳の古宮八幡神社豊比咩命を祀り養老4年(720)宇佐八幡社の託宣で三ノ岳の銅を掘って長光公が鋳造した神鏡を宇佐宮放生会に奉納した縁で貞観元年(859)応神天皇、神功皇后を勧請して八幡神社の呼び名となる。

祭神は、
一之御殿・豊比咩命
二之御殿・神功皇后
三之御殿・応神天皇

です。
”豊比売命は近くに在る香春神社例祭の時には香春神社へ下向し、例祭が終わると再び古宮八幡宮に戻る。”(Wikipediaより) とあるように、豊比売命がもともといたところ、ということになります。
香春神社の祭神の豊比売命が、豊玉姫と考えられることは前回お話しましたが、となると古宮神社の豊比売命も、豊玉姫とみていいでしょう。

ここまで宇佐八幡宮の元社関連と考えられる神社をみてきました。その祭神を整理します。なお、
近辺の大きな神社も参考までに記載しました。
ひとつが、宇佐神宮本宮ともいわれる大分八幡宮の近くにある竃門(かまど)神社す。古来から厚く信仰されてきた宝満山にあり、「大宰府鎮護の神」ともされます。
もうひとつが、宇美神社です。神宮皇后がこの地で応神天皇を産んだことから「宇美(うみ)」と名付けられたといわれてます。

宇佐神宮関連祭神  

宇佐神宮関連神社分布





祭神のうち、応神天皇と神功皇后はほぼ一致してます。一致しないのは比売大神ですが、よくみると宇佐神宮と薦神社は、宗像三女神になってますが、妻垣神社・大分八幡宮・宇美八幡宮・竃門神社は玉依姫、香春神社・古宮神社は姉の豊玉姫です。
これをみると、
”比売大神は、もともとは玉依姫(または豊玉姫)だったところ、移動して宇佐神宮に近づくにつれ、宗像三女神に変わっていったのではないか?。”
という推測が生まれます。

さて論文は、分布について述べてます。
”嘉穂・田川・京都・築上郡に多い新羅神信仰からも、渡来人は福岡県東部に広く居住していたと考えられている。これは既報で見たオカミベルトとほぼ一致している。”

オカミ神、記紀神話で宗像神より先に登場する由緒の古い水神です。前にお話ししましたが、
神産みにおいて伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれたとされます。

”剣の柄に溜つた血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)とともに闇龗神(クラオカミノカミ)が生まれたとされる。龗(おかみ)は龍の古語であり、龍は水や雨を司る神として信仰されていた。”

詳細は、
北部九州の宗像神と関連神を祭る神社データは語る(4)~「オカミベルト」と「埴安ベルト」


<オカミベルト>
埴安神・オカミ神を祭る神社分布


この分布が、上の神社分布図とも重なっており、宇佐神宮に近づくにしたがい、割合が高くなっていることがわかります。
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宗像と宇佐の女神(4)~宇佐の女神信仰の起こり

それでは、いよいよ比咩(ひめ)神とは何か?、について探っていきましょう。

”宇佐の女神信仰の起源は古い。記紀で初代天皇とされる神武天皇は、日向を出発しまず海路宇佐に入った(以下『日本書紀』の記述に従う)。このとき神武を宇佐で歓待したのが、菟狭(う さ)(宇佐)国造の祖菟狭津彦と菟狭津姫の兄妹である。彼らは神武のために 一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を造ってもてなした。宇佐市安心院(あ じ む)町妻垣(つまがけ)にある妻垣神社に伝わる伝承によると、同社背後の共鑰(ともかき)山の中腹にあるその上宮が一柱騰宮の跡であるという。その上宮の祭神は、宇佐神宮にはじめ祭られたと同じ比咩大神である。上記中野幡能によると、宇佐神宮最古の伝承にも比咩神が安心院の都麻垣に住む神と記すという。”

【解説】
宇佐の女神信仰の起源です。神武天皇が日向を出発して宇佐に来た際、もてなしたのが菟狭津彦と菟狭津姫の兄妹です。日向がどこだったのかは諸説あり、いずれ書きますが、この記事から、宇佐は日向と味方の関係にあったことがわかります。
このときの様子について、
”翌朝、天皇は朝霧の素晴らしいこの地をいたくお気に召され、連なる山々よりひと際輝く共鑰山(別名-妻垣山)の大石に母后玉依姫命(比咩大神)の御霊をお祀りするため、自ら祭主となり、玉依姫命の御霊を共鑰山にお迎えしました。その大石は「足一騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)」と名付けられました。 ”(妻垣神社HPより)
とあります。
祭神は、
足一騰宮(上宮) 比咩大神(ひめおおかみ)
本殿(下宮)   比咩大神(ひめおおかみ)・八幡大神・神功皇后
神社では、比咩大神を、神武天皇の母・玉依姫命としてます。

玉依姫系図

”ただし宇佐神宮の縁起には、はじめ宇佐氏は現れない。渡来系氏族は、はじめ福岡県田川市の香春神社で女神を祭っていたと考えられている。香春神社は宇佐神宮と並ぶ豊前国の式内社で、『延喜式神名帳』では辛國息長大姫大目命神社・忍骨命神社・豊比咩命神社の 3 社からなる。辛國は加羅(か ら)国であり、宇佐神宮の女神と同様渡来系の氏族が祭る。行幸会と並ぶ宇佐神宮の大規模な神事であった放生会(ほうじょうえ)は、この豊比咩命神社から出発する。
この神社はかつて香春岳の三ノ岳の採銅所にあった。ここに古宮八幡宮があり、文字通り八幡信仰発祥の地と考えられる(祭事には豊比咩命が下向する)。ここで鋳造された銅鏡が、途中さまざまな儀式を経て最終的に宇佐神宮に奉納される。香春神社の神官も渡来系氏族が務めており、宇佐神宮の辛島氏と繋がりがあると考えられている。この銅鏡奉納儀礼は、田川で銅鉱を開発した渡来系氏族が南下して同じく女神を祭っていた宇佐に入り、その祭祀権を獲得するまでの道筋を象徴しているように思われる。

【解説】
宇佐神宮ははじめ香春神社で女神を祭っていたとしてます。
香春神社の社前には、
「第一座辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給ひ、第二座忍骨命は、天津日大御神の御子にて、其の荒魂は第二の岳に現示せらる。 第三座豊比売命は、神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母にして、第三の岳に鎮まり給ふ」
と書かれてます。
ここで豊比売命は、神武天皇の外祖母(母方の祖母)ですから、豊玉姫となります。
もうひとつ、住吉大明神の御母というのが出てきました。

まず住吉大神の前に、住吉大神について整理します。住吉大神とは、古事記・日本書紀に出てくる底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)の三神のことです。

伊邪那美命が火之迦具土神を生んだときに大火傷を負い、黄泉国(死の世界)に旅立った。その後、伊邪那岐命は、黄泉国から伊邪那美命を引き戻そうとするが果たせず、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で、黄泉国の汚穢を洗い清める禊を行った。このとき、瀬の深いところで底筒之男神が、瀬の流れの中間で中筒之男神が、水表で上筒之男神が、それぞれ生まれ出たとされる。 ”

住吉三神系図

ここには住吉大明神は登場しないので、住吉大神との関係がわかりません。

ここで貴重な資料を紹介します。福岡県久留米市御井町にある「高良大社」に伝わる「高良玉垂宮神秘書」です。九州北部のさまざまな系譜・伝承をまとめたもので、「神秘書」の名のとおり、実に興味深い書です。
では読んでみましょう。
訳・解釈はブログ「ひもろぎ逍遥  高良大社(7)九躰皇子と『高良玉垂宮神秘書』」 からです。

ヒコナギサタケ・ウガヤフキアエズの尊住吉大明神であり、明星天子の垂迹である。
(垂迹とは、菩薩が人々を救済するために仮の姿をとって現れること)
叔母のオバキ玉依姫と夫婦になった。二人の間には5人の御子がいて住吉五神という。

内訳は女子が二人で、男子が三人である。
女子の名は表津少童命(ウワツフカタツミの命)、中津少童命(ナカツフカタツミの命)。

男子は嫡男が表筒男の尊で、大祝(おおはふり)氏の先祖であり、日神の垂迹である。
二男は中筒男の尊で、このクニに留まって初代天皇の神武天皇となった。
三男は底筒男の尊で、高良大菩薩の事である。月神の垂迹である。


住吉大明神は、住吉三神(大神)の父親であり、ウガヤフキアエズ(神武天皇の父親)である”というのです。ウガヤフキアエズの母親(神武天皇の祖母)は豊玉姫です。

話が複雑で、わかりにくくなってきたので、系図で整理します。


高良玉垂宮神秘書系図

これを先の”第三座豊比売命は、神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母”と照らし合わせると、
豊比売命=豊玉姫
となります。同じ「豊」がついてます。
厳密にいうと、豊玉姫は外祖母(母方の祖母)ではありませんが、妹の玉依姫が神武天皇の母親であり、玉依姫(妹)の育ての親が豊玉姫(姉)だったと考えれば、豊玉姫が外祖母というのも、あながち間違ってはいないでしょう。

ここで神功皇后の妹が豊姫となっているため、
豊比売命=豊姫=神功皇后の妹
とする説もありますが、豊比売命は「神武天皇の祖母」ですから、この説は成立しません。

なお高良玉垂宮神秘書は、時代を経ているためか、さまざまな記載が入り乱れてます。したがって上の系図はそのうちの一つに過ぎず、古事記・日本書紀の系図とも整合していないことの注意ください。

住吉大神は、三韓征伐の際、神功皇后を助けたことでも知られています。

”日本書紀によれば、仲哀天皇の御代、熊襲、隼人など大和朝廷に反抗する部族が蜂起したとき、神功皇后が神がかりし、「貧しい熊襲の地よりも、金銀財宝に満ちた新羅を征討せよ。我ら三神を祀れば新羅も熊襲も平伏する」との神託を得た。しかし仲哀天皇はこの神託に対して疑問を口にしたため、祟り殺されてしまう。その後、再び同様の神託を得た神功皇后は、自ら兵を率いて新羅へ出航した。皇后は神々の力に導かれ、戦わずして新羅、高麗、百済の三韓を従わせたという。”(Wikipediaより)

話は広がるのですが、「高良玉垂宮神秘書」には、さらにあっと驚く記載があります。

”嫡男の日神・表筒男の尊は神功皇后の妹・豊姫と夫婦になった。
地上での名は太政大臣玄孫(ひまこ)大臣物部の大連。天照大神のひまごという事から付いた名である。二人の間の御子は大祝日往子(おおはふり・ひゆきこ)という

三男の月神・底筒男の尊神功皇后と夫婦になった。
地上での名は物部の保連。藤大臣。高良大菩薩
藤大臣と呼ぶのは、干珠満珠を借りた時の仮の名前。

皇后には九人の御子がいた。

四人は仲哀天皇との間の御子で、五人は高良大菩薩との間の御子である。
合わせて九人の御子を九躰の皇子と言う。”


上の系図に整理しました。
注目は高良大菩薩が神功皇后と夫婦になっていることです。これが事実なら、神功皇后は仲哀天皇死去したのち、高良大菩薩と再婚したことになります。

二人には子供が9人あり、4人が神功皇后の連れ子、5人は高良大菩薩の連れ子あるいは神功皇后との子供ということになります。

神功皇后の子供が応神天皇ですから、関係が気になるところです。子供の名前はわかるのでしょうか?。

実は「高良玉垂宮神秘書」に記載はありませんが、宝物殿にそれを書いた縁起書があります。
それによると、

1 斯礼賀志命(しれかし)     
2 朝日豊盛命(あさひとよもり) 
3 暮日豊盛命(ゆうひとよもり)
4 渕志命(ふちし)
5 谿上命(たにがみ)
6 那男美命(なをみ)
7 坂本命(さかもと)
8 安志奇命(あしき)
9 安楽應寳秘命(あらをほひめ)

の9人です。

応神天皇がこのうちの誰かなのか、残念ながらわかりません。
また神武天皇と神功皇后が同時代人となっており、つじつまが合ってません。このあたりは、多くの時代を経たなかで、さまざまな伝承が入ってきたためと推察されます。

このように必ずしも一貫性があるとはいえませんが、貴重な資料であることは間違いありませんので、いずれ詳しく取り上げたいと思います。

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宗像と宇佐の女神(3)~宇佐神宮が力をもちえた理由とは?

さて宇佐神宮に関する疑問として
1.なぜ八幡神が祭られているのか。
2.なぜ応神天皇が習合したのか。
3.比咩神とは何か。
4.なぜ宇佐神宮が、皇位継承にまで関与するほどの力をもっていたのか。

がありました。

1は、秦氏(新羅系)との関係でした。
2について、矢田氏は
”神功皇后の子の応神が九州生まれとされることから、応神信仰を持ち込むことにより大陸への玄関口九州の有力神となることで朝廷へのアピールを狙ったのであろう。”
と推測してます。

これはこれでいいのですが、何かもう一つ足りない気がします。
この疑問は、4の「なぜ宇佐神宮が、皇位継承にまで関与するほどの力をもっていたのか?」という疑問にも関連します。

4の疑問は、難解です。確かに秦氏が銅の採掘で巨万の富を築き、ヤマト王権中枢にまで深く食い込んでいたから、というのも大きな理由でしょう。
しかしながらそれでも、皇位継承にまで力を及ぼせるのか?、という疑問が残ります。伊勢神宮のほうが上なのだから、伊勢神宮にお伺いを立てれば済むはずです。
ではなぜでしょうか?。

ここで面白い説を紹介します。古田武彦氏の説ですが、この説によると、上の疑問がきれいに解決するのです。その説とは、
”天武天皇は、九州王朝系の王(子)、具体的には「豊国」の王(子)だった。”
というものです。

何を突然、と思われた方も多いと思われます。

しかしながら、実は天武天皇の出自は、詳細がよくわかっていません。年齢も、兄である天智天皇より上との説もあります。
また天武天皇の即位前の名前は「大海人御子」で、明らかに「海人族」です。
684年(天武天皇13年)に、八色の姓が定められます。その最高位、真人(まひと)は、13氏に与えられたとされてます。一方、天武天皇の和風(国風)諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)です。
通説では、八色の姓は、天武天皇が与えたとされますが、天皇が13氏と同じ位(真人)というのも変ですし、自分で自分に「真人」を与えるのもおかしいということから、真人とは、九州王朝が与えた位ではないか、天武天皇もそのうちの一人だったのではないか、と推測してます。

また側室に尼子娘(あまこのいらつめ)がいますが、筑紫国宗像郡の豪族・胸形徳善の娘です。宗像と強い関係をもっていたことがわかります。同じ北部九州出身の海人族だった可能性があります。ちなみにその第一皇子が高市皇子で、孫が有名な長屋王になります。

この説の詳細はいずれということにして、確かに天武天皇が豊国の王(子)だったとすると、上の疑問をきれいに説明できます。

まず1ですが、天武天皇が豊国王(子)とすると、新羅系だった可能性があります。となると秦(八幡)を祭るのは自然です。
2は、神功皇后は新羅系とされており、その子の応神天皇も新羅系になります。その応神天皇を祭るのもありえる話です。
4は、当時は天武系の天皇が続いてることを考えればありうる話です。東大寺大仏を建立した聖武天皇道鏡事件の当事者だった称徳天皇は、天武天皇直系です。天武天皇出身地の宇佐神宮の権威を利用した、というのは充分に考えられます。

どうでしょうか。皆さんは、どのように考えますか?


天武天皇系譜


最後に残った疑問の3、比咩神とは何か?、については、次回以降詳細にみていきます。

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宗像と宇佐の女神(2)~八幡神信仰の沿革

前回、古代に宇佐神宮が厚遇を受けた理由を知るために、その成り立ちを知る必要がある、という話でした。宇佐神宮に祭られる八幡神の成立について論文からです。

八幡神信仰の成立は、それほど古くは遡らない。天平12年(740)の上記記事が、六国史に現れる最初である。中野幡能によると]、同社については平安時代の17種の縁起が伝わっているという。それらに示される最古の年代は6世紀中頃の欽明天皇の時代で、要約すると応神天皇の神霊として八幡大御神が宇佐郡内に現れ、郡内各地を移り歩いた後最終的に現在の亀山に鎮座したというものである。”

【解説】
八幡神信仰は、思ったほど古くはありません。そして宇佐神宮については、
”社伝等によれば、欽明天皇32年(571年?)、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂(註:応神天皇のこと)、護国霊験の大菩薩」と託宣があったとある。宇佐神宮をはじめとする八幡宮の大部分が応神天皇(誉田天皇)を祭神とするのはそのためと考えられる。 ”(『扶桑略記』(『東大寺要録』、『宮寺禄事抄』、Wikipediaより)
とあり、6世紀半ば過ぎです。こちらもさほど古くありません。

ただし以上はあくまで八幡信仰であって、比咩神信仰ではありません。実は、宇佐神宮の成り立ちは、もっと複雑なようです。

”しかし比咩神信仰の起源は、より古いと考えられている。中野幡能は、原始八幡信仰が地元の豪族宇佐氏の女神信仰に始まり、北部九州から南下してきた渡来系の辛島氏(辛=加羅)がそれを引き継いだと考えている。そこに6世紀大神比義(おおがのひぎ)と称する人物が現れ、応神天皇信仰を持ち込んだ。比義の素性ははっきりしないが、大和の大神(おおみわ)氏の出と考える人が多い。”

【解説】
地元豪族宇佐氏によって始められた比咩(ひめ)神信仰が、渡来系の辛島氏に引き継がれ、さらに大神氏により応神天皇信仰がもちこまれ、習合したというわけです。

ここでまず宇佐氏に注目です。古事記・日本書紀に菟狭津彦(うさつひこ)が出てきます。

宇佐国造(くにのみやつこ)の祖。神武天皇が東征し菟狭(大分県宇佐市)にきたとき,菟狭津媛(ひめ)とともに駅館(やっかん)川の上流に一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)をつくり天皇をもてなしたという。”(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
つまり少なくとも神武東征の時点、私の推測では紀元前1世紀ころには、この一帯にいた豪族だったわけです。

もうひとつの注目が、辛島氏です。この辛(から)は「韓(から)」ともいわれてます。当時の朝鮮半島南部は、三韓時代で、馬韓・辰韓・弁韓の三国が覇を競ってました。そのうちの辰韓(紀元前2世紀-紀元後356年)秦韓とも書かれて、のちの新羅に重なります。

<三韓時代勢力図>
三韓時代地図 
(Wikipediaより)

辰韓の人々が日本にやってきて、秦氏を名乗った
といわれてます。
カンのいい方は、ここでピンときたでしょう。そうです、ここで「秦(はた)」が出てきますね。
「秦(はた)」→八幡の「幡(はた)」
です。

その秦氏が、宇佐の地に八幡信仰を広めたのですが、大神氏が応神天皇信仰をもちこみ、
八幡神=応神天皇
となったというわけです。

なおこの流れは説により若干の違いがあります。

宇佐神宮の研究では、田村圓澄氏(九州大学名誉教授)、中野幡脳氏(大分県立芸術短期大学名誉教授)などが知られてますが、それらをうまくまとめたブログがありますので、参照させていただきます。

八幡神の謎②~もとは「香春岳」に渡来してきた神?
八幡神の謎③~三つの氏族の習合神だった
~神旅 仏旅 むすび旅
からです。

①もともとの宇佐氏の信仰は、宇佐氏によって遥拝されていた聖なる山馬城峰(現御許山)の巨石磐座の原始信仰であった。

②4世紀末期に秦氏が渡来し、秦氏系の辛島氏が豊前国に勢力を張った。
・渡来人は、香春岳の銅に着目して採銅鋳造の技術を活用した。
・702年豊前国の戸籍によると、氏の総人口に対する某勝 秦部姓の比率は93%以上。
香春神社 
 <祭神> 
  辛国息長大姫大目命
・・息長大姫は神功皇后、
  忍骨命・・新羅の御子神
  豊比売命・・秦氏の主神の一つ。秦氏の八幡信仰は母子神信仰だという。
        そしてその「御子神」は「太子」と呼ばれる。


③辛島氏が宇佐郡の駅館川左岸に到達し定着し「宇佐郡辛国」の成立。5世紀末頃。

④大和系の大神氏応神信仰を報じて、大和から馬城峰に天下る。

⑤秦氏系の辛島氏と大和系の大神氏の争いが勃発する。

⑥二系統の神が統合され「八幡神」が誕生する。
です。

おおかた同じなのですが、比咩(比売)神信仰は秦氏がもちこんだとしてる点が異なります。
また秦氏が香春岳の銅の採掘をしていた点も注目です。東大寺の大仏造立の際、大量に銅を供与したといわれます。大和朝廷から厚遇された理由が、ここにもあります。

秦氏はその後、東へ進出します。
”日本へ渡ると初め豊前国に入り拠点とし、その後は中央政権へ進出していった。大和国のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)、摂津国豊嶋郡など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。アメノヒボコ(天之日矛、天日槍)説話のある地域は秦氏の居住地域と一致するという平野邦雄の指摘もある。難波津の西成・東成郡には秦氏、三宅氏、吉氏など新羅系の渡来人が多く住み、百済郡には百済系の渡来人が住んだ。”(Wikipediaより)

そして有名な 秦河勝がいます。
聖徳太子に仕え、太秦(うずまさ)蜂岡寺(広隆寺)を創建したことで知られる。村上天皇の日記には「大内裏は秦河勝の宅地跡に建っている」と記されており、平安京への遷都や造成に深く関わっていたことが記紀の記述からも読み取れる。”(Wikipediaより)

【解説】
秦河勝(はたのかわかつ)が政権に深く食い込んでいたことがうかがえます。それは土木・養蚕・機織などの技術をもっていたこともさることながら、銅の採掘により巨万の富を蓄えていたからでしょう。
ただしその秦氏も、当初宇佐の地に入るのは容易ではなかったようです。

”記紀の神功皇后説話では、応神天皇は妊娠中の神功が「三韓征伐」に渡海し、帰国後糟屋郡宇美町で生んだ子とされる。神功説話は記紀に詳述されているばかりではなく、古代の各地風土記やその逸文にも数多く登場することで分かるように、古代日本に広く浸透していた。その子の応神が九州生まれとされることから、応神信仰を持ち込むことにより大陸への玄関口九州の有力神となることで朝廷へのアピールを狙ったのであろう。あたかも欽明の時代には、新羅とのトラブルが頻発していた。
しかし八幡神を宇佐に定着させることは、それほど容易ではなかった。伝承によると、八幡神が現在宇佐神宮の鎮座する南宇佐の小倉山に落ち着くまで、豊前各地を点々とした。八幡神の受け入れにかなりの抵抗があったことを示す。天平勝宝元年(749)から行われていたという行幸会(近世に廃絶)という大規模な神事では、八幡神の神輿は中津市の薦(こも)神社(大貞八幡宮)を出発し、宇佐郡内に入ってから8社の宇佐神宮摂社を廻ったのち本宮に入る。これは八幡神が小倉山に入るまでの遍歴の反映と思われる。”

【解説】
宇佐に定着する前に、中津市の薦(こも)神社(大貞八幡宮)にあったことがわかります。
実は宇佐神宮には本宮がありました。

”宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』には、筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、筑前国穂波郡(現在の福岡県飯塚市)の大分八幡宮が宇佐神宮の本宮であり、筥崎宮の元宮であるとある。宇佐神宮の元宮は、福岡県築上郡築上町にある矢幡八幡宮(現金富神社)であるとする説もある。”
 
本宮が大分八幡宮なのか、矢幡八幡宮なのかは判然としませんが、宇佐神宮の託宣集にのっていること、また北→南の流れからいっても、大分八幡宮である可能性が高いでしょう。もしかしたら矢幡八幡宮にも遷座した時期があったのかもしれませんね。
伝播ルートを推測してみました。


宇佐神宮移動ルート 

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宗像と宇佐の女神(1)~宇佐神と大和朝廷

今回から矢田浩氏の論文の第四弾です。まず本論文の目的です。

タギツはムナカタとの直接の接点が見えない。その祭られ方や祭神分布から、記紀に見えないが朝廷の重要神であった瀬織津姫(以下セオリツ)と同神の可能性が示唆された。この神はムナカタでも重要な位置にある4社に祭られてきた。そして宇佐の周辺には、三女神のタギツがセオリツに置き換わった古社もある。この神の素性を探ることが、沖ノ島祭祀と宇佐降臨神話のある三女神誕生の謎を解くカギになると考えられた。本報はその解明を目的とする。”


【解説】
宗像三女神の一人であるタギツはムナカタと接点がみえない、という話です。残りの二女神であるイチキシマ、タゴリがムナカタと強い関係があるのに対して、対照的で謎でもあるわけです。
このタギツの素性を探れば、沖ノ島祭祀と三女神誕生の謎を解くカギとあるのではないか、という提起です。

宇佐神は、大和朝廷にとって特別な神であった。図1に示すように宇佐の八幡大神と比咩神は、天平(てんぴょう)勝宝(しょうほう)元年(749)人間なら親王の位に当たる品位(ほんい)を授けられている。以下神階に関する典拠は主として岡田莊司らのデータベースによる。”

宇佐神宮神階

”中でも両神が受けた一品は、皇太子の受ける位である。神に品位が授けられるのはきわめて珍しく、他に備中の吉備津彦命社と淡路島の伊左奈伎神社の例があるが、いずれも 9 世紀であり、宇佐神の授位は他の諸名社に先立つ 8 世紀半ばのことである。図 1 に畿内の名社代表として京都の賀茂上下 2 社を示したが、一般神社が最高位の正一位に到達したのは 9 世紀に入ってからである。”

【解説】
いきなり宇佐神宮が出てきましたが、宗像三女神が降臨したのが宇佐嶋であることから、宇佐神宮について分析すれば手掛かりが得られるのではないか、ということです。
その宇佐神宮の八幡大神と比咩(ひめ)神は、なんと皇太子の受ける位である一品を授かってます。破格の待遇ですね。
ここで宇佐神宮の祭神は
一之御殿:八幡大神
二之御殿:比売大神
三之御殿:神功皇后

です。

”宇佐神にこのような厚遇が与えられたのは、聖武天皇発願の大仏造立を援助したためである。天平17 年(747)朝廷は八幡神に遣使して大仏造立成就を祈願させた。八幡神はこれに答えて、「天神地祇を率を率(そっ)し誘(いざない)て」(『続日本紀』)それを助けると託宣した。さらに完成間近い大仏の尊顔を拝すべく神輿に乗って上京した。上記の品位はこのときに受けたものである。なお『延喜式神名帳』では、宇佐郡の神として八幡大菩薩宇佐宮神社・比賣神社(初出の『続日本紀』では比咩神)・大帯姫廟神社の 3 社が挙げられている。大帯姫廟(大帯姫は神功皇后の名の一つ)が神階を受けていないのは、宇佐神宮本殿に祭られたのが八幡神の上京以降の弘仁 14 年(823)であるからである。”

【解説】
ではなぜ宇佐神にこのような特別待遇がされたのでしょうか?。矢田氏はそれを大仏建立を援助したためとしてます。ひとつ興味深いのは、神功皇后を祭ったのが823年と、かなり新しい時代であることです。神功皇后信仰自体、新しいのではないかという推測が生まれます。

”このような八幡神の朝廷との縁の始まりは、養老 4 年(720)の隼人征伐である。それより前南九州の隼人は大和朝廷に貢献するなど良好な関係を保っていたが、班田収受の強制に不満が高まり大隅国国司を殺すに到った。このとき八幡神は征討軍の先頭に立ったと伝えられる。九州での律令制先進地豊前から、多くの民を隼人の地に移住させていたためであろう。
このあと天平 9 年(737)に新羅の無礼を告げるため伊勢神宮他に遣使したときも、宗像を差し置いて住吉・香椎とともに筑紫の三社に入っている。そして同 12 年(740)藤原広嗣の乱が起きたとき、朝廷は征討に当たった大将軍大野東人にまず八幡神に祈らせている。国家有事の際の護国神との位置づけが確立していたのである。上記託宣に示されている自負は、このような背景から理解できる。


【解説】
八幡神と朝廷との縁は隼人征伐から始まった、としてます。そこからやがて護国神との位置付けが確立したわけです。
なお宇佐神宮については、「道鏡事件」が有名です。

"道鏡(どうきょう)が天皇位を得ようとして阻止された事件。766年称徳(しょうとく)天皇の寵(ちょう)を得ていた道鏡は法王に任ぜられ,天皇に準じる高位に昇った。769年豊前国宇佐八幡宮(現大分県宇佐市の宇佐神宮)の八幡神が,道鏡を天皇にすれば天下が太平になるとの神託を称徳天皇に奏上(そうじょう)した。天皇は夢で八幡神から宇佐に尼法均(ほうきん)(和気広虫(わけのひろむし))を派遣せよと求められ,代わりにその弟和気清麻呂(きよまろ)を派遣。清麻呂が神託を請うと,道鏡不適格の託宣(たくせん)を得た。清麻呂はこれを天皇に奏上したため大隅国へ流されたが,天皇も道鏡を天皇の位につけるのを断念し,天皇の死後に道鏡は失脚した(百科事典マイペディア)

八幡神が皇位継承にまで力をおよぼしていたことを示す事件です。

さてここで疑問が浮かびます。
ヤマトからみて遠い宇佐の地にある宇佐神宮が、なぜここまでの力を持ちえたのか?

論文では、聖武天皇発願の大仏造立を援助したため、あるいは隼人征伐の先頭に立ったから、としてますが、それだけでこれほどの厚遇を得られるでしょうか?

もちろん大仏造立の援助ということは、資金的な援助をしたということでしょうし、隼人征伐も大きな功績であることは間違いありません。しかしそれにしても・・・、という疑問は拭えません。この疑問に答えるためには、宇佐神宮の成り立ちを見ていく必要がありそうです。それは次回にいたしましょう。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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