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宗像と宇佐の女神(11)~比咩神等の分布の統計学的解析

前回、北部九州から中国・四国地方にかけて、単比咩・セオリツ単神・タギツ単神・オカミの4神、八幡系比咩神が広く分布しており、同じ信仰圏だ、という話でした。
今回はこれを、全国的分布からみていきます。統計の専門的な言葉が出てきますが、それらはざっと読み飛ばして、全体の傾向をつかんでいただければ、OKです。

比咩神とこれから変化したと考えられる三神とについて、各県の全社数に対する比を求めこれらを一括して図示したのが、図8である。四神を合計すると、それぞれの分布よりかなり均一化しているように見える。”

【解説】
一位は、大分になりますが、内訳をみるとそのほとんどがオカミ神です。二位は石川県で、単比咩率が高いことが要因です。三位の福岡県は、大分県同様ほとんどがオカミ神です。四位は対岸の愛媛県ですが、やはりオカミ神がほとんどです。
特徴的なのは、遠方の青森県が五位に入っており、やはりオカミ神がほとんどを占めていることです。日本海を介した海人族の交流がうかがえます。
八位の岩手県も注目です。セオリツが多くを占めますが、これも海人族の介在を推測させます。

<図8>
 比咩派生4神分布 


”これを統計学的な手法で数値化してみよう。変数のバラツキの大きさを示す量として標準偏差(σ)を 変数の平均(Xに上バー)で除した変動係数CVが用いられる。
図9に国内の代表的な神々の都道府県分布の変動係数を、それぞれの神社数に対してプロットした散布図として示した。一般的な傾向として、その神を祭る神社が多いほど変動係数が低下する、すなわち分布が均一化する傾向が認められる。この傾向を対数関数の近似曲線で示した。天照大神(アマテラス)や稲荷神社の祭神(倉稲魂などと表記)や全宗像神などがこの近似曲線上にあり、これらの神が祭神分布の平均的挙動を示すことが分かる。一方八幡神(ここでは応神天皇とその別名の神を祭る神社)はこの曲線の下にあり、最も普及しているこの神が国内で最も均一に祭られていることを示す。”

【解説】
図9は難しそうなグラフですが、ようは左にいくほど祭られている神社数が多く、下にいくほど分布が均一化する、すなわち全国まんべんなく分布する、ということを示してます。全体として右下がりのグラフになってますが、神社の数が多くなればなるほど、全国での分布は均一化していく、というのは、感覚的にもわかりますね。
その代表的なものが八幡神で、もっとも右下に位置してます。

<図9>
比咩神派生変動係数  
”これに対して本報で検討して来た四神の分布を見ると、出発点と考えられる比咩神は、図3で見たようにかなり偏った分布を示す。特に宇佐神宮で当初祭られていた比咩(大)神(単比咩として示す)の偏りが大きい。ところが前報で推定した変化の順序に従って他の三神を加えて行くと、四神では近似曲線からかなり下にプロットされる。図8で見た分布の均一化が、数値的に確認された。

宗像神
について見ると、既報のように栃木県に偏ったタゴリ単神(宗像神のうちタゴリのみを祭る神社)の偏りが特に大きいが、三女神セットもバラツキがかなり大きく、宗像神の三女神化が全国的ではないことを示す。これは三女神がそれぞれべつの起源を持って各地に祭られていたものが記紀神話の成立とその普及により三神化されてきたに拘わらず、旧来の祭神をそのまま伝えてきた神社がかなり残っていることを示すと思われる。三神の中ではイチキシマが近似曲線の下にあり、この神が広く全国に普及していたことを示す。”

【解説】
単比咩・セオリツ単神・タギツ単神・オカミの4神の分布が、左上の単比咩から右下の四神へと下がり、均一化されてくることがわかります。つまりそれぞれ偏在していた四神だが、合わせて考えるとまんべんなく分布するようになる、ということです。
ここから矢田氏は、だから四神はもともと同じ神名なのだ、といっているようです。確かにそうといえなくもありませんが、一方で対象データの数を増やせば、均一化するのは一般的なことであるので、必ずしもそうとはいえない、という見方もできます。

三女神セットはばらつきが多いことから、三女神がべつの起源を持って各地に祭られていたことを示している、というのはそうかもしれません。

さてここまでお話ししてきましたが、皆さんはどう思われたでしょうか?

なるほどそうだ、と思ったでしょうか?

矢田氏は膨大な統計データを解析して、鋭い考察をされてきたと思います。歴史学者でここまでされた方を知りません。そういう観点で、私は矢田氏を深く尊敬いたします。

しかしながら、後半の結論には賛同できない箇所が多く見受けられました。

特に、「比咩神=卑弥呼」には大きな疑問があります。
なぜなら、矢田氏によれば
比咩神=セオリツ=タギツ=オカミ神
ですが、それぞれの時代には、大きなかい離があるからです。

卑弥呼は3世紀前半ころの実在の女性です。

一方、セオリツ、タギツは神話の世界の人でしょう。三女神の二人であるイチキシマ、タゴリ縄文海人族の信仰と推定されますが、セオリツ・タギツも、前回の図4でみると、岩手、新潟、富山など、遠方の海人族の介在を推測させるエリアに多く分布しており、時代の古さを感じさせます。

オカミ神も神話の世界の話であり、前回図5のとおり栃木、群馬、福島、青森に多く祭られ、縄文海人族が関与するなど時代が古いことが推測されます。

また「邪馬台国=宇佐」と推定してますが、それが成立しえないことは、すでにお話しました。

矢田氏は、次回以降考古学的検証をしてますので、はたしてどうなのか、みていきましょう。

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宗像と宇佐の女神(10)~比咩神・セオリツ・オカミ・宗像神の関係

前回、論文では、
ヒミ(比咩)
⇒ヒメ 
⇒(セオリツ)ヒメ
⇒姫 に統一
と変化した、と推測してる、という話でした。

論文では、それをデータから論証してます。

”比咩神の中で最も早く祭られたと考えられるのは「単比咩」であるが、これは図3に示したように八幡系比咩神の発祥の地と考えられる福岡県と大分県には少ない。図4に単比咩から変化したと考えられるセオリツとタギツ単神を合わせて示した。両神は全国に分散するが、セオリツが福岡県にやや多いことを除けば、やはり北部九州にはそれほど多くはない。これに対してオカミ神は、既報で見たように福岡・大分の両県にまたがって集中するが、図5に示すように海を渡って愛媛県にも多く祭られている。”

【解説】
図4は、単比咩からから変化したと考えられるセオリツとタギツ単神の分布です。セオリツ単神が静岡、鳥取、岡山、岩手、三重が多く、タギツ単神が、新潟、石川、広島が多いです。一方北部九州は、セオリツが福岡のやや多いことを除けば、多いとはいえません。
これに対して図5のとおり、オカミ神は、福岡・大分から海を渡って愛媛・広島に多く分布してます。

図4セオリツ・タギツ 


図5オカミ神



”このように西日本に多いオカミ神の分布を、郡単位で見たのが図6である。この図には、上記三神の分布を重ねて示した。オカミ神は四国では愛媛県のみに集中して祭られ、北部九州のオカミベルトと繋がっていることがわかる。一方中国地方では北九州に近い西端部と広島県と岡山県の県境を挟んだ地域から鳥取県西部にかけてのベルトが見られるが、これは既報で見た宗像神集中域とほぼ重なっている。ここは中国山地の鉱物資源を北は日野川、南は芦田川と高梁川へと搬出する南北横断路であったと推定される。”

【解説】
オカミ神の分布は、九州北東部から海を渡った四国の愛媛県にも集中しており、同じ信仰圏であることがわかります。

図6オカミ分布


「広島県と岡山県の県境を挟んだ地域から鳥取県西部にかけてのベルト」とは、以前お話しました。
宗像族が分水嶺を越えて瀬戸内海方面へのルートを開拓していたことを示す。このような南北交通の起源は、縄文時代にまで遡るようである。”
詳しくは、
aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-241.html
を参照ください。

<既報図>
中国地方宗像神伝播ルート

八幡系の単比咩とセオリツおよびタギツ単神は、北部九州ではほぼオカミベルトの中に収まっており、この四神の親近感が強いことが分かる。愛媛県では瀬戸内沿岸にセオリツが分布し、対岸の中国地方と呼応している。上記中国横断路にもセオリツが一部他の二神と共に分布するが、山口県と岡山県にかけての広い範囲のオカミ神空白地帯には八幡系比咩神が多少のセオリツやタギツ単神とともにかなりの密度で分布する。

【解説】
北部九州では、単比咩・セオリツ単神・タギツ単神・オカミが、同じ信仰圏にあることがわかります。愛媛県瀬戸内海沿岸と対岸の中国地方(広島から鳥取)にもその範囲は及んでいます。
問題は、山口県から岡山県にかけて、オカミ神の空白地帯があることです。これについて矢田氏は、この地域には”八幡系比咩神が多少のセオリツやタギツ単神とともにかなりの密度で分布する。”ことから、同じ信仰圏だ、としてます。
以上から、単比咩・セオリツ単神・タギツ単神・オカミの信仰圏は、北部九州から四国地方の愛媛、中国地方の岡山まで、広い範囲にわたっていた、と推測してます。
ではこの分布と、宗像神とはどのような関係でしょうか?

”対応する地域の宗像神の分布を図7に示した。上記オカミ空白域宗像神の濃厚な分布域に重なっていて、その約60%が八幡神に共祭されている三女神である。この地域の宗像神は、対岸の宇佐から八幡信仰と共に伝播した比咩神が、大部分が現在の宇佐神宮と同様最終的に三女神へ変化する途中で、一部がセオリツ・タギツの段階で止まったものと考えられる。
四国でもおおむねオカミ神の分布は宗像神と一致しているが、オカミ神の少ない宇和地方南部で宗像神の密度が高い。ここにタギツ単神を祭る2社があり、対岸の豊前南部から日向北部にかけてのセオリツ神などの分布に対応する。豊予水道を挟んでの宗像神を祭る海人族による交流が示唆される。”


【解説】
山口県から岡山県にかけてのオカミ空白域は、宗像神の濃厚な分布域と、見事に重なってます。このことから、対岸の宇佐から比咩神が伝わった際、セオリツ・タギツが、一部三女神に変化しないままとどまったのだ、というわけです。実に興味深い考察です。
四国の分布から、豊予水道を挟んでの宗像神を祭る海人族による交流が示唆される。”というのも、説得力がありますね。

図7ムナカタ神分布 


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宗像と宇佐の女神(9)~瀬織津姫から湍津姫あるいはオカミ神へ

前回は、比咩は卑弥呼のヒミであり、

比咩(ヒミ)
→ ヒメ
→(セオリツ)ヒメ
→ 姫 に統一


と変化したのではないか、という矢田氏の説でした。

では以前、
セオリツヒメ=タギツヒメ
という話をしましたが、これとの関係は、どのようになっているのでしょうか?。

"前報で指摘したように、湍津の名は『大祓詞』の「高山の末低ひき山の末よりさくなだり、、、、、に落ちたぎつ速川(はやかわの)瀬に座ます瀬織津比咩という神」のくだりから出たと思われる。ここで瀬織津比咩(以下セオリツ)を修飾する語句がすべてセオリツを祭る神社の名になっている。そして滝の名を持つ神社のうち最多の 24 社がセオリツを祭り、19 社がタギツを祭る。
石川県穴水町の滝津神社(祭神滝津姫)や福井県永平寺町(旧上志比村)の多伎津神社(祭神多伎津姫)を見ると、滝の名をもつ神社がその社名を取って祭神をタギツとしたことが推測される。これらは元の祭神名がセオリツであった可能性が高い。このようなことから、上記のような事情でセオリツの名を変えたとき、『大祓詞』のセオリツのイメージをそのまま残す修飾語の「タギツ」としたと考えられる。セオリツが原則としてタギツと共に祭られることがないのは、このためであろう。"

【解説】
”『大祓詞』のセオリツのイメージ(滝)をそのまま残す修飾語である「たぎる」の「タギツ」とした”、つまり
セオリツ→タギツ
と変わった、ということです。

ところで、豊前には渡来人が多く、そこで八幡信仰の基盤となった比咩神が祭られたことを以前お話しました。一方、豊前はまたこれまで見たようにオカミ神が集中して祭られている「オカミベルト」の中心でもあります。それではオカミ神と比咩神(後セオリツ)とはどのような関係があるのでしょうか?。

<オカミベルト>
埴安神・オカミ神を祭る神社分布

”その手がかりが、ムナカタにある。前報で見たように福津市津屋崎の波折神社の主祭神筆頭がセオリツであるが、この神社の縁起を文政七年(1824)福岡藩の儒者青柳種信が書いている。その冒頭に、「右当社に祭るところの神は瀬織津姫大神 また木船神とも称え申す 住吉大神志賀大神にておわします(以下略)」と書かれている(『津屋崎町史資料編上』の解読文[29]による)。筑前三風土記の一つ『筑前国続風土記拾遺』を著した種信は福岡藩を代表する国学者で、当時の学者の間では広くその見識が認められていた。当時国学者の間では、セオリツと木船(貴船)神(=オカミ神)が同神と考えられていたらしいのである。
一方、どちらが先にあったのかを示すのは、富山県砺波市(となみし)庄川町(しょうがわまち)に近接して鎮座する雄神(おかみ)神社と元雄神神社である。前者の主祭神はタカオカミ(高龗)・クラオカミ(闇龗)でこれにセオリツが配祠されており、後者は逆にセオリツが主祭神で、タカオカミが配祠となっている。「雄神」とは、オカミ神のことであることは言うまでもない。難しい字の龗を雄神などと書くのは、神名としても、社名としても、他にも多くの例がある。このような場合「元」の付いている方がもともとあった古社を意味するので、これらの祭神が正しく伝承されているのであれば、セオリツ→オカミと変わったことになる。”

【解説】
セオリツとオカミは同神でありセオリツからオカミへと変わっていった、と推測してますね。
ここで波折神社の縁起に「右当社に祭るところの神は瀬織津姫大神 また木船神とも称え申す 住吉大神志賀大神にておわします」とあります。ここから「セオリツ=貴船神(=オカミ神)」を導いてますが、興味深いのは、続く「住吉大神志賀大神にておわします」です。
これを素直に読むと、
セオリツ=貴船神=オカミ神=住吉大神志賀大
となります。
論文ではこの点について触れてませんが、これまでお話しした住吉大神、志賀大神が関係していることを示唆してます。

”一方先に示したようにセオリツはタギツにも変わっていると考えられるので、比咩神の変化には
比咩→セオリツ→タギツ
と、
(比咩)→セオリツ→オカミ
の二つのルートがあることになる。
しかしこのような変化は、全国一律に起こったわけではないようである。”

解説
二つのルートを推測してます。ここから得意のデータ解析ですが、それは次回に・・・。

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宗像と宇佐の女神(8)~「比咩」は卑弥呼?

前回、矢田氏の提起した
「比咩」神=卑弥呼
という説には賛同できない、という話をしました。

さらに論文を読んでみましょう。

”卑弥呼が渡来人かどうかは『魏志』からは読みとれないが、当時の日本に、魏帝と親書をやりとりしてその恩寵を受けることができるようなリテラシーを備えた人物が、渡来系以外にいたとは思われない。仮に対外交渉がもっぱら渡来系官人によるものだったとしても、中国の皇帝や官人にこれほどの厚遇を受けるような指導者は、古代の日中交流史を通じて見当たらない。後漢の皇帝から金印を受領した奴国王や王侯並みの威信財を下賜された伊都国王の後継者たちに武力によらず推戴されたリーダーは、文明社会で名の通った高貴な血統の人物としか考えられないのではないか。
後漢滅亡後の混乱時帯方郡を建てた公孫氏が景初 2 年(238)に滅び、郡が魏の直轄となるや否や、卑弥呼が郡を通じて魏帝に遣使したことは、卑弥呼が中国と朝鮮半島の情勢に精通していたことを示している。”

【解説】
三国志魏志倭人伝に登場する卑弥呼ですが、出自はよくわかっていません。

”この国は、もともと男を王としていた。一つの都に七、八十年も住みつづけたのち、倭国は内乱になり、何年もの間、お互いに攻撃し合ったりしていた。そこで国々が協議して、一人の女を王に立てた。この女の名を卑弥呼という。
祭祀を司り、人々を治めることができた。もう歳は、三十代半ばで、夫や婿はいない。弟がいて、国の政治を補佐している。卑弥呼が王になってから、見たものはほとんどいない。召使いの女たち千人が、身の回りの世話をしている。男はひとりだけ、食べ物や飲み物を差し入れたり、命令を伝えたりするため、出入りを許されている。卑弥呼のいる宮殿や楼観には、厳重な城柵がつくってあり、警備兵が武器をもって護衛している。"(「歴史から消された邪馬台国の謎」(豊田有恒)の訳を一部修正)

このようなイメージでしょうか?

祭祀様子



乱れた倭国を治めるのに適切な人物、それもシャーマンとしての呪力に秀でた者として、卑弥呼が選ばれたのでしょう。もとは当時の倭国三十余国のどこかの国にいたと思われますが、それ以上は何とも言えません。したがって、これだけをもって、「比咩」神が卑弥呼とは言い切れません。

矢田氏は、なぜ「比咩」神が卑弥呼なのかについて、さらに2つを挙げてます。
1.魏志倭人伝の記載からいって、邪馬台国は宇佐である。
2.宇佐神宮本殿にある亀山は古墳であり、卑弥呼の墓である。

まず1ですが、魏志倭人伝の記載に従えば、邪馬台国は博多湾岸にあること、はすでにお話してます。
https://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-81.html

また2ですが、亀山が古墳であるとしても、整合がとれません。たとえば石棺が目撃されたことがあるようですが、長持型石棺です。長持型石棺は、大山古墳(伝仁徳天皇陵)に代表されるように、古墳時代中期(5世紀頃)のものと推定されます。卑弥呼が死去した3世紀中頃とは、時代が大きく異なります。

矢田氏は、
宇佐神宮=邪馬台国
亀山=卑弥呼の墓
であることからしても、
比咩神=卑弥呼
は間違いない、と述べてるわけですが、そうではないとなれば、間違った推測ということになってしまいます。

さらに読んでいきましょう。

”多くの神社が単に「比咩」と書く神を祭るのは、その神を指すのにそれだけで十分であったからなのである。セオリツなどの修飾語を付ける必要はもともとなかった。のち「ヒメ」という女神・女性の尊称が生じ、これが一般的になったため、「比咩」もこれと混同されてヒメと発音されることが多くなったのであろう。そこで他の女神とはっきり区別する必要がある場合、「比咩」に修飾語を付けるようになったと思われる。
前報で述べたように、瀬織津比咩の「セオリ」は、古代朝鮮語の「ソフル(=ソウル)」を意味すると考えられる。「ツ」は現在の「の」に当たる助詞である。これに倣って、セオリツ以外の比咩神にも他のヒメ神と同様に固有名を付加するようになったと思われる。中でも卑弥呼との縁を大事にする伝統がある神社や、古くに本社から勧請された神社は、修飾語を附けず単に「比咩(大)神」と表記してきた。これがヒメと発音されるようになっても、そのままの表記で遺ったと考えられる。現在の春日大社などの「比売(大)神」や「姫(大)神」は、それが当時の発音通りに書かれたものと考えられる。”

【解説】
「比咩」神には、頭にさまざまな名前がついてます。セオリツヒメもその一つです。もともとは「比咩」だけだったものを、「ソウルの姫」という意味の「セオリツヒメ」となった、と推測してます。そしてもともとの「比咩」とは「卑弥呼」の「ヒミ」だった、と推測してるわけです。

”比咩(ヒミ)が卑弥呼(ヒミコ)のこととすると、これまで述べてきた瀬織津姫(セオリツ)と比咩神の謎がよく理解できる。卑弥呼が日本に渡来して倭国の王となったとすると、渡来人が共通して篤く崇敬するのは当然のことと思われる。そして、宇佐神宮が託宣などで中央の政治に大きな発言力を持っていた理由も、この文脈から理解できるのではないか。そのころ朝廷を支えていたのは渡来人または渡来系の官僚であり、なによりも権力の中枢にいた藤原氏(中臣氏)が、秦王国と呼ばれた渡来人の中心地豊前地方の出であったらしい。

比咩が、次第に比売・姫・媛などと混同されてヒメと発音されるようになると、その他のヒメ神との区別がつきにくくなる。このため本来比咩(ヒミ)という神であったことを明らかにするため、「ソウルの」という修飾語を附けたのがセオリツ(瀬織津比咩)であったと考えられる。”

このあとの論文では、”日本書紀には「ソウルの姫」という名を入れるわけにいかなかった、その際、元の名である「比咩」も消し去った”、と推測してます。そして”「比咩」の表記も、「姫」に統一されたのではないか”、としてます。


つまり、
 ヒミ(比咩)
→ヒメ 
→(セオリツ)ヒメ
→姫 に統一

と変化した、と推測してるわけです。

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宗像と宇佐の女神(7)~比咩神は渡来系?

さらに比咩神について、詳細にみていきましょう。

"宇佐神宮と香春神社の比咩神が、渡来系氏族の祭った神であることは先に見たとおりである。そのほかにも、渡来系氏族が比咩神を祭ったことが明らかな例がある。その一つは、朝廷が有事に奉弊していた「二二社」の一つ京都の平野神社(明神大)である。同社は、現在今木・久度・古開・比売の四神を祭るが、この比売は『文徳天皇実録』仁寿元年(852)に合殿坐須(あいどのにいます)比咩神と書かれているなど、古代には比咩神と書かれることが多かった。

この神社は、大和の今来郡(高市郡)に多く住んでいた百済系渡来人の祭る神を、平安遷都に伴い高野新笠とその子の山部親王(後の桓武天皇)が京都に移したものである。高野新笠は百済系渡来人の娘で光仁天皇の後宮に入っていた。正一位に叙せられた今木神は、滅亡した百済の王であるという。
平野系であることが明らかな神社は、平野の名の付く7社を含め全国に10社あるが、うち9社がヒメ神を祭る。そのうち7社が比売神を、2社が比咩神を祭る。いずれも別の名を冠しない単なるヒメ神であり、渡来人にとって単に比咩(比売)というだけで通じる神であったことが推察される。”


【解説】
京都の平野神社の祭神から、渡来人にとって単に比咩(比売)というだけで通じる通じる特別な神であった、と推測してます。
注目は、百済との関係です。これまで八幡神は新羅との関係が強調されてきましたが、それだけではないようです。

”起源が古いと考えられる「比咩神」を祭る平野神社は、大分市と松浦市にある。来日の頃の因縁を示すものであろうか。 他の例として、延喜式に載る能登国の美麻奈(みまな)比古神社と美麻奈比咩神社が挙げられる。社名から明らかなように、これらは朝鮮半島の任那(みまな)からの渡来人が祭った神と考えられる。志賀剛も、任那人の祖神を祭るとする。能登は渡来人の特に多いところとされる。

伊豆の10社の比咩神も、同様に考えることができよう。これらの女神は、三島の三嶋大社の主神に対し、その后神などと関連づけられている。この三嶋大社の主神は愛媛県の大三島神社の祭神大山祇(おおやまつみ)と事代主であるが、もともとの神は大山祇とされる。大山祇は、『伊予国風土記』(逸文)に百済から渡来した神と記されている。

静岡県はセオリツを祭る神社が全国で最も多く29社あるが、瀬織津比咩の表記も9社と最多である。特に大井川の上流から河口付近にかけて6社の瀬織津比咩を祭る社が分布する。このあたりも渡来人の多いところと言われている。後に武蔵に渡来人の大居住地ができたことを考えると、太平洋に沿って東進する途中で、まず駿河・伊豆に根拠を求めたことは理解できる。”

【解説】
「比咩神」を祭る神社について、任那、百済との関係を指摘してます。能登は渡来人の特に多いところとされる”、とあります。石川県に「比咩神」を祭る神社が多いことは前回お話しましたが、その理由は、ここにもあるかもしれません。

”はじめに比咩神を祭った豊前の渡来人の出自は、『豊前国風土記逸文』が記すように新羅系である。加賀・越前で強い白山信仰は、新羅(しらぎ)(半島での発音はシラ)の山岳信仰が入ったものと考えられている(白山は、もともとシラヤマ)。白山比咩の神名は、新羅系渡来人が祭った神と考えると理解できる。
また、あまり指摘されていないようであるが、菊理(くくり)比咩のククリは高句麗のことではないか。高句麗人がコクリと呼ばれたことは、よく知られている。新羅と高句麗は隣接していたため相互に影響が大きく、渡来後も助け合っていたのであろう。上記能登の美麻奈比古・比咩神社が白山系社の多い地方にあることも、新羅が南下して任那を含む加耶地方を勢力下においたことを考えると納得できる。”

【解説】
高句麗との関係も指摘してます。以上をまとめると、「比咩神」信仰は、新羅・百済・任那といった朝鮮半島南部の人々の信仰に、高句麗の影響も加わった、と推測してます。


三国時代朝鮮半島

さてこのように「比咩神」信仰について総括したうえで、以下のような大胆な推理をしてます。

”このように様々な系統の渡来系氏族が共通して比咩神を祭っているのは、「比咩」が多くの人々の記憶に残っていた偉大な渡来系人物の神格化だからではないだろうか。そして「比咩」という表記に対する強いこだわりは、この表記が本来「ヒメ」とは違った読み方をされていたからではないかと思われる。「咩」という珍しい字は、いずれの漢和辞典にも羊の鳴き声を表す字とあり、他の意味はない。その発音は、「ミ」または「ビ」であって、「メ」という音は記されていない。すなわち、宇佐にもともと祭られていた女神は、「ヒミ」という名であったのではないか。
この名は、直ちに邪馬台国の女王卑弥呼を連想させる。古代中国語の権威白川静によると、「呼」はもと「乎」と同じで、神を呼ぶときの強く発音される声である。日韓古代語の専門家金思燁は、「『呼』は、古代の新羅人が男女の名前に添尾される美称、尊称」であるという。いずれにせよ、
卑弥呼の固有名は「ヒミ」であって、尊敬の意を込めて「ヒミコ!」と呼んでいたのを、そのまま魏使が記録したのではないか。”

【解説】
謎の多い「比咩神」ですが、それはなんと邪馬台国の女王「卑弥呼」ではないか?、というのです。これには正直、唖然としてます。
これまで矢田氏の論文を引用し、解説してきました。多くの統計データを解析するなど、その手法、成果には尊敬の念をもっております。しかしながら、この推測はいかがなものでしょうか。

「比咩神」が偉大な渡来系人物の神格化されたものである可能性は高いでしょう。そういう意味では、これまでお話ししてきたように、玉依姫や豊玉姫の可能性もあると考えます。またもしかしたら「卑弥呼」のことも含まれているかもしれません。ですが、さすがに「比咩神」=「卑弥呼」には賛同できません。

次回、もう少し詳しくみていきます。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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