沖ノ島祭祀遺跡を執り行ったのはだれか?(2)~祭祀以前の沖ノ島
まずは沖ノ島祭祀を具体的にみていきます。
1.祭祀以前
(1)縄文時代
・遺跡が見つかっており、前期の曽畑式土器が多い。曽畑式土器は、山口県響灘沿岸出土の土器に類似。韓国南東部からも出土しており、九州海人の広域な活動を示す。
・中期には瀬戸内系の船元式土器が多くなり、晩期には黒川式土器が多く現れる。
・石器は石鏃が多く、石銛(いしもり)と考えられる石器も出土。海獣や大型魚類の捕獲に用いられたらしい。
・石器の大半を占める黒曜石は、前期は主に佐賀県の腰岳産、または星鹿半島産とみられ、中期は大分県姫島産が主体であり、広域から海人が集っていたことが窺われる。
【解説】
沖ノ島祭祀というと、4世紀後半に始まったといわれるので、その頃突然開始され、それ以前には全く何もなかったような印象をもちますが、そうではありません。
曽畑式土器といえば7000年前ころからですが、そのころには人が上陸して活動していたようです。海人による広域活動の一拠点だったということでしょう。
(2)弥生時代
・前期からの遺物があり、中期前半の細型銅矛。これと同時代の銅矛が、銅剣・銅戈とともに、朝鮮半島南部加浦洞祭祀遺跡から出土。岩の隙間に差し込まれた状態で発見。沖ノ島祭祀の遺物の出土状況と酷似。航海の安全や上首尾を祈った祭祀の跡ではないか。
・沖ノ島出土土器の中に架浦洞で武器型青銅器と同時に出土した朝鮮半島の後期無文土器が含まれていた。
・弥生時代後半、沖ノ島 出土土器はまた多くなり、遠賀川流域から瀬戸内地方にかけての影響がみられる。
・無文土器(勒島(ろくとう)式土器)が出土。宗像市田熊石畑遺跡からも出土している。また大島のろくどん遺跡からも、紀元前 2 世紀頃の朝鮮半島製の土器が出土しているという。
・このことから弥生時代には、韓国南東部との交渉が 沖ノ島 ―大島経由で継続して行われていたことが推測される。朝鮮半島人が漁業の目的で 沖ノ島 に渡ることは考えられないので、弥生時代 にも 沖ノ島 ルートが機能していたことが明らかである。
【解説】
弥生時代になるとさらに活動が活発化してます。朝鮮半島南部加浦洞祭祀遺跡が沖ノ島の岩陰祭祀と酷似しているとの指摘は、同じ文化圏になるということで注目です。

最後に、
”以上のように、沖ノ島 には縄文から弥生時代にかけて、広い地域との交流を示す遺物が残されている。そしてムナカタのみではなく、その周辺との強いつながりが窺える。航海の安全を祈る祭祀の始まりも、弥生時代中期前半に遡る可能性がある。”
と述べてます。
このように沖ノ島祭祀は、4世紀後半から突如始まったのではなく、少なくとも弥生時代中期前半すなわち最近の時代編年でいうと、紀元前5~同3世紀ころから行われていたことになります。かなり古い信仰だったということです。その延長線上に、4世紀後半以降の沖ノ島祭祀を考える必要がありますね。
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