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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(7)~謎の1 なぜ沖ノ島か?

前回、沖ノ島祭祀は4世紀後半から9世紀末までの期間にわたり、4つの段階に分かれていることをお話ししました。論文では、ここから祭祀の特徴について述べてます。長文になりますが、たいへんよくまとまっているので、引用させていただきます。

”上記調査報告は、沖ノ島 祭祀の現在の神社祭祀と大きく異なる特徴を二つ挙げている。

第一は、はっきりとした四つの画期があ ることである。祭 祀の内容や考え方が、画期ごとに大きく移り変わっていったことが出土物から読みとれるとする。

第二は、発見された23 の祭祀遺跡のうち、最終段階の露天祭祀の 1 3 号遺跡を除く他の場所では、それぞれ一回の祭祀しか行われていないと考えられたことである。そして 14 号遺跡は 20 号遺跡の遺物が落ちてきたものと結論されているので、 4 世紀後半から 8 世紀前半までの約 400 年間に、 19 回の祭祀が行われたにすぎないことになる。
これは毎年少なくとも1 回、あるいは複数回同じ場所で定期的に行われる神社の 祭りとは大きく異なる点である。約 20 年に 1 回というのは、古代ではほぼ一世代に相当する。文字通り一世一代の祭が、 沖ノ島 で盛大に 行われたのである。一世一代ということは、古墳の造成と同じ感覚である。実際、初期の祭祀遺物は、古墳に副葬または奉献された品々の組み合わせとよく似ていた。よく言われるように、ヤマト王権が主体となってこの祭が行われたという考え方をとると、大王が変わるたびに行われたのではないかと考えることもできる。この間隔は、伊勢神宮の遷宮の間隔とほぼ同じであることも注目される。”

【解説】
他の神社と異なる特徴として、
1.はっきりとした4つ画期があること
2.20年に一回と少ないこと
を挙げてます。
ここからヤマト王権の王が変わるたびに行われたのではないか、と述べてますが、はたしてそのようにいえるのか、みていきましょう。

その前に、沖ノ島祭祀の謎について整理します。

1.なぜ沖ノ島 か
”いずれの陸地からも 50 km 以上離れたこの絶海の孤島に、なぜ祭祀遺跡としては他に類のない豪華な遺物が多量に残されていたのか。特に第一段階の岩上祭祀開始の理由が最大の謎と言えよう。朝鮮半島への海上ルートとしては、弥生時代あるいはそれ以前から開発されてきた壱岐ー対馬を通る安全な「魏志倭人伝ルート」があるのに、なぜそれから外れた 沖ノ島 に豪華な品々がささげられたのか。 沖ノ島 から対馬までは 最短 70 km あり、手こぎの一日の行程としては極限に近い。
『書紀』に「海北道中」を護るようにというアマテラスの神勅があるが、その 他 の 史料 には、 沖ノ島 が渡 海の要地であったことを示す記述は全くない。朝鮮半島との交渉の記録は第 10 代崇神天皇の時期に初めて現れるが、一般に航海の経路は書かれていない。

第15 代応神天皇の母である神功皇后(実在とすれば 4 世紀後半の人物と考えられる)が「三韓征伐」で朝鮮半島に渡る際には、福岡市東区の香椎の宮殿から出発して 糸島半島 を経由し、最終的に対馬北端の 鰐浦(わにのうら)から朝鮮半島に渡ったと 記 されている。 5 世紀末の人物と推定される第 23 代顕宗天皇の時代にも、 任那(みまな)への使が壱岐と対馬に立ち寄ったと記録されている。
このようなことから、多くの歴史家は沖ノ島 を通る公式の海の道は存在しなかったと考えている。

でもそれでは、沖ノ島 の祭祀跡をどうして説明するのか。最近韓国西海岸の 竹幕洞(ちくまくどう)遺跡が、同様な航海路上の祭祀遺跡として注目されている  。 沖ノ島 ほど豪華な遺物は見られないが、 沖ノ島 露天祭祀と共通する遺物が多数発見されている。この遺跡は、韓国西海岸から山東半島への渡海ルートの途上にある要地である。
国内の他の航海路上の古代祭祀遺跡としては、瀬戸内海中央の大飛島(おおびしま)と伊勢湾出口の神島があるが、これらも航路上の要地にある。いずれからも、 沖ノ島 の露天祭祀の時期に、 沖ノ島 と同様の 奈良三彩などの遺品が出ている。 沖ノ島 だけが、航路からはずれた祭祀専門の場所なのであろうか。


[解説]
まずは航海ルートの謎です。
通説では、沖ノ島ルートがあったかのように解説してます。

沖ノ島ルート


ところが論文にあるとおり、魏志倭人伝には、「邪馬台国~糸島~壱岐~対馬~韓国南岸~帯方郡」というルートが記載されてますが、沖ノ島はこのルートから大きく外れてます。古事記・日本書紀にも、沖ノ島を経由した航路の話は、一切出てきません。
前回お話ししたように、遣隋使、遣唐使の航路も、沖ノ島からは大きく外れてます。こうした事実から、
”多くの歴史家は沖ノ島 を通る公式の海の道は存在しなかったと考えている”
とあるのも、当然でしょう。

ではこうした事実と沖ノ島祭祀をどのように説明するのか、です。

もちろん「博多~畿内」というルートがあり、その途上に沖ノ島があるので、その際に立ち寄ったのだ、ということもいえなくはありませんが、朝鮮半島へ渡海する際の主たるルート上にないことにかわりはなく、なぜ沖ノ島か?、という問いの答えにはならないでしょう。

遣唐使航路 

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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(6)~祭祀の第4段階

祭祀の最終段階です。 

④露天祭祀(8世紀半ば~ 世紀)
8世紀半ば以降、祭祀は巨岩群から離れた露天で行われるようになる。これ以前の祭場は一回しか使われなかったと考えられてきたが、この時期には同じ場所 1 号遺跡) が繰り返し使われて いる。
遺物にはもはや舶来の貴重品は見られなくなり、他の祭祀遺跡とも共通する品々が主になってくる。めぼしいものとして、奈良三彩の小壷がある。奈良三彩は唐三彩を真似して日本で作られ た陶器で、正倉院の御物にも多く、全国のいくつかの祭祀遺跡等から出土している。
このころ多い出土品は、石製(滑石製)の人形(ひとがた)、 馬形(うまがた)、 舟形(ふながた)などのささげものである。特に舟形が 100 点以上と多く、この地域の漁業または航海関係者がそれぞれ自分の思いを託してささげたと考えられる。国家祭祀から次第に地方氏族または個人中心の祭祀に移ってきていることがわかる


露天祭祀1 
 露天祭祀2
【解説】
第4段階は、8世紀半ば以降から9世紀末までで、祭祀の最終段階です。”舶来の貴重品は見られなくなり”とあるとおり、これまでの豪華絢爛な遺物はみられなくなります。つまり地味になった、ということです。
こうしたことから、矢田氏は、”国家祭祀から次第に地方氏族または個人中心の祭祀に移ってきている”と述べてます。

事実としてはこれでいいのですが、ここで大きな疑問が浮かびます。

すなわち、豪華絢爛たる第3段階の祭祀が終了した8世紀前半と、地味な第4段階が始まった8世紀半ばとの間に、何か大きな画期があったのではないか、という疑問です。

これは、祭祀がなぜ行われたか、という点と関係してくる問題です。

一般的には、論文中でも、
”祭祀の目的として、遣隋使や遣唐使に代表される王権の国際交流に当たって航海安全を祈願した祭祀ではないかと見る見解が多い。これには 894 年の遣唐使の廃止と同時期に大規模祭祀が終焉を迎えることがその根拠の一つとなっている。”
と述べられているように、遣隋使や遣唐使などにともなう航海安全祈願祭祀とされてます。

ではそれで説明しうるでしょうか?

はじめに遣唐使の実態についてみてみましょう。
「遣唐使・その航海」(上田雄、海事博物館研究年報、39:16-23)からです。

論文によると、派遣回数や遣唐使大使などの実態はほとんど知られておらず、その理由は専門の研究者が少ないから、とのことです。意外ですね。

派遣回数は研究者によりまちまちで、論文では630年から838年までの15回としてます。
そして目的ですが、

◆前期 第1回(630年)~第4回(659年)
・仏教とその文化の摂取・中央集権国家制度の輸入

◆中期  第5回(665年)~第6回(669年)
・唐と朝鮮半島の百済・新羅・高句麗をめぐる国際情勢への対応外交、唐との対立解消外交

◆後期 第7回(702年)~第15回(838年)
・唐文化・政治・経済・仏教・娯楽等の百貨店的輸入

と3段階に分けてますが、”普通、遣唐使という場合はほとんど後期のものを指します。”
と述べてます。

このように遣唐使として、華々しい交流があったのは8世紀以降であり、これはまさに豪華絢爛たる沖ノ島祭祀の第3段階が終わり、地味な第4段階が始まった時期です。

この矛盾をどのように説明しうるのか、という問題があるわけです。

こののち論文では航路について解説してます。
”遣唐使の航路として考えられるのは、前期・中期の北路と後期の南路だけである。”と述べてます。

◆北路
博多⇒壱岐⇒対馬⇒朝鮮半島南岸⇒甕津半島⇒山東半島⇒登州⇒(陸路)⇒長安

◆南路
博多⇒五島列島⇒東シナ海横断⇒長江河口部或いは杭州湾沿岸⇒(陸路)⇒長安


さて、このルートのなかに沖ノ島がないことにお気づきでしょうか。

そうです。遣唐使のルートには沖ノ島はないのです。これをどのように説明しうるのか、という第二の問題があります。

となると、従来の定説である、「ヤマト王権が、遣隋使や遣唐使に代表される王権の国際交流に当たって航海安全を祈願した祭祀ではないかと見る見解」についても、大きな疑問が生じるのではないでしょうか?。

遣唐使航路

論文ではさらに興味深い指摘をしてます。

皆さんははかつて歴史の教科書などで、”遣隋使・遣唐使の時代は、日本の航海技術が進んでいなかったので、難破する船が多かったなど、苦難の旅だった。”と習いませんでしたか?

有名な話は鑑真でしょう。幾度も渡航を試みましたが、暴風雨にあうなどなかなか叶わず、途中両目失明など苦難の末、754年に奈良に到着しました。

こうしたことから私たちは知らず知らずのうちに、日本の航海技術が未熟だった、と思い込んでます。

実際学会でも、”唐や新羅の船は季節風を利用して航海していたが、日本の遣唐使船は季節風の存在を知らず、逆風期にやみくもに海を渡ったので、ほとんど例外なく遭難していた。”とする森克巳氏の説があります。

こうした見方に対して、上田氏が厳しく否定してます。

詳細は省きますが、まとめにおいて、
”造船技術といい、帆走技術といい、また、季節風の利用といい、従来の定説が唱えていたような稚拙なものではなく、高度な技術が用いられていたことを類推できます。”
”従来の定説については、それが実績に基づいた科学的なものではなく、極めて観念的、かつ自虐的であり、非科学的なものであったようです。”

と締めくくってます。

こうしたことは、古代史全体についてもいえるように思えますが、いかがでしょうか?。


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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(5)~祭祀の第3段階

祭祀の第3段階です。

③半岩陰・半露天祭祀(7世紀から8世紀前半)
7世紀から 8 世紀前半になると、祭祀は岩陰から路地にはみ出してくる。これはより広い祭祀の場所が必要になったためと推測されている。祭祀跡は 2 箇所が調査されている。
この頃の出土品には、沖ノ島 でも一二を争う珍品、一対の金銅製竜頭が ある。これは全長約 20 cm 重さ約 1.7 kg という大きなもので、金メッキがかなりよく残っ た 見事なもの である。中 国西域の敦厚 の よく似た竜頭の絵によって、旗や貴人を覆う傘を吊り下げる金具であることがわか り 中国製と考えられてきた 。 その後朝鮮半島でも同様の竜頭が見つかった 。
唐三彩の花瓶の破片も特筆に価する。唐三彩とは、中国の唐時代の限定された時期にのみ作られた、赤・緑・白の三色の美しい陶器である。これまで出土したほとんどすべてが、西安と洛陽にある墓の副葬品である。中国以外で唐三彩が出土することはまれで、わが国ではこれが始めての発見例であった。
この頃になると、祭祀専用に作られた雛形祭具が多くなる。金銅製の琴・ 人形・数々の紡織具など、金銅製または鉄製の刀などの武器や 鈴などさまざまである。紡織具のなかには、精巧なミニチュアの機織機「金銅製高機(だかはた)」がある。これらは、伊勢神宮に伝えられてきた律令制下での儀式についての絵図など、古文書の記載とよく一致しているものが多い。しかし日本の国家祭祀の 中心伊勢神宮にも、これだけのまとまった遺品は伝えられていない。依然としてヤマト王権が、 沖ノ島 祭祀を国家的行事と位置づけていたことがわかる。
特には、神功皇后伝説にあるように、指導者が神託を受けるために神を呼び出す重要な役割を担っていた楽器である。また機織機や多数の紡織具は女神への祭祀を示していて、 宗像神との関係を思わせる


半岩陰・半露天祭祀1 
半岩陰・半露天祭祀2
【解説】
第三段階で、岩陰から路地にはみ出してきます。
ここにきわめて特異な「一対の金銅製竜頭」があります。
”旗や貴人を覆う傘を吊り下げる金具である”とありますが、これは下の絵をみていただくとよくわかります。

敦煌竜頭絵

貴人の上に傘がさされてますが、その竿の先についているものがあります。それが竜頭だというのです。

ところがことはそう簡単ではありません。1.7kgもの重さのあるものを、あの先端につけられるものなのか、という問題です。ずっと持って歩くお付きの人もたいへんです。

実際これには異論が出てます。元大阪市立美術館の学芸課長の秋山進牛氏が、
「あの龍頭は、幡(はた、のぼり)の上につけたものだ、ということになってますが、どうもそうではないみたいですよ。持ってみるとズッシリと重く、とてもあんな風にしだれた竿の先にぶらさげることのできるようなものではありませんね。」と述べてます(「ここに古代王朝ありき」(古田武彦)より)。
ちなみに秋山氏は、「中国東北地方の初期金属器文化様相」などのすぐれた論文で有名な考古学者だそうです。

ではあの竜頭はどのように使用されたのか?。
続けて秋山氏が述べてます。
「これは玉座か何かの両脇の直立棒の上にガッチリ据えられていたものですね。」
確かにこれなら、安定する感じがしますね。

古田氏はここからさらに鋭い考察をしてます。
この竜頭が、大宰府にある観世音寺の鐘のものと似ているというのです。観世音寺は、7世紀中頃に創建された古い寺です。その鐘は、日本最古の鐘として知られてます。

またほぼ同じ形の鐘が、京都の妙心寺にもあります。
森貞次郎氏は「筑前観世音寺鐘考 ―とくに唐草図文を中心として―」のなかで、この両鐘はほとんど同一の企画によって同一工房において製作されたと述べてます。

妙心寺鐘の内側には陽鋳された次の銘がありす。

戊戌年四月十三日壬寅収糟屋評造春米連広国鋳鐘


ここから妙心寺の鐘は筑紫の糟屋評が命じて造ったのであることがわかります。

また観世音寺鐘には「上三毛」の陰刻があり、豊前の国にあった上三毛郡が 関係していることがわかります。

両鐘とも北部九州の地で製作されたことは間違いありません。

<観世音寺鐘>
観世音寺鐘 

(太宰府天満宮ドットコムより)


確かに鐘の頂にある双龍は、沖ノ島出土の竜頭と似ているように見えます。そして鐘の双龍が北部九州で製作されたものなら、沖ノ島の竜頭が北部九州で製作されたと考えても、不自然ではありませんね。

もうひとつ金銅製も注目です。琴は正倉院にもありますが、絃の数が6絃です。一方沖ノ島の琴は、5絃です。絃の数などどうでもいいではないか、と思われるかもしれませんが、そうではありません。琴は祭儀に不可欠なものです。絃の数が異なるということは、音階も異なることになり、ここから沖ノ島と畿内は異なる祭祀だったのではないか、という疑いが生まれるわけです。

中国史書「隋書倭(原文は「俀(たい)」)国伝」に

楽有五絃琴
(現代訳)
”(倭国の)音楽には五絃の琴と笛がある”

という記載があるように、倭国では琴は五絃でした。私は、倭国の中心は北部九州と考えてますから、北部九州の琴は五絃だったことになります。

実際に、筑紫の君磐井の墓とされる八女市の岩戸山古墳から、5絃の埴輪琴が出土してます(「沖ノ島古代祭祀遺跡の再検討3」(小田富士夫)P9より)。つまり少なくとも沖ノ島と筑後地域とは同じ祭祀文化であったと考えられるわけです。

また機織機「金銅製高機(だかはた)について、
”伊勢神宮に伝えられてきた律令制下での儀式についての絵図など、古文書の記載とよく一致しているものが多い。しかし日本の国家祭祀の 中心伊勢神宮にも、これだけのまとまった遺品は伝えられていない。とあります。
普通であれば、”だから当時伊勢神宮を管轄するヤマト王権とは直接の関係はなかった。”との可能性を想定すべきです。ところが論文では、
”依然としてヤマト王権が、 沖ノ島 祭祀を国家的行事と位置づけていたことがわかる。”
と断定してます。

いかがなものでしょうか?。


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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(4)~①岩上祭祀と②岩陰祭祀

では祭祀の第一段階からみていきましょう。

① 岩上祭祀(4世紀半ば以降)
巨岩の上で行われた祭祀の跡であり、5 つの遺 跡が調査されている。このうち 21 号遺 跡では、はっきりとした祭壇の遺構が発見された。 2.2 × 2.5 m の四角の石組の「 磐境(いわさか)」の中に、「神の 依代(よりしろ)磐座(いわくら)」と考えられる大石が置かれ ていた。
推定年代が最も古く、そして豪華な出土品が発見されたのは、17 号と 18 号遺跡である。ここからは、 三角縁神獣鏡を含む合計 31 面の青銅鏡や、鉄剣・鉄刀など多くの鉄製品、勾玉・管玉など多くの装飾品が発見された。これらの祭祀の時期は 、 4世紀の第3四半期とされる。
ヤマト王権が支配していた畿内にもこの頃これほどの遺物を出した祭祀遺跡はなく、比較的大型の前期前方後円墳(全長 100~140 m 級)からの出土品と品目が似ている。すなわち、この頃のヤマト王権に属する有力氏 族の長が持っていたと同等の宝物が捧げられていた。この祭りがヤマト王権にとって大 変重要であったことがわかる。
この頃のムナカタにはヤマト地方に匹敵するような大きな古墳はなかったし、これほど豪華な出土品も見つかっていない。したがって、この祭りを主催していたのはヤマト王権であったというのが通説となってきた。その場合でももちろん、この島をわが庭としていた宗像海人族と彼らを率いる首長の参加もしくは協力がなければ、この祭りはできなかったであろう。そして祭りの対象はこの島の神、すなわち宗像神と考えられる。

岩上祭祀でも、、5世紀はじめから半ばと考えられている21号遺跡になると、これまでの鉄器などの実用品のほかに、祭祀用に作った雛形品が見られるようになる。ここで注目されるのはされるのは、鉄鋌(てっつい)と呼ばれる鉄の薄板が加わったことである。この頃まだ日本では本格的な鉄の生産は始まっていなかった。したがって武器や農耕具に必要な鉄は、基本的に朝鮮半島の南東部、主に現在の釜山から慶州にかけての地方から輸入していた。鉄鋌鋌はその素材の候補と考えられてきた。沖ノ島では、全体で、約20枚が出土している。

岩上祭祀  

【解説】
4段階のなかで、最も古い遺跡です。「岩上」と呼ばれるとおり、上方に何もない岩の上で行う祭祀で原始的な祭祀です。
ここで磐座とは、
古神道における岩に対する信仰のこと。あるいは、信仰の対象となる岩そのもののこと。
日本に古くからある自然崇拝(精霊崇拝・アニミズム)であり、基層信仰の一種である。神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代(神籬という)と神威をもって祭祀の中心とした。時代とともに、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが、元々は古神道からの信仰の場所に、社(やしろ)を建立している場合がほとんどなので、境内に依り代として注連縄が飾られた神木や霊石が、そのまま存在する場合が多い。”
(Wikipediaより)

私たちは神社というと、現在の神社のように鳥居があり、その奥に社殿がある姿を、思い浮かべます。そしてその社殿に向かってお祈りするわけですが、もともとの神社とはそうではなく、御神体とは山であったり、岩であったりでした。磐座もその一つです。

さて矢田氏は。
”ヤマト王権が支配していた畿内にもこの頃これほどの遺物を出した祭祀遺跡はなく、比較的大型の前期前方後円墳(全長 100~140 m 級)からの出土品と品目が似ている。”
と述べてから、
この祭りがヤマト王権にとって大 変重要であったことがわかる。”
と断言してますが、これはあまりにも乱暴ではないでしょうか。

もしヤマト王権がこの祭祀を執り行っていたとしたら、当然本家本元の畿内にもこれと同等、あるいは上回る祭祀遺跡があってしかるべきです。それがないという事実がありながら、前期前方後円墳の出土品と品目が似ているだけの理由で、ヤマト王権と関係づけるのは、いかがなものでしょうか。

②岩陰祭祀(5世紀後半から6世紀)
5世紀後半から6世紀になると、祭祀は空中に張り出している巨岩の陰で行われるようになる(一部は7世紀に下る)。調査された遺跡は11箇所に上り、この頃最も頻繁に祭祀が行われていたらしい。この時期になると、捧げものに珍しい舶来品が目立つようになる。
目玉の一つは、切金の装飾のある純金の指輪である。この頃の日本では指輪をつける風習がなく、ほとんど出土例がない。朝鮮半島の墓からは多く出土するが、このような見事なものはあまり見あたらないという。朝鮮半島の最高級の工芸品が、ここにささげられたのである。

もうひとつの例は、カットグラスの碗(切子碗)の破片で、東アジアではきわめてカットグラスの碗(切子碗)の破片で、東アジアではきわめて珍しいものである。この種のガラス容器には二系統あるが、沖ノ島出土品は6世紀後世紀後半栄えたササン朝ペルシャ時代のイラン製のもので、シルクロード経由で中国から伝えられたものえられたものというという。7世紀半ばにイスラム化した後は作られないので、年代が限定される。

この時期に非常に多いのは、金銅製(銅器に金メッキを施したもの)の豪華な飾り馬用馬具である。
騎馬の習慣は、4世紀に朝鮮半島から伝わった。馬具ははじめ実用的で簡素な轡や鐙のみであったが、5世紀後半頃から諸豪族が馬を権力の象徴とする風習が広まり、重くて人が乗れないのではないかと思われるほど多数の馬具で馬を飾り立てた。このような馬具はこの頃畿内を始め各地の古墳に副葬されているが、ここでは非常に精巧な細工を施した優品を見ることができる。このなかには朝鮮半島製と考えられるものが多い。
以上前半の祭祀遺物は、当時盛行した古墳のうちでも比較的大型の前方後円墳に奉献されていた遺物によく似ている。そこでこの 段階を「葬祭未分離」と呼び、第3段階以降の祭祀専用の奉献物が主体となる「葬祭分離」の時期と区別している。

岩陰祭祀 

【解説】
第二段階は、岩陰祭祀です。岩上祭祀と何が違うかというと、岩上遺跡は上方に何もない岩の上で行うだったのに対して、岩陰祭祀の場合は、上方に岩がせり出ていて祭祀の場を覆う形になっていることです。
注目は、
純金の指輪、
カットガラスの切子椀(ササン朝ペルシャ製)

です。
日本ではほとんど出土していないものです。なぜそれほどまでにきわめて貴重な品が沖ノ島だけに残されていたのか、という疑問がますます大きくなりますね。
それに触れずに、
”金銅製(銅器に金メッキを施したもの)の豪華な飾り馬用馬具が、比較的大型の前方後円墳に奉献されていた遺物によく似ている。”
というあいまいな根拠から、ここでも畿内王権との関係に結びつけてしまってます。
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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(3)~祭祀の4段階

では4世紀以降の沖ノ島祭祀について、みていきましょう。

”沖ノ島で確認されている祭祀遺跡は図 5 に示すように 23 箇所あるが、すべてが詳しく調査されているわけではない。これらの遺跡は、祭祀の推定年代により次の4段階に分類されている。”

沖ノ島祭祀遺跡位置



沖ノ島祭祀遺跡位置図 
【解説】
沖ノ島は、1平方キロメートルほどの小さな島です。そこに8万点を越える国宝があったのですから、沖ノ島祭祀遺跡は、島全体にわたって広がっていると、以前の私は思ってました。
ところが23箇所の遺跡は、島の一ヵ所に集中しているのです。範囲でいうと、横幅50メートル、縦幅200メートルほどです。もしかしたら他にもあり、まだ発掘されていない可能性もりますが、少なくとも現在わかっている範囲でいえば、想像していたよりかなり、狭い範囲に集中してます。
それだけ濃い遺跡群といえますね。

そして4世紀以降に始まった祭祀ですが、次の4段階に分かれてるとされてます。

①岩上祭祀(4世紀後半~5世紀)
②岩陰祭祀(5世紀後半~7世紀)

③半岩陰・半露天祭祀(7世紀後半~8世紀前半)
④露天祭祀(8世紀~9世紀末)

詳しくは次回以降としますが、こんなイメージです。

沖の島祭祀4段階 
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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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