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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(12)~沖ノ島祭祀のストーリー

前回、古代ムナカタ古代史の不連続性の話をしました。
矢田氏はその要因について、さまざまな角度から検討してます。
たとえば、
・海水準変動によるムナカタの地位の変化
・鉄の道と玉
・宇陀の朱
・鉄の対価となる新しい資源(南東産イモガイ、辰砂)
・宗像市域の2千基の古墳
・大爆発の謎を解く牧神社
・半島への騎馬軍団派遣
・軍馬渡海基地ムナカタと 沖ノ島 祭祀
・百基の須恵窯
・造船業を示す 14 本の鋸
・田熊石畑の倉庫群と「 胷 形 の箭」
・「宗像型」石室から見るムナカタ勢力の広がり
・軍港以降のムナカタと関連地域

などです。

これらを実に詳細に検討しており、とても興味深いものなのですが、それらをすべて紹介することは膨大なものになり、かえってポイントがぼやけてしまうので、割愛します。
論文ではこれらをもとに、ひとつのストーリーとして描いてますので、それをみてみましょう。

”『日本書紀』のウケイ神話は当時の政治的事情が加わって複雑になっているが、本来は 沖ノ島 祭祀開始時の誓約と祭祀を表したものと考えられる。誓約に参加したのは、主催者であるヤマト勢力の代表とこれに従った出雲勢力の代表、そして海上輸送に携わった宗像海人族およびこれに接続する内陸水運などに関わる氏族の代表であった。
誓約の目的は、
鉄器時代に入っても鉄の輸入ルート圏外に置かれていたヤマトに、 沖ノ島 経由
で山陰へ流入していたを、瀬戸内海経由でヤマトに引き込むこと
であったと思われる。

「海北道中」は、「鉄の道」だった。ヤマトでは新開発の宇陀の水銀朱資源(辰砂鉱床)を巡り古代有力氏族によりヤマト勢力が形成され、3 世紀末頃までに朱と三角縁神獣鏡
などで瀬戸内海周辺の諸豪族を懐柔し傘下に収めていた。

最近の研究の進展により、 沖ノ島 祭祀の開始は3世紀末から4世紀初頭に遡る可能性が強い。朝鮮半島南部の鉄資源は、弥生時代後期以来主として壱岐経由で糸島半島から博多湾に流入し、博多の鉄器加工基地から主に邪馬台国連合に当たる地域に流通していた。
この博多湾中心の鉄貿易は、 沖ノ島祭祀開始後4世紀半ばに衰退する。出雲の玉など鉄の対価を揃えたヤマト勢力側に、朝鮮半島の権益と交易路の覇権を奪われたのである。
これ以降鉄貿易に必ずしも 沖ノ島を経由する必要がなくなり、祭祀も一時怠りがちになる。

5世紀後半から7世紀にかけて、津屋崎地区の大型古墳系列と並行して、釣川流域に約 2,000 基の群集墳が築かれる。古墳出土物やその他遺跡などから、これらの墓に葬られた人々の生業として、漁業・水産物加工・窯業・鉄鍛冶・造船・造墓・馬飼などが想定され、中心の田熊石畑遺跡に 25 棟の倉庫群が立ち並ぶ。この繁栄は、 沖ノ島岩上祭祀期の豊富な奉献品と対応し、歴史的には、この時期の頻繁な朝鮮半島出兵の記録と対応している。長い海退期のあと海進でまた 良港となったムナカタが、 沖ノ島経由の騎馬軍団渡海基地となったと見られる。

いくつかの小さい牧に祭られた牧神社が、いまでもムナカタの海岸沿いに残る。「海北道中」が復活し「騎馬の道」になったのである。沖ノ島出土のおびただしい金銅製馬具などは、将兵が寄港地の沖ノ島で航海安全と武運を祈り帰還時に感謝して奉献したものと考えられる。

528年の筑紫君磐井敗死後は騎馬軍団が古賀市域からも壱岐経由で渡海したが、 663 年白村江の敗戦で出兵は終わる。沖ノ島祭祀もローカルなものとなり、
ムナカタ海人族の活動低下とともに顕著な祭祀は終焉を迎える。”

【解説】
矢田氏の論文が通説と大きく異なるところは、沖ノ島祭祀の目的についてです。
通説では、沖ノ島祭祀は遣隋使・遣唐使の航海の安全を祈願したもの、とされてますが、矢田氏はそれを正面から否定してます。このあたり、論文の出所である「むなかた電子博物館」ではどのように考えているのか、興味のあるところです。

それはさておき、ではなぜ矢田氏が独自の解釈をしたのかといえば、そのように解釈しないと祭祀遺跡とのつじつまが合わないからです。
どういうことかというと、祭祀遺跡は8世紀以降9世紀末までは露天祭祀になりますが、人形や馬形の石製品など、それまでの祭祀と比較して明らかに簡素化します。それを矢田氏は「ローカルな祭祀」と呼んでます。一方それに対して、遣唐使は最盛期を迎えるわけです。(たとえば阿部仲麻呂(717年)、空海・最澄(804年)など)
その矛盾を解決するために、矢田氏なりのストーリーを描いた、ということでしょう。

沖ノ島遺跡と出来事2

では個別にみてみましょう。

沖ノ島祭祀開始年代を3世紀末から4世紀初頭としたうえで、それまで鉄の確保ができなかったヤマト勢力が、出雲や宗像海人族の協力を得て、瀬戸内海ルートを開拓したことに結びつけてます。それが古事記・日本書紀の「誓約神話」だというまことにユニークな説です。

なぜヤマト勢力がそれだけの力を得たのかを、宇陀の水銀朱資源(辰砂鉱床)を源泉として、朱と三角縁神獣鏡で瀬戸内海勢力を懐柔した、と推測してます。
そしてそれまで朝鮮半島との交易を担っていた邪馬台国連合による博多湾貿易は、4世紀半ばに衰退し、それ以降鉄貿易に沖ノ島を経由する必要がなくなった、そのため祭祀が一時衰退した、としてます。

ところが5世紀後半から7世紀にかけて、祭祀は活発化します。それは津屋崎地区とともに釣川流域の群集墳と関連しており、その墳墓群は、漁業・水産物加工・窯業・鉄鍛冶・造船・造墓・馬飼などを生業としていた人々のもの、と述べてます。
これは岩上(岩陰の間違い?)遺跡の時期であり、朝鮮半島出兵のための騎馬軍団渡海基地となったため、と推測してます。”沖ノ島出土のおびただしい金銅製馬具などは、将兵が寄港地の沖ノ島で航海安全と武運を祈り帰還時に感謝して奉献したものと考えられる。”と述べてます。
倭の五王の時代との関係は?

いかがでしょうか?
一見、筋が通っているように思えます。しかしながら、詳細にみると多くの矛盾があります。

たとえば、博多湾貿易が衰退した4世紀半ば以降といえば、まさに岩上祭祀が本格的に始まった時期であり、”祭祀が一時衰退した”とは逆の現象です。

次に祭祀が盛んになった5世紀後半から7世紀は、岩陰遺跡の時期です。これを朝鮮半島出兵のための騎馬軍団渡海基地として栄えたこととしてますが、朝鮮半島との関係でいえば、倭の五王がもっとも有名でしょう。しかしながら倭の五王は、5世紀初頭から6世紀初頭の時代であり、時期に大きなずれがあります。


さらに白村江の戦い(663年)の敗戦を機に、沖ノ島祭祀がローカルなものになった、と述べてますが、豪華な祭祀遺跡である半岩陰・半露天祭祀7世紀後半から8世紀にかけてであり、逆に白村江の戦いの敗戦以降で、時期に大きなずれがあります。

このように多くの矛盾があるのですが、このあたりを次回さらにみていきます。

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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(11)~ムナカタ古代史の不連続性

前回、鏡、石製品、蕨手刀子、鋳造鉄斧、捩り環頭太刀、装飾太刀、馬具、胴丸式小札甲などのデータから、4世紀中葉から7世紀後半にかけての祭祀の回数は20回程度であり、天皇在位数と対応するのではないか、という推測を紹介しました。

しかしながら論文でも述べているように、
”これだけでは先に見た膨大な量の祭祀遺物、 特に 5 世紀後半から7 世紀代の豪華な品々は 、 説明できそうもない。”
のであり、ここから
”それには他の歴史的イベントがあるはずである。”
と推測して、さらに究明していきます。

このあたり、真実を極めるためにこれでもかと追究していく姿勢は、いかにも理工系の学者らしい気がしますが、ともかく賞賛に値すると思います。


では論文をみていきましょう。

”ムナカタの古代遺跡には顕著な不連続性がある。
弥生時代前期前半に田久松ヶ浦遺跡等に国内最先端の先進文化が現れてから、しばらく間をおいて中期前半に1区画墓では全国一の 15 本の武器形青銅器を出した田熊石畑遺跡が出現する。しかしここには、古墳時代後期になって 25 棟の堀立柱建物群が作られるまで、ほとんど遺物が見られない。

ムナカタ全体で見ても、弥生時代中期後半以降古墳時代に到るまで顕著な遺跡はほとんど見られない。4世紀には中・小型の前方後円墳数基が釣川中流 域に築かれるが、 5 世紀に入ると 100 m 級の前方後円墳 2 基を含む 80 基以上(現存 60 基)の古墳群が津屋崎地区に連続して築かれる。この中に、世界遺産に登録された新原奴山古墳群が含まれる。

この流れは 7 世紀古墳時代終末期まで続き、巨大石室を持つ宮地嶽古墳に繋がる。巨石で築かれた横穴式石室の長さ 23.1 m は、橿原市の五条野丸山(見瀬丸山)古墳の石室の28.4 mに次ぐ大王級の長さである。

【解説】
ムナカタというと、古代から連綿と発展してきたように考えがちですが、そうではないようです。

・弥生時代前期前半(新編年で紀元前9世紀ころ)・・田久松ケ浦遺跡
 ーーーーーーーーーー
・弥生時代中期前半(新編年で紀元前4世紀ころ)・・田熊石畑遺跡
 ーーーーーーーーーー
・古墳時代前期(4世紀)・・中・小型前方後円墳築造開始
・古墳時代中期(5世紀)・・津屋崎地区古墳群
・古墳時代後期(7世紀)・・宮地嶽古墳

以上のとおり、継続的な発展を遂げるのは、古墳時代に入ってからであり、弥生時代は発展、衰退、発展、衰退、を繰り返していたというのです。

”以上のような不連続性は、古代史料中のムナカタの記述にも見ることができる。
ウケイでの三女神出生神話以降しばらく宗像神の活躍場面は見られないが、突然応神紀の 41 年に
「阿知使主らが 4 人の 工女(ぬいめ)をつれて筑紫についたところ、胸形大神が工女を所望したのでそのうちの 兄媛(えひめ)を大神に奉ってあとの 3 人をつれて帰った。ところが応神天皇は直前に亡くなっていた」
という記事が出る。
これは 5 世紀はじめ頃のことと考えられ、この頃まで宗像神は朝廷に対して強い発言力を有していたようである。

ところが応神の2 代後の履中天皇の 5 年には、筑紫の三神(宗像神と される)が宮中に現れて
「なぜ我が民を奪うのか。後悔することがあるであろう。」と脅かしたが、宮廷では祈っただけで祭りを行わなかった(「 禱(いの)りて 祠(まつ)らず」)。
古語辞典によると、イノリは神の名を呼んで幸福を求めることで、マツリは物を差し上げることが原義という。
沖ノ島 祭祀は、まさにマツリの原点である。このようなマツリを、天皇が当然継続的に 行わなければならない、とそれまで観念されていたことが分かる。それを天皇が怠ったことは、応神朝と履中朝との間に宗像神の立場の変化があり、王権にとって沖ノ島祭祀の重要度が低下していたことを示している。”

【解説】
履中天皇5年の「筑紫の三神」が果たして宗像神なのか、必ずしも明白とはいえません。筑紫の三柱といえば、まずはイザナミがみそぎをしたときに生まれた
・住吉三神=底筒男命・中筒男命・表筒男命
・綿津見神(=安曇神)=底津少童命・中津少童命・表
津少童命
がいるからです。
また宗像神の場合は、応神紀41年および次の雄略天皇9年とも明確に、「宗像(大)神」となっているわけで、なぜここだけ「筑紫の三神」となっているのかも不明だからです。
とはいえその検証も簡単にはいかないので、ここではとりあえず通説どおり、
・筑紫の三神=宗像三神
としておきます。

”そのあとまたしばらく時間を置いて、 5 世紀末ころの人物と考えられている雄略天皇の 9 年 2 月に、変な記事が載る。天皇が、 凡(おおし)河内(こうちの)直(あたい)香賜(かたぶ)と 采女(うねめ)(宮中で仕える女官を派遣して胸方神を祭らせたが、香賜は神域で祭りの前にその采女を犯した。天皇が これを聞いて香賜を殺させた、というものである。そしてこの記事に続く同年 3 月に、天皇が新羅に親征しようとして、神に「な 征(い)ましそ」と止められたと いう記述がある。

この神も、前後の文脈から宗像神ではないかと考えられている。その後代わりに重臣を派遣したところ、彼らが皆戦死等で亡くなったという。朝鮮半島との関わりのなかで、宗像神がまた重要視されるようになったことを示す。このムナカタの復権は、上述の 5 世紀後半以降の 古墳の急増と対応している。その蔭には何らかの要因があったと思われる。”

【解説】
変な記事と述べているおり、現代人の感覚からみると、とんでもない行為のように思えます。ところがこうした行為は、古代の祭祀における「神婚行為」として、通有のものであったようです(「交流史からみた沖ノ島祭祀」(森公章)より)。
ここでは明白に「胸方神」が登場します。ちょうど、倭の五王の時代であり、これ以降の宗像地域の古墳の急増に対応している点は注目です。

 沖ノ島遺跡と出来事1

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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(10)~祭祀の回数は天皇在位数に対応する?

前回まで、沖ノ島祭祀の謎として、5つの謎を挙げました。
具体的には
1.なぜ沖ノ島で行われたのか?
2.何のために祭祀が行われたのか?
3.なぜ史書等に記載がないのか?
4.祭祀遺跡は祭祀場所か?
5.同種奉献品の数の多さと雑多さの理由とは?

です。

論文でも
”沖ノ島 祭祀遺跡は従来の定説で 十分 説明 できない多くの特徴をもつ。”
と述べてます。

ではどのように解釈したらいいのかです。

論文では、鏡、石製品、蕨手刀子、鋳造鉄斧、捩り環頭太刀、装飾太刀、馬具、胴丸式小札甲などを、詳細にデータ分析してます。
分析結果から、”特に18 号遺跡に対応する祭祀の開始は3世紀末 から 4 世紀初頭 に遡る可能 性が強い。”と述べてます。
また、
”21号遺跡では、4世代にわたる臼玉も出土しているので、この「遺跡」が長期間にわたって繰り返し利用され たことがかなり確からしい。”

とも述べてます。

つまり、沖ノ島祭祀の開始時期について、通説では4世紀後半から、となってますが、3世紀末から4世紀初頭からではないか、と推測してます。また、祭祀も、「1遺跡=1祭祀」ではなく、繰り返し利用された遺跡がある、とも推測してるわけです。

これらから、
時期別に、以下の祭祀回数を推測してます。

4世紀(中葉以降) 3~4 回( I 岩 2~ 3 回、 F 岩 1 回)
5世紀  8~ 9 回( I 岩 2~ 3 回、 F 岩 3 回、C岩 1 回、 D 岩 2 回)
6 世紀  4 ~5 回( I 岩 1~2 回、 F 岩 1 回、 D 岩 2 回)
7 世紀後半 3 回(C、 M 、 L 岩各 1 回)
8 世紀以降は 多数回(1 号遺跡( 遺構))


8世紀の回数が不明ですが、少なくとも4世紀中葉~7世紀後半までで、20回程度となります。ここから

”この祭祀回数が実際に近いとすると、これは多くの時代でほぼ天皇の代数に相当する期間が多いことが指摘できる。あるいは 沖ノ島 祭祀も、 出雲国造 による「出雲国造 神賀祠 」奏上と同様、天皇の継承儀礼の一つとして 継続された のではないか。”
”沖ノ島 祭祀の各回は、 5 世紀以降に限れば 原則としてほぼ天皇の各代 に対応 すると見られる ので、祭祀が即位後の継承儀礼の一つとして続けられてきたと見ること も 可能であろう。”
と推測してます。


祭祀と天皇在位の関係を整理します。

沖ノ島遺跡と天皇 
表をみると、ある程度論文の内容のとおりともいえそうです。

しかしながらそれだけでは、納得できません。
論文でも、
”しかし単なる定例的祭祀では、先に見た膨大な量の祭祀遺物、 特に 5 世紀後半から7 世紀代の豪華な品々は、説明できそうもない。それには他の歴史的イベントがあるはずである。以下にそれを探ろう。”
と述べてます。

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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(9)~謎の4・5 祭祀場所と出土品の謎

謎の3回目です。

4.祭祀遺跡は祭祀場所か
上記の調査報告中にあるように、23 の祭祀遺跡全てが祭祀の行われた場所ではない。たとえば「御金蔵」と呼ばれる 4 号遺跡は、岩陰遺跡に数えられるが岩陰の高さは 1 m 程度で、とうてい祭祀が行える空間ではなく、その通称からも奉献品の収納場所と考えられる。また 14 号遺跡は、後に 20 号遺跡の奉献品が流出したものとされ、独立した遺跡とは見なされていない。これらを除いても、『続沖ノ島』の鏡山猛調査団長による結びでは、I 号巨岩上とその周囲の 16-19 号遺跡について、「(16・17 号遺跡では)遺物の所在地は納置だけしか考えられない」とし、実際に祭祀が執行された場所として、(17 号遺跡とは I 号巨岩の反対側にある)19 号遺跡は「誠に格好の態勢にある」上に「祭壇前には広場がある」ので、ここが 16-19 号の一連の遺跡の祭祀の場ではないかという推定を述べている(以上図 5 参照)。

ただし同氏が書くように、草木繁茂する遺跡周辺では、広場が祭祀の場であったことを証明することは困難である。特に 17 号遺跡は、祭祀遺物の載る場所はわずか約 1.5 m2ほどの面積で、そこに 21 枚の青銅鏡をはじめ豊富な遺物が積み重なっていた。上記の供献品から分かるように祭祀には多くの人々が参加したと考えられるが、とてもそれらの人々が参列できる場所ではない。従ってこの部分の執筆者(賀川光夫・原田大六)も、「17 号遺跡は、祭祀終了後、その祭器をI号巨岩に供献した姿を積石遺跡として遺存したのではないかと考えられる」と述べている。
また調査員の一人弓場紀知も、21 号遺跡以外の 17 号遺跡などの岩上祭祀遺跡はあまりにも狭くかつ不安定な場所が多く、全体として個々の祭祀遺跡を祭場と考えることは必ずしも適当ではないと考えている。
一方他の遺跡から離れた M 号巨岩付近の 22 号遺跡(半岩蔭・半露天)では、明確な祭場の区画が示されていて、祭祀品の主体である金属製祭祀用具は、祭場の造出しというべき位置の石囲いの中に埋められていたことを報告している。

以上のように、1 号以外の遺跡についても、1 遺跡 1 祭祀の考えで祭祀
の回数とその時期を推定することが難しい場合が多い。
 
沖ノ島祭祀遺跡位置図 
【解説】
祭祀遺跡が必ずしも祭祀を行った場所とは限らない、という話です。たとえば17号遺跡について、祭祀終了後にその祭器を1号巨岩に共献したものではないか、というわけです。このように「1遺跡=1祭祀」とは限らないのではないか、と推測してます。
このことがなぜ重要かというと、500年にもわたる沖ノ島祭祀がその間何回程度行われたのか、という問いに関係してくるからです。

5.出土品の多さと類多性の謎
前記調査報告書で出土品の内容を詳しく見ると、疑問がいろいろ湧いてくる。もっとも理解しにくいのは、同種の奉献品の数の多さと雑多さである。『続沖ノ島』で主執筆者の一人原田大六が指摘しているように、一回の祭祀に多種多様な奉献品があるばかりではなく、品目によってはおびたしい数が捧げられていることである。原田はこれを「類多性」と呼んだ。たとえば 17 号遺跡では、21 面の青銅鏡が発見された。同じ時期の前期古墳には鏡の副葬が多く、20 面以上を出土した例もかなりある。このため有力者を墳丘に葬ると同様の祭祀を行ったと考えられてきた。しかし
そのような多数の鏡を出した古墳と比べると、内容はかなり異なる。

たとえば『続沖ノ島』が挙げる京都府木津川市の椿井(つばい)大塚山古墳では、36 面の鏡のうち鏡種の分かる 32 面すべてが三角縁神獣鏡であり、うち 26 面は品質が優れているため舶載鏡(中国からの輸入鏡)と言われている。
これに対して 17 号遺跡では、最も多いのが方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)の 7 面で、
7 種類もの鏡が見付かっている。しかも品質がまちまちである。

原田は多くの視点から 21 面の鏡を 5 段階に分けて評価しているが、最高の A ランクはわずか 3 点である。以下Bが 3 面,Cが 4 面, Dが6 面と続き、最低の E ランクが 5 面もある。一体 なにを表したのかわからないような文様の鏡が多く、 すべて 仿 製(ぼうせい)鏡(中国鏡を真似した国産鏡)とされ てい る。

このようなことは、畿内の古墳ではほとんど見られない。
ヤマト王権が当初一手に祭祀を行ったのなら、なぜこんなにバラバラで、粗悪品が多いのか。国産鏡であっても、王権所管の工房で作られたのなら、このようなことはあり得ないであろう。

別の例では、7・8 号遺跡の金銅製馬具類がある。
対応する時期の中・後期古墳では、鐙(
あぶみ)、轡(くつわ)、鞍(くら)、装飾の金具類などが、1 頭分または 2 頭分セットで出るのが普通である。
ムナカタでも、5 世紀後半の勝浦井ノ浦前方後円墳でだいたい 2 セット分の馬具一式が、 6 世紀初頭の田久瓜ヶ坂 4 号墳でも 1 セットが出土している。

これに対して、沖ノ島から出土した馬具は、特定の飾金具が偏って多数出土している。特に多いのは、雲珠(う ず)と呼ばれる馬のお尻の上に置く飾金具である。これが 7 号遺跡から実に 58 個、8 号遺跡からも 19 個も発見されている。7 号では轡が 1 個と鞍が 2 個、8 号遺跡では鞍が 1 個しか出ていないので、雲珠があまりにも多すぎる。
飾りにぶら下げる杏 葉(ぎょうよう)も、7 号遺跡から 25 枚も出ている。またそれらの内容を見ると、様々な様式のものが混在している。原田が指摘しているように、杏葉の一つは装飾古墳の王様と言われる福岡県桂川町の王塚古墳(6 世紀後半)出土のものとそっくりで、この古墳の被葬者が生前沖ノ島に渡ったのではないか、という推理まで記している。この指摘は、きわめて重要なことを示唆していると思われる。

出土品の数の多さと内容の雑多さは、多くの人が沖ノ島の祭祀に参加し、それぞれ捧げものをした、と考えなければ説明が難しいのではないか。ヤマト王権または宗像氏単独での、あるいはその両者のみでの祭祀とは考えにくいのである。沖ノ島の祭祀には、かなり早い段階から王権や宗像氏以外の多くの人が参加し奉献もしていたのではないか。このことはウケイ神話の神々がムナカタとその周辺に祭られていることとも整合する。
以上のように、沖ノ島祭祀遺跡は従来の定説で十分説明できない多くの特徴をもつ。

【解説】
この謎も、大きな意味をもちます。同種の奉献品が「数多くかつ雑多に」存在しています。そして17号遺跡では20面も青銅鏡が発見されてます。
畿内の古墳にも同様に多数の鏡が出土してる例がありますが、その内容は大きく異なります。畿内の古墳椿井(つばい)大塚山古墳)は、36面のうち32面すべてが三角縁神獣鏡であり、品質も優れているのに対して、17号遺跡では最も多いのが方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)の 7 面で、7 種類もの鏡がありしかも品質がまちまちとのことです。

ここから矢田氏は、
このようなことは、畿内の古墳ではほとんど見られない。ヤマト王権が当初一手に祭祀を行ったのなら、なぜこんなにバラバラで、粗悪品が多いのか。国産鏡であっても、王権所管の工房で作られたのなら、このようなことはあり得ないであろう。”
と述べてます。

実は矢田氏は前に、”前半の祭祀遺物は、当時盛行した古墳のうちでも比較的大型の前方後円墳に奉献されていた遺物によく似ている。”
と述べてますが、これと矛盾してるようです。確かに内容を吟味していくと、とても「似ている」とは言えないのではないでしょうか?。

となると、頭を白紙にして考えると、本当に沖ノ島と畿内との間に深い関係があったのだろうか?、という疑問が生まれます。

金銅製馬具類についても、同様のことがいえますね。

最後に矢田氏は、
出土品の数の多さと内容の雑多さは、多くの人が沖ノ島の祭祀に参加し、それぞれ捧げものをした、と考えなければ説明が難しいのではないか。ヤマト王権または宗像氏単独での、あるいはその両者のみでの祭祀とは考えにくいのである。沖ノ島の祭祀には、かなり早い段階から王権や宗像氏以外の多くの人が参加し奉献もしていたのではないか。
と推測してます。

つまりヤマト王権あるいはその配下にあるとする宗像市単独の祭祀ではなく、多くの人々が参加した祭祀ではなかったか?、
という推測です。
前半部分の「ヤマト王権あるいはその配下にあるとする宗像市単独の祭祀」という部分は別に論ずるとして、「少なくとも多くの人々が参加した祭祀」という指摘は、きわめて重要でしょう。
ようは「単純な「国家祭祀」といえない。」ということです。

もうひとつ、
杏葉の一つは装飾古墳の王様と言われる福岡県桂川町の王塚古墳(6 世紀後半)出土のものとそっくり”
という指摘も示唆的です。
”この古墳の被葬者が生前沖ノ島に渡ったのではないか、という推理まで記している。”
とありますが、少なくとも、沖ノ島と古墳の被葬者との、並々ならぬ関係があったことがわかります。

雲珠・杏葉

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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(8)~謎の2・3 祭祀の目的と歴史上の空白期間の謎

前回は、「なぜ沖ノ島が祭祀の場所として選ばれたのか?」という謎についてでした。謎は続きます。

2.祭祀目的の謎
発掘のはじめの段階から、この遺跡が一地方豪族の祭祀跡とはとても思われず、また出土品の内容がいわゆる「畿内」の古墳出土品と似ていることなどから、ヤマト王権が主催した祭祀であるとされてきた。ヤマト王権は、この祭祀開始の頃までには日本を代表する政治権力に成長したと一般に考えられている。
そして祭祀の目的として、遣隋使や遣唐使に代表される王権の国際交流に当たって航海安全を祈願した祭祀ではないかと見る見解が多い 。これには 894 年の遣唐使の廃止と同時期に大規模祭祀が終焉を迎えることがその根拠の一つとなっている。

しかし上述のように、 沖ノ島 を通るルートの存在を示唆する記事は、 史料に 全く現れない。遣隋使や遣唐使の行路について最も早い記述は、『隋書倭国伝』が伝える 裴世清(はいせいせい)
記録である。裴世清は、遣隋使の小野妹子に随伴して 608 年来日した。これ に は「魏志倭人伝ルート」が明記されている 。このルートは「北 路」と呼ばれ、『書 紀』にある第 3 回の遣唐使帰国の記事もこのルートを示すと理解されている。さらに 659 年の第 4回遣唐使(以下派遣回数は上田雄 による)からはこのルートも通られなくなり、 702年の第 7 回以降は当初から五島列島から東シナ海を横断して直接中国大陸を目指す、「南路」がもっぱら用いられるようになった。「海北道中」とは、全く関係がなくなったのである。
それにもかかわらず、 沖ノ島 祭祀は中断されることなく続けられた。

【解説】
前回の謎にも関連しますが、「沖ノ島祭祀は、何を目的として行われたのか?」という疑問です。
矢田氏が指摘のとおり、沖ノ島を通るルートの存在を示唆する記事は全くない、といっていい状況です。しかも遣唐使において「南路」が用いられるようになったにもかかわらず、沖ノ島祭祀は中断することなく行われてます。だれもが抱く疑問です。
この謎に対して、通説は皆が納得しうる答えを提示できていません。

最近、沖ノ島祭祀遺跡の傑出性と九州から朝鮮半島への渡海経路を両立させる解釈が提唱されてます。以下、「寄船・寄物と宗像沖ノ島祭祀遺跡」(伊藤慎二)からです。

”これらの仮説では,特に4世紀の倭による百済派兵航路に関連して,沖ノ島を航海安全祈願や飲料水の補給などの中継地として, 従来の壱岐・対馬経路に加えて,宗像周辺の北部九州から朝鮮半島南部を最短距離で直接結ぶ航路の発達を想定する。

しかし,この航路は,白石太一郎が指摘するように,近代以降の航海技術に基づく動力船の就航が前提の下関・佂山間の航路に近似する(白石 2011:185頁)。また,沖ノ島に給水や天候回復待ち目的などで多数の船舶が一時寄港する場合,充分な大きさの港湾確保や多数の人員の一時上陸滞在空間,さらには多量の飲食料の補給を,定住者と生産食料がほとんどない沖ノ島が単独で担うことになり,現代でもかなり難易度が高いように思われる。沖ノ島祭祀遺跡が傑出した国家的祭祀の場になった要因は,さらに他の側面についても検討する余地があると考えられる。”


対外交渉ルート 
【解説】
沖ノ島を、”航海安全祈願や飲料水の補給などの中継地”と位置づける説です。一応もっともらしく聞こえますが、そうはいきません。
沖ノ島にて、”充分な大きさの港湾確保や多数の人員の一時上陸滞在空間,さらには多量の飲食料の補給”をしなくてはいけませんが、極めて困難だというのです。そもそも沖ノ島には、その機能を果たせるだけの港遺構は発見されてません。となると、あくまで「想像による説」ということにならざるをえません。


3.古代ムナカタ史の空白の謎
沖ノ島 祭祀についてもう一つの大きい謎は、祭祀後半の段階が歴史 時代に入るにもかかわらず、ムナカタがほとんど歴史に現れ ないことである。ムナカタが記紀に登場するのは、神の名としてだけである。朝鮮半島や大陸を含むその他の歴史書にも、全くムナカタは出てこない。
『書紀』には、古墳時代に当たると考えられる時期に、ヤマト王権と北部九州地方との間に起きたきわめて重要な事件が、幾度も出てくる。

いわゆる「神武東征」は別としても、景行天皇の九州遠征、すぐ続いてその子の日本武尊(やまとたけるのみこと)の九州遠征、さらにその子の仲哀天皇と神功皇后の九州遠征と引き続く朝鮮半島遠征、さらに継体天皇治世時の大事件であった「磐井の乱」と続く。これらの記事の中で、ムナカタは全く触れられていない。
なかでも、神功皇后の北部九州からの半島出兵の際には、志賀の海人と住吉の神が出てくるのに、宗像の神または海人が出てこないのは、不思議である。

前記のように、国内外の文献に沖ノ島 祭祀開始の頃に倭軍の半島派兵の記録があり、また特に岩陰祭祀の時期に新羅系の出土品が 多いことなどから、半島出兵に当たっての戦勝祈願と戦利品 の奉献が 沖ノ島 祭祀の重要な動機と考える人も多い。上記遣唐使ルートの変更も、 7 世紀末の新羅の半島統一と、その後の新羅との関係冷却がその背景にあることが指摘されている。そして 8 世紀の国内記録にも、新羅とその海賊への敵視と、その調伏のため九州などの諸社への遣使がしばしば現れる。

しかしそこには宗像社の名は見えない。「神功皇后伝説」に全く宗像神の貢献が見えないことも、宗像神が対半島の「軍神」として評価されていなかったことを裏付ける(ただしこのことは、 沖ノ島 への奉献 品の中に「戦利品」が入っている可能性を否定するものでは ない)。

解説
3番目の謎は、これも大きな謎です。もし沖ノ島祭祀がヤマト王権の国家祭祀として位置づけられ、執り行われたのであるなら、ヤマト王権の正式な史書である古事記・日本書紀にも、それを示す記載があっていいはずです。しかしながら、それは全くありません。あるのは「ムナカタの神を祭った」という記載ぐらいですが、それとて祭ったのは、胸肩の君、水沼の君などと記載されているだけです。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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